伝道礼拝講師紹介 PROFILE 1947 年生まれ。 上智大学大学院哲学研究科哲学専攻修士課程修了。 “日本の思想 におけるキリスト教理解” “個人および人格の宗教哲学的意義” “コミュニケーションお よびセクシュアリティの人間学” などをテーマにした研究のほか、 近年は 「日本人の 死生観」 を考えることで、 その生と死が持つ意味を見つめ直す試みを行っている。 著 書に 『改訂・ケアの時代を生きる』 (単著) 『哲学−看護と人間に向かう哲学』 (共編著) 宗教科 田畑 邦治 (教授) など。 また、NPO法人 「生と死を考える会」 理事長として、 講演や雑誌等への寄稿 ・ 連載も多数ある。 日本人の死生観 ここ数年、 日本の古典を読み直す作業を通じて、 昔の人々の死生観を探ることで、 「日本人の死生観とは何 か」 を問い続けてきました。 「死」 をどのように捉えるかは、 人の感受性や情緒に左右されるところが多いと 私は思います。 そのために、その感受性や情緒を丁寧に学ぶことが死生観を探る意味で重要になってきます。 私たち現代に生きる人間は、 昔の人々と比べその寿命ははるかに長くなっています。 また、 「死」 を医療現 場に隔離したために、 日常において実際の 「死」 を直接的に体験することは極めて稀になりました。 ある意味では、 「生きること」 「死ぬこと」 に対する喜びや悲しみからも疎外されつつあると言っていいでしょう。 他方、 現実以上にバーチャルの世界への依存が強い若者は、 ゲームやアニメ ・ 映画などを介して “悲しみ” のないバーチャルな 「死」 を日常茶飯事に疑似体験しているわけです。 こうした感受性の欠落が 「死生観の 空洞化」 に結びつき、 さまざまな不安や精神病理を引き起こしているようにも思えます。 『古事記』 『万葉集』 『源氏物語』 など日本の古典文学では、 悲しみや喜びが丁寧に描かれています。 特に、 愛するものと別れることの悲しみ、 離別の涙に日本人の死生観の深いところが示されているような気がします。 ちなみに、 『古事記』 においても、 イザナミノミコトに先立たれたイザナキノミコトが悲しみに暮れ、 涙する様 子が描かれています。 これなどは物語上のものではありますが、 日本人のはじめての死であり、 そのイザナ キの悲しみの涙から新しい神 (泣沢女の神) が誕生さえもしています。 そもそもイザナミの死は火の神 (火 の夜芸速男の神) を産み出すことによってもたらされた悲劇でもあり、 この場面でも 「死」 は 「生」 に隣接す る側面を併せ持っていることがわかります。 つまり、 「生」 と 「死」 は表裏一体の関係にあるわけで、 死を悲しみながらも、 その悲しみにはどこか大自 然との一体化、 言い換えれば、 自然の摂理としての 「死」 を受け入れる日本人の死生観の原点が見え隠れ しています。 そこに生ずる悲しみには 「空しさ」 や 「不条理」 といった人生に対する直接の絶望感を見出すこ とはできません。 江戸時代の国学者である本居宣長は、 「もののあわれ (人間の魂の根底から発せられる、 やむにやまれぬ感動)」 に 『源氏物語』 をはじめとする日本の古典文学の本質があると指摘していますが、 日本人の死生観もまた、 日々の意識としての 「もののあわれ」 を大切にする生き方に見ることができるので はないでしょうか。 (白百合女子大学ホームページ http://www.shirayuri.ac.jp/tagblocks/enchante/news/laboratory/0000000281.html より転載)
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