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ビル・エヴァンス
インタビュー
インタビュー・翻訳: 西垣内 泰介
転記: 西垣内 寿枝
1998 年 8 月 24 日
1 バンジョーとアメリカ音楽の歴史
TN: まず,あなたのコンサート・シリーズの話を聞かせて下さい。
BE: “The Banjo in America” というタイトルで,これを構想して 3 年になりますが,これは私の専
攻分野である民族音楽学に関連するもので,もともとのアイデ ィアはずっと遡ることになり
ます。
私はカリフォルニア大学バークレ イ校大学院の民族音楽学科でアフリカン・アメリカン音楽,
そしてアメリカへ渡ってくることとなる音楽のルーツである西アフリカ音楽,それにヨーロッ
パ音楽,さらに日本音楽を研究しています。
研究の中でアメリカ音楽へのアフリカ音楽の影響の深さに気づいたわけです。勿論バンジョー
の起源はアフリカですが,少し歴史を遡ると,ほんの 60 年も遡ると現在のような白人のフォー
ク音楽と黒人音楽の区別などなく,これらの伝統が一つであった地域があったのです。
例えばアール・スクラッグスの出身地であるノース・キャロライナでは黒人のミュージシャン
がバンジョーとフィドルを弾いていた。アーノルド・シュルツのビル・モンローに与えた影響
は有名ですが,こういう伝統は 200 年の歴史がすでにあったわけです。
学生として研究するようになってはじめてこういうことに気づいて,それがこのコンサート・
シリーズを企画することにつながったわけですが ,アメリカ音楽,特にブルーグラスをそれ
までの自分の見方とは全く違う見方で,また誰もしたことのないような見方で見るようになっ
たのです。こういう視点を明確に説明した著作としてはカントウェルの本 (Robert Cantwell,
Bluegrass Breakdown, 1984) がありますが 。
更にテネシー・バンジョー・インスティテュートでトニー・トリシカなどと交流することが次
のステップになります。トリシカは私とは違うアプローチでバンジョーの歴史を表現していま
す。“The World Turning” というコンサートでは自分のオリジナルを様々なスタイルで,フル・
バンド を伴って演奏しています。
2 バンジョー・コンサート
TN: あなたのコンサートの構成ですが。
BE: コンサートでは,4 ないし 5 種類のバンジョーを使います。まず,バンジョーがアフリカ起源
であることを論じて,アフリカの音楽を演奏します。次にバンジョーがアメリカに渡っていか
に変化したかを示して,1800 年代中頃のミンストレル時代の演奏,そして 1800 年代後半に
なってバンジョーがいかに洗練されたかを示すためにパーラー・スタイルとかラグタイム・ス
タイルを演奏します。これは非常に複雑なもので,後のスリーフィンガー・スタイルと明らか
1
に関連のあるスタイルです。指を 5 本とも使うこともありますが,だいたいは 3 本指スタイ
ルです。この時代の曲は何百というものが,特に米国北部にですが,楽譜に書かれて残ってい
ます。
そして,20 世紀に入ってフォークやブルーグラスのバンジョー・スタイルについて語るわけ
です。ド ック・ボッグズからスクラッグ ス,リノ,ビル・キースと。最後には自分自身の音楽
を演奏します。
これらは無論私の想像に基づくのではなく,マニュアルを研究して,それらの曲が実際に演奏
されていた通り再現すべく研究した結果です。
TN: 楽譜やマニュアルが残されているわけですね?
BE: そう。1800 年代のミンストレル・スタイルはその頃のバンジョーがど う弾かれていたかを示
すもっとも古い信頼できる証拠ですが,これらのマニュアルは西洋式の楽譜で書かれた曲と,
奏法についてのインストラクションが書かれています。左右のどの指を使うとかどの弦を弾く
とか,ちょうど タブに書かれているような情報です。
テクニックとしてはクローハマーやフレ イリングに近いのですが,音は随分違います。これは
リズムも曲自体も違っているからですね。
一つの例ですが,“Home Sweet Home” の 1871 年のアレンジを演奏するんです。これにはとて
も複雑で華麗な,マイナー・キーの,ほとんど タンゴのように聞こえる変奏部分があります。
その後,ショーの終わりの方でスクラッグスのアレンジの “Home Sweet Home” を演奏するん
ですが,この 100 年を隔てた奏法の間には明かなつながりがある。
そういう風に,聞いている人が「なるほど 」と思ってくれるように工夫しているわけです。
3
様々なバンジョー
TN: 5 種類ものバンジョーを使用する,ということでしたが。ブルーグラス・バンジョーについて
は後でうかがうとして。
BE: ロード に持ち歩くわけですから,高価な古い実物の楽器に投資するというよりは新しいレプ
リカを使うようにしています。最も古い形のバンジョーはゴ ード(ひょうたん : gourd )バン
ジョーです。勿論,1700–1800 年代のゴ ード・バンジョーの実物で現存しているものはありま
せん。このバンジョーはカリフォルニアのボブ・ソーンバーグ (Bob Thornburg) というビルダー
が 1800 年前後に作られたある絵に描かれた楽器に似せて作ったバンジョーなんです。
この絵は “The Old Plantation” という題の,バンジョー歴史家には有名な絵でして,描かれて
いるのは奴隷の結婚式なんですが,この絵の右下の角にゴ ード ・バンジョーが見られるんで
す。場所はサウス・キャロライナです。
1800 年代中頃の音楽を見せるのに用いるバンジョーはボブ・フレッシャー (Bob Flescher) に
よって作られたものです。今ではこれは誰でも手に入れることができます。このバンジョーは
ブーシャー (Boucher) という会社が最初に工場生産したもののレプ リカで,ウィリアム・ブー
シャーはド ラムを作っていたんですが,工場をバンジョー生産のために造り替えたのです。こ
の時代のアメリカで,いかにバンジョーがポピュラーだったかを物語る話です。
1800 年代から 20 世紀への変わり目を代表するバンジョーとして,バート・ライター (Bart
Reiter) バンジョーを使っていますが,これはベガ・ホワイト・レ イデ ィ (Vega Whyte Laydie)
のレプ リカで,トーン・リングなどは同じ形です。
ブルーグラス・フォークの部ではギブソンを使いますが,あと 12 インチの大きなポットを持っ
た,トム・モーガン作のチェロ・バンジョーというものも使います。個人的には持っていませ
んが。( G チューニングのまま) オープン D チューニングまでおとせるので,ド ック・ボッグ
2
スの曲などを演奏するときには合ってます。
4 ブルーグラスとアカデミア
TN: バンジョーの歴史に関心を持って演奏なさっているのは,研究上の関心からですか,あるいは
その逆で,様々な演奏スタイルへの関心がアカデミアの世界に向かわせた,ということでしょ
うか。
BE: 難しいね。前者でしょうね。
この道と決めてもう 20 年以上になるわけですが,いまだに自分が今やっていることは作業過
程の途中だと思っています。長期的な,というより人生の最終的な目標は演奏と研究の両方を,
同等にやって行きたいことなのです。他の音楽分野ではこれをやっている人がいます。ジャズ
のウィントン・マルサリスなどがその例です。それで,以前から,私の人生というか,場所は
ミュージシャンとしてツアーすることだけではなくて,アカデミアの世界に足を踏み入れた方
がもっと大きな,より良い貢献ができるのではないか,と思っているのです。
しかし,家族を養う義務もあるので,なかなか一つのことだけをやっているわけには行きませ
ん。数年間は演奏に,数年間は研究に,と繰り返して,博士論文を仕上げた時には両方を合体
できるのではないかと考えています。
アメリカのシステムでは,アカデミアの世界で演奏することは歓迎されません。教えるために
は演奏できないといけないんですが,アカデミックな学科は学問にしか興味がないのです。
しかし,私はきっと自分の居場所があるだろうと思っています。私は研究のために演奏をやめ
たいとも思わないし ,演奏だけしているのもいやです。
それで質問に答えるんですが,大学院に入ったとき,1986 年ですが,私は自分がフォーク音
楽やブルーグラスへの関心を追求することになるのか確信が持てない局面にいたんです。それ
で UC バークレイに入って,ブルーズ,ジャズ,アフリカ音楽などを研究していました。日本
音楽や日本語の研究もしました。
それで,手遅れになる前に気づいてよかったんですが,アカデミアの世界でも生活の中でもそ
うですが,自分が一番ここちよく思える場所に戻っていくものなんですね。他のジャンルの音
楽を研究したり実験したりしながら,僕は自分が一番よく知っているものを無視して,それか
ら逃げていたんです。一番よく知っているもの,つまりブルーグラス音楽です。
しかし,この道のりはほとんど 神秘ともいえる,オデッセイですね。それが何なのかを知るた
めにそれからしばらく離れていなければならなかった。
それから,アラン・スィノキ (Alan Senauke) のことを言わないと。彼はミュージシャンで,バー
クレ イ在住,日本でもよく知られた人で禅僧でもあります。アランは僕に「バンジョーを出せ
よ,そっちの音楽の方がいいよ,一緒に演奏しよう。バンジョーを出せ」といつも言ってくれ
たんです。
それだけじゃないんですが,コースワークが終わる頃には完全に方向転換して,僕はもう一度
ブルーグラスに強い関心を持つようになったんです。それ以来揺るがない気持ちでこの音楽に
コミットするようになって,10 年が経ちます。コースワークも試験も全部了えて,東部の大
学で教えるはなしがあったりして。それで今度はうんとトラッド なバンドで演奏したいと思う
ようになったんです。それまでやっていたプログレッシヴなバンド の反対を行くような。
TN: Cloud Valley ですね。
BE: そう。それで幸運にもド ライ・ブランチ・ファイア・スクォド (DBFS) に空きができたんです。
TN: 研究対象としてのブルーグラスというのは,ど うなんでしょうか。
BE: 僕が目指しているのは,学部から大学院までコースがあるちゃんとした機関でブルーグラスが
3
研究されることなんですが,そういう所は,まだほとんどないのが現状です。そういう中でブ
ルーグラス共同体に最も強い後押しができるのが自分だと思っているのですが 。
状況はかなり良くなっているとは言うものの,アカデミアの中で,民族音楽学者の間ですら,
UC バークレ イでも,10 年前は院生や教授たちがこう言ってたんです。
「世界中のどんな音楽
もすきだ。ただし ,カントリー音楽以外なら。」こういう認識なんですね。それで僕が「いや,
ブルーグラスはカントリー音楽と関連はあるけれど ,違うものなんだ」と言うと,ぽかんとし
た表情が返ってくる。
バークレ イのような政治的でプログレッシヴな地域では,カントリー音楽は横柄な白人の音楽
と思われているんです。
それでおもしろいのは,僕も院生として上級生になって少しアグレッシヴになって,研究発表
などでモンローやフラット & スクラッグスなどを聞かせると,みんな言うんです。
「そういう
音楽だとは知らなかった。そういうのなら好きだ 」とね。
それで,自分がアメリカの音楽研究者の中で貢献できることがあるとすれば,この音楽が芸術
的にも,社会的にも文化的にも妥当な,今や世界中で楽しまれている音楽形態なのであるとい
う認識を持たせること,これができたら大きな仕事だと思います。
5 「産業」としてのブルーグラス音楽
TN: ブルーグラス音楽を現代音楽として見るのと,伝統に基づく音楽として見るのと,あなたに
とってはど ちらに共感を持ちますか。
BE: 両方です。ど ちらの要素も大切だと思います。最近カントリー音楽について,社会学者や歴史
家が「産業」 industry ということばを使って多くの研究をしています。僕はブルーグラスにつ
いてもこういう見方が大切だと思っていますし ,それが僕の博士論文のテーマです。
この一つの中心は IBMA ( 国際ブルーグラス音楽協会)であり,IBMA の中で起こっている
変化です。ミュージシャン自身も 10 年前とは違った目で自分たちの仕事を見るようになって
います。僕は IBMA がミュージシャンたちが関心を共有して発展していく母体になっている
と思っています。
レコード の作り方でも変化しているでしょう。偉大なカントリー・ジェントルメンのレベル・
レコード での録音でも,地下室でマイク 1, 2 本で録音していた。こんなことはもうありませ
ん。僕たちは変化しているんです。その変化がこの音楽を良くしているのか,悪くしているの
か,そんなことを僕が決めるのではありませんが,そういう変化を著作に記録することが大切
なことなのです。
TN: ブルーグラス音楽が発展して,ビッグになってきたと言います。それこそ「産業」としてです
ね。これは日本でもそうなんだと思います。そのことについてど う考えますか。これが続くの
はいいことでしょうか。
BE: まさに本質について話すことになりますね。いくつか思うことがあります。
ひとつは,アリソン・クラウスの成功です。彼女はこの音楽の歴史の中で,モンローやフラッ
ト & スクラッグスを含めて誰よりもレコードを売っています。これは実に有意義なことで,ま
た彼女が女性だということも有意義なことです。この音楽の部外者の見方を変えることにつな
がりますから。さらに,リッキー・スキャッグス,ビンス・ギルなどが出てきている。
これで人々が人前で「ブルーグラスが好きだ 」と言えるようになってきたわけです。
他方で,これも話題にはなっているものの,あまり話されていないことなんですが,音楽とし
ての性質についてです。ブルーグラスは確かにカントリー音楽と関係があります。しかし,僕
は個人的にはブルーグラスはジャズやオルターナティヴ・ロック,クラシック音楽と関連づけ
4
られるし,
「 産業」としてもジャズ,ロック,クラシックと並ぶことにもっとエネルギーをそそ
ぎたいと思っています。
というのは,演奏の場面ということを考えてみると,ブルーグラスはジャズやクラシック音
楽,特に室内楽との方がカントリー音楽とよりも共通点がああります。カントリーは,巨大な
スタジアムで,花火を打ち上げたり,派手な演出をします。ガーズ・ブルックスがやっている
ようなことをブルーグラスでやろうなど ,誰も考えません。
ベラ・フレックとよく話すのですが ,ベラはいろんな場所で演奏しています。彼は,聴衆が
3,000 人以上になると微妙な音楽を演奏することは難しくなると言っています。そうなるとで
かいビートで,派手でわかりやすいことしかできなくなる。
ブルーグラスは微妙さをもつ芸術形態なので,大聴衆の場での表現には適さないのです。しか
し ,もしクラシックやジャズに食い込んで行けて,そういう聴衆を得ることができれば — ク
ラシックもジャズも,理解して味わうためには知識を持たなければならない音楽です。ブルー
グラスはそれと同じですが,カントリー音楽は知識はいらなくて,今はやっているのが好きだ
という音楽です。
サブ渡辺はこの点で IBMA 委員会で積極的に発言していて,日本ではブルーグラスはカント
リーの一部とは見なされていないと言っています。そう思う?
TN: ちょっとわからないね。ただ日本ではブルーグラスは素朴で楽しい,キャンプファイア音楽の
ようなイメージもあるし 。
BE: それはアメリカでもそうです。サブの発言の主旨は,プログレッシヴ・ブルーグラスに IBMA
がなぜ賞を与えないのか,ということなんですが。僕はそれに大賛成で,音楽に知識のある聴
衆を引きつけることができればもっと成功できると思うんです。
TN: それを聞いていて思い出すんですが ,僕の友人のアメリカ人の女性が,フェスでデル・マッ
カーリー・バンド の演奏の後で,
「 今日はジェイソンのフィド ルいまいちだったわね。疲れてた
のかしら」とか言うんです。すご く鋭い耳を持ってるなと思いました。こんなことはガース・
ブルックスのコンサートではないでしょうね。
BE: 「ガースのバンド の第 3 ギター奏者は調子悪かったわね」なんてね。
( 笑う)ただ,僕はガー
ス・ブルックスの音楽は好きですけど 。
つまり,僕が言っているのは「産業」としてのあり方であって,そういうマーケットに到達で
きる可能性を持ったバンドがあるということはすごいことです。
これは僕の印象からの一般化なんですが,ニュー・アクースティックと呼ばれる音楽をやって
いるミュージシャンの多くは,自分のキャリアということを考えてブルーグラスをやめてし
まった人たちなんです。やめた理由というのは,認められることを求めて苦労するのがいやに
なったんですね。他へいった方が簡単だ。
もし我々がより大きなファミリーを持っていて,オールド・タイムもコンテンポラリーも受け
入れることができれば,我々ももっと受け入れられて,聴衆を作って行くことができる。一つ
の方向だけに努力するのではなくて,我々の多様性を示すことになるのです。
ブルーグラスは,一方の極にボブ・ペイズリーのような人がいて,他方の極にトニー・ライス
やベラ・フレックがいる。こういう多様性を持った音楽というのは,ブルーグラス以外では,
アメリカ音楽としてはジャズとゴ スペルの 2 つぐらいしか考えられないでしょう。ポルカはポ
ルカですからね。
TN: アイリッシュにはかなり広さがありますよ。
BE: その通り。そしてアイリッシュで面白いのは,イノベーションが許されるということです。ブ
ルーグラスにもイノベーションはありますが,ちょっと違っている。
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アイリッシュに新しい楽器を持ち込んで,アイリッシュのスタイルで演奏する限り,やっぱり
アイリッシュです。シンセでも OK。ブルーグラスではこうは行きません。つまり,それぞれ
ルールが違っている。
「僕は必ずし
これが,僕が “Native and Fine” のアルバムで言いたかったことでもあるんです。
もジャズの音がする音楽がやりたいんじゃない。オリジナルなんだけど ,ブルーグラスの音が
することで多くの人に受け入れられるような,僕個人としてのスタンプがちゃんと押してあっ
て,ユニークで何だかわからないけど ,やっぱりブルーグラスだ,というような曲を創り続け
ていきたい」
6 「いにしえの音」
TN: 僕自身言語学者で,アメリカの大学院で教育を受けた経験から聞きたいのですが,あなたが琴
や尺八など 日本の古典音楽に関心を持っているのは,大学院でのコースワークに関係ありま
すか?
言語学では,研究者に幅を持たせるために専攻と違う分野や言語を研究することがアメリカの
大学院では求められます。
BE: 民族音楽学を研究する者は,みな多様な音楽を研究することが義務づけられます。
僕は大学院に入るずっと前から禅に関心がありました。学部は人類学で,宗教を副専攻にして
いました。禅を知れば知るほど 日本文化の特殊性を知ることになります。そして日本の伝統音
楽を聴いて,禅と音楽の結びつきを感じるんです。
ですから,禅についての内的な関心から始まって,大学院で日本音楽が僕の視点を広げること
になります。
例えば尺八を演奏するとき,音を出すんですが ,むしろ大切なのはその音でど うするか,で
しょう?音を曲げる(「節をつける」)やり方です。これは全く違う音楽に対する見方でした。
それで,そこで学んだことをバンジョー演奏に持ち帰ったことは,曲を書くときも弾くときも
経済的に,ということです。もっとも控えめな手段でもっとも強いインパクトをだす,という。
今から 20 年たっても,尺八・琴で学んだことは “Kenny Baker Plays Bill Monroe”, “Foggy
Mountain Banjo” と同じように僕の心に残っていると思います。これらのアルバムは,今から
100 年経って,誰もクロマティック・バンジョーなど 弾かなくなっても響き渡っているでしょ
う。そういう時を越えた価値があるんです。
TN: ピーター・ローアンが “Bill Monroe: Father of Bluegrass” のビデオの中で ‘ancient tones’ 「いに
しえの音」ということを言っています。彼はビル・モンローの傍らで歌うことの陶酔的な経験
を語っているんですが 。
(『ビル・モンロー: ファザー・オブ・ブルーグラス 対訳ハンドブッ
ク』参照。)
BE: 僕自身は DBFS と一緒に演奏していつも経験することです。ロン・トマスンはいつも,ブルー
グラスにぞくっとするのはこういう特別の瞬間,“When The Golden Leaves Begin To Fall” の
コーラスのハーモニーがヒットするあの瞬間だとよく言います。一つの音です。それで世界が
ぱっと開けたような。
僕にとってはアール・スクラッグスの “Foggy Mountain Breakdown” のオリジナル録音の一弦
の音がどれだけ強いインパクトがあるか。だから,アール自身を含めて,誰が弾いても,1949
年のあのド ライブとバランスにとど くよい音を出した人はいないんです。“Shuckin’ The Corn”
にもそれを感じます。
こういうことをそれぞれの人が感じ取っているわけですが,僕にとっては尺八の演奏で「節を
付け」たり,体を動かして音をコントロールしたりするところに(バンジョー演奏との )平行
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性を感じるのです。勿論バンジョーではずっと多くの音を出すわけだけど 。しかし,日本音楽
での冒険は僕の静的なアプローチに影響を与えました。
ベラとは年齢も同じで同じ頃にプロとしての演奏を始め,彼は高い水準をうち立てて僕も長い
間同じように演奏してその水準を目指したわけですが,今僕に取っては道筋が違うと感じるん
です。僕は生のバンジョーを弾いて,必ずしも多くの音を出すことなくパワーのある主張をす
ることに努めている。その主張をシンプルにすることができたら最高で,それがスクラッグス
や J.D. クロウ,ソニー・オズボーンから学ぶ教訓なんです。ギアをシフトする必要がある。そ
れが重要な要素なんです。
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楽器のこと
TN: 今持っている楽器の話をして下さい。
BE: 70 年代から,長い間ステリングを弾いていました。アラン・マンデ ィに影響されていたこと
もありますが,最初のは 78 年にスタグホーン,81 年にサンフラワーを買いました。これはト
ニー・トリシカと同じものでトニーは今でも同じ種類のを弾いています。
これに変化が起こったのは DBFS に入った時です。ソニー・オズボーンや J.D. クロウのとこ
ろに出入りするようになった時でもありますが,ギブソンの音が僕にとっては新しい世界で,
ステリングとは全く違った音でした。セットアップの仕方で近い音にもできますが,やっぱり
違うものです。シボレーとダッジのような。
DBFS に入って,ギブソンの音を求めるようになったんです。その方がバンド のサウンド に
合っていると思いましたから。それで,その頃たくさん楽器を買いました。新品のギブソンと
か,リッチ & テイラー,どれもいい楽器でした。ステリングとは全く違う音で。
93 年に,次のステップに移りました。多くの人がするようにですが。つまり古い RB-1 を買っ
たんです。これはもともとトーン・リングがなかったので,リムから木の部分を取り除いて
トーン・リングを付けました。
このバンジョーで僕はプ リウォー( 戦前)の音に近づくことができました。この RB-1 を買っ
て,DBFS の “Live At Last” を録音しました。この時のバンド のサウンド にはハッピーじゃな
いですけど 。
で,今はスティーブ・ヒューバーのトーン・リングを付けています。これはすごいトーン・リン
グだと思います。その前にはカーティス・マクピークのトーン・リングを付けていました。こ
れもよいものでした。その前はギブソンのリングです。色々なリングを試しているんですが,
これで何をやっているかと言うとプリウォーのフラットヘッド の音に近づこうとすることなん
です。それで実際にプリウォー・フラットヘッドをど うしても手に入れたいと思うようになり
ます。
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影響を受けたプレ イヤーたち
80 年代前半,クラウド ・ヴァリーに参加していた頃,シャーロッツヴ ィルでコンサート・シリー
ズをホストし,そのコンサートにゲストとして招かれた多くのバンジョー奏者と交流するようにな
る。特に最初の頃,師と仰いでいたのはトニー・トリシカで,トニーはこのシリーズに何度も参加
するが,それ以前の 70 年代にもビルはニューヨークでレッスンを受けている。この頃強い影響を
受けた奏者はトリシカとアラン・マンデ ィだった。
ビルが大学院に進んだ頃から彼の音楽的な方向が変化するとともに影響を受けるミュージシャン
にも変化が現れる。特に親しく交流するようになったのはソニー・オズボーンと J.D. クロウだっ
た。ソニーとはホームスパンのバンジョー教則ビデオの企画を通して,J.D. とはアキュタブの本の
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仕事を通して親しくなる。
BE: 日本音楽の話とも関連するんですが,この 2 人,ビル・モンローとプレ イしたソニー,子供の
頃毎週スクラッグスの右手を見つめていた J.D. と身近に話して学ぶことは,スクラッグス・ス
タイルが何にもまして深い,底なしの旅路だということです。スクラッグスの教則本で学べば
1 年ぐらいで大体のことは覚えられます。覚えるのに時間がかかるのは,ただ音を出すという
以上にはるかに多くのことがある,ということなんです。これはほとんど 神秘的とも言えるこ
とです。
しかし,ど うやって音に深みを与えるかということでソニーを師として学んだことは,J.D. か
らもですが,トラッド なブルーグラス・スタイルでいかに多くのことができるか,そして真に
深みのあるブルーグラス・バンジョーのことばを伝えるためには実に多くのことを知らなけれ
ばならないということです。ホットなシングル・ストリング・リックは技術的には難しいです
が,何を弾いているかすぐ わかりますし ,速く弾けさえすればコピーも簡単です。ソニーや
J.D. がやっていることはそれよりはるかに微妙なことなんです。こういう微妙な音は探らなけ
ればならない。
タブに転記していて気づくんですが,いわゆるプログレッシヴなのはほとんど 正確に転記でき
ます。しかし ,ソニーや J.D. のは,様々な弾き方があって,転記してもたいてい間違ってい
る。例えば典型的なフィルに使う「ダーダ ダダダダンダン 」というリックでもいろんな弾き方
があるんです。わずか 8 音ですが,10–12 の弾き方があって,それを自分のものにしている。
ド ライ・ブランチと演奏していると,メロディックとかシングル・ストリングでは合わなくて,
自然にロール・パターンで弾くことを余儀なくされます。それでトラッド なスタイルを自分の
ものにする機会を与えられたのです。今の僕はアール,J.D., ソニーから与えられたものを道
具として自分自身の音楽を作り上げていきたい,と思っています。これに成功した人としては
ジョン・マリンズ (John Mullins – ロングビューの)をお手本にすることができます。彼はまさ
にああいう人々の足下で練習したんですね。これはレコード からとか,特にタブから学ぶより
はるかに良い方法です。
僕も人に教える時は今はタブを使わず,1 音ずつ教えるようにしています。
9 ソニー・オズボーンのこと
BE: 英語の mentor にあたる日本語は?
TN: 「師匠」かな。しかし「師匠」は「弟子」を支配するような非民主的な響きもあるから。
BE: 「弟子」が「師匠」の床を拭くとか?ソニーは僕にとっての「師匠」です。僕はソニーの床を
拭いたりしないけど 。
しかし ,僕はソニーのためなら何でもするし ,ソニーも僕のためなら何でもしてくれると思
う。96 年,ケンタッキーに住んでいた時ひど い洪水があったんです。その時 2 日ほど 家から
離れていたんですが,その間ソニーはずっと E メールしてくれてた。日に 3, 4 通も「大丈夫
か,返事がないが大丈夫か,お前の家の様子を見てやろうか?」それだけ気にかけてくれてい
たんですね。
僕は父のいない家庭で育ったので,そのイメージを求めているんでしょうね。
「そんな風にす
るんじゃない」と言ってくれる人がいるようになって,とても嬉しいんです。
ビルがソニーに初めて会ったのは 78 年,彼が 20–21 才頃,バージニアのローカル・フェスだっ
た。ビルがオーエンズボロのブルーグラス博物館に勤めていたころ,オズボーン・ブラザースが
IBMA 殿堂 (hall of honor) 入りし ,それに関わる行事の一つとしてホーム・スパン・ビデオの企画
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にビルが関わることになり,それがきっかけで父と慕うほど 親交が深まったのだという。
BE: 96 年の秋,ド ライ・ブランチのツアーが忙しくて,週の 4–5 日はロード で家にいるのは 2 日
ほどということが続いたんです。その時カゼをひいて,薬を飲んでも治らないというのが 3 ヶ
月も続いて,家族との関係もバランスが崩れる,という状態で,クリスマス頃,しょっちゅう
ソニーの家へ行ってたんです。彼も忙しかったろうにね。それで話をして,一緒に音楽を聴い
たり。
そういう中で僕の演奏への批評を求めたりし ました。さらに,人生のこと。僕も年齢がいく
し ,子どもも大きくなるし ,というようなね。
彼はそういうことに直接答えを与えるのではなく,僕に貴重な時間を割いてくれることで,僕
が何をなすべきかを示してくれた。ソニーが意識してそういう答えを与えてくれたのかはわか
らないけれど ,こんな風にして関係が密になり,彼が僕を友達の一人として選んでくれたこと
に名誉と幸運を感じています。
10 RB-75 とソニー
7 節でプリウォー・フラットヘッドを求める気持ちを語っていたビルは,ついにその夢を実現する。
それもソニーとの友情を通してのことだった。
BE: 97 年の 1 月,2 週目の週末アイオワのフェスにオズボーン・ブラザースもド ライ・ブランチ
も出ていたんですが,出演日が違っていることもあって,ソニーとは会えなかったんですが,
後で聞くとソニーは僕を探していたんだそうです。
戻ってインターネットの BGRASS-L を読んでいると,そのフェスのリビューが出ていて,そ
こにソニーが買ったばかりのバンジョーを弾いていたと書いてあった。その時ソニーは「これ
は地上に現存するバンジョーの中で最良のものの一つだ 」と。
TN: レポートを書いた人は聴衆のひとりですね?
BE: そう。ソニーはステージでそう言ったんです。その時は違う材質のネックが付いていたんで
すが 。
それで,次の週末にソニーの家へたずねて行ったんです。リビングで色んな話をしてるんで
すが,僕の頭には一つのことしかありません 。
( 笑う)それで,ついに心を決めて — 妙なも
んですが,その瞬間が一つの転換点で,もう後戻りできないような気がしていました — バン
ジョーのことを尋ねたんです。
するとソニーは満面に笑みを浮かべて,
「 そうか,見たいか?」それで,2階へ取りに上がって,
僕に渡してくれます。僕はピックを着けて,5 秒か 10 秒かしてなんですが,このバンジョー
からアール・スクラッグスの音,“Foggy Mountain Banjo” の音がするんです。クロウのパワー
があるんです。
それから 2 時間,ノンストップで弾き続けました。そしてソニーに,
「 僕はこのバンジョーが
ど うしても欲しい。でもこれ売るつもりないんでしょ」と言ったんです。するとソニーはにこ
にこして,
「 僕としてはこれは持っているつもりだけど ,このバンジョーについての電話を受け
た時から,これは君のバンジョーだなと思っていたんだ。欲しければ譲ろう。他の誰にも売る
つもりはないよ。」と言ってくれたんです。彼との師弟関係が後押ししてくれた瞬間だなと感
じました。
その時たまたまお金があったのと,家内も賛成してくれたこともあって,これを手に入れるこ
とができて幸せです。僕には最良の,正に僕が求めていたプリウォー・フラットヘッド の典型
です。
9
これについてもう少し 話すと,これはミシガンの人からジョージ・グルーン (George Gruhn)
に渡ったもので,グルーンはソニーに電話したんだけど ,ソニーはその瞬間に声を聞く前に
ジョージだとわかった,しかもジョージが用件を言い出す前からこれは僕(ビル )のものだ,
と直感した,と言うんです。それでソニーはそのバンジョーを見に行って,ネックを取り付け
て弾いてみて,10 秒で,僕と同じように,買うと言ったんだって。ソニーは最初の音を聞い
た瞬間僕のことを思ったそうです。しかしソニーはそれを僕に直接言うのではなくて,僕にそ
こまでたど り着かせたかった,でないと友情の乱用になる,と思ったんです。
TN: ソニーが ステージでそのバンジョーのことを話したのは,実はビルへのメッセージだったの
かも。
BE: かもね。後でそのフェスでソニーが僕を探していたことを知ったんだけど 。
で,そのバンジョーを買うことを決めたとき,しばらく誰にも内緒にしてくれと頼んだんで
す。フランク・ニート (Frank Neat) が新しいネックを作っていて,ネックはソニーのスペック
で,全部ソニーの好みにして欲しいので,と。
2 月はじめの金曜日の朝,ソニーから電話があって「ネックができた。見に行こうと思うんだ
が,来るかい?今ならフランクに言ってもいいだろう」と。それでその日の予定は全部キャン
セルしてニートの所へ行くと,ニートのピックアップ・トラック,ソニーのでかいピックアッ
プ・トラックともう1台,ポンティアックが停めてあるんです。見たことはあるけど ,誰のだ
か知らなかった。
中に入ると,J.D. クロウがいるんです。フランクが J.D. に電話して,J.D. が長年使っていたの
と同じモデルだから見においでよと言ってたそうです。J.D. は今はグラナダを弾いてるんだけ
ど ,70 年代の録音の多くはこの RB-75 で弾いたものです。
それから,J.D.,ソニー,僕の 3 人の間をバンジョーが行き来して,そうやって僕たちは 2 時
間過ごしました。
後で知ったことだけど ,ソニーと J.D. があんな風に一緒にいることは全くなかったんだそう
です。プロのバンドをやってると,会ってもあいさつするするぐらいで,彼らにとってもああ
やって話せたのはおもしろかったんです。そしてそこに居合わせたことも僕にとっておもしろ
かった。
それで,ネックを取り付けたらしばらくソニーがそのバンジョーを持っていて,ファイン・
チューンをしてから僕に渡すことになっていたんだけど ,最初からあまりにもいい音がするの
で,何もする必要がない,ということになったんです。何のセットアップも不要だと。
その後会うたびにソニーは,
「 失敗だったな。この楽器は売るんじゃなかった。」と言います。
このバンジョーで,僕の演奏も変わりました。いろんな音が聞こえますから。このバンジョー
は,スライド のサステインが他のどのバンジョーよりもいいんです。新しいバンジョーはセッ
トアップによっていろんな音に変わるけれど ,こういう古いバンジョーにはベースがあって,
何もする必要がない。
ソニーがこのバンジョーを手に入れた僕に言ったことは「もう言い訳はできないぞ 」と。こう
いう楽器を持った者には義務というか,責任がある。言い訳なし 。これを持っててうまく弾け
なければ,それは自分が悪い。実際その通りです。
しかし ,このバンジョーは僕の演奏についての考えをかなり変えました。これを弾いている
と,アールの微妙な音がわかるんです。それを再生できるとは言わないけど ,再生してみよう
とはできる。アールの 60 年代までの微妙な音の多くは,勿論アールが弾いてるんだけど ,楽
器が彼を助けた部分がかなりある,と思います。
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11 スザンヌ・ト マスのアルバム
TN: このバンジョーの音は,あなたがプロデュースしたスザンヌ・トマスのアルバム “Dear Friends
and Gentle Hearts” で聞けるんですね。
BE: あのアルバムがこのバンジョーを使った最初の録音です。実は,サミー・シラーが,彼がバン
ジョーを弾いた 3 曲のうちの 2 曲あのバンジョーを使ってるんです。彼のバンジョーは違う音
がしますから,レコード を聴くとすぐどの 2 曲かわかりますよ。
TN: クイズ問題ですね。
BE: すぐ わかりますよ。
スザン ヌのプロジェクトですが,完成させるのに 1 年かかりました。スザン ヌは,才能ある
女性シンガーですが,ド ライ・ブランチでの役割もあって,あまり人に知られていない。ここ
にこんな才能のあるシンガーで,演奏者でソングライターがいることを世界中に知らせたい,
というのがこのレコード だったんです。
もとのアイデ ィアではド ライ・ブランチが大部分のバックをやることになっていたんですが,
これを本当にいいものにするにはそれ以上のものが必要だと気づいたんです。
それで一曲ずつ誰のバックアップがいいかと検討していて,これがこのアルバムのユニークな
ところなんですが,スザンヌをそれぞれの曲でバンド 全体と合わせよう,セルダム・シーン全
体と,サード・タイム・アウト全体と,ということになったんです。そしてそれぞれのバンド
に彼ららしい音を出してもらおうと。そうした上でスザンヌを彼らと合わせて,彼女は誰とで
も歌えるのだということを示したかった。
僕自身全曲でバンジョーを弾くつもりでしたが,プロデュースしながらでは無理なので,4, 5
曲で弾くことになりました。そこでの自分の演奏がベストだとは思いませんが,プロジェクト
は全体として僕とスザンヌの合作だと思っています。僕たち 2 人がビジョンを作ってそれを実
現したんですから。
ですからこの録音での僕の役割は基本的にプロデューサーなんですが,ベン・エルド リッジが
こっちを見て,
「 今のでいいか?」それに答えて「 うーん,もう一回」なんて,ちょっとこわい
ですよ。でもこれをやっていて,色んなバンドを観察できて楽しかったです。これがそれぞれ
の曲にフル・バンドを呼ぶメリットだと思いました。お互いをよく知っていて,何が求められ
ているかピタッと合わせるのが実に速い。ロンサム・リヴァー・バンド,サード・タイム・ア
ウト,セルダム・シーン,みんなアプローチの仕方が人柄によって違っていて,物事を実現さ
せる方法が全部違っている。これは研究者としても観察してして実に楽しかった。
ジョン・ハートフォード もアプローチが全然違うんですが,彼が入っている曲 (“Sweet Sunny
South”) で僕はモーガン・バンジョーを D におとして弾いています。あの曲はリハーサルなし
のセカンド・テイクです。しかもあの曲は一度も一緒に演奏したことがなかった。ワン・テイ
ク録って,すご くよかったので,もう一度やろうとみんなが言って。
スザンヌのすごいのは,彼女のトラックに関しては,どれもファースト・テイクで OK なので,
録音が実に楽だったことです。
12 “Native and Fine”
TN: ちょっと遡って,バンジョー・アルバム “Native and Fine” のことを話して下さい。
BE: 85 年頃からソロ・バンジョー・レコード を作って,自分でプロデュースする計画があったん
です。当時クラウド・ヴァリーでしたが,バンドが解散して,その時にはレコード も作り始め
ていて,“Five By Two” という曲,これはアラン・マンディとのデュエットで妙な曲ですけど ,
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結局アランの “In The Tradition” というアルバムに入りました。その頃 “Native and Fine” に収
められることになるいくつかの曲を書きました。“Scotland Yard”, “Clarinet Polka” などです。
それから大学院に進んでこのことは考えなくなりましたが,ド ライ・ブランチに入って演奏の
傾向が変わり,また博物館の仕事を通じていろいろなミュージシャンを知るようになり,自分
が何をしたいのか,わかってきた,それでこのアルバムを作ることができたんです。
自分がやりたいことは基本的にブルーグラスの枠に入るものなんだけど ,ちょっと古いスタイ
ルに戻ったヴォーカル・ナンバーを入れ,少しだけ前向きの曲を書いて,作曲の面で新しいも
のを入れたり。
TN: “Native and Fine” とか。
BE: それに “Scotland Yard” 。誰も G マイナーから E フラット・マイナーへ行くコード 進行なんて
考えないでしょう。こういう,ちょっとした,微妙な点で新しいという — マイルス・デイヴィ
スの曲をやるんではなくて — こういうのが僕はやりたかった。“Choking The Strings”, “Fling
Ding” ではリノ,スタンリーの音に忠実に弾くんだけど ,同時にそれを自分のものにする。僕
にとってはそれがトラッド な音楽をやることの目標なんです。全ての音が自分に影響を与えた
人々への敬意の表現なんだけど ,それでいてちゃんと自分の声でものを言っている,こういう
ことはジャズなどで多くの人がやっていることです。
こういう風に曲がまとまったところで,レコード にとって最も大切だったのは,マイク・コン
プトンをプロデューサーに迎えたことです。勿論マイクの演奏にはあるスタイルがあるんです
が,それより大事なのはナッシュヴィルでもどこでもみんながマイクを実に尊敬していること
なんです。多くを語らないんだけど ,何か言えば 誰もが耳を傾ける,マイクはそういう人で
す。その場の会話が全部止まって,マイクが何かについて語るのを聞く,そんな感じです。そ
ういう人が僕のレコードには必要だった。色んなミュージシャンを招くのにも彼がキーだった
んです。
このプロジェクトでは,スチュアート・ダンカン,デヴィッド・グリアーのトラッド な面を引
き出そうとしました。それで録音はけっこう速く進みました。
こういう連中と一緒というのは怖いですよね。特に僕は長くスタジオでの録音をしてなかった
から。しかし,こういうすごいミュージシャンと一緒だと,最初に自分が持っているイメージ
よりも結果が良いものになる。この時はまさにそうでした。僕は自分の役割を知ってるから覚
えてることを演奏するけど ,この人たちはそうじゃないから,インプロヴァイズして,結果は
すご く美しいものになる。録音が終わってテープをくれますよね。それを車の中で 50 回ぐら
い聞いたりして。それがミキシングしてマスターができたりすると更に良くなっていった。
TN: CD の写真も印象的ですよね。
BE: グラフィックにも気を使いました。映像でメッセージを伝えたいと。それで,ビル・モンロー
の家を使いました。それから,博物館にいたことと関係するのは,ロジーンの住民の人々と知
り合いになっていたことです。博物館のあるオーエンズボロから 40 マイルぐらいのとこです
から。
CD のブックレットの内側の写真はそのロジーンの人々で,カバーはモンローの家です。これ
は誰にも話していないことなんだけど ,このカバー写真の意図は,僕が家の入り口にいる,と
いうことなんです。家の中にはいない。バック・カバーの写真は裏口,バック・ド アーです。
これは終わってから気が付いたんだけど ,心理学に “liminality” という概念があって,動きや
変化のある瞬間から次の瞬間へうつる,その瞬間を表すような概念です。ある意味でこのレ
コードが象徴しているのは,僕が(この家の入り口で )僕はブルーグラスの世界に入りたいの
で入れて下さい,と言っている。それが僕のすべてのキャリアに関わっている。
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このレコード のタイトル “Native and Fine” は民俗学の本 All That is Native and Fine から取った
ものですが,この本が述べているのは,様々な人々がアパラチアにやって来てこの地の人々の
ためによいことをしようとするんだけど ,結局は彼らの偏見のために,人々のためにならない
ことをしてしまって,文化を破壊してしまう。そういうことをこの本は述べてるんです。山岳
地帯の人々に世界観を押しつけたり考えを変えろと言ってみたり。
ですから,“Native and Fine” というのはすてきなフレーズですけど (
, ムーンシャイナー 3 月号
参照)この本を実際に読んでみれば暗い底流が流れている,それは別のレベルですけど 。
ともかく,僕はこのレコード に誇りを持ってます。僕は 20 年経って聞いてみても,やっぱり
ちゃんとした音楽だ,というのがやりたいんですから。
このレコード 以後,かなり曲を書いています。ラウンダーはもう一枚作って欲しがっています
が,それが “Native and Fine” と同じようなのでもっとオリジナルを入れたものになるか,歴
史的なものになるか,それを混ぜたものにはしたくないんですが,まだわかりません。まあ,
ちょっと落ち着いて曲を書き続けてみて,でもこの次はもっといいレコード になるでし ょう。
急ぐ 必要はない,ということで今のところレコーデ ィングの予定はありません。
13 学位論文,そしてそれから . .
TN: 今のあなたは演奏と研究をつなぐ,という目標に確実に近づいていますね。博士論文のことに
ついて話して下さい。
BE: 論文は,基本的にニール・ローゼンバーグの本 (Neil Rosenberg, Bluegrass: A History, 1985) が
終わっているところから始まります。第 1 章はプログレッシヴ・ブルーグラスがど うなったの
かを論じて,ニュー・グラス・リヴァイヴァルに焦点を当て,このバンド の足跡をたど り,ブ
ルーグラスという「産業」が彼らがしようとしたことにど ういう影響を与えたか,という全体
を貫くテーマに関連づけます。そして IBMA のこと,レコード ・チャートのようなものこと,
レコード 会社の異なった営業方針のこと,賞がミュージシャンの考え方に与えた影響,アリソ
ン・クラウスの成功など . . こういうことについて書くつもりです。
しかし,全体的なテーマは,
「 産業」としての変化がプロのミュージシャンたちが自分たちの仕
事を見る目にどのような影響を与えたか,どのように変化したか,そういうことを書きたいん
です。
インタビューを終えて
話題が多岐にわたり,しかも一つ一つ深く掘り下げていくビルの話しに,インタビューする立場を
忘れて聞き込んでしまった。これだけの内容を約 2 時間 30 分で一気に話してしまったことを,読
者のみなさんは信じられるだろうか。
このインタビューは,その数週間前に我々がエル・サリート(サン・フランシスコ郊外の住宅地)
の彼の家を訪れて話をし,ビル・エヴァンスという人がいかに魅力的な人かを知って,渡辺三郎編
集長に連絡し,ぜひインタビューをということになって実現したものである。
彼を最初に訪れたのは,専攻分野は違うものの同じアカデミアの人間で共感できることが多いこ
とを直感していたのと,僕自身彼の “Native and Fine” が大好きで,レコード から聴き取って練習し
ていたのを聞いて欲しいと思ったせいでもある。その日はそうやって,昼前から夜中までぶっ通し
でさまざ まなことを語り,一緒にバンジョーを弾いて過ごし,本当に互いに共通するものが多いこ
とを話しあった。ほとんど 年令も同じで,同じ年頃にセルダム・シーンのベン・エルド リッジに感
銘を受けたことなど も。彼はシーンのセラー・ド アでのライブ録音の場にいたんだって。
それにもまして共通性を感じたのは,このインタビューにも出てくる,彼自身しばらくブルーグ
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ラス音楽から離れていて,しかし結局自分が一番よく知っているものに戻ってきた,という彼の知
的オデッセイだった。僕自身大学の上級学年で言語学者をめざすようになってから次第にブルーグ
ラスから離れてしまい,アメリカの北東部の大学院でそこの人々がブルーグラスをカントリー音楽
だと思ってあまり尊重していない雰囲気を感じ取って,ジャズやロック音楽へ移ってしまった,そ
して 20 年も経ってから自分の一番よく知っている音楽に戻ってきたという道筋を経験している。
この音楽には,離れたものが新たな気持ちで戻ってくる何かがあるのだ。
もう一つ,感じたこと。僕は『 Bill Monroe: Father of Bluegrass 対訳ハンドブック』の中で,この
ビデオはモンローをブルーグラス音楽の父として描いているが,もう一つ,ソニー・オズボーンの
視点から「父」としてのイメージを描いていることを指摘した。ビルに会う少し前に,我々はコロ
ラド のロッキーグラスでソニーに『対訳ハンドブック』を渡す機会を得ていた。この時ソニーはそ
れこそ満面に笑みをたたえてモンローの思い出を語ってくれた。そのソニー・オズボーンを心の父
と慕うビル・エヴァンスと知り合うことができて,三代にわたる人々がブルーグラス音楽を媒体と
して精神的なつながりを持っていることを知ることができた。
ビル・エヴァンスがミュージシャンとして,研究者として,さらに大きくなって行くことを楽し
みに見ていたいと思う。
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