Ⅰ 映像人類学を学ぶにあたって 映 像 人 類 学 ドキュメンタリーの黎明 映 像 に お け る 民 族 誌 性 映像から発見する 映像を読み解く 映像が語りかけるもの 映像表現の多様性 「映像を撮る/撮られる/見る」 を超えるパラダイム ローカルポリティックスに巻き 込まれる撮影の現場 駒 沢 女 子 大 学 文化人類学研究室 1 ミンゾクガクという学問 ミンゾクガクという学問 民族学と民俗学 民族学 → 社会人類学 文化人類学 地球上で生活を営む人びとの生活様式とそ の背景にある価値観を比較し、人間社会の 可能性(多様性)を探ると共に、その変化 を明らかにする学問。 民俗学 農・山・漁村あるいはマチで生活を営む庶民 の生活文化の歴史的展開を明らかにし、 それを通して現在の生活文化を考える学問。 2 民族誌映画史 映像における民族誌性 視覚(残像)的な効果 連続した写真 →コマ 映画 TV (ゲーム) 4 3 映像民俗学 農山漁村・マチで生活を営む一般的な日本人 の生きざまと、その歴史的展開を明らかにし, それを通して現在の生活文化を映像により表 現する学問。 連続した時間をフィルムは、記録していない。 フレームで切り取ること 文化、人間の視点 連続した自然の一部を切りとること 切り取り方に作者の意図がある。→ 文化 フレームを動かすPlayer 映像人類学 人間社会の可能性(多様性)を探ると共に、 その変化を映像をとおして明らかにする学問。 16 →フラップ 24コマ NTSC:30 PAL: 26 Cmpt.Flash 9 1 Ⅱ 民族誌映画の黎明 映像で文化を記録する 民族誌映像の雛形を作り上げた2人 1) Robert Flaherty: Nanook of the North (1922) 78min Man of Aran (1934) 73 min 長期にわたる事前調査と参与観察法を実践した 2) 3) 1-a) Robert Flaherty: Nanook of the North (1922) 78min Dziga Vertov: Man with Camera (1929)68min Enthusiasm (1930)65min 今日のあらゆる映画に関連する映画文法を実験 した。 Merian C.Cooper & Ernnest B. Schoedsack: Grass (1925) 71min この後「キングコング」を制作。文化の異質性の拡大 フラハティが1922年にイヌイット(エスキモー)を題材 として制作した映画。 彼は民族学者ではない。しかし、撮影以前に数年にわた る現地での生活を体験をとおして相互の信頼関係を構築し た後で撮影に臨んだ。一般にフィルムには、「撮影する 者」と「撮影される者」との関係性が滲みでるものである。 <この関係性はあらためて議論する> フラファティは、相手を観察するまえに自分が観察され、 受け入れられる対象になるという信頼関係を構築する必要 性を実践した。さらに、撮影した映画を、撮影された側の 人びとに映写し、相互に批評し解説すること、つまり研究 成果のフィードバックを展開した。これは、現在の民族学 でいう参与観察法を知らぬまに撮影に利用したことことに ほかならない。 その結果、カメラそれ自体も第三の登場人物となって、 未知の人間同士の絆を深める役割をはたしている。厳しい 自然に立ち向かうイヌイット・ナヌークとフラハティとの お互いの協力関係が見事に映像化された秀作である。 1-b) Robert Flaherty: Man of Aran (1934) 73min www.britmovie.co.uk/biog/f/images/005a.jpg www.erbzine.com/dan/flah03h3.jpg 「極北のナヌーク」は、フィルムに現実(実生活の場面)を撮ることで、過 酷な自然と闘う男というテーマを表現した。つまり特定の個人のドラマをしめ すことによって、イヌイットの現実(ありのままの姿)を伝えようとしたので ある。劇映画と同じで、観客が同定できる登場者たちの行為を追いかける表現 手段は、今日の民族誌映像でもよく採用されるものである。このことは、フラ ハティが、その文化の輪郭をくっきりと、カメラの前で示してくれる一人の登 場人物あるいは複数の登場人物たちを選んで、個人的に解釈した個別の文化 (生活)を、画面に構築する方法を展開した、といえよう。 また、フラハティは、今日よくみられるナレーションによって場面の連続 (つながり)をつくりだす映像表現とは異なり、イグール作りの最後のシーク エンスなどのように、一歩一歩場面を見せて、最後に答を見せるといった映像 表現の手法を活用している。 真実を伝えるために、再現されたシーン(つくられた場面)もある。例えば イグールの中に寝ているナヌークたちの場面がそれである。観賞にあたって、 作品中に演出が行われているシーンがあることにも留意する必要がある。 フラハティの作品は数多くない。 Moana(1926), Man of Alan(1934), The land, Louisiana story(1948) フラハティが1934年に制作した映画。 アイルランドの西岸沖のアラン島で1931∼1933年にかけ約1年半この島 に住み撮影をおこなった。 映画は、「アランの男」を登場させ、厳しく、過酷な自然のなかでた くましく生きぬく男とその家族の姿を描いた。映像の記録手法として特 定の人物を登場させ、その人物の個性をもって、生活を語り、文化像を 表現する立場をとった。その結果の見る側との一体感を作りだした。 2 作品では、アラン島の人びとは、漁業と農業を生業する伝統的な 生活を不屈の魂をもって守りぬいているもの、としてとらえ、それ こそが Man of Aran であるとしている。この制作思想は、「出来事 の再現」すなわち「失われゆく文化」の記録へと突き進み、島民の 記憶を頼りに生活の諸相を再現する。 映画では、ウバザメ漁が重要なシーンとして登場してくる。伝統 的な生活では、サメから採った油が必需品であったが、今日では使 用していない。フラハティは一世代前の行われていたこのサメ漁を 再現すべくアラン島民を説得し、作品の主題の一つとしている。 フラファティは、アラン島の文化を映画(彼のイメージ)の中で 再編し、彼の思想の世界観によって作りあげてしまった。そのため 映画には、過度の誇張と彼自身のイメージが投影されている。彼は、 アラン島の生活が孤立し閉鎖していると仮定し、同島の生活の変容 に眼を向けることが十分ではなかった、といえる。この意味で、映 画「 Man of Aran 」は、アラン島の文化を民族学の立場から納得の いく形で描ききった、とはいえない。 2) ジガ・ヴェルトフ ジガ・ヴェルトフの映像理論 1922年からキノ・プラウダ:KINO PRAVDA「真実の映画」運動を展開する。こ の運動は、日常のありのままの姿(真実)を 映像化するとする姿勢。市場、バー、学校で、 隠し撮りなどで人びとの今の生活を映像に固 定する。撮影は、虚飾なく、語りも客観的な 叙述によって、社会の問題点を浮上させる映 像表現をとる(考現学的手法)。 ヴェルトフは演劇的・物語的な演出要素は 「民衆を麻痺させる」ものと考え、虚飾の無 い、つまりありのままの現実の映しだす表現 を追及した。 2-a) ジガ・ヴェルトフ Chelovek s kinoapparatom Man with the Movie Camera カメラを持った男 (1929) 68min 多重露光、ストップモーション、 スローモーション、早回し、移動撮 影など当時の最先端の撮影技法を多 用した先鋭的な作品との評価がある。 Original film poster Man with the Movie Camera 2-b) Dziga Vertov: Enthusiam (1930)65min Poster by Stenbergs Bros. (1929) 3) Merian C.Cooper & Ernnest B. Schoedsack: Grass (1925) 71min. http://www.sensesofcinema.com/contents/directors/03/vertov.html 3 Grassは、観客が具体的で明らかな登場者(レ ポータ)たちの眼をとおしてさまざまな異文化 (忘れられた人びと)との出会いを表現した作 品。その意味では、劇映画の表現と同じで、観 客が異文化と自分との間に横たわる異質性を拡 大することが否めない。 「極北のナヌーク」の作者フラハティは、イ ヌイット文化を明確にしめしてくれる一人の登 場人物あるいは複数の登場人物たちを選んで、 個人的に解釈した個別の文化(生活)を、画面 に構築する方法を展開した。しかし、Grassの作 者クーパーは、トルコの熊芸、キャラバンサラ イなど文化の異質性を強調するオリエンタルリ ズム的な色彩の強い作品としてしあがっている。 この後クーパーは、未開と文明の交差する娯楽作 http://www.iranian.com/DariusKadivar/2006/January/Kong/Images/03.jpg 品「キングゴング」の制作に向かう。 4
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