エドモンド・ネメシュ神父 (1926年5月27日~2011年8月19日) 9 月 3 日、プタペストで行われた葬儀ミサでのネメシェギ神父の説教 より わたしがネメシュ神父に初めて会ったのは1944年、ブタペストのイエズス会修練院に入ったときでした。 彼は、金髪の、元気あふれる若者でした。イエズス会で共に生活をする間に、彼は若い時のいろいろな話をして くれました。彼は、グヨールに生まれ、ブタペストのシトー会の学校で学びました。熱心なボーイスカウトの隊 員になり、貧しい家庭の子どもたちのグループを作りました。その時、はじめて貧しい人々の生活に関心を持ち、 彼らのために働く労働司祭になろうと考えたのです。17歳の時、結核にかかり、手術を受けました。手術が終 わるころ、一人の医者が「この子はすぐに死ぬよ」というのが聞こえました。エドが死と出会った最初の時でし た。しかし、幸いなことに、医者の見立ては間違いだったことがわかり、エドは完治しました。 修練の二年間は大変でした。ハンガリーにも戦争が及び、ブタペストの街は破壊され、国はソ連軍に占領され ました。 戦争が終わると、わたしたちは哲学の勉強のためにセゲドの町へ行きました。もっとキリスト教的なハンガリ ーを建設しようと希望を抱いていましたが、共産党の支配が始まり、キリスト教に対する迫害が始まりました。 修道会は禁止され、関係の建物は接収されました。こうした状況の中で、イエズス会総長は、ハンガリーで司祭 職への準備の勉学が続けられない若い会員は西側世界に脱出するよう決定しました。 国境を超えるのは大変危険に満ちていましたが、ネメシュとわたしは何とかオーストリアへ逃げることができ、 他のハンガリア人会員とともにインスブルックにたどり着きました。エドとわたしは、総長に、宣教師として日 本に派遣してくれるよう手紙を書きました。返事がすぐに送られ、総長はわたしたちの願いを聞き入れてくださ ったのです。エドはすぐに日本に行き、日本語を学ぶように、そして、わたしはまずローマに行って神学を終え るように、その後、エドと合流するようにとのことでした。1949年のことでした。 わたしはジェノアまでエドのお伴をし、日本に向かう船を探しました。一便が見つかりましたが、突然、ロー マから電報が届き、エドは、日本語学校の始まりに間に合うように、飛行機で行くようにという指示でした。 その時以来、わたしたちは別の道を歩むことになります。後に、エドは言いました、日本語学校での最初の日々 はきつかったと。先生方は英語で教えましたが、エドは英語を知りませんでした。気が狂ってしまうのではと感 じたようです。その時、エドは祈りました、 「主よ、ここでわたしはおかしくなります。それでも、それを受け 入れます」と。こう祈ると、すべての恐れが消え、平安が心を満たしました。しまいには、エドは、英語も日本 語も上手になり、イエズス会学校で日本の生徒に英語を教えることができるようになったのです。 1年学校で教えた後、エドは神学を学ぶためカナダのトロントに派遣されました。1955年に司祭に叙階さ れ、日本に戻ってから六甲学院と栄光学園でそれぞれ英語を教えることになります。 エドは全精力を仕事に注ぎました。生徒に英語を教えるだけでなく、キリスト教の手ほどきをし、家族を訪問 し、生徒一人一人に心をかけました。仕事は大きな実を結びました。しかし、彼はそれで満足しませんでした。 彼は、日本の貧しい人々の中で働きたかったのです。しかし、貧しい人々のもとに向かう代わりに、エドは東京 のイエズス会神学院の院長に任命され、4年間院長を務めました。その後、鎌倉や東京の家を拠点に司牧活動に 従事しました。 1 エドの活動は日増しに増え、修道女の養成コースを企画したり、修道会の養成担当者のコースを指導したりし ました。CLC の教会助言者になったり、霊操の指導をしたり、若いカップルのための結婚講座を開いたり、聖 書や日々の霊操の手引書を書いたりしました。 しかし、こうした活動のすべては1981年、癌の発現で中断されました。エドは手術を受けました。そして、 この病気は自分のすべてを神に完全に委ねる、二度目の機会となったのです。幸い癌の進行は食い止められ、以 前と同じように働くことができたのです。 エドは1986年、ついに東京の貧しい地域で働く許可を徔、刑務所の教誨士として、また、障害児をもった 親の相談に乗る仕事を始めました。そして、1992年、共産主義の抑圧から解放されたハンガリーを訪れ、ラ ホス・バリン大司教に会うと、ルーマニアのグラフェヘヴァルの教区神学校で霊的指導をするよう要請を受けま した。そこの神学生はすべてルーマニアにいる少数派のハンガリー人だったのです。長い祈りと識別の後、エド はこの依頼を受け入れる決断をしました。これは、日本を離れる大きな犠牲を意味するものでしたが、エドはそ れを受け入れたのです。 ルーマニアで3年働いた後、エドはハンガリーに戻りました。そこで目にしたのは、共産主義体制のもとで徹 底的に破壊された活動を再開しなければならない、ハンガリー管区の大きな課題でした。エドは、ブダペストの 家の長上となり、また、管区長秘書になりました。それに加えて、エドは、さまざまな修道会の若い会員や霊的 指導を求める信徒を対象に司牧活動を再開しました。また、セメルワイス医科大学で熱心な教官となり、病者へ のケアについての講座を担当しました。さらに、かつて日本語で書いた書物をハンガリー語に翻訳し出版しまし た。 年齢を重ねるとともに、エドは次第に優しくなり、人々のことをよく理解し共感するようになりました。彼が 院長を務めた家に10年過ごしましたが、皆彼を愛するようになりました。 2007年、新たな病気に襲われます。珍しい肺の病でした。呼吸するだけでは十分な酸素を吸収できなくな り、終日、酸素ボンベを使わなければならなくなりました。そのため、当然、活動の幅が制限されましたが、エ ドは、これを神様と人々とより親しく接する機会であるとして受け入れました。そして、老いることについて2 冊の本を書きましたが、いずれも好評でした。 ついに、衰弱が著しくピリフォロスヴァルの老人ホームに入ることになりました。そこでも、エドは、見舞い に来る人の話に耳を傾け、よく話しました。そして、助を借りて、霊的指導について書いた本をハンガリア語に 翻訳していました。 しかし、状態は日増しに悪化し、入院が必要になりました。医者は肺の手術を試みましたが、手術の後、回復 することはありませんでした。亡くなる2日前の8月17日、 わたしはご聖体を持ってゆきました。聖体拝領をした後、手を伸ばしてわたしの手をつかみました。これが最後 のお別れだと感じました。翌日の夜、管区長が聖体を持ってゆきましたが、19日の朝、神様はこの忠実なしも べをみもとにお呼びになりました。 亡くなる少し前、エドは、死はよりよい、幸せな世界への第二の誕生だと信じると書いていました。信仰は少 しも揺るぎませんでした。永遠の幸せが与えられますように。 ペトロ・ネメシェギ 2
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