屯田兵の服装 写真集

屯田兵大事典サンプル誌面
屯田兵の服装 写真集
琴似屯田兵 野幌兵村の幹部 北見信善光寺の屯田兵人形 美唄屯田兵の子孫提供
日露戦時の滝川屯田兵
明治 36 年頃の野付牛屯田兵 函館守備の北見屯田兵 屯田兵大事典サンプル誌面
トンデンヘイノフクソウ
色(カーキ色)
」
て整列したものが残されている。また、琴似屯田
の戦時服が採用
兵・山田貞介の長男・山田勝伴の記録によると、 明治 8 年改正の服制に沿えば紺色の大絨(略衣
屯田兵の服装は、改正を重ねた陸軍服制に準じ
さ れ、 明 治 39
琴似兵村では寒冷地仕様の装備の試行錯誤が繰り
は小倉織)が標準となるが、実際には明治 6、7
て様式・形状・品質にいくつかの変遷が見られる
(1906)
年の
「陸
返され、綿糸を厚く織った紋羽(もんぱ)仕立
年の服制のものや所属部隊の違いによるものな
が、他の兵種に比べて特異な存在であったことか
軍軍服服制」
(勅
ての冬服を着用したという(
『開拓使最初の屯田
ど、
種類の異なる軍服が混用されていたという
(笠
ら、屯田兵独自のスタイルを有した。即ち、創設
令第 71 号)に
兵』
)
。
間良彦『図鑑 日本の軍装』
)
。
期においては左袖に開拓使の旗章にも使われた星
よ っ て 以 降 は、
屯田兵の服装(とんでんへいのふくそう)
屯田兵を含む政府軍の歩兵の軍衣袴は、直近の
写真の屯田兵は靴履きだが、琴似屯田兵は軍事
「茶褐色」が軍
章(ライン)が入った「藍霜降」の軍袴(ズボン)
装の標準色と定
が屯田兵のシンボルだった。しかし、第七師団の
められた。
明治 10(1877)年の西南戦争に動員された琴
には「白脚絆鞋で、師団兵(註 2)より異様な服
所属となった後期においては、陸軍服制に沿って
註 : 絨(じゅ
似、山鼻の両屯田兵の出征記念写真には 3 種の
装の屯田兵であると、
軽侮の眼を以て迎えられた」
一般の歩兵と同じ軍装となった。
う)は一般に羅
軍服が認められる。上衣はともに詰め襟(立襟) というエピソードが残っている(山田勝伴『開拓
右の写真は、紺絨の軍衣に藍霜降の軍袴を着用
紗(らしゃ)と
、
『琴似屯田百年史』
)
。
で前を中央で合わせてホックで留める方式だが、 使最初の屯田兵』
した琴似屯田兵(
『琴似屯田百年史』より)
も呼ばれた厚手
丈についてはベルト付近までの短い明治 7 年制
註 1: 軍帽の五芒星には「魔除け」の意味が込
の毛織物
定の鎮台兵略服に類似したタイプ
(写真右)
と、
「黒
められ、歩兵の場合は明治 19(1886)年改正ま
田案」に近い腰まで包む長いタイプ(写真左)が
で使用され、将校と近衛兵では明治期を通して使
ある。さらに後者の写真の 3 人のうち中央の屯
用された。
田兵の上衣には剣型の胸飾りがある点が、明治 6
註 2: 鎮台を廃止し師団が設置されたのは明治
年制定の鎮台兵の正衣に類似している。
21(1888)年なので、
「師団兵」は屯田兵を除
いて鎮台兵を主力とした政府軍全体を指すと思わ
1.軍服の変遷
◇明治期の陸軍服制の流れ
◇最初の制服には「北辰章」
◇西南戦争で際立った屯田兵
行動において靴に勝るとの考えから草鞋
(わらじ、
形の「北辰章」を付け、中期においては緋色の側
冬はツマゴ)を標準的な装備とし、西南戦争の際
維新の際の官軍の服装は諸藩によってバラバラ
創設当初の屯田兵の制服は、明治 8(1875)
軍帽はいずれも帽章に日章を用い、左の写真の
であったが、明治 2(1868)年、奥羽戦からの
年 5 月 5 日付で開拓使長官・黒田清隆が太政大臣・
中央の屯田兵の手にした軍帽には明治 3(1870) れる。
凱旋兵に下賜された黒絨(註)のフランス式軍服
三条実美に提出した「屯田兵服制の儀伺」に基づ
年から採用された五芒星(ごぼうせい・註 1)が
下の写真はいずれも西南戦争出征の記念写真と
頭頂部に縫い込まれている。
される山鼻屯田兵(山鼻記念館資料室提供)
と、
御親兵に給与された紺色大絨の帽衣袴と靴が、 いて、鎮台兵に準じることとなった(5 月 18 日
近代日本における軍服の起源となった。 明治 3
太政官布達)
。したがって、正衣は紺大絨ホック
(1870)年には「海軍服制」
「陸軍徽章」布告に
掛け、正袴は紺大絨で黄色の側章、正帽は黒塗り
より、海軍はイギリス式、陸軍はフランス式の服
革製、略服は紺大絨でホック掛け、丈がベルトラ
制が定められた。さらに明治 6(1873)年布告
イン近くまでの短いものだったことになる(略装
の「陸軍武官服制」と明治 8(1875)年の改正
は明治 7 年制定、明治 8 年改正で略装は小倉織
によって将校から兵卒までの服制が整えられた。
となる)
。ただし、開拓使の章号として左袖の肩
明治 19(1886)年の服制改正では、フランス
の縫い目下 4 寸(約 12cm)の位置に、径 1 寸 5
式からドイツ(プロシア)式に変更され、軍衣に
分(約 4.5cm)の五稜星を型取った「北辰章」
(北
ついては、将校らは「濃紺絨」
、下副官以下は「紺
辰は北極星を指す)を付けることとし、これが鎮
絨」
、軍袴は兵種によって色別区分された。
台兵と識別するうえで目印となった。
「屯田兵服
明治 37(1904)年の日露戦争を機に、
「茶褐
制の儀伺」に添付された図案によると、詰め襟、
筒型の長袖で、前身ごろは左前、腰の部分が切り
替え様となっている。両袖口には階級に応じて金
線(大中少佐)
、
銀線(大中少尉)
、
緋線(曹長以下)
が入るとの説明が添えられている(左図参照)
。
最初の屯田兵が琴似兵村に入地したのは、
「屯
田兵服制の儀伺」提出の直後(5 月 17 日)であっ
たことから、屯田兵が服制にしたがった軍服を着
用したのは、しばらく後のことと思われる。入植
当時の写真には、和服に袴、白い兵児帯姿や野良
着など各自が持ち込んだ衣服をめいめいに着用し
ⅰ
ⅱ
屯田兵大事典サンプル誌面
トンデンヘイノフクソウ
◇藍色霜降に緋色の側章
◇被服・装具の給与
○襟布(2 個)
○冬襦袢袴下(3 組)
○夏襦袢袴下(3 組)
明治 19(1886)年に陸軍服制が大改正され、
屯田兵の通常経費が北海道庁から陸軍省に移管
○木綿製手套(2 組)
○短靴(6 組)
ドイツ(プロシア)式の採用によって軍衣の丈(ベ
された明治 23(1890)年 9 月 5 日、
「屯田兵給
○革製脚絆(騎兵に 2 組)
ルトラインの下 4 寸)がやや長めとなる(夏衣
与令」
(勅令第 201 号)が公布され、被服・装具
○麻製脚絆(歩砲工兵に 2 組)
は下 2 寸と短め)など細かな変更と併せて、兵
についても種別、給与数、共用期限などが詳細に
○靴下(9 組)
○拍車(騎兵に 1 組)
種ごとの色別区分も行われた。歩・砲・工・輜重
定められた。下士兵卒の被服は大小の区分で、計
○作業衣袴(騎砲工兵に 1 組)
兵が衣袴とも「紺絨」なのに対して、屯田兵の袴
15 品目に分けられ、装具には被服の手入れ用具 (靴・靴下は時宜により草鞋・草鞋掛けに換えて
については「藍霜降絨」とされ(衣は紺絨)
、
「藍
12 点も並ぶ。
霜降に赤ライン(緋色側章)
」という独特のスタ
(給与員数はいずれも 1 個または 1 組)
被服・装具の給与表によると、衣袴は、第一種、 装具品目
イルは、屯田兵を象徴する服装として後世にも伝
第二種と夏衣袴の三種で、騎・砲・工兵に対して
は次の通り。
は作業衣が給与された。第一種衣袴は、明治 19
○屯田兵手帳 ○背嚢(歩砲工兵に 2 組)
小 線 2 分( 曹
わった。
兵種別袴の質色・側章の区分
兵 種
袴
側 章
「藍霜降に緋色側章」の屯田兵の姿は、東旭川 長 3 条 一 等 軍
憲 兵
藍 絨
緋 色
屯田兵の廣澤徳治郎が記録した『屯田兵絵巻』に 曹 2 条 二 等 軍
歩 兵
紺 絨
緋 色
曹 1 条)
も色鮮やかに描かれている(右の絵図)
。
騎 兵
茜 絨
萌黄色
兵卒は2分
砲 兵
紺 絨
黄 色
工 兵
紺 絨
鳶 色
幅
で
上
等
兵
3
明治 19 年改正で定められた屯田兵の服制は次
輜重兵
紺 絨
藍 色
一等卒 2 条、
の通り。
ただし、
実際の運用は
「屯田兵については、 条、
屯田兵 藍霜降絨 緋 色
従来給与数及び保存法等も異なり、費用の都合も 二等卒 1 条
軍楽隊
茜 絨
茜 色
あるので漸をもって施行する」
(明治 19 年 2 月 肩章 : 緋絨
会計部
紺 絨
花色藍
軍医部
紺 絨
深緑色
8 日大山厳陸将通達)とされた。寸は約 3cm、分 ○袴
(1886)年の改正陸軍服制に沿った紺絨・5 つボ
給与)
○絨刷 ○靴刷 ○磨刷
タンの軍衣に藍霜降・緋色側章の軍袴で、式典な
○燕口袋 ○属具袋 ○塗墨器
どで着用する正服。第二種衣袴は、教練・演習の
○煉脂器 ○櫛鋏 ○錘糸巻
際に用いられた。
「屯田兵給与令細則」によると、 ○糸・針 ○ 寝具(半部厚毛布)
ほかに演習服、演習帽などが給与された。
第二種帽は、紺絨に黄絨の横章、真鍮製の星章
下の写真は教練に参加した一已屯田兵、各種の
が付き、庇は革製。給与表に記載はないが、礼装
衣袴を混用している(
『歴史写真集 屯田兵』より)
用の黒革製の第一種帽は、明治 19 年改正服制に
より白の前立とともに屯田兵に支給された。
◇シンボルカラーの終焉
は約 3mm。
(明治 19 年 3 月 1 日官報第 795 号
絨・藍色霜降(他の兵種は上の区分表のとおり)
靴・靴下は「時宜により草鞋(わらじ)
・草鞋
附録による)
側章 : 緋絨幅 5 分 靴踵の際上までの長さ 両股
掛けに換えて給与」とされた。琴似屯田兵が草鞋
明治 27(1894)年の日清戦争に動員された
○第一種帽
各 1 個物入
を常用していたとする山田勝伴の記録に加え、明
屯田兵は、東京の竹橋兵営に駐屯した際に、
「近
革・黒色 日章 : 真鍮製直径 2 寸
○夏衣
治 18(1885)年に野幌に入植した屯田兵・吉原
衛兵から霜降り赤線のズボンが羨ましがられた」
前立 : 熊毛、上部白 2 寸 5 分、下部緋 2 寸 2 分、 雲齋(うんさい = 厚地の綿布)
金物真鍮
袖章 : 下士のみ黄本呉絽(ごろ = 梳毛織物)
○第二種帽
袖長 : 腕関節まで
絨・紺色 星章 : 真鍮製 庇 : 黒革
○夏袴
顎組 : 黒革、真鍮釦 横章 : 黄絨
兵次郎が「紺脚絆にわらじ履きと言う異様な軍服 (
『開拓使最初の屯田兵』
『琴似屯田百年史』
)とい
姿の伍長や多数の兵士に案内された」との回顧談
うエピソードが残されている。
「霜降」は税関吏
(
『野幌兵村史』
)を残していることから、屯田兵
の官服に採用された例(
『神戸税関百年史』
)があ
の草鞋履きはそれほど珍しいものではなかったこ
るが、軍関係では珍しい素材で(明治 3 年の陸
雲齋
とをうかがわせる。
軍徽章では歩兵の袴が「鼠色霜降に黒側章」とさ
○衣
○外套
細則の「給与表」によると、手套(手袋)は、 れ、明治 6 年の陸軍武官服制で「紺大絨」に改
絨・紺色 釦 : 赤銅 襟章 : 緋絨
絨・紺色 釦 : 黒角大径 8 分 小径 5 分 5 里
木綿製で伸縮性のあるメリヤス
袖章 : 平織金線、黄絨
袖章 : 黄毛縁 2 分幅
仕様のものも用いられた。
曹長・軍曹は、金線 2 分 1 条、大線 8 分 1 条、
被 服・ 装 具 の 給 与 表( 明 治
24 年屯田兵給与令)に掲載さ
れている被服品目は次の通り。
(カッコ内は兵卒に対する給与
員数。共用期限はいずれも 7 年)
○第二種帽(2 個)
○第一種衣袴(1 組)
○夏衣袴(2 組)
○外套(1 個)
○第二種衣袴(2 組)
ⅲ
明治 19 年制定屯田兵の軍装
ⅳ
屯田兵大事典サンプル誌面
トンデンヘイノフクソウ
められた)
、学生服に使われた
か、本部にみんな召集されて行って、
こともあって当時の若者の憧れ
それが済むと昼から
(開墾に)
出なきゃ
のファッションとして流行した
ならないのです。
(1973 年『室蘭屯
ことも背景にあったと見られる
田兵』
・1968 年 NHK 収録の回顧談)
(岡山県『岡山県の繊維産業』
)
。
○目良謙吉(永山・明治 24 年 7 月
しかし、征清第 1 軍に編入
入地 和歌山県出身)
(入植の 7 月 1
された際に、屯田兵特有の「藍
日)
「永山村」と大書した標柱がある。
霜降」
が問題ともなった。元々、
兵村一番地だ。赤えり軍服で刀を下げ
地域限定の少量生産のため、急
た軍人が「貴様の行く所は ...」と兵屋
な増員や転科の度に不都合が
の位置を丁寧に教えてくれる。
(1962
生じるという理由から、陸軍
年『永山町史』
)
省は日清戦争終結後の明治 28
○萩原藤太(一已・明治 28 年 5 月
(1895 )年 9 月、他と同じ紺色に統一すること
絨」の軍袴、側章と襟が「萌黄絨」という騎兵独
入地 佐賀県出身)
被服・武器ですが、小倉服一
を決め、屯田兵の「霜降ズボン」は漸次姿を消し
特の色別区分が用いられた。
着、棒しまのシャツ一枚、ズボン下一枚でした。
ていった
(陸達第 89 号)
。これに代えて陸軍省は、
上の写真は明治 27 年ころの篠路屯田兵、将校
これで冬季でも訓練されたものです。雪中に入る
屯田兵の識別のため軍衣の襟の両端に特別の徽章
は肋骨服(
『歴史写真集 屯田兵』より)
と、身体のぬくみのため雪が解け、それが凍り、
を付けることとした(陸甲第 108 号)
。この襟章
腰から下はズクズクになってもなんら意にも介せ
のデザインには「北」の文字が使われたとする説
4.屯田兵の証言から
(北海道教育委員会『屯田兵村』
)もあるが、明確
ず、猛訓練をやったのであります。
(1943 年『屯
田兵座談会』
)
な資料はない。
○吉原兵次郎(野幌・明治 18 年 7 月入地 石
○三浦清助(湧別・明治 31 年 9 月入地 福島
上の写真は衣袴とも「紺絨」の剣淵屯田兵
川県出身)
(入植時)紺脚絆に草鞋履きと言ふ異
県出身)官物はもらたっというより借りていたと
夏衣の袖章は曹長、軍曹のみ黄本呉呂の山形の
◇日露戦争でも異彩
様な軍服姿の大釜伍長や多数の兵士に案内され、 言った方が良いですよ。新品をもらうときは、今
野幌兵村指して徒歩で出発した。屯田兵の冬の軍
まで使っていた物を戻さんきゃならんしね。その
服はモンパの下着が一枚と小倉服で、而も上衣は
時がまたうるさいですよ。服がすすけてる、手入
体を曲げると背が見える短いものであった。夫れ
れが悪い、などとね。すすけるのは当たり前です
に紺足袋脚絆草鞋履きで、極寒の時は外套が許さ
よ、焚き火をしているんだから。靴なんかもそう
令第 29 号)
に基づいて、
満州の土色に合わせて
「茶
れた。さうして終日雪中の練兵である。休憩の時
ですよ。傷みがあると、畑仕事ではいたんではな
褐色
(カーキ色)
」
の戦時服が採用された。しかし、 屯田兵制度が制定された当初の将校の軍衣は、
は足踏みして凍傷を防止した。勿論手袋も耳懸も
いか、と叱られてね。
(1968 年『上湧別町史』
)
第三軍に編入増派された第七師団の将兵は、動員
明治 6(1873)年の「陸軍武官服制」に沿って、
ない。軍人として困苦欠乏に堪へる訓練を受けた
○木村才次郎(士別・明治 32 年 7 月入地 山
された後備役の屯田兵も含めて従来の「紺絨」の
濃紺絨で紐状の胸飾りが特徴の肋骨服(ろっこつ
が、今時考えると寧ろ不思議な位である。併し十
縣県出身)各自の兵屋には軍服 2 着、背嚢、銃
軍装で出征・帰還した。
ふく・明治 42 年廃止)が採用された。その後の
年後には羅紗服に改正された。現代兵隊の諸給与
などを保管してあるので、班長が軍服や銃の手入
袖章による階級の識別区分
数次の改正により、
礼装や略服の細部が定められ、
を見ると全く隔世の感を深くする。
(1934 年『野
れを検査し、これをきちんとやらなければ絞られ
華やかな金線を使った袖章の礼服が式典などの際
幌兵村史』
)
た。高官が士別に来ると官給品を家の前に並べ検
に着用された。
○今井良三郎(輪西・明治 22 年 5 月入地 福
閲を受けた。
(2007 年『士別屯田覚え書』
)
明治 19(1886)年の改正・陸軍服制により、
岡県出身)
現役時代は、
昔の兵隊は、
イッシュ服
(第
明治 19(1886)年の改正陸軍服制により、屯
屯田兵佐尉官・下副官の軍袴は下士・兵卒と同様
一種服)イッシュ帽(第一種帽)で観兵式に出ま
【参考文献】
田兵の階級は、一般の兵種と同様に、上衣の袖章
に「藍霜降絨に緋絨の側章」
、第二種帽の横章も
した。イッシュ帽といいますと、皮の丁度、輪っ
▽『図鑑 日本の軍装 下巻』
(笹間良彦著、雄山
によって識別区分された。
同じく「黄絨」と定められた。第一種帽について
ぱみたいな黒い皮に漆(うるし)を塗りました帽
閣出版、1970 年)▽『日本の軍装 幕末から日
下 士 官 は 幅 2 分( 約 6mm) の 金 線 と 幅 8 分
は、明治 3(1870)年から採用された頭頂部の
子をかぶりましてね。それに巻いた毛を差して、 露戦争』
(中西 立太著、大日本絵画刊、2006 年)
(約 24mm)の黄色の大線が入り、幅 2 分(約
五芒星(ごぼうせい)の刺繍がそのまま継承され
筆みたいな、棒みたいなものを前に差して、それ
▽『日本の軍隊 ものしり物語』
(熊谷直著、光人
6mm)の黄色小線の本数により、曹長 3 条 一等
た(下士兵卒は無地)
。軍衣については、佐尉官
がイッシュ帽になる訳です。イッシュ服(第一種
社刊、1989 年)▽『歴史写真集 屯田兵』
(改訂
軍曹 2 条 二等軍曹(旧・伍長)1 条と区分された。 は「濃紺絨」下副官以下は「紺絨」で、従来の肋
服)といいますとジュ服ですね、つまりラシャ服
増補版、北海道屯田倶楽部刊、1989 年)▽『北
骨服はそのまま踏襲された。
を着まして、屯田兵はズボンが霜降りでした。内
海道文化財 第 10 集 屯田兵』
(北海道教育委員会
美唄に配置された騎兵科の将校は、
肋骨服に
「緋
地兵は黒ラシャですがね。それを着まして観兵式
刊、1968 年)
線が 1 条入り、兵卒には袖章がなかった。
(明治 19 年 3 月 1 日官報第 795 号附録による)
明治 37(1904)年開戦の日露戦争では、
「戦
時又ハ事変ノ際ニ於ケル陸軍服制ニ関スル件」
(勅
2.屯田兵の袖章
兵卒は 2 分幅の小線のみで、本数により上等兵
3 条、一等卒 2 条、二等卒 1 条と区分された。
ⅴ
3.将校の服装
ⅵ
トンデンヘイノフクソウ
屯田兵の服装 関連年表
慶応 2(1866)年
明治元(1867)年
明治 2(1868)年
明治 3(1870)年
明治 4(1871)年
明治 5(1872)年
明治 6(1873)年
明治 7(1874)年
明治 8(1875)年
明治 10(1877)年
明治 12(1879)年
明治 14(1881)年
明治 18(1885)年
明治 19(1886)年
明治 23(1890)年
明治 27(1894)年
明治 28(1895)年
明治 29(1896)年
明治 33(1900)年
明治 36(1903)年
明治 37(1904)年
明治 38(1905)年
明治 39(1906)年
明治 42(1909)年
幕府陸軍伝習所を開きフランス人教師を招く、伝習隊の服装はフランス制
4 月 軍務官を設置し諸藩兵を徴兵し、英式の服装を採用
奥羽から凱旋の諸兵に黒絨の軍服(フランス式マンテル、一重ボタン)を下賜
3 月 伏見に御親兵(明治 5 年近衛兵)を置き、フランス式の帽衣袴靴を給与
7 月 軍務官廃止、各藩の兵を漸次兵部省の管轄下に置く、服装は御親兵と同じ
1 月 22 日 大阪に陸軍兵学寮を開設
10 月 常備兵を定め海軍は英式、陸軍はフランス式に基づき編成
12 月 22 日「海軍服制」「陸軍徽章」布告(太政官布告第 957 号)
4 〜 8 月 4 鎮台を設置
7 月 24 日「御親兵徽章」公布(兵部省達 54 号)歩兵は紺色 9 ボタン、袴は紺側章に 1 寸赤
2 月 兵部省から分離して陸軍省を設置
8 月 略服を制定
9 月 29 日「鎮台諸務規定」軍帽は紺地に黄筋、軍衣は紺に黄の山形袖筋 9 ボタン、
軍袴は鼠霜降、黄側章
1 月 10 日 徴兵令施行
9 月 24 日「陸軍武官服制」布告(太政官布告第 328 号)正服、軍服、略服を定める
将校・准士官は、濃紺絨の肋骨服、下士官・兵の正衣袴は紺綿絨、
鎮台兵は紺大絨(略衣袴は追って制定)シャコー帽採用、略帽は目庇なし
10 月 17 日 第二種帽(略帽、ドイツ式のミッツェ型で紺色)を布告(陸軍省達第 458 号)
10 月 30 日「屯田憲兵例則」を布告
5 月 5 日 黒田清隆が「屯田兵制服の儀伺」提出 左袖に北辰章
5 月 17 日 琴似に最初の屯田兵が入地
5 月 18 日 鎮台兵に準じた服制(太政官布達)左腕に赤絨で星
11 月 24 日「陸軍服制」改正(太政官布告第 174 号)下士兵卒正服は紺大絨、
略服の衣袴は紺色小倉織、ホック式で丈が腰まで
西南戦争 明治 7 年略帽略衣袴
3 月 18 日「陸軍服装規則」制定
9 月 27 日 官営千住製絨所が操業開始し羅紗地を国産化
5 月 軍袴の地質を絨または綾小倉、夏衣袴地質をリンネルまたは綾小倉に改正
5 月 5 日「屯田兵条例」を制定
2 月 北海道三県廃止し北海道庁を設置
2 月 8 日 屯田兵への給与は「漸を以て施行」(大山陸軍大臣
2 月 24 日 陸軍服制を改正・下士以下(内閣達 14 号)
7 月 6 日 陸軍服制・将校を改正(勅令第 48 号、内閣達第 14 号)フランス型からドイツ型へ、
第二種帽と軍衣の地質は、将校等は「濃紺絨」で下副官以下は「紺絨」、軍衣の仕様は、
将校等は従来の肋骨服で下副官以下は立襟釦留めの短上衣、階級は袖線で表示、軍袴は
兵種により区分され、屯田兵は「藍霜降」
3 月 屯田兵経費の所管を北海道庁から陸軍省に移管
9 月 5 日「屯田兵給与令」公布
7 月 25 日 日清戦争開戦、翌年 3 月 30 日休戦条約に調印
9 月 服制改正し屯田兵の軍袴は「藍霜降」から「紺」に
5 月 第七師団を創設、屯田兵司令部を廃止
9 月 8 日「陸軍服制」改正し将校・准士官と下士官・兵を統一(勅令第 364 号)
6 月 屯田歩兵第 4 大隊を解隊、屯田兵現役・予備役は皆無となる
2 月 10 日 日露戦争宣戦布告
「戦時又ハ事変ノ際ニ於ケル陸軍服制ニ関スル件」(勅令第 29 号)
将校以下の夏衣・夏袴・日覆・垂布は「茶褐色」とする
8 月 4 日 第七師団に動員下令(11 月 11 日 第三軍に編入命令)
9 月「屯田兵条例」を廃止
7 月「陸軍戦時服服制」を制定 戦時服を平時においても使用できるものとする
9 月 1 日 日露休戦成立
4 月 12 日「陸軍戦時服服制」を「陸軍軍服服制」と改める(勅令第 71 号)
軍装の標準色を「茶褐色」に転換(当分の間は「濃紺絨」とする)
肋骨服、紺絨服を廃止、少し緑色を加味したカーキ色の「四二式常軍服」に全軍統一