ハンガリーから傑出した才能が出てくるわけ ファイル

ハンガリーから傑出した才能が出てくるわけ 三苫 民雄
1 ボ ー ル ペ ン か ら 原 子 炉 ま で インターネットの Youtube で見られるハンガリーの観光案内動画 Hungary World of
Potentials(http://www.youtube.com/watch?v=Hmz8Ni9zO4M)では、観光名所や旧跡の
案内の中に、ハンガリー人の科学的発見や発明品がテロップで織り込まれて紹介されてい
ます。
ハンガリーは人口一千人ほどの国であるにもかかわらず、ノーベル賞受賞者をこれまで
に合計13人も輩出しています。これは人口比では世界一とも言われています。ノーベル
賞だけでなく、マッチやボールペンやソーダ水、交流電流や電話交換システム、プログラ
ム内蔵コンピュータあるいはルービック・キューブ、最近では透光性コンクリートや酸素
水など、私たちの身近にある発明品も昔から驚くほどたくさんあります。
どうしてハンガリーからこれほどまでに多くの科学的発見や発明品が出てくるのかとい
う問いは、古くはローラ・フェルミ『二十世紀の民族大移動』(原著 1968 年、邦訳みすず
書房 1972 年刊)で、アメリカに亡命したハンガリー出身の科学者に焦点を当てて探求され
ています。また、比較的近いところでは、マルクス・ジョルジ『異星人伝説 20 世紀を創
ったハンガリー人』(日本評論社 2001 年)がこの問題に取り組んでいます。
ただ、どちらの本を読んでも、現代史のこの驚くべき事実についての原因や理由が明示
されているわけではありません。もっとも、本来こういう問題は原因や理由を特定できる
ような性質のものではないのかもしれませんが。
ここでもまた、いくつかの推測を述べることしかできませんが、傑出した才能の出現を
可能にするような環境や条件について考えてみたいと思います。
2 ユ ダ ヤ 人 問 題 、 あ る い は オ リ ン ピ ッ ク の 金 メ ダ ル 数 科学の分野を見てみると、ユダヤ系ハンガリー人が圧倒的に多いことから、この問いは
ユダヤ人問題の一つとして考えることもできるかもしれません。また、ユダヤ系ハンガリ
ー人の比率が高いという点では、ハリウッドの映画製作に携わった人びともそうです。昔
のハリウッド映画の制作スタッフを見ると、ハンガリー出身と思われる名前がたくさん出
てきます。ハリウッドで数多くの映画の脚本を手がけたユダヤ系ハンガリー人作家のレン
ジェル・メニヘールト(1880-1974)も自伝『私の夢の本』
(1987 年)の中で、ハリウッド
はユダヤ系移民ばかりだったと述べています。 19 世紀後半からハンガリーは周辺諸国からのユダヤ人を積極的に受け入れ、1895 年から
1920 年までのハンガリーはユダヤ系市民に対する法的自由を認めたことも相まって、
「1900
年前後のハンガリー社会には寛容な息吹が溢れ、弁護士や医者の半分以上はユダヤ系の
人々で占められた」(『異星人伝説』11 頁)といいます。 この時期にハンガリーの自由な空気を吸い、ハンガリーで教育を受けた、ハンガリーへ
の移民第二世代に当たるいわゆる「同化ユダヤ人」たちが、後に政治的自由と活躍の場を
求めて国外に亡命していくわけです。ノーベル賞受賞の科学者や映画製作者として世界的
に著名な存在になっていったユダヤ系ハンガリー人の多くはこの同化ユダヤ人に該当しま
す。 思うに、ユダヤ人の優秀さといった曖昧な議論に終始するのではなく、そのユダヤ人が
すすんで同化した当時のハンガリーの社会と文化に注目したほうが、この議論は生産的に
なるようです。つまり、優生学につながりかねない人種優越論ではなくて、傑出した才能
を育くむ環境を考えたほうがいいだろうということです。 というのも、ハンガリーは知識人だけでなく、スポーツの分野においても傑出した才能
を送り出し続けているからです。今回のロンドン・オリンピックでもハンガリーは金メダ
ルをわが国より 1 個多い 8 個を獲得しましたが、ノーベル賞と並んで、オリンピクの金メ
ダル獲得数もまた人口比世界一と言われます。それも、スポーツ選手への組織的支援体制
が、旧社会主義体制当時でさえ手薄であったにもかかわらずのことです。 3 み ん な の 力 と 自 然 の 力 今日の科学哲学では、科学的発見は一種の共同体の所産と考える立場が一般的になりま
したが、この立場を最初に表明したのもまたハンガリー出身の科学者で哲学者のマイケ
ル・ポランニー(1891-1976)でした。
ポランニーは社会の創造的伝統とその根底にある霊的な実在といった宗教的なテーマに
も触れています(ここでは触れませんが)。そして、そうしたものも含めて人間の潜在的能
力が発揮されるためには、自由な社会であることが必須だと力説しています(『自由の論理』
ハーベスト社 1988 年)。
では、自由な社会というのは具体的にどういうことなのでしょう。
科学に限らず、傑出した才能は誰かに発見され、育てられなければいけませんが、その
ためにまず必要なのは、才能を見出してくれる人びとの存在です。それは、親はもちろん、
同級生であったり、学校の先生であったりしますが、ここで注目すべきものに、とりわけ
ハンガリーに独特の仲間社会(társaság)というネットワークがあります。
このネットワークは実際には定期的に曜日と時間を決めて気の合う仲間たちが三々五々
集まってくるような、気楽なおしゃべりサロンであったりするのですが、どこかに何かの
才能を表した子どもがあったりすると、サロンの誰かがその子をすぐにその道の第一人者
に引き合わせる労をとってくれたりするという機能も果たしてくれます。例えば生前天才
の名をほしいままにした数学者フォン・ノイマンなどは、小学生の頃から人づてに紹介さ
れて、大学の先生について数学を教わっていました。
もちろん、こうして才能が見出される前提として、サロンを構成する人びとが固定観念
にとらわれず、自由なものの見方、感じ方をする必要があります。型破りな才能を「面白
いじゃないか」と言ってとりあえず受け入れてくれるような優れた観客でもなければなり
ません。
さらに、しかるべき才能が見出された後も、その才能をさまざまな形で育む仕組みが必
要になります。学校がそれを育む場所であればそれはそれで結構ですが、必ずしも学校の
形を取る必要もありません。学校はむしろ、才能に対して少なくとも制度的に邪魔になら
ないでいることのできる自由な機関でなければなりません。具体的には、個性的な生徒に
対応する先生の裁量が大きく認められているといったことになるでしょう。
先生も生徒たちそしてその親たちも、際立った個性に対する寛容の態度が求められます。
ということは、社会全体に、人類の知的活動や際立った能力に対する尊重と寛容の精神が
行き渡っていなければなりません。
なお、最後に言っておきたいのは、こうした「天才たち」を育んだハンガリーの美です。
数学者の藤原正彦さんは「美の存在しない土地に天才は、特に数学の天才は生まれませ
ん」
(『国家の品格』新潮社 2005 年 165 頁)と断言しています。人間は自らも身体という自
然を持って生まれてきた存在ですので、自然の美と調和から創造のインスピレーションを
受けることは否定できない事実です。ハンガリーの諸都市の街並み、ドナウ川流域やハン
ガリー大平原のときに息を呑むような美しさは、天才たちの創造の源になってきたに違い
ありません。