一席 青い目の人形とパスポート 中川 あかり

一席
青い目の人形とパスポート
京都女子中学校三年︵京都府︶
中川 あかり
私は茶道クラブに入り、三年目になる。週一回のクラブ活動だが、
先生からお点前の手ほどきを教えていただくことを、とても楽しみ
にしている。なぜなら私には、一つの夢があるからだ。それは、茶
道を通じて、世界の人々と出会い、日本の素晴らしさを伝えたいと
いう夢だ。この夢は、祖父の話を聞いてから、益々強く思うように
なった。
る華やかな凱旋門の話、カナダの雄大なナイアガラの滝の話⋮と、
まだ見たことのない世界中の話を、祖父たちは熱心に聞き入ったそ
うだ。そしてある時、校長先生は、校長室の戸棚の奥の方から、一
体の人形を取り出したそうだ。その人形は、金髪に華やかなレース
のドレスを身につけており、空のように青く澄んだ目をしていた。
そして、人形には、﹁パスポート﹂という聞き慣れない紙が添えられ
ていて、
﹁ここには、マーガレットという人形の名前が書いてあるのだよ。﹂
と、校長先生が教えてくださったそうだ。その時、祖父は不思議に
思ったそうだ。なぜ、人形が校長室の戸棚に、大切に保管されてい
るのだろうと。すると校長先生は、話を続けた。
﹁この青い目の人形はね。昭和二年、アメリカの親日家宣教師シド
ニー・ギューリックという人が、日米親善のために日本の子どもた
ちに贈ってくださったものなんだよ。一万体あまりの人形を全国各
地の小学校に贈ってくださったんだ。そしてこのパスポートはね。
た話、そして時にはこれから私が歩むべき道の話。祖父の話は尽き
その時、祖父は、目の前にある青い目の人形とパスポートが、大層
い。君たちは世界にはばたく人材になるんだぞ。﹂
人形一体ごとに添えられたものなんだよ。いいかみんな、世界は広
ることなく、私はそんな祖父の話を、お茶席で聞くことが大好きだ。
大事なものなんだということを感じたらしい。昭和十五年のことだっ
私は、祖父と一緒に住んでいる。祖父と私は、月に一回のお茶会
を楽しみながら、色々な話をしている。時には祖父が仕事で経験し
その中で、先日、祖父は﹁青い目の人形とパスポート﹂という話を
た。
あれから六十六年。祖父の小学校で同窓会があった。祖父が建て
替えられた真新しい小学校に出向くと、玄関のショウケースになん
も、敵国から来た人形として、無残にも廃棄された。
その翌年、日本は、太平洋戦争が始まる。戦争は、敵国から来た
すべてのものを廃棄した。そして、あの青い目の人形とパスポート
した。私は、その話を聞き、夢への誓いをさらに強くしたのだ。そ
れは祖父が子どもの頃のお話だった。
祖父が目にした﹁青い目の人形﹂は、祖父が通う小学校の校長室
に置かれていた。祖父がまだ一年生の頃、出会った校長先生は、時
間があると、子どもたちに、世界中の話をしてくださったそうだ。
ある時は、アメリカの広大なジャガイモ畑の話、フランスパリにあ
と、あの青い目の人形とパスポートが飾られていたのである。祖父
は驚いた。聞くと、あの時の校長先生が、未来の子どもたちのため
にと人形を隠し、今に生き残ったそうだ。
その人形の姿は、レースのドレスや、人形の頬が多少黒ずんでは
いるものの、あの時と変わらない空色の青く澄んだ目をしていた。
そしてその人形の脇には、
﹁ マ ー ガ レ ッ ト﹂と 英字 で 書 か れ た パ ス
ポートが添えられていた。
祖父が過ごした六十六年の間に、日本はすっかり平和になった。
身の回りを見ると、世界各地から届けられた物があふれている。あ
の時、祖父が校長先生から聞いた世界中の話は、今現実のものとな
り、校長先生が未来の私たちのためにと残してくださった﹁青い目
の人形とパスポート﹂は、平和の架け橋になった。
私は、祖父からこの話を聞き、私にもできると。日本の伝統文化
である茶道を通じて、世界の人々と出会い、平和の架け橋になるん
だという夢を強く思った。宣教師シドニー・ギューリックから校長
先生へ、校長先生から祖父へ、祖父から私へ、そして私から世界へ。
夢は必ず叶うと信じて、一席一席、精進していきたいと思う。﹁青い
目の人形とパスポート﹂のように。