因幡のシロウサギ神話・東郷の羽衣伝説そして湖山

因幡のシロウサギ神話・東郷の羽衣伝説そして湖山長者
メンバー:池野まゆ美
片岡大
石倉朋恵
北山果苗
上村優揮
北村朱未
私たち神話班は、鳥取県に伝わる神話・伝説に興
大迫琢矢
大澤瑞恵
小野寺礼佳
島田泰菜
竹歳美穂子
戸田流生
担当教員
門田眞知子・豊田久
1.比較神話の観点から見る「因幡の白兎神
味を持っています。それぞれが調べ分かったこと
話」
をここに報告します。今回は、以下の3つのテー
マで調査しました。
池野
まゆ美
大澤
瑞恵
北山
果苗
島田
泰菜
1. 比較神話の観点から見る因幡の白兎
2. 新説「因幡の白兎」:神話の背景に見る
私たちが考えた世界の民話・神話から「因幡の
部族対立-ウサ族とワニ族
白兎」に共通する兎の持つイメージは
3. 東郷・倉吉に伝わる羽衣伝説
(指導・門田)
①
ずる賢い・トリックスター
②
月、死・再生との関わり
③
水棲動物の上を渡る
以上の3点である。
①
ずる賢い・トリックスター
一つ目の「因幡の白兎」と世界の民話・神話と
の共通点は、兎が知恵者・トリックスター的な役
割を持つという点である。
トリックスターとは、「創造者であって破壊者、
寄与者であって反対者、他をだまし、自分がだま
制作:角田治
される人物」のことをいう。
(カール・ケレーニイ他
「地球創造者が住んでいる世界の下に、それとそ
河合隼雄他訳
っくりのもう一つの世界があり、この世界を彼、
前掲書より)
「因幡の白兎」では、兎はサメを上手く騙し、海
トリックスターが管理している。カメは第三の世
を渡ろうと知恵を働かせる場面があるが、これと
界を管理し、ウサギはわれわれの住む世界を管理
同じような話が世界にも共通して多く存在する。
しているのである。」カール・ケレーニイ、ポール・
ラディン他著、河合隼雄他訳『トリックスター』
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2007 年度 地域文化調査成果報告書
・「兎の知恵」
死んだら生き返れない。」と言ってしまった。怒っ
たまたまヒョウの家に来たウサギは、
「みんながヒ
た月はウサギを棒でたたき、ウサギは爪で月を引
ョウを怖がるのはヒョウの歯のせいだ。」と考え、
っかいた。ウサギの口が裂けているのはこのため
ヒョウの歯を盗んで家に持って帰った。やがて、
で、月に黒い斑点があるのはこのためである。
ヒョウは歯を探してウサギの家に来るが、ウサギ
(松村武雄編
は上手く騙してヒョウを追い返す。
(松村武雄編
『アフリカの神話伝説Ⅰ』)
・「死の起源」
あるとき月が人間たちに向かって「わしを見るが
『北アメリカの神話伝説Ⅰ』)
いい、わしはときどき体がだんだんと痩せ衰えて
・「えらい兎」
いって死にそうになるが、やがてまた肥えて来る
熊に食べられそうな男を助けるため、兎は猟師の
だろう。その通りにお前たちもいつまで生きてい
ふりをする。驚いた熊は男を食べないから猟師か
るのだ。死んだように見えるのは眠っているよう
らかくまってくれとお願いをする。袋の中に隠れ
に見える。だけど、本当に命がなくなったのでは
た熊をやっつけて男は兎のおかげで助かった。
ない。人間には死ぬということは無いものじゃ。」
(真木三三子編訳
と言った。人間たちはこれを聞き喜んだが、そこ
『ブルガリアの民話』)
に居合わせた一匹のウサギが「お月様、それは間
このように世界にも共通して、小さくて弱い立
違っています。だって私のお母さんは本当に死ん
場であるはずの兎が強い動物をペテンにかけたり、
でしまったから。」と答えた。そしてウサギはどこ
うち負かしたりするという話が数多く存在してい
までも言い張り、月はとうとう怒って、
「わしがこ
る。このことから、
「因幡の白兎」と世界の神話・
れほど本当のことを言って聞かせているのに、お
伝説との共通点として、兎は特に他の動物よりも
前はそれを信じないんだな。よし、そんなに死に
知恵者・トリックスター的な役割を持っていると
たけりゃ、今後はみんな死ぬようにしてやろう。」
考えられる。
といって、ウサギの口をひどく殴りつけた。それ
でウサギは今日まで唇が欠けているし、また人間
②
や他の生物もみんな死ななければならぬようにな
月、死・再生との関わり
った。(松村武雄編 『北アメリカの神話伝説Ⅱ』)
「因幡の白兎」と世界の民話・神話との2つ目
の共通点は、兎は月や死・再生と関連していると
いう点である。アフリカに伝わっている「兎の粗
このように、月は欠けても、また満ちて現れる
相」
・
「死の起源」などからもこの事が読み取れる。
ことから死と再生に結びついており、兎は古くか
ら世界で月や死・再生と深く関わっている動物だ
・「兎の粗相」(アフリカ・ホッテントット族)
とみなされていたことが分かる。
月が、使いのウサギに「月は欠けてもまた満ちる
「因幡の白兎」と比較してみると、皮をはがれ
ように、人間が死んでも生き返ることが出来る。」
瀕死になった兎は復活・再生をし、大国主と八上
と人間に伝えるように言った。しかしウサギは言
比売が結婚することを予言する。兎は新たな力を
い間違えて「月は欠けてもまた満ちるが、人間は
得、神格化したのである。その後の話で大国主は、
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因幡のシロウサギ神話・東郷の羽衣伝説そして湖山長者
八十神たちに、一度目だけではなく二度までも騙
う国の始祖王、東明の物語である。これと同類の
され、焼け石や木によって死ぬが、やはり復活を
物語が、高句麗の始祖王の伝えにもみられるそう
果たし、国を治める支配者となっている。
である。東明の物語は以下のような物語である。
「北方に高離之国(こうりしこく)があり、侍女
が妊娠する。王が殺そうとすると、侍女は鶏の卵
③ 水棲動物の上を渡る
3つ目の共通点は、兎が水の上を水棲動物の作
のような霊気が下ってきて身ごもったという。侍
った橋で渡るということである。このモチーフを
女が生んだ子を、王は豚小屋や馬小屋に捨てるが
含んだ話も世界の民話や伝説の中に共通のものが
死なない。王は天の神の子であろうと考えて、母
ある。物語の「渡り」の部分を簡単に要約すると
親に養わせる。東明と名づけ馬を飼わせる。弓を
以下の通りである。
射ることがうまいので、国を奪うことを恐れて、
王は東明を殺そうとする。東明は南に逃れ、施掩
・「兎の冒険」
水(しえんすい)に来る。東明が弓で川の水面を
貧乏な兎が、食べ物を得るために魚を取る事にす
たたくと、魚や鼈(すっぽん)が橋をつくる。東
ると、たくさんの魚がかかっていた。兎はその魚
明がその橋を渡ると、魚や鼈は散ってしまい、追
を焼くために、インディアンから火を盗んで来る
っ手は川を渡れない。東明は夫余の地に都し、王
ことにした。その道中、川幅が広くてとても渡れ
となる。」(ふりがな筆者 小島瓔禮 門田眞知子編著
そうになかったので、鯨に助けを求めると、たく
『比較神話から読み解く因幡の白兎神話の謎』より)
さんの鯨が現れて、川を横切ってずらりと並んだ。
兎はその背をつたって川を渡った。
(松村武雄編
東明は魚や鼈の作った橋を渡ることで、王の地
位を得る。これと同様に、兎は鰐の背を渡ること
『北アメリカの神話伝説Ⅱ』)
で予言する力を得、大国主と八上姫の結婚を予言
また、この外にも世界各地には、兎以外の猿や
している。そして、大国主は実際に八上姫を得て
鹿などの動物が水の上を水棲動物の作った橋で渡
おり、一国を治める王ともなっている。小島氏は
るモチーフを持つ話がある。この水棲動物の橋を
大国主が大地の王の資格を得るのも、兎が海を渡
用いて水の上を渡るということには、どのような
ってきた成果ということになる、と述べている。
意味が込められているのだろうか。
まとめ
小島瓔禮氏は『比較神話から読み解く白兎神話
①
の謎』(2008 年)の中で、水の上を水棲生物の橋
兎は世界的にトリックスターとみなされて
いた
で渡るというモチーフの中には、新しい力、権威
を得るという暗示を持つものがあると述べている。
アフリカ、ヨーロッパ、アメリカ、アジアなど
その例としてあげられているのが、三世紀後半に
世界の兎が登場する神話や民話を調べたところ、
成立した『三国志』の「魏志」巻三〇「扶余伝」
兎がトリックスター的な役割を持った話がどの地
などにみられる、中国東北地方にあった扶余とい
域にもみられた。
「因幡の白兎」だけでなく世界中
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2007 年度 地域文化調査成果報告書
で兎がトリックスター的な役割を持つ面があるこ
2.「因幡の白兎」:神話の背景に見る部族
とがわかった。
対立 --ウサ族とワニ族-② 兎は月と関わりを持ち、死と再生に関与
古来、月はその満ち欠けの様子などにより死と
上村 優揮
大迫 琢矢
片岡 大
戸田 流生
生のイメージに関与している。その月と関わりを
持つ兎にも同じ性質を持たせ、神話の中ではその
「古代人は、単なるメルヘンをほとんど語らな
兎の存在により、兎と大国主の復活を暗示してい
い。すべて神話として後世に語られるのは、何ら
るのではないかと考えられる。
かの、政治的、宗教的な重大事件である。そうい
う重大な事件が、いつも象徴的な形で語られる。」
③ 水の上を動物の橋で渡る
(梅原猛
『神々の流竄』p.106)
「渡る」という行為を経て、力を得るといった
内容の話が中国にあり、
「渡る」という行為自体は、
○
問題提起
特別な役割を持つことを示す要素もある。神話で
私たちは、白兎神話に隠されている「ウサギと
は、兎が瀕死からの復活を果たすことと併せて、
ワニの謎」を追ってみたいと考えた。神話に登場
ワニの背中を渡ることが、神格化することにつな
する動物のウサギとワニは比喩として、実際に古
がり、後に大国主を助けるに至る。
代に現実に起きた何らかの部族間の競合を暗示し
ているのではないか。もしそうであればウサギと
ワニとは一体どういう存在であったのか。さらに
参考文献
は両者の間でいわば仲介者的立場にたつオホクニ
・カール・ケレーニイ、ポール・ラディン他著、
ヌシの神は、件の神話のあと、国譲りの結果、巨
河合隼雄他訳
大な出雲大社に祀られおさまる。こうしたことは、
『トリックスター』
晶文社
1974年
・
神話の背後に潜む生々しい相克の壮大な歴史をも
門田眞知子編
『比較神話から読み解く因幡
の白兎神話の謎』所収
シと因幡の白兎」
小島瓔禮
今井書店
また物語っているのではないか。もしそうである
「オホクニヌ
ならば、神話にはそれを生み出す歴史環境のエネ
2008年(in
ルギーが大きく作用しているはずだ。
press)
以上のような観点にたち調査を始めた。鳥取の
・真木三三子編訳
社
『ブルガリアの民話』
垣文
因幡で起こったとされる白ウサギとワニの神話の背後
1980年
・松村武雄編
及会
を探る中で、北九州の宗像大社に祀られる宗像三女
『アフリカの神話伝説Ⅰ』名著普
神と、多紀理(たきり)姫を祀る「沖の島」、そして宗像
1928年
・松村武雄編
名著普及会
三女神が祀られている鳥取米子の宗形神社、大山に
『北アメリカの神話伝説Ⅰ・Ⅱ』
対面した日本海中の「隠岐島」などを対照視しつつ参
1928年
考にするのがよいように思えてきた。北部九州には宗
ほか
像族や安曇族などの古い海人族それに対峙して宇
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因幡のシロウサギ神話・東郷の羽衣伝説そして湖山長者
佐族の姿がある。一方、畿内を中心としてワニ、
教える。兎は元の姿になり、兎神となるのである。
つまり和邇・王仁族も実在した。彼らは百済系と
○
神話の背景の推理
もいわれる古い人たちであり、のちには畿内の中
このオホアナムチを巡る神話は『日本書紀』
心勢力ともなる。これら古代の現実がこの神話に
(成立は 720 年とされる)にはなく、
『古事記』
深く関わっているのではないか。そしてそれはな
(成立は 712 年とされる)にしかあらわれない。
ぜか。
そのことから、これは特異な国家的事件を記し
この西(北部九州)と東(山陰地方)との間の
たものではなく、なにか大きな出来事の総合的
影響関係に関しては、今井書店編集長の黒田一正
な記録ないし記憶であるように思われる。した
氏からも示唆を得た。
「米子の『宗形神社』には宗
がって、その背景をもっとずっと遡る古代に目
像三女神が祀られていて出雲における、古代の九
を向けるのがいいのではないかと考えた。ウサ
州勢力との繋がりの強さを示している。」(黒田氏
ギの特徴は、遊泳術を持っていないこと、した
「米子周辺の神社分析」)
がって内陸特有の何かであろう。一方、ワニは
以下に班として調査し得られたことを報告す
海洋を自在に往き来する何かである。ウサギが
る。ただし全面的な答えが出たということではな
海を渡るということは、陸の作物、あるいは技
い。
術を担うものたちの移動を意味していると考
えるのは自然であろう。この場合稲作農耕ある
先に結論を暗示すれば、神話のウサギは九州の
「ウサ族」からきて、ワニは若狭から畿内にかけ
いは職能である。弥生時代のある時期において、
て古くから勢力を持っていた「和邇族」-九州にも
大陸から、或いは半島経由で稲作がもたらされ、
散在する--からの発想が意識的にあり、両者の抗
人口も爆発的に増加した、そういう時代に農業
争をとりもった勇者オホクニヌシ神話ではなかっ
の伝播に寄与した人たちがいたであろう。そし
たかという推定である。
てその頃には、同時に海を自由に往き来する人
たちも活躍をし、一部は漁業を営んだり、一部
は交易に従事したり、あるいは海賊であったり
○「イナバノシロウサギ神話」の骨子
した可能性がある。そうした農耕民族の渡来に
舞台は現在の鳥取の白兎海岸。かつての因幡(稲
関しては、船を操る海民とのあいだにトラブル
羽)地方。オキから陸に戻りたい兎が鰐の輩をだま
が生じ、争いが起こったはずで、ウサギとワニ
して海上に並ばせ数を数えながら鰐の背中を渡る。
の性格と対立は、違った職域におこる性格の違
最後の鰐の背中を渡るとき、だましたことを口に
いと対立のように思われる。この交渉や対立は
したため鰐は怒り兎の皮をはぐ。赤裸の兎はまず
常に九州から北陸にいたるまでの日本海側に
オホアナムチ(オホクニヌシの若い頃の名前)の異
おいて起こっていたであろうし、ときに調停が
母兄弟の八十神にからかわれ海水に身を浸し風に
必要とされたであろう。オホアナムチの話はそ
当たり、ますます痛さが身を貫く。そこにオホア
の調停を意味し、ウサギの復活は何らかの意味
ナムチが通りかかり瀕死の兎に、真水で身を洗い
での農業族の復活を意味したのではないだろ
蒲黄(蒲の穂の花粉)に身をくるむという治療法を
うかというのが私たちの推論である。ただし、
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2007 年度 地域文化調査成果報告書
私たちの調べでは、ウサギ族の起源はやはり九
多さから見ても、この場所がいかに、渡来系の人々
州にあり、東限は山陰であろうと考える。その
にとって、重要な場所であったか、ということを
ために、この神話はオホアナムチの東征とから
意味しよう。ただ、663 年の白村江(はくすきの
めて稲羽に置かれたのではないかと考える。
え)の戦い以降、日本の力が朝鮮に及ばず、朝鮮
への航海ルートであった沖の島は封じられたのか
○
もしれない。
北部九州の海民たち
古来、大陸、特に朝鮮からの渡来人が新たな
○
土地を求め、或いは流れ着いたのは、北部九州
隠岐の島
が最も近いことから、最もたやすく考えられる
福岡県の<沖ノ島>は「移動」に関して上述の
地域である。名高い海民には、のちに安曇族や
ように(とくに信仰の上から)重要な位置にあると
宗像族などと呼称される人たちが近い範囲で
考えられるが、特にこの海域は、比較的安定した
活動し航行権を握っていたであろう。それは日
対馬海流が流れており、仮に何らかの不測の事態
本海の黒潮海流とも関係していた(谷川健一、
が起きて、この海流に流されると、日本海側、特
『甦る海上の道・日本と琉球』p12)。こういう
に島根県の隠岐諸島に辿り着いてしまう可能性が
人たちは当初、和邇族といわれたのではないだ
高く、時化(しけ)や天候不順などで対馬海流の流
ろうか。のちに和邇族は、漢字と儒教を伝えた
れに乗り、渡来系の人々が、島根県の隠岐諸島を
とされる王仁を含む功績が付与されるが(『日本
経由して、直接出雲や因幡にやってきた可能性も
書紀』では王仁、『古事記』では和邇吉師(わに
ある、と考えられるし、後の渤海と北陸との交流
きし))、一方で若狭より琵琶湖を経て畿内に入
関係を考えると、直接、半島から山陰を目指す場
り勢力をもつようになる大きな部族である。
合もあったであろう、と考えられる。島根県の隠
岐諸島が、ここに、<オキ(ノ)シマ>という一つ
○
の言葉で福岡県の「沖の島」と結ばれるというこ
沖の島
半島と九州を結ぶ線には玄界灘の「沖の島」が
とは、果たして偶然だろうか。むしろ、<オキ>
位置し、ここには「宗像大社」に関係して、沖津
からやってくる人々、という意味で、<オキノシ
宮(『古事記』では奥津宮)が置かれている(もう二
マ>とは、大陸や朝鮮からの渡来人がやってくる
神、宗像市田島に辺津宮、筑前大島に中津宮、宗
方角にある島、と考えられていたのではないか。
像大社はこの三社の総称)。したがって海民の宗像
もしくは視点を換えて、<オキノシマ>という言
族と特別に関係のあるところであろう。島は北九
葉はそもそも太古の大陸や朝鮮の人々が、大陸と
州と対馬のちょうど中間に位置しており、島のこ
日本の中継点としての目印である島を総称して使
とを口外すると災いを招く、とされた(『不言島(オ
用していたもので、それが日本語として定着した
イワズノシマ)』とも呼ばれていた)。過去の発掘
ものではないのだろうか、とも考えられる。実際
調査では、古代祭祀跡から多数の遺物が発見され、
には島の面積や山陰との関係からいえば隠岐の島
その他にも、弥生時代や縄文時代の遺物もあり、
は「沖の島」より大きく、はるか昔から人々が住
<海の正倉院>とも称されている。この出土品の
んでいたはずであり、海民のよりどころであった
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因幡のシロウサギ神話・東郷の羽衣伝説そして湖山長者
なぜ彼らが移動しなければならなかったかはこの
はずである。
「安曇海人や宗像海人、あるいは鐘崎の海人と
際別種の問題である。あるいは本土側からの要請
いう日本の代表的海人族の発祥の地が、六十キロ
もあったかも知れない。とにもかくにもそういう
足らずの海岸線に集約されているということは、
移動の場合、海人族の世話にならねばならなかっ
そこが黒潮のもたらす、くさぐさの文物の漂着す
たはずである。
るところとして海の幸にめぐまれており、また黒
○『宇佐』嶋とウサギ
潮にのれば遠く山陰、北陸までたやすく進出する
ことのできる地の利を得た場所であることを物語
神代の時代、スサノオとアマテラスの誓約神話
っ て い る 。」(『 甦 る 海 上 の 道 ・ 日 本 と 琉 球 』
において生まれた三女神は、
『宇佐』嶋に降り立つ
pp.12-13)
とある(「日神あれませる三の女神を以ては、葦原
中国の宇佐嶋に降り居さしむ。今、海の北の道の
したがって、「沖の島」が持っていたような機
能は沖ノ島から隠岐諸島に移行したとも、あるい
中に在す。号けて道主貴と曰す」
『日本書紀
第三
は併行して存在したとも考えられる。
の一書』p.74)。梅原猛はこれを、日本から朝鮮へ
米子には前述のように宗形神社が知られてお
行く海北道中にあり、水先案内をつかさどる「道
り、宗像三女神がまつられていて、九州との関わ
主貴(ちぬしのむち)」、つまり「宗像三神がいる三
りで無視できない位置にある。宗像は、宗形だけ
つの島は、宇佐嶋にある」と考え、
「三つの島の神
でなく、本来「胸形」とも記され、殷文化を暗示
を宇佐神という連想も自然に生まれてくる」
する入れ墨の風習と関係があり、王仁氏の後裔と
(『神々の流竄』p.118)いう。彼はそこからウサ
される文(あや)族もまた入れ墨と関係がある。宗
神、ウサギ神そしてウサギという動物に神が変身
像氏の先祖が殷系の海民であったとも想像できよ
することまで想像をふくらませるが、私たちはこ
う。(『青銅の神の足跡』など)
の説を採らない。(その『宇佐嶋』について『日本
書紀』の注では二説紹介している。
「今、海の北の
○
道の中に在す」から、
「はじめ宇佐(大分県宇佐市)
稲作と宇佐族
に降ったが、今は海北道中にいるの意か」である。
大陸から、あるいは半島から直接間接にせよ紀
p.75))その宇佐嶋については幾つか説が
元前に既に稲作がもたらされたわけだが、そうし
(同書
た伝播者を農耕者という意味で兎狭族と呼んだ可
存在するが、そのまま「現在の大分県宇佐市のこ
能性がある。勿論最初からそのような名前であっ
とである」とする捉え方と、
「福岡県宗像市の三島
たかどうかは分からない。かりに半島におけるこ
(沖津宮、中津宮、辺津宮のある島)のことである」
うした人たちを本土から兎狭族ないし宇佐族と呼
という見方がある。あるいは大分の国東半島沖の
称した可能性がある。彼らは対馬海流の自然の流
姫島という説まである。(『神社と古代王権祭祀』
れにそって日本海の広く九州から遠くは北陸あた
所収「宗像大社」)逆にいえば、宗像大社と宇佐神
りまで、多数が新たな土地を求めて到達したであ
宮が対峙するが、宗像と宇佐については混乱があ
ろうけれども、移動するのに農耕族には海を渡る
り、私たちは宗像、ないし沖の島が先であり、宇
術はほとんどなかったと考えるのが自然である。
佐は後付であろうと考える。つまり、宗像大社が
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2007 年度 地域文化調査成果報告書
ま)に兎神と謂ふ。」
意味するものは、古くはワニ族、限定すれば海洋
民族としての宗像族が半島九州間に跋扈し、その
真水で禊ぎをするのはウサギである(禊ぎは神
あとで、農耕を意味するウサ族が話題になり歴史
社に伝承される)。そして、ここにはオホアナムチ
上に顕れたのであろうと考えるわけである。ウサ
の薬効によるヒーリングの力というだけでなく、
ギの何らかの神格化により、あとで沖の島界隈が
大きな「復活」ということが語られていると思わ
宇佐嶋とされたのであろうと考えるわけである。
れる。その復活というのはやはりオホアナムチに
象徴される出雲族によってもたらされたであろう
と考えられる。その意味するところは、農業や職
○ なぜ山陰か
『古事記』の「淤岐嶋」を隠岐の島と解釈するの
能の優遇であり、そのことによって出雲あるいは
は多分に出雲族の存在がこうした流れの中でクロ
山陰が(狩猟民から脱して)栄えたであろうからで
ーズアップされてくるからであろうと考える。宗
ある。ウサギは兎神になるが、これも出雲族によ
像族をはじめとする海民が山陰までその勢力を保
って祀られたものであり、いいかえれば、宇佐族
っていることは当然だが、農耕民や職能族もまた
の復活であり、多分宇佐神宮として海民の影響力
九州から本州の方へ移動したであろうし、また大
の強い九州に位置づけられたのであろうと私たち
陸から山陰へ直接移入されてきたであろう。後者
は考える(宇佐神宮と出雲大社の 神前での拍手
は長い歴史の中で九州ルートのみを考えるよりも
は四拍手で特異)。九州の海民、宗像族に対抗し
自然であり、同時に出雲族の存在によってドラマ
て、大分に宇佐宮を作ることにより、海民との対
チックになり得る。おそらく隠岐の島を経由する
決、あるいはその後の融合・融和を象徴している
ルートで、農耕民が移動し海民との間で悶着があ
と考える。こうして「沖の島」も宇佐嶋とされた
ったであろうことは、一度や二度のことではない
のであろう。つまり私たちは宇佐神宮に関わるこ
であろうし、またあるときは大きな事件として伝
とは後付であり、これはこれで別の神話になった
わっていたかも知れない。その場合、ウサギが皮
のであろうと考える。
ごと剥がされて、瀕死になったということは、農
耕族のある時の壊滅を意味したかも知れないと私
○
結論
たちは考えるわけである。オホアナムチは出雲族
私たちは宇佐族とされる農耕民の移入の東限
の象徴であるが、おそらく山陰においては出雲族
は因幡あたりだと考える。それは主に海流による
がそうした抗争の調停を担当したであろう。
『古事
可能性が大きいが、神話の中で兎の回復だけでな
記』に言う。
く、出雲から出かけて八十神とオホアナムチが稲
「今、急(すみや)かに此の水門(みなと)に往き、
羽の八上比売を得ようとする神話にも象徴されて
水を以ちて汝が身を洗ふ即ち、その水門の蒲黄(か
いると思われる。
『古事記』の「稲羽の素兎」に意
まのはな)を取り、敷き散らして、其の上に輾転(こ
味があると考えるわけである。稲羽が因幡とされ
いまろ)べば、汝が身、本の膚のごと、必ず差(い)え
るについては、幡=秦氏の刻印があるが、やはり
む」と。
かれ、教の如くせしかば、其の身もとの如
職能族も渡来に関しては苦労があり、宇佐族と同
くになりき。此れ、稲羽の素(しろ)兎なり。今者(い
様の扱いを受けたのかもしれない(宇佐神宮は宇
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因幡のシロウサギ神話・東郷の羽衣伝説そして湖山長者
谷川健一
佐八幡ともいわれる)。
『青銅の神の足跡』
リー
海民はその後も活躍し健在した。一般化した農
谷川健一
耕民よりも、各地に海部・和爾・安曇・渥美・安
1995
『甦る海上の道・日本と琉球』
新書
積などとして痕跡を残している。宇佐族たちもそ
内藤正中
れぞれに発展していったであろう。弥生時代の稲
小学館ライブラ
文春
2007
『山陰地域における日朝交流の歴史的
展開』
作の成果は実績であり史実である。しかし、宇佐
報光社
1994
中村栄嗣郎 「伯耆文化研究―No.3」
神宮などに纏わる伝説には、
『古事記』の白兎神話
宗像神社・私考
に見られる、太古の農民・海民の抗争の残滓はも
う消えているであろうと考える。白兎神話のよう
松尾陽吉
なメルヘンの方が、より史実に近いものを如実に
水野祐
『郷土史事典』
森浩一
「結局は私の言う海上の道、潮がどのように岐
名著出版
1980
古代王権と
1995
『図説日本の古代3 コメと金属の時代』
昌平社
れ走り、風がどの方角へ強く吹くかを、もっと確
鳥取県
『出雲世界と古代の山陰』
交流7
包含している可能性がある。
2001
1989
実に突き留めてからでないと断定し難いが、稲を
柳田國男
『海上の道』
最初からの大切な携帯品と見る限りにおいては、
山本清監修 『さんいん古代史の周辺』 上・中・
下
南から北へ、小さな低い平たい島から、大きな高
筑摩書房
山陰中央新報社
1967
1978
い島の方へ進み近よったという方が少しは考えや
すい。」
(柳田國男
『海上の道』
p39)
参考文献
次田真幸全訳註 『古事記』上
梅原猛
梅原猛著作集
集英社
大和岩雄
講談社 1977
『神々の流竄』
1981
『神社と古代王権祭祀』白水社
1989
大林太良 『私の一宮巡詣記』 青土社
岸俊男ほか編
『古代の日本』
4中国・四国
坂本太郎
高見茂
近畿
1970
家長三郎ほか校注『日本書紀』(一)
岩波文庫
関和彦
3九州
5
角川書店
2001
1994
玄松子
宗形神社(米子)項
『新・古代出雲史「出雲国風土記」再
( http://www.genbu.net/data/houki/munakata5
考』
_title.htm)
藤原書店
2001
『輝ける古代山陰』 今井書店 1988
- 61 -
2007 年度 地域文化調査成果報告書
•
伯耆民談記には「南條氏がこの地に城を築いた当
-東郷の羽衣伝説-
竹歳美穂子
羽衣石-地名の由来-
時、「崩岩ノ山(ついえしのやま)」といったが、
北村朱未
その凶名を嫌い、
『拾遺和歌集』の「君が代は元の
羽衣まれに着て、なつとも尽きぬ巌なるらん 」に
今回、私達は因幡の白兎神話の外に、鳥取に固
ちなんで「羽衣石」と改めた。」と記されているが、
有の神話を調査するため、鳥取県中部、東郷・倉
ふるさと歳時記によればもともと「上石山(うえい
吉の地に古くから伝わる羽衣伝説に注目した。江
しやま)」と呼ばれていたとの記述も残っている。
戸時代に書かれた伯耆民談記をはじめとし、文献
•
地名と関連する羽衣伝説
その他にも羽衣伝説には諸説あるが、中でも羽
による羽衣伝説の記述やその舞台についてまずは
衣を奪う男(ここでは猟師)の名が『舎人』
(湯梨浜
紹介していく。
町舎人)、東郷池の浅瀬で水浴びをしていたことに
① 鳥取県の羽衣伝説-伯耆民談記他文
ちなみ天女の名前は『浅津』(湯梨浜町浅津)、2
献による記述と舞台となっている地
人の姉妹の名前は『お倉』と『お吉』(倉吉)、ま
について
た去る母親を追う際、母親が山のせいで見えない
羽衣石山の天女の概要
ため『外道な山だ』と言ったことでその名がつい
•
伯耆民談記、その他の記述によると、「羽衣石
た外道山といったように、打吹山以外にも伝説の
山に舞い降りた天女は羽衣を影向岩にかけ、付近
内容を地名と関連づけて伝えているものがある。
(野津龍
の湧水でミソギをしていたが、その芳りにつられ
て山へ入った農夫に羽衣を奪われ、説得されるま
② 南條氏と羽衣伝説
ま農夫と結婚、2 人の子どもが生まれる。その後
•
羽衣伝説私論)
南條氏の概要
子どもたちが隠され
南條氏は南條貞宗を始祖とする、十代・250 年
ていた羽衣を発見、
間にわたり東伯耆を中心に勢力を拡大した一族で
それを羽織り天女は
ある。始祖である南条貞宗の出生についてははっ
天空へ昇ってしまう。
きり分かっていないが、出雲国守護の塩冶高貞と
残された子どもは母
後醍醐天皇の女官(側室)である弘徽殿三位局の
を呼ぶため周辺にあ
二男だとする説が有力であり、多くの書物がその
る一番高い山で太鼓
説を肯定している。貞宗は 1366 年、羽衣石山に
を「打ち」、笛を「吹
羽衣石城を築城。その後 1615 年、十代元忠のと
き」鳴らした」となっており、またこれが通説と
き関ヶ原合戦で大阪側に加勢し、没落した。
(羽衣石南條記・南條氏盛衰記)
して一番よく知られている。
•
左:影向岩
塩冶高貞
塩冶判官とも呼ばれ、南條貞宗の父親だとされ
- 62 -
因幡のシロウサギ神話・東郷の羽衣伝説そして湖山長者
•
る人物で宇多天皇に連なる宇多源氏、佐々木氏の
南条・加茂姓と賀茂神社
南条氏一族は、九代目元続の時には「加茂」の
流れをくむ。後醍醐天皇に仕えた後、足利尊氏に
仕え出雲・隠岐・伯耆の守護を勤めた。
姓を名乗る記述があるなどし(基本的には加茂姓
(羽衣石南條記・南條氏盛衰記他)
を名乗っている)、南條氏が天女伝説を利用した結
果、この加茂と賀茂神社の賀茂を関連付けて、舞
・
台に姓名と同じ名を冠した賀茂神社が出てくるよ
早田宮御娘妍子弘徽殿三位局
うになったとも考えることはできる。
別称「真覚姫」とも呼ばれる。また元々後醍醐
天皇の寵愛を受けた女性(側室)で、天皇が隠岐へ
(南條氏盛衰記・東伯耆の雄
島流しに処された際もついていき、後に天皇の落
防戦誌)
南条氏
羽衣石城攻
胤(女児)を産んだ。絶世の美女であったとも伝わ
っており、一説には東郷における天女のモデルだ
以上のことから仮定を立てると、
ともいわれ、東郷湖周辺の民間伝承にも伝わって
•
でもあった弘徽殿の逸話が真実だった場合
いる(使用したという箸が残る)。
(羽衣伝説私論・伯州羽衣石伝説資料)
•
南條貞宗の母親とされる、後醍醐天皇の側室
→たまたま南條氏が和歌から羽衣石と名づけ
たことで、周辺に住む村人が逸話を元に思い込
塩冶高貞の妻・天女説
み(想像)で創作した
弘徽殿は、隠岐を脱出した後醍醐天皇のあとを
•
追って西伯耆へ辿り着くが、船上山の合戦の最中
だったため東郷池周辺まで逃れてきた。そこを漁
羽衣伝説が元々東郷・倉吉に存在した場合
→その地域を治める存在として、支配者として
師に助けられ、近くの大百姓に匿われる。そして
の神性を認識させるために利用した
事情を知らない周辺の村人が「天女」だと噂した。
もしくは全てが後付けではないか、といった可
この「天女」の噂を聞きつけた塩治高貞が調査を
能性が浮き上がってくる。謎も多く、論の確定が
させる→後醍醐天皇に関わる女性だと発覚したた
難しい伝説ではあるがまだまだ研究の余地はある
め天皇へ報告した時、天皇は高貞の忠義に打たれ、
と思われ、今後新しく文献や資料が発見されるこ
この女性・弘徽殿を妻にと与えた。
とを願う。
(伯耆民談記)
•
最後に、羽衣伝説を調べるにあたって、私たち
その他、天女が降臨したとされる場所
•
•
ははじめ地元県民としての立場から入ったが、実
倉吉市葵町の賀茂神社境内の井戸-「夕顔
在の人物との関係、地理などを調べる中で「伝説」
の井」といわれ、洗濯した衣を石山に乾か
と「地域」をつなぐ「歴史」の重要性を思い知っ
していたところを村の男に見られてしまっ
た。またこの調査が次へつながっていければと思
たといわれる
う。
倉吉市東町の大岳院境内にある池-このお
・参考:史跡・場所
寺には池の他に羽衣をかけたとされる石も
存在する
(伯州羽衣石伝説資料)
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2007 年度 地域文化調査成果報告書
•
羽衣石山
• 湯梨浜町(旧東郷町)、北流して東郷池に注ぐ
参考:資料・URL
•
伯耆民談記
•
日本地名大辞典 31-鳥取県-
羽衣石川上流部に位置、標高 376M
店
• 南條貞宗が貞治 5 年(1366 年)、羽衣石城を
築いた
1973 年
•
新編倉吉市史
•
東郷町史
角川書
編:竹内理三
1995 年
1987 年
倉吉市
東郷町
編:東郷町
編さん委員会
• 現在山頂には羽衣石城模擬天守がある(写真)
•
荻原直正
•
1960 年
因伯郷土史考
鳥取週報社
著
伯州羽衣石伝説資料
2002 年
行委員会
倉吉市・東郷町実
編:野津 龍
•
羽衣伝説私論
編:野津 龍
•
南條氏盛衰記
南条氏顕彰会
1911 年
編:河本英明
打吹山
•
東伯耆の雄
1992 年
• 倉吉市、市街地の南側に位置、標高 204M
• 延文年間(1356~61)、伯耆国守護山名時氏
の長子師義が打吹城を築いた
南条氏
稲葉庵
•
南條民語集
•
羽衣石南條記
羽衣石城攻防戦誌
編:河本英明
全
因伯書発行所
1931 年
編:佐伯元吉
賀茂神社
• 倉吉市葵町(打吹山付近)、草創は山名家、そ
の後尼子領と成り再興と伝えられる。
白兎神社
• 羽衣伝説の一説に舞台として登場する、天女
が水浴び・洗濯をした、また夕顔の蔓をつ
客員講義
たい天上へ帰ったという夕顔の井戸(清先
香西洋樹
佐治天文台館長(6/15)
の井戸)がある。
石田敏紀
鳥取県立博物館
黒田一正
今井書店
(伯耆民談記)
- 64 -
学芸員(11/16)
編集長(12/14)
因幡のシロウサギ神話・東郷の羽衣伝説そして湖山長者
東アジア文化から見た現代に語られる湖
•
山長者
藤井英男「長者伝説に対する追補」鳥取
民話研究会『因伯昔ばなし-蛇の民話・
伝説特集』第4集 1974 年
石倉朋恵
•
野津龍『因幡伯耆の伝説』第一法規出版
株式会社 1975 年
(指導・豊田)
•
「鳥取城下の伝説と昔ばなし」鷲見貞雄
鳥取にある湖山長者の物語として、現代までに
「湖山長者伝説の一考察」鳥取民話研究
語られているものを読んで、その中から広く東ア
会『因伯昔ばなし-特集鳥取城下の昔ば
ジア文化に関係すると思われるものを考えてみた。
なし、湖山長者伝説の一考察』十集鳥取
読んだ著作は以下の通りである。
民話研究会刊 1977 年
•
•
小泉友賢『因幡民談記』1688 年頃(因伯
渡辺光正『鳥取市内伝説集
辺光正
叢書)
•
東部編』渡
1978 年
鷲見貞雄・片柳庸史「鳥取・因幡西部-
•
安陪恭庵『因幡志』1795 年(因伯叢書)
•
因伯史話會『湖山長者』横山書店 1923
鳥取の伝説」『日本の伝説全 10 巻 47 鳥
年
取の伝説』角川書店 1980 年
•
•
柳田國男「日を招く話」
『妹の力』創元社
日本標準 1981 年
1940 年(『柳田國男集第九巻』筑摩書房
1969 年)
•
佐々木一雄『鳥取縣傳説昔話1
•
•
•
•
本伝説体系
協會 1951 年
み書房 1984 年
林巳奈夫「帝舜考」甲骨学第十号 1964
•
第十一巻
山陰』
みずう
高谷重夫『雨の神-信仰と伝説』岩崎美
術社1984年
村松定孝「湖山長者物語」
『日本伝説 100
•
鷲見貞雄「湖山長者の伝説」鳥取民話研
選』秋田書店 1972 年
究会『因伯昔ばなし-特集鳥取地方の昔
藤井英男「柳田国男と鳥取県の民話伝説」
話・伝説』第 12 集
鳥取民話研究会『因伯昔ばなし-きつね
1986 年
•
の民話、長者伝説特集』第2集鳥取民話
•
再版
野村純一「湖山長者」酒井董美等編『日
荻原直正編『因伯傳説集』鳥取縣圖書館
年
•
渡辺光正『因幡伝説民話シリーヅ
旧鳥取編』普賢堂書房 1981 年
湖山長
者』稲葉書房 1949 年
•
鳥取県小学校国語研究所『鳥取の伝説』
鳥取民話研究会刊
宮田登「民間説話と現代-長者の死」小
研究会刊 1973 年
松和彦「民間説話と伝承社会-雨乞いと
鳥取民話研究会「湖山長者の伝説」
「稲場
生贄の説話を中心に」大林太良編『民話
民談記、柳田國男が紹介した湖山長者」
説話の研究』同朋社 1987 年
•
『因伯昔ばなし-鳥取城下の民話・伝説
野津龍『鳥取県伝説集(上)因幡編』山
陰放送 1989 年
集』第 3 集鳥取民話研究会刊 1973 年
- 65 -
2007 年度 地域文化調査成果報告書
•
•
•
この山に登って日を招いたとされる岩吉の吉山
坂田友宏『-因幡・伯耆の民俗学研究-
神・鬼・墓』今井書店 1995 年
「この長者は長い間、子どもを授かることができ
田邉正利『鳥取の民話・神話・伝説・昔
なかった。そこで、吉見山の近くにある円護寺の
話』2001 年
大日如来に祈って、女の子を授かった。しかしそ
松村一男・渡辺和子編『太陽神の研究』
の女の子が八歳の時、所在が分からなくなった。
リトン社 2002 年
やがて三日の後、喜見山の頂に、その女の子が帝
等である。
釈天に身を変えて現れ去った。そこでこの長者が
私財を投じて、帝釈天を祭る、喜見山の摩尼寺を
湖山長者の物語は、以下のような話を主な内容
創建したと云われる。」
としている。
「この長者は、国中第一の大金持ちであった。長
者はある年、村中の者を集め、一日のうちに全部
田植えを終えてしまおうと考えた。ところが、少
し植え残しが出てしまったので、このことが残念
でたまらず、金の団扇を取り出して、夕日に向か
って三度ばかり招いた。そうすると、日は三段ば
かり戻り昇ってきて、その間に、田植えを全部終
わらせたのである。
このように長者には、天の日月をも招き返すほ
どの福分があったので、何事につけても不可能と
円護寺、立て札に円護寺と摩尼寺、そして湖山
いうことがなかった。
長者との関係が述べられている。
ところが翌年も、長者はまた去年と同じように
植え残しが出てしまったので、同じように金の団
扇を取り出し日を招くと、日はまた三段ばかり昇
ってきた。しかしこのように、天の日月をも招き
返すようなことをしたので、その報いで彼の家運
は忽ち傾き田地は池になってしまったと云う。」
湖山長者が創建したと云われる摩尼寺
日本の各地に幾つかある、日(太陽)を招く長
者の話について、柳田国男は「日を招く話」の中
- 66 -
因幡のシロウサギ神話・東郷の羽衣伝説そして湖山長者
で、この長者は日に仕える宗教の代表的人物と述
が日の出を拝み、日を祭り、また日読みを行った。
べ、宮田登は「民間説話と現代―長者の死―」の
そしてそれに仏教が関与してきて大日如来信仰が
中で、長者は日の出を拝み、日の神を司祭する者
習合したことも、日の出を拝む場所の近くに大日
で、また日読みの機能をもつ者(暦の設置)と述
堂があることから述べている。このことは、先の
べている。つまり、長者は日、即ち太陽を祭る者
日に仕える宗教の代表者と云われる湖山長者が、
ではないかということである。これに関係して鷲
その娘の願をかけたのが円護寺の大日如来であっ
見貞雄は「鳥取・因幡西部―鳥取の伝説」の中で、
たのと一致している。大日如来の大日は、また太
この日を招く湖山長者の目が車輪眼であったと述
陽と関係しているのである。
べている。この車輪眼として、東アジア文化の中
また長者について云われる日読みの機能をも
で特に有名なのは、太陽神とされる「舜(俊)」で
つ者については、
『虞夏書』堯典らによると、先の
ある。林巳奈夫の「帝舜考」や松村一男・渡辺和
舜との間に十個の日を生んだ羲和が、後に人々の
子編『太陽神の研究』などによると、東アジア世
農業を順調にするために東方から出る日を調べ、
界において、太陽神とされる「舜(俊)」は車輪眼
天の運行に従って日や月、星らについて暦を計算
をもつことが有名で、戦国時代における楚の国に
し、これにもとづいて注意深く人々に農耕や収穫
出土した帛書には、舜は「日・月の運行を司る」
の時期を教え授ける暦官になったとあるのと、や
とあり、またこの舜は女神の羲和を妻として十個
はり重なっている。
の日(太陽)を生み、女神の常羲を妻として十二
なお、この日を三段ほど戻す話については、柳
個の月を生むとある。車輪眼は太陽と関係してい
田国男は漢代の『淮南子』覧冥訓にある、日を三
る。
舎ほど戻す話をそのもととして注意している。
そこで、この湖山長者の物語の中において、日
の出や日の運行と関係ある話がないか調べてみた。
そうすると、江戸時代に書かれた小泉友賢の
『因幡民談記』巻之第9・名所之部に次のような
ことが述べてあった。
「雞山は、摩尼寺に行く途中にある。古より、こ
の山に金の雞がいて、その鳴き声を聞く人は福力
を得ると云い伝えられている。唐土にも雞籠山と
いう山があり、その東方の扶桑樹の下に金の雞が
いて、この雞が暁、日の出を告げるとき、これを
十日が枝にかかっている神の樹、扶桑樹
聞いて他の雞どもが鳴くと云う。この雞山の伝説
漢代、湖南省長沙市出土
は、或いは、これらの唐土のことどもに付会した
ものであろうか。」
また宮田登が先の論文の中において、この長者
の代表として「平将門伝説」をあげており、将門
- 67 -
2007 年度 地域文化調査成果報告書
の話だと、摩尼寺の仁王門は久松山の高さに当た
り、夏の朝に掃除をしていると、喜見山の方から
日が昇ってくるとおっしゃっていた。
先の『太陽神話の研究』によると、中国では隋・
唐時代以来、太陽を春分の日に東に祭り、月を秋
分の日に西に祭ったそうである。この日、即ち太
陽が昇る東の喜見山から東西の線を引いてみると、
西の方位は白兎のあたりにあたる。なぜあの場所
に月の兎が出てくるのか、何かこれらと関係があ
るのではないであろうか。
鶏山
これは、日本中にある金鶏伝説の一つであるが、
もともとは元旦の朝に鶏の鳴き声を聞くと福が舞
い込むという民俗伝説から出たとも云われる。
『因
幡民談記』の話は、暁、日の出を告げる金の鶏の
話として、その日が昇ってくる場所は、鶏籠山、
ここでは吉見山に登る所にある鶏山となるが、そ
の東に東アジア文化で有名な太陽が昇ってくる神
写真の真ん中が喜見山、その中腹に摩尼寺、
の樹、扶桑樹を比定している。この扶桑樹は先の
右側が鶏山
十個の太陽が掛かっている神樹である。そうする
と鶏山の東方、即ち喜見山の方位が、そこが日が
昇ってくる場所と考えていたことになる。
この湖山長者がもし日の神に仕える宗教の代
表的な人物であり、日の出を拝み、田植えなどの
農耕のために日読みの機能をもつ者であったなら、
昔、この地域における日の出の観測場所は、この
吉見山あたりであったのではないであろうか。そ
してその喜見山の中腹に長者が建てたという摩尼
寺があり、またその近くにあの日と関係が深い、
昨年の夏に中国の内蒙古師範大学を訪れ、大学
大日如来を祭る円護寺自身もあるのである。
の先生に湖山長者の物語に出てくる団扇について
鶏山を案内して頂いた源平茶屋の坪内清人さん
お聞きした時の様子
- 68 -