「わたしはある」と宣言するイエス です。口語訳の

「わたしはある」と宣言するイエス
ヨハネによる福音 33
「わたしはある」と宣言するイエス
8:21-30
前半の中心になる言葉は 24 節、特に後半の 2 行です。
『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪の
うちに死ぬことになる。―以前の「口語訳」ではこの宣言とは異なってい
て、「わたしがそういう者であることを」と訳していました。
この『わたしはある』ということ……という断言は、28 節にもう一度繰り
返されますが、「口語訳」ではここも、「わたしがそういう者であることを」
と訳しています。補語「そういう者で」は訳者の補足で、「わたしが……で
あるということ」では意味が通じないと考えたためです。新共同訳はこの『わ
たしはある』を、さらに強烈な断言として受け止めて、「である」ではなく
「有る=存在する」の意味に訳したのです。
原文は“that I am”にあたる 3 語だけで、です。口語訳の
読み方で“I am”~何なのかは、すぐ前で言われた内容と繋がると見なされ、
「私は地から出た地に属する者ではない。上から―天から、父から来た者
である――そのことを」と読めます。
逆に、あとの 26 節や 28 節のお言葉から理解するなら、「私のしているこ
とは天の父の意志、私が現に話していることは、神様があなた方に分からせ
たいこと。私は天の父の行為そのもの、神が語りかけている言葉そのもので
ある―そのことを」となります。“that I am”の後に、わたしが何である
かの内容が含蓄されていると見れば、そうなります。私を信じるということ
は、単に「頼りにして尊敬する」ことではない。天の父の意志は私の中にあ
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る。そのことを額面通り受けとめることが、この私を「信じる」ということ
なのだ……と。
「私をそういう者として全面的に受け入れる以外に、罪の死から逃れて生
きる道はない」という断言が 24 節です。
『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪の
うちに死ぬことになる。
これは、この世の常識から考えれば、暴言です。あまりにも一方的な狂信
者の言葉にしか聞こえません。25 節でユダヤ人が、『お前ごとき者が一体何
様のつもりか』と憤慨したのは当然ですし、現代の正常な常識人にも、とて
も踏こえられない垣根だと言えます。聖書の視点からは、「“命の息”(霊)
がその人を捕える奇跡」ですが、肉の常識からは、正気の沙汰とは思えない
し、そう簡単に同意できることではありません。
多くの人が、7 年も 8 年もかかって、やっと信仰の決断をする……という
のも無理はありません。その人自身の正味の決断に、それだけの準備が必要
だったのです。もっとも、そこの一番決定的なところは、決して難しい哲学
ではありません。全く単純な決断で、誰にでも、信じる時には信じられるし、
福音に触れてから一ヶ月も経たないうちに、この信仰の決断が与えられる人
もあります。反対に 10 年、20 年学び続けても、「やはり私には超えられな
い。イエスのこの宣言を受け入れること、は知性放棄に等しい」と思えて立
ちすくむ場合も多いのです。
ですから、その正味の本気の決断が与えられるまでは、外から読者をせき
立てたり、暗示をかけて push したりはできません。それは福音への冒涜、
神の冒涜です。私たちはどの人のためにも、祈って、待って、神を畏れるの
です。「『わたしはある』という者だ」という宣言は、それほど重い内容を
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含んでいます。
1.イエスの死と世の人の死の違い。
21-22
21.そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちは
わたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。
わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」 22.ユダヤ人たち
が、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言ってい
るが、自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、
「私は去って行く」という言葉は、イエスは死を指して言っておられます。
ユダヤ人たちもそれはわかったらしい。勿論自分たちの憎しみと殺意を考え
ればイエスの死がどんな形になるか、大体の推察……というより、すでにそ
の実現を見ていたのです。トボケて通じないふりをしたものか、誰があなた
を殺そうなどと考えるものか……もっとも死んだあとで我々と行く先が違う
とすれば、自殺して自殺者の世界へ落ちるか……!
自殺は仏教の世界では美化されないまでも、特に重い罪と考えられないで
しょうが、聖書の信仰では他殺も自殺も同じく、神に逆らう最大の罪です。
なぜだかわかりますか……神様の手にある人間の命を私物化して、これは神
のものではない。わしが自由に処分する。と宣言するからです。キリスト教
の自殺観も、このユダヤの自殺観と同じ所から出ています。
22 節に込めた彼らの主張は、「我々は神の支配、メシアの国に入るのだが、
あなたとは行く先が別だと言うのなら、「下の陰府」の暗闇へか、ゲヘナに
お出でか」というきつい皮肉です。本当は、21 節でのイエスの趣旨は、自分
の死の悲劇性や惨めさを強調されたのではなく、「私は父の所へ―あなた
たちが行きたくても行けない所へ―帰って行くのだ。反対に、あなたたち
は罪の悲惨を背負って、呪われたまま死者の世界に落ちる。死のあとの運命
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がかくも違う」と言われたのです。
2.イエスの生と、世の人の生との違い。 :23-25.
23.イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わ
たしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたし
はこの世に属していない。 24.だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬ
ことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信
じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」 25.彼ら
が、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。
和らげて上品に「どなたですか」と訳してありますが、語気は、「あなた
如き者が一体何様のつもりか」と、かなり激しいものです。ですから、先行
するイエスの宣言は、それ位一方的で、断定的だったのです。
「私のいのち自体、地に属す者とは本質的に違う。所詮肉である悲しい者
とは源が違うのだ。罪の中に滅びて行く者を、何としても生かそうと天から
来ている者が私だ。父の意志と全委任を受けて、父の救いの手として私はこ
こにある。その私を早く見抜いて、目を開いてしっかり見届けよ。私に委ね
ることだけが、死から命に移るための唯一の道だ。
イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。」
原文は  です。「それを改めて言わせる
か!」、「今さら新しく私が語るのか!」という、驚きと悲哀をの感嘆文と
して受け止めました。 は「初めから、とっくに」ではなく、「今
初めて」か「ここで、新しく」という副詞句で、現在形のにかかって、
「何と、それを私の口から初めて聞くふりをするか」という強い諷刺です。
イエスの語気も悲しみをこめて激しいのです。
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3.私が何者であるかは、私の死ぬ姿を見て初めてわかる。 :26-30.
26.あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。
しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞
いたことを、世に向かって話している。」 27.彼らは、イエスが御父につい
て話しておられることを悟らなかった。 28.そこで、イエスは言われた。「あ
なたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、
また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話
していることが分かるだろう。 29.わたしをお遣わしになった方は、わたし
と共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつ
もこの方の御心に適うことを行うからである。」 30.これらのことを語られ
たとき、多くの人々がイエスを信じた。
「多くの人々」は「大半」の意味ではなくて、「信じた人も多かった」つ
まり、一部だが、本気でイエスを信じようとする人たちも出た。この人たち
が結局どうなったかは別として、次回に読む問答では、イエスはこの人たち
への語りかけに集中されます。少なくとも信仰への一歩を踏み出すことがで
きた人たちが、ある程度はいたのです。
いまの 14 行の論旨をまとめると、最初の 4 行は、「そういうあなたたちが
どうなるか、どんな裁きがあなたたちに下るか、語ろうと思えば言葉は尽き
ないが、今は私が天の父の意志をそのまま、罪あるすべての人に伝えている
ことに気づけ。その天の父が「真実である」とは、絶対確かで裏切らない唯
一の方……という意味です。その父の真実がどんなものであるかを、「世に
向かって」―悲しい人間すべてに伝える。
あとの 29 節の 4 行。「私を遣わした父は、遥か天の彼方で見ているのでは
ない。私が働く時、実は父が働いている。その証拠は、私の言動がすべて厳
密に『神の意志通り』であることだ。」―これも不敬罪、冒瀆罪に値する
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言葉でしたが。本気で食いついた人もいた(30)のです。
しかし、今日のテキスト後半の中心は、28 節のお言葉でにあります。
「あなたがたが人の子を上げてしまった後はじめて、わたしの本質を知る
だろう。またわたしがしていた事は、自分の判断でしていたのではなく、す
べて父が示した通りのことだったと気づく時がこよう。」
これは、イエスが死ぬ時の、死なれる姿が、その本質を現わすこと。“that
I am”と言われたイエスが何者であるか、一体どなたであられるかを、彼の
死が明白に語るという意味です。「上げる」、「上げられる」はヨハネ伝特
有の謎を表現した言葉ですが、これは足が宙吊りになるような処刑の木に「上
げる」ことと、最高の栄誉・栄光に「上げる」ことの二つをかけた言葉です。
「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられる」という言葉
を、私たちは 3 章のニコデモとの対話の中で読みました(3:14)。またこの
あと 12 章には、「私が地から上げられる時」(12:31)というお言葉もあり
ます。ギリシャ人の求道者がイエスに面会を求めてくる場面です。そういう
最低の悲惨と恥辱が、最高の栄光と二重写しになっているのが、「上げる」
という不思議な言葉の絵です。イエスが人の手にかかって殺される姿の中に、
イエスの本質が明瞭に輝き出るのです。「それを見るまで、あなたたちは、
『お前はいったい何様か!』と言い続けるだろう」と……。
≪ ま と め ≫
イエスのお言葉は、二つの読み方ができると申しました。
私が誰であるか―それを額面通り信じて私に委ねよ。「私は地から出た
地に属する者ではない。上から―天から、父から来て、あなたに命を与え
るために来た者である。それを正味信じて、そこへ帰って来ることが、あな
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たを死から生かすことになる。―ここの問答だけを背景にして読めば、イ
エスのお言葉の意味はそれだと言えましょう
『わたしはある』という者……それが私だ―それを額面通り信じて私に
委ねよ。「天の父の意思と行為を私の中に見るだけでなく、モーセが見たあ
の『存在者そのもの』を私の中に見よ。その『存在者』を信じないならば、
あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」
ヨハネの記録したイエスの言葉は、ユダヤ人にとって驚異であっただけで
なく、私たち現代の読者にとっても、すぐには越えられない「ハードル」で
あるかも知れません。しかし、もしイエスがここで言われたことが「父の御
心」であり、「神の真実」であるとすれば、私たち読者は、ヨハネの伝える
イエスの言葉を前にして、どれだけ真剣に受け止めても、真剣すぎるという
ことはないのです。
(1986/08/20)
《研究者のための注》
1.28 節にある「人の子を上げる」という表現、また「人の子が上げられる」
という表現については、Morris の註解 452 頁の説明が参考になります。
2.“that I am”に相当するの意味については、新改訳は「私がそれである本
質、“who I am,what I am”の意味に受け止めて「わたしが何であるかを」と訳し、
24 節では「わたしのことを」と短く訳しています。しかし新改訳の脚注にあるように、
これを出エジプト記 3:14 にあるや、そのすぐ後のと結びつ
けて解釈することもできます。この視点から直訳したものはフランシスコ会の「わた
しはある」を信じなければ……で、その意味をこめて意訳したのが旧共同訳の「わた
しが主であることを」です。この「わたしはある」の意味については、本講の第 24「パ
ンと群集」また第 35 講「『わたしは有る』という方はあなたに死を味わわせない」で
も詳しく解説してあります。
3. は七十人訳の用例からも、主なる神の自己宣言と結びつけることもでき
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ます。Dodd は「神名」として使われた「アニー・フー」aWh
ynIa]
も脚注でこれに言及して引用します。この「アニー・フー」aWh
と結びつけ、Morris
ynIa]
は申命記 32:39、
イザヤ 41:4、同 43:11、46:4 他で使われ、聖書協会口語訳では「わたしこそ彼で
ある」、「わたしがそれだ」、「わたしが主である」、「わたしは変らず」等と訳さ
れています。恐らくこの は聖書協会口語訳のような意味でやり取りされな
がら、フランシスコ会訳や共同訳のような絶対的な宣言の意味を含めて語られたもの
で、イエスの御趣旨が実は後者の意味にあることが少しずつベールをはぐように明ら
かにされて、遂に 58 節のクライマックスに高まると見るべきでしょう。
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