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「私はファルージャ」:「奴ら」のテロと「我々」のテロ / フロ
リアン・ゾルマン
Je Suis Fallujah: ‘Their’ and ‘Our’ Terrorism / Florian
Zollmann
https://zcomm.org/znetarticle/je-suis-fallujah-their-and-ourterrorism/
kmasuoka 2015-02-03 18:31:03
パリで起きたシャルリ・エブドに対するテロ攻撃を、西洋の主流派メディアは、自由と民主主義
に対する攻撃という枠で報じている。西洋世界の指導者たちによる「表現の自由を守るために立
ち上がることを誓う」という言葉も、この枠組みによる理解を促進している。西洋のメディアは
さらに、このような恐ろしい出来事の原因は何かとの問いをたて、イスラムとテロリズムの関係
を探り当てたりしている。ノーム・チョムスキーが以下のように指摘した通りである。
「この犯罪に対しては膨大なコメンタリが現れ、イスラム文化にこの恐ろしい攻撃の根を探り、
また、我々の価値を犠牲にせずにイスラム・テロリズムの凶悪な波に対抗する方法を探ったりと
いったことがなされた。」
しかし、チョムスキーがさらに強調したように、こうした探究がなされるのは、「奴らが我々に
加えた犯罪」の場合に限られる。チョムスキーは、西洋文化が「我々が奴らに加えた犯罪」をめ
ぐる道徳的な問いを、西洋文化は「注意深く」無視してきたと指摘する。この文脈で、西洋のデ
ィスコースでは、テロリズムという言葉は非国家勢力による政治的暴力の行為にのみ使われるも
のであるということを指摘しておこう。しかしながら、戦略としてのテロリズムは、非国家勢力
によるものだけではまったくなく、国家に関しても認めることができるものである。
一つの例として、「2004年11月に米軍海兵隊がファルージャに加えた攻撃」が挙げられる。チョ
ムスキーの言葉を借りるならば、これは、「米英のイラク侵略の中でも最悪の犯罪の一つ」であ
った。チョムスキーは、ファルージャに対する最初の攻撃を次のように述べている。
「海兵隊の攻撃は、ファルージャ総合病院を占拠することから始まった。どうなされたかは別と
して、重大な戦争犯罪である。この犯罪は、ニューヨーク・タイムズ紙一面で、写真とともに大
きく報じられた。写真は、「患者と職員が武装した米軍兵士による部屋から追い出され、床に座
るか横たわるよう命ぜられ、米軍兵士たちが人々を後ろ手に縛る」状況を示すものだった。とこ
ろで、この、病院の占領は、称賛に値する正当なものであると見なされた。病院の占領で「米政
府関係者が『過激派のプロパガンダ兵器』と呼ぶファルージャ総合病院が閉鎖された。病院から
、民間人犠牲者に関する報道が出続けていたのだった。」」
「どうやら、ここには表現の自由に対する攻撃はないらしい。したがって、「記憶に残る」扱い
を受けるには値しないということらしい。」 チョムスキーはこう結論づける。
2004年4月のファルージャ攻撃時に文民に加えられた暴力
ファルージャの事例をさらに検討することは有意義だろう。「我々のテロ」と呼ぶことができる
ような行動を行なっている際に、西洋の政治文化と知的文化が表現の自由といった民主的価値を
どのように扱っているかを明らかにできるからである。
ファルージャは、2004年4月と11月の2度、米軍と連合軍による攻撃を受けた。4月の攻撃では、
約600人のイラク人文民が殺された。以下に紹介する一節は、人権活動家ジョー・ワイルディン
グが英国のガーディアン紙に寄せた記事から取ったものである。ワイルディングは2004年4月半
ば、ファルージャを訪れている。
「この8日間、人々は爆撃にさらされてきた。停戦となったにもかかわらず、沢山の人が今も自宅
から出られずにいる。食料も、水もないが、外出するのは恐ろしすぎる。食料と医療支援がファ
ルージャに到着しているが、それらを届けるのが難しい。多くの支援品がモスクに届けられてい
るが、それを、米軍狙撃手の壁を超えて病院に運ぶことは無理であることが明らかになってきて
いる。[・・・・・・]
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頭を怪我した老女は、白旗を掲げていたときに、撃たれた。人々は皆、撃ったのは米軍の狙撃手
だと述べている。[・・・・・・] 市民の怪我の多くは弾傷である。家族は、家を出ようとし
て、バグダードに逃げようとして撃たれる。銃弾はコースを外れたり、人々を家に押し戻す。さ
らに、砲撃により沢山の人が負傷する。家に飛び込んできた榴散弾にやられる。」
同様の状況は、「軍御用」でないアルジャジーラのクルー----レポーターでトークショーのホスト
も務めるアハメド・マンスールが率いていた----により、テレビでも放映された。このクルーは、
米軍と連合軍の行為を恐ろしい残虐行為としてファルージャ内部から映像とともに放映した唯一
のニュースチームだった。アルジャジーラの報道がアラブの人々の間に怒りを引き起こしたため
、米軍は「作戦」を一時中止しなくてはならないと考えた。11月の攻撃を準備している中で、当
時のイラク傀儡政権、アヤド・アラウィ首相率いるいわゆるイラク暫定政府(IIG)は、アルジャ
ジーラ及び独立ジャーナリストに対して非難作戦を開始した。
2004年11月ファルージャ襲撃に向けた検閲
調査ジャーナリストのダール・ジャマイルによると、「暫定政権は[2004年11月に]イラク国内
で報道を行なっているアルジャジーラの記者は拘留すると発表した」という。11月のファルージ
ャ「作戦」が開始される直前に、アラウィとIIGの監督下に置かれたイラク通信・メディア委員会
は、イラクのメディアはすべて、政府の方針に従うべきであること、従わない場合、法的な措置
が取られることを決定した。イラク首相官邸のレターヘッドに書かれた同委員会の指示は、ジャ
ーナリストに対して「ニュース報道の際にはイラク政府の立場----それはまた大多数のイラク人の
望みを表明したものでもある----を報道するスペースを取っておくよう」要求している。さらに、
同指示は、メディアに対し、「ファルージャの特派員を指導して[・・・・・・]非現実的な立
場を拡めたり、犯罪者と殺人者からなるテロリストのギャングたちを民族主義のラベルで呼んだ
りしないよう」要求していた。アラウィはさらに、アラブ人の記者たちに対し、ファルージャか
らの報道は常に軍を同席させるよう求め、また、米海兵遠征軍(MEF)が創設した記者クラブに
参加するよう促した。記者クラブの記者たちは、軍の御用団である傾向が強かった。その結果、
4月に米軍に従軍した御用ジャーナリストは一握りにすぎなかったのに対し、11月の「作戦」で
は、91人の御用ジャーナリストが60のメディアを代表して米軍に従軍した。
2007年12月にオンラインのウィキリークスによりリークされた米軍の国家地上情報センター
(NGIC)は、御用記者団の重要性を強調し、「いずれの作戦においてもアラブのメディアは非戦
闘員の犠牲者が出たというニセの主張を行ったが、2度目には西側の従軍記者団が反論を報道した
」と述べている。
米軍と連合軍のメディア戦略においてもう一つ大きなポイントとなったのは、11月の襲撃の際に
はファルージャを封鎖し、誰も町に入れないようにしたことだった。これにより、11月には、ジ
ャーナリストや、ジョー・ワイルディングのような救援活動家がファルージャ内部から報道する
ことが不可能になったのである。実際、ファルージャ入りの禁止は、間接的な検閲の戦略に相当
する。
表現の自由に対するこれらの大きな制限は、西洋の指導者やメディア・コメンテータたちにとっ
ては憂慮すべき問題ではなかった。また、ファルージャで米軍が採用した戦略が国家テロに相当
するかどうかについても西洋のメディアでは議論がなかった。
ファルージャでの軍事戦略
皮肉なことに、西側メディアのコメンテータたちは、ファルージャで米軍が採用した軍事戦略を
、テロリズムの公的な定義と文字通り同じ行為として描き出してきた。ただし、それをテロリズ
ムとは呼ばずに。例えば、ニューヨーク・タイムズ紙では、エドワード・ウォン記者が「イラク
の米軍高官」が語った言葉を次のように表現している:その高官は、「ファルージャで米軍が達
成する戦略的大勝利によって、態度を決めていないスンニ派アラブの指導者たちが米軍の側に付
き、政治プロセスに参加することを期待している」と述べたのである。同様に、ワシントン・ポ
スト紙のジム・ホグランドは、解説記事で、ファルージャにおける「さしあたって最も重要な目
的」は「スンニ派の人々が反乱の側に参加したり、それを支援したり、容認したりすることを思
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いとどまらせること」であると述べ、「もしそうしたときに払わなくてはならない代償は、ファ
ルージャの路上で生々しく示されている」と指摘した。
以上を考慮するならば、米国法上の「国際テロリズム」の定義を踏まえるならば、ファルージャ
における米軍の「作戦」は、米軍と連合軍の支配に対する抵抗を鎮圧するために「一般市民を脅
迫しまたは強要することを[・・・・・・]意図したものである」ように見える。それにもかか
わらず、「奴らに対する我々のテロ」を代表するこの事例は、西半球ではさほどの憤慨を引き起
こさなかったようである。ファルージャにおける「我々のテロ」の根源にある理由を探すことは
、なされなかった。
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