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縄文基語を望む
わかみず会
2016.4.20
1
目次
0 なぜアイヌ語を採りあげるか
1 日本の原像:梅原 猛
2 日本の深層:梅原 猛
3 日本語の源流を求めて:大野 晋
4 日本語起源論の整理:木田章義
5 日本語系統論 言語類型地理論から遺伝子系統地理論へ: 松本克己
6 引用文献・参照文献
2
語感:語幹・語根・語源
3
日本語に迫る 経緯
三文小説の語法を狙って、遅々たる歩みを続けてきました。試行錯誤の結果、目
配りをして採用したつもりの「鍵語」を、以下の右側に示します。
なお、灰色の鍵語は現在検討中のもの。
ベイトソンの情報論: 記号系 システム系 複雑系
トマセロの認知言語学的言語習得論: 発語内容 発語態度 発語内効力
進化発生論: 構造と機能 自己参入性 揺らぎ
関連性理論: コト(題述関係) サマ(確信度) ムウド(法)
佐久間文法・三上文法: 二分法[詞 辞] → [コト サマ ムウド] の粒度へ
現代日本語と印欧語の峻別: 述語一本立て 係り係られ
母語の個別発生と系統発生: 語感 語幹 語根 語源 祝詞 諺 枕詞 律文
縄文語と縄文基語: 膠着語 抱合語 アイヌ語 擬音語 擬態語 擬情語
4
情報系の層別へ
頭・心・体とくれば、「知情意」を連想します。漱石の『草枕』にも
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに
人の世は住みにくい。」
とありました。
拙稿では、ヒト個体(発生)の情報系に対するこの三分法を、それぞれ
「知覚系」
「感情系」
「運動系」
という神経細胞回路網からなるとみなし、議論の出発点とします。系統発生の情報
系である遺伝子系は、まずは棚上げとします。
さらに、それぞれを、「記号系」「システム系」「複雑系」へと層別します。層別
の基準は、
情報がどれほど離散的か混成的か連続的か?
どれくらい意識的か前意識的か無意識的か?
言換えれば、どこまで制御可能か半制御可能か制御不能か?
です。
すると、ヒトの情報系は、9 つの神経細胞網とその連合からなることになります。
これら9つの神経回路網の並行処理過程をうまく模擬(シミュレート)できれば、
ヒトの思考やことばの一端を、多少は説明できるかもしれないとの期待からです。
ヒトの頭・心・体にある情報系の構図
情報系
情報
概念系
感情系
情動系
(内観系)
知覚系
制御過程
意識
身体系
運動系
(内臓系・植物系) (外壁系・動物系)
(視覚系・聴覚系)
<記号系>
継起的
概念・記号
感情調整
目的・試行錯誤
顕在的離散情報
意図的
意識的
努力要
分節化
瞑想
行為 行動
差異同一
謙虚 自負
制御過程
<システム系>
半顕在的混成情報
混成的
前意識的
半制御過程
ユーモア
変化反復
マキャベリ的知性
嘘泣き 作り笑い
イメージ・リズム
感情(狭義)
体動・表情
喜怒哀楽
発声 身振り
パターン補完推論…
気分
呼吸
図式 比喩 夢
閃き
<複雑系>
並列的
ゲシュタルト
情動
体感・反射
潜在的連続情報
反射的
無意識的
努力不要
シーン
快不快
外壁系内臓系反応
抑制興奮
瞳孔反射
内壁系擬情語感覚
膝蓋腱反射
自動過程
錯視
直観
変性意識
ゲシュタルト群化原理
6
ヒトの頭・心・体にある情報系:例示
≪概念系≫
≪感情系≫
≪運動系≫
<概念・ことば>
<感情調整>
<基本情報>
イヌ 椅子 赤さ
赤い 走る …
<2次情報>
入れ子 有限・無限
命題
作業記憶 …
瞑想 ユーモア
自負心 謙虚…
姿勢 歩行 走行
静止 正座 …
不安感 安心感 …
心身一如 渾然一体 …
動機づけ
<イメージ・リズム>
容れ物/部分・全体/連結/
中心・周縁/上下/前後/
起点・終点/線形順序/ …
睡眠
夢…
<ゲシュタルト>
ゲシュタルト知覚
:プレナンツ則 … 低レベルの差異
心的イメージ
:椅子 イヌ … 典型例
種の差異
幽体離脱・臨死体験・変性体験 …
<目的・評価>
自己評価
<感情・気分>
<体動・表情>
喜怒哀楽
恐れ 怒り …
飢え 渇き
痛み 性欲 …
母語 身振り
溜息 鼻唄 …
<情動>
<体感・反射>
快/不快
:接近行動/忌避行動
活性化/不活性化
:興奮/抑制
自律神経系
呼吸 心拍
攪醒 睡眠 …
対応する神経回路網
情報系
情報
制御
意識
概念系
感情系
身体系
知覚系
情動系
運動系
(視覚系・聴覚系) (内臓系・植物系)
顕在情報
継起的
デジタル
意図的
概念・ことば
制御過程
意識的
概念系神経回路
感情調整
感情系神経回路
(外壁系・動物系)
目的・評価
運動系神経回路
努力要
半顕在情報
ハイブリッド
中間層
イメージ・リズム
半制御過程
前意識的
構造機能神経回路 構造機能神経回路 構造機能神経回路
潜在情報
並列的
アナログ
反射的
ゲシュタルト
自動過程
無意識的
複雑系神経回路
努力不要
感情・気分
情動
複雑系神経回路
体動・表情
体感・反射
複雑系神経回路
各情報系の情報交換・相互作用
顕在情報
概念
意識
感情
目的
ことば 調整
評価
環境・状況
半顕在情報
イメージ・
前意識
リズム
感情・気分
体動・表情
潜在情報
無意識
ゲシュタルト
<概念系>
情動
<感情系>
体感・反射
<身体系>
感情系・身体系・知覚系:構造と機能
外界
外界
選好
振舞い
<感情系>
<身体系>
動的 多対多 対応
快不快
興奮抑制
目的
試行錯誤
重みづけ
溢れ
実在感:自然言語
削ぎ落とし
形式性:論理
自己監視
明証・推論
<知覚系[視覚系・聴覚系]>
濾過
類推
外界
知覚系 [ 視覚系・聴覚系 ] の特徴
<3つの知覚情報系における鍵語>
Ⅰ
記号系: 概念・ことば … 離散情報
分節化 [ 差異化・同一化・変化・反復・論理 → 理解 ]
→ ① 古典的な思考3原則:同一律、矛盾律、排中律
(アリストテレス、B. ラッセル)
② 形式性:解析学、応用数学、幾何、代数、数論…
動くこと、測ること、形づくること、合成すること、数えること
(S. マクレーン)
Ⅱ
システム系: イメージ・リズム … 混成情報
自己参入性 [ 自己言及性・構造と機能・対応(≠因果)・類比 → 得心 ]
→ 再帰性、自己増殖、多様性、境界、使いまわし、調整、…
Ⅲ
複雑系: ゲシュタルト … 連続情報
揺らぎ [ 応答・安定性・可塑性 → 了解 ]
→ 規則;冪法則、ジップの法則、対数正規分布、…
註:ゲーデルの不完全性定理:Wiki
ゲーデルの不完全性定理(独: Gödelscher Unvollständigkeitssatz)、又は単に不完全性定理とは、数学
基礎論における重要な定理の一つで、クルト・ゲーデルが1930年に証明したものである。
第1不完全性定理
自然数論を含む帰納的公理化可能な理論が、ω無矛盾であれば、証明も反証もできない命題が存在する。
第2不完全性定理
自然数論を含む帰納的公理化可能な理論が、無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない。
註:明治維新以降、日本で蔓延った西洋かぶれの考え方がある。命題の真偽にこだわり、真理を至上の
ものとみなす立場、あるいは科学至上主義の立場である。これは、西洋流の性である耶蘇教という
一神教に似ている。その二番煎じといってもよい。
拘りすぎると、屁理屈を捏ねることになり、議論が閉じてしまい息苦しい。そして、次の問いに進
まない。論理と自然言語のすさまじい差異を見てとることができていないからだ。
発話の構図:トマセロ・関連性理論
≪非言語的文脈(= 心的・身体的励起)≫
≪言語的文脈(= 心的想定)≫
話し手・聞き手の 知識・期待・遠近法(perspective)
発語内効力(illocutionary force)
発語態度 (attitude )
発語内容 (content)
題目・焦点化(topic -focus)
(modal)
<伝達的関連性>
[発話で意味されること]
意図・信念 …
「本音・本心か?」
(epistemic)
<認知的関連性>
[発話で言われていること]
<情報的関連性>
[発話の言語的意味]
確信度・関連性 …
認知・情報 …
「本気・本意か?」
「本当・本物か?」
13
母語のイメージスキーマ
矢印は、必ずしも因果関係ではなく、呼応や相関一般などを表します。太いのは大まかな
相関、細いのは少し因果性の強いものです。大雑把です。赤字は今回のテーマです。
<ヒト:個体発生>
<母語:日本語>
頭; ことば・概念
イメージ
ゲシュタルト
心; 感情
衝動
情動
ムウド
体; 目的・評価
体動
反射
サマ
<母語:系統発生>
現代日本語
中世語
コト
感嘆文
平叙文…
文断片
語法
零記号
助辞
助動辞
活用形
擬情語
名詞
形容詞
動詞
準詞…
述語一本立て
古語
係り係られ・陳述度
<状況・談話・思考>
話し手・書き手の立ち位置
意志閾
時制/相 閾
推量閾
形状閾
存在閾
……
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現代日本語:素モデル
体感・反射
体:
体壁系・動物系
→
揺らぎ
「意志閾」
体動・表情・母語
<ムウド>
甲型(スル)< 乙型(アル)
法 文末助詞 敬語法
目的・評価: 意志・行為
情動・快不快
心:
「推量閾」
感情・気分
<サマ>
題目「ハ」 活用形
助辞 助動辞 擬情語
語幹
内壁系・植物系
→
自己参入性
感情調整
ゲシュタルト
イメージ・リズム
「存在閾」
「形状閾」
頭:
<コト>
視覚系・聴覚系
→
ああ
分節化
テニヲハ
概念・ことば: 想定分節化
述語一本立て
係り係られ・陳述度
15
語感:語幹・語根・語源
音節数の少ない日本語では、語幹や語根に、子音や母音の語感を込める表現が多い
ようです。また、擬音語・擬態語・擬情語をとても上手に使い分けます。次の間投
詞的言い回しなどはどうでしょうか。
アッと、ウッと、エッと、オッと、
カッと、キッと、グッと、
サッと、スツと、ザッと、ジッと、ズッと、ゾッと、
ツッと、ダッと、ドッと、
ニッと、ヌッと、ノッと、
ハツと、フッと、ホツと、バッと、ボッと、バッと、ピッと、プッと、ボッと、
ムッと、メッと、
ヤッと、ヨッと、
ワッと
古語まで遡らないと、これらはなかなか了解しにくい。そこで、少し寄り道になり
ますが、縄文語や縄文基語を採りあげました。三内丸山のような縄文文化を望めば
望むほど、アイヌ語をしっかり位置づけなければならないと思い知らされました。
16
日本語は概念による分節化を超えて、
「もの」を言表そうとする。
和英辞書で、「もののあわれ」を引くと“ pathos ”、また「佇まい」を引くと
“ appearance ”とあります。
やつ枯れの英語感覚でいくと、“ pathos ”は「哀愁」、“ appearance ”は「
みてくれ」となります。
「哀愁」だとヴィヴィアン・リーを連想してしまいます。「もののあわれ」には、
本居宣長を担ぎ出すまでもなく、やつ枯れの和語感覚でいくと、佇まいのような
雰囲気と心の遣る瀬無さが込められています。「みてくれ」と「佇まい」との間
には、千里の径庭があるように感じます。
概して、
和語によるまっとうな「俳句」や「短歌」
和語の「語幹」や「語根」の含みや意義づけ
を素直に見て取りますと、状況や前意識・無意識に日本語が迫っているのが感じ
られます。
17
俳句を印欧語に翻訳できるか?
古池や 蛙飛びこむ 水の音
Old pond - frogs jump in - sound of water.
(芭蕉)
(小泉八雲 ラフカデイオ・ハーン)
The ancient pond –
A frog jumps in,
The sound of water.
(ドナルド・キーン)
複数のカエル (ハーン) から単数の蛙(キーン ) に至るまでに、半世紀の歳月
を要しました。キーンの翻訳はかなりいい線を行っているようです。もっとも、彼
はやつ枯れなどより、日本古典文学に数等明るく、かつ日本語も強い。
それでも、「カエル」と「かはず」の違いや切れ字を十分に訳出できてはおりませ
ん。深川の芭蕉庵を連想させたり、五七五の韻律をもたらすことはできていないよ
うです。
18
切れ字:通説
切れ字にちょっと触れておきましょう。
古来、「発句切れ字十八」と称されるのは、次です。五七五の、初五、中七、座五
にそえて、音調をととのえます。
①
②
③
④
⑤
かな・もがな・ぞ・か・や・よ(終助詞)
けり・ず・じ・ぬ・つ・らむ(助動詞終止形)
け・せ・へ・れ(動詞命令形)
し(形容詞終止形)
いかに(副詞)
いまの俳句では、このうちの「かな」「や」「けり」しか使われないようです。
古池や 蛙飛込む 水の音
…… 切れ字は、「や」
雪ながら 山本かすむ 夕かな
…… 切れ字は、「かな」
道のべの 木槿は馬に くはれけり
…… 切れ字は、「けり」
分け入っても 分け入っても 青い山 …… 切れ字は、ない
国文法の通説では、「かな」は多く座五に使われ感動、詠嘆を表し、「や」は多
く初五に使われ詠嘆や呼びかけを表し、「けり」は多く座五に使われ、断言する
ような強い調子を与えるなどとされますが、こういう決めつけは危ういようです。
発句ごとに、そのイメージ・リズム・ゲシュタルトを吟味しなければなりません。
19
談林から正風へ
古池の句は、一説によると、初めは談林風に次であったとされます。
古池や 蛙飛ンだる 水の音
『庵桜』
その後、七五がさだまり、芭蕉が上五に「古池や」を置いたようです。
古池や 蛙飛込む 水の音
芭蕉
其角は「古池や」でなく、「山吹や」としましたが、芭蕉はそれを斥け
ました。
山吹や 蛙飛込む 水の音
其角
同じような談林から正風への選好例が次です。
五月雨を 集て涼し 最上川
五月雨を 集て早し 最上川
はせを 歌仙
『奥の細道』
中七に、談林風の軽い拍子(飛ンだる)や自分の感情(涼し)を置くのを
避けているようです。そのほうが、知覚系のイメージ・リズム・ゲシュタ
ルトが鮮明になります。芭蕉にしたがって、二読三読して「行きて帰る味
わい」を求めますと、却って感情・情動も深まるようです。
20
感覚系:快不快・情動
それまで日本人が感得できなかった感覚を創めてつかみ取り、表出する句も多い
ようです。
以下は、ちょっと他のひねりかたが想像できないような句たちです。ややあぶな
い擬態語・擬情語を懼れないところは、玄人だからでしょう。
梅が香に のっと日の出る 山路かな
芭蕉
閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声
芭蕉
菊の香や 奈良には古き 仏たち
芭蕉
ほろほろと 山吹散るか 滝の音
芭蕉
あまがえる 芭蕉にのりて そよぎけり
其角
春の海 終日のたり のたりかな
蕪村
くろがねの 秋の風鈴 鳴りにけり
蛇笏
芭蕉に「山吹」を斥けられた其角を入れておきました。拙稿ではあまり触れられ
ないヒューモアやウィットに強いようですので。
21
身体系:体動・体感
同じく、それまで言表されなかった体動・体感をつかみ取ってみせたのが、
たとえば、以下です。
ゆく春や おもたき琵琶の 抱心
蕪村
斧入れて 香におどろくや 冬木立
蕪村
夕立や 草葉をつかむ むら雀
蕪村
おりとりて はらりとおもき すすきかな
蛇笏
蛇足になりますが、いわゆる俳論は、知覚系(聴覚系・視覚系)、感覚系、
運動系のどれかだけに入れ込んで、立論を展開してしまうものが多いようで
す。縄文語や縄文基語の議論と似ています。ことばには、コト・サマ・ムウ
ドが、いつでもどこでもついてまわることを忘れないようにしたいものです。
俳句談義の最後に、連歌から俳句の発生に至る道筋を、抑制をもって説明し
ていると思われる詩人 吉本隆明の講演を紹介しておきます。
22
俳句の成立ち(1):吉本隆明
俳句の発生を語る詩人吉本隆明を引きます。
荒海や 佐渡によこたふ 天河
ひとりでつくるんだということ、それから短いんだということ、このふたつに
ついて芭蕉はものすごく苦労しています。「佐渡によこたふ」というのはいか
ようにもいえるわけです。「荒海や佐渡にかかれる天河」と、こういったって
いいわけだけれど、どうして「よこたふ」といったのか。そこに芭蕉の工夫が
あるように思います。
五・七・五という短い形になってしまったけれど、五と七は、ふたりの人間の
問答だというくらい、あるいは客観と主観というくらい違うように表現する必
要があるというのが芭蕉の考えだったと思います。俳句にするにはやっぱり客
観的なものを主観的なものに転調しなければダメなのではないか。そうするこ
とによってポエジーが生れてくる、というのが芭蕉のひとつの工夫だったと思
います。
23
俳句の成立ち(2):吉本隆明
客観ー客観のように見える句でも、芭蕉の句には、どこか主観的な傾向が込め
られています。・・・この「よこたふ」は、自然描写のようでいて、じつは擬人
的に主観化されているわけです。
もう一句、たとえばー、
暑き日を 海にいれたり 最上川
この句でも、「海にいれたり」といわなくても、いくらでも言いようはあるわけ
ですが、なにか意志が加わって「いれたり」といっているように思えます。つま
り、芭蕉は客観性と主観性を交互に繰り入れるというようなことをちゃんと工夫
してやっている。ここがうまくいっていると、いい句だ、文句のいいようがない
よということになる・・・
(『日本語のゆくえ』)
24
ふつう言葉で尽くせない何かを仄めかす。
次のような間投詞たち(この「たち」は、母語感覚に合わないかもしれない)は、
イメージスキーマ・リズムやゲシュタルトのような知覚状態
ストレス・衝動や情動のような心的状態
体動や体感のような身体的状態
をうまく言表しています。
アッと、ウッと、エッと、オッと、
カッと、キッと、グッと、
サッと、スツと、ザッと、ジッと、ズッと、ゾッと、
ツッと、ダッと、ドッと、
ニッと、ヌッと、ノッと、
ハツと、フッと、ホツと、バッと、ボッと、バッと、ピッと、プッと、ボッと、
ムッと、メッと、
ヤッと、ヨッと、
ワッと
日本語を母語とする私たちが、これらをほぼ正確に使いこなせるのは不思議と言えば
不思議です。音節数の少ない日本語は語幹や語根に、子音や母音の語感を込める表現
が多いようです。概念を分節化することが多いフランス語や英語にこれらを翻訳する
のは、ドナルド・キーンでもかなり難しいのではないでしょうか?
25
擬音語・擬態語・擬情語:通説
ゲシュタルトやリズムを担う擬音語・擬態語・擬情語の通説を並べておきます。梅原
猛の素人アイヌ語論と対比するために、玄人 佐久間 鼎によるまともな分析を、すぐ
後で紹介します。
擬音語:外界の音の形容する言葉。
ア;大きいもの、荒いもの。
エ;人気が無い。品が無い。
イ;小さい感じ。
オ;アに準ずる。
「ザーッと」「ガバッと」
「ヘナヘナ」「セカセカ」
「チビッと」「チンマリ」
「オドロオドロ」
擬態語:音のしないものを音がするように表す言葉。客観的様態だけでなく、心情
も想像している。
区別する:ハッキリ
考え
;シッカリした
光る
:キラキラ ピカピカ
見る
;チラッと ジッと ジロジロと シゲシゲと
歩く
;テクテク スタスタ ブラブラ ヨチヨチ トボトボ
シャナリシャナリ
擬情語:感情や情動を表す言葉。
イライラ ムシャクシャ
ヤキモキ
ヘドモド
26
音声的描写による語構成
擬声語における音声的描写(1):佐久間鼎
……まず日本語の擬声語、すなわち外界の物音を音声で(上述したところによって、
限定的に音韻でといいかえることができる)描写することのよって出来たもの、つ
まり擬音的効果を示すものについて、その音声的構成と描写される音響との関係を
見よう。
1.吹きならされたおと……[p, b, h]を頭音として長母音をつらねる。(短いのに
は短母音。“促音”を伴うこともある)
a. 一声だけのもの
ポー プー ピー ピュー プッ
ボー ブー ビー ビュー ブッ
フー ヒュー フッ
b. 連続して鳴る音
ポーポー プープー ピーピー ピューピュー
ボーボー ブーブー ビービー ビュービュー
フーフー ヒューヒュー
27
音声的描写による語構成
擬声語における音声的描写(2):佐久間鼎
以上の例を比較してみると、[p] 音ではじまる場合の音声的描写は、おおむね音色
の“すんだ”、調子のはっきりした、また協和的な楽音に対応するが、その一方、
[b] ではじまるものは、概して音色の“にごった”、多少噪音(雑音)的な、また
不協和なおとに対応することが知られる。たとえば、笛のねをいうのには、ピーと
いいプーといい、ピューというが、汽船の汽笛などには、ボーとかブーというのが
適当と感じられる。リードオルガンのおとをいう場合には、普通ブーブーという方
が当てがわれるが、そのおとの特色のうちに、そうした感じにあてはまるのがある
ような気がする。
[h] すなわち気音ではじまる語詞が表示する物音は、また少し異なる性質をもつも
ので概していえば、風が何かのすきまを通るときに生じるような、摩擦のひびきを
伴ったおとだということができよう。したがって、他の擬音ではじめられる語詞、
すなわちシューシューやスースーと一味相通じるところがある。こういうふうに、
気音がその聴覚的効果においても、他の擬音と相関するものがあることを注意すべ
きだが、その一面には、[p]や [b]に対しても、現象的特性においてかかわりをもっ
ているわけを認めることができる。
28
音声的描写による語構成
擬声語における音声的描写(3):佐久間鼎
これだけの例について見ても、母韻の“明るさ”や“飽和度(Stumpf)”が、音声
的描写で重要な役割をしていることは明かだ。それらについては、なお後に述べよ
う。
2.打ちならされたおと……
a. 比較的単純なもの……(破音)+(母韻)+ ン
ポーン ピーン ボーン ビーン
トーン チーン ドーン ヂーン
コーン カーン ゴーン ガーン
b. 打拍の反復されるもの
ポンポン ボンボン
トントン ドンドン
カンカン ガンガン キンキン
チンチン チャンチャン ヂャンヂャン
29
音声的描写による語構成
擬声語における音声的描写(4):佐久間鼎
c. 打ち鳴らされる対象によるニュアンス
ポコン ポコポコ ボコボコ
パタン パタパタ バタバタ
コトン コトリ ゴトン ゴツン
コトコト コツコツ
d. はじく、はねるという程度
パチン ピシリ パチパチ ピチピチ ポツン
ここにも、前述のような“清濁”の音韻学的対立と描写される音響との間におのず
から対応するものがあることは、容易に見出される。ピアノのねについては、ポン
ポンとか、コンコンとかというのが多くはふさわしく、三味線のねも、チンテント
ン、またはチツンなどと口ずさまれるのが音じめがいい方で、シャンシャンのよう
ににごると、小うるさく熱くるしい。……
しかし、実況の描写などでは、……
このような日本語の表現に対して、たとえばフランス語では、……
30
音声的描写による語構成
擬声語における音声的描写(5):佐久間鼎
3.物のきしみこすれ合って出るおと……子音として破音(k, g)または擦音を
用い、あるいは両者を併用する。ただし風や水のこすれる音には擦音。
キーキー ギーギー ギシギシ
ゴシゴシ ゴーゴー
スースー シューシュー ジュージュー
ジャージャー サーサー ザーザー
ザワザワ カサカサ ガサガサ
シャキシャキ ジャリジャリ
摩擦によって生じるおとには、噪音としての特性的な印象があり、それをあら
わすのに擦音が適するのは、もっとも自然というべき事柄だ。……
4.物音のいりまじる場合……種々の子音を併用する。
ドカドカ ドタバタ ドシン ドタン ドカン ドブン
パチャパチャ バチャバチャ パチパチ ピチピチ ピタピタ
ガタガタ ガタピシャ ガチャガチャ
ゴトゴト ゴボゴボ
31
音声的描写による語構成
擬声語における音声的描写(6):佐久間鼎
ジャカジャカ ジョキジョキ
ピリピリ ビリビリ パラパラ
バラバラ バリバリ タラタラ
チリチリ タランポロン カラコロ
この種の語詞には、実際の音響に近いものがあるともいいがたく、自然各国語に
おける異なりも大きい。……
5.とどろく物音……おおむね有声破音[d, g]の音節が用いられ、“ラ”行のもの
を伴うこともすくなくない。
ガタン ゴトン ガチャン がチャリ
ドシン ヅシン (時にパチャンなど)
ガラガラ ゴロゴロ ガリガリ ゴリゴリ
ドードー ゴーゴー
これには、それぞれ対立する“清音”(いわゆる半濁音パ行をも含めて)の語詞で
で相似た意味をもつものもあるが、そういう対応の見出されないものもある。……
32
音声的描写による語構成
擬声語における音声的描写(7):佐久間鼎
6.音響の明暗……母韻の“あかるさ”
これはすでに掲げた諸例についてみても、容易に納得されることと思う。……
7.反射的発言および表情音声の言語的描写
笑い声のハハハ、アハアハ、ワッハッハなど。苦しみをこらえきれないうなり声
のウンウン、ウームなど。……
8.鳥・獣・虫の鳴声……
日本語国語にあっても、鳥・獣・虫の名がその鳴声を模写することによって作ら
れた例は、いくつか数えられている。そのうち獣にはネコのような例を挙げる人
もあるが、あまり鳴声に近いとはいいかねる。……
33
言語発生の太初における命名作用(1):佐久間鼎
……こういう実験的事例(註:エッビングハウス以来の心理的実験)は、ずっと昔
から、時としてかなり思弁的に構想された音義相即の説、すなわち言語における語
音と語義との間に、本来内面的な結合が存するというテーゼを裏書きするように見
える。言語の発生の太初において、これが語構成を規定したことを想像することが
許されなければならないが、その場合にも、単にオノマトペイアを眼中におくだけ
で、他種の語詞をもこれに帰属しようとする立説は、もとよりすこぶる一面的だ。
これだけで徹底しようとすると、幾多の無理なところが生じ、牽強を敢えてしなく
てはならなくなる。音声的描写の意味において、この辺の事理を考察するのでなく
ては、適切な解明を得るわけにいかない。
ここに、スズキアキラ(鈴木朗)の所見が、かのオノマトペイア的言語起源説に立
ちまさる次第を見るべきで、すなわちー
“言語ハ音声也。音声ニ形アリ、姿アリ、ココロアリ。サレバ、言語ニハ、音声
ヲ以テ物事ヲ象リウツス事多シ“
というところに、擬態語構成における音声的描写の可能が、よく認識されている。
34
言語発生の太初における命名作用(2):佐久間鼎
……音声的描写によって構成された擬声語および擬態語を発生上本元的と考える
のは、事の自然に属し、一般的には是認してさしつかえないと思う。ただ、個別
の語例について見るときは、種々の関係をあわせて考慮しなければならない。
……語源的関係の追跡すべきものを、現在用いられる日本語の造語心理に徴する
ことのできる場合もないではない。擬声語・擬音語から動詞をつくること、“ガ
サガサ”から“ガサつく”、“ブラブラ”から“ブラつく”のようなものがあり、
その手法を応用して新しい語をつくることも行われる。しかし、たとえば“きら
めく・ひらめく”という動詞がキラキラ、ヒラヒラから誘導されたものかどうか、
“とろける”という動詞がトロトロから来たものかどうか、“てる・てらす”と
いう動詞がテラテラから出たものかどうかなどは、現在の造語心理に徴して断定
する材料がないので、文献的な探索を経た上で決定されなければならないわけだ。
……語源の説明としては排斥しなければならないような在来の音義的説明の提説
のうちにも、この辺の照応の事実を指示したものが往々見出されるので、そうい
う事実を述べるものとして見れば、その限りで是認すべきところがある。事実を
事実として承認した上で、果して語源的関係が立証されるか否かを第二段の設問
にして進めばいい。……
35
言語発生の太初における命名作用(3):佐久間鼎
たとえば、擬声語についてみると、それと動詞や名詞などの普通の語群との間に
次のような親近な関係がうかがわれる。ー
1.ポー、プー、ピー、フーなどに対し……
吹く、笛、ひる(放)、屁など。
2.ドン、カーン、ゴーンなどに対し……
ドン(午砲)、鐘、gong 。
3.スースー、サーサーなどに対し……
吸う、すする、すく(透)、ささやく。 (またやや擬態的には)する(磨)、
すずり、ずる、ずれる、ずるこける、など。
4.パタパタ、バタなどに対し……
はた(旗、機)、はたく、はたたがみ、(また)たたく、たたかう(戦)。(
なおカタカタ、ガタガタ、コトコト、ドタバタなど、あるいはトントン、ドンド
ンなどの“タ”や“ト”と“あたる(あてる)”、“おと”、“うた、うたう、
うたげ”または、“かたる”、“こと”などとに、ある程度の照応がみられよう。)
36
言語発生の太初における命名作用(4):佐久間鼎
さらに擬態語の場合について若干の例を求めるならば、次のようなものが挙げられる。
5.ヒラヒラ、ピラピラに対し・・・・・
ひらめく、ひらく、ひるがえる、ひれ。(また)ひろい、ひろめる、ひろげる、
など。(なお“ひらたい”など。)
6.チラチラ、キラキラに対し……
ちらつく、ちる、ちれる(口頭語)、ちらす、ちらかる、ちらばす、きらめく、
きらら。
7.クルクル、グルグルに対し……
くる(繰)、くるめく、くるま、くるわ、ぐるり、くるる(枢)。
8.ネバネバ、ヌルヌル、ヌラヌラ、ネチネチ、ニチャニチャ、ヌラクラに対し……
ねばる、ねぶる(なめる)、ぬる(塗)、練る、ぬぐふ、のり(糊)、のす。
(また)ぬれる、ぬらす。
ペタペタ、ベタベタに対し……
べたつく、へたばる、へばる。
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言語発生の太初における命名作用(5):佐久間鼎
9.タラタラ、ダラダラに対し……
たれる、たらす、したたる、したむ、しづれる、しづく。(また)だらける、
“だらし”がない。
トロトロ、ドロドロに対し……
どろ、とろろ、とろける、とろかす、とける、とかす、とろい、(?)。
10.スースー、スルスル、ズンズンに対し……
すすむ、すずろぐ、そぞろ、する(擦)、こする。(また)はしる(走)、
はせる(馳)。
こういう例は、かなり多く集めることができる。これらの実例を通覧すると、照応
が単に偶然でなく、暗合でないことを思わずにいられない。そのもとづくところを
求めれば、結局感性経験における契合に帰する次第で、これを言語発生の当初にお
ける原始的心性の場合について想察すれば、この種の“体感”的心境、“相好”的
把握が、文化社会におけるものよりもはるかに活発にあらわれたこと、疑いの余地
を存しないところだ。……
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音声的描写による語構成
擬態語における音声的描写(1):佐久間鼎
…いま擬態語について運動様相の種別を見るに、事象の側における運動のゲシュタ
ルトが音声的進行の姿と相かなうものがあることを知る。すなわち次のような照応
的関係がある。
1. なめらかに渋滞なく進行する様子……擦音(または破裂音)特に、スー、ツ
ーを主とする。
スースー(擬声語的にも) スーッ(と)
スラスラ(スルリ)
スラスラ
スタスタ(スタコラ)
スクスク
スベスベ スパスパ スッポリ(スポッ) スッキリ スンナリ
ズーッと ズンズン
ツルツル(ツルリ) ツーッ(と)
以上はそれぞれ語義の異なりがあるとはいえ、いずれも滑動、滑走の趣き、
軽快な運動の姿を具えている。スルスルに対してズルズルを比較すると、そ
の滑り方に異なりがあり、後者に抵抗の大きなことが感じられる。これは後
者の運動感覚に帰して説明することは困難だろう。むしろ、擬声的な起源を
想定する方が適当かとも思われる。
39
音声的描写による語構成
擬態語における音声的描写(2):佐久間鼎
2. 急速度の進行を示す動き……短母音と促音的効果の利用など。(連続的進行
を示すために音節を重ねる)
サッサ(と) セッセ(と) ズッ(と)
ツッ(と)
トッ(と)
テッテ(と)
なお前出のズンズンなど、これと同趣のものも、すくなからず数えられる。
グングン トントン(“拍子”など)
セカセカ ソソクサ ツカツカ ドシドシ
3. たちまち現われる変化、発動……促音的効果。
パッ(と)
サッ(と)
ニユツ(と) ピョン(と) ピョイ(と) ピョコン(と)
最後の例のように躍動、躍進の意味をその音声的構造にもたせるために、
“ン”を用いることは、擬声語の例にも見える。
40
音声的描写による語構成
擬態語における音声的描写(3):佐久間鼎
4.ふるえ動く様子(また回転、ためらい)……ラ・ロ・ル・リなどを用いる。
a. ゆるやかな移行
ノロノロ(ノソノソ) ソロソロ ノラクラ ユルユル ウロウロ
オロオロ(オドオド・ウヅウヅ・ウヨウヨ) ゾロゾロ トロトロ
b. ゆるやかな回転または動揺
ブラブラ グラグラ フラフラ ヨロヨロ コロコロ
ゴロゴロ クルクル グルグル ブルブル
c. 急な進行または回転(輪をえがいて)
キリキリ クリクリ ピリピリ
d. 反転、ひらめき
キラキラ チラチラ ヒラヒラ ピラピラ(ピカピカ) テラテラ
(テカテカ)
これらにおいては、おおむねソロリ、ユラリなどの型もソロソロ、ユラユラなどと
同じ意味で行われる。
41
音声的描写による語構成
擬態語における音声的描写(4):佐久間鼎
5. リズム的反復運動……畳語的構成
ピョコピョコ ピンピン ピョンピョン キョトキョト ジロジロ
キョロキョロ モヂモヂ テクテク
6. 動作態度……前例と同趣のところもある。
コソコソ(コッソリ) コセコセ ノソノソ(ノッシノッシ) ヨチヨチ
グズグズ クヨクヨ ヘナヘナ
イソイソ ウカウカ(ウッカリ) ビクビク イライラ ハラハラ
ワクワク ヤキモキ
42
語構成における音韻の表現価(1)
擬態語における音声的描写:佐久間鼎
……以上のような諸例をあげて、いわゆる「音義相即」の事実の存立することを
示しました。この事実のなりたつ根拠は、各種の感性経験における照応的特性に
もとめなければならないとして、感性心理学におけるモダリタを超える感触の問
題にふれました。
ここでは、感触についての共通なおもむきを指摘するのが当面の目標となってい
るので、その一方を語源として他方がこれから発源したというような主張をする
のではありません。共有されるそのいろあいというか、においというか、そうし
た音韻の感じが、一群の語詞をつらねて事物の形状や事象の進行の趣致に契合す
るということに留意したいのです。
(註:概念で説明しようと、さすがの佐久間鼎も語法に四苦八苦している。)
まず、「スー」または「スス」のような音韻的つらなりにあたえる「すべるよう
な運動」の感じは、つぎのような語詞のうちにもマザマザと感じとられるではあ
りませんか?
すすむ(スラスラと)= 古語「すさむ」
すする(スルスルと、ツルツルと、スーッと)
43
語構成における音韻の表現価(2)
擬態語における音声的描写:佐久間鼎
これが「ソソ」のような連音となってくると、多少のニュアンスのちがいも感じ
られますが、やっぱりなにかしら同趣のものをみとめずにはいられません。
そそぐ(ザーザーなどの擬音にもつながる)
そそる(こころを~)ー そそのかす
に
そぞろ(すずろ)
(ソロソロ)
ぐ
そそっかしい、(ソソクサと)いそぐ
「そそく」(古)= ソワソワする。
「そぞろ」には、こころの「すすむ」おもむきがあらわれます。
テンポのはやい進行のもようは、「ソロソロ」の反対に、やはり[s]をとりいれて
「サッサ」または「セッセ」のように造語してあります。「サッサ」とあるいたり
または「セッセ」とはたらいたりする、きりつめられた時間での行動は、空間的な
「せせこましさ」に通じ、こころが「せく」とともに、行動範囲の「せまい」のを
かんじさせるわけです。「せめる」・「せまる」の動詞の意味もここにつながるも
44
語構成における音韻の表現価(3)
擬態語における音声的描写:佐久間鼎
のです。「ささやかな」「いささかの」「ささめき」「ささやき」「ささやく」
「ささがに」における「ササ」や、「さざなみ」「さざれいし」の「サザ」に「
わずかな」・「ちいさな」というほどの意味が通じています。
「スーッ」ととおっていく、「すぎる」「すごす」「スルスルと」「する」「
こする」「さする」、「ズルズルと」「ずる」「ひきずる」などにも、運動のも
ようがうかがわれます。それがのびのびとした延長のふくみをもつと、「スクス
クとのび、そだつ」ところから、「すぐに」「まっすぐに」の直線的な感じをう
つして「すぎ」(杉)となり、また「すげ」(菅)や「すすき」(薄)のスラリ
とのびたすがたにかようのでしょう。身長をいう「せい」は、「せなか」の「せ」
からでたにしても、現代語では分化をとげて、別のアクセントをもつ別の名詞と
なりきっています。「そびら」にのこる「ソ」が、造語分として「そだつ」(育)
にはいっているのも、ここに無関係とはいえません。(「そそりたつ」というと
きの「そそる」にも、おなじような感触がともないます。)
45
語構成における音韻の表現価(4)
擬態語における音声的描写:佐久間鼎
[s]のような擦音による感触に、なめらかな進行を思わせる性質がそなわってい
ることは、直接に「自知」されるしだいです。連想というような、間接的な概念
ないし表象のはたらきにまつまでもなく、もっとみぢかに、感じとられることな
のです。
感性経験について、知覚といえば、ものをそのかたち、いろなどの種々相につい
てとらえる面を問題にするわけですが、そこに同時になにかしら概念的なことば
にはいいあらわせないような、においとか、あじとかいうことが他の一面として
ただよってきます。こちらの方は、ハッキリつかうことができないもので、いわ
ばホノボノとたてこめ、ユラユラとゆれうごき、それでいてシミジミとみにせま
るような感じです。これを「知覚」と対立させて、いみじくも「体感」と名づけ
たのは、わが意をえたことばづくりといいたいのです。
運動の種々相は、めにうつるままがやがてからだに共感を生じ、こえにそのすが
たを反映します。体感において両者は自由に合流するともいえます。みて知覚す
る運動(モヴィメント)も律動(リトモ)をそなえ、旋律(メロデイア)をかな
でます。まえにのべた滑動、スラスラいく進行のもようもそのひとつの様相です。
46
語構成における音韻の表現価(5)
擬態語における音声的描写:佐久間鼎
これとおもむきがちがう運動にゆれうごきがあり波動があります。その音声的描写
として、「ル」または「ロ」のような音節がその任にあたり、つまり音声学にいう
「流音」のひとつ、いわゆる「ラ行子音」がその揺動の気分をマザマザとえがくこ
とは日本語の語構成についていちじるしい事実とみとめられます。
[s] のような擦音で結成された音節とつながったものではスルスルと、またツルツ
ルとなめらかにすすむ情景がかんじられますが、それはおのずからスーッと、ツー
ッとのように、さざなみもたてずに平面で進行するのとはちがうニュアンスをたも
ちます。ゆるやかななみをうちながらしかも渋滞なく移行するすがたがうかぶでし
ょう、そこに流音のかもしだす風味があるわけです。
さらに破音のいろいろとむすんで流音が畳語という種類のものをつくりだしている
例をしらべてみると、ゆらぎながらの進行のありさまがそれぞれのニュアンスをお
びて展開されるでしょう。すなわちー
プルプルと、またブルブルと「ふるえる」し、ポロポロとまた、ボロボロと「こぼ
れ」たりこぼしたりするし、パラパラと、またバラバラと「ばらまき」また「はら
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語構成における音韻の表現価(6)
擬態語における音声的描写:佐久間鼎
う」のは、反復的動作になりますが、ピリピリとするどいいたみが周期的におそい
かかる感じにも、おのずから波動的な経過がつきまといます。「プリプリする」と
いうときのいきどおりの心境にもケイレン(痙攣)性の含意がみられます。
トロトロと「とろける」または「とろかす」ないし「どろんこ」のドロドロした状
態にかよう「まどろみ」のゆらめきがあり、タラタラと、またダラダラと「したた
る」さま、チョロチョロと、またチロチロと「せせらぎ」のながれるさまがうかび
ます。テラテラとひかりの「てる」さま「てらす」さまにも、明暗の交代が感じと
られるでしょう。
さらに端的に回転の感じをうちだす一群の擬態語が、[k] にみちびかれた音節の流
音との結合でかさなったものにみられます。クルクルと、またグルグルと「くる」
(繰)・「たぐる」・「くるい」まわる運動がさながらにあらわされます。「くる
ま(車)」・「くるわ(廓)」・「くるる(柩)」および「ぐるり(周囲)」は、
<クル(グル)>を造語分として「まわり・めぐり」の意味をふくんでいます。「
くるむ」とはグルグルまきつけてつつむこと、「くるしい」・「くるしむ」の心境
にはむねのうちをかけめぐるのがあり、みもだえして反転するようすもおもわれま
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語構成における音韻の表現価(7)
擬態語における音声的描写:佐久間鼎
す。コロコロと、またゴロゴロと「ころび、ころがり、ころがす」ところから、こ
いぬなどはよくコロとよばれます。ちいさい動物を「ころす」という意味でこども
が「ころがす」といいならわした実例がありますが、こころもちに通じるものがあ
るのでそう。「クラクラと」めが「くらむ」(眩)ところから、めさきが「くらく
なる」のように明暗の感じにつながるとすると、これは造語の面からみて重要です。
「キラキラと」ひかりをうけて「きらめく」ように、「ヒラヒラと」ひかりを反映
して「ひらめく」という語構成は、接尾語「めく」の例としてとりあげられる、め
ずらしくないものに属します。「キリキリと」まうというのは急旋回をいとなむも
のにふさわしく、「きりをもむ」とおなじような感じがあります。
鼻音ではじまる一群には、ヌルヌル、またヌラヌラのような、ねばっこい感じの、
ぬかるみにあしをとられたような運動をおもわせるものがあって、「ぬる(塗)」
のうごきにかよう一方に、「ぬれる・ぬらす(濡)」とつながる面もありそうです。
進行は「ノロノロ」と「のろい」ので、まがのびて「のろま」といわれます。ニョ
ロニョロともなれば、のろいうえにノタリノタリと「のたくる(蛇行)」おもむき
を加味します。
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語構成における音韻の表現価(8)
擬態語における音声的描写:佐久間鼎
ものの配置の一様でなく、まばらなのに通じて、ことの進行の整然としていない情
動のもようはムラムラと形容されますが、「むらがある」わけです。それが一か所
にかたまってくると、「むれて、むらがる(群)」しだいで、こうして「むら(村
落)」をつくります。
フラフラ・ブラブラは、左右に「ゆれ」ながらユルユルすすむおもむきですが、ユ
ルユルは「きりりと」した「きつい」の反対に「ゆるい」状態をもたらすこと、す
なわち「ゆるむ(弛)」に通じ、また「ゆるす(許)」に通じます。(同趣のユッ
タリは「ゆたか」に応じます。ヒョロヒョロとしたうごきは、「よろめき」となり
ます。ジリジリするこころもちは、「じれる」・「じらす」の情動なのです。
これらの例証を通じて、流音の重複による回転または揺動の感触の表現価を想定す
ることができましょう。
破音の系列 p-b t-d k-g は、音響を模写するためにもちいられて、擬声音(オノマ
トペア)をつくりだすことがおおいのですが、いろいろの動作や状態をあらわすの
にも役だって、そのばあいに前述のなめらかな、またはなみをうつ進行のもようと
はちがった別種のもようをえがきだします。その次第を畳語的に構成されたものに
ついて観察してみましょう。
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語構成における音韻の表現価(9)
擬態語における音声的描写:佐久間鼎
まずタ行の音節を含むものに、パタパタ・バタバタ・ポタポタ・ポトポト・ポツポ
ツ・コトコト・グツグツ・カチカチなどのように、ものおとが点々とまをおいてく
る擬音的なものが多数ある一方、ゴツゴツと「ごつい」さま、ブツブツと「つぶや
く(ぼやく)」さま、グズグズと「ぐずる」ようす、クドクドと「くどい」ものい
いなど、いずれもスラスラと進行するのとは反対に、ゴタゴタとなにかひっかかり
がある調子のわるさです。
さらに、ポコポコ・ボコボコ・ポクポク・ドクドクなどは擬音的ですが、パクパク
となると、おとはきこえなくとも、くちを開閉するありさまにちがいありません。
「ぱくつく」わけです。セカセカと「せきたてる」さま、ドクドクと「とくり(ト
ックリ)」からつぐさま、ドカドカと「ふみとどろかす」さま、ズキズキとうずき
いたむ感じなどに、音義のたがいに通じあうところがうきあがってくるようです。
チクチクさすようにいたむ、チカチカまぶしくかがやく、ムカムカむねがむかつく、
ズケズケ面とむかってはばからずものをいう、など。いずれもみにしみる感じです
が、おのずから間欠的にせまってくるぐあいが、畳語のリトモ効果でうらづけれて
います。メキメキとそだつというとき、そこにめだって、かつきわだってあらわれ
るという含意があるし、モクモクともりあがるけむりなど、漠々としてハッキリし
51
語構成における音韻の表現価(10)
擬態語における音声的描写:佐久間鼎
たかたちをしめさない、模糊とた光景に当面した感じを与えます。その感触は、
「も(藻)」・「もく」「もや(靄)」・「もぐさ」に通じるものがあり、モヤ
モヤしている「もや」はまた「もえる・もやす(燃)」や発芽の「もやし」に通
じ、「くも(雲)」や「きも(肝・内臓)」にもつながるのではないか、いずれ
もモジャモジャしているところに同趣の感じがあります。
「ブ」・「ボ」の音節をふくむものについてみると、トボトボとあるくたよりな
さはとにかく、ドボドボ・ドブドブは液体のゆれてたてるおとで「どぶ(溝)や
「どぶろく」に縁があるし、ゴボゴボも液体がゆれていれものから「こぼれ」た
り、「こぼす」ときにだす雑音をいうのですし、ガブガブときぜわしくのむよう
すは、かぶりつくようだといわれます。ダブダブするというと、きものなど寸法
がおおきすぎて「たっぷり」しているわけです。
ところが[s] などの擦音の音節がなかにはさまると、コソコソ・ゴソゴソ・ガサ
ガサ・ギシギシのようにおとがでたり、きえたり、つよくまたよわくかわるおも
むきがうつされます。ボソボソかたるのは「ぼやくことです。ゴシゴシやるのは、
ちからをいれてこするのです。ドシドシかたずくのは、順調にことがはかどるす
すめかたをいうわけです。それぞれ緩急の変化のある進行のニュアンスをにおわ
せます。……
52
日本の原像
アイヌ語考
梅原猛
53
註:小泉保縄文語論・梅原猛アイヌ語論・大野晋タミル語論
:品定め
モノゴトの分かり方は、つきつめるとそんなに多くない。縄文基語の場合は次です。
①
コト的理解:規則的音声対応をかっちり分析して、分かったつもりになる。分析対象
そのものは、「閃き」のようにたしかに説明・証明可能である。ただし、
分析対象を一歩離れたコトやサマを日常言語(助辞、助動辞、副詞、代
名詞、接続詞に満ち満ちた表現)で扱うとたちどころに科学を手放す。
②
サマ的了解:コト的理解が原理的に不可能な場合(情報不足など)、そんじょそこら
のやつ枯れのように「直観」で納得した気持になる。デジタルな分析的
説明はできなくて、直観や心証でわかるとしか言いようがない。
③
ムウド的入込み:ほんの少しの極端に激しい思い込みに陥って、短絡的入れ込み状態
になる。(→ ②「梅原文明論」→ ③「大野タミル語説」)試行錯誤を
厭わないところはよい。② の立場に立つ ③ は、なにごとかを言表して
いる感じがしないでもない。 (かどうかは、人によるか?)
小泉縄文語論は ① を支えにしています。梅原アイヌ語論は ②、大野タミル語説は ③ で
す。梅原アイヌ語の取柄は、語根・動詞・身体語に焦点を当てているところです。ついで
に言えば、折口信夫と吉本隆明の古語論は、抑制の効いた ② です。
54
アイヌ文化:梅原猛
……私の提出した仮説の中で、もっとも大きな仮説は、やはり日本の深層文化に関
してであろう。私は、従来のように、アイヌ文化を日本文化と関係ない文化として
みる見方は間違いであると考える。そしてアイヌ文化を沖縄文化とともに、日本の
基層文化である縄文文化が最も強く残った文化と考える。その文化に、日本の基層
構造を解く鍵を見出すと同時に、人類がその生活の 98 パーセントまでを占めてき
た狩猟採集文明の意味を考え直す手掛かりを見つけようとする、巨大な仮説を持っ
ている。この仮説は、今まで私が提出してきたどの仮説よりも数倍あるいは数十倍
大きな仮説で、……
金田一理論の誤謬について私はすでに論じたので……。しかし徳川時代にアイヌの
社会に入った近藤重蔵や村上鳥之丞などは、アイヌの言語に日本の古語の残存を、
アイヌの風俗に日本の古俗をみている。偏見なくアイヌ語を勉強すれば、それが日
本語と異なった言語であるとは、とても考えられないように思われる。
注:金田一理論に対する批判は、次章で紹介しています。
55
アイヌ語の音韻構造・文法・語彙
……音韻構造も文法構造もはなはだ似ている。
母音の数も子音の数もほぼ同じで、母音は 5 つ、子音の数もほぼ日本語と同じで
ある。ただ、日本語にない P 音、CH 音、パピプペポとチャチィチュチェチョがあ
るが、これは日本の俗語でたくさんでてきている。
文法においても、語の順番、名詞に格変化がなく動詞にも語尾変化がない点はもち
ろん「そうではなかろうか」とか「あるのである」という間接的な問いかけや、念
には念を入れる語法が多いところも日本語にそっくりである。(註:文法のほんの
一端を採りあげているにすぎませんが……)
なんといっても、単語が日本語と大変よく似ているのである。私は、アイヌ語の単
語のほぼ 7 割までは、古代日本語とどこかで関係していると思っている。しかも、
その類似は、現代語より、はるかに古代語に多いのである。『古事記』や『万葉集』
さらに記紀歌謡にしか出ないような言葉がアイヌ語に残っている。そしてそれは、
ただ単語の一致ではなくして語根の一致なのである。そしてそれが 2 つの言語でい
ろいろ発展してきた例が無数にあるのである。(註:良い視点です。)
56
註:輯合語(抱合語)
アイヌ語では、文や句の作り方が輯合語(抱合語)とされ、他の言語なら文に相当
する内容を一語で表すことがあります。例えば「私は君に与える」なら
a-e-kore
(私)君に与える
<
a-
e-
kore
私
君
与える
(不定称) (目的格・与格)
のように人称接辞(代名詞)が動詞と融合して一語で表現されます。
57
「クル」(1)
すでに、そういう語根として、服部四郎氏によって、語源「クル(kur)」が指摘
されている。「クル」というのは、アイヌ語で「かげ」のような霊を意味する。そ
れは影あるいは霊、あるいは雲あるいはそういう霊をもった人を意味する。アイヌ
語で「クリ」は影を意味し、「クリムケレ」は「隠す」を意味し、「クロコク」は
暗黒を意味する。
また「クル(kur)(kuru)」という言葉は、影が近づくという意味で、来るという
ことを意味している。また、「クンネ」という言葉は黒という意味であるが、それ
は「kurne」→「 kunne」と変化したものであることは明らかである。この語源「ク
ル」は、日本語においても存在するが、そのあらわれが多少ちがう。「クロ」「ク
ロシ」「クラシ」「クルシム」「クシ」なども同じ語源からくるのであろう。
「クモ」も服部四郎氏のいうように、アイヌ語の「kurne」→「kunne」の変化のよ
うに「kurmo」→「kunmo」→「kumo」の変化によって生じたにちがいない。服部四
郎氏はこの語源「クル」の共通性でもって、おびただしいアイヌ語と日本語の共通
語をすべて日本語からアイヌ語への一方的流入と考える金田一氏の説に疑問をなげ
かけたのであるが、それは疑問だけに止まって、新しい学説を提出するには至らな
かった。
58
「クル」(2)
この「クル」は沖縄語においてもよく使われ、同じような意味をもつ。「クセ」は
霊妙であるという意味であり、「クスク」も霊妙な「スク」という意味である。「
クモ」(雲)は沖縄ではアイヌ以上に霊的なものである。地名でも「クタカ」「ク
メ」など、クのつく霊地が多い。そして「クバ」は沖縄ではもっとも霊妙な植物で
ある。語源的には「kurpa」で霊的言葉であろう。
59
「イリ」
しかし、「kur」のような例は、いくらでもある。たとえば「iri」という言葉がある。
それは一家族の単位をあらわすものである。「イリ」というのは、「一緒に」「と
もに」、という副詞にもなる。アイヌ語でこの「イリ」を語幹としていろいろな言
葉ができる。例えば、「iritak」というのは親族兄弟のこと示す。「itak」すなわち
「言葉」を「ともにする」という意味であろう。あるいは、親戚のことを「イリワ
クネグル」というが、「イリ」は家族、「ワク」は日本語の「ワケ」に通じる。「
ネ」は日本語の「ネ」と同じく、「アル」という意味。……
日本古代語において、アイヌ語の「イリ」にあたるのは「イロ」である。「イロ」
は同じように親族を示すが、母系の親族関係を示すものである。それゆえ「イロハ
」というのは同母の母である。「イロセ」が同母の兄弟、「イロエ」が同母の兄、
「イロネ」が同母の姉、「イロモ」が同母の妹。この「イロモ」がつまって「イモ」
となるのである。この「イロ」はまた「イラツメ」の「イラ」とも「イリヒコ」の
「イリ」とも関係するに違いないのである。……
ちなみに、「イロハ」の「ハ」は、古代日本語の F 音はかって P 音であったという
上田万年説によって理解すれば「パ」の変化と考えられるが、「パ」はアイヌ語で
は頭であり、長である。イリ は日本語では母系親族を意味するので、当然その長で
ある「パ」は同母の母であることになる。
60
「セ」
「イロセ」の「セ」は背負っていくという意味であり、「セレマク」は人間を守っ
ているうしろだてになる神であり、背後霊とでもいうべきものである。「アイヌ」
ではすべての人間にこのような「セレマク」がついているという信仰があるが、古
代日本でも同じことであったと思われる。「わが背の君」というのは、後ろ立てと
して頼りにする君というのであろう。「イロセ」とは、同母集団のもっとも頼りに
する人という意味で、従って同母兄弟を意味するのであろう。
この「セ」は沖縄語でもやはり霊力があるという意味につかわれるが、それは背後
についている霊の意味であろう。『おもろ』によく出てくる「セヂ」のヂは、アイ
ヌ語及び古代日本語の「チ」と同じく、奇怪な力をもつものという意味があるので、
「セヂ」は背後にあって人間を守る奇怪な力をもつものという意味であり、「セイ
クサ」はそういう背後霊の強い軍隊、「セタカ」は背後霊の強い人間という意味を
もつ。沖縄では「セ」は「ク」とならんで霊をあらわす言葉としてもっともよく用
いられるが、その点アイヌと同じである。
61
「イロエ」と「イロネ」
また「イロエ」の「エ」はアイヌ語では身体の下部すなわち尻やセックスを意味す
る「オ」に対立して、上部または顔を意味する。このエ(ヘ)とオ(ホ)との対立
関係は日本語において、エ → オト の関係となって現われている。が、アイヌ語で
はこのエ(ヘ)→オ(ホ)のつく合成語はたいへん多い。これについて本文でもふ
れたが、「イロエ」は母を同じくする兄であって、「イロセ」のように弟を含まな
いのは、「エ」の語義からいって当然であろう。
「イロネ」の「ネ」は「イロアネ」の縮まったものと考えられているが、「ネ」と
いうのはアイヌ語では「アン」とならんで存在を示す言葉であり、沖縄語で「ネガ
ミ」とか「ネビト」とかいう言葉がそれぞれ祭祀を中心的に司る男と女と意味する
ことを考えると、この「ネ」もそういう意味を含んで、家の根の女という意味かも
しれない。
62
「ヒコ」
また「イロモ」の「モ」は、アイヌ語では小さいものを意味するところを見ると、
イロモは同母集団の中に小さい可愛い人間を意味するとみてよいであろう。「イラ
ヅメ」は「イリの女」、すなわち同母集団の女を意味するのであろうが、アイヌ語
では女は「マツ」である。この「マツ」は日本語の「メ」と関係があろう。
また「イリヒコ」の「ヒコ」は、霊力のある人を意味する古代語であるが、「ヒ
コ」はアイヌ語の「ピト」と関係があると見られる。アイヌ語の「ピト」というの
は、けっして人間一般をさす言葉ではなく、霊力のある人間をさす言葉であり、よ
く「カムイ」か「ピト」かというふうに使われる。神か、それとも霊力のある人物
かという意味であるが、沖縄語でも「ネガミ」「ネビト」という形で使われる「ネ
ガミ」は女、「ネビト」は男であるが、いずれも霊力ある人間という意味であろう。
ところが、この「ピト」が先の上田万年のいう音韻の法則で「ヒト」になると共に、
意味を広め人間一般をさすようになったので、新しく霊力ある人間をさす言葉とし
て、「ヒコ」が登場したのであろう。「イリヒコ」というのは同母家族の中に入籍
した霊力ある人間という意味であろう。
63
語源としての「カ」
こんな考察を続けるときりがない。全くきりがないほど、アイヌ語と日本語、特に
古代日本語はよく似ているのである。……
アイヌ語においては、かなり厳密な語源学が可能であると思われる。それはおそら
くアイヌ語が日本語よりも夾雑物が少なく、比較的言語の原始的形態を残している
せいであろう。多くの言語がこの語源研究によって理解される場合が多い。
たとえていうと「カ」という語源がある。「カ」という語源にはいろいろな意味が
ある。もっとも主要な意味は「上」とか「高い」という意味である。この「カ」が
語源となっていろいろな単語を作るが、その場合もやはり「カ」には「上」という
意味が含まれていることが多い。「カム」とかいうのは「上におかれる」とか「覆
う」という意味である。したがって、「カムイ」すなわち神というのは「カム」す
なわち上におかれている、「イ」すなわち「もの」を意味する。「カム」(覆う)、
「カプ」(かわ)、「カサ」(かさ)、「カシ」(上に)、「カキ」(かざす)、
「カマ」(とびこえる)などの「カ」もそういう意味をもっているのである。
以上のアイヌ語にもすでに日本語と共通するものがたくさんある。
64
「カ」
「カサ」「カキ」などは日本語とアイヌ語は同じであるが、「カプ」は、先の音韻
の法則で「カフ」となり、「カフ」が、前の音の母音をとって「カハ」になったの
であろう。
このようにアイヌ語の語源の「カ」という意味が、やはり上という意味であること
はまちがいないが、日本語においても多くのカの字のつく言葉が、アイヌ語と同じ
く上という意味を含んでいるのではないだろうか。たとえば「ピラカ」は、ピラす
なわちガケの上にということになる。このピラは古代日本語においても高いがけを
意味する。たとえば「よもつひらさか」は険しい坂で、決して平らな坂ではない。
また「カタ」は「カ」すなわち上、「タ」すなわち「に」で上にという意味である。
この「カタ」は日本語の「方」の原義を示すものであろう。方が本来上の意味を含
んでいたことは、日本語のあの「お方」はという言葉によっても明らかである。
「カミ」(上)、「カミ」(髪)、「カブト」(甲)、「カツラ」(鬘)、「カン
ムリ」(冠)、「カシラ」(頭)、「カタ」(肩)などの「カ」についても同じこ
とが言えはしないか。沖縄語の「カ」も同じような意味をもつ。「カクラ」は明ら
かに、天の神のいるところである。『おもろ』では「何々カナシ」という言葉で尊
い人を意味するが、カナはアイヌ語では「上の方に」という意味であり、「カナシ」
は上の方にいる人という意味となろう。
65
上代特殊仮名遣いの解釈
先に述べたアイヌの「上におかれたもの」という意味の「カムイ」が日本語の「カ
ミ」と関係をもっていることは明らかである。
日本語の「神」について、それは「上」という言葉と無縁であるという議論がある。
なぜなら、古代日本語の「ミ」には、甲乙 2 種類あり、上の「ミ」は甲類であるの
に対し、神の「ミ」は乙類であるから、二つはもともとちがい、神はけっして上、
すなわち天にいるものとはかんがえられなかったという説である。……
7,8 世紀の日本語にこのような甲類乙類の書き分けがあったことはまちがいないが、
それが果たして、本当に母音の区別であったかどうかは、なお疑問の余地があるよ
うに思われる。この場合、神をあらわす「カムイ」は二重母音であり、「カミ」は
この消滅しつつある二重母音のなんらかの名残をとどめているのであり、単母音の
「カミ」と区別されるのではないかと思う。私がそう思うのは「箕」の「ミ」も乙
類の「ミ」であるが、これはアイヌ語の同じ箕を示す「ムイ」にあたるからである。
2 つの例のみでは十分でなく、この説は他の甲乙 二つの母音をもつ、多くの語にっ
て、検討されなければならないが、この 7, 8 世紀の日本語において存在し、しかも
同時代の東国語に存在せず、9 世紀以後の日本語にもまったく消えてしまう甲乙二
類の母音の謎をとく鍵がこのへんに秘められているように思われる。
66
「モ」
それはとにかく、あの「カ」についていえることは、また他の音についてもいえる
ように思われる。
たとえば、「モ」という語は、アイヌ語では「静かな」とか「小さい」という意味
をもつのである。「モコロ」ということは、「ねる」という意味であるが、「モ」
すなわち「モ」すなわち「静けさ」を「コル」すなわち「もつ」という意味である。
「モイ」というのは、静かなところという意味であり、港湾のことをいい、「モ
リ」というのも、語源的にいえば、「モ」すなわち静かな、「リ」すなわち高いと
ころという意味になる。「モシリ」というのも、静かな場所ということになり、「
モト」というのは静かな湖ということになり、「モロ」というのは静かな場所であ
る住居ということになる。このうち「モリ」と「モト」と「モロ」は日本語にもあ
るが、このような分析も日本語の単語に秘められている原義を示すものであろう。
また、「モソ」とか「モスモス」という言葉があるが、それは「起こす」とか「眠
りをさます」という意味である。あるいは日本語の「モシモシ」というのは、この
「モソモソ」という言葉と関係があるのであろうか。こうしてみると、アイヌ語の
「モ」にははっきり静かなという意味が含まれているが、日本語ではもうそういう
意味をもっていることはほとんどわからなくなっている。
67
「モ」
しかし、日本語の古代語においても「モダス」(沈黙する)とか「モガリ」という
言葉がある。「モダス」ということをアイヌ語で語源的につきつめれば「静かな状
態を保っている」ということになり、「モガリ」は「静かにする」ということであ
る。まさにそれは、それぞれの言葉のもっている意味を明瞭に説明している。
68
「コ」
もう一つの例を挙げると、「コ」である。「コ」はアイヌ語では、何々へ、とか
何々でもってという意味であり、これが動詞の前につくと、一種の合成動詞が形
成される。たとえば、「キラ」は逃げるという意味であるが、「コキラ」はそこ
へ逃げるという意味になり、「イエ」は言うという意味であるが、「コイエ」はそ
れに向って言うという意味になる。「ヌプル」は霊力がますことであるが、「コ
ヌプル」は、それでもって霊力がます、すなわち愛する、好むということになり、
「パン」は弱いとか霊力が衰えるという意味であるが、「コパン」はそれでもっ
て霊力が衰えるすなわち嫌う、憎むという意味になる。
「ネレ」はならしめるとか、真似をするという意味であるが、「コネレ」はそれで
もってならしめるすなわちふんさいする、ということになる。この「コヌプル」は
日本語の「好む」と、「コパン」は日本語の「拒む」と明らかに通じていて、好む
および拒むの真に原義をわれわれに明らかにしてくれているのである。他の、語頭
に「コ」をもつ日本語の動詞についても、同じようなことがいえるかもしれない。
69
「シ」
またアイヌ語には、ドイツ語の再帰動詞にあたるような、自分自身にかかわる動詞
があるが、ドイツ語の sich(ジッヒ)にあたる「シ」なる語がある。たとえば「マ
カ」は開けるという意味であるが、「シマカ」は自らを開ける、失せ去るという意
味になる。時として「シ」が真似をする、ふりをするという意味にもなる。たとえ
ば「モコレ」は、ねかすとう意味もある。「シモコレ」は自らをねかす、ねるふり
をするという意味になる。
ところがアイヌ語はドイツ語とちがって、もう一つ別の再帰の動詞がある。それは
語頭にシではなくヤイのついた動詞である。「シ」と「ヤイ」はどういうふうにち
がうのかよく分らないが、同じように自己にかかわっても、シは身体的自己、ヤイ
は精神的自己にかかわるように思われる。この「ヤイ」のつく動詞がアイヌ語には
きわめて多いのである。このことはアイヌ語がたいへんデリケートな精神を内包し
た言語であることを示している。
70
「ヤイ」(1)
たとえば「アン」はあるであるが、「ヤイアン」は自らある、つまり独立する、「
ヌ」は聞く、たずねるであるが、「ヤイヌ」は自ら聞く、考える、「カラ」は作
る、なすであるが、「ヤイカラ」は自ら作る、まねする、ふりをするという具合で
ある。またヤイウェンヌカラは、自らについて悪く見る、すなわち失望する。ヤイ
ヤイヌコロ、自らについて考えをもつ、満足するなど、「ヤイ」をつかってさまざ
まな自意識の形が示されるのである。
特に興味深いのは「ヤイイライゲ」という言葉であるが、それは字義通りの意味は、
「ヤイ」自らを「イ」それについて「ライゲ」殺すという意味であるが、それが同
時に感謝する、ありがとうという意味をもつ。……マラプトはアイヌ語では、ミヤ
ンゲをもってたずねた熊であるが、それは後に祭壇もささげられた熊の頭でもある。
マラプトはミヤンゲをもって人間の国をおとずれ、そして人間に可愛がられ育てら
れ、その結果、おいしい肉を人間に与えるために殺され、その霊を天に送られる客
人なのである。……
アイヌ語において「ヤイイラゲ」殺してくれという言葉が、同時に有難うという言
葉であるのは、こうした思想が背景にあるからであろう。……
71
「ヤイ」(2)
もう一つ「ヤイ」のつくはなはだ面白い言葉に「ヤイヤパプ」という言葉がる。こ
れは「ヤイ」自己を、「ヤパプ」叱るという意味であるが、あやまちを犯すという
意味と共に、わびるという意味がある。この「ヤイヤパプ」は、「ヤヤパプ」とな
るが、これは私は日本語のあやまるという言葉と関係をもつのではないかと思う。
……
こういうふうに考察すると、アイヌ語の中に日本語の祖語が眠っていて、アイヌ語
の研究はわれわれを、忘れられたいにしえへつれていくが、しかし、このかつての
文化はそのまま現在のわれわれまで伝わっていない。たとえば、この「ヤイ」に
よって微妙で複雑な自己意識を表現する言葉の表現法は、もうすっかり日本語では
失われてしまった。…例えば前述の「コ」及び「シ」、それに上部、顔をあらわす
「ヘ」、下部、尻をあらわす「ホ」など、そういう接頭語をもった動詞的なものは
日本語では失われている。形容詞は「やさしい」「ややこしい」「いやしい」「い
やらしい」などの「ヤ」あるいは「イヤ」のついているものが多いのが、精神的に
高いかつての文化のわずかな名残なのであろうか。……
72
P 音考(1)
一つの言語においては、もっとも変わらない部分が人体語であり、日常使われる動
詞であるといわれている。ところが人体語においてもアイヌ語と日本語、とくに日
本の古代語とは共通なものが多いのである。
少し例を挙げていくと、頭のことを「パ」あるいは「パケ」「サパ」という。さき
に述べたように奈良時代の以前に原日本語にあった P 音が F 音になって、そして
徳川時代に F 音は H 音になったという。日本語と琉球語とが同じ語群の中に入る
という証明の一つに、伊波普猷氏の「 P 音考」というのがある。しかもその P 音
は、沖縄本島より周囲の島により多く残っているのである。しかし沖縄よりアイヌ
において P 音はより多く残っていて、日本語の P 音と対応するものが多くある。
たとえば、「パチ=はち」、「パイ=はう」、「パカリ=はかる」、「パスユイ=
はし」、「ペケレ=光」、「ピラ=ひら」、「ピト=人」、「プ=府」、「プリ=
ふり」など、日本語の F 音に対応するアイヌ語の P 音をもつ単語をたくさん探すこ
とができる。アイヌ語にも F 音及び H 音があるところをみると、もともと日本には
F 音、 P 音の別があったのに、現代の朝鮮民族のように、 F 音と P 音の発音を区
別することが出来ない人たちが多量に入ってきたために、P 音は F 音の中に消滅し
たのではないかと思われる。なおアクセントの強い PO 音は、強いアクセントを残
73
P 音考(2)
して KO 音になったのではないかと思われる。私は昔から疑問にしていたことがあ
る。小という字は中国語では「ショウ」と発音するのであろうが、しばしば「コ」
あるいは「オ」と読まれる。たとえば「小山」は、多く「コヤマ」と呼び、小川は
「オガワ」と読む。この「コ」とか「オ」というのは、もともとの日本語の訓であ
るに違いないと思われるが、なぜ下に山のきたときは「コヤマ」と読み、下に川の
きたときは「オガワ」と読むのか、よくわからなかった。今の国語学でそういうこ
とがよく説明されているか分らないが、そういうことを明らかにしてくれる書物を
私は読んだことはない。
アイヌ語を日本語の古語の残存と考え、そこから例の音韻の法則で P 音が F 音に変
わったと考えればよく分る。小さいというのは、アイヌ語において「ポン」である。
これは俗語においてうちの「ボン」がという言葉で残っている。この「ボ」という
のは、小さい可愛いから「子供」という意味になる。小川の場合、「ポン・ガワ」
であるが、それが「ホン・ガワ」になり「オガワ」になったと考えられる。しかし、
小山の場合は、「ポン・ヤマ」であるが、下に母音がくるため「ポン」のアクセン
トが強いので、「ポン」は先に子の場合と同じく「コン」となり「コヤマ」となっ
たのではないか。
74
P 音考(3)
アイヌ語の P 音を日本語の F 音に対応させて日本語の意味を考えると、いろいろ
なおもしろいことがある。たとえばアイヌ語では日本語でいうと、「ピ」あるい
は「ミ」というのは、霊力のあるものを示している。ところが、アイヌ語では、
「ピ」というのは木でいえばタネであり、肉でいえば脂肪、つまり植物および動
物の基本の生命力の中心が「ピ」である。こう考えると、古代日本語の「ピ」が
どうして霊力があるものを意味しているのか、よくわかってくるし、また、「ヒ
メ」(霊力ある女)や「ヒコ」(霊力ある男)の意味もわかってくるのではない
か。
また、日本の思想が論じられるとき、よく語られるのは「ハレ」と「ケ」の区別で
ある。「ハレ」というのは、アイヌ語でいえば「パレ」にあたるが、「パレ」とい
うのは、見あらわしめることを意味する。まさにそれは、晴れの舞台という言葉の
真の意味を示すものであろう。「ケ」というのはアイヌ語の「ケウ」にあたると思
われるが、それは死人や骸骨を意味するのである。それゆえ少なくとも語義からい
えば、「ハレ」が「ケ」と対立する言葉であるかどうかは疑問である。こうしてみ
ると、音のみを考察してもいろいろおもしろいことがいっぱいある。
75
「パ」:頭
本題にもどると、「パ」というのは頭であるが、これは、日本語でも「山のは」と
いう言葉に残っている。「パケ」という言葉は日本語に残っていないが、「ハケ」
あるいは「ハゲ」という言葉が、そういう意味の名残を残していると思われるが、
それは考えすぎであろうか。
「サパ」という言葉は頭であると共に部族の首領を意味する。「サパ」も日本語に
はないが、あるいは「騒ぐ」という言葉にそれは残っているのであろうか。おそら
く、弥生人がわが国にやってきたときに、日本の各地にはたくさんの土着の首領が
あって朝廷の意に服しなかったに違いない。反乱を起こしたことで「サワグ」(騒
ぐ)という言葉になったのかもしれない。一方、日本語で「アタマ」というのはア
イヌ語でとくと「自らの魂」ということになり、「カウベ」をアイヌ語でとけば「
カウンペ」と思われるけれども、それは、「カ」上、「ウン」はある、「ペ」はも
の、上にあるもの、という意味になる。
76
「シク」:眼(1)
また眼のことをアイヌ語で「シク」というが、「シク」というのは編物のパターン
の名前でもあり、□とか▽の形をいう。この形もやはり、眼と関係しているのであ
ろう。おそらく目は、人間の魂の中心であり、エネルギーが集まるところと考えら
れているのであろう。アイヌの『ユーカラ』を読むと、しばしば「眼のない死人」
という言葉が出てくるが、眼のない死人という意味は、もう再生することのできな
い死人なのであり、眼のある死人は、再生可能な死人なのである。また「シクヌ」
というのは生きているという意味である。「シコ」というのは生まれるという意味
であるが、「ヌ」というのは豊か、「オ」というのは存在しているという意味であ
り、「シクヌ」は眼が豊かだ、すなわち生き生きしている、「シクオ」すなわち眼
が存在する、生れるという意味である。この直接眼を表す「シク」という言葉は、
日本語には失われているように思われるが、こういう意味の言葉は日本古代語にも
残っている。たとえば、シキシマ(敷島)とう言葉がある。敷島とうのは、三輪山
の裾野が2つの川にはさまれてできた三角形の土地である。先ほどの後のパターン
▽の形の土地である。この磯城の里は、大和ではもっとも神聖な場所であり、日本
古代国家発生の場所であったのである。今でも、この二つの川にはさまれた三角形
の地帯では、寺がつくられないのである。そこは古くからの神聖な場所であり、寺
77
「シク」:眼(2)
のような海外から渡来した穢れたものを今でも拒絶しているわけである。河内にも
磯城の里があり、そこに雄略天皇のときに、天皇家と同じような家をつくっていた
豪族が住んでいて天皇におとがめをうけたことが『日本書記』に記せられている。
この河内の磯城は、のちに信貴と書かれる。この「シキ」はおそらく「しきのひも
ろぎ」とか「ももしき」という言葉とも関係があろう。あるいはそれは「しきが
み」(識神)という言葉とも関係あるかもしれない。いずれもそれは、アイヌ語の
「シク」がもっている眼のような中心的な重要なものという意味を含んでいる。
ところが、おもしろいことには、この「シキ」の変形と思われる「シケ」というの
は、琉球語においても聖なる場所であり、『おもろ草子』においても「しけ」とい
う言葉がしきりに出てくる。「しけ」というのは聖所であり、神の在所であり、
「しけかけのかみにしや」というのは、神のまします聖域を守護する神女様をいい、
「しけち」とうのは神の酒を意味するのである。ここでは「しけ」は神聖なという
意味の形容詞にもなる。また、仲松弥秀氏によれば、沖縄の多くの地名につく「ぐ
すく」という言葉も「しけ」あるいは「しき」から出てきたという。やはり聖所の
意味であるが、後に城の意味になったのであろう。「ぐすく」の「ぐ」を先のアイ
ヌ語の語源で考えると、「クル」になるであろうが、「クルスク」あるいは「クル
シキ」と考えれば、暗い、霊がうごめく聖所ということになるのであろう。
78
「シク」:眼(3)
おそらく「シキ」という言葉は、眼の意味からだんだん聖所をあらわす意味が強く
なったので、人間の眼をあらわす言葉としては不適当になり、「メ」という言葉に
かわったのであろう。しかし、眼という言葉はどこからきたかよく分らない。古代
日本語では「メ」は「マ」ともなるが、アイヌ語では、「マク」というのは開くと
いう意味をもつ。古代日本語でもアイヌ語と同じように「マ」というのは開いた小
さい場所である。「メ」「マ」はあるいはそういう意味と関係するかもしれない。
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「エツ」:鼻
アイヌ語で鼻のことを「エツ」というが、「エツク」は、出る、つき出すという意
味である。この「エツク」という動詞は、日本語の「イツ」すなわち「出づ」とい
う動詞と同じものであろう。「エツ」というのは、鼻ばかりか鳥の嘴や刃物の先端
を意味している。とがった先端が「エツ」であり、丸い先端が「ノト」である。「
ノト」は、また顎を意味する。日本語の地名で、「イト」とか「イズ」とかいう名
をもつところは、尖った鼻型の半島に多いし、「ノト」という名をもつところは、
丸い顎型の半島に多いのである。
あるいは「いつく」(厳く)という言葉も突出する、すぐれたという意味から、「
シク」の場合と同じように、神聖なという意味に変ったのかもしれない。とすれば
「エツ」という言葉は、鼻をあらわす言葉としては失われてしまったが、なおそれ
に関係する言葉は強く日本語に残っているといえる。『おもろ草子』においても「
いつこ」という言葉があるが、これは威勢のよい人、尊厳な人という意味であり、
兵士をさす「厳く子」と考えられる。日本語の「ハナ」という言葉はアイヌ語の「
「パナ」にあたるが、「下に」という意味であろう。下に向っているもの、という
意味が転化したのかもしれない。
80
「パ」「チャ」:口
口のことをアイヌ語では「パ」あるいは「チャ」という。この「パ」は日本語の歯
と関係するのではないかと思う。おもしろいことには、アイヌ語で「クチ」という
のは、喉のことを意味するのである。そして、「ノツ」とういうのが顎のことを意
味するのである。少しずつ位置が移動し、アイヌ語の「ノツ」すなわち顎が日本語
の喉になり、アイヌ語の「クチ」すなわち喉が日本語の口となり、アイヌ語の「パ
」すなわち口が日本語の歯になったわけである。これは先ほどの「シク」「エツ」
の意味の変化とともに二つの言葉の関係を考えるうえで実に興味深い。
アイヌ語で口をあらわす「チャ」というのは、日本語でも俗語で残っているように
思われる。「ちゃちゃを入れる」という言葉は、冗談口を入れるという意味である
が、アイヌ語で解すれば正しく口を入れるという意味になる。チャランポランとい
う言葉も、アイヌ語を考えれば、よく分かるだろう。「チャ」は口、「ランゲ」は
「投げる」、つまり「チャランゲ」は「議論する」という言葉である。アイヌ社会
では、二つの集団がトラブルを起こした後、徹底的に「チャランゲ」すなわち議論
で勝敗を決する。「ポラン」は空しいことを示すから、チャランポランという言葉
は「議論がむなしい」ふざけたことを言うという意味であろう。この「チャ」は同
時に「パ」と同じく、頭や顔をも意味するが、沖縄語でも「チャラ」はすぐれたと
いう意味であり、「チャラカミネ」というのはすぐれた嶺、「チャラツツ」という
のはすぐれた按司という意味である。これの点も本州で失われた意味が北と南に残
っている。
81
「キサル」:耳
耳のことをアイヌ語では「キサル」という。これはもう日本語では残っていないけ
れど、わずかに「象潟」とか「木更津」という地名に残っているように思われる。
これはやはり、耳の形をした湾であり、耳の形をした港を意味するのではないかと
思われる。象のことを「キサ」というが、これはやっぱりゾウの大きな耳に注目し
たからではないかと思われる。またアイヌ語で「キサラミミ」というのは耳たぶの
ことをいうが、「ミミ」とうのは肥えた肉をいう。耳の肥えた肉という意味であり、
「キサラ」という言葉のかわりに、耳たぶを意味する「ミミ」が、耳全体を表す言
葉になったのではあるまいか。
82
「テク」:手
手は、アイヌ語では「テク」であり、これは日本語の手と同じである。このアイヌ
語の「テク」という言葉は日本語と同じく多くの合成語を作るが、この「テク」は
日本語の動詞「て」と同じようにも用いられる。おそらく助詞「て」の原イメージ
は「手」と「手」が結びあっているというイメージであろう。このような身体的イ
メージから、時間的継続のイメージが生まれたのであろう。
83
「チキリ」「キリ」「ケマ」「ウレ」:足
足のことをアイヌ語では「チキリ」とも「キリ」とも「ケマ」とも「ウレ」ともい
う。こういう言葉は、すでに古代日本語においてもほとんど使われていないが、方
言などの中に、いまだに残っているように思われる。子供のときに片足でとぶ遊び
をよくしたが、それは「チンギリ」「チンチンギリギリ」といったものであり、チ
ンもキリも同じく足である。柳田国男の有名な「チンギリ考」はアイヌ語を入れて
考えるとより明白になる。「ケマ」という言葉も、衣が裾にからまって足がもつれ
ることを意味する「けまとひ」とか袴の裾まわしをいう「けまはし」という言葉に
残っているかもしれない。「ウレ」とう言葉は、アイヌ語では足の先を意味する。
これはやっぱり古代日本語でも、草の葉の先や枝の先を意味する「うれ」という言
葉に残っている。「キリ」というのは「ピンからキリまで」という俗語に残ってい
る。また「アシ」とうのはアイヌ語で立つとか、起き上がるとう意味である。また
それは吹くとか、降るという意味にもなる。この意味は「あまあしが早い」とか「
出あしが遅い」という言葉に残っているが、おそらく、この立つという動作を表す
言葉がいつのまにか「足」そのものを示す言葉に変わったのであろう。
84
「セツル」:背
また、背は「セツル」であるが、これは「セ」すなわち背負う、「ウツル」空間か
らきたと思われる。「ウツル」はアイヌ語で「ウツルアン」というと減ずる、減る
ことを意味し、「ウツルタ」はアイヌ語で間にを意味する。これは日本文化を考え
る重要な言葉あるうつる、うつろうという言葉と同根であろう。
85
「レラリ」「ラム」:胸
また、胸は「レラリ」あるいは「ラム」である。「レラ」は風であるので、「レラ
リ」はやはり呼吸と関係があるのであろうが、「ラム」のほうは魂であり、前に私
が論じたように、日本語の「タマ」に当たる言葉である。アイヌ語ではラリルレロ、
すなわち R 音が語頭に立つことが許されるが、古代日本語では朝鮮語のように、 R
音が語頭になることが許されなかった。そこで、R 音が N 音にあるいは T 音に変わ
ることによって語頭に残ることができたと思われるが、この R 音のついた言葉は古
代日本の語としてわずかに残存している。かつて山田孝雄が指摘したよく祝詞に出
てくる「おおみことらま」「やつこらま」という言葉も、このようなおおみことの
魂、やつこの魂という意味であろうし、『書紀』のヤマトタケルの歌った「大和は
国のまほらま」という言葉の「まほらま」も大和は日本国の最もすぐれた魂という
意味であろう。また、推量の助動詞「らむ」とか「らし」というものも、アイヌ語
の「ラム」すなわち心とつながっていよう。
86
「ホン」:腹
「キノブ」:肝
なお、腹はアイヌ語では「ホン」である。これはわずかに日本語では「ポンポン」
が痛いという小児語で残っているように思われる。逆に日本語の「はら」はアイヌ
語の「パラ」に当たるが、「パラ」は口という意味の他に、広いという意味がある。
日本語の「原」は、そういう広いという意味の「パラ」とつながっていると思われ
るが、あるいは、「腹」もそういう体の広がった部分を意味するのかもしれない。
面白いのは、アイヌ語の「コトロ」という言葉である。「コトロ」は広がったとこ
ろ、物の側面を意味し、女性の広い胸などをさす。私は、日本語の「こころ」とい
うのは、この「コトロ」が転化したのではないかと思う。また日本語の「ところ」
というのも同じように、この「コトロ」の転化ではないかと考えている。心と所と
は、日本語では全くちがった意味になるが、あるいはその語源は同じではないであ
ろうか。また肝のことを「キノプ」という。日本語でも肝に銘ずるという言葉があ
り心を示すが、この「キモ」は沖縄語では全く心という意味と同じ意味に用いられ
る。「キモタカ」心が高い、「キモチヤサ」心が痛い、気の毒な、などである。
87
「カパラ」:薄い 「ポネ」:骨
また、先に言ったように「カプ」とうのは皮であり、「ポネ」というのは日本語の
骨である。おもしろいのは、アイヌ語の「カパラ」というのは薄いという意味であ
るが、そう考えるとなぜ薄い土器を「かはらけ」というのかよくわかる。「かはら
け」というのは陰毛が薄い女をいう俗語であるが、アイヌ語で「カハラ」を薄いと
解釈すれば、その意味は明白である。『おもろ草子』の中で「カハラ」という言葉
があり、伊波普猷氏ははじめ瓦と解したが、後にそれが曲玉であることが分った。
どうして曲玉を「カハラ」というのか分らないが、アイヌ語で「カパラペ」という
のは、きれいだ、美しいという意味であるのとあるいは関係するのであろうか。
88
動詞
一つの言語において、もっともかわらないものは、日常使われる動詞であるといわ
れる。……
今、思いつくままに、二つの言語に共通の意味をもつと思われる動詞をあげていく
と、表のような動詞が思いつく。アイヌ語のほうは、バチェラーの『アイヌ、イン
グリシュ、ジャパニーズ辞典』によったわけであるが、日常的にもっとも多く使わ
れる動詞に、二つの言語の密接な関係を思わせるものが多い。
なお一言ことわっておくと、アイヌ語には日本語のようにいわゆる動詞の活用とい
うことはないことである。この日本語の動詞や助動詞の活用をどう考えたらよいか、
むずかしい問題であるが、蒙古語などには日本語とよく似た活用があるという。…
もしも、私が考えるように、アイヌ語が縄文語の面影をもっとも強く残している言
語であり、いわゆる日本語のほうは、弥生人によって、大へん変化した縄文語であ
るとすれば、弥生人によってもとの縄文語が訛って、動詞や助動詞の活用ができた
と考えなければならない。…こういうことも、アイヌ語と古代日本語それに琉球語
を加えた綿密な比較研究によって明らかになるのではないかと思う。
89
動詞比較表
a,an
ー
are
ー
ashi
o
ある
ー
ー
oro
ne
あらしむる
立つ(足)
入れる
ー
ー
入っている(おる)
ある、なる(ねる)
mokoro -
shini
ー
眠る
hawe
ー
hawash
語る、声
-
言う(はやす)
hawash an
ek ー
ariki
ー
makan
san
そういう噂である
来る(単)(いく)
kuru ー
休む
ー
造る、なす
yara
させる
ー
yomne
ー
koro ー
とる
近づく(来る)
ta
たたく
ー
下から上へ行く(退却する)tuk
上から下へ行く
ー
出る
転ばす
消える
oman
ー
行く、進む(単)
kiru -
nak
ー
なしに
paye
ー
行く、進む(複)
hachiu
arapa
ー
行く
kaki -
ku ー
食べる
のむ
tori ー
ー
唾
tomari
kam ー
肉
yantone
いう
nupuri
ー
ki ー
なす
iki -
なす
non
ye
itak
nure
ー
ー
ー
語る
知らしめる(宣る)
止まる
ー
港(留る)
-
宿る
山(登る)
突く
etu ー
ー
-
与える
uk ー
ush
ibe,e
止める
来る(複)(歩く)
-
-
kara ー
turi
ー
かざす
ー
nore
pakari
刺す
のぼす
ー
ー
ねる
はかる
yupu
ー
結ぶ
yak
ー
こわす
90
自動詞と他動詞
この点は、以後の研究にまつが、動詞のつくり方についても両者は著しい共通性を
もつ。たとえば、アイヌ語の「ゲ」という言葉を自動詞の語尾につけるとそれは他
動詞になる。たとえば「ライ」は死ぬであるが、「ライゲ」は死なしめる、殺すと
いう意味になり、「サン」は下がるであるが、「サンゲ」は下すという意味になる。
…また、アイヌ語で「レ」というのは、受動をあらわし、自動詞を他動詞とする。
たとえば「パ」というのは見出すであるが、「パレ」というのは見出さしめるとい
う意味になる。この「パレ」は「晴れ」の語源であろうし、「ばれた」という俗語
にも関係しよう。「あ」はある、座る、「あれ」はあらしめる、置くということに
なる。この「あれ」は古代日本語の「生きる」を意味する「あれ」という言葉と関
係していると思われるが、日本語においても「る」「れる」は受身、使役の自動詞
である。……
91
「ア」と「アン」
先の動詞の表について少し説明すると、「ア」あるいは「アン」は、あるという意
味であるが、アイヌ語においては同時にそれは吾を意味する。この吾は、人称代名
詞というより人称接頭語で、名詞や動詞につくのである。つまり、アイヌ語におい
て一人称をあらわすときは必ず「ア」および「アン」という人称接頭語をとる。こ
の点は古代日本語においても同じであり、かえって平安時代の言葉より奈良時代の
ほうが人称接頭語をよりはっきりとっている。また沖縄語において「ア」の古形で
あると思われる「アン」が『おもろ草子』に残っているが、現在でも沖縄では私の
ことを「ワン」といっている。
それはとにかく、「ア」が吾という意味とともに存在するという意味をもつのは、
大へん興味深い。その座っている存在である「ア」が立つと「アシ」になるのであ
る。この「アシ」は先に述べたように、日本語の「足」と関係があろう。「ア」に
たいして「オ」は入っているという意味になる。これは日本語の「をる」というこ
とと関係していると思う。「ネ」も存在をあらわす言葉であるが、同時に繋辞とし
て用いられる。またそれはなるという意味にも用いられる。また、「そうね」とか
「バカね」という「ね」もこういう「ネ」とどこかで通じていると思われる。アイ
ヌ語でねることは「モコル」であるが、「モコル」は静かな状態を与えるという意
92
「モコル」
味である。この「モコル」は古代日本語でも「もごよふ」という言葉にわずかに残
っているように思われる。「もごよふ」というのは、匍匐逶地と「神代紀」にあり、
この逶地を「もごよふ」と読ましていて、蛇などがくねくね動くさまと解釈してい
るが、もしアイヌ語の「モコル」と関係するとすれば、蛇などが、さめているのか、
ねむっているのか分らないような様をしていると解すべきであろう。この「モコ
ル」は、どこかで「ムクロ」あるいは「マクラ」と関係しているように思われる。
また、アイヌ語で休むということを「シニ」というが、それは日本語の死ぬという
言葉になったのであろう。古代日本語でもアイヌ語でも、死ぬことを直接いうこと
はさける。アイヌ語では死ぬことを「ライ」というが、古代日本人には発音できな
いこともあり、「休む」を意味する「シニ」が死ぬという言葉の代用として用いら
れたのであろう。また「ウシ」というのは消えるという意味であり、これも日本語
ではなくなるという意味であり、人が死ぬ場合にも使われる。アイヌ語の「ナク」
というのは、副詞であり、「シクナク」眼がないなどというふうに用いられるが、
これが日本語の「ない」という形容詞と通じるのであろう。
93
「エ」
また「エ」あるいは「イベ」は食べるという意味であるが、「イベ」は食物という
意味にもなる。日本古代語の「いひ」はまさに、アイヌ語の「イベ」と同じ意味で
ある。P 音が F 音に変わっただけである。また「エ」のほうは、「えさ」とか「え
もの」という形で残っている。「ク」の方は飲むであるが、おそらくそれがいつの
まにか食うという意味に用いられるようになったのであろう。「酒くらい」という
のは、そういう飲むを意味する「ク」の名残であろうか。逆に日本語の「のむ」は
アイヌ語の「ノン」唾と関係しているように思われる。そして日本語の「かむ」は
アイヌ語の「カム」肉とつながっているのであろうか。「いう」というのはアイヌ
語では「イエ」であり、大切な言葉をいうときは「イタク」であるが、「イタコ」
と「イチコ」と関係があろう。またアイヌ語の「ヌ」というのは、知覚するという
意味であるが、「ヌレ」は知らしめるという意味となる。これも祝詞の「宣る」と
いう言葉と通じよう。
94
「ハウエアン」
なお、「ハエウエ」という言葉も「話す」という動詞であると共に、声を意味する。
「ハウエアン」というのは、そういう声がする、そういう噂であるという意味であ
る。この「ハウエシ」というのが「はやし」となり、神楽ばやしというような形で
残っていると思われる。そしてしばしば日本語の K 音がアイヌ語の H 音に対応す
るところを見ると、「ハウエ」は「コエ」でもあろう。「ハウエアン」とうのは、そ
ういう声があるという意味であるが、それと対応して「フミアン」という言葉が用
いられる。それはそういう様子であるとかそういう有り様であるという意味である。
この「フミ」は私は日本語の文に対応するのではないかと思う。
95
「エク」
また「エク」は来るという意味であるが、現在地を終点として場所を変わることを
意味するのであろう。この「エク」の複数が「アリキ」である。古代日本語におい
ては、現在地を離れてあるいは現在地を経過点として場所を移動することを意味す
る。つまり、長い間に、現在地を離れて場所を変わる現行語の「行く」という意味
に変わったのであろう。古代語の「いき」はなおどこかにかつての意味を残してい
るのである。こういう意味の変化は『万葉集』に出てくる「はるされば」という歌
の「去る」という意味が、ここでは春が来ればという意味であることによっても分
かる。「アリキ」は「エク」の複数であるが、今の日本語では歩くという動作をあ
らわすが、古代語では、A から Bへと場所を変わることを意味する。ここにも「エ
ク」の複数「アリキ」の古い意味が残されているように思われる。『おもろ草子』
には「ありきゑとのおもろ草子」という巻があるが、この「ありき」は船があちこ
ち航海することで、現代日本語のあるくとは遠いが古代日本語やアイヌ語とはそれ
ほど遠くはない。日本語の来ると関係するのは、アイヌ語の近づくと言う意味の「
クル」であると思われるが、これは影が近よるという意味である。なお、アイヌで
は家は多く海から離れて山手に作られているが、この低い湾から高い山へ行くのを
「マカン」といい、反対に高い山から低い湾の方へ行くのを「サン」という。
96
「オマン」「トマリ」「ヌプリ」
これは日本語のまかると下がるという動詞の語源ではないかと思われる。日本語の
行くにあたるのは、「オマン」であるが、その複数は「パイエ」である。この「オ
マン」の場合も、「エク」の場合と同じように、単数と複数は違うが、日本語の場
合は、それぞれ多少異なった意味をもつ動詞になる。「パイエ」ははうという動詞
につながると私は思う。とすれば、よばいというのは、夜はっていくことではなく、
夜行くことなのかもしれない。「アラパ」も行くであるが、それは日本語の現れる
という言葉と関係があると思われる。
「トリ」は止るであるが、それが日本語の取るという動詞と関係するかどうかは分
からない。むしろ鳥の原義がこの止るということと関係があるのではないかと思わ
れる。なお「トマリ」はアイヌ語で港であるが、この「トマリ」が日本語の止まる
に通じることはまちがいあるまい。面白いのは「ヤントネ」という言葉であるが、
それは宿るとうい意味である。また「ヌプリ」は山であるが、それは霊力が強いと
いう意味である。山には死霊がいると考えられていたのであろう。この「ヌプリ」
は登るという日本語と関係あるのではないか。
97
「キ」
「カラ」
アイヌ語でことをなすことを、「キ」というが、これにはそれを意味する「イ」が
ついて「イキ」となるが、それも同じように、なすとかするという意味をもつ。そ
れは強くある動作をするという意味であるが、この「キ」は過去助動詞「キ」と関
係すると思われるし、「イキ」の方は「生く」とつながるのではないかと思われる。
もう一つアイヌ語でよく使われる動詞の一つが「カラ」であるが、「カラ」は造る
とかするとかぬうとかいう、人間の多くの動作を指す。語源からいえば、「カ」は
上に、「ラ」は下にということになり、身体を上下に動かす意味ではないかと思う。
日本語で「かる」に当るが、「かる」はあるいは「駆る」であり、あるいは「刈
る」であり、やはりそれらは人間の体を激しく動かす動作であり、アイヌ語の「カ
ラ」の原義をよく表しているのではないか。「ヤラ」はさせる、日本語のやらすに
当り、「ヨムネ」はやむに当るであろう。「コレ」は与えるであり、日本語の「く
れる」に当るであろう。「ウク」は日本語の受けるよりは、取り上げるという意味
が強いが、おそらくかつてはそういう意味をもっていたのであろう。
98
「タ」「ツク」「エズ」「キル」
「タ」はたたく、「ツク」は突く、「エズ」は出づであるが、「キル」は転ばすと
いう意味である。それが、「斬る」という言葉に転化したかどうかは分からない。
「ハチル」はたおすと言う意味であるが、日本語のおちるという言葉に通じるので
あろうか。「カチウ」は刺すという意味であるが、勝つという動詞は、そこから出
てきたのであろうか。「マカン」は、下るという意味と共に退却するという意味が
あるが、そこから負けるという言葉が出てきたのであろう。「カキ」はかざす、「
ツリ」はのばす、「ノレ」はねる、「パカリ」ははかる、「ユプ」は結ぶ、結う、
「ヤク」はこわす、焼くなど、この種の動詞を探せばきりがない。
このような言葉の関係は、動詞のみに限らないが、特に日常もっとも多く使われる
動詞は、長い間変りにくく、従って共通語が多いのであろう。
99
どうしようもない類似
そして、このおびただしい共通語には漢語系のものは一つもない。……
とすれば、歴史時代以前におびただしく移入したことが考えられるかもしれないが、
一見してアイヌ語の方が古い言語であると思われる場合が圧倒的に多い。もしこれ
を移入語とすればどうしてこのようにおびただしく移入語が日本語からアイヌ語へ
と歴史時代以前に移入したかを証明しなくてはならない。また、この共通語をみと
めず、すべてこれらの類似を偶然の一致と考える人もあろうが、こういうことが偶
然に起る確率は何万分の一、あるいは何十万、何百万、何千万分の一であろう。自
然人類学の成果を参照しつつ、アイヌ語を縄文語の名残と見て、日本語を弥生人に
よって大へん変化された縄文語と考える方がこういう 2 つのほとんどありえないこ
とを当然と考える説より、はるかに科学的であろう。
私は言語学の専門家ではないから以上の叙述の中にも多くの誤りがあるかもしれな
い。しかし、このような類似はどうしようもないと思われる。言語学の専門家など、
私の誤解を指摘してくれることも結構であるが、それ以上にアイヌ語と沖縄語を一
生懸命勉強して、それと日本語の徹底的な比較研究を行ってほしい。それによって
日本語の研究が進むことはまちがいないと思う。……
100
日本の深層
梅原猛
101
埴原和郎説:梅原猛
註:アイヌは、ウラルアルタイ系の血も引いてないか →
日本人バイカル湖畔起源説
新モンゴロイド(北方、ユーラシア系) 古モンゴロイド(南方、スンダ系)
渡来人
縄文人
小進化
近畿人
倭人
日本人
アイヌ
東北人
註:自然人類学的知見: ①
頭の型(短頭・中頭・長頭)
②
指紋(弓状紋・蹄状紋・渦状紋)
③
耳垢(湿・乾)
註:この他に、歯の型がある。ついでに、体型(手・足・胴)、体毛なども言及される。
102
註:北方モンゴロイド説の背景
石刃石器:
石刃技法(32000年前、その後ナイフ形石器の全盛)
細石刃石器(13000年前、バイカル湖の楔形細石刃文化、北海道から東日本へ)
東日本
クサビ型細石刃核
荒屋型彫器あり
西日本
半円錐形細石刃核
九州
クサビ型細石刃核
荒屋型彫器なし
農耕文明:
農耕文明では、文法単純化、人称・格単純化、語順の利用などが起きた。縄文文明
でも、例えば三内丸山でもこういう事情はあるかもしれません。ただし、膠着語・
抱合語の上での話です。
103
金田一理論の誤謬;梅原 猛
金田一理論では、人類の言語は
① 屈折語(語尾変化で人称・主格・対格などを区別する)
② 孤立語(一語一義である)
③ 膠着語(膠のように語・句・文をつなげる)
④ 抱合語(名詞・動詞に人称接頭語がつく)
からなるとする。
そして、アイヌ語は抱合語で、日本語とは別系統である。類似語・共通語・同一
語・相似語はすべて、日本語からアイヌ語への移入であるとみなす。
梅原猛はこれに対し、以下のように異を唱えます。語根や人称代名詞や身体語や
動詞に焦点を当てているところは、冴えています。
なお、折口信夫や吉本隆明は抱合語という言葉は使いませんが、重畳語法や逆語
順の時代が先史時代にあったという考察をしています。
104
反論(1):梅原 猛
言語は小進化する。……アイヌ語でも、アイヌ語の古代語と思われるユーカラ語では
屈折的性格は強いが、日常語では屈折語的な言い方は略される傾向にある。……
日本語の、とくに古代語の性格についての認識に欠ける。古代語のいちばん古い人
称代名詞は、アとワだが、アはほとんど主語として用いられない。アは「あずま」
とか「あがわ」とか「あどり」などの名詞の接頭語として用いられていると山田孝
雄が指摘しているが、これは、まさに接頭語的な用法である。……(下線は筆者)
ワには必ずハという助詞がつくが、アはワとちがって、古い段階では人称接頭語的
な色彩が強い。しかもアイヌ語の一人称はアである。日本の古代語の二人称代名詞
はイとナである。…日本語には四母音だった時期があると考えられる。エ音がイ音
に変化した時期がある。古い日本の人称代名詞のイは、エが変化したものだ。日本
の古代語の二人称代名詞は朝鮮語の一人称と同じだ。つまりアはアイヌ語の一人称
であり、ナというのは朝鮮語の一人称であるというのはたいへん象徴的なことでは
ないか。日本語の古代語では三人称代名詞はない。……
そう考えると、日本語は抱合語的な性格を多分にもっている言語だといわざるをえ
ない。……
105
反論(2):梅原 猛
もう一つ、ひじょうにまずいところは、日本語との相似語及び同一語をぜんぶ一方
から他方への、日本語からアイヌ語への移入語と考えたことだが、これは言語理論
からみてどうしても成り立たない。なぜならば、言語学では移入語は名詞がほとん
どであると考えられるからだ。…日本語の古代語の動詞の三分の一、あるいはそれ
以上はアイヌ語の動詞と同一あるいは類似である。……
そう考えると、金田一説から自由になって、われわれは日本語とアイヌ語を考えな
ければならない。これには比較言語学の方法をもちいるべきだと考える。ヨーロッ
パ諸語を比較研究したフランスの A・メイエは、動詞の変化形をみていって、だい
たい 2 つの言語を引きあてている。…この理論で十分だと思う。縄文語がもともと
日本列島にはあって、それはウラル・アルタイ系の言語だと思うが、ウラル・アル
タイ系の渡来人の言語に影響されて和語ができた。ところがこの和語には土着語の
影響が強い。また一方、縄文語があまりほかの言語の影響を受けずに小進化したの
がアイヌ語である。そして和語がまた小進化して現代日本語になった。こういう理
論構成で十分だろうと考える。……
106
相似点と相違点(1):梅原 猛
そのためには、アイヌ語と日本語はどういう点が相似していて、どういう点がちが
っているか、違いが起こったとしたら、その違いは何であるかということの証明が
必要である。
相似点の一つは、母音が 5 つで、子音が日本語とほとんど同じという点だ。ただし
アイヌ語では現在も p 音が生きているが、日本語には p 音がほとんどない。これは
すでに奈良時代以前に p 音が f 音になって、江戸時代に f 音が h 音になったという
ことが考えられる。このアイヌ語の p 音と日本語の f 音、h 音が対応関係にある。
あるいは、チャ、チィ、チュ、チェ、チョの発音が、アイヌ語にはあるけれども、
日本語にはない。しかし、日本語においても、俗語には、チャ、チィ、チュ、チェ、
チョの音は多いわけだ。
もう一つ大事なことは、 n を除いては、開音節つまり母音で日本語は終わっている
が、アイヌ語で閉音節で終わる語が若干ある。こういう多少の相違があるが、これ
は音韻的にはだいたい説明できるのではないかと思う。日本語でも閉設音があった
のではないかということが、 n 音が残っていることによって考えられるが、たとえ
ていうと、書くの四段活用は、書かない、書きます……「か、き、く、く、け、
け、」と習ったが、語幹は kak で終わって kaka-nai, kakimasu, kakeba のように、
107
相似点と相違点(2):梅原 猛
アイウエオ音が付く、こういう形になると、閉音で終わった言語が日本でもあった
と考えざるをえない。あるいは促音便というのは、こういう使われ方の言語ではな
いかと思われるのである。
音韻論もたいへんおもしろいのであるが、だいたい日本語では、e 音が音韻変化を
起こして、e 音が脱落して、i 音になって、もう一つ語頭の r 音が落ちて n 音にな
っている。これは今でも、朝鮮語ではロータリーというのをノータリーといって、
r 音が語頭に立つ言語を発音できない。…語尾のほうの n 音は、アイヌ語の r 音に
なっている。こういう特徴がある。そういうふうに一つ一つきちんと音韻変化の法
則をあげることができると思っている。
それから語彙の共通性だが、これはたいへんなもので、先ほどいった語根の共通性
までいったら、これはどうしても同じ言葉としかいえない。
108
相似点と相違点(3):梅原 猛
いろいろあるが、一つだけあげると、アイヌ語では上をエ(e)として、下をオ
(o)、上は he でもあるし、下は ho でもある。こういうエ(e)とオ(o)の関係が
日本語でも基本で、エヒメとかオトヒメとか、エウカシ、オトカシというふうに、
エとオの関係が中心である。お(o)というと下の部分で、オシメとか、オマルとか、
オナラとか、ぜんぶ下の部分にオがついている。子どものときからおかしいなと
思っていたが、このオはアイヌ語で尻とか底の部分ということで、オシメはお尻の
ところに締めるからオシメで、尻が鳴るからオナラであるというふうに考えられる。
また、アイヌ語のエとオは、エを何とかする、オを何とかするという人間の動作の
2 つの基点にもなっている。顔を何とかするのと、お尻を何とかする、人間の動作
はたいていエ(ヘ)か、オ(を)がつく。お尻を何とかするという形で示される。
これが助詞になって、何々へというのは、何々へ顔を向けて、オというのは何々へ
お尻を向けてということで、その顔とかお尻というのが助詞に変わってくる。そう
すると日本語の「へ」とか、「を」というのは、たとえば「京都を発って、仙台へ
行く」という場合、京都に尻を向けて、仙台へ顔を向けるということになる。こう
いう日本語の助詞の「へ」と「と」の使い方もすでにアイヌ語に存在している。
……
109
記紀・万葉とアイヌ語:梅原 猛
……次は、『万葉集』の人麻呂の歌である。「跡位浪立(あといなみたち)」。そ
れを「とゐ波立ち」と読んできた。『万葉集』はできたときから古訓があって、古
訓に基づいてずっと読んでいたが、契沖、真淵が新しい読みをもちいた。古訓だと
「跡位浪立(あといなみたち)になるのだが、「あおいなみたち」ではよくわから
ないので、「とゐ波立ち」と真淵以来読んでいる。私も「とゐ波立ち」と読んでき
た。ところが「とゐ波立ち」とは何のことか、「あとい」ではもっとわからないの
で、「とゐ波」にした。アイヌ語で考えれば、アトイ(atoi)は海である。だから
「あといなみたち」は海の波が立つという意味になるわけで、ひじょうによくわか
る。アズミというのは海の俗語である。
それから、物部氏が天皇族より先に大和へやってきたことになっているが、そのと
きの船長がアトベで、跡部の一族が阿刀である。そうすると、アという意味がひじ
ょうによくわかる。どっちかというと、山の系統はだいたいアイヌ語と共通で、海
の系統はアイヌ語とちがっている。日本語ではアトベのことも海といっているが、
それはどうも日本語とちがっているのではないか。この辺に、弥生人が何であった
かを解く鍵もあるのではないかという気もする。
110
東歌とアイヌ語(1):梅原 猛
……この蝦夷の言葉はわずかに東歌(あずまうた)に残っている。…『万葉集』巻
14 と、巻 20 に、防人の歌がある。これが東歌で、おそらく編集者によってだいぶ
なおされているが、かなり特殊な言葉を残している。
「遠しとふ故奈の白嶺(しらね)に逢ほ時(しだ)も逢はのへ時も汝(な)にこそ寄さ
れ」
「吾が面(おも)の忘れむ時(しだ)は国はふり嶺(ね)に立つ雲を見つつ偲はせ」
「時(しだ)」という言葉は東歌にだけしか出てこないが、前後の意味からみて、時
(とき)と訳しているが、アイヌ語では、hita = 何々する時には、ということである。
蝦夷の言葉が強くここに残っている。
「足柄の彼面此此(をてもこのも)に刺す罠のかなる間しづみ児ろ吾(あれ)紐解く」
の「かなる間しづみ」この「かなる」はアイヌの猪を捕える罠がカナルと関連するのでは
ないかと指摘されている。
「百(もも)づ鳥足柄小舟歩行(あるき)多み目こそ離(か)るらめ心は思(も)
へど」
111
東歌とアイヌ語(2):梅原 猛
この「歩行(あるき)」というのは、アイヌ語でもアリキ(ariki)という。エク
(ek)というのが来るという意味だが、その複数、しばしば来るという意味がアリ
キである。また場所を移動するという意味もあり、日本語の歩くとはちょっとちが
う。ここも、小舟が移動するという意味である。
「花散(ぢ)らふこの向つ嶺(を)の乎那(をな)の嶺(を)の洲(ひじ)につく
まで君が齢(よ)もがも」
この「洲(ひじ)」というのは、海岸、島という意味に岩波の古典文学大系では解
説しているが、実は『大隅国風土記』に出てくる。大隅国で、隼人の言葉で「ひ
し」というと海岸のことだという。その「ひし」というのが『駿河国風土記』にも
出てくるが、この「ひし」というのは、アイヌ語のピシ(pisi = 海岸)だと思う。
これも東歌にとくに多いのだが、
「相模嶺(むね)の小峰見かくし忘れ来る妹が名呼びて吾(あ)を哭(ぬ)し泣
くな」
112
東歌とアイヌ語(3):梅原 猛
「吾を哭し泣くな」の「を」は感動詞だと今まで言われているが、これは「私はそ
れについてひじょうに悲しくて泣くのだ」。アイヌ語、抱合語的な言い方であって、
「吾を」が主格で、それについてが対格で、「哭し泣くな」、そういう用語はしよ
っちゅう出てくる。そういうことでみると、この歌がよく理解できる。これは『万
葉集』の中のほかのところにもあるが、とくに東歌に多い。
「富士の嶺(ね)のいや遠長き山路をも妹がりとへば日(け)に及(よ)ばず来ぬ」
「日に及ばず来ぬ」と書いてあるが、アイヌ語のケ(ke)は、日であると同時に、
場所をあらわす。これは場所と考えたほうがはるかに明晰である。「遠いどんな場
所でも来る」というふうに考えたほうがよくわかると思う。
「あしひきの山沢人の人多(さは)にまなといふ児があやに愛(かな)しさ」
この「まな」という言葉がよくわからないと言葉とされるが、アイヌ語にマナ
(mana = とにかく)、マナカ(manaka = どうかして)という言葉がある。「どうか
して」「何とかして」来ましょうといった「児があやに愛しさ」、というふうにと
113
東歌とアイヌ語(4):梅原 猛
ればよくわかるのではないかと思う。もう少しアイヌ語を勉強すれば、またいくら
でもわかるんじゃないかと思う。
東歌はとくにアイヌ語との関係が著しいということがわかってきたが、東北弁とア
イヌ語もたいへん近いものがあるのではないかと思う。……
私の解釈だが、ネプタというのはアイヌ語で what is … ? という意味であるが、た
ぶんそういう人を驚かす、「これは何だ」という意味を含んでいえるのではないか。
……
114
アイヌ語のもつ世界観と古代神道(1):梅原 猛
……では、アイヌ語はどのような世界観を宿しているのか。この問題は、今まで問
われたことはないが、私のみるところ、アイヌ語は論理的な言葉だという気がして
しようがないのである。私はヨーロッパのいろいろな言葉をいちおう勉強したが、
それらのどんな言葉にも増してアイヌ語は論理的な言葉である。つまり主語、述語
をはっきりさせて、言葉をどんどん入れていく。そして全部の言葉が自己意識され
ていて、自己意識された言葉をどんどん重ねていく。秩序のひじょうにはっきりし
た、組み立てのはっきりした言語である。それはあまりほかの言語の影響を受けて
いないからだと思う。そういう性格をもっている(註:梅原は主述派です)。
それから、日本語とひじょうによく似ている。自己に関する言葉がひじょうに多く、
自己の心情をあらわす言葉がたいへん多いのだが、人間の動作を「へ」とか「ホ」
であらわしている。自己の言葉はシ(si)何々、あるいはヤイ(yai)何々という。
とくにヤイラン(yairam~)、自分の心をどうかする、自分の心を離れ離れにさせ
るとか、ヤイランのつく言葉がたいへん多い。日本語で驚くという意味の言葉が、
アイヌ語ではおそらく 10 くらいはあるのではないかと思う。そういう心情的な言
葉が多い。
115
アイヌ語のもつ世界観と古代神道(2):梅原 猛
人間の感覚の根底がニュ(nu)、ニュというのは聴覚を中心とする全身感覚みたい
なものである。視覚はヌカル(nukar)、眺めるという日本語とどこかつながってい
ると思う。ニュという感覚があって、そのニュをだんだん発展させ、正確にさせて
いくのが視覚である、そういう世界ではないかと思う。ユーカラには音がよくでて
くる。たとえば、神様の来る音が聞こえてくる、人間の死の音が聞こえくる、その
とき東の空へ飛んでいく魂の音が聞えてくる、東の空へ行く人は再生する、西の空
へ行く人は再生しない、その音が聞えてくる。われわれはその音を聞くことはでき
ないが、音の世界、そういうところから擬声音がとんでもなく多くなる。そういう
ところは日本も擬声音が多いということとつながってくるのではないか。
アイヌ語の宗教であるが、日本の古代神道とつながっているとしか考えられない。
アイヌ語のラマトという肉体を離れて、どこかでまた生きている。ラマトはまたピト
(pito)ともいう。日本語では語頭に r の音がない。r 音は日本語では消えるから、
ラマトは、タマ(tama)になる。カムイ(kamuy)はカミ(kami)になる。ラマトは
イノツ(inot)という形でも出てくる。とくにすぐれた霊力の持ち主のことをピト
(pito)という。そしてカムイと人をイナウ(inau)媒介する。……
116
アイヌ語のもつ世界観と古代神道(3):梅原 猛
たとえていうと、仏教伝来とともに、日本では明王というのがたくさん入ってきた
が、その中で日本で崇拝されたのは不動明王だけである。これはアイヌの宗教を考
えればすぐ解ける。これはやはり火の神である。アイヌの火の神は神の中のマネー
ジャーで、神と人間を媒介するいちばん重要な神なのである。この火の神と不動明
王とどこかで結びつているのである。……
註:梅原説は素人の思いつきだと、玄人筋が切って捨てるのはありそうなことです
が、
語幹・語根に拘るところ
動詞・身体語に着目するところ
語源を問うところ
縄文基語との関連に迫るところ
は、良い問題提議です。その当否をはっきりさせることこそ、専門家の責任で
しょう。
117
『日本語の源流を求めて』
大野晋
118
タミル語・日本語文法の共通性(1);大野晋
タミル語と日本語の文法を比較するにあたって、まず、古典タミル語と古典日本語
の文法構造どんなに類似、共通しているかを説明したい。
1 日本語もタミル語も「主語ー目的語ー動詞ー助動詞ー助詞」という語順であ
る。しかし全世界の言語の半分はこの語順だと聞いた。(とすると、これは
たいした意味をもたないことになる。)
2 関係代名詞はない。
3 文末は、動詞ー助動詞ー助詞で終わる。
4 助動詞の配列が次のように同一である。
naṭa
tta
ppaṭ
ṭatt
um
koll .
行カ(動詞)セ(使役)ラレ(受身)タラ(完了)ム(推量)カ(疑問)
5 助詞・助動詞が 22 語も対応する。
6 疑問は文末に疑問の助詞をつけ加える。
7 日本の古典語には「係り結び」という現象があるが、これが古典タミル語に
共通にある。
119
タミル語・日本語文法の共通性(2);大野晋
…… um は助動詞として日本語の助動詞ムに相当する。つまり、 um は助詞でもあ
り、助動詞の用法ももっている。これを図示すると、
助詞
→ 日本語助詞モ(mo)
タミル語 um
助動詞 → 日本語助動詞ム(mu)
という関係がある。……助詞モと助動詞ムの表わす意味の本質を深く考えてみると、
両者には根源的に「(それ一つと)確定できない」という観念がある。並列とか願
望とか全称否定、全称肯定は、「確実にそれ一つ」とはいえない(他の場合もある
)ということであり、推量、命令などは、確実な判断、実現が可能とはいえない(
違っている、違ってしまうかもしれない)ということである。そこに助詞モと助動
詞ムの根本的な同一性がある。
……係り結びは本居宣長によって徹底的に調べられ、『詞の玉緒』に、ゾ、ナム、
ヤ、カは連体で結ぶ、コソの下は已然形で結ぶ、という結び方の問題として秩序
づけられた。だから係り結びは結び方が大事なのだと一般に認識されて、それで
終わりとされていた。
120
タミル語・日本語文法の共通性(3);大野晋
しかし係り結びを理解するには、もう一つの視点が必要である。
① モ・ゾ・カは、イツ・ドコ・ダレ・ナニなどの疑問詞の下に来る。
② ナ・コソ・ナム・ヤは、イツ・ドコ・ダレ・ナニなどの疑問詞の上に来る。
この区別は中世になって連体形終止の係り結びが亡びた後、疑問詞を承けることの
できる助詞(つまり疑問詞の下に来る助詞)のガが①の用法を受け継いで、現代文
では次のような新しい形式が成立した。
① いつがいい?
② いいのはいつ?
どこが痛いの?
痛いのはどこ?
誰が好き?
好きなのは誰?
何が欲しいの?
欲しいのは何?
……ここでは、タミル語にも連体形終止・体言止めの係り結びがあるとだけ言って
おくことにする。……
121
タミル語・日本語文法の共通性(4);大野晋
……(註:57577のような)形式の韻律をもつ歌は、韓国にも中国にもない。
……長歌の形式がいかにして生じたか、また、その最後の 3 句、57,57,7の31
母音を独立させて成立した短歌の形式はいかにして生じたか。国文学者はそれを
長らく研究していたが、結局、分らなかった。
ところが、約 2000 年前のタミルの「サンガム」という歌集の中に、日本の長歌、
短歌の韻律と同じ形式の歌がたくさんあることが分かった。
「サンガム」は合計 2391 首の歌を含むが、その約 8 割、1850首は恋愛歌で、5
冊の恋愛歌集に収められている。それは『万葉集』における相聞の部、『古今集』
以下の恋の部に相当する。……
122
単語の対応(1):大野晋
日本語と比較して多数の対応語をもつ言語は見当たらなかったことはすでに述べた。
ところがタミル語と比較するに至って、続々と対応語(あるいは共通語)が見いだ
された。対応とか共通というからには、日本語の場合、安定した形(つまり語根)
がどこまでかを決める必要がある。
「咲く」という動詞を例にとると、これは、
sak-a sak-i
sak-u
sak-e
sak-e
という語形変化をする。従って安定的な部分は sak- という三要素までである。だか
ら、タミル語との比較も単語のはじめの音の三要素と意味について行う。また日本
語(ヤマトコトバ)は常に母音で終わるという特徴を持っているから、タミル語の
ように子音で終わる単語も持っている言語と比較するには、タミル語の単語が子音
で終わる場合には、その子音の後ろに何か母音を加えるか、その子音を落としてし
まう。例えば、
Ⅰ 母音を添加する例
タミル語
→ 日本語
kan(銅) → kan-e(金属)
kar(辛) → kar-a(辛)
123
単語の対応(2):大野晋
Ⅱ 語末子音を脱落させる例
タミル語
→
日本語
pal(歯)
→
fa(歯)
kat-an(型) →
kat-a(型)
これだけのことを心得て、次にあげる単語を御覧下さい。日本語の相手として次の
ように綺麗に対応語が並ぶ言語は、どこの国の言葉でも今まで他に見当らなかった。
註:大野説に好意的な言語学者(木田章義)でも、挙げられた487語例のうち、200
語弱しか類似が認められないと判断しております。
一番きつい批判は、これらの語例は、和語一語に類似するタミル語候補(動詞・
形容詞などでは、二桁以上あるのがふつう)のうちから、都合のよいものだけ
を選んで比較しているところです。要するに、タミル語の古語や方言がわから
ない素人の比較になっています。比較言語学者が笑殺する由縁です。
大野説のもう一つの難点は、考古学、人類学などによる根拠に極めて乏しいと
ころです。傍証は挙げますが、鍵となる弥生人の大量流入の証拠は皆無です。
124
対応語の比較表(1)大野晋
125
対応語の比較表(2):大野晋
126
対応語の比較表(3):大野晋
127
タミル語:同系語説;大野晋
BC10世紀頃、タミル文明(水田稲作・鉄器使用・機織)とタミル語が北九州に
到来した。根拠は、炭素14のAMS法による。そして、弥生時代が始まり、ヤマト
コトバが成立した。
それ以前は、「縄文語」(大野晋はこのことばを使わないが)が使われていた。
縄文語については、よくわからないが、それは、次の特徴をもつポリネシア語族
に似ているようだ。
母音終止(簡単な頭子音、複合子音なし)
8(ヤ)という数の愛用
類似する創世神話
蒙古斑点の存在
東日本方言: 「落トシテシマッタ人モイルラシイッテ。ナクサナイヨーニ、ヨ
ク気ヲツケロ。」
西日本方言: 「落トシテシモータ人モイウルソーヤ。ウシナワンヨー、ヨー気
イツケヤ。」
128
蝦夷の言葉:地名(1);大野晋
アイヌは樺太、北海道、千島の外に、本州にも多数いた。それは地名の研究から知
ることができる。アイヌは地形によって地名をつける慣習があるが、その生活上、
食糧を得る川を大切にした。北海道にはナイまたはベツのつく地名が何百とある。
そのナイもベツも「沢」または「川」を意味する。
北海道の例をあげれば、
ナイ = 稚内、幌内、相内、岩内、真駒内、恩根内、…
ベツ = 摸別、登別、紋別、門別、幌別、士別、厚別、江別、…
ところが、このナイ、またはベツのつく地名が青森県、岩手県、秋田県にも極めて
多い。
ナイ = 母衣内、奥内、目内、江流間内、与茂内、藤内、三内、天田内、小比
内、沼内、…
ベツ = 今別、原別、苫米地、尾別、宇別、仁別、…
このように、ナイもベツもはなはだ多い。これらの中には北海道に全く同じ語形の
ものがあり、その地形も同一と見られるという。
129
蝦夷の言葉:地名(2);大野晋
また、北海道には、アイヌ語でなければ解けない地名が多い。例えば知床など、日
本語では何のことかわからないが、アイヌ語ではシレトコは「地山の先」つまり
「岬」であるという。江差追分という江差は「岬」の意であるが、語源を分析する
と「e-sa-ushi-i」で、「頭を前浜につけている者」の意であるという。……
註:地名は、縄文語と弥生語やアイヌ語とを比較検討する格好のテーマであるにも
関わらず、単に紹介するだけで、タミル語という自説からの検討や解釈を下し
ていません。
130
アイヌ語の数詞:大野晋
……フランス語の二十進法は、ケルト語の二十進法を受けついだものらしい。二十
進法は、手足の指を使って数の観念をふやして行った人類の知能の発達の痕跡を残
すものといえるだろう。日本語の fi,fu,mi,yo……という体系もあまり類例がなく、
アイヌとの数詞との相違は非常に大きい。これはヤマトコトバとアイヌ語の根源的
由来の相違のみならず、アイヌ文化とヤマトコトバ文化とが根本的に相違していた
ことを示すものである。
註: アイヌ語との違いを、思いつくまま挙げているだけです。数詞を針小棒大に
取り上げています。
アイヌ語で二十進法と十進法がどう使われてきたかについては、まだ定説が
ありません。
131
「アイヌ語・日本語同系論」の感情的批判
近時、形質人類学では、アイヌ人は原日本人の祖先とされる縄文人の子孫であると
する見解に賛意を表し、アイヌ語と日本語(いわゆるヤマトコトバ)とを同系であ
ると公言する(註:ひどい言葉使いをする)方々がある。しかし、上に述べたよう
に、麄蝦夷、熟蝦夷の区別があり、熟蝦夷とはヤマトコトバ族に同化しているもの
を指し、麄蝦夷とは別扱いされている。つまり、蝦夷は本来ヤマトコトバ族とは異
民族、異言語の種族であったが、西から拡大して来たヤマトコトバ族によって順次
ヤマト族に同化、混血し、熟蝦夷化に動き次第に北上した。現在の東部日本人、東
北日本人の形質を数値化すると、なだらかに北の北海道アイヌに向って数値が近づ
いて行くとのことであるが(註:根拠を示さない)、これらの事情を考えればあり
うることで、それを見ずに直ちにアイヌ人は縄文人と同民族でその直系の子孫であ
るとすることは、よくよく考慮すべきであると思う。(註:きっぱり誤謬であると
は明言せず、仄めかします。)
註:形質人類学の主張は、弥生人以前の(BC900 年以前)のアイヌ人や縄文人を相
手取ってます。蝦夷懐柔の弥生時代とはほとんど関係がありません。また、人
類学は直ちに結論など出しておらず、控えめな主張をなしています。この言い
がかりは、感情的なこじつけとしか言いようがありません。
132
日本語起源論の整理
木田章義
133
日本語とタミル語(1):木田章義
……日本語とタミル語は、語順をはじめとして、格を表す格接尾語や語尾(助動
詞に当たる)など、アルタイ語系言語と同じように日本語に類似している。先ほど
の文章をタミル語に訳してみると
私‐の 父
en
– は あの 山 –
appaa
に
anta malai-yil
住んで いる。
ral- kir-aar。
のようになり、非常によく似ていることが分かる。しかしタミル語にも人称語尾が
あり、上の例では aar が三人称単数の男女共通の人称語尾である。一人称の動作に
は een が付き、二人称の動作には動詞末尾に aay が付く。
naan poo –kir –een。
私は 行く -(現在)- (私)
Nii poo- kir –aay。
君は 行く‐(現在)-(君)。
「私たち」なら –oom、「あなたたち」なら –iirgal が付き、主格は省略しても構わ
ない。この人称語尾の存在は日本語との大きな相違点である。三人称による区別も
ある。細かなことでは、格接辞(格助詞)の用い方にも違いがあるし、音韻でも母
音連続を避けるときには 2 つの母音の間に y、v を挿入するという挿入子音の方式
が中心であるという点も比較的大きな相違点であろう。
134
日本語とタミル語(2):木田章義
またタミル語の母音は、a、i、u、e、o の五母音であるが、それぞれに長母音 aa、
ee、uu、ee、oo がある。日本語の長母音は、現代語でも発達しているとは言えず、
漢字音や外国語を除くと、オトーサン、オカーサンなどの親族名称とオーカミ
(狼)、トーイ(遠い)などのように語中尾で「お」と表記すると定められている
語にオ段長音があり、ほかにイ音便・ウ音便によって生じた長音(「聞いた」、「
問うた」など)がある程度で、本源的な長音ではない。古い時代でも長音はなかっ
ただろうと見られている。
タミル語が縁遠い印象を受ける理由の一つは、その子音体系が日本語・アルタイ語
と大きく異なっていることが挙げられる。タミル語の子音体系は文字で表すと、以
下のようになる。
k、n、c、n、t、t、n、p、m、y、r、l、v、l、l、rn
これを語頭に来ることができるかどうかで分けると、
(1) 語頭に来る k、c、n、t、n、p、m、y、v
(2) 語中・語尾 l、l、l、r、r、n、n、t
となる。特に (2) に、大きく異なるという印象を与える音が含まれている。
135
日本語とタミル語(3):木田章義
これらは、舌音関係の音ばかりで、根源的な音であるといわれているが、語頭にで
ないところをみると、何かの音が変化してできたものである可能性を示している。
インド大陸特有の巻き舌も (2) に入っている(「巻き舌音」とは舌を上へ持ち上げ
て、あるいは舌を巻いて発音する音)。
ここには濁音文字がないが、t、t、k、p、c などは語中で母音に挟まれた場合や前に
鼻音がある場合には濁音になる。つまり濁音は語頭には出現せず、語中語尾の環境
には音声現象として表れるのである。音韻としては清濁の対立はないということで、
朝鮮語と同じである。日本語でも古くは語頭に濁音は立たない。語中においても「
連濁」(「いし+はし」が「いしばし」(石橋)、「あか+たま」が「あかだま
(赤玉)になる現象)という現象があり、濁音は不安定な位置にあった。平安時代
になって平仮名ができたときには濁音を表示しない体系として成立していることも
その不安定さを示している(平安時代中頃から濁点を補助記号として用いる工夫は
なされたが、現実には江戸時代の終わり頃になってようやく一般化した)。
136
日本語とタミル語(4):木田章義
音節構造をみても、タミル語は子音終止(閉音節)が普通に存在しているのに対し
て、日本語は母音終止(開音節)が基本であり、現代語では鼻音終止(kan<カン>)
や撥音(ton-de<トンデ>)、促音(kit-te<キッテ>)などがあるが、それ以外は母音終
止の音節ばかりである。奈良時代には促音・撥音・長音もなかったと言われている。
おそらく実際の音声には、一部存在していたと思われるが、文字資料には表れなか
ったのであろう。タミル語は子音でおわる音節を許容するが、現実の音声としては、
語末にくるのは鼻音と巻き舌の場合に限られるようなので、実際にはそんなに多く
なさそうである。
さらに、タミル語の語根は名詞、動詞などの品詞性が弱いという(家本氏1996「
大野説の問題点」)。文章の中で名詞接辞・動詞接辞がついてそれぞれ名詞・動詞
となるのは、先述の「形状言」と似ている。しかも a 音で終わる形が中心というの
であるから、ますます形状言に似ている。大野氏がタミル語に引き込まれていった
のは、当然のような気がする。
137
大野説の概要(1):木田章義
……大野氏はタミル語と日本語の全体的な分析を行い、以下のような類似点を挙
げている。
(1) 語順がほぼ同じ。
(2) 助詞の体系が似ており、音形も似ている。
<格助詞>
日本語
① no
(の)
タミル語
in
② ni
(に)
in
③ tu
(つ)
attu, atu
④ ga
(が)
aka, akam
⑤ kara (から)
kaal
⑥ to
(と)
otu
① mo
(も)
um
② fa
(は)
vaay
③ ka
(か)
kkol, kolloo
④ ya
(や)
ee <*yaa
⑤ so
(そ)
taan
<係助詞>
138
大野説の概要(2):木田章義
<終助詞>
mono (もの)
man
(3) 動詞接辞(助動詞)の対応がある。
日本語
タミル語
①
自動詞化接辞
-ru
-ul, -ir
②
他動詞接辞
-su
-ttu, -ttu
使役接辞
-su, -simu
-ppi, -pi, -vi
自動詞の完了接辞
-nu
-nt
他動詞の完了接辞
-tu
-nt
④
持続接辞
-ri, -tari
-irunt
⑤
推量(未来)接辞
-mu
-um
⑥
必要・義務・命令・禁止接辞
-besi
-veent
⑦
否定接辞
-ani
-anru
-ina
-inru
③
139
大野説の概要(3):木田章義
(4)
接辞の順番が同じ。
①自動・他動
②受身
③完了・持続
④否定又は推量
⑤質疑・感動
カ
行カ
セ
ラレ
タラ
ム
nata
tta
ppat
tat
um
(5)
kolloo
指示代名詞に近称、中称、遠称の三区分がある。(「こ」「そ」「あ」)。
音韻の類似点は以下の項目である。
(6)
a,i,u,e,o の五母音である。
(7)
分布の制限:
①
母音連続を嫌う。母音音節が語中に来ない。
②
語頭に、l, r が来ない。
③
語頭に、複子音(str, pr など)が来ない。
④
語頭に、濁音(b, d, g, j など)が来ない。
⑤
t, t, k, p, c などは語中で母音間、前に鼻音がある場合には濁音になる。
140
大野説の概要(4):木田章義
(8) a/u の交替現象があり、それが古代日本語の a/ ̈
の交替と対応する。
タミル語 kacakaca : kucukucu, atir : utir
日本語
tawawa(実る様): t ̈
w ̈
w ̈
, kata(片): kö
tö
(独)
などである。
タミル語と日本語の相違点として、以下の点が上げられる。
① 巻き舌の子音、t., l., n., r., r.. などがある。
② 長母音がある。
③ 子音で終わる音節(閉音節)がある。
(2)の<係助詞>①②の「の」と「に」と「in」の関係であるが、確かに似た用法を
もち、形でも n を含むので「の」「に」両方に通じる。……しかし、日本語の「の」
と「に」がもともと同じ助詞であったとは考えにくい。というのは「に」は連用句を
作る接辞であり、「まさに、ついでに」などの副詞句を作る。格助詞として使用され
るのも、その用法の一つであると思われる。そのような広い範囲に使用される「に」
に対して、「の」は連体格(通常は体言と体言を結びつける)であって、その機能に
はかなり大きな違いがある。
141
大野説の概要(5):木田章義
(2)③のattu, atuに対比される「つ」は「天つ空、上つ瀬」のような連体格の「つ」
である。……atu と attu は異なったものなのか、大野氏の言うように、共通した
ものであるかは、タミル語の専門家の判定が必要であるが、属格的意味の点では「
つ」と一致していると見られる。
(2)④「が」と aka, akam との対応。akam は「の中に」、「の内に」を示す格接
辞(case marker )であるが、もとは「中、内」の意味の名詞であったという(山
下氏)。大野氏も指摘するように、日本語の助詞の中にも名詞が形式化してできた
ものがあるので(「へ」「から」「ばかり」)、「が」も代名詞や名詞から助詞に
なった可能性はある。指示詞の「か」が語源であるという説もある(「彼(か)の」
の「か」)。語源はさておいて、「が」と aka, akam は、属格や連体句の中の主
格を表す点は似ていることは間違いないようである。
(2)⑤「から」はもともと「くにから(国柄)、やまから(山柄)、かみから(神
柄)や「はらから、やから」の「から」で「本体、根幹」の意味を表す名詞であっ
たらしい。そして「そのまま、そのために、そればかり」などの意味の形式名詞と
142
大野説の概要(6):木田章義
なっていったようである。…この対応例は確証は得られないとしても、否定もでき
ないというレベルのもののようであるが、元の意味として共に「根幹、根本」など
に繋がる意味であるらしいのが興味深い。
(2)⑥「と」と otu については、平行した現象があるが一対一に対応させることは
困難であると言う(山下氏)。しかし「~と(一緒)」や「~と(混ぜる)」とい
う表現に使用されるのであるから、一対一に対応しても共通性のあることが重要で
ある。
次の<係助詞>の例の中でも、①「も」と um の類似は一般的に認められているよ
うである。ただ大野氏は um と助動詞の「む」も同源であると主張するが、助動詞
「む」は活用するので、その活用をどのようにタミル語に対比するのかがはっきり
しない。「む」と同源というのは広げすぎていると感じる。
②「は」も、vaay の「主題の提示」という用法を持っているというが、山下氏に
vaay は「口、穴」というのが本義で、形式化したものは場所格と見る方が良いとい
う指摘があり、この対応は難しいようである。
143
大野説の概要(7):木田章義
「か」は係助詞であるから、文中にあれば述部は連体形で結ぶ。語末にあれば疑
問を表す。kkol, kolloo も文末では感嘆、疑問、の意味を表し、また、文中に来る
と述部は名詞で終わるか、動名詞で結び、それは日本語の「か…連体形」の係り
結びと同じであるという。この類似はかなり重要である。……
以上のように、係り助詞は機能的にも音的にもかなり似ていると言って良さそう
である。特に、「か」と kkol の関係は、大野氏の説明が正しければ、重要な類似
点になるだろう。
(3) の助動詞、動詞接辞の対応もかなり重要である。モンゴル語との比較の所で述
べたように、日本語には自動詞「る」、他動詞「す」という対立の枠組みがある。
ここで上げられた①自動詞化語尾、②他動詞化語尾はそれに平行する現象で、対応
関係にあると大野氏は主張しているのである。……ただし他動詞語尾としては他に
も rr, kku などがあり、いくつかの他動詞語尾の中、似た形態のものだけを比較し
ている……この対応が確かであれば、ここから tt, s の対応も確実なことにもなる。
144
大野説の概要(8):木田章義
完了の助動詞「ぬ」「つ」にも対応する接辞があるという。
日本語
:
タミル語
完了(自動詞に付く)
nu
:
nt
完了(他動詞に付く)
tu
:
tt
…日本語の「ぬ・つ」は大野氏の説明の通り、「ぬ」は「去(い)ぬ→ぬ」「つ」
は「棄(う)つ→つ」という変化でできた助動詞である。ナ変は「去ぬ、死ぬ」し
かなく、この助動詞「ぬ」もナ変であることからも語源が「去ぬ」であることは確
実である。「つ」も「うつ」の下二段活用をそのまま維持している。両助動詞とも
に、接続は動詞であった名残の連用形接続である。このように語源がわかるのは通
常は新しいものである。奈良時代では、まだ「去ぬ」の語感を維持していたかもし
れないくらいである。つまり古いものでなさそうな「ぬ」がタミル語と対応関係を
もち、古いものらしい「き(確実な過去)」に対応するものが無いのはどうしてな
のかという疑問は残る。……
145
大野説の概要(9):木田章義
(3)⑤「む」と um についても、大野氏の挙例を見る限り、似ているのは間違いな
く、上で述べたように um は助詞の「も」と対応しているので、日本語助詞「も」
と「助動詞「む」が同源であるという所まで進んで行く。広げすぎるという感じが
するが、もしこの解釈が成立するのなら、日本語では助詞と助動詞の区別がない時
代になるだろう。…「も」「む」が同じものであった時代も考えることは不可能で
はない。ただ、その時には活用をどのように考えるのかが問題になってくる。「む」
は「む、め」の形しかなく、ほとんど活用しない状況にあることと関連するのかも
しれないが、日本語の助詞・助動詞の発達について考える一つの視点として価値が
ありそうである。少なくとも「む」と um は類似した用法をもっているようだが、
「む」が活用するので「参考」としておくのが良いだろう。
(3)⑥「べし」と –veent については、大野氏は –veent を「必要に、に違いない」
の意味として説明しており、用例もその意味で良さそうである。…ただ、タミル語
の nt 対応していれば、日本語では d になるはずである。また、 -veent の用例を見
ると不定詞(-a, -ka 形)か名詞形に接続している。日本語の「べし」は終止形接続
で推量系統の助動詞の性格を示している。日本語では名詞形、あるいは不定詞に相
当するのは連用形である。これが相違点になるのか、問題にしなくても良いのか、
146
大野説の検討(1):木田章義
両言語の文法全体に対する理解がなければ、判断ができないのである。日本語の「
べし」の活用形式は形容詞活用であるから、形容詞由来のものであろう。意味も用
法も対応例としても大きな問題はなさそうであるが、形容詞的ベシと動詞的 veent
の違いが気にかかる。……
以上、大野説を検討してきたが、タミル語と日本語の文法はよく似ていることは間
違いなく、他のアルタイ語との対応例と比べてみても、形態の類似もある。この類
似を否定するならば、アルタイ語・朝鮮語との類似も否定しなくてはならなくなる。
……そこで問題となるのは兄弟関係を決定づける「音韻対応」が存在するかどうか
という点である。
大野説に対する批判は対応例に対するものが多かった。大野氏は『形成』では487
例、『源流』では対応パターンに応じて 5 例ずつ上げている。『源流』の方が刊行
が後なので、おそらく再検討して、大野氏が確実と判断した例なのであろう。…
『源流』の対応例の中、代表として母音対応、子音対応のそれぞれ二つの型を見てみ
る。
147
大野説の検討(2):木田章義
(1) 日本語 a とタミル語 a が対応する例
① af-are
哀れ
av-alam
② as-i
足
at-i
③ as-obu
遊ぶ
at-u
④ an-i
兄
ann-a
⑤ an-e
姉
ann-ai
(2) 日本語 a とタミル語 o, o と対応する例
① ag-u
上ぐ
onk-u
② kag-i
留め鍵
kokki-i
③ katt-i
ハンセン病者
kott-ai
④ af-u
合ふ
oppou
⑤ nay-amu
悩む
noy
148
大野説の検討(3):木田章義
(3) 日本語の k とタミル語の k とが対応する例
① ka
場所
kan
② kat-u
勝つ、勝る
kat-I
③ kat-a
型
kat-an
④ af-u
堅
katt-u
⑤ nay-amu
金属、鐘
kan
(4) 日本語の t とタミル語の t とが対応する例
① taka-a
高
tak-r
② tak-ara
宝
tak-aram
③ tat-aku
叩く
tatt-u
④ tat-u
断つ
tat-i
⑤ tar-u
垂る
taal
これらの例を見ると、確かに似た語形であることが分かる。ここでは大野氏の判断
に従って、ほぼ語頭の CVC (語頭母音の場合は VC)の一致だけをみている。……
149
大野説の検討(4):木田章義
このように検討してゆくと、対応例から省くべきものかなりの数になる。それでも
残った例を見ると、これまで比較された言語に比べても、はるかに似ている。漏れ
聞くところによれば、大野氏の挙げた例を見て、「似すぎている」と言った言語学
者が 2 人居るそうであるが、思わずそう言ってしまうほど似ている。
大野氏が『形成』で挙げた487 例を日本語の方から検討してみると、除外したほう
がよい語例は次のようである。
日本語方言
62 例
語頭の子音脱落例
34 例
日本語が新しい・語構成の分析不備
35 例
語義が怪しい例
136 例
形態的にも意味的にも似ているものを残していくと、対応例らしきものが180 例ほ
ど残る。意味の一致をどう判断すべきかかなり揺れるので、残るのはだいたい 200
例前後とみてよいだろう。……
150
大野説の検討(5):木田章義
音韻の対応の「法則」がないという批判はそのとおりであるが、それなりの配慮が
ある。ドラヴィダ祖語を考慮していないという批判もあるが、祖語に言及しなくて
も、いくつかの重要な方言は考慮している。祖語や方言を持ち出すと比較が曖昧に
なるので(南島語の比較ではその欠点がよく現われる)、まずは一つの言語(方言
)と比較してゆくのも一つの方法である。
現在のところ、200 例近くは否定できないこと、文法的な類似があることを考える
と「タミル語説」は簡単に捨て去ることができない。特に文法体系の類似は、印欧
語の親族関係を探るときの基盤となった共通感覚に近いのではないだろうか。
日本語の側からの検討については、以上のような結果である。多くの研究者にひど
く叩かれた説を擁護するのは、研究者としての信頼を失ってしまうような躊躇を覚
えるのであるが、現象から出てくる結論を尊重しておきたい。
151
日本語起源論(1):木田章義
ところで、遺伝子の研究は日々進んでいる。遺伝子の研究からは、2500 年前に
7000 キロの海上の道を通って、タミル人が大量に日本に到来した可能性はほとん
どないことが明らかにされている。従って、日本語とタミル語が関係があるとすれ
ば、 1 万年、2 万年というような長さを考える必要がある。そんな長い間、一部
の語彙だけとしても、これほどよく似た形で、意味も大きく離れないで生き残ると
いうことがあり得るのかはなはだ疑わしいと感じるのは当然である。
我々が知っている言語の歴史は印欧語の知識が中心である。従って言語の変化の実
態、速度などは印欧語の変化を尺度としている。しかしアルタイ語のような膠着語
は、印欧語のような屈折する言語とは異なった変化をするのかもしれない。名詞や
動詞が形を変えること無く、核として存在しており、それに単純な機能を担う接辞
類が接続してゆく言語では、核となる名詞や動詞は急速には変化せず、主として接
辞類が入れ替わってゆくというようなこともあり得ないことではない。つまり印欧
語のような屈折語による言語変化の尺度や類型を膠着語に当てはめることができな
い可能性も考えてみる必要があるだろう。(註:大切な視点と思われる。)
152
日本語起源論(2):木田章義
同時に、膠着語は膠着語としての共通の性格がある可能性も考えておかなくてはな
らない。たとえば、…
自動詞語尾 :
他動詞語尾
モンゴル語
gda
:
lγa
ウイグル語
ul
:
t(dur)
タミル語
ul, ir
:
tt
日本語
ru
:
su
これらの四言語の例を見ると、自動詞の造語法、他動詞の造語法が類似しているこ
とがわかる。その形態を見ると、タミル語と日本語が似ているだけでなく、タミル
語とウイグル語はもっと似ている。…このような類似が膠着語的性格をもつ言語が
必然的に選ぶ方法として類似しているのか、偶合なのか、何らかの関係があるのか、
考えておく必要があるだろう。
膠着語は核となる名詞や動詞に、文章中の役割に合わせて助詞や接辞が接続してゆ
く。従って自動詞や他動詞のような意味の違いを語尾や接尾辞で表していくことに
なる。……タミル語とアルタイ系言語との関係も明らかにしてゆく必要がある。
153
日本語とアイヌ語(1):木田章義
アイヌ語は、日本列島北部に住んでいたことが明らかであるので、古くから注目さ
れていた。語順は基本的なところは同じであるが、その文や句の作り方にはだいぶ
異なるところがある。アイヌ語は蝟合語(抱合語)と言われ、他の言語なら文に相
当する内容を一語で表すことがある。例えば「私は君に与える」なら、
a-e-kore
<
(私は)君に与える
a
-
e
-
kore
私
-
君
-
与える
(不定称)
(目的格・与格)
のように、人称接辞(代名詞)が動詞と融合して一語で表現される。直接目的語は
蝟合的にはあまり用いられないらしく、「私は君に魚(cep)を与える」は、
a-e-cep-kore とは言わず
cep
a
-
e
-
魚
私が君に与える
kore
のように蝟合動詞の外側で表現するようである。
このように、動詞を中心として人称接辞が接頭され、一語化されるところが、日本
語と大いに異なるところである。ただその蝟合的表現でも、「私(が)君に与える
」となっているので、語順としては日本語に似ている。……
154
日本語とアイヌ語(2):木田章義
おそらくこの蝟合的表現が大きな相違が強い印象となって、日本語とアイヌ語は別
系統の言語であると言われたのであろう。しかし語彙そのものを見ると、アイヌ語
と日本語には似た言葉がかなり多い。それは借用語と解釈されてきているが、……。
アイヌ語との関係については、強く主張する人は少ないが、根強い同系論がある。
最近では梅原猛氏、片山龍峰氏が同系を主張し、……。
これらの形も意味もよく似た語彙は、借用語とみるのが一般的であるが、借用でな
ければ、同源となる。つまり同系言語になってしまうので、借用という以外にはな
いのである。
文法の面から観察すると、蝟合的表現以外に、他動詞と自動詞、使役と受身などの
体系にも違いがある。……他動詞を作る語尾は日本語と同じように使役動詞も作り、
他動詞と自動詞が連続するのであるが、「受身」は不定称を利用して、 a-wn-kore
(人が-私にー与える)のような表現をするというので受身形はもっていないといっ
ても良いであろう。従って自動詞と受身が連続することはない。……
155
日本語とアイヌ語(3):木田章義
これだけ文法形式が異なると、同系であったとしても、かなり古い時代ということ
になる。アイヌ語の蝟合的性格が古い形式であるのか、新しい形式であるのかとい
うことが問題になってくるが、こういう形式が日本語のような膠着的な文法形式か
ら生じてくる可能性は低いと思われる。また、この蝟合的な体系だけを借用すると
いうことも考えにくい。おそらく古くからの形式なのだろう。ユーカラのような韻
文の方がこの蝟合形式を多用するという点からもそう考える方が良い。
シベリアやアラスカなどのエスキモーやアメリカインデイアンの言語にも蝟合的、抱
合的な言語があり、それらの言語との似寄りの方が強いので、もともとはそういう
蝟合的な言語であったのが、膠着的な言語に変化しつつあると考える方が自然であ
る。
もちろん遥か昔には、日本語もこのような蝟合的な文法を持っていたのが、膠着的
な文法体系に変化して行ったという可能性もある。もしそれが正しいのであれば、
その方向で検討して行けばよいのであるが、そのためには、日本語の文法現象の中
で、蝟合的な文法形式をもっていた何らかの形跡や名残を見出す必要があるだろう。
156
日本語とアイヌ語(4):木田章義
また、注意すべき点は、アイヌ語の形容詞は動詞と同じであり、形容詞という品
詞を認める必要がないことである(知里真志保『アイヌ語入門』1980)。東アジ
ア周辺では朝鮮語の形容詞と共通していることになる。また、否定表現も、アイ
ヌ語では動詞の前に来る方式と、後に来る表現が存在しているように見える現象
がある。
両言語で、形容詞の性格と否定辞が動詞に前接するという二つの特色が一致すると
いうのは示唆的である。というのは、統計的研究においても、次章の類型論的研究
においても、日本語とアイヌ語は一つのグループになるというのである。その推定
の一致も偶然でないのかもしれない。
アイヌ語との関係については、まだ考慮する余地がある。
…一方、日本列島の遺伝子の研究ではいろいろな民族が集まってきて、平和的に混
淆していったと推定されている。平和的な時間をかけての接触による言語の変化は、
印欧語のように一つの祖語に収斂してゆくものではないのかもしれない。
157
遺伝学の利用(1):木田章義
……シベリア地方の北方モンゴロイドはバイカル湖周辺が中心だったようであるが、
寒暖に応じて南下・北上を繰り返していたと思われる。氷河期には北海道は大陸と
繋がっていたので、マンモスを求めて北海道にもやってきたであろう。北海道でも
20,000 年前のシベリアのものと同じ石器が発見されている。12,000 年前頃の最
寒冷期には、シベリアからベーリンジア(ベーリング海も陸地化してアラスカとほ
ぼ繋がっていた)を通ってアメリカ大陸と進み、一部は北海道に南下してきたと言
われている。…現在の南米のインデイアンはこの時期よりもっと前にアメリカ大陸
に進出した人々と言われ、アメリカ大陸への移動は少なくとも三回の波があったと
想定されている。北海道への移動も何度も起っていたと思われる。
日本人は、北海道アイヌ・琉球人・本土人、全て北方モンゴロイドに属することは、
今はほぼ共通の理解になっている。台湾は南方モンゴロイドである。沖縄と台湾の
間に南北モンゴロイドの境界があり、台湾から琉球列島を通って日本列島に南方の
人間が広がり、縄文人になったという説は成り立ちにくいとされる。もちろん台湾
から琉球に人が渡ってきたこともあったはずで、実際に最近、石垣島の白保竿根田
原洞窟遺跡から出てきた人骨は南方モンゴロイドの遺伝型を持っていたということ
である(20,000年前)。
158
遺伝学の利用(2):木田章義
ごく最近でも、核遺伝子の 100 万個の塩基の分析の結果、アイヌ人と琉球人は近
縁関係にあり、本土人は琉球人の次にアイヌ人に近く、「日本列島人」として特異
なまとまりのグループになるという発表があった(斎藤成也他「日本列島3人類集
団の遺伝的近縁性」)。…
遺伝子の研究の中では、ミトコンドリア遺伝子、Y 遺伝子、そして核遺伝子、の研
究が中心であるが、他に免疫グロブリンの遺伝子型の研究もある。この免疫グロブ
リンの研究は他の遺伝子の研究とあまり連関していないようであるが、人種を明確
に区別できる遺伝子として、たいへん興味深い結果がでている。モンゴロイドの北
方・南方の区別も明瞭である。
この遺伝子では、日本人のハプログループはバイカル湖周辺に住むブリヤートモン
ゴルとそっくりなので、日本人はバイカル湖周辺からやって来たという「バイカル
湖畔起源説が提起されている(ブリヤーモンゴルとの遺伝子の一致については他の
遺伝子の研究でも指摘されている(松本秀雄、『日本人は何処から来たか』1977)
)。
…それぞれの遺伝子が何をあらわしているのかがはっきりしない間は正確な判断は
難しいのである。
159
日本語の変化の速度:木田章義
…奈良時代の言葉は、現代人にとっては分かりにくいところがあるが、それは
形容詞の意味変化
滅んだ語彙
特殊な表現法(ミ語法やク語法)
などがあるからである。
…古典の基本的な部分はだいたい理解できる。文章の骨格にあたる名詞や動詞
があまり変化していないせいであろう。
秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治の宮処の 仮庵し思ほゆ
熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
…日本語の文法変化の中では、
① 二段動詞の一段化
② 終止形の消滅
という2つの大きな変化があった。②は用言の終止形が使われなくなっていき、
連体形が終止形の役割をするようになる現象である。したがってこれが終わる
と動詞・形容詞・助動詞の終止形と連体形が同形になってしまう。……
160
私の日本語系統論
ー言語類型地理論から遺伝子系統地理論へー
松本克己
161
表層構造から深層構造へ(1):松本克己
日本語に焦点を据えた類型的特徴:
1.流音のタイプ: 複式流音型 ~ 単式流音型 ~ 流音欠如型
2.形容詞のタイプ: 形容詞体言型 ~ 形容詞用言型
3.名詞の数カテゴリ: 義務的数カテゴリ型 ~ 数カテゴリ欠如型
4.名詞の類別タイプ: 名詞類別型 ~ 数詞類別型
5.動詞の人称標示: 重複多用型 ~ 重複欠如型
6.動詞の人称標示: 多項型 ~ 単項型 ~ 欠如型
7.名詞の格標示: 対格型 ~ 能格型 ~ 中立型
8.1人称複数の包含・除外の区別(包括人称): 区別型 ~ 欠如型
162
表層構造から深層構造へ(2):松本克己
ここでは、
語彙項目
だけでなく、
語順のような形態的特徴
屈折・膠着のような形態的特徴
語の音韻・音節構造
のような表層構造にかかわる現象が一切排除されている。
従来の類型論や系統論で注目されてきたこのような特徴は、言語の歴史的変化
に対してさしたる抵抗力を持たないからである。
註:表層構造と深層構造という断定について、言語学の素人にはその当否を判
断できません。最後のところで多少意見らしきものを述べました。
163
註:表層構造から深層構造へ;松本克己
日本語に焦点を据えた類型的特徴:
1.流音のタイプ:[r] と [l] の区別もしくはその有無
2.形容詞のタイプ:動詞のように活用するか、名詞(格)から派生するか
3.名詞の数カテゴリ:単数・複数の区別が義務化されているか
4.名詞の類別タイプ:「男性」「女性」「中性」を明示するか
5.造語法の手段としての重複:「国々」「細々」「飛び飛び」など多用するか
6.動詞の人称標示:ドイツ語の動詞格変化、英語の3人称単数現在
7.名詞の格標示:対格型(テニヲハ)、能格型(バスク語)、他動詞明示型
(アイヌ語)、語順型(英語)
8.1人称複数の包含・除外の区別(包括人称):一人称複数の有無と消失
164
言語類型から導かれたユーラシア諸言語の系統分類
165
人称代名詞から見る環太平洋言語圏の輪郭
166
ユーラシア太平洋沿岸諸語の人称代名詞
167
人称代名詞による世界諸語の系統分類
168
註:表層構造から深層構造へ;縄文基語との関連(1)
<コト><サマ><ムウド>
Ⅰ
Ⅱ
音韻
開音節・閉音節
アクセント
連濁
流音
語彙
語源
語根:とくに動詞(名詞)
名詞の数カテゴリ
名詞の類別タイプ
Ⅲ
*
*
*
文法
膠着語・抱合語
語順
接頭語・接尾語
名詞の格標示
動詞の人称標示
形容詞の活用の有無
造語法の手段としての重複
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
169
註:表層構造から深層構造へ;縄文基語との関連(2)
註: 松本は下線部を、万年単位の変化にはそぐわないとして、大胆にも省きまし
た。しかし、千年単位の変化には、少なくとも下線部の項目は効いていくる
と思われます。
もし、縄文基語を相手取るなら、松本の項目は言語のコト的側面に偏ってい
ます。サマ的側面・ムウド的側面への配慮が望まれます。縄文基語を相手取
るのは、単なるコト的側面だけでなく、縄文人がサマやムウドをどう表現し
ていたかを見たいからです。例えば、三内丸山で縄文人はどんな縄文基語を
話していたか、またどんな律文の祖形をもっていたかが、焦点です。
そこで例えば、「縄文基語には逆語順が正語順と同居していたかどうか」と
いうような大きな課題を詰める必要があります。
そのためには、今のところ、卑見では、折口信夫や吉本隆明のような詩人の
直観力と分析力に頼るしか方法がないと思われます。アイヌ語や琉球語につ
いての言語学の知見が深まれば、また事情は変わるかもしれませんが。……
170
まとめ(1)
日本列島が大陸から分離する時期(1万2000年前)以前に、北方モンゴロイド系
と南方モンゴロイド系の人々が日本に住みついておりました(どちらが先か後か、
時期がいつかなどは今のところ特定できない)。
その後、人種的に融合していきました。狩猟・採集・漁労を営み、土器を活用す
ることによって、定住生活が始まりました。ここには、容貌・形質がやや異なる
アイヌ人も琉球人も含まれます。
日本列島の形成以降、言葉も融合し、進化していきました。ウラルアルタイ系諸
語の特徴とオーストロネシア系諸語の特徴とを合せもった縄文語が形成されまし
た。
この見方は、例えば、バスク語の難解性・フランス語の20進法・南方語の開音節
などと縄文語との類縁の可能性を排除しません。また、ドラビダ語族との類縁の
可能性さえも排除しません。ただし、日本列島形成以前の出来事としてです。
弥生語の登場は、たかだか直近 3000 年前の事件です。1 万年以上にわたる縄文
基語の基底を揺るがすことはできませんでした。また、漢語の移入も同様です。
171
まとめ(2)
素人風にしれっと構図を示しましたが、気まぐれな思いつきではありません。これ
らは、以下の鋭い先達の実証的成果や冴えた直観的閃きに支えられております。
細石刃石器が樺太・北海道に日本列島形成以前に流入していたこと
土器が日本列島の北から南まで(三内丸山や上野原遺跡)発掘されてきたこと
狩猟・採集・漁労による定住生活を 1 万年以上はるかに遡って営んできたこと
自然人類学的に、列島成立後には移民の大量移入はなかったこと
そしてかなり高度な言葉を使っていたにちがいないこと
少なくとも、これらすべてと整合する縄文語・縄文基語の解釈が欲しいわけです。
この枠組みによって、国語学者などが喧伝する
不毛な系統論や語族論(極端なアルタイ語もしくはオーストロネシア語族論)
ボタンの掛け違えによるタミル語移入説
などの通説や俗説を排除できるようです。また、言語学者の知見や国語学者の論文
などを値踏みする援けにもなります。
172
まとめ(3)
縄文語または縄文基語の主な特徴として、以下が挙げられます。
音韻体系(小泉 保による晩期の再構形、方言ごとの母音子音体系)
無アクセント(一型式アクセント)
閉音節・開音節の共存(促音便、撥音便の残存)
語根の発生(音節数 114 ~ 116 の少なさからくる)
動詞・形容詞の活用(係り係られ、述語性、「主語」などはありえない)
畳語・重複による造語法(祝詞、諺、地名、枕詞、体言止、零記号、…)
正語序・逆語序の共存(祝詞、諺、地名、体言止、…)
サマ・ムウド的表現の発達(デスマス調やネサヨ言葉の祖形はほんの一例)
テニヲハに相当する格表現(これなしに三内丸山遺跡は考えられまい)
諸方言(裏日本、表日本、東北、東北以南、九州、琉球、…)
これらの一部は弥生語そして漢語によって変容しましたが、骨格は陰に陽に保存さ
れ、いささかも揺るぎませんでした。
173
まとめ(4)
何のために縄文基語を遥かに望むのかは、人によって異なるでしょう。単なる趣味
だからというのが一番冴えた態度かもしれない。例によって、商売だからというの
もあったし、これからも無くならないでしょうが。
拙稿の立場は、三文小説を楽しむためでした。望むらくは、もう少し母語の読みが
深くなればうれしい、またちょっとはましな母語が書ければ楽しいというものです。
なろうことなら、少しは鋭いコト(命題:命題もどき)、サマ(狭義のモダリテイ:
演述)、ムウド(広義のモダリテイ:発語内効力)を言表できれば幸いであるという
ものです。言ってみれば、やつ枯れ(僕)の卑小な思考作法への対症療法です。
ここから先が、難しくなります。縄文語の諸特徴のうち、どれを相手取って理解を
深めていけばよいのか、なにをこれからの日本語のエッセンスに取り込んでいけば
よいのかを旗幟鮮明にしなければなりません。千年単位の音韻上の変化だけでなく、
なんといっても語法・文法の変化、そしてその速度など手つかずの課題が山積して
います。やや牽強付会の気味がありますが、素人としてはこれが次の問いの立て方
になります。今のところ、せいぜい、これくらいが精いっぱいのところです。
174
引用文献・参照文献
175
引用文献・参照文献
小泉 保
『縄文語の発見』
青土社
2013
臨川書店
2015
京都大学文学研究科編
『日本語の起源と古代日本語』
木田章義
「日本語起源論の整理」
松本克己
「私の日本語系統論ー言語類型地理論から遺伝子系統地理論へー」
梅原猛・吉本隆明
『対話
日本の原像』
中央公論社
6』 小学館
1986
梅原猛
『日本の深層 梅原猛著作集
2000
大野晋
『日本語の源流を求めて』
岩波新書
2007
小林達雄
『縄文の思考』
ちくま新書
2008
佐久間 鼎
『日本語の言語理論』
恒星社厚生閣
1959
折口信夫
『折口信夫全集 第19巻』
中央公論社
1967
吉本隆明
『初期歌謡論』
河出書房新社
1977
吉本隆明
『日本語のゆくえ』
光文社
2008
176