小泉八雲 - Wikipedia

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小泉 八雲(こいずみ やく
も、1850年6月27日 - 1904年9月26日)
は、新聞記者(探訪記者)、紀行文作
家、随筆家、小説家、日本研究家。東
洋と西洋の両方に生きたとも言われ
る[1] 。
目次 [非表示] 1 経歴
2 年譜
井戸端
3 評価についての論争
バグの報告
5 家族・親族
お知らせ
4 エピソード
寄付
6 系譜
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小泉 八雲
小泉八雲(1889年頃)
誕生
パトリック・ラフカディオ・ハーン
1850年6月27日
ギリシャ王国、レフカダ島
7 記念館
8 作品
8.1 来日以前の作品
8.2 来日後の作品
8.3 ちりめん本
死没
1904年9月26日(満54歳没)
墓地
雑司ヶ谷霊園
職業
小説家
9 著作集
東京都新宿区西大久保
随筆家
民俗学者ほか
10 参考文献
国籍
11 関連項目
日本
活動期間 1894年 - 1904年
12 脚注
13 外部リンク
経歴 [編集]
代表作
『骨董』
配偶者
マティ・フォリー(1875年 -
『怪談』
1877年)
この節は検証可
能な参考文献や出
小泉セツ(1891年 - 1904年)
子供
典が全く示されてい
ないか、不十分で
す。出典を追加して
記事の信頼性向上に
ご協力ください。こ
小泉一雄(長男)
稲垣巌(次男)
小泉清(三男)
親族
小泉凡(曾孫)
ウィキポータル 文学
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のタグは2011年12月に貼
り付けられました。
日本国籍を取得する前の名は、パトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio
Hearn) である。ラフカディオが一般的にファーストネームとして知られているが、
http://ja.wikipedia.org/wiki/小泉八雲[2012/02/10 19:55:47]
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実際はミドルネームである。アイルランドの守護聖人・聖パトリックに因んだファー
ストネームは、ハーン自身キリスト教の教義に懐疑的であったため、この名をあえて
使用しなかったといわれる。
ファミリーネームは来日当初「ヘルン」とも呼ばれていたが、これは松江の島根県立
中学校への赴任を命ずる辞令に、「Hearn」を「ヘルン」と表記したのが広まり、当
人もそのように呼ばれることを非常に気に入っていたことから定着したもの。ただ、
妻の節子には「ハーン」と読むことを教えたことがある。HearnもしくはO'Hearnは
アイルランド南部では比較的多い姓である。「八雲」は、一時期島根県の松江市に在
住していたことから、そこの旧国名(令制国)である出雲国にかかる枕詞の「八雲立
つ」に因むとされる[2] 。
当時はイギリス領であったレフカダ島(1864年にギリシャに編入)にて、イギリス軍
の軍医であったアイルランド人の父と、レフカダ島と同じイオニア諸島にあるキティ
ラ島出身のギリシャ人の母のもとに出生。アイルランド・ダブリンで主に幼少時代を
過ごす。
父が軍医として外地に赴任している間に母が精神を病み故郷に帰国、間もなく離婚が
成立。以後両親にはほとんど会うことなく、肉親に縁の薄い子供時代を送った。
フランス・イギリスで教育を受けた後、20歳で渡米。得意のフランス語を活か
し、20代前半からジャーナリストとして頭角を顕し始め、文芸評論から事件報道まで
広範な著述で好評を博す。
40歳のとき、アメリカ合衆国の出版社の通信員として来日。来日後契約を破棄し、日
本で英語教師として教鞭を執るようになり、翌年結婚。
松江・熊本・神戸・東京と居を移しながら日本の英語教育の最先端で尽力し、欧米に
日本文化を紹介する著書を数多く遺した。日本では『雨月物語』『今昔物語』などに
題材を採った再話文学で知られる。
1904年に狭心症で死去。満54歳没。彼が松江時代に居住していた住居
は、1940年(昭和15年)に国の史跡に指定されている。
ドナルド・キーン、イザベラ・バード、アーネスト・フェノロサ、ヴェンセスラウ・
デ・モラエス、ブルーノ・タウト、アンドレ・マルロー等とならび、著名な日本・日
本文化紹介者の一人であり、日本人にとっても祖国の文化を顧る際の重要なよすがと
なっている。
年譜 [編集]
父はチャールス・ブッシュ・ハーン、母はローザ・カシマティ。生地ギリ
シャ・レフカダ島からラフカディオというミドルネームを付けられた。
父はグレートブリテン及びアイルランド連合王国(現・アイルランド)出身
でプロテスタント・アングロ・アイリッシュである。なお彼が生まれた頃のレ
フカダ島を含むイオニア諸島はイギリスの占領下にあり、父は軍医のイギリス
軍少佐としてレフカダ島 (Lefkada) の町リュカディアに駐在中、地元の同諸
島キティラ島(イタリア語読みではセリゴ島)の裕福なギリシャ人名士の娘で
あるローザ・カシマティと結婚した。
1852年 - 2歳のとき父母は父の家があるダブリンに移住する。
1854年 - 父が西インドに赴任し一人となった母は精神を病み、ギリシャのキティ
ラ島へ帰国。4歳のハーンは父方の大叔母サラ・ブレナン(家はレインスター・ス
クェアー、アッパー・レッソン・ストリート交差点)に厳格なカトリック文化の
http://ja.wikipedia.org/wiki/小泉八雲[2012/02/10 19:55:47]
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中で育てられた[3] 。
1856年 - 6歳のとき父母は離婚し、父は再婚した。
1863年 - 13歳アショウ・カレッジに入学。
1863年 - フランスの神学校に行くも帰国し、セント・カスバーツ校入学。
1865年 - 16歳のとき寄宿学校で回転ブランコで遊んでいる最中にロープの結び目
が左目に当たって怪我をし、視力がなくなる(以後左を向いた写真ポーズを取る
ようになる)。
1866年 - 17歳のとき父は西インドから帰国途中に病気で死亡、大叔母は破産し
た。
1867年 - セント・カスバーツ校退学、ロンドンに行く。
1869年 - 20歳のときにリヴァプールからアメリカ合衆国のニューヨークへ移民船
で渡り、シンシナティに行く。
1872年 - トレード・リスト紙の副主筆。
1874年 - インクワイアラー社に入社。
1875年 - マティ・フォリーと結婚、当時違法だった黒人との結婚だった為にイン
クワイアラー社を退社。
1876年 - インクワイアラー社のライバル会社だった、シンシナティ・コマーシャ
ル社に入社。
1877年 - 離婚、シンシナティの公害による目への悪影響を避け、ニューオーリン
ズへ行く。
1879年 - アイテム社の編集助手。食堂「不景気屋」を経営するも失敗。
1882年 - アイテム社退社、タイムズ・デモクラット社の文芸部長になる。この時
期の彼の主な記事はニューオーリンズのクレオール文化、ブードゥー教など。
1884年 - ニューオーリンズで開催された万国博覧会の会場で大日本帝国、農商務
省の服部一三に会う。
1887年 - 1889年 - フランス領西インド諸島マルティニーク島に旅行。
1889年 - ニューヨークに帰る。
1890年 - ネリー・ブライと世界一周旅行の世界記録を無理やり競わされた女性
ジャーナリストのエリザベス・ビスランド(アメリカでのハーンの公式伝記の著
者)から旅行の帰国報告を受けた際に、いかに日本は清潔で美しく人々も文明社
会に汚染されていない夢のような国であったかを聞かされ、ハーンが生涯を通し
憧れ続けた美女でもあり、かつ年下ながら優秀なジャーナリストとして尊敬して
いたビスランドに発言に激しく心を動かされ、急遽日本に行くことを決意する。
ハーバー・マガジンの通信員としてニューヨークからカナダのバンクーバーに
立ち寄り、4月4日横浜港に着く。
7月、アメリカで知り合った服部一三(この当時は文部省普通学務局長)の斡
旋で、島根県松江尋常中学校(現・島根県立松江北高等学校)と島根県尋常師
範学校(現・島根大学)の英語教師に任じられ、8月30日に松江到着。
1891年1月 - 中学教頭西田千太郎のすすめで、松江の士族小泉湊の娘・小泉セツ
(1868年2月4日 - 1932年2月18日)と結婚する。同じく旧松江藩士であった根岸
干夫が簸川郡長となり、松江の根岸家が空き家となっていたので借用する
(1940年、国の史跡に指定)。その年の11月、熊本市の第五高等学校(熊本大
学の前身校。校長は嘉納治五郎)の英語教師。長男・一雄誕生。
1894年 - 神戸市のジャパンクロニクル社に就職、神戸に転居する。
1896年 - 東京帝国大学文科大学の英文学講師に就職、帰化し「小泉八雲」と名乗
る。秋に牛込区市谷富久町(現・新宿区)に転居する(1902年の春まで在住)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/小泉八雲[2012/02/10 19:55:47]
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1897年 - 次男・巌誕生。
1899年 - 三男・清誕生。
1902年3月19日 - 西大久保の家に転居する。
1903年 - 東京帝国大学退職(後任は夏目漱石)、長女・寿々子誕生。
1904年3月 - 早稲田大学の講師を勤め、9月26日に狭心症により東京の自宅にて死
去、満54歳没。戒名は正覚院殿浄華八雲居士。墓は東京の雑司ヶ谷墓地。
1915年 - 贈従四位。
評価についての論争 [編集]
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東京帝国大学名誉教師となった日本研究者でハーンとも交友があったバジル・ホー
ル・チェンバレンは、ハーンは幻想の日本を描き、最後は日本に幻滅したとした。ま
た、ハーンが英語で発表した作品は同時代の日本では知られず、本格的に日本語に翻
訳・紹介されたのは大正末期からであり(第一書房『小泉八雲全集』など)、「天皇
制を肯定、日本人独自論を提唱」しているハーンの著作は、戦前の日本ナショナリズ
ムを補完するものとして受け止められた。
ハーン研究者でもある比較文学者の平川祐弘はチェンバレンの説に反対して、チェン
バレンはハーンとの友情を破り、冷たい頭で日本を描いたが、ハーンは日本を愛し暖
かい心で日本を描いたとした。しかしやはり比較文学者の太田雄三はこれに反論し、
『B・H・チェンバレン』(リブロポート)や『ラフカディオ・ハーン』(岩波新
書)で、ハーンは日本の過去を美化しすぎており、チェンバレンは学者として正確な
日本像を描こうとしたのだと反論した。また、ハーン礼讃はナショナリズムの現われ
ではないかとしてハーンのオリエンタリズムを批判する論者、あるいは「神々の国の
首都」を書いたハーンが、明治期天皇制を日本古来のものと勘違いしたと指摘する者
もいる(福間良明『辺境に写る日本』)。
また、平川・太田と同じ研究室(東大大学院・比較文学比較文化)出身の小谷野敦は
著書『東大駒場学派物語』において、近年のハーン肯定論者の多くが同研究室の関係
者であることを指摘している。
平川も『ラフカディオ・ハーン』(ミネルヴァ書房)で、ハーンの筆致に一部誇張が
あったことを認めているが、現代の日本での支持は高い。三島由紀夫等も、川端康
成との書簡の中でしばしば、引用している。
1904年の著作『Japan-An Attempt at Interpretation』は、太平洋戦争中、アメリカの
対日本心理戦に重要な役割を果たしたとされる。当時のアメリカ軍准将であり、ダグ
ラス・マッカーサーの軍事書記官・心理戦のチーフであったボナー・フェラーズ(英
語版)は、当時のアメリカが利用できる、日本人の心理を理解するための最高の本で
あったと述べたという[4] 。
エピソード [編集]
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16歳のときに怪我で左眼を失明して隻眼となって以降、白濁した左目を嫌悪し、
晩年に到るまで、写真を撮られるときには必ず顔の右側のみをカメラに向ける
か、あるいはうつむくかして、決して失明した左眼が写らないポーズをとってい
る。
アメリカで新聞記者をしていたとき、「オールド・セミコロン(古風な句読
点)」というニックネームをつけられたことがある[5] 。句読点一つであっても一
切手を加えさせないというほど自分の文章にこだわりを持っていたことを指して
いる。
英語教師としては、よく学生に作文をさせた。優秀な学生には賞品として、自腹
で用意した英語の本をプレゼントしていた。
アメリカ在住中に勤勉が習い性になり、日本では学校教育の傍ら14年間に13冊の
本を書いた[6] 。
日本名「八雲」については「音読みにするとハウンになる」こととの関連を指摘
されることが多い。この説は古くからあったようで、教え子の田部隆次は早稲田
大学の委嘱で書いた伝記「小泉八雲〜ラフカディオ・ヘルン〜」の中でわざわざ
「八雲はハウンに通じるという考えは少しもなかった」と明記している。
東京帝国大学では学生の信望が厚く、解任のときは激しい留任運動が起きた。川
田順は「ヘルン先生のいない文科で学ぶことはない」といって法科に転科した。
後年この話の真偽を尋ねられた川田はそれが事実であると答え、後任の夏目漱石
についても「夏目なんて、あんなもん問題になりゃしない」と言った。
私生活では三男一女をもうけ、長男にはアメリカで教育を受けさせたいと考え自
ら熱心に英語を教えていた。
非常に筆まめであり、避暑で自宅を離れている間、あとに残った妻セツに毎日書
き送った手紙が数多く残されている。ハーンは日本語がわからず妻は英語がわか
らないため、それらは夫妻の間だけで通じる特殊な仮名言葉で書かれている。
妻セツは日本語が読めない夫のリクエストに応じて日本の民話・伝説を語り聞か
せるため、普段からそれらの資料収集に努めた。彼女以外の家族・使用人・近隣
住民、また旅先で出会った人々の話を題材にした作品も多い。
著作の原稿料にはこだわっていたが貯蓄にまったく関心がなく、亡くなった当時
小泉家には遺産となるものがほとんど残っていなかった。当時小泉家には妻の親
類縁者が多く同居しており、著述業と英語教師としての収入はほぼ全額彼らの生
活費に充てられていた。
もともと強度の近視であったが、さらに晩年は右目の視力も衰え、高さが98セン
チもある机を使用して紙を目に近づけランプの光を明るくして執筆を行った。
コオロギの一種クサヒバリの鳴き声の美しさを讃えた。
八雲生誕の、ギリシャのレフカダ島の詩人公園には、日本の松江と新宿から贈ら
れた八雲の像がある。
八雲の縁で、レフカダ(出生の地)と新宿区(終焉の地)、ニューオーリンズ市
と松江市がそれぞれ姉妹都市になっている[7] 。
家族・親族 [編集]
妻 セツ(島根県士族小泉湊の娘、第七十五代出雲国造千家俊勝の次男千家俊
信(国学者)の玄孫)
長男 一雄
同妻 喜久恵
同長男 時
http://ja.wikipedia.org/wiki/小泉八雲[2012/02/10 19:55:47]
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同長男 凡
次男 巌(教師、母セツの養家であった稲垣家を継ぐ)
同妻 ミドリ(青森県、医師種市良一の娘)
(ミドリ夫人の実家・種市家について )
同長男 明男
同長女 八重子
同次女 京子
三男 清(画家。1962年2月21日にガス自殺)
同妻 シズ
長女 寿々子
系譜 [編集]
小泉家
『列士録』によれば、初代の小泉弥右衛門は“本国近江(現在の滋賀県)、生
国因幡(現在の鳥取県)”の侍だった。はじめ、讃岐丸亀藩四万五千石の藩主で
ある山崎治頼に仕えて家老を務めていた。しかし明暦3年(1657年)山崎治頼が
嗣子なくして没して除封となり、代わってかつての松江城の主・京極忠高の甥に
して養子の高和が入封するに及んで、弥右衛門は丸亀を去って江戸(現在の東
京)に出た。翌年の万治元年(1658年)、弥右衛門は、江戸で出雲松平家の祖で
ある松平直政に召抱えられ、初めは使番(つかいばん)、後に二十名の徒(足
軽)を統率する者頭(ものがしら)を務めた。その後、小泉家は二代目弥右衛門
が五十人の士分の侍を統率する番頭(ばんがしら)を務めて以来、代々セツの父
八代目弥右衛門に至るまで、一定期間者頭ないしそれに準じた役職を務めた後、
番頭(ばんがしら)に進んでおり、また、嫡子には家督相続と同時に組外(くみ
はずれ)という格式が与えられている。この格式は、直接ほかの侍の采配下に入
らないことを意味し、『雲藩職制』の編者が“一国中の貴族”と表現した上士に
限って与えられた待遇だった。ただし家禄は、一雄や田部隆次が記した五百石は
誤りと見做すべきで、『代々御給帳』・『列士録』・『旧藩事蹟』等古文書は一致
して三百石だったことを示している。小泉八雲・セツ夫妻の孫に小泉時(エッセ
イスト、2009年7月8日死去)、小泉閏、稲垣明男、種市八重子、佐々木京子、
曾孫に小泉凡(学者、島根県立島根女子短期大学准教授)がいる。
セツの母方の祖父・塩見増右衛門は歌舞伎『天衣紛上野初花』の河内山のモデル
となった人物[要出典]。
(乙部)
乙部次郎兵衛━━小泉岩苔
┃
┣━━━━━━小泉湊
┃
┃
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)
小泉真種 ┏女
┃
┃
┣━━━╋女
┣━━━━セツ
┏千家俊信━━━━━━清
┗女
┃
┃
┃
┃
┃
┃
塩見増右衛門━━チエ
┃
┏千家尊福
┃
┃(80代出雲国造)
┗千家俊秀━━━━千家尊之━━━千家尊孫━━━千家尊澄━━━┫
(76代出雲国造) (77代出雲国造)(78代出雲国造)(79代出雲国造)┃
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小泉八雲 - Wikipedia
┗千家尊紀
(81代出雲国造)
記念館 [編集]
小泉八雲旧居(ヘルン旧居、島根県松江市) - 国の史跡
小泉八雲記念館(島根県松江市)
焼津小泉八雲記念館(静岡県焼津市)
作品 [編集]
Category:小泉八雲も参照のこと。
来日以前の作品
[編集]
飛花落葉集 (Stray Leaves from Strange Literature) 1884年
ゴンボ・ゼーブ ("Gombo Zhèbes") 1885年
クレオール料理 (La Cuisine Creole: A Collection of Culinary Recipes) 1985年
中国怪談集 (Some Chinese Ghosts) 1887年
チータ (Chita: A Memory of Last Island) 1889年
ユーマ (Youma, the Story of a West-Indian Slave) 1890年
仏領西インドの二年間 (Two Years in the French West Indies) 1890年
来日後の作品
[編集]
知られざる日本の面影 (Glimpses of Unfamiliar Japan) 1894年 - 鳥取のふとんの
話、日本人の微笑、他
東の国より (Out of the East) 1895年
心 (Kokoro) 1896年
仏陀の国の落穂 (Gleanings in Buddha-Fields) 1897年 - 人形の墓、勝五郎の転生、
他
異国風物と回想 (Exotics and Retrospectives) 1898年
霊の日本にて (In Ghostly Japan) 1899年
影 (Shadowings) 1900年 - 和解、死骸にまたがる男、他
日本雑録 (A Japanese Miscellany) 1901年 - 守られた約束、破られた約束、果心居
士のはなし、梅津忠兵衛、漂流、他
骨董 (Kotto) 1902年 - 幽霊滝の伝説、茶碗の中、他
怪談 (kwaidan) 1904年 - 耳なし芳一のはなし、むじな、ろくろ首、雪女、他
日本―一つの解明 (Japan: An Attempt at Interpretation) 1904年
天の河綺譚その他 (The Romance of the Milky Way and other studies and stories)
1905年
ちりめん本
[編集]
長谷川武次郎が刊行した日本昔噺シリーズ (Japanese Fairy Tales) のうち、5作品が
八雲によるもの。
猫を描いた少年 (The boy who drew cats) 1898年
化け蜘蛛 (The goblin spider) 1899年
団子をなくしたお婆さん (The old woman who lost her dumpling) 1902年
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小泉八雲 - Wikipedia
ちんちん小袴 (Chin Chin Kobakama) 1903年
若返りの泉 (The Fountain of Youth) 1922年
著作集 [編集]
平井呈一訳 『小泉八雲作品集』全12巻、恒文社、1964年 - 1967年。数冊が新装版
として刊行されている。
西脇順三郎 / 森亮監修『ラフカディオ・ハーン著作集』全15巻、恒文社、1980年
- 1988年。
西川盛雄 / アラン・ローゼン共編(平井呈一訳・小泉凡挿し絵)『対訳小泉八
雲作品抄』、恒文社、1998年9月。ISBN 4-7704-0984-2
平井呈一訳 / 写真ジョニー・ハイマス『面影の日本』恒文
社、1999年3月。ISBN 4-7704-0989-8
佐藤春夫訳『尖塔登攀記 小泉八雲初期文集 外四篇』恒文社、1996年6月 ISBN
4-7704-0878-1
参考文献 [編集]
太田雄三『ラフカディオ・ハーン―虚像と実像』(『岩波新書』新赤版336)、岩
波書店、1994年5月。ISBN 4-00-430336-2
牧野陽子『ラフカディオ・ハーン 異文化体験の果てに』(『中公新
書』1056)1992年1月。ISBN 4-12-101056-6
小泉時・小泉凡編『文学アルバム小泉八雲』、恒文社、2000年4月。ISBN 47704-1016-6
ジョナサン・コット(真崎義博訳)『さまよう魂―ラフカディオ・ハーンの遍
歴』、文藝春秋、1994年3月。ISBN 4-16-348890-1
西川盛雄 / アラン・ローゼン共編(平井呈一訳・小泉凡挿し絵)『対訳小泉八雲
作品抄』、恒文社、1998年9月。ISBN 4-7704-0984-2
小泉節子 / 小泉一雄 『小泉八雲 思い出の記・父「八雲」を憶う』、恒文
社、1976年2月。
平川祐弘『ラフカディオ・ハーン 植民地化・キリスト教化・文明開化』
(<MINERVA歴史・文化ライブラリー3>)、ミネルヴァ書房、2004年3月。ISBN
4-623-04044-5、
梅本順子監修・解説『西洋人たちの語ったラフカディオ・ハーン: 初期英文伝記集
成』復刻集成全4巻+別冊解説、エディション・シナプス、2008年12月。ISBN
978-4-86166-102-0
工藤美代子『夢の途上 ラフカディオ・ハーンの生涯<アメリカ編>』、集英
社、1997年2月。ISBN 4-08-774247-4
工藤美代子『聖霊の島 ラフカディオ・ハーンの生涯<ヨーロッパ編>』、集英
社、1999年10月。ISBN 4-08-774431-0
工藤美代子『神々の国 ラフカディオ・ハーンの生涯<日本編>』、集英
社、2003年4月。ISBN 4-08-774643-7
関連項目 [編集]
富山大学:『ヘルン文庫』
日本の面影:NHKドラマ、舞台
山田太一:NHKドラマ『日本の面
http://ja.wikipedia.org/wiki/小泉八雲[2012/02/10 19:55:47]
ウィキメディア・コモンズに
は、小泉八雲に関連するメディ
アがあります。
小泉八雲 - Wikipedia
影』の原作と脚本。
ジョージ・チャキリス:NHKドラマ『日本の面影』小泉八雲役
風間杜夫:舞台『日本の面影』小泉八雲役
松岡正剛 『おもかげの国 うつろいの国』 :NHK人間講座(2004年)
渡辺京二 『逝きし世の面影』
(2005年)
: 葦書房(1998年)、平凡社ライブラリー
果心居士
セント・マロ
日本の史跡一覧
神戸文学館
出雲国造
脚注 [編集]
1. ^ 平川祐弘 『小泉八雲とカミガミの世界』 文藝春秋、1988年、132頁。
[ヘルプ]
2. ^ 『増補新版文学アルバム小泉八雲』 小泉時・小泉凡、恒文
社、2008年、105頁。セツの養祖父・稲垣万右衛門が『古事記』にある日本最古の
和歌からとって名付けた、とある。
3. ^ この経験が原因で、少年時代のハーンはキリスト教嫌いになり、ケルト原教のドル
イド教にはまるようになった。
4. ^ John W.Dower,Embracing Defeat,1999,page280-281、ジョン・ダワー、「敗北を
抱きしめて」、岩波書店、2001年、下巻、8ページ
5. ^ 『増補新版文学アルバム小泉八雲』 小泉時・小泉凡、恒文社、2008年、51頁。
6. ^ 平川祐弘 『小泉八雲とカミガミの世界』 文藝春秋、1988年、126頁。
7. ^ 姉妹提携情報
外部リンク [編集]
- 自治体国際化協会
小泉 八雲:作家別作品リスト
- 青空文庫
Hearn, Lafcadio, 1850-1904 (Project Gutenberg)
ラフカディオ・ハーン・データベース
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小泉八雲
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松岡正剛 『千夜千冊』【0007夜】 ベンチョン・ユー 『神々の猿』
ディオ・ハーンの芸術と思想」についての論考
- 「ラフカ
島根ゆかりの文学者 小泉八雲
遠田研究室 :遠田勝の研究室サイト
遠田勝、2011、『〈転生〉する物語―小泉八雲「怪談」の世界』、新曜社 ISBN 978-4788512429 ASIN 4788512424 .
カテゴリ: 小泉八雲
日本研究者
日本の小説家
日本の随筆家
明治時代のお雇い外国人
イギリスのジャーナリスト
http://ja.wikipedia.org/wiki/小泉八雲[2012/02/10 19:55:47]
日本の民俗学者
アイルランドの小説家
東京大学の教員
早稲田大学の教員
小泉八雲 - Wikipedia
熊本大学の教員
日本に帰化した人物
アイルランド系日本人
ギリシャ出身の人物
イギリス系日本人
ギリシャ系日本人
隻眼の人物
ダブリン出身の人物
1850年生
1904年没
最終更新 2012年2月9日 (木) 10:35 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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