The Kunsten Festival des Arts, making Brussels a center generating

国際交流基金 The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
Presenter Interview
2008.2.29
プレゼンター・インタビュー
The Kunsten Festival des Arts, making Brussels a center
generating new trends in contemporary art
現代アートの潮流を生み出す震源地
ブリュッセルのクンステン・フェスティバル・デザール
Profile
クリストフ・スラフマイルダー
Christophe Slagmuylder
1967 年ブリュッセル生まれ。ブリュッセル
自由大学(ULB)にて現代芸術史を学んだ後、
国立高等視聴覚学院(ENSAV)の教師となる。
94 年よりベルギー人振付家ミシェル・ノワ
レ、ピエール・ドウルレ、トーマス・ハート
のカンパニーや、ローザス主宰の振付家アン
ヌ・テレーザ・ケースマイケルが設立した舞
踊学校「P.A.R.T.S.」などにおいて制作とし
て関わる。ブリュッセルの小劇場テアトル・
レ・ラヌールの芸術監督アシスタントを経て、
ベルギー・ブリュッセルで毎年 5 月に開催される現代舞台芸術フェスティバル「ク
ンステン・フェスティバル・デザール」。先鋭的なプログラムで知られ、若手アーティ
スを発掘し、国際共同制作に力を入れ、世界初演がプログラムの約半数を占めるなど、
世界のフェスティバル・ディレクターが注目するアンテナ・フェスティバルとなっ
ている。日本の岡田利規もここから世界に羽ばたいたクンステン・フェスティバル・
デザールの 2 代目芸術監督、クリストフ・スラフマイルダー氏にその歩みと今後の
展望を聞いた。
(聞き手:相馬千秋 2007 年 12 月 18 日 於:国際交流基金)
2002 年にクンステン・フェスティバル・デ
■
ザールのプログラム担当となり、芸術監督フ
リー・レイセンの右腕として活躍。06 年フ
リー・レイセンの引退に伴い、フェスティバ
ルの芸術監督に就任。
クンステン・フェスティバル・デザール
Kunsten Festival des Arts
http://www.kfda.be
ベルギー・ブリュッセルで毎年 5 月に開催さ
れる。パフォーミングアーツを中心とした現
代アートフェスティバル。先鋭的なプログラ
ムで知られ、世界の現代アート界のアンテナ
フェスティバルとも称されている。ヨーロッ
パ演劇のメインストリームをいくフランスの
アヴィニョン・フェスティバルとは対称的
に、より実験的な作品および世界の多様性を
反映する独自のプログラミングを目指してい
る。ベルギー国内はもとより、ヨーロッパ全
域、さらには芸術支援インフラに乏しい発展
途上の国々におよぶ世界の若手アーティスト
を独自に発掘し、多くの作品プロデュースを
行なっている。また、
長期的視野に立ってアー
ティストの育成を図るため、複数年にわたり
共同制作を行なうと同時に、ベルギーやヨー
ロッパに拠点を置く実力派アーティストの新
作を製作し、世界に先駆けて発表している。
世界のパフォーミングアーツの潮流を生み出
す震源地の一つとして、確かなブランド力を
持つ。プロデュース公演と共同製作公演が、
プログラム全体の 50 パーセントを超え、世
界初演が約半数を占める。2006 年を最後に
立ち上げから芸術監督を務めてきたフリー・
レイセンが引退。それまで女史の右腕として
プログラミングを担当してきたクリストフ・
スラフマイルダーが芸術監督を引き継ぎ、今
後の変革に注目が集まっている。
──まずクンステン・フェスティバル・デザール(以下 KFDA)が成立した背景に
ついてお伺いします。KFDA の初回開催は 1994 年ですが、その前年には EU が発
足しその本部がブリュッセルに置かれると同時に、ベルギーが連邦制を導入するな
どブリュッセルを取り巻く社会状況が大きく変化した時期でもありました。こうし
た社会状況の変化とフェスティバル誕生にはどういった関係があったのでしょうか。
KFDA は、1994 年、フリー・レイセンによって設立されました。彼女にとって、
ブリュッセルに先鋭的な国際フェスティバルが存在することは極めて重要でした。
当時のブリュッセルは欧州の「首都」としての国際的な地位を確立しようとしてい
るにも関わらず、文化面では他の欧州の大都市に比べて遅れていました。また、フ
ランス語圏(ワロン地方)とフラマン語圏(フランドル地方)という二つの共同体
によって分断されているベルギーにおいて、ブリュッセルは、国内で唯一、両方の
言語が公式に使用されている都市であるという特殊な事情もあります。昔からベル
ギーでは、文化的な活動は完全にそれぞれの共同体に属するものでした。それぞれ
の共同体に文化省があり、助成金システムも劇場もそれぞれの共同体に属している
わけです。
KFDA では、2 つの共同体が唯一共存しているブリュッセルにおいて、この分断
の構図を少しでも壊し、どちらの共同体の市民に対しても開かれた、また国際的な
アーティスト、ブリュッセル在住のアーティスト、そして両方の共同体のアーティ
ストと共に行うフェスティバルを目指しました。また財政面においても、当初から
両方の共同体からの資金導入を行い、KFDA はどちらか一方の共同体のためのフェ
スティバルではなく、ブリュッセルのための、ブリュッセルにおける国際フェスティ
バルなのだ、ということを強く主張しました。もちろんこれは多くの困難を伴う作
業で、毎年のように政策決定権を持つ人たちとの戦いを強いられます。
というのも KFDA は、フランス語圏のフェスティバルだ、あるいはフラマン語圏
のフェスティバルだと政治的に宣伝することができないフェスティバルですから、
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行政的にはとてもやりずらいどちらにも属さないシステムの外にあり、決して政治
的な判断を優先しないわけですから。今となっては KFDA は国際的にも有名なフェ
スティバルとなって、行政側もその存在を軽視することはできなくなっていますが。
現代アートの潮流を生み出す震源地
ブリュッセルのクンステン・フェスティバル・デ
ザール
──ということは、つまり、フリー・レイセンはこの「欧州の首都」という政治的
コンテクストの中でフェスティバルのアイデンティティを確立しようと意図したと
いうことですか?
そうとも言えるし、そうではないとも言えます。フリー・レイセンは常々、ブリュッ
セルは文化面および思想面においての野望に欠ける都市だと考えていました。EU の
発足は、まず何よりも経済のプロジェクトに過ぎない。フリー・レイセンが望んだ
のは、ブリュッセルが単に EU の行政首都になる、ということではなくて、知性と
文化の欧州首都になるということでした。ヨーロッパの中心部に位置し他の大都市
からもアクセスしやすい、という地理的条件は、規模だけ見れば他の大都市に比べ
て小さいブリュッセル(人口 100 万人)に、多くのことをもたらしてくれたのは事
実でしょう。
またブリュッセルは、ベルギーにおける二つの共同体間の緊張関係の中で、ベル
ギーという国のアイデンティティについて考えざるを得ない場所でもあります。ベ
ルギーは 1830 年に発足したばかりの新しい国であり、また独立前も後も常に周辺
国から占領されてきた歴史がある。ドイツやフランス、イギリスといった欧州のほ
かの大国のように伝統的で強い文化的アイデンティティは持っていない。「ベルギー
のアイデンティティ」といったときに、何か判然としない、明確には定義できない
感じがする。しかし、そのことが逆に面白いというか、だからこそ多くのことが可
能となるわけです。重厚な遺産がないからこそ、ベルギー、特に今日のブリュッセ
ルでは、過去や伝統にしがみつくのではなく、未来に向って開かれた精神の場を持
つことができる。このことは、ベルギーの芸術状況にも顕著に現れています。
小国ベルギーでこの 30 年間、現代芸術のすべての分野で、極めて豊かな状況が
続いています。そして、このようなコンテクストの中で新しいフェスティバルがブ
リュッセルに誕生したことは決して偶然ではないと思います。つまり精神が開かれ
ているということ、そして国家としての強いアイデンティティの欠如、文化的ブラ
ンド力の欠如が、逆にアバンギャルドなプロジェクトを後押ししたのではないかと
思うのです。アバンギャルドという表現は的確な言葉ではないかもしれませんが、
新しい芸術形式・言語を擁護する場として、こうしたコンテクストは欠かせないも
のだったと思います。
──ベルギーでは 80 年代から、ヤン・ファーブル、ヴィム・バンデケイビュス、ヤ
ン・ローワース など、フラマン語圏出身のアーティストが大勢、国際的に活躍して
いましたね。こうしたアーティストたちのコミュニティは、アントワープにあった
のですか?
アントワープだけなく、ブリュッセルでも活動をしていました。ヤン・ローワー
ス率いるニードカンパニーやローザスなどは当時からブリュッセルに拠点を置いて
いました。
── KFDA の創設者フリー・レイセンは、92 年まで自らが立ち上げたアントワープ
の De Singel の芸術監督を務めていました。
そうです。De Singel の設立経緯は、KFDA とはまたまったく別で、しかも面白
いんです。De Singel はもともと、芸術学校(コンセルヴァトワール)として計画
され、生徒たちのために作られた巨大で技術的にもハイスペックなホールがありま
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した。彼女は最初、そのホールのコンシエルジュ(管理人)として採用されたんで
す(笑)! 彼女は、このホールがとにかくベルギー国中でも類を見ないほど素晴
らしいホールで、これがアーティストのために強力な道具となると感じた。そこで
行政や政治家に掛け合い、この場所を世界中からアーティストを招聘し作品を発表
できる場にするよう説得したんです。当時ベルギーにはこれほど大きな舞台やハイ
スペックな技術機構を持つホールは他になく、ここならば、ベルギーで唯一、ピナ・
バウシュなど世界的カンパニーの大規模な作品を上演できる、と。彼女はとことん
戦って、もともとコセルヴァトワールとして計画された場を国際的なアートセンター
にしたのです。
今日でも De Singel には学校としての機能と、アートセンターとしての機能が
ありますが、それはまさにフリー・レイセンの意志とアイディアによるものです。
80 年代初頭まで、ベルギーにはほとんど世界的アーティストはいませんでしたが、
De Singel の存在はまさにその誕生にも大きく貢献しました。例えばヤン・ファー
ブルも De Singel の恩恵を受けた一人です。De Singel という世界に直結した強力
な場所で、世界のほかの偉大なアーティストの作品と平行して作品を発表し、創作
活動を行っていた時期があります。このように 80 年代から 90 年代にかけて、De
Singel はベルギーのアートシーンにとってまさに「灯台」のような象徴的な場だっ
たのです。
──なぜ彼女は De Singel を辞めて、ブリュッセルに新しいフェスティバルを立ち
上げようとしたのでしょうか。
彼女は常に変革を望み、ある地位に安住して状況が固定化することを好まない人
です。De Singel で 10 年間にわたって様々なことを実験し発展させた上で、その場
を次の世代に譲り、自分は次なることに着手しようとしたのです。彼女は De Singel
を辞めてから少しして、本当に自分がやりたいことは、国際的な野望に欠けるブ
リュッセルで、先鋭的なフェスティバルをすることだと思い立ちました。このプロ
ジェクトのアイディアを得てから彼女は 2 年をかけて、ようやく第一回のフェスティ
バル開催を実現しました。92 年に De Singel を辞めて、94 年が KFDA の第 1 回です。
──クリストフさんは KFDA が始まった 90 年代初頭はどんな活動をしていたので
すか? そしてどういった経緯で 2002 年よりフリー・レイセンと共に働くことに
なったのでしょうか?
もともと大学では現代芸術史を勉強して、卒業後は教員としてブリュッセルのエ
コール・シュペリュール(高等教育機関)で授業を持っていました。それと平行し
て舞台芸術の現場では多くのダンス・カンパニーの制作やアドミニストレーターも
やりました。アンヌ=テレーザ・ドゥ・ケースマイケルの学校 PARTS でも働いて
いました。生徒たちによる特別公演を企画したり、卒業後の進路カウンセラーをし
たり。そんな中で KFDA のフリー・レイセンと出会い、2002 年に彼女から一緒に
プログラムをやらないかという誘いを受けました。
彼女は 94 年当初から一人でプログラムを作ってきましたが、私と出会う頃には、
プログラムを変革し、もっと先に進むために、アイディアを交換できるパートナー
が欲しいと考えていたようです。どんなフェスティバルにもそれまでやってきたこ
とを見直し、問題提起をする節目となる時期があるのでしょうが、フリー・レイセ
ンにとっては KFDA ができて既に 8 年が経ち、ブリュッセルを取り巻く状況も設
立時から大きく変化している中で「我々は続けるべきか? 続けるのならばどのよ
うに?」という問いを、誰かと一緒に問い直す必要があったのです。こうして私は
2002 年よりフリー・レイセンのパートナーとして働き始め、彼女と私のコラボレー
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ションは、彼女がフェスティバルを去る決断をするまで発展・継続しました。
彼女は 2006 年を最後にフェスティバルを去ったわけですが、そもそもディレク
ター任期の設定があるわけではなく、しかも彼女自身が創出したフェスティバルを
このような形で辞任するのは異例のケースかも知れません。KFDA はいかなる公的
権力からも独立していて、もともとはフリー・レイセンという一個人の独立したイ
ニシアティブによって生まれたフェスティバルです。もちろん国からの支援はもらっ
ていますが、行政が彼女にブリュッセルにフェスティバルを設立するよう依頼した
わけではない。ですから彼女が望めば留まることができたのでしょうが、彼女はこ
の KFDA というプロジェクトの更なる発展のために次世代に引き継ぐことを選んだ
のです。
──フリー・レイセンが KFDA を立ち上げたときは、彼女はたった一人だったので
すか? それともアドミニストレーターなど別のコラボレーターはいたのでしょう
か?
コ・ディレクターがいました。ギィドー・ミン という、90 年代のベルギーのカ
ルチャーシーンにおいて重要な人物です。彼は 1994 年の第一回開催から、彼が
2000 年ブリュッセルの欧州文化首都のためフェスティバルを去るまで、財政面や運
営面を担当するジェネラル・ディレクターを務めていましたが、芸術的な面でもフ
リー・レイセンを助けていました。
──クリストフさんが KFDA のチームに合流する以前は、このフェスティバルを外
部からどのように見ていましたか? 何か新しいムーブメントのようなものを感じ
ていましたか?
1994 年の第一回開催は、とにかくブリュッセルでのアートライフにとって、重
大な事件として受け取りました。第一回から、国際的なアーティストと地元ブリュッ
セルのアーティストがプログラムされ、中には非ヨーロッパ圏のアーティストも紹
介されていました。例えば中国、香港、台湾の、現代芸術をやっているアーティス
トがプログラムされていたのですが、当時こうした国々から伝統芸術ではなく現代
的表現が紹介されることは極めて稀なことでした。また、地元のアーティストによ
る新しい形式の表現のクリエーションを促し、こうしたアーティストが国際的なコ
ンテクストの中で作品を発表することを促しました。ブリュッセルないしベルギー
で活動するアーティストたちの視点と、国際的なアーティストたちのもっと幅広い
視野を同じ場で取り上げること。また地元のアーティストの作品を海外のプロフェッ
ショナルに見てもらう機会としても重要でした。
さらに、フランス語圏とフラマン語圏の関係でいうと、KFDA は自前の上演会場
を持っていないため、公演ごとに会場となる劇場やスペースと協働しなければなら
ないのですが、フランス語圏とフラマン語圏両方の劇場やアートセンターが会場に
なるというのは、当時は極めて稀なことだったんです。そもそもフランス語圏とフ
ラマン語圏の劇場やアートセンターは、2 つのまったく異なるサーキットに属して
いて、お互いまったく相手のことを知らなかったし、知り合う理由もありませんで
した。つまり知り合うことの相互的なメリットもなかった。双方にそれぞれ助成機
関があり、それぞれの観客がいて、劇場のプログラムだって自分たちの言語でしか
書いていないわけです。芸術を取り上げるメディアもすべてフランス語圏、フラマ
ン語圏に完全に分かれているわけで・・・今となっては少し変わってきていますが、
90 年代当時は完全に分かれていました。テレビもフランス語圏放送とフラマン語圏
放送に分かれていて、文化情報など必ずしも同じ話題を取り上げる必要はないわけ
だし……。
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──とはいえ学校教育では、もう一方の言語を学ぶんですよね?
確かにもう一方の言語は第二外国語としてかなり早い段階から必修科目になって
います。けれど、2 つの言語が公用語として指定されているブリュッセル以外の国
内のほとんどの地域では、もう一方の言語を話さなければならない状況はほとんど
ありません。
行政機関が分かれ、完全に分断されたこのような状況は実に驚くべきものですが、
KFDA がどのように受け取られていたかという先ほどの質問に答えるならば、まさ
に、この 2 つの分断されたコミュニティ双方に属する劇場のディレクターが集まり、
同じ議論のテーブルについたということだけでも、大きなインパクトを持つ事件だっ
たといえます。現在、状況は大きく変化し、他方の言語の作品を上演したり、翻訳
字幕をつけたり、プログラムも 2 カ国語で表記する劇場が増えてきましたが、これ
は 90 年代にはまったくもって想像も出来ないことでした。ですから KFDA は、人々
がブリュッセルという都市の中をより開かれた形で行き来し、共にとらえなおして
いくことに大きく貢献したといえるでしょう。
──これだけ KFDA が二つのコミュニティの共存に貢献したにも関わらず、最近の
ベルギーの政治状況たるや…!(笑) 二つのコミュニティの対立はさらに鮮明なも
のとなり、新政府が発足しないという非常事態が数カ月続きました。この矛盾した
状況をどうお考えですか?
一番深刻なのは、今日の政治状況が、民主的な選挙によって選ばれた政治家たち
によって生まれているという点です。国内では、特に北部フラマン語圏の経済的に
とても豊かな地域で、北部=フラマン語圏と、南部=フランス語圏の分離を支持す
る動きが高まっています。これは何よりも経済的な理由によるものなんです。非常
に複雑な話になりますが、これまでお話したように文化については行政組織が言語
圏ごとに完全に分かれていますが、例えば社会保障といったいくつかの行政分野で
は、省はひとつしかありません。これらさえも分離し、各言語圏の権限を強めよう
とする動きが高まっているのです。これは私たちのフェスティバルが試みてきたこ
ととは相容れない考え方です。またこうした事態はブリュッセルという都市にとっ
ても深刻です。というのもブリュッセルは、フランス語圏でもフラマン語圏でもなく、
ワロニー、ブランドルという二つの地方とならぶ、都市圏として独立した行政区と
考えられているため、二つの言語圏が分離してしまったら、どこにも属さないこと
になってしまう。
それでも厚生、税、社会保障といった分野でさえも行政機関を分離しようという
動きは強まる一方です。その理由は、最も裕福な北部の人々が、他の地域、そもそ
も自分たちと同じ言語すら話してないやつらのために税金を払い続けるのはもう御
免! ということなんですが…(苦笑)。非常に深刻な状況です。
欧州の首都として国境を開いていこうという理念のすぐ横で、こんなちっぽけな
領土の中でさえ合意できず、逆に国境を閉ざしてその境界を定義しようとする、ま
すます小さくなろうとする動きは、実に恐ろしいものです。文化的統一感の中に安
住し、経済的な快適さのために他者の文化に対する不寛容を増大させるという……
実に憂慮すべき状況です。
──そして、ブリュッセルにはもうひとつのコミュニティ、移民コミュニティが存
在していますね。
そのとおりです。私が芸術監督になって最初のフェスティバルは 2007 年ですが、
もちろんこれまでの路線を継承し、その哲学を基礎としながらも、少しずつ私自身
の個人的な色も出していきたいと考えました。そのためにはフェスティバルのコン
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セプトやミッションを再定義し、新しいボキャブラリーを投入することが重要でし
た。2007 年は、
「アーバン(都市的な)
」
「コスモポリット(国際的な)
」なフェス
ティバルである、という言葉を断固として使いました。私にとっては、フランス語圏、
フラマン語圏という問題の外側では、都市は極めてコスモポリタンであり、その中
には実に多くのコミュニティが存在している。しかもこうしたコミュニティは単純
に共通言語によってだけでは定義することができず、近くに住んで同じ趣味を持っ
ているとか、興味の中心が同じとか、インターネットで繋がっているとか、そうし
た形でコミュニティはますます多様化していると思います。ですから単純に言語と
いうことではなく、ブリュッセルや東京のような大都市において、多くの異なるコ
ミュニティが交錯している。私たちが支持したいのは、まさにこうした「コスモポリッ
ト」な状況に対するヴィジョンです。そしてこれらの異なるコミュニティが共存し、
それぞれが殻の中に閉じこもるのではなく、互いを知りあうことが重要だと言える
こと。例えばチャイナタウンなどは都市の中で孤立した「ゲットー」を形成していて、
もちろん家族的な雰囲気を保ちたいという意図も分かりますが、私たちが面白いと
思うのは、むしろそれぞれコミュニティが、その差異を携えながらも出会うときの
衝撃、対峙というものなのです。
──それでは、いよいよクリストフさんがディレクションされた 2007 年以降のフェ
スティバルにフォーカスしていきたいと思います。まずは基本的な情報からお伺い
します。まずフェスティバルの運営組織ですが、非営利団体(アソシエーション)
の形態をとっていますね。団体の理事はどういった方々ですか?
理事は、文化や思想のジャンルの人物たちで、全員ベルギー人です。やはり理事
の構成もフランス語圏、フラマン語圏両方のバランスには気をつけていまして、プ
レジデント(理事長)も二人います。彼らは皆、政治からは完全に独立した人物た
ちです。政治中枢とのパイプ役は果たしてもらえないかも知れませんが、逆に政治
的な圧力からは一切自由であるという点で、非常に良いと思います。理事会は年に
4 回ほどしか開催されませんが、彼らは一種のコントロール機関として機能してい
ます。彼らは決してプログラムに介入したり、私に何かするよう強制したりはしま
せんが、私がプログラムを発表する前には相談して意見を聞いたりできる貴重な人々
です。また毎年フェスティバルが終わった 6 月には、一緒にフェスティバルの総括
をして、評価にも立ち会ってもらいます。ですから理事会は私にとって、コントロー
ル機関であると同時に、貴重なレフェランス(拠りどころ、参照すべきもの)でも
あるのです。1994 年の設立当初にフリー・レイセンが集めた人物もいますし、その
後新しく加わった人もいます。
──次に事務局チームについて伺います。芸術監督のクリストフさんに対して、ア
ドミニストレーションを統括するコ・ディレクターがいらっしゃいますよね?
はい、ロジェ・クリストマンといって、財政面やアドミニストレーションを担当
するコ・ディレクターがいます。この共同ディレクション体制は非常に貴重なもので、
彼がファンドレイズや各プロジェクトの組織運営に集中してくれるおかげで、私は
芸術面のプログラムに集中することができます。彼は私より早く 2001 年からチー
ムに入り、私と彼の共同ディレクションは公式には 2006 年 6 月からです。
── 2 人のディレクターのほかに、常勤スタッフは何人いますか?
この質問は、本当に答えるのが難しいですね。9 カ月、10 カ月の間業務をお願い
している人たちもいますが、彼らは 100 パーセントの常勤スタッフではないにして
も、期限つきの雇用契約に基づいて働いてもらっています。常勤スタッフとして、
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つまり無期限の雇用契約のもとに働いているのは、私とロジェを含めて 6 名ですね。
加えて 4 名が、9 カ月ないし 10 カ月間働いています。以上の 10 名が、フェスティ
バルの核となるスタッフです。そのほかに、多くの短期雇用スタッフがいます。彼
らは 1 月、2 月からフェスティバルの終わる 5 月まで働いています。
── KFDA といえば、フランス語、フラマン語、英語の 3 カ国語で書かれた分厚い
プログラムや、観劇前に配られるプレスリリースのテキストの量と質が素晴らしい
ですね。また海外演目の字幕も完全にフランス語・フラマン語の 2 カ国語対応にし
ていらっしゃいますが、こうした膨大なテキスト作業はどのように行っているので
すか?
まずプログラムの出版やウェブサイトの編集は、核となるメンバーの一人が責任
をもって行っています。彼女がすべての情報を集めて、アーティストにもコンタク
トをします。プログラムなどの執筆は、フリーランスの人に依頼したり、一部のテ
キストは私自身が書いたりで、彼女、私、フリーランスが執筆編集チームを結成し
ています。ここでまたもや言語の問題があるんですが(笑)、私たちのすべての出版
物は 3 カ国語対応なので、フランス語とフラマン語のフリーランスを雇用して、英
語は翻訳家に別途依頼する形をとっています。
作品の字幕については、ずいぶん前から、ある一人の翻訳家とコラボレーション
をしています。彼は舞台字幕専門の翻訳家で、他のフェスティバルにも字幕を提供
したりしています。国際フェスティバルですから海外のアーティストが使う多様な
すべての言語に対応しなければなりません。日本語、ポルトガル語、クロアチア語
などなど、とにかく言語が多様です。そこでまず先ほど言った一人の翻訳家に相談
して、彼がそれぞれの言語ができる翻訳家を見つけてくる形をとります。また、ど
の作品も可能な限りオリジナルの言語からの翻訳を心がけていますから、とにかく
膨大な作業量です。さらに字幕の映写については、その位置や舞台装置との関係性
についてアーティストと直接、徹底的に話し合うようにしています。時には、初日
前に何度も字幕つきのリハーサルをお願いする場合もあります。例えば岡田利規さ
んの時は、日本以外の国で上演されるのがはじめてだったため、字幕あわせに多く
の時間を要しました。こういった膨大な作業は、国際フェスティバルとしての選択
でもあるのです。観客が外国語の作品をより多くの方法で理解できるよう努力する
ことは、国際フェスティバルとして重要です。
──次に予算について伺います。KFDA は、他のヨーロッパの大規模フェスティバ
ルに比べると、財政的には「ひかえめ」ですよね(笑)。
はい、
「ひかえめ」です。(笑)フェスティバルの総予算は、2,700,000EURO(=
4 億 3200 万円 /1 ユーロ= 160 円)です。そのうち基礎的な運営費が 50 パーセ
ント弱です。フェスティバルの総予算の半分以上は作品など芸術面の制作費にあて
られるように努めています。この芸術面の制作費のうち、また大部分を共同制作に
支出できるように努めています。というのも、私たちのフェスティバルの大前提が、
クリエーション型のフェスティバルであるからです。もちろん既に出来上がった作
品を招聘することもありますが、プログラムの半分以上は、我々も制作に参加して
支援した新作です。ですからこうした芸術面での支出が総予算のかなりの割合を占
めてきます。
──共同制作については後ほど詳しくお伺いしますが、KFDA では経営面、財政面
でのストラテジーはありますか?フェスティバルを発展的に存続させていくための
基本となる考え方や実践があったら教えてください。
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まず先ほどから申し上げているように、フランス語圏、フラマン語圏の両サイド
から資金を導入すること。これは KFDA にとって普遍的な大前提であり、もしどち
らか一方からの資金が途絶えたら、我々はフェスティバルを中止しなければなりま
せん。それほどこの問題は我々の存在そのもの、存在意義に関わっていることです。
フランス語圏、フラマン語圏双方の文化省とは複数年に渡る契約を結んでいます。
フランス語圏との契約が 5 年、フラマン語圏との契約が 4 年で、それぞれ更新可能
な契約です。この契約では、5 年間、あるいは 4 年間、毎年同じ金額が保障されて
います。契約の最終年度には、過去 5 年ないし 4 年の成果を提出した上で、今後ま
た 5 年間、4 年間で展開したい事業を提案し、次の契約金額を交渉します。この 2
つの助成金がフェスティバル運営の基礎的な財政基盤となっており、このほかには、
複数年にわたる支援を保障する助成金は受けていません。2 つの文化省からの助成は、
総収入の 60 パーセント近くを占めています。
──この 2 つの文化省は、プログラムの内容に介入したりはしないんですか?
プログラム内容への介入はありません。しかし、私たちと文化省の間の関係は、
いわゆる契約に基づいているわけですから、4 年ないし 5 年にわたるミッションや
目標を定義し、それを実行に移さなければなりませんし、評価についても、毎年、
評価報告書を提出します。財政的な評価に加え、批評なども掲載した内容面の評価
も必要です。また 4 年ないし 5 年後には、複数年度をまとめた大掛かりな評価レポー
トと、次なる 4 年、5 年の方向性を示す資料を提出します。これは KFDA に限らず、
ベルギーで国からの助成を受ける大規模なカンパニーやアーティストたちに対して
も同様です。
──カンパニーも国と 4 年、5 年タームで契約するのですか? 複数年度支援は芸
術団体にも適用されるのですか?
はい。これは良いシステムですよね。特にフラマン語圏では、すべてのカンパニー
が同じ時期に契約更新となるため、国にしても、4 年後の国内の芸術状況を想像し、
長期的な視野にたって選択することができるという利点があります。事業ごとに助
成金をばら撒くのではなく、きちんと全体を俯瞰して助成対象を決めることができ
る。
──いいですね。ぜひ日本の文化庁にも、こうした複数年度の契約に基づく補助金
システムを提案してください(笑)。国からの助成の他にはどういう収入源があるの
でしょう?
国以外の助成は、基本的に単年度です。ブリュッセルが属する「地方」
、それから
ブリュッセル市。他にも単年度で申請する助成金はありますが、確実に獲得できる
保障はなく、申請可否の結果を知らされるのもフェスティバルの直前、あるいは終
わった後の場合もあります。
また 2008 年からは、初めて EU からの 5 年契約の助成金を獲得しました。これ
は KFDA を含む 6 つのフェスティバルの共同プロジェクトに対する助成です。ロッ
テルダム、リスボン、エストニア、ヨーテボリ(スウェーデン)、ボルドー の各フェ
スティバルがパートナーです。彼らと共に、これから 5 年間に渡って共同制作のプ
ロジェクトを実施していきます。KFDA はこの 5 つを牽引するリーダーの役割を担っ
ており、我々が対 EU の窓口を努めています。
以上のような公的資金導入に関しては、だんだん天井に達しつつあるというか、
これ以上の増額は望めないという印象をもっています。ですから少しずつ、民間財
団からの資金導入も検討しています。ただしベルギーでは民間財団はまだまだ十分
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に機能していない領域ですし、またその資金導入については慎重でなければならな
いと思っています。というのも、私はやはり芸術文化への支援は誰よりも公共が果
たすべき役割だと思っているからです。
また、そもそもフェスティバルの規模をこれ以上大きくしたいのかという議論も
必要でしょう。過去数年、KFDA では入場者数(チケット売り上げ数)が 2 万から 2.5
万人に達し、特に過去 4 回は大成功を収め、全演目の動員率も 90 パーセントを超
えています。これ以上観客を増やすことを望むのか、大規模な作品をやることを望
むのか、議論が必要です。もちろんこれ以上小さくなりたくはない、ということは
明白ですが。あとは、先ほども申し上げたとおり、オリジナルの作品創造のための
資金を充実させていきたいとは思っていますが、フェスティバルの規模については、
これ以上大きくなるべきかどうか疑問にも思います。3 週間に 30 作品という現状が
ちょうど良いと思っていますし、そもそも 100 万人しか人口のいないブリュッセル
で、たとえ海外からも多くの観客が来てくれているとしても、それ以上の集客ポテ
ンシャルがあるのか。例えば演目数を 2 倍の 60 演目にして動員数を 5 万人にする
ことがいいのかどうかは疑問です。やはり自分たちのフェスティバルにふさわしい
枠組みというものを見定めることが大切です。
──次に、共同制作について伺います。KFDA はなぜ共同制作をするのか、KFDA
にとって共同制作とは何を意味するのか、その背後にある哲学とはどのようなもの
か、お聞かせいただけますか。
まずフェスティバルをするには 2 つの方法があると思います。1 つは、ショッピ
ングバックを携えて世界中で作品を見て周り、面白い作品をピックアップしてフェ
スティバルの枠で紹介すること。それはそれで素晴らしいことだし、実際 KFDA で
も一部のプログラムはこれで成り立っています。もう一方で、フェスティバルは、
アー
ティストが新たな作品を創造し発表するのを支える役割も担っていると考えます。
ですから KFDA では、比較的作品を創造・発表する機会が少ないアーティストにこ
そそうした機会、方法を差し出したいという意識が強くあります。例えばフォーサ
イスやローザスは、KFDA でも何度も紹介していて常に私たちの興味をひきつける
素晴らしいアーティストたちですが、今、必ずしも彼らの制作にフェスティバルが
支援する必然性はない。一方でまだそれほど有名でない若手アーティストが新しい
作品にチャレンジすることを、共同制作という形で間接的に支援していくことはフェ
スティバルの大きな存在意義といえます。
共同制作には 2 つの側面があります。ひとつは純粋に財政的な側面、つまりフェ
スティバルがお金を出資=投資するという側面です。二つ目は内容面において、フェ
スティバルがそのプロジェクト、その作品に対して内容面で支えるという側面です。
我々が共同制作をする場合、まず大前提としてそのアーティストに何度か会ったこ
とがあり、彼のそれまでの作品も観てきて、彼との信頼関係が築けていることがあ
ります。私たちは彼を信じ、彼が作品を作ることを心から支えたいと思う。この信
頼関係によって、アーティストとの間に盛んなコミュニケーションが生まれ、その
アーティストの現状や今後について相談を受けたり、時にはリハーサルに立ち会っ
て意見を求められたり、時には他のアーティストとのコラボレーションについてア
ドヴァイスをしたりすることにも繋がるわけです。ですから共同制作には財政的な
面だけではなく、芸術的および精神的な支えという意味での内容面と、2 つの側面
があります。
共同制作に参加するということは、時にまだ自分が一度も見たこともない作品を
観客に向かって紹介することになりますから、それなりの勇気や覚悟が必要だし、
また観客に対しても説明責任が生じます。それはリスクでもありますが、そのリス
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クを観客とも共有することが必要です。もちろん観客もそのことは理解していて、
共同制作の作品はある種の好奇心をかきたてる、どんなものか分からないなりの楽
しみ方、発見をしてくれていると思います。共同制作の場合、これまでの何度か
KFDA で紹介してきたアーティストばかりですから、前の作品との連続性の中から
そのアーティストへの好奇心が高まるとも言えるでしょう。
──共同制作を提案する場合、まず他のフェスティバルや劇場など他の共同制作パー
トナーとの連携が必要ですし、誰がどのタイミングで共同制作をアーティストに提
案をするかについては、様々なパターンが考えられえると思いますが。
もちろん他のパートナーたちが必要です。KFDA 単体として共同制作に出資でき
る金額は限られていますし、それは作品全体の制作費に対しては十分ではありませ
ん。アーティストが既にカンパニーや制作会社など組織をもっていて海外とのネッ
トワークにも通じている場合は、自分自身で共同制作のパートナーを見つけること
ができますが、まだアーティストが若くて組織力やネットワーク力が弱い場合は、
フェスティバル側で海外のパートナーを見つけるように手助けをしてあげます。岡
田利規さんの次回の新作もそのようにして、私が他の共同制作のパートナーとのつ
なぎ役を果たしました。また、アーティストがまったく制作機能を有していない場
合は、フェスティバルが完全に作品の制作(プロダクション)を担う場合もありま
す。つまりフェスティバルが個々の俳優や技術スタッフと直接契約を交わし、作品
制作のマネジメントをも担当する。この場合はフェスティバルが制作の主体となり、
後から他の共同制作のパートナーが見つかるということもあります。これはフェス
ティバルから委嘱する特別作品の場合が主ですが、例えば前回のフェスティバルで
は、我々からウースターグループ にオペラの制作を依頼し、その制作をフェスティ
バルが行ったので、我々のほうから他のヨーロッパのパートナーを探し資金を集め
ました。06 年のクリストフ・マルターラーの作品もそうでした。
果たしてフェスティバルが制作機能まで果たすべきかどうかは、我々の間でも議
論の分かれるところです。制作を行うには、それに適したインフラストラクチャー
が必要ですが、KFDA は事務局のオフィス以外には、劇場やスタジオを持っていま
せん。制作に着手するからには、アーティストやそのチームが集まって作業する場
が必要ですし、単にフェスティバルを運営するのとはまた別のノウハウが必要とな
ります。例えば 06 年にクリストフ・マルターラー の新作を KFDA が製作したときも、
作品の巡回も我々サイドで手配し、ツアー先の劇場やフェスティバルと我々が直接
契約を取り交わすということがおきました。このように作品制作とフェスティバル
運営を両方やっていくのは、先ほども申しましたようにたった 6 名しかパーマネン
ト・スタッフがいない小組織にとっては、大きな負担となってしまいます。
──そのような状況にはとても共感します。幸い私のいる東京国際芸術祭(TIF)は、
フェスティバルと平行して稽古場や劇場といったハードも持っていますが、フェス
ティバルを運営しながら場所を運営し、かつ作品の制作もやっていくというのは至
難の業ですよね。
さて、こうした理念に支えられたクンステンで紹介されることは、若いアーティ
ストにとってどんな意味を持っているんでしょうか。例えばクンステンでの初演後、
岡田利規さんのもとには世界中から多くのプロポーザルがあったと伺っていますが。
とても微妙な問題ですね(笑)。確かに KFDA は新しいアーティストの「発見」
のフェ
スティバルとしての評判を得ています。既に評価の定まったアーティストだけでは
なく、まだヨーロッパで紹介されていないアーティストをヨーロッパに紹介するの
が私たちの役割のひとつです。しかし、私が一番重要視しているのは、まず観客で
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す。例えば岡田さんの作品を、私は素晴らしいと思いプログラムに選んだわけです
が、その作品を観客と分かち合いたい、という思いが最初にあるわけです。確かに
KFDA は海外からの多くのプロフェッショナルが来て、今日の現代芸術の参照点の
ような存在となっていて、例えば私のように世界中をまわって現地で作品を観るこ
とに多くの時間を割くことが出来ないプロフェッショナルにとっては、KFDA に来
ることで世界中の作品を一度に見られる機会でもあるわけです。
しかし、こうした役割や効果を持つ KFDA には、逆に大きな責任も生じてしまい
ます。つまり逆にマイナスの波及効果をもたらしてしまう危険性もある。ある作品が、
世界中のプロフェッショナルが集まっている場で、我々が期待したような受け取ら
れ方をしないこともあるわけです。ですから我々は、性急なやり方を避けねばなり
ません。
とても正直に言って、私は KFDA 後に岡田さんに訪れたある種異常な状況を、まっ
たく予想していませんでした。もちろんいろいろな提案をもらうことは彼にとって
は素晴らしいことだとも思いますが、一方で、怖い状況だと思います。というのも、
どういった形で彼の作品が日本以外の場所で受容され得るのか、彼の作品は日本の
若者の生活や言語(スラング)に密接に関わっているので、翻訳の問題にしても、
それほど単純な話ではない。実際私が日本以外の場所で始めて紹介したときも、と
ても怖かったし、これからも彼が次の作品を発表してそれが一作目に比べて成功度
が低い場合、あっさりと背を向けてしまう人々が出るのではないか。もちろん私自
身は、岡田さんの仕事はそれに耐えうるだけの十分な強度があり、成熟していると
信じています。だからこそ慎重に、時間をかけたいと思います。
岡田さんの場合は、一作品を一度見ただけですぐに決断できましたが、それはむ
しろ例外的で、アーティストの作品を 4 作品、5 作品と観て、ようやく 6 作品目で
フェスティバルに招待することを決める場合もあります。ここで慎重にならないと、
成功したらそれでもいいですが、失敗したときは本当に悲惨なことになる。フェス
ティバルには大きな注目が集まっていますから、失敗したら世界中から「だめな作品」
というレッテルを貼られることにもなりかねません。だからといって評価の定まっ
た確かなアーティストだけを紹介するということではありませんが、一方で、まだ
若くてフラジャイルな状態のアーティストをプログラムすることも避けなければな
りません。今日、十分にそのレベルに達したアーティストを注意深く判別し、国際
的な批評や評判にも耐えうるかどうかを見定めなければならないのです。
岡田さんが KFDA で成功して以来、日本のアーティストからまるで私が彼らのキャ
リアを救う「救世主」のような眼差しで見られてしまうことがあるのですが(笑)
「KFDA で紹介されれば、世界的に成功する」といった考えは、まったくの幻想で、
ある一人の人間にはそうだったかも知れないけれど、他のアーティストにはそうで
ないかも知れないわけで・・・だからこそこういった問題は、非常に微妙だし神経
を使います。
──国際フェスティバル間では協力関係もある一方で、ライバル関係でもあります。
今、そしてこれから、KFDA はどんなフェスティバルとネットワークを構築してい
こうとしているのでしょうか。
まず KFDA はマルチ・ジャンルのフェスティバルですし、多種多様なアーティス
トと仕事をしていますから、そのプロジェクトによって様々な機関と協働すること
になります。ですから潜在的にとても幅広いパートナーとの協働が可能です。また
フェスティバル開催時期が 5 月ということは、同時期に開催されるほかのヨーロッ
パのフェスティバルと連携し同じ作品を巡回させることもあります。ヨーロッパで
はフェスティバルに限らず劇場などとも連携します。ヨーロッパ以外では、例えば
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2008 年にはシンガポールのアーティストを紹介するので、シンガポール・アーツフェ
スティバルとの共同制作を行います。こうしたパートナーシップは、むしろ作品ごと、
プロジェクトごとの連携であり、恒常的なパートナーシップとは性格が異なります。
先ほど申し上げた EU の助成金を受ける 6 つのヨーロッパのフェスティバル・ネッ
トワークでは、企画の段階から一緒に考えます。その場合、6 つすべてのフェスティ
バルが参加することは必ずしも条件ではなく、6 つのうち 3 つのフェスティバルが
参加すれば助成金を受けられる仕組みになっています。このシステムはネットワー
クの中にも各フェスティバルの自主性・独自性を担保するもので、非常にいいと思
います。
つまり、共同制作ネットワークの結果、各地で行われるフェスティバルのプログ
ラムや取り上げるアーティストが似通って単一化してくる危険性も出てくるわけで
す。ですから、フェスティバル同士のネットワークは良いことですが、一方で各フェ
スティバルの独自性を保っていくことも必要だと思います。
──フェスティバルで世界初演、あるいはヨーロッパ初演を行うということは、
KFDA にとってどういう意味があるんでしょうか。一般的に、世界初演を迎えるこ
とはある種の「名声」が伴うと考えられていますが。
この質問に対しては、正直な返答と、不正直な返答、2 種類あります(笑)
。
まず不正直な返答から。観客にとって、その作品が世界初演かどうかは、まった
くもってどうでもいいことです。別の都市で先に公演されていようが、観客にとっ
てはそんなことはどうでもいいわけですから、その意味ではフェスティバル・ディ
レクターである私にとっても自分のフェスティバルで世界初演を迎えることはそれ
ほど重要なことではありません。
次に正直な返答。とはいえやっぱり、世界初演はある種のプレミア感というか、
「名
声」が伴うものですし、その新作クリエーションの初演に立ち会うため、多くのプ
ロフェッショナルやジャーナリストが海外からもわざわざ見に来てくれたりするわ
けですから、決してこの効果を低くみるわけにはいかないと思います。特に、こう
した「名声」を評価の対象にする政治家や行政側に海外から多くの観客を動員でき
るという事実は、今後もフェスティバルを存続させていくための説得材料にもなり
ますから、私にとっては重要なものです。
──また初演を行うアーティストとの信頼関係を築く上でも意味がありますよね?
確かにそうですが、良くあるのは、KFDA で世界初演をしたときはまだ十分に作
品が完成していなくてイマイチだったのに、その半年後に別のフェスティバルで上
演されるときはものすごく良く仕上がっていて・・・
(笑)なんてこともあるわけです。
こうした世界初演にまとわりつく矛盾とどう折り合いをつけていくかは難しいです
ね。作品が熟成するには時間が必要ですから。そして、また世界初演ということで
観客の期待や好奇心は高いけれど、実際には未成熟の作品を観るということでは観
客にとって非常に残念な話です。ですから世界初演というのは、いいことも悪いこ
ともある、両義的な賭けのようなものだと思います。
──クリストフさんが 2 代目のディレクターとして目指す方向性やプロジェクトは
どんなものでしょう?
まずはこれまでの継続性というものをしっかり受け継ぐこと、と同時に、KFDA
というものを、ひとつのプロジェクトとして捉えることです。KFDA はアプリオリ
に与えられた自明のものではなくて、ある時間とその連続性の中に位置づけられた
プロジェクトです。ですから自分の役割は、フェスティバルの基礎となる哲学をしっ
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かりと継承し、今日の社会の中で、芸術創造を共有すること、個々人の知性と批評
性を発展させていくこと、他者と出会い自己を開いていくことを、問いかけていく
ことだと思います。これらがやはりフェスティバルの基礎となる哲学ですから。そ
の上で、これらの思想をいかにプログラムの中に具体的に落とし込んでいくか、そ
れが私の挑戦です。私はフリー・レイセンとはまた別の世代に属していますし、私
なりのヴィジョンを私なりの色、私なりの道でプログラムに反映することが出来る
と思います。
自分がまったく関与していないプロジェクトだったら、完全にゼロから、自分自
身からスタートしたほうが面白いのでしょうが、私の場合は既に 2002 年からフ
リー・レイセンと一緒にプログラムを担当していましたし、彼女から多くのことを
ゆっくりと時間をかけて引きついで、芸術的な選択もかなりの割合でゆだねられて
きたので、私にとっては、これまでとこれからの間にそんな断絶があるとも思えな
いし、むしろこうした持続性はとても自然なものです。ですから、何か前代とのラ
ジカルな断絶は必要ないと思います。そもそも KFDA は設立当初から常に変化・発
展し続けてきたフェスティバルですから、私はこの持続性を大切にしたいと思いま
す。
具体的な変化としては、例えばフリー・レイセンは、どちらかというと地域や芸
術的ボキャブラリーのまったく異なるアーティストの作品をいろいろ織り交ぜてプ
ログラミングし、敢えてそうした異質なものの対峙を狙っていたところがあります
が、私はあるラインというか方向性をもう少し明確に出していきたいと思っていま
す。
──最後に、KFDA の歴史の中で、フェスティバルの価値や特徴を世界に向けて強
く発信することに貢献した、象徴的なアーティストについて、何人か名前を挙げて
ご紹介ください。
KFDA のかなり初期から何度も紹介し、しかも当初はまだそれほど有名ではなく、
今や世界の大御所的な地位を確立したアーティストとしては、フォースト・エンター
テイメントのティム・エッチェル 、ソチエタス・ラファエロ・サンツィオのロメ
オ・カステルッチ などでしょうか。それから、クリストフ・マルターラー は第一回
の KFDA で初めてドイツ語圏から外に出たのですが、今やヨーロッパ演劇の巨匠の
一人となりました。またアルゼンチンのアーティストともかなり多くの仕事をして
きて、特にエル・ペリフェリコ・デ・オブヘトス は何度も KFDA で作品を創作・発
表してくれました。それから南アフリカのウィリアム・ケントリッジ も KFDA の常
連ですが、我々が最初に彼に音楽作品を依頼したことがきっかけで、今ではオペラ
なども手掛けるようになりました。それから中東地域のアーティストもいます。レ
バノンのラビア・ムルエ は KFDA で三度ほど作品を発表し、今や世界のアートシー
ンの常連となりました。それからイランの若手演出家アミール・レザ・コーヘスタ
ニ についても同様です。彼が 2004 年に「Dance on The Glass」という作品を
KFDA で発表するまで、彼はまったく無名の若手でしたが、2007 年の岡田利規同様、
KFDA 後にはオランダ・フェスティバルやフェスティバル・ドートンヌといったメ
ジャーなフェスティバルでも紹介されるようになりました。こうしたアーティスト
にとって KFDA が世界的な活動へのスタート地点ともなりましたし、観客にとって
もひとつの衝撃を与えたものでした。そして岡田利規も、私にとってはこの中の一
人です。彼もまた、これからの KFDA の歴史に立ち会ってくれるアーティストの一
人になってほしいと、心から願っています。
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