「多摩美術大学修了論文作品集」の抜粋で - Tama Art University

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多摩美術大学大学院
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D・W・グリフィス監督作品における
プログラム分析に基づく物語構造の考察
多摩美術大学大学院 芸術学専攻修士課程3005
1
1
0
6
番 檜山博士 目次
序
1
第
6
一
章
蓋
の
あ
る
文
箱
第一部 『ドリーの冒険』
♢モティーフの獲得
♢『ドリーの冒険?』 ♢「不在」の記号として存在しつづけること 第二部 蓋のある大きな箱
♢
「
♢
♢
大
『
き
エ
な
ル
ダ
ー
枠
蓋
ブ
」
付
シ
ュ
き
峡
谷
の
の
戦
箱
い
』
♢箱・部屋・家
♢補遺・閉じた箱の中の死者/『恐ろしき一夜』
第
19
第
二
章
一
♢
♢
蓋
部
《
現
『
実
生
つ
*三つめの箱
ベ
活
の
ッ
の
諸
行
つ
め
、
景
く
花
形
ド
》
』
の
人
箱
箱
光
め
箱
い
な
り
一
二
な
吉
散
*
の
不
♢
*
箱
の
部
屋
布
の
両
犠
牲 ♢ 緞 帳 の か か っ た 部 屋 / 『 塞 が れ た 部 屋 』 ♢布でできた箱/『アッシリアの遠征』 ♢布に包まれた身体
第二部 布
♢
第
三
32
♢ 横
章
数
の
論
理
♢ 欠 落 と 補 填 / 再 び 『 ド リ ー の 冒 険 』、『 田 舎 の 医 者 』 ♢酒場とカウンター ♢「3」をめぐるドラマ
た
わ
る
母
親
、
老
父
と
娘
第
四
章
『
43 ♢『苦闘』の製作 ♢テーブルを囲む人々
♢キャスティングの問題
♢形式の混淆、少女の最後の冒険
♢複数のプログラム
♢ベッドに横たわる少女
♢ベッドのプログラムへの解答
結
55
苦
闘
』
び
序
デビッド・ウォーク・グリフィスは一九三一年の『苦闘』
をもって、その実り多い映画監督としてのキャリアの幕を閉
じた。だがグリフィスという「例外的な」映画作家の晩年に、
豊かな秋の収穫を期待する向きにはいささか期待外れなこの
作品は、これまで評者に省みられることも少なく、また、た
とえ取り上げられたところで常に否定的な文脈の中でとらえ
られてきた。そのような〈いわくつき〉の作品でもある『苦
闘』をどのような言葉で語りうるのか。これから進められる
拙い論考は終始この命題をめぐって展開される。
たしかに『苦闘』が、彼のフィルcO ラフィー全体の中で
格別魅力的な作品に映らないことは事実である。そこには『国
民の創生』や『イントレランス』のもつ圧倒的なスケール感
も、『散り行く花』や『東への道』のもつ甘美さも、またいく
つかの初期短編作のもつ可憐さもない。その上、クレジット
にはこれまでグ潟 t ィス作品を華やかに彩ってきた神話的な
女優の名前( ギッシュ姉妹、メエ・マーシュ、メアリー・ピックフォ
ード…)も撮影監督ビリー・ビッツァーの名前すらも認められ
ない。
つまりこの作品には、これまでグリフィス作品が観客を魅
了してきた契機のことごとくが欠けている。代わりにあるも
のといえば、飲酒の害毒を説く大時代的な清教徒的倫理観と、
主題が作品全体にもたらす息苦しさばゥりである。そうした作
品に対する当時の映画評がいずれも芳しいものではなかった
のも無理からぬことと思われる。たとえばアイリス・バリー
の引用する《フィルム・デイリー》の作品評はこの作品を「お
粗末な娯楽であって、興業的魅力のほとんどない時代遅れの
ホーム・ドラマ」ニ断定している (1)。中には森岩雄のよう
に、『苦闘』に対して好意的な反応を示した同時代の例外もあ
るが、国外から伝えられる限られた情報をもとに、当時日本
では未公開だったこの未見の作品について、主に物語の道徳
的側面からの擁護を試みる森の批評には当然のように限界が
感じられる(2)。
もっともグリフィス自身は『苦闘』の製作後、いくつかの
企画の実現に向けて骨を折っており、この作品をもって自ら
のキャリアに幕を下ろすつもりはなかったようだ。『苦闘』の
不幸はひとえに、これが図らずもグリフィスという映画史の
中でも別格的な映画作家による最後のト督作品になってしまっ
たということに尽きるのかもしれない。それでもなおこの作
品に執着を示し続けるとするならば、そこにはこの作品をグ
リフィスの〈白鳥の歌〉と見なしたがるロマン主義的心情が
少なからずつきまとっているかもしれない。またたとえそう
した感傷性から離れト、彼が「経歴の中ではすでに下り坂の域
に入っていた時でさえ、それなりの境地に挑んだ」(3) 作品
としてこれを評価するにしても、『苦闘』は「『国民の創生』
以後」あるいは「『イントレランス』以後」というあまりにも
重い足枷をはめて観客の前にその身を晒さざるをえない。
こうしたT・S・エリオット流の歴史意識は、たとえば、
この作品に対する同時代人の代表的ネ反応と見てさしつかえな
かろうルジュウンの作品評にも影をおとしている。彼女は、
グリフィスの創作活動の頂点を『国民の創生』に見た上で「『国
民の創生』以後のすべてのグリフィス映畫、並びに二大陸の
大部分の映畫の骨組は︱その缺點も美點も、その特質もマン
ネリズムも︱アの初期の嚴しい映畫のなかに存在して」いると
して、グリフィスがこれ以後「この映畫以上の作品を他に一
つも作らなかつた」と結論付けている (4)。「『国民の創生』」
の部分に、あるいは「『イントレランス』」をいれる論者もあ
ろうが、彼女のこうした意見に表立って反論する者はまずい
まい。
また一方で、ジョルジュ・サドゥールの行ったような、進
歩史観的なパースペクティブの下でのこの作品に対する評価
がある (5)。彼の「歴史観」はたしかに様々な問題を含んだ
ものではあったが、この評者に顧みられることの少ない作品
に対して、わずかながらも紙数をさきコメントを残している
点で彼の証言は貴重なものと言える。ただしそこでは、論点
が作品の評価よりもむしろ興業成績の不振という点に移行し
てしまっているために、この作品が、度重なる興行的失敗か
ら徐々に追い詰められていった偉大な映画監督の後日談を語
るよりしろとして扱われている嫌いはあるにしても(サドゥー
ルのこうした「扱い方」は、ルイス・ジェイコブスの同作に対するそれ
と奇しくもほぼ一致する(6))
。
近年の初期映画研究の進展は、一面で、これまで「グリフ
ィス」という固有名詞が帯びていた神話性を解体し相対化す
る方向に働いたとまずは述べることができるだろう。ただし
それは、映画史上におけるグリフィスの業績を決して貶める
性質のものではなく、たとえばガニン O のように、製作当時
の社会的/文化的状況と作品の製作機構との重層的な相互関
係の織り出した布地として彼の作品をとらえることで、むし
ろすべての業績や「発明」を彼の個人的な天才に帰していた
従来の史観から、より広範な文脈の中へとグリフィスを解放
することを意図していスはずだ。
こうした彼等の視点は、サドゥールやジェイコブスのよう
な、それまでの映画史家達の「単線的」で進歩史観的な歴史
認識に対する「異議申し立て」という形で改めて確認された
ものだが (7)、歴史観その他についての両者の見解には大き
な隔たりが見られるものの、グリフィスに関する限り、彼等
の関心は共にその初期から中期までの作品にのみ向けられて
いる。ガニングら後続の研究者達が『苦闘』に対してほとん
ど関心を示さないのは、単純にこの作品の歴史的価値の低さ
によるものなのだろう。だがその一方で、一般に歴史記述の
あり方が「記述の対象となる行動や事件の内容と目的をどう
とらえ、その上で歴史をどう組み立てるのか」(8) にあると
するならば、ある事象に注がれる記述者の視線がその〈終わ
り〉よりも〈始まり〉や〈現れ〉の過程へと引き寄せられる
ことはごく自然な成り行きなのかもしれない。
進歩史観とは〈歴史〉をある特定の「目的」に向かって収
斂していく〈物語〉と見なす姿勢とも考えられ驍ェ、サドゥー
ルやジェイコブスの歴史記述が一面で非常に物語的であるこ
と、またその〈物語〉が達成すべき「目的」として『国民の
創生』や『イントレランス』等の中期作品がアプリオリに措
定されていることを考え合わせるなら、『苦闘』に関する彼等
の記述は、さながらその〈ィ語〉の最後にエンドマークを記す
ような儀式的な身振り以上のものではないのかもしれない。
いずれの立場をとるにしても『苦闘』は彼等の評価の網の目
からはこぼれていく。
たしかにそこでは、とりたてて目新しい技法上の革新が見
られるわけでもなく、また作品の主題も過去に何度も自作の
中で反復してとりあげられてきたものである。更にこの「飲
酒の害悪」という主題自体、彼自身の創作とは決して言えず、
たとえばイギリスのロバート・ウィリアム・ポールの『自分
のさくらんぼを買え』(一九〇四)(9) などの先行作品にすで
に見受けられるものである。こうした貧困層の生活の細部を
描写した「イギリスの社会的リアリズム」が、後のグリフィ
ス作品にもたらした影響の痕跡をサドゥールはその「スタイ
ル」や「主題」に見てとる (10)。しかしこの影響は更に進
み、たとえば同じイギリスのジェイムズ・ウィリアムソンの
『休暇で家にいるかわいい少年達』(一九〇九)(11) のよう
な、よりくつろいだ家庭劇においても共通して見られる特徴
なのだが、作品内での主要登場人物が〈父母と二人の子供〉
からなるという人物設定が、初期短編作品からギッシュ姉妹
の出演作品にいたるまでグリフィス作品に数多く見てとれる
ように (グリフィスの場合は、その片方の子供に落命や別離の不幸が
降りかかるが)、その劇作術上の要素にまで明らかに及んでいる
ことも指摘できるだろう。
それでは『苦闘』のような、歴史的な価値を有さないとさ
れる作品をどのような形で語るのが望ましいのだろうか。こ
こではまず、彼のキャリアを通じて繰り返し現れる幾つかの
モティーフ(箱、ベッド、秤ョなど)とそれらの導き出す結末
との間の因果関係に注目してみる。これらのモティーフはい
ずれも中空の形状をもつか(箱、部屋)、そうでない場合は矩
形の枠を備えており(ベッド)、その上に身体を横たえたり中
に身をひそめたりする登場人物を、画面内において枠取る働
きが る。この「枠取り」が作品にもたらす時間的・空間的な
分節化作用によってそれぞれのエピソードが形成され、その
結末は、各モティーフの形状に従って規則的な対照性を示す。
この因果関係は、マルク・ヴェルネの言う物語叙述における
「プログラム」に相当すると言えるだろうが(12) それらパ
ターン化された個々の運動のヴァリエイションを並列的に観
察することによって論を進めていく。
次に、彼の作品における別のプログラム、登場人物の数の
プログラムを観察していく。グリフィスのある特定の作品に
おいては、主要登場人物が三人からなる集団を形成するとき
最も安定した幸福な状態として表される。そして物語はこの
安定数〈3〉をめぐる交換や回復の過程として提示され、た
いてい彼等は肉親なのだが、状況に応じて成員の顔触れにも
その「機能」(13) にも共に変更が加えられる。だがいずれ
の場合にも共通することは、元の三者からなる安定した集団
への回復の試みが作品にドラマを引き入れる点である。
前者のプログラムが説話論的な分析を可能にする要素を多
分に有するのに対して、後者は図像学的な様式に属するとい
う相違_を見せながらも、この二つのプログラムは互いに絡み
合いながら、数多くのグリフィス作品において物語の推移に
少なからぬ影響を及ぼしている。そしてそれは『苦闘』を始
めとする後期作品においては特に顕著に作用する。
こうした観察の下に進められる以下の論考は、従って一種
の物語論(ナラトロジー)に基づく作家論に分類されるだろ
う。厳密に言えば、それはあくまでも「映画外的」な考察と
言えるのかもしれない(14)。だが、彼のキャリアを通じて、
数多くの作品の中でこれらの主題が一貫して採用され、機能
している様が観察される時、それらがプログラムとして規格
化され、反復されていく過程を考察することが、グリフィス
という「作家」のなんらかの特性を説明することに繋がると
発想すること自体は、それほど不自然でもなかろうと思う。
あくまで作品に手引きをされながら歩を進めていきたい。
第一章 蓋のある箱
第一部 『ドリーの冒険』
モティーフの獲得
一九〇八年六月にバイオグラフ社で製作された『ドリーの
冒険』によって、グリフィスの映画監督としてのキャリアが
事実上開始される。一人の映画作家の生誕を告げるこのささ
やかな短編作品には、技法の上でこそ後年の大作を予感させ
るような目新しさは見当たらないながら、いくつかの興味深
い細部が含まれている。
作品の冒頭と結びの部分で手前から画面の奥へ緩やかに伸
びていく川の岸辺の情景がほぼ同一の構図で配される。主人
公の少女ドリーが、両親に手を引かれながら最初にスクリー
ン上に現れたこの岸辺に、悪漢の手で誘拐された後に幾つか
の`険を経て、再び無事に戻ってくることでストーリーはアー
チ状の弧を描いて終結する。つまり話法的な帰結と、作品内
での地理上の始点への回帰が合致することで、観る者の心を
充足感が満たすことになる。 サドゥールによれば、この映画に登場するころがる樽や河、
疾走する馬、ジプシーなどは、元々イギリスやゴーモン社の
追っかけ映画の伝統に連なる主題であり、決して彼の創意に
よるものではないということである (1)。たしかに、少女ド
リーとその両親、そしてさらわれた娘を捜索する友人達の服
装と、悪漢であるジプシーとその妻との服装との間に示され
ている明確な階級差の意識や、下層階級としてのジプシーの
存在などは、明らかにヨーロッパ的な主題であり、周到なア
ダプテーションを施すことなく先行作品から題材をそのまま
移植している点などからも(ただし、ドラマの背景を自国の環境の
中に設定しなければいけない理由など―興業上の理由、つまり観客がそ
れを望む場合は別として―どこにもないのだが)、初期のグリフィス
に対するイギリス製の映画作品の影響の大きさがうかがわれ
る。実際この作品には、バーチの指摘するように、題材の選
定等においてヘップワースの『ローヴァーの救出』(一九〇五)
からの影響が認められるが (2)、そうした先行作品からの主
題を引き継ぎながらも、その監督第一作目から手際良く作品
をまとめあげる新人監督グリフィスの手腕は、後の活躍を充
分に予感させるものがある。
『ドリーの冒険?』
河岸を散歩する裕福そうな夫婦とその一人娘ドリー。彼等
に押し売りを試みて断られた悪漢がその腹いせにこの少女を
さらうことからこの物語は始動する。追手に追いつかれる前
に、この悪漢は近くで馬車の荷を解き休憩していた妻としめ
しあわせ、樽の中へ少女を隠し、蓋を閉めて追跡をやりすご
す。この樽は馬車に乗せられ、その場を離れる。やがて馬車
が河を横切る際にこの樽が転げ落ちることでドラマが急転す
る。樽は河に流されていき、少女は見つからない。だが、結
局この樽が冒頭に現れた河岸で釣り人に釣り上げられること
で、ドリーは無事救出され、ドラマは大団円を迎えることに
なる。
これは確かに〈他愛ない〉という形容詞一つをもって処理
出来そうな物語ではある。だが同時に、ここにはいくつかの
興味深い細部が含まれている。まず、題名に含まれる「冒険」
という言葉(妥当な訳である)が果たしてこの物語に適切な
のだろうかという疑問が生じる。この少女は、樽の中に閉じ
込められることで、作品の中で繰り広げられる様々なドラマ
に終始直接的、自発的に関わり合う機会を絶たれている。む
しろ訳のわからぬままに巻き込まれた〈災難〉と呼ぶべきこ
の体験を、はたして彼女の「冒険」と呼ぶことが出来るのだ
ろうか。もしそれを「冒険」と呼ぶならば、彼女の生きる「冒
険」とは一体どのようなものなのか。
たとえば『ドリーの冒険』に約三ヶ月先んじて製作・公開
された、同じバイオグラフ社製の『彼女の最初の冒険』(ウォ
レス・マッカッチョン監督、一九〇八)(3)における少女は、辻音
楽師の奏でる音楽に惹きつけられて自発的に家から離れてい
く。後にこの辻音楽師の夫婦に誘拐される少女を、両親や警
官と共に、その家の飼犬が追跡し発見するところからも、『ロ
ーヴァーの救出』からの直接的な影響関係が指摘できるこの
作品においては、少女の「冒険」への自発的な関与が認めら
れる(尚、 この作品にはグリフィスが俳優として参加しており、三ヶ
月後に撮られる『ドリーの冒険』に少なからぬ影響を与えていると思わ
れる)
。
あるいはまた、『ローヴァーの救出』においてヘップワース
が挑んだ「冒険」とは(この場合、題名に〈冒険〉が含まれてはい
ないので、この言葉に特に拘泥する必要はないのだが )
、誘拐された
子供が寝かされている女性浮浪者の部屋と、子供が見つから
ずに嘆く富裕な家庭の夫婦の部屋という、空間的に離れた二
つの場所を、飼い犬の活躍によって繋ぐという、「空間の克
服」(4) にあったと言えるかもしれない( この主題はグリフィ
スの『ビリーの冒険』(一九一一)に後に受け継がれる)
。
グリフィスがこの題名を選んだ理由にさほど深い意味はな
いだろう。おそらく物語の内容に沿った慣例的な題名として
無造作に「冒険」という文字を選んだにすぎまい。だが、グ
リフィス作品におけるある重要な主題の萌芽がこのささやか
なデビュー作の中に観察されると思わ黷驤ネ上、やや些末主義
的に見えるかもしれないが、この少女の「冒険」についての
考察を続けてみる。
「不在」の記号として存在しつづけること
先ほども述べたが、この少女自身は箱の中に閉じ込められ
た時点からドラマへの直接的関与の道を絶たれている。樽に
蓋を被せられた瞬間から、彼女は画面上ではあくまでも不可
視の非存在と化す。にもかかわらず彼女は、劇作術上は無機
的な小道具にすぎない樽として傲慢にそのカ在を主張し続ける
(つまり画面中央に位置し続ける)。
本来、映画的世界における事物の第一義的な存在形式は、
可視的なモノとして観客の視線に晒されることにあると言え
る。そしてそれ以外の存在のあり方は、たいていの場合、広
義での物語性に依拠した「映画外的」な形式に基づくと言っ
てよい。視覚的には非存在となるこフ少女の存在を支えるのは、
悪漢が彼女を樽に閉じ込めたショットについての観客による
記憶の共有であり、換言するならばそれは物語の強制力でも
ある。一般に映画表現はグリフィスを経て物語的イリュージ
ョニズムの古典的な叙述形式を獲得したとされているが、こ
こでは物語的な存在形式が自らの強度を傲慢に誇示するかの
ように、河を流れ行く樽がその後延々と画面の中央を占める
ことになる。
つまり、ここで図らずも露呈しているのは、映画における
視覚的存在形式と物語的存在形式との間の分水嶺であり、作
品中ではほとんど自発的意志をもたない少女による両形式間
の横断運動である。従って、この少女の生きる「冒険」とは、
こフ境界線上で繰り広げられる少女自身の存在をかけた( ただ
し安全を約束された)冒険とも言えよう。
あくまでも可視的な運動として現される危機的なドラマか
ら身を翻すために、自らを不可視の非存在と化す少女の所作
は、画面内のあらゆる存在が決して触れ得ぬ不在の記号へと
化身することでもある。自発的に樽の中に入る道を選択した
わけではないものの A この少女は結果的にグリフィス的世界
における危機的状況から身を守る術を学んだことになる。
これ以後グリフィス映画において、蓋付きの箱は、そこに
身を潜める者にとってこの上なく保護的な存在となる。たと
えば『エルダーブシュ峡谷の戦い』の終盤に登場する、イン
ディアンの襲撃を受けた小屋の娘がとっさに身を隠す大きな
箱のように。そしてこの箱は、その他の様々なモティーフと
共に、後に製作される彼の膨大な作品群の中で様々なヴァリ
アントを派生させながら独自の系譜を形作り、グリフィスの
作品世界を彩っていく。
第二部 蓋のある大きな箱
「枠」
画面に映し出される箱はフレーム内の空間と物語空間を多
層化する。そこに誰かが身を隠し、蓋を閉じる時、物語は複
線状に開かれ、それが最後に開かれる時、物語の束は閉じら
れる。こうした箱の働きは、武田潔氏が指摘した、グリフィ
ス作品における「枠取り」の手法の一変種と言えるだろう(5)。
そもそも映画という媒体の存立に、フレームによる時間上の、
またフイルムのコマによる空間上の二つの「枠取り」の要素
が含まれていることを考えるならば、映画における技法や様
式の展開が、空間上、時間上、説話論上の「枠取り」と深く
関わり合うことは宿命的なのかもしれない。
処女作『ドリーの冒険』からすでに示されている、空間の
多層化と物語の複線化へのグリフィスの関心は、また別な形
でも現れる。それは、『ドリーの冒険』の樽や『エルダーブシ
ュ峡谷の戦い』の箱のような、画面内に設けられた別の枠と
してではなく、画面自体の分割としト提示される。こうした壁
の断面を象徴する仕切り線によって、フレームを切断し、同
一画面内に二つの部屋を同時に示す手法が、後に彼の撮影監
督となるビリー・ビッツァー経由でグリフィスに伝わったこ
とを小松弘氏は推論されている(6)。
たしかに、一九〇五年のバイオグラフ社作品『大宝石ミス
テリー』( 撮影はビッツァーとF・A・ドブソン )における壁の仕
切線は、この技法の様式化の進行をうかがわせる抽象性の高
さを示しているが、その仕切線の象徴する壁に穿たれている
はずの扉は、この壁と画面に正対する壁との接合線上に不自
然に設けられた斜め四十五度の細長い壁面に付設され、閉じ
られた扉が観客に感得されるという、過渡的な構造をも同時
に示している。また、こうしたセットの「斜め」の構造は、
登場人物が画面を奥へと横切る「斜め」の運動を要求し、画
面深度を表象する運動のヴァリアントとして「斜め」の構図
をも形成する。
また、その三年後に製作された、グリフィス自身も出演者
に名を連ねる『仮装舞踏会にて』(W・マッカッチョン監督、撮影
はビッツァー、一九〇八 )では、この仕切線の抽象度はさらに高
まり、分割された画面の効果は、さながらマルチ・スクリー
ンのような様相を呈している。こうして、空間の二重化を表
象する装置として様式化された仕切線は、その後、『カーテ
ン・ポール』(グリフィス監督、一九〇九) の中では戸外に持ち出
され、空間を分割する線としてのカーテン・ポールの移動が
騒動を巻き起こすといったヴァリアントを生み出すこともあ
ったが、その二ヶ月後に製作されたグリフィスの『娘達とお
父さん』(一九〇九) においては、この仕切り線を挟んでの空
間の占有をかけた追いかけっこが、扉の開閉状態をめぐる争
いとして繰り広げられるという展開を見せる。
人知れずその蓋(=ドア)を閉じることが出来るならば箱
(=部屋)はこの上なく保護的な存在として、そこに身を隠
す者を守ってュれる。しかし、その中で不可視の存在へと移行
する途中、自らの存在を誰かに気取られた場合、その箱はこ
の上なく危険な場所となる。四方を壁に囲まれた箱の中での
行動範囲は限定される。ましてそうした環境の中で、追跡者
と同一空間にあることは、逃亡する者にとって致命的な 況を
意味するから、両者の争いはこの空間を分割する仕切りをめ
ぐる争いへと集中されることになる。 この作品の中で大男の泥棒に家の中で追いかけられる二人
の姉妹は一室に逃げ込みドアを閉める。そこでドアを開けよ
うとする側と防ごうとする側との間の争いが生じるのだが、
力比べでは到底勝ち目がないと観念した彼女達は、ドアの前
に家具を積み上げて時間的猶予を獲得し、別の部屋に移り、
再びドアを閉めることで新たな空間の分割を行う。結果的に
この二人の娘達は、作品冒頭に登場したこそ泥の青年に救わ
れることで事なきをえる。
夜半に謔カて家に忍び込みながら、二人の少女の美しい寝姿
を見て改心するこの白人のこそ泥の青年と、「そんなためらい
をもたない」下層階級の「ニグロ」と説明された (7)大柄な
黒人の泥棒という、明らかな人種差別意識に基づいた対照的
な人物設定に、後の『国民の創生』における南部の黒人の描
写への萌芽を見るリチャード・コスザースキーの指摘は正し
い(8)。だが、ここでは、改心した青年が天窓から屋根へと
移動し、少女達に迫る危険を察知するや、再び天窓から姿を
表す一連のシークエンスによって、空間の多層化が更に垂直
方向にも展開している点を指摘するにとどめておく (天窓から
屋根への移動による、垂直方向への空間の展開はウィリアム・ハガーの
『チャールズ・ピースの生涯』(一九〇五)にも先駆的に見られる)。
大きな蓋付きの箱
こうして、分割された空間の占有をめぐるドラマと、部屋
という、より大きな蓋付きの箱の主題をグリフィスは手にす
る。この大型化した箱は、依然として「蓋付きの箱」と同様
の性質を保持しているが、そこに新たに、外部と内部の要素
が加味されることで、ドラマは仕切りの保持と突破をめぐる
争いとして集約される。そして「箱」の大型化の進行に伴い、
そこから派生するエピソードのプログラム化もまた進められ
る。やがて「箱」の巨大化は更に進行し、家や城などへと発
展して、プログラムの機能は顕在化していく。 それはある時は草原の中の一軒ニという形で現れる。この極
めてグリフィス的な主題(その後フォードやウォルシュ、ウェルマ
ン、マン、ベティカー等を経て、ケネディやヘルマン、イーストウッド
へと至る作家達の系譜の中で変奏され続け、『みつばちのささやき』の
ビクトル・エリセによって間欠的にその水脈が掘り出された )が、主
に西部劇というジャンルの中で後に展開されていったことは
偶然ではあるまい。なぜなら、大平原を無方向的に徘徊して
いた複数の人物の行動の線にある一定の方向性を与え、彼等
の描く複数の行動の軌跡を集約させてドラマを加速させる、
こうした草原の一軒家の働きは、西部劇のドラマツルギーに
非常によく合致していると言えるからだ。
やがて時代が下り、西部劇の主題が〈移植〉から〈定住〉
へと移行すると、平原の一軒家は家並みの数を増やし、荒野
の果ての小さな街へと変貌して、彷徨者達を依然として誘い
続ける。そして、そこで繰り広げら黷驛 h ラマは、街という
大きな「箱」を構成するそれぞれの小さな「箱(=店)
」への、
登場人物の入場に際する拒絶と認可をめぐる交渉劇へと展開
される。酒場や床屋から保安官事務所へと主人公が移動する
度に引き起こされる小エピソードは、いわばそれぞれの「箱」
に属する典型 I な階層の住民との〈顔見せ〉を兼ねたイニシ
エイションの劇であり、こうした過程を順次通過した主人公
が準成員として認められた場合に、たいてい街の住人は、彼
を保安官という、新たな「箱」の番人として遇することにな
る。
『エルダーブシュ峡谷の戦い』
こうした、グリフィス作品における「蓋付きの箱」の主題
の三つの様態が『エルダーブシュ峡谷の戦い』(一九一四) に
おいて出揃うことになる。この作品は一般には、その終盤で
の大規模な戦闘シーンの演出の卓抜さから、後の『国民の創
生』へと繋がる文脈の中で評価されてきた作品であり、ある
いは最初期の西部劇の一つとして、たとえばフォードの『誉
れの射手』(一九一七) の終盤における農夫の一軒家での銃撃
戦に見られるような、主題・技法上の明らかな影響を後続の
作品に与えてもいる。
インディアンの襲撃から身を守るために農民達が集まり、
やがて敵の集団的な攻撃の目標となる草原の一軒家。二つの
部屋に仕切られたこの家の中での家人の移ョ。そしてメエ・マ
ーシュ扮する少女が最後に身を隠す葛篭のような箱。ここで
はこれら「蓋付きの箱」の主題の三つの様態が示され、その
機能が明確に表されている。そして、この大きな箱(=家)
の蓋(=ドア)を挟んだ、篭城した農民とインディアンの間
に繰り広げられる「仕切
v をめぐる攻防が、その臨界点に
達する瞬間、今まさに外部からの侵入がなされようとする瞬
間に、騎兵達が救援に駆け付けるという、呆気にとられるよ
うな大団円をもってドラマはその幕を閉じる。
このようなドラマ構造、即ち二つの力の対立の極点におい
て、その均衡関係がまさに崩れようとする瞬間に、そのドラ
マの生成する次元の外部から恩寵のような救援がもたらされ
るという物語形式は、その後、西部劇というジャンル内にお
いては、主に騎兵隊の救援という形で際限なく繰り返されて
いく。そして、この物語構造の形式的原型の一つが、ここで
完成された形で示されていると言える。
箱・部屋・家
箱から部屋、そして家へと続く蓋の付いた「箱」の系譜は、
その大きさや機能に応じて、フレームによって枠取られた映
画空間をさながら入れ子細工のように多層化・多重化してい
く。それに伴い、映画における物語構造もまた多重化・多層
化される。矩形の枠によって、そこに新たな次元に通じる空
間が穿たれることの快い衝撃は、たとえば『キートンの探偵
学入門』における、助手に手助けされた探偵キートンの壁の
向こう側への逃亡シーンや、あるいはまた、ベッケルの『穴』
やブレッソンの『抵抗』などの脱走劇が観客にもたらす衝撃
とも遠く共鳴し合っていると言えるかもしれない。
グリフィス作品における「土壇場での救出劇」を形成する
物語構造、対立する二項の均衡状態が崩れる瞬間に外部から
の恩寵的作用によって一気に別の次元へとドラマが移行する
という、一種の弁証法的な物語構造もまた、物語叙述上の「枠
取り」の一つニ言えるだろう。従って、グリフィス作品におけ
る話法の展開とは、この空間的、時間的、説話論的入れ子構
造の種明かしをする彼の手捌きのヴァリエイションと見なす
ことができる。『エルダーブシュ峡谷の戦い』における騎兵の
到着がもたらす呆気なさと背中を合わせた鈍い戦慄とヘ、一般
には抽象的に認識されるべき物語構造の断層面という概念が、
図々しくも晴れやかな記号をまとって視覚的に露呈すること
の驚きに他ならないだろう。
補遺・閉じた箱の中の死者/『恐ろしき一夜』
グリフィスのフィルモグラフィーの中にあって異彩を放つ
奇妙な一編の作品がある。一九一四年に制作された『恐ろし
き一夜』である。前年にバイオグラフ社からリライアンス・
マジェスティック社に移籍した後に制作された、四本の長編
の最後にあたるこの作品は、ポーの《井戸と柱時計》《隠しお
おせぬ心》《アナベル・リー》をライトモティーフに、巧みに
視覚化された怪奇と幻想が日常生活の描写の中に織りまぜら
れている。この作品の物語叙述上の「枠取り」の技法の分析
については、前述した武田氏による詳細な解読 (9)があるの
で、ここでは主に作品中に現れる「箱」のモティーフに注目
してみたい。
伯父の下に雇われている主人公の青年が、金銭上の口論が
もとで伯父を殺害し、その後様々な幻想に悩まされる。結局
それらはすべて彼が昼寝の最中に見ていた悪夢とわかり、い
さかいが絶えなかっス伯父とも和解するという典型的なハッピ
ーエンドでこの作品は終わる。
ここで問題とされる箱のモティーフは青年の見る悪夢の中
に現れる。夢の中での凶行の後、青年は伯父の死体を暖炉に
隠し、レンガで壁に埋め込むことで警察の捜査をやりすごす
のだが、やがて、画面上では不可視となった死者が二重写し
のトリック撮影によって、亡霊となって青年を脅かすことに
なる。
グリフィス作品における空間をレンガで塞ぐことの不吉さ
は、すでに『塞がれた部屋』(一九〇九) の中でも観察される
が、そこでは密通を働いた妻と愛人の生を、夫が部屋の密閉
により死へと移行させたのに対して (「箱」を密閉することで二人
の愛を永遠に保護していると解釈できるかもしれない)、ここでは密
閉空間(=閉じた箱)の保護作用により、殺害された伯父の
画面上での「生」への移行が行われる。死者は空間に閉じこ
められることで、生者に対する強大な影響力を獲得すること
になる。
こうした、密閉された空間にいる(あるいは「いた」)死者
が、生者に対してュ大な影響力、支配力を持つという主題は、
後続の映画作家にとっても魅力的な素材であったようで (『恐
ろしき一夜』との影響関係は定かではないものの)、その物語構造が
より複雑化された『カリガリ博士の部屋』(生者カリガリによっ
て操られる死者が生者に対して危害を加える) からドラキュラ物へ
と至る一連の恐怖映画の系譜の中で、断続的に展開されてい
くことは、比較的想起しやすい事実であると思われる。また、
この主題は別の文脈で、『恐怖の振り子』(コーマン) や『ラス
ト・タンゴ・イン・パリ』(ベルトルッチ)、あるいは『ラ・パ
ロマ』(シュミット) のようなヴァリアントを間欠的に生み出し
ていく。
だがここでは、この映画的主題に対し、最も敏感な反応を
示した映画作家としてヒッチコックの名前を忘れるわけには
いかないだろう。サスペンスの巨匠と評される彼についての
公的な通念を越えて、草創期以来の映画の熱心な愛好家でも
あったヒッチコックは、なによりも女優を美しく撮るという
グリフィス以来の伝統の忠実な実践者であり、また同時にこ
の〈死者による生者の支配〉という主題に終生とりつかれて
いた映画作家であったと言える。『めまい』や『ハリーの災難』
など死体や死者への記憶が生者の行動に直接的、間接的な影
響をもたらすヒッチコック作品は多いが、その中でも、とり
わけこの主題が明確に提示され、プログラムとして作品の物
語叙述を規定している例として、『レベッカ』と『サイコ』
(両
作品共に死体の置かれた閉じた部屋が主要なモティーフとなっている)、
そして『ロープ』(ドラマは死体の入った棺桶の蓋が閉じられた時に
始動し、それが再び開けられた時に閉じられる) が挙げられるだろ
う。
○
グリフィスの、バイオグラフ社における一九〇八年から一
九〇九年にかけての〈修行〉時代は、一般に技法上の模索と
その規格化が進められた時期と考えられているが、それは同
時に、先行作品からの様々な主題の採用とその規格化が進め
られた時代でもあった。それぞれの主題は、最初こそ一巻も
のの短編作の上映時間に見合うような、ごく単純な構造しか
持ち得なかったが、やがて作品の長尺化が進むにつれて、そ
の構造も複雑化し、数多くのヴァリアントを派生させること
になった。また、彼の膨大な初期作品群の中での反復的な使
用によって、それらの主題はその洗練とプログラム化を進め、
物語叙述への強制力を高めていった。やがて、こうして規格
化されたプログラムは、一つの作品の中で、単独ではなく複
数で同時に用いられるようになり、グリフィス作品における
〈主題と変奏〉の系譜を、さらに豊かに分岐させていくこと
になるだろう。
第二章 蓋のない箱
第一部 ベッド
不吉な箱
グリフィス的世界において、「蓋のある箱」がその中に身を
隠す者にとって保護的な箱だとするならば、その対となる「蓋
のない箱」はどのような性質を有するのか。それ以前にグリ
フィス作品において「蓋のない箱」にあたる物は一体何なの
か。それが前者と対関係をつくるとするなら、この箱にもま
た、人がその中に入るか、またはそれに準じるような行動が
伴なわなければなるまい。そして、その箱の中に入る人物は、
当然、過酷な運命に見舞われなければならない。そうした災
いをもたらす「蓋のない箱」とは一体何か。それはベッドで
ある。
中空状の形態を持たないベッドを、蓋のない「箱」として
扱うには、語の定義上いささか問題があるのは事実である。
だが、スクリーン内においてベッドもまた、そこに身を横た
える者の周囲を枠取り、空間的な分節化作用をもたらす。そ
して、このモティーフから派生するエピソードの結末は、「蓋
のある箱」の主題のそれとは対照的な様態を示す。以上の点
から、便宜的にベッドをもう一つの「箱」と見なしていくこ
とにするが、これはあくまでも分類上の仮称であり、そこに
積極的な意味を見出す意図は毛頭ないことをあらかじめ断っ
ておく。
ベッドは、その上に身を横たえる者を、他の登場人物 (と観
客) の視線から守ることは出来ない。周囲からの視線を遮る
こともなく、その人物をただその枠内に固定するばかりのこ
の「箱」と、枠によって縁取られ、ほとんど不動の姿勢を保
つだけの彼/彼女の姿は、この時、限りなく全身像の遺影に
近付くこととなるだろう。逃げも隠れもせずに自らの身体を
枠の中に固定する人物は、周囲の過酷な世界に対する無防備
と無抵抗の姿勢を、その両眼を閉じた静かな姿で雄弁に表し
ながら、その身をあらゆる「不寛容(イントレランス)」の視線
に晒し続ける。そして、観客はなす術もなく、その人物にふ
りかかる不幸を最後まで見届ける他には手だてがない。
グリフィス作品を多少ともまとめて見る機会を持った者に
は、こうしたベッドの不吉さを感得することは比較的た易い
だろう。そこでは、夜の安らかな眠りを約束してくれる安息
の場としてベッドが描かれたことは僅かしかなく、それは、
さながら死を準備するために人が身を横たえる場として在る
かのように、様々な死のドラマを演出し続ける。
こうしたベッドの持つ不吉な作用に対して敏感であったが
ために、たとえば『ホーム・スウィート・ホーム』第一話の
中の西部の娘 (メエ・マーシュ) は、東部での都市生活に飽き
たらず再び彼女の許へと戻る恋人(ロバート・ハーロン)との再
会を幸福な結末へと導くために、彼を部屋に迎え入れる瞬間
に、すばやくベッドから身を翻してその下に隠れたのではな
かったのだろうか。その時彼女は、この不吉な小道具を〈か
くれんぼ〉に使う遊具 (それは「蓋のある箱」の、蓋のないヴァリ
アントとも言える。なぜなら、彼女は恋人に見つけられることを意図し
ており、完全な保護機能を望んではいないから) へと転化させるこ
とで、悲劇的なプログラムを恋愛喜劇へと転調させることに
成功したのだと言える。
《現実生活の諸光景》
「蓋のある箱」の保護機能が、登場人物による映画固有の
二つの存在形式 (視覚的形式と物語的形式) 間の横断運動によっ
てもたらされる一方で、「蓋のない箱」としてのベッドは、〈眠
り〉という〈死〉のメタファーを介して、そこから派生する
エピソードの結末に作用する。いわばそれは〈眠る〉という
身振りの象徴性に根ざした「宿命予定」の提示であり、「物語
内容と物語言表を方向づけ」ることで作品の「プログラミン
グを決定する」(1)。
そして、「蓋」の有無をめぐる二つの「箱」の様態の対照性
に呼応するかのように、各々の派生させるプログラムもまた、
対照的なジャンルの中で―「蓋のある箱」は活劇の中で、ベッドは
悲劇の中で― 主に用いられる。確かに「蓋のある箱」の有する
保護機能を考えるならば、次々に降りかかる危険から、登場
人物が間一髪で切り抜けていくような活劇構造の中で、この
「箱」の主題が保護的なプログラムとして採用されるのは当
然であろうし、また、ベッドが登場人物に致命的な厄災をも
たらす以上、それがモティーフとして用いられた作品が、結
果的に悲劇的な様相を呈するのは自明の理ともとれる。 こうして演じられるベッド上の数々の死は、病気 (『母のよ
うに優しい心』の子供) や、老衰と貧困による衰弱 (『われらはわ
れらの老人と何をなすべきか?』の老婦)によるものが多く、中に
は『アッシリアの遠征』におけるホロフェルネスの斬首シー
ンのような極端な例外もあるが、それらの死への移行は比較
的静かに行われる。周囲の状況が過酷化してもなお、ベッド
に横たわった人物は為す術もなく死に向かって緩慢に衰弱の
歩を進める。彼等の無抵抗さと不動の姿勢がより一層、取り
巻く環境とのコントラストを強め、その悪の要因を浮かび上
がらせていく。彼等は自らの身をさながら悪の値を測定する
器具のように提供することで、不動のまま世界を見つめ続け、
その悪の状況の中に善の意志が再び芽生えた瞬間に眼を閉じ、
その生を終える。
そこでは同時に、悪を一身に体現するような人物が提示さ
れることはなく、視覚的誇張による悪の形式化や戯画化は極
力避けられており (皆無とは言えないが)、作品の興味が〈勧善
懲悪〉的な活劇の次元へと移行することを抑制している。ご
く日常的な題材の下に、特定の個人を攻撃することなく一般
論的な善悪観、倫理観が述べられたこれらの初期短編作品は、
主題的には、イギリス・ブライトン派の「現実生活の断片」
から、ヴァイタグラフ社の「現実生活の諸光景」シリーズへ
と受け継がれる社会的リアリズムの延長線上に位置する(2)。
そこで描かれる、ある典型的な状況や物語は、当初こそ、人
に不幸をもたらす悪の諸相を前面に浮かび上がらせることに
成功はしたものの、その後あまりにもしばしば反復的に採り
上げられたことで形式化と形骸化を免れず、やがては時代と
嗜好の変化とも相俟って、そのメロドラマ的な性格を非難さ
れることになるだろう(3)。 『散り行く花』
グリフィスによる、こうした社会的視線を含む一連の作品
の中で、その質的な極点を示す作品の一つが『散り行く花』
(一
九一九)であろう。イギリスの作家トーマス・バークの短編《中
国人と娘》を脚色し、同年の一月に共同で( ダグラス・フェア
バンクス、メアリー・ピックフォード、チャーリー・チャップリンと共
に )設立したユナイテッド・アーティスト社の第一回作品と
して製作されたこの作品の中で、彼は、ロンドンの貧民街ラ
イムハウス地区を舞台に、これまで自分が採り上げてきたあ
らゆる悪の主題( 貧困、飲酒、児童虐待、密告、異人種間の恋愛の
破局、そして不寛容)を描き出していく。
その中でグリフィスは「それぞれのシーンのムードや雰囲
気を盛りあげる」ために、撮影監督のビッツァーによる「印
象的な」「ソフト・フォーカスのカメラワーク」と共に「フィ
ルムの染色効果を多いに利用して」いるが、「特にこの作品で
は(…)それぞれのショットに合わせて数多くの色を使い、
物語の情緒的な効果を高めるため非現実的な方法で色調を使
いわけ」ている(4)。
父親による度重なる折檻のために、その顔に笑顔を浮かべ
る術さえ忘れてしまった少女ルーシーと、中国人青年チェン
との間に営まれるこの悲恋の物語は、リリアン・ギッシュ扮
するルーシーが末期に微笑みを浮かべる、あまりにも有名な
仕草と共に広く知れ渡っているだろう。]って、ここでは作品
内に表れるベッドの主題を中心に据えて、その構造と機能の
問題を考察してみたいと思う。
︱一つめの箱︱
ドナルド・クリスプ演じるこの粗暴な父親はボクシングを
生業としている。その職業がすでに暗示している彼の暴力的
な性格が、やがて少女の顔から豊かな表情を奪い去り、さら
には悲劇的な結末を準備することになるのだが、彼の家庭内
での暴力を動機付けるかのように、彼の出場している試合の
模様が幾度か挿入される。言うまでもなく、ボクシングのリ
ングはロープに枠取られた正方形(箱形)をしている。そして、
そこに視線を向けあった二人のボクサーが入り、空間の占有
権を賭けた争いが繰り広げられる。従って、この父親の職業
の設定は、この作品で遂行されるプログラムの中で彼に与え
られた機能をも同時に規定していると言えるだろう。つまり
彼には、矩形の空間の中で相対する者と空間の占有権を争う
性質が付与されている。そして、この占有権をめぐる二者択
一の争いが始まる (この作品内では二度、ボクシングの試合と最後
の中国人青年との争いとが示される) のは、いずれも相対する両者
の視線が交錯する瞬間である。 このような性質を規定された父親との生活において、少女
がかろうじて自らの身を守る方策は、自己の徹底的な〈人形
化〉であった。感情をその表情から完全に払拭することで自
らを無機的な存在と化キこと、それは遠く、あの樽に閉じ込め
られた少女に源を発する、グリフィス作品における少女達の
護身の知恵なのだと言える。父親にお茶の用意をする際の不
手際から、画面には彼女への最初の虐待の場面が示される。
その時に少女が犯した最大の不手際とは、恐怖という感情を
うっゥりとその顔に表したことで、表情の無機的な結晶状態を
崩してしまったことなのかもしれない。その後の父親からの
度重なる虐待によって、彼女の顔からは恐怖の表情さえも洗
い流される。その時そこに現出されるのは、異様な美しさを
湛えた完全なる無表情であり、それはまた、人ヤの人形化の完
成でもある。
父から受けた手ひどい折檻のために、朦朧とした意識のま
ま彼女は通りにさまよい出る。この時、少女が歩を進める通
りには人影が見えず、
それが作品の夢幻性を一層際だたせる。何かに導かれるよう
に、彼女は
青年の経営する雑貨店に足を踏み入れる。やがて、店の二階
の彼の部屋に匿われることになるこの少女 (=人形) は、ベッ
ドの「枠」の中にようやくその身を納める。この少女の無表
情は同時に、リチャード・バーセルメス扮する中国人青年の
表情の乏しさとも対を為している。
︱二つめの箱・人形の部屋︱
この部屋のベッドの上で青年の手厚い保護を受け、やがて
生気を取り戻した少女は、生まれて初めて接する他人の優し
さに対して、手の助けを借りずに微笑みを浮かべることが出
来るようになる。この時、その微笑に接した観客は、そこに
漂うある種の異様さに反応して少なからずたじろぐことにな
る。それはまさに、中国風に着飾った〈生きた〉西洋人形の
浮かべる微笑みなのだ。そしてそれに誠心誠意仕える青年姿
の中国人形。初々しいぎこちなさをもって形作られる、この
二人の人形の至福の空間をうっかりと眼にしてしまった観客
は、何か見てはいけないものを見てしまった直後のような不
安を抱く。そしてその空間のあまりの無防備さにさらなる不
安をかきたてられながらも、為す術もなくドラマの推移を見
守り続ける。
青年の看護によって体力を回復した少女は、翌朝ベッドか
ら起きたいと青年にねだるが、彼は大事をとって休んでい驍
謔、諭す。客の応対のために階下に降りていった青年の眼を盗
んで、ベッドから起き出して部屋の中を歩き回った少女は、
瀬戸物を落として壊してしまう。彼女は再び大人しくベッド
に戻るのだが、その音を聞きつけた客の一人の父親の知り合
いが、青年のいない隙に少女の姿を認めトしまう。やがて彼は、
父親の許へと密告に向かい、この親密な空間は父親の知ると
ころとなる。
ベッドという、グリフィス作品における悲劇的な小道具も、
そこに横たわる姿を人に認められない限りは安らかな眠りを
約束してくれる場なのだ (『ピッパが通る』のピッパは独りで暮ら
している)。だが、その姿をこの密告者に見とがめられた瞬間
から、事態は悲劇的な方向へと急転していく。この時、彼女
の傍らに青年がついていたならば、外部からの視線を防ぐこ
とが出来たかもしれない(彼はこの密告者の釣り銭の両替のため外
出する )
。それはまるで、夜の間だけ生きた姿で活動出来る人
形が、日が昇ってからその姿をうっかり人間に見とがめられ
たような、お伽噺の一場面を思わせる光景でもある。
この青年の視線は彼女に対して有害には働くことはない。
なぜなら彼女はこの青年には触れ得ぬ対象であるからだ (ここ
にグリフィスの人種差別意識の発露を見る者もいるかもしれない)。彼
の少女への愛情は、あまりにも純潔で神聖なものとして描か
れ、作品の中で彼は少女にその唇を寄せることさえ許されな
い。
︱三つめの箱︱
密告者は試合前の父親に報告をする。急に父親風を吹かせ、
いつにもまして闘志を燃やした彼は強敵を敗る。ここで彼の
性質、即ち区切られた空間内において暴力的にその占有権を
求める男という側面が改めて強調される。青年の外出中に二
階の部屋へと忍び込んだ父親は、少女に詰め寄り、彼女の弁
明には耳を傾けずに、部屋の調度をめちゃめちゃに破壊する。
そしていやがる彼女を家に連れ戻す。あたかも彼女に危害を
加えるためには、まず彼女をベッドから引き離し、家という
閉じた箱の中に閉じ込める必要があるとでも言わんばかりに。
少女の必死の許し 「にも耳を貸さず父親は彼女に迫る。彼
から逃れようと隣の物置のような小部屋に彼女はたてこもる。
だが父親は、強引にドアを開けるのではなく、ドア自体を破
壊しようとする (5)。つまりここでは、少女の、空間の多重
化による自衛の試みという、グリフィス作品の登場人物たる
に相応しい振る舞いに対する、父親の、話法上のシステムへ
の抵抗が示されている。彼は、その二重化された空間を通底
させようと、その「仕切線」の破壊を試みているわけである。
@彼のこの行動は、やがて少女になされるであろう折檻の過
酷さを暗示し、また、その話法上のシステムにたてついた振
る舞いによって、彼自身にもなんらかの災いがふりかかるで
あろうことを予感させる。空間の二重化による自己防衛を試
みたものの、ベッド上の姿を他人の眼に晒すニいう失態を演じ
てしまったがために、この少女がたてこもった部屋 (蓋のつい
た箱)では「土壇場の救出」は行われ得ず、本来は保護的なは
ずの蓋付きの箱さえ、その蓋がた易く壊されてしまう。やが
て、事の成り行きを察した青年が彼女の許へと駆け付けた時
には、少女はあの名高い仕草で「彼女に対してかくもきびし
くつめたかったこの世に」(6) 最後の微笑を送り、息を引き
取っていた。彼女がこれまで折檻を受け続けてきたベッドの
上で。
この後、駆け付けた青年と父親との間に視線の交錯がもた
れ、再度この父親は、空間の占有権をかけた決闘に挑むこと
になる。床に落ちた刃物を拾った彼は、油断を誘うような素
振りをゥせた刹那、青年に襲いかかろうするが、彼の手にした、
銃という極めて映画的な殺人の道具によって倒される。この
時、父親を直視する憎悪に満ちた青年の眼差しが、それと同
方向に向けられ構えられた銃口と共に同一ショット内に写さ
れることで、凶器化された視線としての銃の担う象徴的機能
を観客は即座に理解する。そして、この二人の対決のシーク
エンスは、後の西部劇における、一対一の対決の場面を彷彿
とさせるような、洗練された簡潔さをもって描かれている。
父親の取り巻き達が通報を受けた警官と共に、凶行の現場
へと駆けつけるよりもわずかに早く、青年は彼女の亡骸を運
び出す。そして自分の店の二階の、今は見る影もない〈人形
の部屋〉へと再び戻り、彼女をベッドに寝かせる。今や完全
な〈l 形〉と化した彼女は、中国風の衣装に〈着せ替え〉られ、
青年は線香を焚き経文を唱える (彼は元々「仏心を西欧人に伝え
んものと」ロンドンに渡った学僧だった)。
志も破れ、賭博場や阿片窟に身を投じ(中華街における阿片窟
の描写は、『異教徒の中国人と日曜学校の教師』(バイオグラフ社、19
04)(7)などにもすでに見てとれる)、無為の日々を送っていた
青年に、再び「仏心」を取り戻させたのが、他ならぬ少女の
死であったことは皮肉な巡り合わせではあるが、このグリフ
ィス版〈ロミオとジュリエット〉とも言うべき悲劇の円環は、
最後に、青年の完全なる〈人形化〉即ち自死をもって完璧に
閉じられる。そして、冒頭にも登場した、港を緩慢に進む帆
船のショットに梵鐘を撞く老僧のショットが続き、作品はア
ーチ状の弧を描いて終息する。
第二部 布
布の両犠牲
他の作中人物の視線から身を隠すことが文字どおり自らの
生死に関わる問題になりかねないグリフィス的世界において
は、布は両義的な存在といえよう。なぜなら、たとえ広げた
布の陰に身を隠したとしても、風の力で容易にたなびく布は
その保護機能を信じるには、あまりに頼りない存在であるか
らだ。また、仮に三方に石の壁を築いた上でその入り口に布
をかけてみたところで、子供の手でも易々と中を窺い知るこ
との可能な布の「蓋」は、「安全な箱」の条件を満たす「蓋」
としての機能は完全には果たすことはできない。
むしろ布の蓋のついた箱の保護機¥を過信するあまりに生じ
る油断の結果、その内部に身を隠す者に不幸な結末をもたら
す可能性がある。他の人物の視線に晒されていることに気付
くことなく、蓋のない箱の中で慢心することは、グリフィス
的世界の中では致命的な厄災を招く状況と言ってよいだろう。
緞帳のかかった部屋/『塞がれた部屋』
ある貴族の屋敷に年若い音楽家が、婦人の音楽教師として
雇われる。歳が近いこともあってか両者はすぐにうちとけ、
やがて道ならぬ関係になる。屋敷で催しの開かれた折に、あ
る離れた一室に人混みを避けてきた婦人は、そこに居合わせ
た音楽教師と身体を寄せあい睦みあう。
サんな様子を気取られることはあるまいという二人の油断を
招いたものが、部屋の入り口を塞ぐ緞帳だった。姿を消した
妻を探していた夫が、何気なく緞帳の陰から目にしたものは、
自分の妻の不貞の現場であった。悲しみ傷つけられた彼は、
静かにその場を離れ、部下に命じ、中の二 l に気付かれない
よう部屋の出入口を石材で塞いでしまう。
前章でもわずかにふれたこの『塞がれた部屋』という作品
は、『恐ろしき一夜』と共に、グリフィスのフィルモグラフィ
ーの中でも異様な印象を与える作品の一つである。
ここで観察される、緞帳を用いた空間の二重化フ技法の、初
期の最も洗練された例として、小松弘氏は一九〇五年のビッ
ツァー撮影による二本のバイオグラフ社製の作品 (『ダンスの間
に』『愛の裏切り』)を挙げられているが (8)、その二年前に、
やはりビッツァーの撮影で製作された『不貞の人妻』(9) に
おいても、画面の手前でなされる妻の不貞を奥に下がる緞帳
の陰から夫が見とがめるという、空間の二重化の技法に基づ
く画面設計が行われている。この作品は、ある夫婦の間にお
こる姦通とその露見という主題に、緞帳という舞台装置を使
用することの技法的コンヴェンションが当時すでに確立され
ていたことを示している。この一巻ものにふさわしい、切り
詰められた人物配置とシンプルなプロットの単純なまでの明
快さに反発するかのように、作品はやがて重苦しい結末を迎
える。
『恐ろしき一夜』における、殺害した伯父の死体の隠蔽工
作の件や、ホーク X の『ピラミッド』終盤における大規模な
ピラミッド閉塞のからくりを反射的に想起させもする、この
二人を生きたまま部屋に幽閉するという懲罰的結末からは、
やがては時代の嗜好とも齟齬を来すことになる、グリフィス
の大時代的な善悪観が読み取れるかもしれない。だがここで
は A 二つの「箱」の境界上に位置する、緞帳によって仕切ら
れた部屋の中間的な性格を指摘することで、布のもつ両義性
の問題を提示するのにとどめておきたい。
布でできた箱/『アッシリアの遠征』
こうした布の両犠牲を語る上で重要となるのが『アッシリ
アの遠征』である。一九一四年に制作されたこの意欲的長編
作は、サドゥールの指摘を待つまでもなく、パストローネの
『カビリア』を始めとするイタリアの長編歴史劇の流れを汲
む作品と言える。この旧約聖書外伝上の史劇に対するグリフ
ィスの創作態度から、彼の宗教観を探ることも、この作品の
歴史劇としての功績を評することもここでの目的ではない。
そこで専ら問題にされるのは、ユデトによるホロフェルネス
殺害の場面である。この場面から何を読み取ることができる
のか。
画面の中でホロ t ェルネスは、終始ベッド (=蓋のない箱)
の上に身を横たえた姿で登場する。この、グリフィス的世界
における危機的な状況に無自覚である彼は、やがて酒宴の美
酒に酔いしれ、この危険な舞台装置である箱の上で眠り込ん
でしまう。この時の、監視する従者と、殺害の機会を窺うユ
デトの間に取り交わされる、視線の交錯劇の洗練された簡潔
さとその息詰まるような効果は特筆に値するだろう。
天幕の陰からの監視の眼が離れた瞬間に、彼女はホロフェ
ルネス殺害を遂げる (観客にもそのショットは提示されない)。 そ
して、従者が再び視線を戻した時には彼女自身の姿も消え失
せ、画面には首のない彼の死体だけが残される。布によって
仕切られた「箱」と、緞帳の陰から注がれる視線とがもたら
す悲劇的なプログラムの間隙をつくことで、彼女はこの危機
的状況からの脱出に成功する。
斬首と「う殺人の手段の特異さも手伝い、とりわけ強い印象
を刻みつけるこの殺害場面の中で、それと同様に観客に深い
印象を与えるのが、アッシリア軍の陣屋での一連のシークエ
ンスにおける、終始画面を埋め尽くす天幕の布の圧倒的な存
在感である (後の『イントレランス』バビロニア篇にこの布の演出効
果は受け継がれるだろう)。それは、ベツレヘムが石で築かれた
街として対照的に描き分けられていることからも強調されて
いる。フレーム内に充満するこれらの布は、登場人物の輪郭
が切り取る領域以外を、文字通り〈埋め尽くし〉、そこに描か
れた文様や波打つ布地の襞によって、噎せかえるような官能
性を表出する。
この布の表出効果は同時に、息苦しい閉塞感をももたらし、
先に述べた視線の交錯劇の緊」感をさらに高めることにも貢献
している。やがてホロフェルネス殺害を果たしたユデトは、
天幕という、この殺害劇を演出した布でできた「箱」に火を
放つ。そして、煙というヴェールを画面全体に充満させるこ
とでカメラ・レンズからも身を隠した彼女は、ベツレヘムへ
の生還を無魔ノ果たす。
布に包まれた身体
単身、ホロフェルネスの陣を訪れるため、アッシリア軍に
占拠された土地を抜ける際に、ユデトは一枚の布を身にまと
う。その麻色の大きな布を、文字どおり全身に巻き付けた姿
で、彼女は敵地の横断を果たす。敵軍の兵士はその奇異な姿
を訝りながらも、厳しい尋問を行うこともなく彼女を見逃し
てしまう。この時、グリフィス作品における布の持つ両義性
のもう一つの側面が表される。つまり、布は身体を包む際に
初めてその強力な保護機能を発揮する。
身体の一部分のみならず、体表面に密着する形で布を全身
に巻き付けること、この異形の姿をとることは、布と身体と
の間に他者の視線が入り桙゙余地を無くし、空間を包み込む布
を保護的な「閉じた箱」へと変容させる手続きと言える (身体
の一部を隠す程度では『厚化粧したレディ』(一九一二)の、白いコー
トに身を包み顔だけをハンカチで隠した若い詐欺師のように命を落とし
かねない)。そしてそれは同時に、自らの存在を不在の記号へ
と変質させることで、幾多の危機を乗り越えてきた少女達の
身振りの系譜に連なる振る舞いとも見なせる。
このような保護的な布の系譜は、やがて『国民の創生』に
おいては、
結成時のクー・クラックス・クランの成員の身を守る白装束
へと引き継がれ、緞帳の下がる箱は、やはりこの作品の中で
は、リンカーンの暗殺が行われた劇場の、布で遮られたボッ
クス・シートとして再び現れる。その細部に至るまで史実に
基づき、忠実に再現されたとされるこの暗殺の場面において
(10)、その物語叙述上のプログラムが史実と奇しくも一致
したことは単なる偶然なのかもしれない。だが、映画におい
ては、このような「偶然」はしばしば引き起こされる。
第三章 数の論理
横たわる母親、老父と娘
グリフィスの初期作品において、老いた母親は大抵、病い
に臥せベッドに身を横たえた姿で登場する。老いた父親には
対照的に、物語の進行に直接関与する活躍の場が与えられる
ことが多いのに対し、そこでは母親の影は極端に薄いと言え
る。彼女達には大抵、一人娘がおり、劇の前半部までに、誰
かしら人の良さそうな、娘を託するに足りる人物が現れると
やがて静かに(そして唐突に)息をひきとる。物語の進行の
上で、あたかも娘を孤児にすることが彼女達に課せられた唯
一の役目ででもあるかのように、彼女達は部屋の片隅で静か
に衰弱していく。だが、物語を視覚的に表象する画面内での
運動には、直接的に参加する機会が奪われているとは言え、
彼女たちは不動の姿勢で物語の中心点に横たわり、やがてそ
の死によって、この中心点を空洞化させ、劇を始動させる。
『われらはわれらの老人となにをなすべきか』(一九一一)
に現れる老夫婦には子供がいるともいないとも説明されてい
ない。だが、老夫役のウィリアム・クリスティー・ミラーは、
初期グリフィス作品においては老父役として欠かせない役者
であり、ここで描かれる老夫婦には、初期グリフィス作品に
登場する「老父」と「老母」の性格が充分に投影されている。
その上、ここではあまり複雑な人物関係も設定されていない
ため、純粋に「老父」と「老母」の基本的な機能を観察する
ことに好都合であると言える。
彼等は長年連れ添った夫婦であることが察せられる。クリ
スティー・ミラーの画面上のプレゼンスが、この夫 w の間に
見られるいたわり合いの空気を暗に示している。木工である
夫の薄給にも文句一つ言うことなく老妻は家計をやりくりし
てきたようだ。だが、高齢を理由に彼は突然職場を解雇され
る。他の働き口を探すにも、やはり高齢を理由にうまく事が
運ばない。すぐに食事にも事欠くよ、になると、やがて虚弱ら
しい妻が寝こんでしまう。飢えのために見る間に衰弱してい
く妻を見るに見かねて、夫は食料を盗みに出かけるが、あえ
なく捕まり留置されてしまう。妻の安否を気遣う夫の声がや
っと判事にも届き、警官と共に食料を携えて妻の許へと急ぐ。
だが妻はすでに \ しており、夫は亡骸の傍に泣き崩れる。
ここでは、彼の作品における、母親の典型的な様相として
の「衰弱」が明確に示されている。老妻は、あたかも、まだ
立てる状態からその死に至るまでの、飢餓による衰弱のプロ
セスを順次示すかのように衰え、その登場部分の大半をベッ
ドに身を横たえて過ごす。彼女の緩慢な衰弱の歩みは、夫の
実らぬ努力の間に過ぎていく時間を、さながら視覚化(文字
通り〈体現〉)しているかのように進む。そして、老妻の衰弱
という、その緩慢な死への運動が対照的に強調するのは「老
父」の無力さでもある。
老夫婦と娘の三者からなる家族構成は、一九一二年前後の
作品から頻繁に現れてくる。これは、それ以前の最初期の彼
の作品 (例えば『ドリーの冒険』) に数多く見られる、若夫婦と
少女という家族構成の発展した形態とみて差し支えないだろ
う。両親の壮年期にあっては、彼等は比較的裕福な生活を営
んでいることが窺われる。その服装等から一九世紀末のアメ
リカ南部の風俗を窺わせもするそれらの作品には、ケンタッ
キーの没落地主の子孫であるグリフィス自身の幼少時の記憶
が投影されているとも考えられる。 ところが一九一二年前後を境にして様相が一変してくる。
彼ら壮年期の気力の充実した若夫婦は、その間の年齢的飛躍
を経て一気に年老いた夫婦として再び画面に姿を表す。時代
にとり残された無ヘな老父と病気がちなその妻、そして美しく
成長した娘は、貧しいながらも愛情に満ちた幸福な家庭生活
を営む。だが、この三者からなる幸福な〈聖家族〉の構造は、
老母の死による「欠員」の発生によって変化を迫られる。
欠落と補填/再び『ドリーの冒険』 、『田舎の医者』
三者からなる幸福な家庭に欠員が生じるという事態は、す
でに処女作の『ドリーの冒険』にも示されている。緩やかな
弧を描く河岸を、裕福そうな若夫婦が幼い娘の手を引いて現
れるという、アメリカにおける家庭的幸福の原型を示すよう
な冒頭の情景に、やがてドラマが導入されるのは、娘ドリー
の誘拐という「欠員」の発生によってである。
彼女を誘拐したジプシーの夫婦には見たところ子供がない。
彼等の誘拐の目的は、散歩をする若夫婦に押し売りを試みた
際、すげなく断られた腹いせに行ったものとして描かれてい
るが、あるいは、それは単純に金銭目 I の犯行だったのかも
しれない。グリフィス作品における物語叙述の「経済的な単
純性」と「物語が対照的な二要素の葛藤として語られる」傾
向を指摘した蓮見重彦氏は、この作品でドリーという少女が
生きる〈冒険〉を、彼女の両親と悪漢夫婦という「二組の男
女の間を少女が往復する運動」と見なしたが (1)、あるいは
そこには、この悪漢の夫婦による、三者からなる幸福な家庭
への移行の欲求の現れが含まれていたのかもしれない。
ドリーの誘拐によって欠員が生じ、家庭の安定を失った若
夫婦は、その欠落した空席を再び補填しようと文字どおり画
面狭しと駆け回る。その追跡の末に、樽に詰められ河に流さ
れたドリーが、たまたま川岸に居合わせた若い釣り人に釣り
上げられて、この空席は回復する。ここで A 保護機能を持つ
樽という「箱」は、同時にその中空の形状をもって、ドリー
の存在の「欠落」をも象徴していると言えるかもしれない。
無事に救出された後に樽の蓋は開けられ、ドリーが助け出さ
れる光景が画面に映し出される。その時、観客が眼にするの
は、〈樽〉という「不在」ニ「欠落」の記号の、〈ドリー〉とい
う「回復」と「補填」の記号への瞬間的な移行と言える。
こうしたグリフィス作品における「欠落」と「補填」のド
ラマが必ずしも幸福な結末を迎えるとは限らない。ある一人
の人物によって、二組の三者からなる集団の「欠落」の命運
が同時に握られているとき、そこには悲劇的状況が立ち現れ
る。『ドリーの冒険』の翌年に制作された『田舎の医者』(一九
〇九)においては、そうした「欠落」と「補填」をめぐる苛酷
な択一のドラマが示されている。
冒頭と結末で、緩やかなパンで示される田舎の風景の配置、
それに続く野原で遊ぶ医者夫婦と幼い娘のショットから、す
ぐさま『ドリーの冒険』を想起させるこの短編作品は、二組
の夫婦とそフ娘たちとの間で繰り広げられる、「3」という数
の原理に貫かれた、グリフィス的世界における幸福をめぐる
ドラマという点でも類似性を示している。
冒頭の数ショットにも現れている通り、牧歌的な田園風景
の中で、主人公である田舎医者の満ち足りた家庭生活がまず
描かれる。そこに、理想的な家庭を舞台にした軽快な喜劇の
幕開けを観客は感じる。そして、その幸福に最初に影をさす
出来事が、娘の病気という形で現れたところで、父親が医者
であるという設定上、とりたててドラマがおこることはない
だろうと高をくくる。少女がベッドに横たわった姿を晒し続
けることに一抹の不安を覚えながらも、事態は無難に終息す
るだろうという予想を保持し続ける。だが、他家の娘の発病
という思わぬ出来事が物語に変調を導き入れる。
自分の娘と他家の娘の病状の悪化が、ほとんど等しい速度
で進行するという、この上なくご都合主義的な(ツまりはこの
上なく映画的な)状況の中で、医者は自宅と患者宅の間を往
復し、「対照的な二要素」の狭間で「葛藤」する。この切迫し
た状況がクロス・カッティングで示されるのは言うまでもな
い。この時、『ドリーの冒険』に見られた「二組の男女の間を
少女が往復する運動」とい、図式は、「男女」が「母子」へと
変化し、その欠落が「少女」に関わる点では類似しているも
のの、そこで往復運動をする人物が「父」へと変わるという
ヴァリエイションを見せている。
そして彼は、両者の病状が益々悪化する中で、どちらか一
方の治療のみに専心しなければならないという二者択一を迫
られる。結局、職業倫理に基づいて、他家の娘の治療を優先
させた医者は、彼女への施療後、慌てて駆け付けた自宅のベ
ッド(=開いた箱)の上で冷たくなった愛娘と対面すること
になる。
ごく初期の段階から示されていた、グリフィス作品におけ
る家庭的 K 福と安定を象徴する「3」という数、そしてこの
「3」をめぐる欠落と補填のプログラムは、その後の展開の
中で数多くのヴァリアントを派生させていくことになる。安
定数「3」に向けてのそれらの〈回復〉の運動の多くは、一
人娘の恋愛とその相手の婿入りという形をとって現れるが
(『ピッグ・アリーの銃士達』『ヒズ・マザーズ・ソン』『時宜にかなっ
た妨害』『母のように優しい心』)、時には『ホーム・スウィート・
ホーム』第一話や『厚化粧したレディ』のような形で、二人
姉妹とその一方の悲恋という人物設定のもとに変奏されるこ
ともあった。またその展開の様は、直接的には血縁関係のな
い人物達の、三者からなる疑似家族的集団の結成の物語 (『サ
ン・ビーム』『歓迎されざる賓客』『宝島』)から、叶わぬ思いを寄
せていた女性の伴侶の急死の窮状を助けるために保護者の役
を買ってでるという、〈夫/父親〉の代行の物語(『内なる神』『マ
サカー』)に至るまで多様である。
酒場とカウンター
これらの作品に登場する家族と類似した構成を示す先行例
は、前にも述べたように、たとえばイギリスのロバート・ウ
ィリアム・ポールやジェイムズ・ウィリアムソンなどによる
家庭劇や「社会的リアリズム」に根ざした社会劇などにも観
察できるが、そこにはグリフィス作品に見られるような厳格
な特定の数への固執はない。こうしたモティーフのプログラ
ム化は、六年余りのバイオグラフ社在籍時における膨大な量
の短編製作を通して押し進められ、やがては物語叙述におけ
る「経済的な単純性」を映画表現にもたらし、映画産業の工
業化を迎えるための基本語法の整備に寄与したと言える。そ
の意味では、この時期のグリフィスの前例のない多作ぶりは、
やがて来る映画の大量生産体制を予告するものとも解釈でき
るだろう。だが、一体なぜ「3」なのだろうか?
この三者からなるグリフィス的〈聖家族〉の構成に、聖三
位一体の影や、かつての演劇青年としての経験が、なんらか
の形で作用していると考えることも不可能ではないだろう。
実際に、演劇の世界でも古代ギリシャ以来「3」は重要な意
味を持つ数字と言える。あるいはそれは、子供という夫婦間
の愛情を視覚的に表象した記号によって、作品に登場する家
庭の幸福な状態を象徴的に設定した結果によるものなのかも
しれない。こうした「映画外」的な読みとりの作業は、おそ
らく際限なく続けていくことが可能だろうが、ここではまず
そうした読解や解釈の試みを離れて、三者からなる登場人物
達が、フレーム内において視覚的にどのように表象されるの
かを観察してみたい。
三人の登場人物が同一フレーム内に収められることで、独
特の視覚的効果をもたらす画面構成の例は「グリフィス以前」
の作家の作品の中にもすでに見てとれる。たとえば、前述し
たウィリアムソンの『休暇で家にいるかわいい少年達』(一九
〇三) では、
「3」という人数が物語叙述においてプログラム
として機能することこそないものの、無声映画特有の画面構
成の典型的な例の一つが示されている。
作品の冒頭で、おそらくは寄宿学校に入っている二人の少
年が、休暇で家に戻る様が邸内から撮影されたショットで示
される。最初は閉じられた扉が開かれると、タイミング良く
馬車が到着し、少年達が勢いよく飛び出して、屋敷の中に駆
け込んでくる。この一連のシークエンスがすべてドア越しに
撮影されることで、空間の二重化の技法が非常に洗練された
形で提示されている。
三者からなる画面構成の例は、二人の少年のいたずらの場
面で観察されるのだが、彼等はこちらに横顔を見せて向かい
合った形で、テーブルをはさんで座っている。そこでは、双
子と言ってもさしつかえない相似性を示す彼等が、画面の手
前に座ることで、構図の左右対称性と共に、無声映画特有の
前面性(2)が強調される。そしてこの前面性は、顔にいたず
ら書きをされる赤ん坊がこちらを向いて真ん中に (画面奥に)
座ることによる正面性の提示と共にさらに強調され、同時に
空間の奥行きも僅かながら表象される。テーブルに向かう三
人の人物というモティーフは、すぐさまルイ・リュミエール
の幾つかの作品を想起させるが、彼等の三角形の人物配置の
もたらす構図的安定性は、小松弘氏がリュミエールの『カル
タ遊び』や『赤ん坊の食事』(いずれも一八九五年) 等において
指摘した「場面の静態性」に相当するだろう (3)。「静止し
た写真アルバムのような光景を撮影した」これらの二作品で
「注目されるの」が、「静態的な動きよりも、見られる出来事」
であるように (4)、ウィリアムソン作品では、二人の少年の
いたずらの結果は、正面を向いた赤ん坊の顔が、続くバスト・
ショットの画面に映されることによって観客に示されること
になる。
こうした人物配置、とりわけテーブルやバーのカウンター
をはさんだ場合の人物配置は、サイレント期にキャリアを開
始した映画作家の作品にはよく見られるものだが (それはR・
W・ポールの『自分のさくらんぼを買え』(一九〇四)の中のバーのカ
ウンターでのショットのような最初期の例から、フォードの『誉れの射
手』(一九一七)のカウンターの場面のようなサイレント中期の例に至
るまで数多く観察される。尚、トーキー以後のフォード作品にも類似し
た人物配置がしばしば見られる)、そこでは三者の内の真ん中の人
物がほとんど常に観客に正対した形で画面に収まっている。
だが、グリフィス作品においては、大抵の場合こうしたカウ
ンターは、画面奥へと斜めに延びる仕切線として設置される
ことが多い。
この斜めの仕切線は『金がすべてに非ず』(一九一〇) で用
いられた公園の長い斜めの壁を想起させもするが、前述した
ウィリアムソンの『休暇で家にいるかわいい少年達』におけ
る三角形の人物配置に、どちらかと言えば審美的な画面構成
の意図を感じるのに対して、この斜めに延びる壁は、空間を
二重化する作用に加えて、二組の男女の階級差の表象をも同
時に行う (この壁沿いの道を二組の男女が同時に歩くのだが、壁を挟
んだ二つの道の高さが異なるため、彼等の歩く〈高さ〉がそれぞれの階
級に応じて異なることになる)(5)。こうした主題や装置によっ
てもたらされる視覚的効果は、グリフィス作品においては常
に物語の叙述体系の中に収斂し、そこで強調される「対照的
な二要素の葛藤」という図式の下で過不足なく消費されてい
く。
こうした酒場のセットの空間配置には、どこか演劇におけ
る舞台設計の影響をうかがわせるものがある。たとえば『あ
る飲んだくれの矯正』は一九〇九年二月の二五、二七日と三
月一日の三日間に撮影されたが、この中では酒場のシーンは
二度示される。そのうちの最初のシーンは、主人公がテーブ
ル席で知り合いと酒を酌み交わすもので、ここでは手前に配
されたテーブル席や椅子が画面の前面を覆い、後方にぼんや
りと見えるカウンターの存在の影を薄くしている。ただしこ
の最初の酒場の場面は、主人公の劇中における性質を規定す
るための説明的、挿話的なシーンと言え、ショット自体もそ
れほど長いものではない。
一方、もう一つの酒場の場面は、この主人公が作品中で鑑
賞する、飲酒のもたらキ害悪を題材にした演劇作品の中で現れ
る(グリフィス作品における、劇中劇という「枠取り」による物語叙述
上の分節化作用を、前述した武田氏が指摘している(6))。家庭を顧
みることなく飲酒にふけり、家族を悲嘆に暮れさせていた主
人公に、自らの非を悟らせるこの劇中劇の重要性は、作品中
でほぼその全編が示されることが物語ってもいるが、この舞
台上に設えられた酒場のカウンターは、3/4正面の向きで
画面の右奥に配されている。そこではカウンター前のテーブ
ル席のある空間が広くとられ、劇の主人公が悲劇の顛末を演
じる場を提供する。そして、この演劇的な空間配置は、およ
そ七週間後の四月一九、二八日の二日間で撮影された『飲酒
のなせるもの』の酒場の場面に、ほぼそのままの形で引き継
がれることになる。
「3」をめぐるドラマ
このように、主題の共通性と共に空間設計上の連続性の認
められるこの二本の作品は、物語叙述が、いずれも安定数「3」
をめぐる欠落と補填の数のプログラムに従っている点でも類
縁性を示している。劇中劇の採用によって、物語構造が入れ
子状に複雑化した『ある飲んだくれの矯正』も、「3」という
数のプログラムに関する限りは、ごく単純な構図の中に収ま
っている。なぜなら、ここでの関心は、むしろこの劇中劇に
集中され (この劇中劇の内容は、後年の『苦闘』のドラマ展開に影を
落とすことになるだろう)、
〈本編〉の展開は、観劇をきっかけに
改心した夫の帰還によって、夫婦と娘の三者からなる家庭が
回復するという、後日談のような形で収束されるに過ぎない
からだ。これに比べて、その一月半程後に製作された『飲酒
のなせるもの』では、劇中劇を用いるような大がかりな「枠
取り」は行われないものの、この「3」をめぐるドラマはよ
り繊細に展開され、そこで表出される感情にも一層の深化が
認められる。そこでは主人公の家族構成にも若干の変化が起
こる。娘がもう一人増えるのだ。
クロース・アップ等の g 用によって、各々の性格や性質の
相違が描き分けられるような技法的段階には、この当時のグ
リフィスはまだ到達しておらず、またこの二人の少女が非常
に幼いこともあって、彼女達は遠目にはほとんど双子のよう
に見える。だがそこでは、後年の『厚化粧したレディ』や『嵐
の孤児』などで展開される、二人の娘の性質や運命の対照性
(快活さと内気、幸福と悲劇等)の主題の萌芽がすでに示さ
れている。
同時に、そこでは「二組の男女の間を少女が往復する運動」
という図式がさらに展開され、酒場の飲み仲間に連れ出され
た父親を家庭に取り戻すために、娘の一人が、家族と酒場の
間を自発的に往復する。そして彼女の一度目の懇願は敢えな
く無視されて、彼女は家に戻るのだが、再び酒場の父の元に
赴くことにより彼女の往復運動は強調される。やがて
娘の再度の懇願に気分を害した父親は、酒場で暴れ出すが、
止めに入った店員ともみ合いになり、店員の撃った拳銃が娘
に当たる。自らの非を悟った父親は、以後酒を断ち、家庭に
平和が訪れる。娘の往復運動と、その存在の欠落によって、
三者からなる家庭の平安が獲得さ黷驕 B だが一体なぜ「3」
なのだろうか?
グリフィス作品においては、この安定数「3」を構成する
うちの二者は、例外なく夫婦か、あるいはやがて夫婦になる
であろう恋人同士のみである。彼等は、死別という特殊な事
態以外の形で別れることはまずないし、ましてそこでは離婚
という事態は起こりえない。そこに、グリフィスのいささか
古風な倫理観を見てとることができるかもしれないが、この
不変の「2」者からなる夫婦という男女の組み合わせを替え
るような例外的な試みがなされる場合、その結末は必ず『塞
がれた部屋』のような陰鬱なものとなる。あるいはまた『ア
ッシリアの遠征』のホロフェルネスのように、寡婦に対して
邪な気持ちを抱く人間に対しても、同様の懲罰的処置が下さ
れる。
こうしてグリフィス的家族集団は、夫婦か恋人という二人
の男女の一組を核として、夫婦には子供が加わり、また彼等
が若年の場合は、そこに慈悲深い保護者としての老父が加わ
ることで、三者からなる基本形態を構成する。若い恋人が夫
婦として結ばれ、彼等に子供が生まれると、役目を終えた老
父はやがてこの世を去り、この夫婦が歳を重ねて娘が恋人と
めぐりあえたならば老婦が息をひきとる。こうした基本的な
図式の下に、彼の作品の中では世代の交代が進められ、そこ
で描かれる登場人物の運動の軌跡が作品にドラマを引き入れ
ていく。
第四章 『苦闘』
『苦闘』の製作
一九三一年に製作された『苦闘』は、ユナイテッド・アー
ティスツ社の下で配給が行われた。『東への道』(一九二〇) 以
後、興行的な失敗を繰り返し、次回作の資金調達と負債への
充当のために過去の成功作の版権をことごとく売却してきた
グリフィスが、この作品の製作費用をともかくも調達できた
のは、一九二〇年に彼の支払った税金の超過分の払い戻しを
一九二九年に受け取った会計担当者が、グリフィスには内緒
で株式投資をしていたという偶然の賜でしかなかった (1)。
映画製作システムの近代化を押し進め、やがて第二の黄金期
を迎える準備を着々と進めていたハリウッドにとっては、時
代遅れの道徳観を飽くことなく描き続け、製作のあらゆる部
分を統括しようと望むグリフィスは、もはや目障りな前時代
の遺物でしかなかっただろう。五〇代の半ばを越えて、彼は
「自分が苦しい年月の中で完成してきたテクニックを出来合
いのものとして気軽に受け継いでいるずっと若い人々と競争
するような破目に立たされ」ることになる(2)。
オール・トーキー作品としては前年の『世界の英雄』に続
く二作目にあたる『苦闘』は、後半部分の製作に先だって行
われた前半部のプレミア上映の評判も芳しくなく、その完成
も危ぶまれた。そして、幾度かの紆余曲折の末にようやく完
成にはこぎつけたものの、相変わらず作 i の評判は芳しくな
く、上映は早々に打ち切られた。一九三三年にその最後の持
ち株を手放した彼を、ユナイテッド・アーティスト社はただ
ちに解雇する。以後、ホテルの一室で脳溢血による孤独な死
を迎えるまでの十五年間、彼の企画が実現されることはもは
やなく、サドゥールの表サを借りれば「時代と、彼が他の誰よ
りもよく合衆国に定着させ、発展させることに寄与してきた
芸術に追い越されて」いくのを、彼は酒に溺れながらただ黙
って眺めているしかなかった (3)。そのような晩年をやがて
送ることになるグリフィスが、まさに酒の害悪を主題にした
『苦闘』によって、その輝かしいキャリアの幕を閉じること
にはなにやら因縁めいたものが感じられる。
テーブルを囲む人々
『苦闘』の冒頭ではまず一九一一年のアメリカにおける、
ヴィクトリア様式風に着飾った人々の行楽の様が示される。
続く野外ビアガーデンでの人々のダンス・シーンに交えて、
テーブルを囲む複数の人物が飲酒にまつわる会話を交わす。
アイリーン・バウザーが指摘するように、トーキー初期の作
品に数多く見られた演劇口調の誇張された台詞は、ここでは
周到に排除され、ごく日常的な会話が一連のシークエンスの
写実性を支えている (4)。さらにそこでは、トーキーの導入
以後徐々に顕著になる、ダイアローグ・シーンにおける切り
返しショットの手法が用いられず、それらの会話は、いずれ
もワン・シーン・ワン・ショットで示され、会話の自然な繋
がりが提示される。
やがて、ワルツを踊る男女の脚部に、フラッパー全盛時代
の踊る男女の脚部がオーヴァー・ラップにより重ねられ、カ
メラは一九二三年の禁酒法時代のダンス・ホールへと移行す
る。当時の酒の密造の光景が挟まれ、続いてカメラは再びテ
ーブルを囲む人々をとらえる。そして、そこで交わされる会
話の幾つかが、この一〇年余りの間の世相の変化を端的に示
す。これらのダイアローグ・シーンでもやはり切り返しショ
ットは用いられず、もっぱらワン・シーン・ワン・ショット
による叙述が重ねられていく。
ワン・シーン・ワン・ショットの使用といえば、溝口や後
年のアンゲロプロス、相米等の名が反射的に想起されるもの
だが、『苦闘』ノおけるそれらのショットはそれほど長いもの
ではなく、彼等の用いる長回しショットが示すような時間の
持続への関心は表されてはいない。むしろここでの主眼は、
あくまでも会話の自然な流れにあったようで、そこにことさ
ら現代的な意味合いを読みとることは困難であろう。また A
背景がある程度把握できるように中景ショットや準中景ショ
ット(5)で構成され、固定されたカメラで撮影されたこれら
の挿話には、溝口作品に代表的に見られるような画面外空間
への関心も示されてはいない。
これらの固定ショットは、グリフィスが音声の導入という
映画製作の新機軸に対して、同時代の他の映画作家と比較し
ても、むしろ標準以繧フ深さで理解を示していたことを物語っ
ている。彼の音声に対するそうした柔軟な態度は、『世界の英
雄』の前年に製作され、ディスクを用いて部分的に音声が導
入された『心の歌』(一九二九) においては、カメラに近付い
たり遠ざかったりするループ・ペレズに合わせて、彼女の歌
声の音量を変化させる試みがなされたという挿話によってす
でに示されている(6)。
だがその一方で、これらのショットによって構成される作
品導入部の一連のシークエンスには、ある奇妙な〈古さ〉が
つきまとってもいる。
この印象は、これらのショットのどこか活人画を思わせる作
りがもたらす一種の〈停滞感〉に起因すると思われるが、こ
のような画面構成は、後期グリフィス作品の中ではとりわけ
『アメリカ』(一九二四) のような歴史劇において顕著に見ら
れる特徴と言えよう。そしてこの〈停滞感〉は、前述した小
松氏が指摘された、幾つかのリュミエール作品に観察される
画面の「静態性」にも相通じている。
『苦闘』が製作された一九三一年という時点からは過去に
遡る、一九一一年当時の風物を描いた導入部のシークエンス
を撮影にするにあたって、グリフィスの製作態度ェことさら“歴
史的”になったと想像することも不可能ではない。だがこう
した〈停滞感〉が、たとえば「シークエンスは圓滑でなく」
「餘
りにも斷片的」で「昔のやうな動く影像の抛物線」が欠如し
ている、といった後期作品に向けられる批判 (7)を許す要因
になったとも考えられる。そして、音声の伴うショットの長
尺化は「映像の連続性がもはや字幕によって中断されない」
利点を持ちながらも、「眼ですでにとっくに理解しているの
に」「台詞が話し終えられるまで、ずっと一つの視点に止まっ
ていなければならない」ような弊害を映画表現にもたらし、
ショット数の相対的な減少に起因する「モンタージュのリズ
ム」の「鈍重」化をも同時に招くことで、サウンド映画に向
けられる批判(8)を例証する格好の材料となる。このような
視点からは〈後期グリフィスの創作力の衰え〉という“定説”
が必然的に導き出されることになるだろう。
キャスティングの問題
導入部に続く一九二三年の酒場の場面では、チャールスト
ンに興じる人々の激しい動きが映し出される。これによって
静的な冒頭のシークエンスとの対照性が示され、画面に躍動
感が生み出される。一一年前に製作された『渇仰の舞姫』を
当然想起させもするこのダンス・シーンを経て、カメラは酒
場で陽気に騒ぐ主人公ジミー・ウィルソンをとらえる。彼が
戯れに指揮棒を振ってバンドに合図を送ったり、周りの人間
とはしゃいだりするショットが続いて挿入され、画面を満た
す音の賑わいは最高潮を迎える。そこには、トーキー移行期
の作品特有の音声の強調という意図が明らかに働いていると
見て間違いないだろう。
続く場面では、やがて彼の妻になるフローリーがこの酒場
に来ていることが示される。冒頭からここに至るまでのすべ
てのシークエンスは、遠景から中景までのショットで構成さ
れていたが、それとは対照的に、彼女の登場の場面には、い
わゆるアメリカン・ショット (「腰の高さで枠付けるショット」
(9))と接写ショットが用いられ、視覚的な強調が施されて
いる。こうした接写の使用は、彼女の背後の画面を省略する
ことで、それまでのめまぐるしかった動的な画面に対して静
的なコントラストを提示するが、同時に、画面が二人の親密
な語らいの場面へと移行することによって、それまでの喧噪
とは対照的な、音響上の「静的」なコントラストをも併せて
示す。
リリアン・ギッシュを始めとする数々の神話的女優の表情
のゆらぎを画面いっぱいに映しだすことで、これまで世界中
の観客を魅了してきたクロース・アップの技法は、グリフィ
スという固有名詞と分かちがたく結びついている (誰がこの技
法を“発明”したかという議論はひとまずおく)。そして、この場面
においても、グリフィスは意識的にカメラを彼女に接近させ
〈クロース・アップ〉に準じるショットを用いることで、彼
女の存在を際立たせようと試みている。従って、ここでは彼
独特の話法の典型的な一例が端的に示されていると言えるが、
その使用はまた、同時に、この作品の最大の弱点である、キ
ャスティングの弱さを強調する結果を招いている。
主役のジミー・ウィルソンを演じるハル・スケリーは元ヴ
ォードヴィリアンで、やはり飲酒によって破滅するコメディ
アンを『ブルレスク』という作品の中で好演したブロードウ
ェイの舞台俳優である。そして、その妻フローリーは、過去
にMGM社と契約しながらまだ映画出演を果たしてはいなか
った、やはりブロードウェイ出身の新進女優ツィータ・ヨー
ハンによって演じられる (10)。たしかに本作の中での彼等
は標準的な演技を見せているが、ここでの、とりわけツィー
タ・ヨーハンの存在感の弱さは、観客にある種の物足りなさ
を感じさせる。映画の世界ではまだ〈新人女優〉である彼女
を、これまでグリフィス作品を彩ってきた伝説的な女優達と
比較するのは、いささか気の毒かもしれない。なぜなら、劇
中での彼女の「機能」の曖昧さが、彼女のプレゼンスの弱さ
をさらに助長している側面があると思われるからだ。
彼女の外見上の特徴は、これまで彼の幾つかの作品に登場
してきた、娘を失う黒髪の母親の系譜を思い起こさせるが、
一方で、その画面上での登場の仕方には、どこか脇役として
の機能を越えた役割を゙女が担わされているような印象も受け
る。仮に同様の主題と人物設定を持つ作品を製作する場合で
も、たとえば『母のように優しい心』のように、若い母親を
リリアン・ギッシュが演じるような場合には、グリフィスは
作品をこの可憐なヒロインを中心とした悲劇的メロドラマに
変容ウせる (あるいは彼女の存在が作品をそのような形に変容させる
と言った方が適切かもしれない)。だが、そんな事態が起こるわけ
でもなく、ドラマはごくありふれた家庭劇の輪郭の中に収ま
っていく。そして観客は、接写による彼女の登場の場面は、
観衆全体に向けられたものではなく、あくまでも主人公を魅
了するためだけに必要なものだったのだと曖昧に納得する。
ヨーハ唐フ、どちらかと言えば保守的で堅実な家庭婦人を思
わせるプレゼンスは、ドラマが劇的に変容する余地を与えな
いのかもしれない。従って、ここで用いられる接写ショット
は、「自分の女優の美しさに心を動かされ、その細部をよりよ
く定着させようと (11)」試みるような〈情動的〉なクロー
ス・アップではなく、あくまでも慣習的に用いられた技法的
コンヴェンションにすぎない。
形式の混淆、少女の最後の冒険
こうしたキャスティングの問題を生み出した主な要因は、
その乏しい製作費にあったと言える。そして資金難の問題は、
これのみにとどまらず、さらにはこの作品の物語叙述の形式
にまで影響を及ぼしていく。妻との結婚にあたり、一度は禁
酒の誓いをたてた主人公が、再び飲酒に溺れて幸福な家庭が
崩壊していく。一家の働き手を失った母子は、住み慣れたア
パートを離れて低所得者層の居住区に居を移すことになる。
彼等の移動に伴い、カメラもまた戸外へと移動する。そして、
下町特有の雑然とした風景が、屋外撮影によって捉えられて
いく。資金の不足は、彼に撮影セットの建設を許さなかった。
だがこうした障害は、作品に屋外撮影特有の画面の生々し
さをもたらすことにもなった。バイオグラフ時代の〈社会的
リアリズム〉に基づく諸作品を彷彿とさせるこれらの情景を、
「スタジオで撮影される精巧な人工物になれた当時の批評
家」は「時代遅れ」と非 オたが (12)、冒頭の屋外の情景以
来、ドラマの進行が主に屋内で推移し、また飲酒の害悪とい
う重苦しい主題が、動きに乏しいショットによって叙述され
る様にかなりの息苦しさを感じていた観客は、屋外に出たカ
メラの捉える生き生きとした街の情景に限りない開放感を覚
える。そして、元気よく街を走り回る娘メアリーの姿が画面
に躍動感を与え、それまで停滞していたショットのリズムに
も生気が漲り始める。この作品の実質的な主人公はこの少女
なのかもしれない。
作品の導入部のシークエンスに現れる光景は、叙述形式と
しては七年前の『アメリカ』を想起させる。だが、そこで描
かれる一九一一年の風景や風俗は、観客には『ドリーの冒険』
以来なじみ深いものとなっている。冒頭の、野外ビアガーデ
ンの情景に続く二番目のショットで、人々が木立をぬってゆ
っくりとした歩調で散策する森の道は、画面の右手前から滑
らかに蛇行して左奥へとのびていく。その中には、腰にリボ
ンを愛らしく結んだ少女が、父親と手をつないで歩く後ろ姿
が見てとれる。その二十三年前、両親に手を引かれて河辺の
道を歩く少女の姿に、カメラのレンズを向けることで、映画
監督としてのキャリアを始動させたグリフィスは、図らずも
自分の最後の監督作品になった『苦闘』の導入部のショット
にこのような情景を選んだ。
この作品を単なる「『散り行く花』の焼き直し」と見なし、
違いと言えば「今回は娘が助かる」だけだとするリチャード・
シッケルの指摘はある意味では正しい (13)。実際に、まだ
幸福だった時期の彼等の家庭生活を描いたシークエンスの中
で、夫婦が娘を寝かしつける際に映し出される彼女のベッド
の周りは、様々な人形に囲まれており、この情景はそのまま
『散り行く花』でドロシーが横たわったベッドを想起させる。
そして、娘がベッドに横たわった姿を見届けた父親が、飲酒
による錯乱のためとはいえ、やがては娘の殺害未遂にまで至
るという、物語の基本的な結構にも共通性が見てとれる。
だが、当然のことながら、両者には幾つもの相違点が認め
られる。そのうちの第一の点として、作品の叙述形式の相違
が挙げられるだろう。サイレント映画の最盛期に製作された
『散り行く花』が、統一された叙述形式の中で、ほぼ完璧と
いって良い古典的造形性を示しているのに対して、トーキー
への移行期に製作された『苦闘』は、製作費の不足という要
因も手伝い、様々なレヴェルでの形式上の分裂を示している。
作品としては、表面上はうまくまとめられてはいるものの、
そこには、これまで彼が過去にとりあげた数々の主題や話法
が散りばめられ、彼のキャリアの総合化がささやかな形で試
みられているかのような様相を呈している。
次に、第二の相違点として『苦闘』における複数のプログ
ラムの使用が挙げられる。『散り行く花』の物語が、基本的に
はベッドをモティーフとする一つのプログラムに沿って展開
される一方で、『苦闘』では、飲酒の害悪という基本プログラ
ムに基づく物語が、「ベッド」と「3」という複数のプログラ
ムによって展開されていく。そしてこの物語は、これらの複
数のプログラムのもたらすより複雑な危機的状況を克服し、
失われた家庭の幸福を再び回復するために、少女によって生
きられる最後の冒険となった。
複数のプログラム
結婚前に未来の妻に固く禁酒を誓った鉄鋼労働者のジミー
は、おそらく当時のアメリカにはよくいたであろう、気のい
い勤勉な肉体労働者として描かれる (働く彼を映した鉄鋼工場の
ショットのドキュメンタリー性は特筆してもよいだろう)。彼等は結
婚し、一人娘も生まれて、幸福で堅実な家庭生活を送ってい
た。そして、ゆくゆくは現場の責任者にもなろうという頃、
彼は同僚から酒の誘いを受ける。一杯くらいならという軽い
気持ちで口にした酒が、やがて平穏な暮らしに失職や使い込
み、さらには家庭離散などをもたらす。
ここで示される、夫婦と一人娘からなる家族構成や、夫の
改心によって家庭の平穏が取り戻されるという物語の基本構
造は、一九〇九年に製作された『ある飲んだくれの矯正』と
の直接的な類縁性を持っている。そして、この作品の中で、
若い父親が鑑賞する劇中劇の主人公の、A ルコール中毒によ
る錯乱死の様子は、『散り行く花』の暴力的な父親の所作と共
に、『苦闘』終盤での主人公ジミーの振る舞いに投影されてい
ると言える。
一方、同じ一九〇九年に製作された、もう一つの禁酒映画
『飲酒のなせるもの』からは、父親を取り戻すために自発的
に行動を起こす少女のイメージが引き継がれている。父を訪
ねて家庭と酒場との間を往復するこの少女と、『苦闘』のメア
リーとでは、それぞれの迎える末路が対照的ではあるものの
(前者は酒場の店員によって射殺され、後者は最後に無事が確認され
る)、両者には基本的に同じ性格付けがなされている。
そして、物語は家族の安定数「3」をめぐる、グリフィス
特有の欠落と補填のプログラムとして展開される。このプロ
グラムは、少女による父親の回復の試みという主題を軸にし
て進行されるが、同居しているジミーの妹ナンの結婚ノまつわ
る、もう一つの「3」という数をめぐるプログラムが展開す
る。ここで物語の推移に合わせて画面上に示される成員の数
を表していくならば、ジミーとフローリーが出会い (「2」)、
やがて子供が生まれ(「3」) 、同居しているナンが登場する
(「4」)。そして、ジミーの出奔と家庭や職場への復帰(「3」)
の様子と、一度は別れた婚約者ジョニーを伴ったナンの姿
(「2」)が最後に示され、安定状態を保っていた一つの幸福な
家庭が、苦難の末に二つの家庭へと分離した様が描かれる。
こうして、より複雑化した数のプログラムを軸にした人物
配置がなされ、『苦闘』の物語が展開していく。そして、ドラ
マのクライマックスを形成する、父親ジミーに謔髢コメアリー
の殺害未遂の凶行が、メアリーの就寝の場面が暗示した通り
にベッドのプログラムによって導き出される。このようなプ
ログラムの複数化は、後期のグリフィス作品の中では次第に
顕著になっていく。たとえば、興行的には惨憺たる結果に終
わった一九二七年の『サタンの嘆き』の中でも、やはり「ベ
ッド」と「3」のプログラムが併用されている。そして、そ
の傾向は『苦闘』においても同様に観察され、より巧妙に構
成された形で観客の前に提示される。
ベッドに横たわる少女
『苦闘』の中では「ベッド」は二度示される。その一つは
結婚後、娘を生んだ後で妻の横たわっていたベッドである。
これは、産後のフローリーにジミーが寄り添い、生まれたば
かりの娘に眼をやりながら夫婦が語らうショットで提示され
る。この、持続時間の短いワン・シーン・ワン・ショットで
示された独立性が強いショットは、結婚後の時間経過を示す
と共に、物語展開上の分節点をつくるために挿入された説明
的なものと考えて間違いないだろう。この時、ベッドに横た
わる妻フローリーは、瞑目することなく夫ジミーの眼を見つ
めている。
一方、もう一つのベッドは、前 q したように、成長した娘
メアリーが両親に伴われて自分の寝室へといざなわれシーン
に現れる。再び酒を飲み始めたジミーが、ほろ酔いで帰宅す
ると、母親と一緒に娘はまだ起きてはしゃいでいた。両親に
催されてやっと寝室に入ったメアリーは、人形に囲まれたベ
ッドの上で、就寝 O のキスと抱擁をジミーに何度もねだる。
そして部屋の電気が消される。扉を閉めて両親が部屋を後に
する様が画面奥に示されるのと同時に、メアリーが観客の方
に向いた形で眼をつぶる瞬間がとらえられる。この時、少女
の身をおびやかすことになるベッドのプログラムが始動する。
就寝前に示される少女の執拗なまでのキスと抱擁の要求は、
彼女の愛らしい性格を観客に強く印象付ける。そして、この
一連のシークエンスによって家庭の幸福が象徴的に提示され
ることで、やがて飲酒がもたらす陰惨な結末が対照的に強調
されるだろう。また同時に、その姿は『散り行く花』のドロ
シーをも当然想起させ、彼女と中国人青年チェンとの間では
交わせなかった、ベッドの上での口づけと抱擁が、ここでは
無邪気に果たされることになる。
作品の中でメアリーは、常に快活で活発な少女として描か
れている。そして、母親と共に住んでいたアパートを引き払
い、彼女が下町での暮らしを始めてからは、その活発さがよ
り一層強調される。濃い色調のベレー帽をかぶった印象的な
姿で、子供達と一緒に街角で遊ぶ少女の姿からは、『ホーム・
スウィート・ホーム』第一話におけるメエ・マーシュの少年
のようなお転婆ぶりが思い起こされる。彼女はまた、ベッド
に身をあずけた姿を一度は観客の眼にさらしながら、その素
早い身のこなしによって、間一髪でこのグリフィス作品にお
ける危機的状況から逃れることのできた数少ない登場人物の
一人でもあった。
このようにして強調されるメアリーの活発さは、作品の後
半において
ドラマに初めてダイナミズムを生み出す。彼女は友達から、
物乞いをするジミーの噂を聞きつけ、怒って父親を探すため
に街中を駆け回る。そして彼女の軽やかな足取りが、画面に
躍動的なリズムを引き入れる。やっと探し当てた父親は、娘
の姿を認められない程に中毒症が進み、地下の酒場で買った
酒を抱いて、あばら屋に入っていく。母に知らせに家に戻っ
たメアリーは、不在の母に置き手紙を残して再び父のもとに
駆けつける。
「ベッド」のプログラムへの解答
父の後を追って、あばら屋の暗い一室へと足を踏み入れた
メアリーは、変わり果てた父親と再会する。半狂乱状態のジ
ミーは幻覚を見ているようだった。その影像を振り払うかの
ように、彼は娘を追い回す。
そこへ、メアリーの書き置きを見た母親が駆けつける。娘
を追い回す W ミーの姿と走るフローリーの姿が、グリフィス
特有のパラレル・モンタージュで交互に示される。父の手か
ら機敏に逃げ回るメアリーは、ここでも『散り行く花』のド
ロシーのとった所作をなぞるかのように、奥に続く部屋に入
って扉を閉める試みも見せる。だが、やがてジミーに捕ワえら
れた彼女は (凶行の瞬間は画面には示されない)、続くショットで
は床に身を横たえた姿で画面に示される。そして、助けに呼
んだ男性と共に部屋に押し入ったフローリーの前で、ジミー
もまた床に倒れこむ。
床に倒れた二人の状態も明らかにされぬまま、ある建物の
一室の椅子に、うなだれた姿勢で座るジョニーの姿が続いて
映オ出される。その横に設けられた、職業斡旋所のものと思わ
れる窓口の前には人々が長い列を作っており、順番に紙切れ
を手渡される。そして、その列の中には、ジミーの妹のナン
の姿があった。紙を渡されて、その場を離れようとする彼女
をジョニーがひきとめる。二人は和解し、元フ仲に戻る。こう
して、ジミーの一家から、同居していた妹ナンが離れる。
病院のベッドの上でうわごとを繰り返すジミーは、自分が
メアリーを殺したと思いこんでいた。そこへメアリーを伴っ
たフローリーが姿を表す。そして、彼の枕元に歩み寄るメア
リーをジミーは堅く抱き寄せる。この瞬間に、彼の横たわる
ベッドの上で、「3」者からなる家族の安定数が回復される。
それは同時に、これまでグリフィス作品の中で繰り返し描か
れてきた、ベッドのもたらす悲劇の結末でもあるだろう。グ
リフィスは、その最後の監督作品の中で、衰弱した父親をベ
ッドに横たわらせて娘と和解させたことになる。あばら屋の
一室で彼が振り払おうとした幻覚とは、『散り行く花』以来、
グリフィス作品における父親が背負い込んだ、娘の命を奪っ
たことのいまわしい記憶なのかもしれない。
結び
本論の中で観察された、幾つかのモティーフの派生させる
プログラムは、グリフィスの膨大な作品体系を統べる唯一の
プログラム体系ではない。それらはあくまでも、グリフィス
という作家の作品世界における現象の一部にしかすぎないだ
ろう。また、それらのプログラムに関する考察が、序章でも
述べたように「映画外的」な物語論であることと、論の最終
章でとりあげられる作品が『苦闘』であることが、問題をよ
り限定された方向に導いていく。
そのように限定された領域の中で展開された本論では、考
察を進めるにあスり、安易なグリフィスの神格化を招く要素が
極力排除されるよう努められた。作品の観察の結果に導き出
される答えが、後続の映画作家の作品にそのまま適用される
ことを最小限に抑えて、あくまでもグリフィスの作品体系の
中だけでそれらが流通するよう試みられたのは、そのためナあ
る。その結果、本論は作家論の体裁をとることになったが、
そこにはグリフィスを特権化する意識は働いていない。
本論では、二つの様態を持つ「箱」のプログラムと「数」
のプログラムがとりあげられたが、これらはそれぞれ、映画
における二つの存立要素に主に属している。前者の「箱」の
プログラムは、スクリーン上に枠取られたフレームを重層化
する空間的な手法に属するだろう。そして、「数」のプログラ
ムは、登場人物の欠落や補填の運動を催すことで、作品に〈静
止〉と〈運動〉という時間的な二様態を導入する。
これらのプログラムは、初期から中期作品にかけては、多
くの場合、単独で使用される。それは、この時期までに製作
された彼の代表作に、統一感や古典的造`性をもたらす一助に
もなったことだろう。
だが、彼のキャリアの後期にかけて、作品でとりあげられ
る題材に明らかな反復が確認されるようになるのと期を同じ
くして、作品で使用されるプログラムは複数化する。それと
共に同時代の評価が辛辣になり始める。さらに皮肉なことに、
複数のプログラムの併用の技術が洗練されていくに従って、
グリフィスを取り巻く状況はあらゆる面で厳しさを増してい
く。その結果、『苦闘』を最後の監督作品として、彼の映画作
家としてのキャリアには終止符が打たれる。そして『苦闘』
は、曖昧な評価が付せられたまま、彼のフィルモグラフィー
の中で放置されている。
プログラム分析に基づく本論の展開が、最終的にはこの作
品の読解に集約される形で構成されたのは、感傷性や個人的
な趣味を越えて、グリフィスの作品世界の全体像を A その後
期作品まで包含した形で把握したいという単純な欲求に基づ
いた結果にすぎない。だが一方で、ここで示された拙い論考
は、いまだ試論の域を出ない性質のものでもある。今後の更
なる調査研究が必要とされよう。
(以上)
注
序
(1)I・バリー『D・W・グリフィスーアメリカ映画の巨
匠』(岡島 尚志訳)(「D・W・グリフィス監督特集パンフレ
ット」所収、一九 八二年、東京国立近代美術館フィルムセ
ンター)一四頁。
(2)森岩雄「アメリカ映画製作者論」(一九六五年、垂水書
房)一一 一頁 B
(3)バリー、前掲書一四頁。
(4)C・A・ルジュウン「映画芸術と映画作家」(一九三七
年、映画 評論社)三三頁。
(5)G・サドゥール「世界映画全史」(一九九五年、国書刊
行会)
第四巻四二三ー四四〇頁、第五巻一一三ー一三五頁、第六
巻一五九ー 一六七頁。
( 6 ) Jacobs,Lewis.The Rise of the American
Film,Teachers College Press,1968. p.394.
(7)武田潔『「初期映画」章解説』(「新映画理論集成」第一
巻、
一九九八年、フィルムアート社)八一ー八三頁。
(8)G・W・F・ヘーゲル「歴史哲学講義」(一九九四年、
岩波書 店)上巻一五ー一六頁、傍点は筆者による B
(9)原題『Buy Your Own Cherries』(1904,Robert William
Paul)
邦題訳は筆者による。
(10)サドゥール、前掲書・第三巻二三九頁。
( 1 1 ) 原 題 『 The Dear Boys Home for Holiday 』
(1903,James Williamson)邦題訳は筆者による。
(12)M・ヴェルネ『映謔ニ物語』(J・オーモン、A・ベ
ルガラ、 M・マリー、M・ヴェルネ著「映画理論講義」第
三章、二〇〇〇年、 勁草書房)一四三 ー一五三頁。
(13)同書一四九ー一五四頁。
(14)同書一一四頁。
第一章
(1)サドゥール、前掲書・第四巻四三三頁。
( 2 ) Burch,Noel.The Silent Revolution,(1999,Facets
Video),Vol.1.
( 3 ) 原 題 『 Her First Adventure 』 (1908,Wallace
McCutcheon)邦題訳 は筆者による。
(4)Dz・ヴェルトフ『
「キノグラス」から「ラジオグラス」
へ』 (「ロシア アヴァンギャルド3・キノ」所収、一九
八九年、国書刊 行会)一七七頁。
(5)武田潔『枠取りの力学』(季刊誌「リュミエール D・
W・グリ フィス特集号」所収、筑摩書房、一九八六年六月
号)四六ー四八頁。
(6)小松弘「起源の映画」(一九九一年、青土社)三五七ー
三五八 頁。
( 7 ) Biograph Bulletin,No210,February 1,1909,The
Griffith Project:Vol.2,BFI Publishing,1999.p.14.
邦訳は筆者による。
(8)Richard Koszarsky,The Griffith Project:Vol.2,p.14.
(9)武田潔、前掲書四五ー四六頁。
第二章
(1)ヴェルネ、前掲書一四三ー一四九頁。
(2)サドゥール、前掲書・第三巻二三九頁。
(3)バリー、前掲書一三頁。
(4)丸尾定『散り行く花』作品解説(前掲書「D・W・グ
リフィス監 督特集パンフレット」所収)四六頁。
(5)言うまでもなく『シャイニング』
(キューブリック監督、
一九
八〇)終盤における発狂したJ・ニコルソンの振る舞いに、
この父親 のイメージが投影されている。
(6)『散り行く花』字幕より引用。
(7)原題『The Heathen Chinee and Sunday School
Teacher』 (Biograph,1904)邦題訳は筆者による。 (8)小松弘、前掲書三五四ー三五六頁。
(9)原題『The Unfaithful Wife』(Biograph,1903)邦題訳
は筆者に よる。
(10)サドゥール、前掲書・第七巻一七頁。
第三章
(1)蓮見重彦『単純であることの穏やかな魅力』(季刊誌「リ
ュミ
エール D・W・グリフィス特集号」所収)三三頁。
(2)Thomas Elsaesser and Adam Barker, Introduction
for "The Continuity
System:Griffith and
Beyond"from Early Cinema:space- frame-narrative,BFI
Publishing,1990,p.294.
(3)小松弘、前掲書八五頁。
(4)同書八六頁。
( 5 ) Burch,Noel.The Silent Revolution,(1999,Facets
Video),Vol.1.
(6)武田潔、前掲書四七頁。
第四章
(1)丸尾定『苦闘』作品解説(前掲書「D・W・グリフィ
ス監督特集
パンフレット」所収)三九頁。
(2)バリー、前掲書一三頁。
(3)サドゥール、前掲書・第一一巻一九一頁。
( 4 ) E.Bowser,"The Last Film:The Struggle",An
Annotated Lists of the Films of
D.W.Griffith,in
D.W.Griffith,1940,1965,The Museum of Modern
Art,p.86.
(5)小松弘、前掲書四九頁。
(6)Bowser,"Lady of the Pavement",Ibid.,P.82.
(7)ルジュウン、前掲書・三九頁。
(8)B・バラージュ『映画の精神』(一九八四年、創樹社)
二一一 頁。
(9)小松弘、前掲書四九頁。
( 1 0 ) R.Schickel,D.W.Griffith,1984,Limelight
Editions,p.565.
(11)J=L・ゴダール『古典的デクパージュの擁護と顕
揚』(「ゴ ダール全評論・全発言Ⅰ」所収、一九九八年、筑
摩書房)一二六頁。
(12)Schickel,D.W.Griffith,p.566. 邦訳は筆者による。
(13)Ibid.,p.564. 邦訳は筆者による。
上敬称略)
( 以
映画題名索引 (文中に引用した映画作品の題名を五十音順
に記す。尚、グリフィス監督作品は監督名を省略し、邦題は
G・サドゥール著(訳・丸尾定)『世界映画史』第Ⅱ巻・資料
編(一九九四)での表記に従い原題と併せて示す。また、邦
題訳が筆者による場合も原題と合わせて記す)
@ あ行
厚化粧したレディ(一九一二、『The Painted Lady』)
アッシリアの遠征(一九一四、『Judith of Bethulia』
)
穴(一九六〇、J・ベッケル監督)
アメリカ(一九二四、『America』)
あ る 飲 ん だ く れ の 矯 正 ( 一 九 〇 九 、『 A Drunkard's
Reformation』)
暗黒の家(一九一三、『The House of Darkness』)
異教徒の中国人と日曜学校の教師(一九〇四、バイオグラフ
社)
田舎の医者(一九〇九、『The Country Doctor』)
飲酒のなせるもの(一九〇九、『What Drink Did』
)
イントレランス(一九一六、『Intorelance』
)
内なる神(一九一二、『The God Within』)
エ ル ダ ー ブ シ ュ 峡 谷 の 戦 い ( 一 九 一 四 、『The Battle of
Elderbush Gulch』
)
か行
カーテン・ポール(一九〇九、『The Curtain Pole』)
渇仰の舞姫(一九二〇、『Idol Dancer』
)
金がすべてに非ず(一九一〇、『Gold is Not All』)
彼女の最初の冒険(一九〇八、ウォレス・マッカッチョン監
督、原題 『Her First Adventure』邦題訳は筆者)
カリガリ博士の部屋(一九一九、R・ヴィーネ監督)
歓迎されざる賓客(一九一三、『The Unwelcome Guest』
)
キートンの探偵学入門(一九二四、B・キートン監督)
休暇で家にいるかわいい少年達(一九〇三、ジェイムズ・ウ
ィリアムソ ン監督、原題『The Dear Boys Home for
Holiday』邦題訳は筆者)
恐怖の振り子(一九六一、R・コーマン監督)
苦闘(一九三一、『The Struggle』
)
国民の創生(一九一五、『The Birth of a Nation』
)
心の歌『Lady of the Pavement』
小麦の買占め(一九〇九、『A Corner in Wheat』
)
さ行
サイコ(一九六〇、A・ヒッチコック監督)
サタンの嘆き(一九二六、『The Sorrows of Satan』)
時宜にかなった妨害(一九一三、『A Timely Intenception』
)
自分のさくらんぼを買え(一九〇四、ロバート・ウィリアム・
ポール監 督 、原題『Buy Your Own Cherries』邦題訳は
筆者による)
シャイニング(一九八〇、S・キューブリック監督)
世界の英雄(一九三〇、『Abraham Lincoln』
)
た行
宝島(一九〇八、『Treasure Island/The Pirate's Gold』) チャールズ・ピースの生涯(一九〇五、ウィリアム・ハガー
監督)
散り行く花(一九一九、『Broken Blossoms』)
抵抗(一九五六、R・ブレッソン監督)
ドリーの冒険(一九〇八、『The Adventures of Dollie』)
な行
日光(一九一二、『The Sunbeam』)
は行
母のように優しい心(一九一三、『The Mothering Heart』)
ハリーの災難(一九五五、A・ヒッチコック監督)
東への道(一九二〇、『Way Down East』)
ヒズ・トラスト(一九一一、『His Trust』
)
ヒズ・マザーズ・サン(一九一三、『His Mother's Son』
)
ピッグ・アリーフ銃士達(一九一二、『The Musketeers of Pig Alley』
)
ピッパが通る(一九〇九、『Pippa Passes』)
ピラミッド(一九五五、H・ホークス監督)
塞がれた部屋(一九〇九、『The Sealed Room』)
ホーム・スウィート・ホーム(一九一五、『Home,Sweet
Home』)
誉れの射手(一九一七、J・フォード監督)
ま行
マサカー(一九一三、『The Massacre』)
娘達とお父さん(一九〇九、『The Girl and Daddy』 )
めまい(一九五八、A・ヒッチコック監督)
ら行
ラスト・タンゴ・イン・パリ(一九七二、B・ベルトルッチ
監督)
ラ・パロマ(一九七四、D・シュミット監督)
レベッカ(一九四〇、A・ヒッチコック監督)
ロープ(一九四八、A・ヒッチコック監督)
ローヴァーの救出(一九〇五、C・ヘップワース監督)
わ行
われらはわれらの老人と何をなすべきか(一九一一、『What
Shall We Do With Our Old ? 』) (以上)
主要参考文献一覧
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