2012/11/18 聖霊降臨後第25主日礼拝

2013/07/14
C年
聖霊降臨後第 8 主日
説教題:「 主に従う覚悟 」
説教者:
伊藤節彦
ヨナ 4:1~11
ガラテヤ 5:2~26
ルカ 9:51~62
9:51 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。
52 そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマ
リア人の村に入った。53 しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを
目指して進んでおられたからである。
54 弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼ら
を焼き滅ぼしましょうか」と言った。55 イエスは振り向いて二人を戒められた。56 そし
て、一行は別の村に行った。
57 一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへで
も従って参ります」と言う人がいた。58 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥に
は巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
59 そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父
を葬りに行かせてください」と言った。60 イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自
分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」
61 また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに
行かせてください。」62 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神
の国にふさわしくない」と言われた。
2013/07/14
C 年 聖霊降臨後第 8 主日 松山教会主日礼拝
私達の父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、
皆様お一人お一人の上にありますように。アーメン
【起】
私たちは人生の歩みの中で、決然と一つの目標を見定めて行動を起こさなければいけな
い時があります。それは学業であったり、仕事であったり、結婚もまたそうでしょう。そ
のためには困難なこと、辛いこと、寂しいこと、そして順境であろうと逆境であろうと、
その志を保ち続ける強い心が求められます。しかし、命を賭けての行動となると、また話
は異なってきます。
今日与えられた福音書の冒頭には「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサ
レムに向かう決意を固められた」とあります。ここは直訳すると「イエスは天にあげられ
る時が満ち、エルサレムへと顔を固く据えられた」という文章です。
「顔を固く据える」と
いうのはヘブライ的な表現ですが、ぶれることのない決然とした態度、目標を一直線に見
据える眼差し、決意の固さ、特に旧約聖書では神様の強い意志がここに表されています。
ですから漠然と、「さあ、そろそろいくか」とか、「仕方ないからぼちぼち行くか」とい
う感じでエルサレムに向かわれたのではない。この時のために、主は日に日に備えをして
こられたのです。
先週の福音書で私たちはペトロの「あなたこそ神のキリストです」と語った信仰告白を
聞きました。しかし主は、その後にご自分がこれからどのような苦難をお受けになるかを
予告されました。そして「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架
を背負って、わたしに従いなさい」というご命令を語られたのです。
皆さんは先週のこの言葉を心に刻まれたでしょうか?
多分、ああそういえば先週はそん
な話だったなあ、程度に受けとめておられたのではないでしょうか? それは弟子たちも一
緒でした。主イエスが繰り返し語られる受難予告を聞き流して、自分たちの主イエスに対
する期待だけを追い求めようとしていたからです。
【承】
四つある福音書のうち、マタイ、マルコ、ルカに共通していることは、イエス様が宣教
を始められてから、ただ一度だけエルサレムに上られたということです。ですから、宣教
活動の最初はガリラヤ地方、そして後半はエルサレムでの受難と復活の物語と大きく二分
することが出来ます。
そしてルカの特徴としてあげられるのは、エルサレムへ主イエスご一行が向かわれるそ
の旅を詳細に描いているということです。その旅の始まりが今日の箇所です。この旅は、
水戸黄門のような諸国漫遊ではありません。十字架への道行きでありました。しかしルカ
は死出の旅とは記しません。
「天にあげられる」ためであったと記すのです。
このエルサレムへの旅は、サマリア人からの拒絶をもって始まりました。読み返してみ
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C 年 聖霊降臨後第 8 主日 松山教会主日礼拝
れば、
ルカは既に 4 章で主イエスの洗礼後に故郷のナザレで拒絶されたと記していました。
つまりルカは、イエス様の歩みは最初から人々に受け入れられることはなかったと言うの
です。
では、なぜサマリア人は主を拒絶したのでしょうか? 単に民族的な問題からでしょうか?
ご存じのようにユダヤ人とサマリア人は同じルーツでありながら宗教的に反目しあってい
ました。しかしルカは別な理由、それは主イエスが「エルサレムを目指して進んで」いた
からであるとはっきりと記しています。
ルカがエルサレムと記すのは単なる地名としてではありません。聖書を読む読者にとっ
てエルサレムとは、主が十字架に架けられた場所であります。つまり、ここでルカが描く
サマリア人の拒絶とは、受難のメシアなどとんでもないという思いに他ならないのです。
これは何もサマリア人だけではない。ペトロを初めとする弟子たちも同様でした。そして
私たちもまた同じ思いなのではないでしょうか。私たちは強い者、優れた者、かっこいい
者に憧れます。アイドルとは偶像のことです。私たちは自分にないものをアイドルに求め、
それを神とさえしてしまう愚かさを持っています。
しかし主イエスの「エルサレムへの決意」は、民に嫌われ侮辱される「苦難の僕」とな
る決意でもありました。それは私たちが求めるものと全く真逆の神の姿です。弱い者、卑
しい者、かっこの悪い惨めな者。だからこそ、ナザレ、サマリアで拒絶されたイエス様は、
エルサレムに於いて最も激しく拒絶されたのであります。
サマリア人が自分たちを歓迎しなかったことに腹を立てた弟子たちは、
「天から火を降ら
せて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と報復しようとしました。これから自分達の先生が
いよいよエルサレムに行って有名になろうとしているのに、お前達はなんて失礼なことを
するのか、そう弟子たちは憤慨したのです。旧約日課のヨナ書もヨナの憤慨が描かれてい
ます。ニネベの人々は神に滅ぼされて当然だ、そう信じていたからです。だから悔い改め
たニネベの人々を赦される神の愛に反発さえしたのです。
弟子たちとヨナの姿を私たちは笑うことが出来るでしょうか? 決して笑えない。私たち
は、神とは勧善懲悪を実行して下さる方、そう考えてはいないでしょうか。この考えが先
鋭化されていくと聖戦(ジハード)という発想が生まれてきます。自分の主義主張を通すこと
が神の意志を代行することだと考えるようになるのです。
しかし主イエスは、はっきりと弟子たちを戒められました。戒めるとはこっぴどく叱っ
たという言葉です。人間が正しさを判断する人の義ではなく、神の義こそが重要なのです。
そして神の義は、
「苦難の僕」の姿にこそ表されている、そのように聖書は語るのです。主
イエスのエルサレム行きの決意とは、
「他者の罪責を負い、ゆるしと愛を貫く決意」だと言
って良い。報復と呪いではなく、罪の赦しと救いこそが、十字架の神髄だからであります。
【転】
サマリアで拒絶された一行は、別の村に行きました。それは、どんなに困難があろうと
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福音は全ての人に宣べ伝えられなければならないからでした。私たちの伝道も同様であり
ましょう。どんなに頑張っても、さっぱり成果があがらない。しかし主は、諦めることな
く宣べ伝え続けることを私たちに教えて下さっているのです。
エルサレムへの道を歩む途上で、主は弟子となりたいという三人と出会います。受難の
決意を固めた主イエスに従うことは、生半可なことではありません。孤独と苦難、親の葬
式にも出られない、肉親との決別といった決意さえ求められるのです。
しかしそれは、私たちを縛る新しい律法ではありません。「神の国を言い広めなさい」と
いうご命令は、全てのことに優先して福音の宣教が必要とされているということです。こ
の福音の中にこそ、死や葬りさえも、いや死や葬りだからこそ、生死を超えた神の恵みと
救いのメッセージが込められているからです。この神に委ねる生き方こそが、キリストに
従う道に他ならないのです。
今度、広島教会で結婚式を挙げられる方のカウンセリングを先週したのですが、夫にな
られる方がこのような質問をされました。それは夫婦関係が親子関係よりも重要である、
という話しに対してでした。その方は、妻も大切だが、親こそが自分に命を与え育ててく
れたのであって妻の方が大切とは言えない、そう語られたのです。皆さんはどう思われま
すか? 今日、この話をあまりすることは出来ませんが、聖書は結婚関係を特に神様との関係
に例えています。パウロは、教会はキリストの花嫁であると語りました。ここに神の神秘
が隠されているといって良いでしょう。この関係には他人のみならず肉親でさえ入ること
は出来ない、そのような関係に私たちは入れて頂いているのです。
誰も自分で自分を招くことは出来ません(ボンヘッファー)。それを可能とするのは「わた
しに従いなさい」というキリストご自身の招きだけです。この招きこそが全てであり、こ
の招きへの服従は可能性の一つなのではなく、唯一の可能性です。信仰の決断と覚悟がそ
こにあります。ボンヘッファーは「その第一歩と共に、服従する者は、信じることが可能
となる状況の中に身を置く」と語ります。納得して信じて、それから服従するのではなく、
服従こそが信仰を可能とするのです。服従とは、言い換えれば人間の無力さと神の全能を
体験することであります。だからこそ、三人の者が口にした「まず……させて下さい」と
いう一切の留保は拒否されるのです。
【結】
説教の最初で、今日の箇所は主イエス一行のエルサレム旅行の開始部分であると申し
ました。これからクリスマスの前までの聖霊降臨節では、ほぼこの旅行記を辿る形で毎週
日課が与えられることになります。それは、ルカの旅行記がイエスの弟子教育の旅であっ
たように、この期節に私たちの教会もまた、主イエスのエルサレムへの旅を通して、主に
従うということの意味を改めて学ぶためであります。主の旅路が、多くの人々からの拒絶
と排斥に満ちていたように、主の御後に従う私たちもまた同じような旅路を歩むことでし
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ょう。その時、私たちも弟子たちのように憤慨するかもしれない。しかし今日のみ言葉は、
裁きや報復を願う生き方ではなく、赦しと愛に生きる者として歩み続けなさいと語りかけ
ます。それが主イエスの弟子となることだ、そう語るのです。
私たちの弱さを全てご存じでおられる方が、私たちのためにご自身の命をもって道を切
り拓いて下さっている。エルサレムへの道は十字架へと向かう道でありました。しかしそ
れは同時に「天」へと向かう旅でもあったことを私たちは知っています。どんなに孤独や
困難が襲ってこようと、私たちの旅路は主イエスが待っていて下さる天の御国へと続くの
であります。
「わたしに従いなさい」。そう、今日も呼びかけて下さる主に信頼し、しっか
りと主の御姿を見据えながら歩んで参りましょう。
人知ではとうてい測り知ることの出来ない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリ
スト・イエスにあって守るように。 アーメン
以上本文
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