私的京都議定書始末記(その44) - NPO法人 国際環境経済研究所

私的京都議定書始末記(その44)
-カンクン以後-
2014/05/21
英国で考えるエネルギー環境問題
有馬 純
日本貿易振興機構ロンドン事務所長、経産省地球環境問題特別調査員
Under Any Condition or Circumstances
カンクンからの帰国後、2011 年の年明けにかけて、COP16 の結果に関する国内各方面への報告に追われた。
最後まで筋を曲げなかった日本の交渉姿勢については、国内では概ね高い評価を受けた。外務省の山田参事官、
環境省の森谷審議官と共にラジオの対談番組に出たり、国際環境経済研究所の澤所長、ソフィアバンクの藤沢
久美代表と共にテレビ出演もした。
私の交渉官としての任期は終わりに近づきつつあった。2011 年 1 月にジェトロロンドンへの赴任内示があり、
4 月には日本を出発することが決まっていた。しかし最後まで任務を全うせねばならない。カンクン後の国際交
渉に向けた頭のすり合わせのため、1 月には米国に、2 月にはドイツ、イタリア、フランス、ブラッセルを訪問
し、政府関係者、産業界、シンクタンク等と意見交換を行った。皆、カンクン合意ができたことを高く評価す
るのと同時に、「成功した COP の後はマイナス面への揺り戻しがあるからなあ」という声も聞かれた(コペン
ハーゲン後もそうだったが、実際、時計の針をカンクン以前に戻すような議論はその後の AWG 交渉で頻繁に生
ずることになる)。
3 月初めには定例の日本・ブラジル主催の非公式協議が開催され、主要国の交渉官が東京に集まった。議長国
として汗をかいたメキシコのデ・アルバ大使、トウデラ環境次官も来日した。メキシコの労をねぎらう意味で、
杉山審議官の後任の平松地球規模課題審議官主催の昼食会が開催され、私も陪席した。
トウデラ次官
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その場ではカンクンの時の苦労話等で盛り上がったのだが、私から「自分は 4 月にロンドンに赴任する」と
挨拶したところ、茶目っ気のあるトウデラ次官は「Do you really go to London? Under any condition or
circumstances?」と言って私をからかった。
4 月 1 日にはジェトロで辞令をもらい、私の後任には関総一郎審議官が着任した。彼は 2000 年代初め、地
球環境対策室長として温暖化交渉に参加し、資源エネルギー庁から助っ人で交渉に参加していた私とは昵懇の
間柄であった。彼が当時の澤昭裕環境政策課長と共にまとめた「地球温暖化問題の再検証」(2004 年、東洋経
済新報社)は、「京都議定書時代の終わり」を予見していたとも言える。後事は全て託したつもりであったが、
ジェトロの辞令とは別に経産省から「地球環境問題特別調査員」という辞令ももらった。ロンドンに赴任して
も、温暖化交渉を手伝うようにということである。このため、出発直前の 4 月のバンコク AWG にも特別調査
員として参加することとなった。
バンコクでは 3 月 11 日の東日本大震災に対する各国からのお悔やみと励ましの言葉が相次いだ。交渉の各局
面では不快な思い出もあったプロセスであるが、締約国が天災等の不幸に見舞われた際は、皆心を一つにして
お見舞いの言葉を述べる。心が温まる瞬間でもあった。4 月 8 日の AWG-KP のクロージングプレナリーでは、
私から各国の励ましに感謝の意を表明すると共に、日本は必ず復興するという決意を表明した。毎度のことな
がら、AWG-KP では「京都議定書第二約束期間を早く設定せよ」という途上国のコメントが相次いでおり、中
国のように事実上日本を名指しで批判する国もあった。
バンコク AWG で発言する筆者
バンコクの AWG-KP
私からは京都議定書第二約束期間について長々と立場を表明することはせず、「第二約束期間に関する日本
の立場は変わらない」とだけ述べた。ステートメントの最後に「ところで今回が自分の最後の AWG-KP であり、
4 月半ばにはロンドンに赴任する。ロンドンに来るときは訪ねてほしい。You would be welcome under any
condition or circumstances」と言って締めくくった。会場には笑いがわき、若干の拍手もあった。「厄介払
いができてよかった」という拍手もあったかもしれない。
その後の温暖化交渉
2011 年 4 月にロンドンに赴任してから、特別調査員として COP17(ダーバン)、COP18(ドーハ)、COP19
(ワルシャワ)に出席した。COP17、COP18 では交渉官として AWG-LCA の緩和のドラフティング交渉にも
参加した。しかし予備役軍人がピンチヒッターで再召集されたようなもので、これらについて詳しく語ること
はやめておこう。
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カンクン以後の大まかな流れを示せば以下の通りである。
2011 年のダーバンでは、
「全ての国に適用される(applicable to all)新たな法的枠組み(a protocol, another
legal instrument or an agreed outcome with legal force)を可能な限り早く、遅くとも 2015 年中に作業を
終えて 2020 年から発効させ、実行に移す」との「ダーバン合意」が成立した。またそのための交渉の場とし
て「強化された行動のためのダーバン・プラットフォーム特別作業部会」(ADP)が設置された。他方、京都
議定書第二約束期間については、AWG-KP の合意文書の別表の中で日本、カナダ、ロシアの数字の欄を黒塗り
にし、更に「2012 年以降、京都議定書で義務を負う意図がない」との脚注もつけた。名実共に京都議定書第二
約束期間の議論から「足を洗った」ことになる。
2012 年のドーハでは 2020 年以降の新たな法的枠組みに関する 2015 年までの合意に向け、交渉の基礎的な
アレンジメントを記した「ドーハ気候ゲートウェイ」が採択された。AWG-KP は第二約束期間を設定する議定
書改訂案を採択してその役割を終え、終了した。EU、豪州、スイス、ノルウェー等が第二約束期間に参加する
こととなった。第二約束期間のカバレッジは世界の総排出量の 14%程度となった。日本、ロシア、カナダに加
え、ニュージーランドも京都議定書第二約束期間に参加しないこととなった。AWG-LCA も終了し、積み残し
の案件は補助機関会合で引き続き検討することとなった。これにより、COP13 以降続いてきた 2 トラック体制
は終了し、ADP 一本となった。
2013 年のワルシャワでは、全ての国の参加を再確認し、各国が自主的に提出する約束草案(intended
nationally determined contribution)の提出方式、時期について合意された。
ロンドンから COP に年 1 回参加するだけであったが、ADP を傍聴していると、かつて AWG-LCA で聞いた
言い回しや議論が相変わらず繰り返されており、「日暮れて道遠し」の思いを新たにした。器は新しくなって
も参加する面々は同じなのだから驚くにはあたらないのかもしれない。
議論の中身は大して進歩していない一方、ハード面では進捗著しく、ドーハでは経産省代表団のほぼ全員が
iPad を持ち、必要なドキュメントは全て iPad に入れて身軽に交渉しているのに驚いた。交渉状況も携帯を通
じてリアルタイムで共有されている。カバン一杯にドキュメントを詰め込んで交渉に当たっていた自分と引き
比べ、今昔の感がある。私の後任の関総一郎審議官、その後任の赤石浩一審議官、更にその後任の三田紀之審
議官の下で、経産省チームは素晴らしい働きを見せていた。「ロートルの出る幕ではないな」としみじみ思っ
た。
ということで、44 回にわたって書いてきた私的京都議定書始末記に「始末」をつける時が来たようだ。
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