「南米、南ア共和国、オーストラリアが大市場の時代」(269kb)

陶業史こぼれ話 ⑪
南 米 、南 ア共 和 国 、オーストラリアが大 市 場 の時 代
近藤 進
日本陶磁器産業振興協会・参与
(元 日本陶磁器輸出組合・専務理事)
現在、陶磁器の輸出先は殆ど欧米とアジアに限られている状況ですが、昭和 30 年代~50 年代
(1955~1984 年)には市場は世界の隅々まで及んでおりました。オーストラリアは米国に次ぐ第 2 の
市場であった時期がかなり長く、大きな市場であったと記憶されている方は多いと思いますが、南米や
南アフリカ共和国に大量に輸出されていたことは、知らない人の方が多いのではないでしょうか。殊に、
昭和 30 年代、40 年代には、業界団体はそれらの地域の市場対策に大童でした。
1.
硬質陶器の主要市場であった中南米
ストーンウェアが市場に広がり始めた 1970 年以前においては、輸出品は磁器、硬質陶器、半
磁器に分かれており、硬質陶器は中間価格帯の商品として重要な地位を占めていました。メーカ
ーは 10 社でしたが、1948(昭和 23)年に全日本硬質陶器協会(1959 年以降日本硬質陶器工
業組合)を設立して以来活発な活動を展開していました。同協会は 1956(昭和 31)年 1 月に設
備、出荷数量、価格を制限する国内協定を実施し、日本陶磁器輸出組合もそれに呼応して、同
時に「硬質陶器の最低輸出価格に関する協定」(~1962 年 6 月末まで継続)を設定しました。
輸出組合では既に北米向け硬質陶器製ディナーウェアについては輸出規制を実施していましたが、
新協定は、全地域を包含し、対象は直径 6 インチ以上の皿及び直径 8 インチ以上の丼でした。関係
メーカー10 社を A、B、C の 3 段階に分けて最低価格を設定していましたが、A には日硬陶業(現:
ニッコー)、東洋陶器(現:TOTO)等 4 社、B は山庄製陶所 1 社、C は富士硬質陶器、笹井製陶所
他が含まれていました。最低輸出価格は、皿は 6 サイズ 9 アイテム、丼は 8 サイズ 5 アイテムに分か
れており、例えば「8 吋丸皿・転写・金筋」のダース当り FOB 価格(当時の換算率は$1=360 円)は、
A:$1.10(=¥396)、B:$1.07 (=¥385.2)、C:$1.03(=¥370.8)でした。なお、設定後、対象品目、最
低価格等について何回も改訂が行われています。
1954(昭和 29)年の食器総輸出額のうち、中南米の占める比率は 7.4%でしたが、中南米向けは
硬質陶器が多かったので、下記の通り硬質陶器輸出協定の主要地域となっていました。
硬質陶器協定対象品の 1954(昭和 29)年仕向地別輸出実績(検査協会調べ)
北米
中南米
$145,162
$441,830
総輸出比
25.1%
東南洋
アフリカ
その他
$770,061
$175,575
$228,133
総輸出
$1,760,761
当時は中南米の輸入業者からの取引照会が頻繁にあり、手紙はスペイン語であったため、簡単
な手紙まで、いちいち関係商社に翻訳をお願いするのも煩わしく、また依頼先に迷惑をかけるの
で「スペイン語四週間」という本を通読・勉強して、それに対応しました。
また、南米諸国では、第 2 次大戦中に陶磁器産業が発展したため、保護関税、輸入制限がしばし
ば問題となりました。ペルーでは関税問題が 1954 年、57 年、58 年、59 年、63 年と続いており、ベ
ネズエラでは 1959 年、アルゼンチンは 1954 年、61 年、62 年、チリーでは 1962 年というように頻発
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していました。その都度、輸出組合では対策協議を行い、日本政府への陳情、現地輸入業者と協力
して当該政府に陳情するなど行なっていました。1963 年にペルーで関税引き上げが問題になった
時には、関係輸出業者が反対運動のために資金を拠出し、現地輸入業者団体に送金しています。
保護関税を設置する理由として安売りが問題になるので、このことも硬質陶器輸出価格協定を実施
する動機になりました。
2.
ペルー・リマ市で有田焼・九谷焼等を含む日本陶磁器展示会
1956(昭和 31)年 6 月、ペルーを訪問中の伊藤九郎氏(輸出組合中南米部会長、名古屋物
産㈱社長)より、「当地邦商懇談会の席上にて、日本製硬質、半磁器が好ましからざる世評の裡
に、日本にも斯くの如き良質の磁器もあることを宣伝して、今後の輸出促進に資すべしと云う提案
あり、・・・在ペルー日本大使館の内諾も得ている」として、リマ市における展示会開催計画を提案
してきました。それを受けて、7 月に中南米部会を開催・協議し、日陶連、ジェトロ名古屋支部、硬
質陶器協会も展示会実行委員会(委員長:真銅喜雄氏・㈱丸栄蜂谷商会専務取締役)に参加し
て貰い、計画を進めました。
展示品は組合員及び団体が分担して集め、次のように展示会を開催することが出来ました。
出品:25 社、高級ディナーセット、九谷焼、有田焼、京焼等の約 750 点、約 7,000 ドル
開催:1957(昭和 32)年 6 月 25 日~8 月 9 日、ペルー・リマ市コンチネンタル銀行展示室
主催:日本陶磁器輸出組合(中南米部会)
共催:海外貿易振興会(ジェトロ)、在ペルー邦商懇談会、日本陶業連盟
後援:在ペルー日本大使館
船積までの準備が大変でした。小生が準備の責任者となりましたが、なにしろ就職してから 1 年
余しか経っていない頃であり、輸出手続きも全く分からず、質問の仕方も分からない状態であったた
め、本を読んで基礎知識を仕入れ、それをもとに商社の担当者に教えてもらうことから始まりました。
また各地から集められた展示品は、開梱して全品に商品番号を付けて、写真を撮り、梱包をし直すと
いう作業をしました。その作業のために、名古屋市郊外(守山・小幡)の田畑に囲まれた空き倉庫を
借り、小生及び小生より若い職員 7、8 人が数週間、毎日遅くまで残業をして頑張りました。昼食、夕
食はオニギリ等を近所の人に作ってもらいました。荷造りは大島さんというベテラン(荷造人組合の組
合長)に現場で指導を受けて、木箱にモクメン(木毛)と新聞紙で梱包をしました。この経験から、事
務局員の仲間意識が大いに高まったように思いました。
事務局の先輩の協力も得て、12 月 28 日に出航した八幡丸という船に 104 ケース(24 トン)を積
みましたが、通関手続きには苦労しました。5 日間自宅に帰らず、締めくくりの 2 日は連続徹夜をしま
した。徹夜で打ったインボイスは間違いが多く、名古屋税関の通関係長に「輸出組合だから許可する
が、通常は、こんなに間違いがあっては認めない」と言われました。名古屋港で八幡丸を見送り、出
航の気笛が鳴った時には、熱いものがこみ上げてきました。
伊藤九郎部会長からは、「貨物船に乗せてもらうよう手配するから、ペルーへ行って展示会の世
話をしてほしい」と言われましたが、要領の悪い準備作業の後整理も大変なので、行くことができませ
んでした。展示会が上手くいかなかったら辞表を出すことを考えていました。道家専務理事からは、
「タクシー代をたくさん使ってくれたな。君らが殺気立っていたので、注意もできなかった」といわれま
したが、その言葉に道家専務一流のねぎらいを感じ、とりあえずホッとしました。
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展示会の結果について、在ペルー寺岡大使発外務大臣あて公電は次のように伝えています。
『・・・・・ペルー朝野の名士、陶磁器取扱い有名商社、新聞記者、その他報道関係者をコクテル
に招き第1回展示会開会式を行った。展示室はジェトロ主催及びコンチネンタル銀行後援の下
に開き、6 月 26 日より一般に公開しているが、単に日本にもこうした優秀な陶磁器が生産されて
いるというリマ市民にとって「驚異的な事実」が明らかにされたのみでなく、「ガラクタの安物」とい
う日本商品一般に対する観念が誤りであったという考えを一般がもち始めたようで、・・・・・』。
第 1 回の売上総額は約 150 万円、現地の費用を差し引いて 74 万円が送金されてきました。その後、
売れ残り品の処分もあって、第 2 回の展示会が 1958 年 5 月に開催されました。
この展示会で、中南米関係業者は結束力が固くなり、その後、忘年会・懇親会をしばしば開くよう
になりました。その都度小生も招待されましたが、全く楽しい集まりであり、中南米駐在経験者が多く、
現地の面白い話を聞くことが出来ました。
3.
南アフリカ共和国から関税調査官が公的調査のため来訪
南アフリカ共和国も陶磁器の大市場でした。同国向け食器輸出額は、1954(昭和 29)年に
108 万ドル(第 5 位)、1955 年 112 万ドル(米国に次いで第 2 位)、1956 年 94 万ドル(第 4 位)
であり、国別にみた場合、その後も 5 位前後の年が長年続いていました。1956 年の南アの食器
輸入統計をみると、英国からの輸入が 38%で第 1 位、日本は第 2 位で 36%を占めていました。
南ア最大の陶磁器工場にはドイツ資本が入っていましたが、ドイツからの輸入は第 3 位でした。
当時は日本陶器(現:㈱ノリタケカンパニーリミテド)も南アに駐在員を派遣していました。後述す
る関税問題の際には情報の収集等に活躍して頂いています。
南アフリカ共和国でも、輸入制限運動が盛んで、1956(昭和 31)年 6 月に家庭用食器類の関
税を「彩色 5%、彩色なし 25%」であった関税を一律 50%に引き上げるとともに、ダンピング税適
用品目に指定されました。
このダンピング税を日本品に課税するかどうかについて調査するため、直前の 1956(昭和 31)
年 3 月に関税調査官ハクサム氏(N.C.J. Huxham)が来訪しました。同氏は 2 月に日本に到着
し、日本綿糸布輸出組合で調査を行った後来名、8 社を訪問調査したほか、4 月に再び来訪し 2
社を調査していきました。
輸出組合では、日陶連にも呼び掛け、ハクサム氏来訪前の同年 1 月より関係者会議、近東ア
フリカ部会、対策小委員会を何度も開催して応答、対策について協議しました。また、第 1 次調
査の後、道家専務理事がハクサム氏を、ノリタケ工場、安藤七宝店、長良川鵜飼等に案内し、鵜
飼の帰り道には犬山の田縣神社にも寄り道するなど歓待に努めたようです。その効果があったの
かどうか、関係業者にダンピングの疑いはないとの結果になりました。
関税問題はその後も引き続き、1958 年(装飾用品)、1959 年(装飾用品)、1960 年(食器)と
年中行事のように関税引き上げが行われました。その都度、政府、商工会議所、輸入業者等を
通じ南ア政府に対し抗議を繰り返しており、1958 年の際には予定されていた率よりも低く留めら
れました。しかし、1960 年には、食器類に関税が 1(重量)ポンド当たり 10 シリングという実質的に
大幅な引き上げとなる重量税が実施されました。更に、1964 年、1980 年にも関税引き上げに反
対しましたが一部品目について引き上げが行われています。
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4.
オーストラリアでも関税公聴会
1960 年代、70 年代には、オーストラリアは陶磁器食器の大仕向地として、殆どの年は第 2 位な
いし第 3 位に位置していました。特に 60 年代は、第 3 位の仕向地にかなり大きな差を付けて常
に第 2 位を占めていました。例を上げますと次の通りです。
日本の食器輸出額
(当時の換算率:$1=360 円)
オーストラリア
(第 2 位)
総輸出比
米国
カナダ
(第 1 位)
(第 3 位)
総輸出
1960 昭 35 $3,226,322
6.1%
$26,585,741
$1,623,856
$52,828,242
1965 昭 40 $4,440,458
6.6%
$35,025,128
$2,737,353
$67,754,967
オーストラリアには、陶磁器食器製造工場は英国ジョンソンブラザースの子会社のほかは、小さな
工場があっただけで、上述のように大量の輸入国であったにもかかわらず、国内産業保護のため
に厳しい輸入制限措置が取られていました。主な事件は次の通りです。
輸入割当制:1956(昭和 31)年から 1962(昭和 37)年 10 月まで実施。この間数回、制度廃
止、割当枠拡大について政府及び輸入業者を通じ運動し、徐々に枠が拡大された。
関税: ①1963~64 年、輸入業者と連携し、英連邦特恵との大幅な格差是正を訴えたが却下。
②1966 年、同国生産者より低価格品の関税引上げ提訴、日本政府に及び輸入業者を
通じ反対したが翌年関税引上げが行われた。
③1975 年、同国生産者及び労働組合が輸入制限を要求したが、却下された。
④1976 年、同国生産者より恒久的保護措置を要求、公聴会には日本業界はクラム関
税事務所を雇用して反論した。結果は、1977 年 10 月 10 日より 2 年間は従価 22.5%
から 25%に引き上げられ、その後は 20%となった。
⑤その後、1982 年ノベルティ関税を 15%に引き下げ。1983 年に生産者より提訴があり
公聴会が行われ、1985 年に 20%に据え置くことを決定。1988~1992 年段階的引き
下げにより、最終的に食器関税 15%、ノベルティ 10%となった。
このような経過の中で、常に関税引上げ提訴に反論するとともに、政府等を通じて関税障壁の緩和
に努めてきましたが、米国のように駐在員を置いていないため、情報の収集、輸入業者との連絡等に
ついて、現地に子会社をもつノリタケに協力して貰いました。
上述の 1966(昭和 41)年関税引上げ問題の折には、恐らく英国業界の意向を反映して、低
価格品のみが提訴対象となり、低価格品の関税が引き上げられる結果になったことからか、「ノリ
タケは、自社の利益ばかりを優先しているのではないか。輸入商もそう思っている」という関係業
者があり、小生から「輸出組合よりお願いして、ノリタケには利害を離れて協力して貰っている。何
か先入観念にとらわれて誤解しているのではないか。輸出組合主脳部はノリタケの協力を心から
感謝している」と抗議したことがあります。このような誤解は他の機会にもありましたが、前項の南ア
フリカ共和国の問題といい、米国関係の問題といい、小生の知る限りでは、ノリタケが自社の利益
のため横車を押したという事例は全くなかったことを、ここに記録させて頂きたいと思います。これ
まで、小生が仕事をする上でも、特に海外でノリタケの方々に助力して頂いた機会が数多くありま
した。連載してきた「陶業史こぼれ話」の中であまり触れませんでしたが、小生個人としても本当に
心から感謝しています。
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