Title Author(s) Journal URL 女子医大に於ける我が半生 : 神経生理学は臨床医学 にどのように貢献できるか 菊地, 鐐二 東京女子医科大学雑誌, 58(4/5):426-442, 1988 http://hdl.handle.net/10470/6548 Twinkle:Tokyo Women's Medical University - Information & Knowledge Database. http://ir.twmu.ac.jp/dspace/ 56 〔東女医大誌 第58巻 第4・5号頁 426∼442 昭和63年5月〕 最終講議 女子医大に於ける我が半生 一神経生理学は臨床医学にどのように貢献できるか一 東京女子医科大学 キク 第二生理学教室 リヨウ チ ジ 錬 二 菊 地 (受付 昭和63年2月22日) 貧しい記憶を頼りに 今日で最後の講義ということになります.最初 記憶の話が出て来る時,よく,マルセル・ブルー にお断おり致しておきたいことがあります.これ が引用されています1).この小説を読むには,忍耐 からお話し申し上げますことは,大部分non− academicなことで,最終講義には相応しくない 出てきます.「陰欝な今日の一日,うら悲しい明日 ことです.しかし,本学に奉職致しまして,生理 の日を見透し,そんな屈託に耐えかねて,私は, 学を専攻致しましたものですから,やはり,「如何 そのマドレーヌの一片をお茶に浸けほとびさせた に,基礎医学,特に神経生理学が臨床医学に貢献 お茶を一匙,機械的に,唇にもっていった.菓子 できるか」に就いても,教室の研究に関連した, の細かいかけらの混じった一口のお茶が,口うら 二,三の小さな問題を取り上げて考察してみたい に触れた瞬間,」追憶の糸口が現われるのです.「過 と思います.そうすれば,「生理学は金喰い虫だ」 去の喚起は,強いてこれを求めようとするのも徒 との重りの言い訳になり,しかも,皆様が生理学 労であり,理性のあらゆる努力も無益である.過 とはどんな学問かを理解するのに少しは役立つと 去は理性の領域の外,その力の届かぬところで, 思います. 何か思いもかけぬ物質的な対象の中に(その物質 ストの「失われた時を求めて」のあるパラグラフ と努力が必要ですが,幸いに第一巻の始めの方に 的な対象を与えてくれる感覚の中に)隠されてい 本学に昭和28年12月(1953)に奉職してから34 年になりますが,これからの話は,前向きの話, る.」のであります. 例えば「神経生理学の将来」,あるいは,「バイオ 端的に申せば,記憶を呼び戻すには,意志とか テクノロジーの人類の未来に対するインパクト」 理性一これらの哲学に由来する言葉の生理学的定 に就いてでもすることができれぽ,大いに皆様の 義付けはありませんが一感覚系の入力(行動を起 興味を誘うでしょうし,科学にとって大切な役割 こすことにより我々の感覚器に刺激が加わるこ である「予測」に就いて考える上で参考になると と)が効果的であることを指摘しております.こ 思われます.私には,そうしたアドヴェソチュアー のように偉大な小説家や劇作家,特にシェクスピ はできません.止むなく,私の貧しい「記憶」に アは,彼の芝居の中で生理学を勉強するものに, 頼って,34年間私に生理学を教えて下さったり, しぼしぼ考えるヒントを与えてくれます.16,7 一緒に生理学を勉強したり,御援助下さった女子 世紀に生きた彼が,そうしたことを役者にしゃべ 医大の方々の,一部ですが,ほぼ年代順に御紹介 らせたのは,よくよく考えて書き上げた結果に相 させて頂き,私の義務を果たしたいと思います. 違ありません.彼は天才ですから,ひょっとする さて,先ほどの「記憶」に就いてでありますが, と,簡単に思い浮かんだかもしれません. Ryoji KIKU CHI〔Department of Physiology II, Tokyo Women’s Medical College〕:Asketch of my life at Tokyo Women’s Medical College−Can neurophysiologists contribute to ciinical science P 一426一 57 私が,長い間かかって知った僅かなことの一つ 業,建設業),第三次産業(卸・小売,金融,運輸, は,当然のことですが,感覚器は,我々にとって その他のサービス業)の就業率,生産率は,表1 外界を眺める窓であり,物理や化学の原理に基づ に見られるように,第一次産業から第三次に向っ いて作られた正確な測定器とは異なる,生物の測 て共に増加する方向に変化しております. 定器であり,いつも一定の状態で働くとは限らな 第二次産業のウエートはある点まで達すると, いことです.条件により,窓は曇ることもあり, その後かえって減少する(ペティの法則)そうで “観察者である”大脳皮質も一定条件で働くとは限 あります.最近特に円高から,日本での製造コス らないことです.感覚は,過去の経験に裏付けら トが高くつくので,生産拠点を海外に移しつつあ れた記憶に依って修飾され得ることです.従って, るので,産業の空洞化が叫ばれており,一方金融 確かめることはできませんが,各個人の眺めてい 業の好況が見られている状況でありますから,第 る世界は違ったものであり得ることを意味してい 二次,第三次産業の増加比が逆転しているかもし ます.卑近な例は,同じ料理を食べても,それか れません. ら得られる味覚は必ずしも同じでないだろうとの 註:通産省産業構造課の意見では名目値,実質値で 生産率の値が変わってくるとのことです. ことです. この写真は,私が着任して2年目,京都の学会 その他,栄養水準が約20%も上昇,平均寿命も の折,平安神宮で撮った,私の生涯の先生である 伸び(男子:75。23;女子:80.93,1985年のデー 冨田先生です.次の写真は,相も変わらず30年以 タ:第一衛生からの情報),先進国中でも第一位と 上も実験でお謡い合い願った,「生ける化石」と呼 なり,住宅,公共施設投資額も増大し,大学進学 ばれているカブトガニです.これは,他の建物は 率も4倍近くになったといわれるので,受験生に すべて変おってしまったにもかかわらず,着任以 同情致します.私の家にはまだテレビがございま 来,引続き光を灯している一号館の当時の写真で せんが,普及率99.1%といわれますし,私の月給 す.これら3枚の写真を眺めると女子医大にまつ も,所得増加率から計算致しますと,20倍に増え おる私の記憶が蘇ってきます(写真は省きます). たことになります.経済成長に就いては,GNPは さて,この34年を振り返るにあたって,その間 1932年と1985年を比べると数倍になりましたが, の我国の社会がどのように変わったかを考えてみ 実質成長率は60年をピークとして次第に減少,特 るのは,女子医大の発展のバックグラウンドを理 に石油ショックを境にして,ほぼ一定に留まって 解する上でも興味あることです. います2}3).私は,この日本が急速に経済成長を遂 第一に,我国の産業構造が変化したことです、 大量生産型システムへの移行と発展,言い替えれ げたのと平行して発展した,女子医大の様子を目 の当たり見ながら,主として本学の中でソシア ば労働集約型から資本・技術集約型産業構造,つ ル・ライフを楽しみ,仕事もまあまあ順調に進ん まり第一次(農林・水産業),第二次(鉱業,製造 だ訳であります.従って,私の周囲の人の御努力, 御援助もあり,狭い分野ですが,女子医大と学界 に,多少なりとも貢献できたと考えることができ 表1 我国の産業構造の25,29年間の変化 れぽ,慰められる訳です. A.就業率(構造) 第一次 第二次 上に述べましたように,我国の産業の変遷に触 第三次 1955 (昭和30年) 41.1 23.4 35.5 れるのは,見当違いのようですが,医科大学の持 1980 (昭和55年目 10.4 34.8 54.6 つ教育,診療,研究という3つの活動は,産業構 上ヒ: 55/30 0.25 1.49 1.54 B.生産率(構造):名目値による 1955 (昭和30年) 23.1 28.6 48.3 1984 (昭和59年) 3.1 36.3 60.6 比: 59/30 0.13 1.26 1.25 造論からは,今後更に増大する第3次産業に組入 れられるもので(通産省産業構造課に確認済),ソ フト,サーヴィスの提供を中心とする社会的活動 で,今後益々,充実,効率,採算が要求される分 一427一 58 野と考えられる訳です.この考えの妥当性と必要 原 正(産婦人科:院長) 性を,比較的最近(1985,1987),短期間ですが, 鳥浜 遥遥(耳鼻科) 米国の大学で見聞した経験を通して,強く感じた 待山 昭二(図研外科) からであります. 橋本 豊島(眼科) 登坂 恒夫(東京医大教授) 在職期間を,三つ,古代,中世,近代に分け, 鷲津(田沢)美弥(小児科) 先ず古代に就いての話から始めることに致しま Non・academic staff す. 古代(1953∼1961)学内交流の時代 米満 教室の歴史と致しましては,これ以前,いわぽ 満(都立大学教授) 斉藤 明子(心研内科:院長) (括弧内は旧姓,専攻科目,現在のポジション 私にとっては有史以前が在る訳です.冨田先生と 盤石先生の御二人の時代であります.この時代に をしめします) 就いて詳しいことは存じません.未だ女子医大に 研究 この当時の研究としては,冨田先生(菊地も) 奉職することなど全然考えてもいなかった時(女 子医専時代)のことですが,たまたま何かの用事 が,無脊髄動物カブトガニの側眼の単一光受容器 で冨田先生を訪ねたことがあります.戦後間もな の細胞内誘導した受容器電位とスパイク電位との くのことで,先生は,空襲で焼け出されてバラッ 関係,当時の日本の細胞内の電気的活動の研究を ク小屋に住んでおられた頃です.一号館のエレ 収録した代表的単行本5)に発表しました.一方,脊 ベータ前の廊下を左に進んだ,只今の小児科の医 椎動物カエルを用いて,前に述べました研究結果 局の少し先の部屋に,焼け残った小さな机の上に に対する外国からの反論に答え,単純明快で巧妙 古い毛布を掛け,その下に段を設けコイル状の電 な実験を行い,その結果を第21回国際生理学会(ブ 気ヒーターを置いて暖をとりながら(昭和28年女 エノスアイレス)の特別講演で発表されました. 子医大に移ってからも,この方式の炬燵は生理の 講演が終おって壇上から降りると,ケンブリッジ 教室の助手室兼食堂で使われておりました),冨田 大学のポジキン教授(ノーベル賞授賞者)が歩み 先生は盛んに細いガラスの毛細管を作っておられ 寄り握手を求め,賞賛したと伝えられます.次い ました.これが,後から分かったことですが(当 で,フナを用いて当時スエーデンの力ロリンスカ 時,外国の雑誌に掲載された日本人の論文など見 大学医学部のスヴェチチン教授が同国生理学会誌 あたらなかった時代ですが),網膜内に微小電極を に発表して,センセーションを巻き起こした淡水 段階的に進めながら電気的光応答(EIRG)を記録 魚の光受容器電位に疑問を抱き,この電位が視細 して,ERG成分の発生層を推定した,かの発想の 胞電位でなく,隔壁を持った視細胞より大きな:単 転換を計って得られた歴史的研究4)の準備中で 位(compartment)から誘導したものであること あった訳です.その折の光景は,船石先生から御 を,これまた,明快な実験で証明されました.こ 馳走になった,おすまし様のスープの味の記憶と の単位は,その後,教室の非常勤講師として来ら 結びついて,鮮明に私の記憶の中に残っておりま れていた金子章道教授(国立生理学研究所)が, す. 話を本題に戻しましょう.これが当時の教室の メンバーです. ハーバード大学のクフラー主任教授の教室に留学 中,プロシオンという染料で細胞内染色をして学 会に発表されました.染色された細胞のスライド 冨田先生 が投影されたとき,会場から歓声が沸き起ったと 菊地 錬二 英国の科学雑誌ネイチュアーに伝えられていま 米満(飯田)浩子(眼科) す,スヴェチチン教授が視細胞の活動とした電位 水野(神田)光子(内科) は,網膜の二次ニューロンである水平細胞の,幾 田中 一郎(国立リハビリセンター) つかの視細胞とのシナップスを介しての間接的光 一428一 59 応答である,いわゆるS一電位であったことが明瞭 した. に示された訳です,後年,先生がお話されるには, 当時は研究費も潤沢でなく,ガスストーブも二 カエルのEIRGを研究されてから,引き続ぎ他の 動物の網膜を使っぞEIRGの研究を行った際に, つしがなかった状態ですが,不平らしいこともい わずに,色々工夫して研究が進められました.ブ 魚の網膜から,時々,光に応答する陰性の大きな ラウン管はアメリカから外貨割当で購入しました 振れを電磁オッシロで記録されたそうです.他の が,その他はすべて分担して記録装置を作り上げ 電位に比べはるかに大きく,スケール・アウトす ました.夏の暑いときには,専らこうした装置の ること,他に研究すべきことが沢山あり,この大 作製に当てられました.こうした経験は,その後 きな電位に注目して研究する機会がなかったとの の研究に当たって,装置を工夫する上で多いに役 ことでした.先生は数ミクロン以下の研磨した細 立ちました.冨田先生の独創的研究は,問題解決 いガラス毛細管に封入した銀線電極を使っておら のための装置を工夫する独創性と技術力と集中力 れたので,時たま,恐らく水平細胞から細胞内電 によって,裏付けられていました。細胞内外同時 位を誘導したことになったのでしょう. 誘導を可能にしたペンシル型電極(coaxial elec− 註:冨田先生ぱ,これを機にスヴェチチン教授と親 trodes)の作製に必要な装置,二電極間の干渉を如 しくなり,スエーデンからベネズエラのカラカス 何に除去するかの解決,電極ホールダーの考案, へ移った彼の研究所に,客員教授として招待され 単一視細胞刺入装置などの考案に現われていま ました.やがて慶応医学部に移られて,コイの網 す. 膜の視細胞の細胞内誘導に成功され,脊椎動物の 先生の当時の技術力のレベルを示す事実があり 視細胞の光受容器電位は,無脊椎動物の場合と極 ます.当時二連銃式ブラウン管は未だ日本では製 性が全く逆で,過分極方向の電位変化で,しかも 造されていませんでした.先生はディユモンのブ 3つの異なったスペクトル応答を示すグループ ラウン管を使い,スイッチング回路を組み立てて, があることを示し,誘導した錐体細胞の染色にも 矩形波上下問のブランキングを行い,二現象同時 成功しました.光刺激が電気信号に変換される視 記録用の綺麗な二本のビームを作られました.た 細胞レベルでは,ヘルムホルツの三原色説が成り またま,井の頭線沿線にある,オッシロの専門メー 立つという重大な結果を発表されました6)η. カー岩崎通信の工場に行く機会がありました.そ 私は,先生からカブトガニの目から電位を誘導 こで技術者が,テクトロニクスの装置を傍らにお する方法を教えて頂き,刺激の各パラメータを変 いて,盛んに二現象記録用ブラウン管オッシログ 化させて光受容器電位の性質を調べたり(菊地・ ラフを試作中でした.「未だどうしてもうまく行か 田沢7)),田中先生と,受容器電位の発生にどのよ ない」といわれ,未完成品をデモしてくれました. うなイオンが与っているかを研究しました.その あらためて,当時の冨田先生の技術力のレベルが, 結果,普通のスパイク電位と同様,Na, Kイオン 当時の専門家に比べ高いのを知りました. が関与していることも明らかになりました.その またこの頃,初めて電子管刺激装置が市場に現 後,他の研究者によって,他の受容器電位の発生 われました.一号機が教室に運ばれたとき,冨田 にも大部分Na, Kイオンが与っていることが報 先生は直ちに出力絶縁型になっていないことを指 告されました8>. 摘され,米軍電池のケースを利用してすぐ出力を 註:その後Caスパイクがフジツボの筋繊維で発見 絶縁して取り出す装置を作られ,カブトガニの神 され,カエルの伸展受容器電位の発生にはCaイ 経の刺激実験に用いました.考えてみれば,学生 オソが主として関与しているとの報告,その他の 時代加藤元一先生が講義の時に,「冨田君が作った 細胞でも,Caイオンが伝達物質の放出ぽかりで 電子管刺激装置です」といって我々学生に見せて なく,スパイク電位の発生の他,細胞活動に大き くださったのは,その時より10年以上前だった訳 な役割を果たしていることが,次々と指摘されま ですから,この点を指摘されたのは当然かもしれ 一429一 60 ません.当時はまだ,学生実習の刺激実験は,感 輪読しました.いわぽ学生アルバイトの走りでし 応コイルと水銀スイッチを用いて行っていました たが,羨ましいことに,学生の身分で,既に庭付 ので,データが荒れ易くて困っていた時代です. き一戸建ての家を都内に所有しており,一夜泊め て貰いました.エレクトロニックスの知識や,技 ときたま,きれいな実験データが得られると, 先生は,西口の焼鳥屋に教室員を連れていって下 術を身につけるためには,こうした研究室の手伝 さいました.ヤキトリが一本10円の時代でした. いは,通常の大学の授業より,具体性に富み,目 月給遅配もあった女子医大苦難の時代でしたの 的が明確で有益であったと思われます.その後, で,今から考えると,先生には大変な御負担であっ 同様に何人かの学生が教室の実験や工作の手伝い たと思います.2級酒とヤキトリだけでしたが, をして,卒後,然るべき所に就職して,重要なポ あれほど感激をもって頂いた料理は,その後余り ストを占めて活躍しております.教室はこうした 記憶にありません. 良い人々に恵まれておりました. 田中先生は,学位を取られた後,米国シアトル 註:米満教授は吉岡正明先生の御紹介で教室にこ のワシントン大学に留学され(生理学教室:ウッ られ,菊地徹君同様将官の御子息であることを後 ドパリー教授),優れた研究者でしたが,不幸にし 知りました.吉岡正明先生は多くの若い青年を御 て留学中に若年性網膜剥離に罹かられ,帰国後か 世話されました. なり恢復され,助教授として何人かの教室員を指 斉藤明子先生は,北海道から上京して教室に就 導されました.しかしその後,視力が次第に失わ 職当時,教室のスペースが少なかったため,学 れ,恢復が遅く,本拠を現在の国立視力障害セン 生実習室の片隅で教室事務を手伝っておられまし ターの前身に,次いで同センター(所沢)に移ら た.学生が熱心に実習する様子などを見て刺激さ れ,研究部長をされています.異国で身体が不自 れたのでしょうか,女子医大を志願して,見事合 由になられ,さぞショックであったろうと思いま 格,卒後,予研内科広沢先生の指導を受けて学位 す.見事それを克服され,リハビリの分野で一歩 を取られ,故郷旭川に立派な循環器内科専門病院 進んでいる米国の貴重な経験を活かされて,視力 を開設され,多くの患者さんに慕われておりまし 障害者の社会復帰の訓練,補助機器の開発等の基 た.考えるところあったのでしょう,最近引退を 礎的研究に活躍されておられます.視力が低下さ 考え,第二の人生を準備されておられると伺いま れてからも,色々な施設などを利用されて,新し した. い分野の勉強をされておられます.このような, 学生や他の教職員との交流 ‘保己一的’活躍は,身体障害者の人々をエンカレジ 当時は学生数(40,次いで60名)と教職員数も するにば,まことに相応わしい実例であります. 少なく,戦災にあった私学で再建のためにも,経 後年,米国の大学では,必ず身体障害を持つ学生 営も大変であったでしょう.榊原先生を中心とす の施設が用意されているのが常識となっているの る羽撃に,他の多くの大学の卒業生が集まって活 況を呈していました.大凡同年代で,同時期に本 を知り,驚いた次第です. 学に着任した山田喜久馬(本学名誉教授),細谷憲 ここでnon−academic staffに就いて触れてお きたいと思います. 政(前東京大学医学部教授),広沢教授(心逸内科), 米満教授ですが,当時都立大学の学生でして, 織畑名誉教授,松永,影山先生(当時整形助教授) 冨田先生が留学先のジョンス・ホプキンス大学か は全学の運動会,忘年会,学内スポーツ対抗試合, ら持って帰られた細胞内誘導用の前置増幅器配線 スキー旅行,学生との対抗試合で一緒に出場しま 図を基に,増幅器を組み立てたり,実験装置の調 したが,概ね学生に敗退しました.一方臨床の医 子を調べたりする技術的サポートをしてくれまし 局に出入することも多く,特に中山教授をはじめ, た.彼は電気回路のパラメータの計算が得意でし 中山内科の当時の皆様には,色々お世話になりま た.Electron Tubeという単行本を一緒に教室で した。一方我々は被験者にもなり,臨床研究に多 一430一 61 人は分かりにくい言葉を使って話している」とい 少協力致しました. 山岳部のことに就いて触れておきましょう.山 う一般的理解があります.確かに,そうした一面 岳部は始め,村瀬,小原君などに依って創設され, があります.生体の形や構造は,直ちに視覚に訴 黄,原田,紅露,今井(高橋)通子などの諸君が えて,この通りと,例えば,道路図を見せられた 続きまして,顧問を依頼されました.歯科の正木, 時のように分かるでしょう.しかし,実際にその 高井先生も参加されました.夏は山へ約1週間の 道路を使って,どのように物資が運搬され,地域 キャンプ,冬は4∼5日のスキー合宿,春,秋に は,日帰り,1泊程度のハイキングを企画しまし の人々の生活が営まれているかは別の方法で調 べ,別の言葉で表現しなくてはなりません.道路 た,私は何回か参加しました.また,朝日新聞の を通って移動するものの量,その動きの方向が, 文芸部に掛け合って,インド旅行の資金援助をお 時間的にどうなるかなどの法則性が求められて 願いしましたところ,快く引き受けてくれました. も,ピンとこないと思います.ましてや生理学が 学生の海外旅行の走りでした.そのうち,独逸(今 臨床へ,どのように貢献できるかは,具体的には 井)通子君が入部してからヨーロッパ・アルプス なかなか理解できないと思います.生理学の臨床 の登山を勧めました.それがきっかけで山に本格 への貢献の仕方には二つの道があります.一つは 的にのめり込んだのかもしれません.山岳部顧問 生理学が研究のために用いた技術,二つ目は,得 をやがて川上先生(当時の婦人科教授)に譲りま られた法則を適用して病気の状態(症状や検査結 したが,そのうち衰微し,ワンダー・フォーゲル 果)を理解して,診断や,治療の目安にすること 部が盛んとなり,その後一度復活しましたが,今 です.女子医大の生理におられた,この頃の冨田 はどうでしょう. 先生の例を話しましょう. 榊原先生は燕(新潟県)の中村屋という旅館の 御存知の通り,女子医大の発展の端緒となった 中に診療室を開設し,スキー・シーズンになると, のは,榊原先生の始められた心臓外科一これがや 医局員が交替で診療に当たり,この中村屋には女 がて心研の開設につながるわけですが でありま 子医大として心研外科,内科医局の先生が主でし す.心研は当時B本の心臓疾患の外科治療の中心 たが,基礎教室員,学生も参加し,一つの学内交 地でありまして,日本全国から患者さんが集まっ 流の良い場となりました.こんな訳で,私達は臨 てきました.診断や,手術の適応の決め手となる 床の先生方と親しくなりました.榊原先生はザッ 心臓カテーテルを使って,心内圧を計ることが必 クバランな先生で,医局の会にもよく誘ってくだ 要です.ところが当時カテーテルは輸入できまし さいまして,石原(北里大),新井(慈恵医大), たが,測定装置は我国では発売されておらず,米 故坪井本学教授,服部先生(関東逓信)等の先生 国製は高価で,輸入も非常に困難でした.榊原先 との思い出は多いものです.なんと申しましても, 生は冨田先生に援助を求められました.冨田先生 愉快であったのは,大沢先生の大僧正の読経に始 はジャンクを集めてこの測定器具をつくり,教室 まる動物慰霊祭でした.現今のように進歩した社 員と共に患者さんの測定を手伝い,圧変化を電磁 会では,こうした集まりは,再び実現しないでしょ オッシログラフに記録し,教室に持ち帰って現像 う. して,外科に渡しました.私が着任した時は,外 往年一高で活躍された女子医大の柴田,草川教 科の先生方も装置の操作に慣れまして,特別のト 授を中心とするサッカーチームと慶応中等部との ラブル以外は手伝うこともありませんでした.あ 試合も日吉で行われましたが,歳には勝てず惨敗 らゆる測定には誤差が付きまとうわけです.冨田 致し,その上,草捌教授がアキレス腱を切るとい 先生はカテーテルのような細い,加圧によって多 う大損害を出しました. 少伸び縮みする管を通して液体を導く場合,先端, 臨床への協力 つまり心臓の内部での圧変化が正確に記録できな ここで申し添えたいことですが,よく「生理の いことを電気学のケーブル解析の理論を当てはめ 一431一 62 て示しました(我国最初の論文).この例は生理学 興味はハーヴァード大学のエリセーフ教授から触 で単一神経繊維や筋繊維の均一な部分における電 発さ.れたのです.浴場も第三次産業に入り,今後 位変化の,時間的,あるいは空間的広がりを理解 形を変えて,医学と関連する健康文化施設として していれぽ類推できることですが,初めてこうし 発達するかも知れませんから,少々脱線すること た理論的解析を先生が試みられた訳です. をお許し下さい.着任より少し前でしょうか,ラ イトの設計した古い帝国ホテルのロビーで,英国 私も教室研究費を幾分でも助けようと,エーザ イから依頼されましたフランス製のテラブチック 人からエリセーフ教授夫妻を紹介されました.丁 の,日本での発売のためのデータ作りを致しまし 度ライシャワー教授の自叙伝に掲載されているエ リセーフ教授夫妻の写真9)を撮られた年代でしょ た. その他,大きなプロジェクトとしては「誘導電 う.とても親しみ易く,ユーモアがあり,洒脱で 圧に関する共同研究」があります.高圧で佐久間 魅力的なパーソナリティを持っておられることが ダムから送電すると,経費節約になる東京電力側 すぐ分かりました.ライシャワー教授の先生でも と,高圧電線にパラレルに張られた電話線に誘導 ありますので,その著書の色々な所にでてきます 電圧が生じ,電話工事に際し危険が発生すること が,教授のパーソナリティが適切に描写されてい を恐れる逓信省(現在のNTT)との意見の相違に ます10).流暢な日本語で色々と話されました.外国 関し,通電による痙変と,心停止に関する実験を, 人(ヨーロッパ人)として初めて正式に帝国大学 研究室内と,深夜のフィールド・スタディを東大 に入学を許されたこと,何人かの女中さんを雇っ 生理(若林・島津・平尾教授他)と共同実験した て,小さな大名のような生活をしてみたこと,外 ことです.さすが一大企業と政府の一省とに関係 出と,帰宅時に女中さんが出迎え,通学にはイン した実験だけあって,大仕掛のものでした.この ディアン(真紅のモーターバイク)を使われたそ 実験は,本来の研究の合間に行ったものですが, うです.当時本郷に通う学生でモーターバイクを 張り切って致しました.基礎研究の実社会への貢 使ったのは彼一人で,卒業時,クラスメイトと教 献の1例でしょう. 授を待合に呼ばれてもてなしたそうです.帝大の 一般生活 学生時代銭湯に行ってみたのでしょう.おじいさ 着任当時は,あまり衣服に関心がありませんで んが頭に手拭を巻いて鼻歌を歌ったり,楽しそう したが,恐らくひどいものを着ていたと思います. に湯船で話したりして,江戸時代からの重要な一 外食:券食堂を使う時代でした.徳川邸(現在のフ 種の社交の場になっているといわれ,その庶民的 ジテレビの場所)で大学の招待による日本食の 雰囲気を称えました.ペンシルバニア大学東洋学, コースを頂く何かの会があり,その御馳走にびっ サウンタ・一教授も日本での体験から同様に銭湯の くり致しました.購入の御誘いもあったと漏れ承 社会的効用を述べているそうです(そういえぽ, りました.その時の価格が安かったので,傍観者 北斉の浮世絵にも銭湯の図がありました).それま の私でも今もって残念だったと思います.大学 で一度も銭湯に行ったことがないので,銭湯に行 が苦労しないで済んだのにと.戦災を受けて財政 くのを躊躇していました.しかし,見方を変えて 的に苦労しているにも拘らず,大学は,地方出身 行ってみることにしました.女子医大を中心に, の学生や職員のために,バラック建でしたが宿舎 都電に沿って新宿から神楽坂,また塩町あたりま を用意され,私はそこに寄宿致しました.雪が降 で遠征しました.更に学会の折,例えば,下賀茂 ると隙間から部屋に雪が舞い込んでくるといった に一時住んでおられた劇作家田中千禾夫氏宅を訪 風流な建物でして,宿舎には暖房など勿論ない時 問した折,御次男(常時小学生)と近くの銭湯に 代でした.やがてコンクリート建の職員宿舎と学 行ったりしました.何処も大体同じ構造と家族が 生寮になりました.一日の生活の中での楽しみの 中心となる運営をやっているようでした.エリ 一つは,入浴(銭湯)でした.私の銭湯に対する セーフ教授とはそれ以来お目に掛かる機会はあり 一432一 63 ませんでしたが,数年後,パリのギメ美術館にお 中世(1962∼1976)国際交流の開花 られる,教授を小型化したような御子息に,東京 冨田先生が慶応大学に移られ,私が後任に指名 でお目にかかりましたが,風呂談議には及びませ されました.冨田先生の留学先,ジョンス・ホプ んでした.ヨーロッパの浴場については,東京大 キンス大学生物物理のハートライン教授の研究室 学のギリシャ・ローマ美術考古学専攻の,青柳正 関係,および先生がその後の研究の国際学会での 規助教授の「古代ローマの浴場文化」の短いエッ 発表で外国から注目を浴び,先生の研究室や,我々 セイを面白く読みました.「浴場を維持するための の研究室と外国との交流が促進されました. 技術,法律,哲学など様々な制度が完壁にできて 先ず,助教授として赴任された渡辺教授が先生 いた」そうであります(1988年1月25日夕刊:研 の推薦で,UCSFのメヂカル。センターのKT.ブ 究室)。エリセーフ教授の礼賛した東京の銭湯文化 ラウン教授の研究室に留学されました.そこでサ はどう見てもローマ帝国のそれに比肩すべくもあ ルを使って目の中心動脈を圧迫するという巧妙な りません.公衆浴場(Thermae,カラカラ浴場は :方法を使って,in vivoで網膜の視細胞の活動を分 代表例で夏は野外オペラ劇場として使われます) 離して英国のNatureに発表され,注目を浴びま は,入浴,リラックス,社交を目的とした,ロー した. マ人が考えて作り上げた,高度に洗練された施設 田中先生は,心筋の電気的活動に興味をもたれ, だとのことです.庭園の中にあり,3つの浴室, 山中先生とガマの心臓を用いた研究に移られ,当 冷浴室(fridarium),微温浴室(calidarium),熱 時生理学の色々な分野で活発な研究をしていたシ 浴室(tepidarium,恐らくsudariumでスチームを アトルのワシントン大学のウドゥバリー教授のも 使う湿式サウナに似ていたようです),体育施設, とに留学されました.当時有名なルー教授とバト 見られないで迅速な奴隷によるサーヴィスのため ン教授編集のMedical Physiology and Bio− に,地下道を持ち,左右に図書館を備えた文化施 physicsの出版準備を教室を挙げて行っていたと 設であり,入浴技術も一定の方式があったとは驚 のことです.先に述べましたように,半ばにして くほどです11).現代社会では恐らく,ヘルシンキ市 目の疾患で直接研究が不自由になりました.しか 立サウナが幾分これに近いと思いますが(洗い流 し,病床に就くまでの間,基礎医学教育について, し用心は病理解剖台そっくりでした),図書館があ あるいは血行動態の専門家,ラシュマー教授の開 るかどうか知りません。クレータ島のクノソス, 設した心疾患病態生理を教育するコースの教育方 グラナダのアルハンブラ宮殿の浴室も有名です 法,臨床実習の実情を調べられ,ご自身の入院体 が,私は不注意なことに,詳細に観察しませんで 験を通してリハビリ,身体障害者に対する社会の したが,ローマ帝国の公衆浴場にはとても及ばな あり方など貴重な教育に関する情報を持って帰国 いでしょう. されまレた.この帰国後の報告は,少なからず我々 古代史は長くなりました.いずれの国の古代史 にインパクトを与えました.御本人は恐らく当事 も,不明瞭な部分が多いのですが,ロマンに満ち 者として,当時もっと強烈な印象を受けたに相違 ており,しぼしば他の時代より興味をそそるよう ありません.教室はいち早く講義の日程表を作り です.個人の過去に就いても同様なことがいえる 学生に配布致しました.Reading assignment(講i かもしれません.私の女子医大の中でも,古き時 義の時までに目を通しておくべき読物のリスト) 代は,客観的には苦しい筈の時代でしたが,セン も付けましたが,こうした予習の習慣は我国にな チメントに彩られ,記憶に強く定着しております. く,実行されないのでやがて日程表から省きまし この時代の色々な話は,女子医大な戦後復興した た,今日,遅蒔きながらアメリカの大学の教育に 足取りや,時代の流れの一部を示すもので,将来 関して調べましたところ,約20年前の教育方法が 大学や,教育のあり方などに幾分御参考になれぽ 主体であることが分かりました.つまり大学教育 と願っております. の基本的方針は自主学習を推進すること,多くの 一433一 64 大学ではチュゥター制度や,少人数のセミナーを の研究者が続々と米国に渡り,恵まれた環境で輝 採用していることでした. かしい業績を上げました. 特別講義 登坂教授はPh, D.を取られてから東京医大に 外国の生理学者の訪問を機会に,学生に特別講 移られて,渡辺教授の推薦でUCSFのリベット教 授の研究室に留学され,カエルの交感神経節シ 義をお願いしました.内容は必ずしも理解できな ナップス伝達の研究に入られ,引続き立派な業績 くても,直接アクティヴな研究者や,著者に接す を上げられています. ることは,教育上大切で,欧米では早くから重要 教室員はようやく海外の研究室で,主として視 視されているとのことです.ケンブリッジ大学の 覚関係の研究に従事するようになりました.本学 ポジキソ教授(ノーベル賞授賞者),ブレイクモア 卒業生の教室員のなかにも,生理学関係の研究者 教授(オックスフォード大学),ヴァン・デル・ッ と結婚されて外国に滞在され,国際交流に尽力さ ウィール教授(アムステルダム大学),シルマン教 れました.私は教授に就任してから,「外国留学経 授(UC・デーヴィス校),ビィゾフ教授(モスコー・ 験がない教授に対する視察旅行費」の援助(60万 アカデミー),コールス教授(ジュネーヴ大学), 円)を支給され1964年6月パリで行われた国際生 ウオーターマン教授(エール大学),また日本国内 物物理学会に出席する機会が与えられました.! では,竹内教授(順天堂大学),伊藤教授(東京大 ドル400円の時代でして,ナホトカ・ハバロフス 学),勝木教授(前国立生理学研究所長),冨田先 ク・モスコー経由の安い経路を選びました.主と 生(慶応大学,エール大学名誉教授,マリアンナ して夏期休暇を利用してヨーロッパ各地を訪れ見 医科大学客員教授,西独・オーストリア・米国学 識を広めることができたのは,本当に幸いで,今 士院会員),南雲,高橋教授(東大工学部)等であ もって大学に感謝致しております.戦後20年経過 ります. し,その年オリンピックが我国で行われたにも拘 また冨田先生のお陰で視覚関係の他の多くの教 らず,東欧圏の国々とは未だ国交も少なく,ヴィ 授,研究者と国内で会えたのも愉しい思い出です. ザを日本で取ることができませんでした.ハンガ 例えば,クロイツフェルト教授(マックス・プラ リー,ユーゴスラヴィアはウィーンで,帰国の時 ンク研究所),スチル教授(カルガリー大学),グ 通過するポーランドとソヴィエトは,ロンドンの ラニット教授(カロリンスカ医科大学・ノーベル 各大使館でヴィザを取らなけれぽならず,しかも, 賞授賞者),ブラウン教授(UCSF:渡辺教授の共 後の2国は発給に10日もかかり,帰国の日程も最 同研究者),故クフラー教授(ハーヴァード大学), 後まで定まりませんでした.連絡のための国際電 リペッツ教授(オハイオ大学:橋本教授の共同研 話,電報もソヴィエトからは不可能で出迎えの皆 究者),二人のバーロウ教授(ケンブリッジ大学と, 様には失礼を致しました.その後急速に西側諸国 シラキュウス大学),故ハートライン教授(冨田先 と交流が促進され,国によってはヴィザの必要も 生の御師:ロックフェラー大学) なくなりました.平和が如何に大切かを改めて考 この時代の教室のメンバーは えさせられます. 菊地 鐘二 1965年に大変な努力で国際生理学会を東京で開 渡辺 宏助(本学名誉教授)カリフォルニア大 催,成功裡に終わりました.我々は勿論,本学の 学生も,案内役として参加し,直接高名な生理学 者に接する機会が与えられたのは幸いでした.各 国の生理学者と日本の生理学老との個人的交流が できたのは,その後我々の国際交流にどれほど貢 学・サンフランシスコ校 田中 一郎(非常勤講師)ワシントン大学(シ アトル) 橋本 葉子(本学教授)オハイオ大学・エール 大学 登坂 恒夫(東京医大教授)カリフォルニア大 献したか計りしれません.その後,:東京で行われ た日米の神経科学のシンポジウムを契機に,日本 一434一 学・サンフランシスコ校 65 研究 佐々木 優(東海大学助教授)カリフォルニア 1.脊椎動物網膜研究グループ:渡辺,登坂,橋 工科大学 伊藤 寛志(杏林大学教授)ベイラー大学・ユ 本 主としてS−potential.渡辺助教授は第一生理教 タ大学 鷲津 美弥(小児科)(米国・ミュンヘン) 授就任まで,佐々木先生はERGに就いて,その後 内藤 恵一(耳鼻科) 伊藤,田内グループは視細胞の受容器電位に対す 山中 妙子(本学前眼科助教授)コロンビア大 るCaイオンの効果を研究致しました. 2.無脊椎動物の視細胞研究グループ:菊地,内 学 渋谷(皆川)幸子(小児科)フロリダ大学 藤,渋谷,藤波,植木,武田 受容器電位に対する温度,細胞内外に投与した 田中(武田)安子 横田 庸男(眼科:保健所長) 種々イオン(陰・陽),薬物の効果(TTX, TEA, 植木キク子 コロンビア大学(短期) AChなど)の実験は伝導性の活動電位と受容器電 松浦(藤波)淑子(皮膚科) 位との相違を明らかにする上で意味がありまし 斉藤 健彦(筑波大学助教授)エール大学 た8).視神経の逆行性刺激により誘発される過分 山村 佳江(前本学麻酔科助教授・現在同科非 極性電位は有名な側方抑制(ハートライン・ラト 常勤講師) リフ;冨田13))の研究と関連します. 視細胞のNa−Kポンプの役割とその抑制:こ 笠貫 宏(心掛内科) 註:括弧は本教室に在籍する前,または後に,留学 (滞在)された大学,場所を意味する. の最:初の実験結果は弘前の学会(第39回日本生理 学会,1962)の折,発表致しましたが,他のニュー 非常勤講師 ・ンと異なる点を指摘され,自分の結果を疑う気 金子 章道(生理学研究所教授) 分が起こりました.当時はNa−Kポンプの概念が 大学院学生 未だ確立せず,私も権威に弱かった訳です.その 藤田 哲也(外科) 北条太久磨(外科)米国留学 後これに関する幾つかの実験で視細胞では特に Naポンプの関与が,他の細胞に比べ大きいこと 新村日出男(内科) の確信を得ました.他人の結果はすぐ信頼できま 乙黒 源宏(内科) すが,自分の新しい知見はなかなか信頼できない 大野(田中)博子(本学整形助教授) ものです.私の最も感銘を受けた本の一つ12)の中 荻野 孝徳(済世会中央病院内科医長) に「自分の著書に対する自信の無さ」を思い出し 訪問研究者 ました. 個眼の形態の機能との関係(菊地,植木):この T.H.ウォーターマン教授(エール大学:2回滞 在) 研究は冨田先生の個眼のモデル13)とも,田中・佐々 Non−academic staff 木の,下に述べる心筋の形態学的に存在するネキ 鍬(畑上)範子 サスが,必ずしも通常の,「ある電気的性質」(例 川上 茂男(フクダ電子) えば大きな抵抗値を示すこと)に関連するとは限 浜野 武雄(日本光電) らないことを示す幾つかの知見と関係がありま 大野 安昭(日本光電) す. 細胞内記録電極の位置付け:記録している細胞 霜田 雅子 坂田(菊地)祐子 を染色して見る試みの目的は2つあります,一つ 須沢 俊雄(NTT) 卒倒 博(NEC) は記録する細胞を同定して大きさや形を調べる, 菊地 あります.カブトガニの個眼の場合2種類の細胞 徹(富士写真工業社長) もう一つは記録電極の細胞内のどの辺にあるかで 一435一 66 かあり,2種類の電位が通常記録されますので, 談しました.研究を生理学から心理学の方に移さ 電極の記録位置と,2つの電位変化との関係は重 れたと聞きましたが,オベリン・カレジの後,経 要ですので行いました. 済的理由で,直ちに医学校に行けず,ハーヴァー 視細胞膜電位の物理化学的回復とそのメカニズ ドでPh. D.を取った後,ロチェスターで念願の ム:これは電極の跡付けをするときたまたま発見 M.D.を取り,研究生活に再び入り,聴覚の研究を されたドラマチックな現象でした.結論的には電 行ったそうです.彼の作った聴覚経路の図はテキ 極刺入によって傷ついた細胞膜と電極間を錯塩を ストに最も引用されています.その他,菊地,田 作ってシールすることで説明できるので感激も薄 内は細胞内記録用ガラス電極先端研磨の一方面の れました,しかしこの操作で後から他の面白い現 考案と,そのメリット,デメリットに就いて短期 間研究し,西独の雑誌に投稿しました。この頃は, 象がわかりました. 装置も手作りで学内からの研究費から余り多く割 3.心筋・血行動態研究グループ:田中,横田, くことはできませんでしたが,幸い外部からの研 佐々木,北条,藤田,新村,乙黒,荻野,斉藤 ガマ,マウス,モルモットの心筋の電気的特性 究費援助に恵まれて活動できました. この時代約10年,網膜,感覚器,細胞膜に関係 とそのモデル,神経原性なカブトガニの神経一心 筋間信号伝達を恐らく初めて電気的に記録して明 した班に所属しました.一つの班は,最大限3年 らかにしました.また,臨床と関連する研究とし で班員の交替が必要でしたが,生理学の分野は勿 ては,心筋に対する温度効果,頻回刺激による活 論,理学部,解剖学の班員との交流が深まり,絶 動電位波形の変化のメカニズム,Ca拮抗剤の作用 えず班会議のデータに追われ,研究費の配分は多 機序,サーミスターを用いた血流計の設計と試作, くはありませんでしたが,時間をかけて討論が行 基礎的砥究としては重要な心筋には形態的にネク われましたので,アカデミックには,大いに得る サス(境界板)があります.心固有筋は電気的に ところがありました. はあたかも一個の細胞のように考えてもよいこと 自主セミナー を明らかにしました.心筋の正常の電気的活動を 田中先生の留学していた,ワシントン大学の生 理解する上では重要な知見で,後年,笠貫先生の 理学教室が主体となって出版した生理学教科書 行った実験と関連します.病的状態でネクサスが (上述)が出版されたので,学生に輪読を勧めまし 筋収縮の上で果たす役割は武石先生の研究と関連 た.毎週木曜日5時頃から,数名ないし12,3名 して興味ある問題です. の学生が教授室に集まって輪読しました.その中 教育的活動 から後年教育に就いた主な学生さんを挙げます 教育的活動には2つあります.一つは研究上の と,小沢(石田)博子(慶応大学兼任講師),森内 技術を普及させ,若い初心者としての研究者の活 (日本女子大教授:惜しくも一昨年亡くなられま 動を援助すること,もう一つは本学学生の医学上, した),平敷(宍倉)淳子(群馬大学助教授:中央 生理学,一般の勉学に対してでしょう. 放射線部),李(吉岡)美奈子(ワシントン大学メ ディカル・センター),牧野恒久(慶応大学講師). 冨田先生の在職以来,細胞内記録に関して,我々 の研究室は幾つかのノウハウを持っていました. 後年,大学のカリキュラムにセミナーが組み入れ 名大朝倉助教授,ペンシルヴァニア大の大西助教 られるようになりましたが,あの時代よくも夜遅 授(当時早大助教授,現在はフィラデルフィアの 生物関係の研究所長)の企画した若手研究者の講 くまで英語のテキストを自主的に勉強したもので す. 課外活動 習を頼まれたり,菊地,田中は細胞内誘導技術に 関する執筆14),菊地はPSSC物理の啓蒙書,ガァ 着任してからまもなく女子医大に美容学校が設 ランボス著「神経と筋肉」の翻訳15)を致しました, 立されました.皮膚科の中村教授のきもいり’でで 後年機会があり,拙宅に夫人と同伴で訪問され歓 ぎたと聞いています.これはやがて廃校となりま 一436一 67 した.美容界の大御所山野愛子女史が来ておられ れもいつのまにか廃れました.年を取ったからで ました.生理学は田中先生が講師として教えてお しょうか.時代の変遷で,日本人の集団行動より, られました.現在藤原歌劇団の総師五十嵐喜芳氏 自分に合った生活を各人が好むようになってきた が芸大学生でしたが音楽を美容学校の生徒さんに のでしょうか. 教えにきていました.中村先生のお計らいで女子 この時代は,学内ぽかりでなく,国内の他の大 医大の学生さんのコーラスも教えて下さることに 学から多くの院生が教室に滞在し,研究に従事し, なり参加しました.四谷文子さん(常時芸大教授) また外国との交流が盛んになりました.スポーツ, が上京を勧められたといわれるだけあって,テ 他のリクリエイション,仕事も活発に致しました. ナーの美しい声は,古ぼけた経理学校跡の校舎に 何にもまして喜ばしかったことは教室員の回転が 響きました.氏のリサイタルを学生が企画して, スムーズに行われ,各々適切な地位を得て活躍し その売上でグランドピアノを購入して講堂に置く ていることです. など,学生のため尽して頂きましたのもこの頃で あります, 近世(1977∼1987)多忙な時代 この時代のメンバーは菊地の他, 一方忘年会などでヴァイオリン数人,チェロー 小山 生子(本学教授) 人,それにピアノ位で余興をやったものです.生 植木キク子 化学松村教授,私,熊野先生(内科),西島(伊藤) 田内 雅規(生理学研究所・現在:国立リハビ 先生などでした.吉岡理事長先生も,貸衣装を付 リ・センター)マサチュセッツ総合病院(ハー けて舞台に上がられたり,よく出席されて聞いて 下さいました.演奏はかなりひどいものでした. ヴァード大学) 中谷 その時の記憶が固定していつも「奇楽・珍楽」と 敬(テキサス大学・現在ジ・ンス・ホ プキソス大学) いってからかわれますが,私が演奏する限りこの 北原 久枝(小児科)(モントリオール大学短期) 台詞は繰り返されるでしょう.しかし,この活動 関野 祐子 は次第に大きくなり,大宮真琴(お茶の水女子大 広瀬 俊夫(精神科) 学)教授,遠藤博士(東大精神科:現新宿交響楽 片山 洋子(心研内科より移籍) 団指揮者)の応援を受け,現在山口先生の指揮の 非常勤講師 下,定期演奏会も毎年行おれるようになりました. 田中 一郎 学生の楽団の運営や演奏技術は非常に上達し,ク 宮地 栄一(慶大医学部講師) ラブ活動の占める時間もかなり多く,負担となる 訪問学生・研究者 と思われます.しかし一方で,入学,卒業式に演 オウェン・キイス・エヴァンス(当時ケンブリヅ 奏して,欧米並に式の雰囲気を盛り上げ,学内重 ジ大学医学部生)外科医 要行事に参加協力するのは,非常によい社会的訓 ハンス・ヴァン・アッカー(アムステルダム大 練になると思います.今井名誉教授(病理学)も, 学:大学理学部研究員) 私の勧めで楽器を始められてから10年余になり, 蓑 学長も自発的に多忙な時間を割かれて参加され, 印権(中国・北京医科大学薬理学助教授: 現在UCLA 訪問研究者) 山口先生と共に,本学の音楽文化推進の強力な Non−academic staff バックアップとなっています.こうした活動を通 近内(嶋崎)明子 して,教員と学生との交流が盛んなのは,技術的 佐藤 幸治(イケショップ支店長) にはともかく,おおいにmentor的役割を果して 安達 正美 おることになります. 小沼 裕一 渡辺教授が第一生理に移られるまでは,冬にな 通野 幸枝 ると1,2回はスキーに出かけたものですが,こ 教室のメンバーの新陳代謝があることは望まし 一437一 68 いことです.学位を取り,良いポジションに移動 価の上昇率を大幅に上回りました.これがいわゆ できれぽ幸いですが,日本では,終身雇用制が一 る第一次石油シ・ックであります2).1977年着任 般ですから,米国のように移動は頻繁ではありま 当時は第二次石油ショック2>の時に当たります, せん.幸い教室員は活動も高く,機会にも恵まれ, 教室研究費は約500万で,私立大学として決して低 他の教育,研究施設に次々とよいポジションを得 い方ではありませんでした。教室の経常費が毎月, て転出致しました.このようにして,現在教授(名 約20万程かかりますので,ほぼ半分が実質的に使 誉教授を含む),助教授に就かれている,または就 える最高備品購入費となるわけです.備品,一般 かれていた旧教室員は6名,助教授5名でして, 消耗品価格が上昇するどころか,記録紙の入手す 短期滞在者を含めれば,各々10,6名となります. ら,一時困難となりました.日本の研究が神経線 この数字は,単科大学の基礎の教室としても珍し 維と筋に偏っているのは,中枢神経系の研究はお く高いと存じます. 金がかかり,日本の経済力と,大学が支出できる かくして,教室も新たな教室員を迎えることに 額が少ないからだと説明されてきました.米国で なりました.たまたま冨田先生が,本学出身でモ は研究費は,NIHのグラントに依存し,その申請 ントリオールにおられる小山教授を推薦されまし が大変と米国研究者から聞いていましたが,大学 た.私は女子医大に奉職する前に,善く短期間, からの研究費のみでは,新たに脳波計,刺激装置, 同一教室にいた訳ですが,それ以来,25年間,一 連続記録装置,輸入品であるマイクロインジェク 度もお目にかからず,研究分野も異な:るせいか音 ターは,一度になかなか揃わず,苦労されました. 信もありませんでした.外国に滞在する日本人研 幸い私の装置は揃っていましたので,使用する分 究者の動向は,その場所に行かれる研究者の他, はほぼ消耗品のみで,これは班研究費でなんとか 分かりにくいものです.小山教授は慶応医学部林 間に合いました.研究グループは3つの脊椎動物 教授のもとで学位をとられ,シカゴの纐纈研究室 の網膜,特に視細胞レベルの研究では,刺激とし (現在久留米大学学長)滞在中の4年間を除いて, てのスペクトル光の各成分(単色光)を等量子で モントリオール大学のジャスパー教授の研究室に 出すことも常識となっていますので,光刺激装置 至るまで癩漸漸李を約20年研究されてぎました. にも投資する必要がありました.田内,田中グルー 通常,家族持ちの研究者でも,外国滞在は長く続 プは最小限の部品を注文し,手作業を加え,苦労 かないものです.小山教授の滞在が長かった理由 してようやく実験に間に合うようになりました. は,英語,フランス語が不自由なくできたこと(ケ それでもやがて両グループとも実験可能になり, ベック州にあるモルトリオール大学医学部の志願 現在では中枢神経系の研究グループの設備は,日 者はフランス語が流暢でなくてはならないと書い 本の他のどの研究室の設備と比べても遜色ないだ てあります。教授は学生時代,ロシヤ語のコース ろうと訪問者から御誉めの言葉を頂くようになり を採られ,ロシヤ語の小説を読まれた努力家であ ました. ります).次に,カナダの生活が快適であったこと, 註:1987年10月ハーヴァードで視覚領野の著名な 意志が強固であることだろうと,私は考えました. 研究者ヒューベル教授(ノーベル賞授賞者)の研 さて,問題は小山教授の研究設備であります.新 究室を訪れ,古い成茂製のプラーや,お手製の素 設講座の場合はともかく,既設の場合は,どこの 朴な装置が並べられているのを見て,我々の昔を 国でも設備費がなく,苦労すると聞いております. 思いだし,改めて研究のあり方を問われ,また驚 前任地でもらったグラントで購入した機械は,原 きもしました.同様の印象をケンブリッジ大学の 則的には移すことはできますが,希にしか行わな ポジキン教授の研究室を訪れた日本の研究者か いようです.1973年10月にOPEC諸国が原油価格 を4倍に引き上げたことから,輸入物価は急騰し ります. ら装置のスライドを示しながら聞いたことがあ た結果,卸売物価は1974年31.6%上昇,消費者物 一438一 69 研究 ショウオ科)の粁体・錐体を用いて,cGMPが外 この時代の研究グループは3つでして, 節のコンダクタンスを変化させることを,ソ連の 1.癩痛研究グループ:小山,北原,関野 フェセンコ達に少々遅れましたが,発表したり, ネコを使って,コバルト粉末を皮質の適当な部 色々なイオンに対する透過性を調べたりして注目 位に散布し,実験的に癩痴よう症状を起こし,そ されました16)17).これらの成績は我国における研 の部位から異常放電を起こすニューロンを捜し, 修時代の経験が背景にあったといえるでしょう。 通電により細胞内染色を行い,形態的変化を追跡 植木博士はこの数年,生理学研究所金子教授, するもので現在はとても美しい顕微鏡写真を得て あるいは,第一生理橋本教授の要望で共同研究を います.また関野君は,小山教授の下,独立して されています.主として形態学的手法を用いて, 海馬の細胞レベルの電気生理学的研究に2年従事 して技術的にも進歩しているようです。北原先生 脊椎動物の視細胞,2次ニューロンの単離した応 答を示す細胞の形態,両者のシナップス結合様式 は,小山教授の御紹介でモントリオール大学に数 を求めて,電気的信号のコーディング基礎的知見 ヵ月留学され小児科に戻られました. を求めています. 小山教授の下に,約1年留学されておられた北 3。無脊椎動物視細胞の研究グループ:菊地,広 京医科大学の斐助教授は,ウサギの海馬に硫酸亜 瀬,片山 鉛溶液を注入されて痙李を起こし,海馬に本来存 菊地・広瀬は視細胞のNa−Kポンプの働きをよ 在する高濃度の亜鉛含有量と,コリン・エステラー り詳細に調べるため照射時間が延長した場合の働 ゼ活性との関係を考察されました.帰国されて, きについて調べた結果,照射時間を延ばすとポン 現在UCLAで愉しい研究生活を続けられておら プが働き出すことが判明致しました.当然といえ れる旨,お便りをいただきました.日本での生活 ぽ当然のことです,結果をブタペストの国際生理 が役に立つことを望んでおります. 科学学会で発表致しました(1980).しかし,研究 小山グループは,最近,府中の神経センターか の外部状況は変化してきました.カブトガニの棲 ら依頼されて,治療の目的で,癩痴患者さんの脳 息地は瀬戸内海です.日本の高度成長の波に乗っ から摘出した患部の組織の異常を検索されること て水島に製鉄所がで. ォ,棲息地が埋め立てられま なども行い学会に発表され,以前より臨床医学と した.指定地以外では,この天然記念物も捕獲が の結びつきが緊密になったようです(1987年,於 許されています.いつでも現地の漁師に頼んで 千葉大学). 送ってもらっていましたが,漁師が転職し,ある 2.脊椎動物の視細胞の研究グループ:田中,田 いは老齢化して,動物の入手が困難になりました. 内,中谷 それに加えて,ちょっとしたことが起こりました. カエルの視細胞の単一粁体のスペクトル光,単 ある日,ある新聞社からといって電話があり,「目 色光の光量子数と応答との関係を求め,ブンゼ のないカブトガニを捨てたのは先生ですかP」と ン・ロスコウの法則の妥当性,記録視細胞の染色 のことです.「以前は実験終了後,全部動物処理業 を行いました.また視細胞間の電気的結合の定量 者に渡していましたが,両目を取っただけでは, 的解析など行いました.研究は田内博士が国立生 まだ元気ですので殺すには忍びないので,稲村が 理学研究所に移ってから,中谷君に受け継がれま 崎近傍に一部放すことにした」旨話しました.「あ した.両氏はその後渡米し,マサチュセッツ総合 るグループが,漁師の網にかかったカブトガニの 病院およびテキサス大学で活発な研究活動を行い うち2,3匹かが目がなく,残酷だと訴えてきま ました.田内博士はある種のアマクリン細胞に注 した.江ノ島水族館の広崎館長に先生の使ったカ 目してその美しい染色から;細胞配列,受容野な ニだろうと伺いました.」とのことです.私は医学 ど考察しました.中谷君はヤウ教授とカエル の分野では,ヒトの疾病を治す研究のために,実 (bufo marinus),タイガー・サラマンダー(サン は毎日,莫大な数の動物が犠牲にされている旨伝 439 70 えました.また,放したカブトガニが生きFている 時代,ルッソー,ゲーテの自叙伝に当たる作品を のが分かって,大変うれしいことを申し添えまし 読んで感激したものですが,この翻訳後,特に色々 た.「先生の説明は十分わかりました.記事にする な方の自伝に興味を抱くようになりました. ときは御相談致します.」と丁寧に電話を切られま 教育 した。半年経ちましたか,また電話があり「また 大学にとっては,教育活動は重要な課題です. 目なしカブトガニが捕まりました.今度は『この しかしどちらかといえぽ,人の力には限界もあり ように相模湾に棲息していない動物を放すと,相 ますので,普通は研究に熱を入れたいものです. 模湾の生態系を崩す』といっております.」とのこ 年齢からでしょうか,特にこの約10年教育関係の とです.私は前の説明を繰り返し,必要があった 仕事に携わる機会が増えました.女子医大は,医 らグループの方々に説明すること,今後カブトガ 科大学でも教育活動が熱心な大学の一つとして定 ニを海に放さない口伝えてほしいと申しました. 評があります.教育活動は学内と学外の2つに分 その後この話をアメリカの研究者に話しましたと けられます. ころ,色々なケースを説明してくれました.その 学内 内,少々馬鹿らしい話として,ある動物愛護団体 1.医学教育は他の学問分野に比べ,一般にイン が,ある大学の実験動物舎の扉を開いて,動物を テンシヴです.現学長が教務委員長の時,カリキュ 解放したところ,動物が街に出て餓死したことを ラムの改革が開始されました.その一つに,セミ 挙げました.更にそうしたグループとは面会しな ナーがあります.私は自分の能力に合おせ,学生 いほうが良いと忠告してくれました.「彼らは分か を毎年,通年コースとして,2∼3名に限りまし ろうとしないからね.アメリカではカブトガニは て,神経や,ヒトを使った感覚に関する実験を行 決して問題になったことはない」.これからの実験 いました.広瀬・山村先生に参加指導をしてもらっ 老は更に大変でしょう.生理学会常任幹事会で対 た場合もあります.この実験結果は女子医大誌に 策を検討するよう提案しました.私は良い時に止 3篇発表され,一方,日本生理学会編集の学生実 めたといえるでしょうか. 習書19)に引用されました.女子医大の学生さんの 新たに片山君が入室しましたが,動物が入手で 行った実験方法や結果が,多くの医科大学(中国 きないこと,片山君が臨床経験があるので,臨床 版が出版されましたので,中国を含めて)のある 医学と関係のあるテーマで,しかも,今までの研 学生さんに読まれているだろうと考えると楽しい 究と関連ある実験をすることを勧めました. 気持ちが致します。また女子医大独自の実習書も ちょっと興味のある結果が得られました.片山君 編纂を重ね,スタイルも整ってきたのは嬉しいこ は第64回日本生理学会(1987年,於千葉大学)で, とです.最近2年に渉り,ハーヴァード大学ワイ その結果を明快な口調で発表致しました. ンバーグ教授の好意で頂いた「内科学入門」のテ 広瀬・片山君との共同実験期間は各々2,1年 キストを,セミナーの学生さんと勉強しました. と短く,私が学内外多忙:なため迷惑をおかけする 米国の医学校が,患者ぽかりでなく,学生ともラ 結果となりました.こんな訳で,私はこの10年間, ポール(rapport)を打ち立てようとする工夫がテ ほぼ一人でする実験が多いのが実状でした.別の キストにも見られ,米国の大学教育の在り方の一 立場から見ますと,両君は,実験の計画から論文 端を知ったような気がします. の執筆に至るまで,一人ですることができる自己 2.退職前3年間は教務委員を務めました.委員 会の運営は,基本的には現学長の建てられた医学 訓練と自信を得たと思います. またこの頃に,冨田先生の御勧めで,グラニッ 教育の改編のプログラムに沿って行われました. ト教授のノーベル講演を翻訳いたしました18).そ その間に,形式が固定した従来の規則に改変を加 の際,グラニット教授と文通したり,教授の略歴 えたり,2,3の新たな規則が生まれました.し や資料を集めて説明することになりました.学生 かし,そのアイディアも,学長が推進されている 一440一 71 Independent study, tutorialを取り入れ,また 書いてもらいましたが(東女医大誌に掲載),英国 個々の学生の希望,ニーズ,理解度,過去の教育 の代表的医学部の教育を知るために,大いに参考 実績に相応したコースをカリキュラムに取り入れ になりました.火山に対する三熱や,外国の見聞 るという発想に基づいています.現在は小数の学 を広める努力,学生らしい倹約精神には,さすが 生さん向けの規則ですが,「努力して励むものを, の私も敬服しました. わたくしたちは救うことができます.」という「天 2)アムステルダム大学のヴァン・デル・ツイー 使の合唱」20)に大学が耳を傾けたことになるで ル教授からの依頼で,アムステルダム大学のマス しょうか. ター・コースを終えた生物物理出身のリサーチ・ スチューゲント,ハンス・ヴァン・アッカー君を 3.特別講義:この時代にも特別講義として,学 生諸君と幾つか聞きました.小山教授の研究と関 日本学術振興会のフェローとして引き受けまし 連された研究老で,癩無関係(モントリオール大 た.少々苦労も致しましたが,独立心はあり,芸 学:ヴァン・ゲルダン,インペアリアル・カレッ 術的センスもあり,水平細胞に関する一篇の論文 ジ:ブラッドフォード教授)と,頭部外傷(モン を恵めました(東女医大誌に掲載).この2人,お トリオール大学:パピウス)の実験的生化学的研 よび裂先生からクリスマス・カードや手紙が送ら 究で興味深く拝聴しました.セミナーとしてベル れてまいります.女子医大の生活が懐かしいので ジニロン・グロアー教授(共にモントリオール大 しょうか. 3)中国からのリサーチ・フェロー装印権助教授 学)の話がありました.網膜関係では,ハーヴァー については,既にお話しした通りであります。 ド大学生物学教授で,医学部神経生物学教室主催 学外 の神経科学のプログラム実行委員21)でもあるダウ リング教授,渡辺宏助名誉教授のUCSF時代から 既に東北大学本川教授が生理学会の教育委員長 の友人,ロンドンのジャド・ストリートにある眼 をされている頃から教育委員によく加えられまし 科学研究所員アーデソ博士のお話を聞くことがで た.大学紛争と前後して,ようやく,学生実習の きました.前者は網膜構造と機能,後者は網膜疾 設備改善を文部省に求めることになりました.か 患の病体生理学でした.年1回ですが,学生があ くして,生理学会は医学界の先頭きって教育環境 たかも,外国の大学にいるような講義を聞くこと の整備に着手致しました.次いで,実習書の出 ができるのは女子医大の一つの特色といえるで 版18),生理学用語集22)の出版,実習用ヴィデオの作 しょう. 製をいたしました.私が委員長の時は,学会の折, 4.外国人のための教育活動 教育講演をヴィデオにして販売,生理学を中心に 1)英国の友人から,ケンブリッジ大学のPre− 日本の医学校における基礎医学の教育のかなり大 clinical courseを丁度終了した学生さん,オウエ 規模な現状調査を(データ処理は第一衛生清水悟 ソ君(現在Dr. Keyes−Evans)の面倒を,休暇中 氏の御援助で)行いました.こうした学会の収入 見てほしい,との手紙を受け取りました.本人は, を目指したプロジェクトの目的の一つは,生理学 一番安いルートでロンドンから羽田に到着し,浜 会が財産もなく,法律的には単に「同好会」程度 松町モノレール駅で出迎え,約3ヵ月(1ヵ月, の組織でしかなく,絶えず財政的な基盤が不安定 聖マリアンナ大学にお願いしました)預かりまし であるからであります.恐らく基礎医学の他の多 た.滞在費を捻出するため,注射針の形態学を研 究(委託研究)してもらいました.細胞内電極の くの学会についても,状況は同じだろうと思いま す. おわりに 知識と,彼に依頼した計測との結果を考慮して制 作した結果,切れ味の良い針ができ,輸出が増加 これで,私の半生,以上お世話になった女子医 し,企業から感謝されました.また,ケンブリッ 大での生活についての回顧を,終わることに致し ジ大学の基礎医学教育について,説明を求めたり, ます.冨田先生の後任としては,アカデミックな 一441一 72 活動が活発であったとはいえないことが,残念で あります.スピノザは,「後悔は第二の過失」といっ ておるそうですがら,過失を繰り返さないことに 致します.こうして過ぎてみますと,教育は嫌い 状.通商産業調査会,東京(1986) 4)対談:世界に誇る学統一網膜神経生理学の権威. 富田恒男君を訪ねて一.三田評論 1:54−59,1988 5)Tomita T:Neurophysiology of the retina.」醜 Foundations of sensory science. Chap V, pp151 −190,Berlin・Heidelberg・New York・Tokyo ではありませんが,女子医大の学生さんの方が, (1984) 教育陣よりもっと楽しいように思われます,アン. 6)Tomita T:Retrospective review of retinal リー・トロワイヤの小説の主人公のように(金牛 circuitry. Vision Res 26:1339−1350,1986 宮),もう一度教室の一番後ろの席に座って,講義 7)Katsuki Y:Electrical Activity of Single Cells. Igaku Shoin, Tokyo(1960) でも聞いてみたいものです.何回か生まれ変わる 8)菊地錬二:カブトガニ.生体の科学18: ことができましたら,再び生理学を,一度はやっ 177−191, 1967 てみたいと思うのは,本学で皆様から受けた御好 意を,再び期待する私の厚かましさが加わってい るからでしょうか.理事長,学長,常務理事,恩 師冨田教授,.教室員,基礎懇談会,教授会,学生, 9)Reischauer EO:My life between Japan and America, p65, John Weatherhill Inc, New York。Tokyo(1986) 10)ライシャワー,エドウィン0:自伝.(徳間孝夫 訳),文芸春秋社,東京(1987) 図書館員,学事課,事務課,営繕課,生理学会な 11)Encydopedia Br圭tanica I, IX.1943−1973,1973 −1976. どの皆様,色々と無理なお願いを致し,叶えて下 12)ヴァレリイP:文学論.(堀口大学訳),斉藤書店, さいまして有難う存じました.合同ゼミの皆様(第 東京(1948) 一生理,慶応義塾大学,聖マリアンナ大学生理), 13)Tomita T=Peripheral mechanisms of nervous 私事に渉りますが,死ぬまで援助を当然と考えた 両親(1977年3月,1984年3月死亡),級友広瀬憲 三,藤倉孝次郎,西山順一郎,馬場理一(本学前 父兄会長)の諸兄,中村琢二画伯御夫妻(中村画 activity in lateral eye of horseshoe crab, J Neurophysiol 20:245−254,(1957) 14)菊地錬二,田中一郎:細胞器管研究法II,第9巻, (朝倉 昌,大西 勤編),pp101−188,:丸善,東京 (1969) 15)ガァンボス・ロバー’ト:神経と筋肉・体内電気の 伯は前日迄絵を描かれておられましたが1988年1 メカニズム.(菊地錬二,南谷晴之訳),河出書房 .月31日未明御逝去)の絶えざる御厚情に,深く感 新社,東京(1969) 謝致します.そして,妻の援助と忍耐にも. 16)Pagh EN Jr= The nature and identity of the 後任の本学卒業生小山教授は,第三世界に奉仕 interna玉excitational transmitter of vertebrate する医師の養成という教育の理想を掲げられてお られます.伝統的,また新しい分野の研究,学生 phototransduction. Ann Rev Physiol 49: 715−742, 1987 17)Owen WGl Lonic conductances in rod の個人的指導に,更に新しい力を発揮されること photoreceptor。 Ann Rev Physiol 49:743−764, を期待して,私の不十分な話を終えることに致し 1987 18)グラニット,ラグナー:授賞のことぽ.ノーベル ます. 賞講演,生理学・医学,1967−1969.(菊地鐙二訳), Vol 12, pp7−33,講談社,東京(1985) 19)日本生理学会編:生理学実習書。第2版,南江堂, お断り:講演後,幾つか追加したいことを発見致し 東京(1983) ましたので,加筆して上梓することを御願い致しまし 20)ゲーテ,ヨハン・ヴォルフガング:ファウスト. た. 第2部第5幕,山狭 天使たち.(手塚富雄訳), 文 献 中央公論社,東京(1971) 1)ブルースト,マルセル:失われた時を求めて.(淀 21)Harvard Univers董ty: The program in neu卜 野隆三,井上究一郎訳),新潮社,東京(1974) oscience.(1985−1987) 2)日本経済社日:ゼミナール日本経済入門.日本経 済社,東京(昭和60年2月) 22)日本生理学会:新版生理学用語集.南江堂,東京 (1984) 3)通商産業大臣官房調査統計部門:我国産業の現 一442一
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