12. (1) 長男・亮爾と私との勝負の歴史 君とは、何回も勝負したね。 君は1歳で歩き始め、1歳6ヶ月頃には、20曲位の歌を歌えるように成っていた。 は、「この子は頭が良い! 私達 天才だ!」、と自慢に思っていたもんだ。 入船中央エステート101号室を購入して住んでいる頃、君が小学1年生の夏頃か、庭の向 こうで誰かが虐められて居た。 虐められていたのは亮爾だった。 「何してるんだ?」 と声を掛けると、相手が少しひるんだが、亮爾は攻撃を避けるだけの感じ。 爾! 喧嘩なら、俺が付いている。 「なんだ亮 頭突きをしろ!」と言うと、恐る恐るやろうとする が、両手で肩を押されて上手くできないでいるし、相手の子もやりづらそうだ。 その場 はそれで済んだが、どうも亮爾は弱そうだ、と判った。 同じ頃、お母さんが、公文の先生から「亮爾は少し知能の発達が後れているようだ」と 言われた、と言う。 「そうか?」「俺の子がそんなわけがない。」「亮爾は、いずれ力を 出してくるから気にするな!」、と全く気にしなかった。 その後そんな事は忘れてしまい、君が3年生の頃か、少年サッカー部だったので、見に 行ったら、君はボールの近くでウロウロするばかりでボールに1回も触れないでいる。 俺の子が情けない! 、と思ったので、君を呼び寄せて言ったんだ。 「亮爾! ボー ルに触ってこい!」「10回ボールに触れたら、何でも買ってやるぞ!」、と。 そしたら、急に走り出して、ボールにちょこんと足で触って、1回、2回と触りだした。 蹴るまでには行かないが、触るだけでもまあ良いか、と見ていたら、10回触ったら私の所 に飛んできて、「お父さん、10回触ったよ!」と報告し、その後はもう触ろうとしない。 その時、何を買ったか忘れたが、気の小さい弱い子供に育ってしまったことには気づい た。 そんな事もあったのに、君の為に何かをすることは無く、私はまた翌日からは仕事 に専念し、子供のことはお母さん任せにしてしまった。 今思えば、もっと父親の私がす ることがあった、と反省しているが、亮爾には申し訳ないことをしてしまった。 (2)一回目の勝負 君が中学3年の時、そろそろ亮爾の将来を考える頃だな、と考えて、父母会の副会長を 引き受けた。 私は、校長に頼まれてPTAの会則を作り、PTAを創ったりした。 当時は荒れた中学校の時代で、虐め事件もしょっちゅうあったし、学校の物置が燃える ボヤ事件等が起きた。 当時の君は、空手やボクシングの道場に通い、かなり強くなって 居たので、虐めの対象から虐める側に回っていたんじゃないかな。 そんなある夜、君の友達が迎えに来て、夜遊びに出かけようとしていた。 たまたま居 あわせた私が、「おい、何処に行くんだ?」、と聴いたら「ゲーセンに行く」、と言う。 「もう夜の10時だ。 明日にしなさい!」、と言うと「俺の勝手だろう?」、と言う。 「ダメだ!」 「親に食わせてもらっているのに、夜中まで遊びほうけるのは許さんぞ!」 「夜 中まで遊ぶんなら、自分で働いて稼げるようになってからにしろ!」、と言ったが、「俺は 行くよ!」と出て行こうとする。 「お前、今出かけるなら、この家に戻ってくるな!」 「ここは俺の家で、子供を育てる家だ」「自分勝手に遊びほうけるような子供を育てる気 はない」 「自分勝手にしたいのなら、この家に帰って来るな! -1- 自分で働いて食っていけ!」、 と怒鳴っていた。 そして二人のやりとりを聴いていた友達に、「おい君も、友達なら夜 中に息子を連れ出さんでくれ!」、と言うと友達は帰って行った。 残った亮爾は、「判ったよ! 出て行くよ!」、と言って3階の部屋に上っていった。 おろおろするお母さんに、「これで一人の子供を失うかもしれない」「私が寝ている内に 殺されるかもしれない」「それでも、親として、言うべきことは言わねばならない」「や るべき事はやらねばならない」、と言って夫婦で親としての覚悟をした。 一時間ぐらい経った時、トントンと階段から下りてきた亮爾が、「お父さん、考えたけ ど今は一人じゃ未だ生きて行けないので出て行くのは辞めるよ!」、と言う。 これで一 先ず一件落着となったが。 3年の夏7月の始めに父兄懇談会に行ったら、担任の先生が「亮爾君は高校進学は無理 ですので、職業訓練学校に行かせて下さい」、と言う。 「エ、何ですかそれは?」、と 驚いた。 君は学校には行っていたので、それほど成績が悪いとは思ったこともなかった。 初めて君の通信簿を見た。 あるのか?、と目を疑った。 ウーン、と唸るしかなかった。 私の子が、こんなことが この事実に気がつかず、「放っておいても何時か必ず芽を 出す」、と思い込んでいた自分の怠慢を責めるしかなかった。 「亮爾、気がつかないで放っておいた私が悪かった。 と聴いたら、「そりゃ~行きたいよ!」、と言う。 るようにしなさい! お前は高校に行きたいか?」、 「ならば、8時~10時の時間を家に居 私と勉強しよう!」と約束した。 今まで、夜はほとんど家に居なかったらしい亮爾がこの時間には必ず家に居て、私と勉 強することになった。 7月~2月まで、中学一年生の国語・算数・英語の教科書をノー トに書き写すことから始めて、中二の2学期分まで進んだ所で試験の日となった。 国語の文章を読んで感想文を書かせると、「〇○〇○と書かれていました、と書くだけ ではなく、自分がそれをどう感じ、思ったかまで書いてきた」ので、「これはただ読むだ けじゃなく、自分の頭でちゃんと考えている!」「見込みがあるぞ!」、と思った。 君の成績が悪かったのは、頭が悪いわけではなく、虐めにあったりして、学校と言う集 団の中で「勉強することに集中できなかっただけだったんだ」、と今でも思っている。 高校入試の日には、「お前の勘は冴えているので、感じた通りに思い切って書いてこ い!」「何とかなる!」と言って送り出した。 勉強の時間と知識量が足りないので、合 格に近い所までの力は付いていたので、「亮爾の勘の良さと思いっきりの良さに掛けて、 何とかなることを期待できた」からだ。 結果、何とか合格できていた。 これが、君と の本気で係わった一回目の勝負だったね。 (3)二回目の勝負 君が高校1年の6月だったか、「俺、あんな学校辞めるよ!」、と言う。 どうしたんだ、と聴くと、「学校の廊下でジュウースを飲んでいたら、いきなり先生に10 発位腹を蹴られた」「生徒を馬鹿扱いして、奴隷のように見る先生の居る学校になんか行 きたくない!」、と言う。 早速学校に行って先生に会うと、「暴力をふるったことにつ いては何を言われても謝るしかありません」「訴えられてもやむをえません」「申し訳あ りませんでした」、と謝ってくれた。 私は、この高校は、多少成績の良くない生徒も入学している私立校なので、厳しい校則 と先生の厳しい指導で素行の悪い子を抑えている面も多い学校なんだろう、と理解してい -2- たし、今回は先生のやり過ぎだったが、「先生が子供の前で謝ったのだから、亮爾には溜 飲を下ろして、学校に戻って欲しい」と思っていた。 同席した亮爾に「先生は謝って下 さったが、亮爾はどうだ?」と聴いても、「こんな生徒を奴隷扱いする学校には二度と行 きたくない!」、と考えを変えない。 家に帰っても話し合ったが、「友達のm君は職業 学校に行っているが、校則なんかないし、自由で良い、と言っているので、俺もそっちに 行きたい!」、と。 「お前の気持ちは判った! しかし、せっかく頑張って入った学校 だから、せめて学期末の試験も受けなさい!」「その間に、どうするか考えよう!」、と 言った。 「お父さん、お父さんがそこまで言うなら、そうするよ!」、と言うことにな り、何とか踏み留まることができた、とホッとした。 しかし、7月始め、「お父さん、試験を受けてきたよ!」「これで約束は果たしたので、 もう学校には行かないよ!」、と宣言する。 唖然、としたが、もうどうにもならない。 (4)三回目の勝負 夏休み、家屋旅行でバリ島に行った。 クラブメッツのホテルに着くと、池でバリバリ と音を立ててワニが魚を食っていたり、庭にエスカルゴが這っていたり、と珍しいことば かりで、私と三男の向爾はミニゴルフ場でゴルフ大会に出て、二位になったり、と楽しか った。 君は、昼間は寝ていて、夜になると遊びに行って帰ってこない。 その内、目を キラキラさせて「お父さん、俺、ジーオになるよ」と言う。 「エ、何だそのジーオというのは?」「ジーオってここのホテルでお客様を遊ばせる担 当者なんだ!」「ここ楽しいよ!」「俺、ジーオになるよ!」、と言う。 校を辞めて、遊んでいるだけのお前を見るのは辛い。 何でも良い、学 「判った!」「だけど、英語がで きないとジーオにはなれないだろう?」「アメリカの高校に行くか?」、と言うと、「行く よ!」、と言う。 帰りの飛行機で「人は、自分の好きなことを仕事にすれば、苦しいこ とも楽しくなるもんだから、他にお前の好きなものはないのか?」と聴いた。 ャは好きだな」、と言う。 れも良いね!」、と。 「オモチ 「ならば、オモチャ屋も良いじゃないか?」、と言うと「そ 「じゃ~、日本一のおもちゃ屋を目指せば良いじゃないか」 帰国後、まず、英会話教室に通うことになった。 そして、12月、家族みんなでアメリ カのユタ州ソルトレークシティに行って、スキーをした後、三つの高校を訪問して、最後 に行ったワサッチアカデミー高校の女性の校長先生とお会いして、その日から亮爾は全寮 制の寮に入学することに決めた。 日本の高校と違って、手続きはこれだけで、高校の二 学期からと言う形で受け入れてくれた。 アメリカは自由の国と言うが、本当だった。 事前の約束はしていたが、突然の訪問、突然の決定でその夜から泊まることになったのだ から、今思えば、無謀とも言えるやり方だったが、その時は亮爾を落ち着かせる為には最 善の策と考えていた。 それでも、空港で分かれる時、零下20度の寒さに震えながら、お 母さんは泣いていたが、君は笑って手を振っていたね。 私はと言えば、「ほとんど英語も喋れない君だから、恐らく3ヶ月と持たないで、日本 に帰ってくるだろう」、と思っていた。 しかし、君は、何を言っているのか判らない授 業に出て、得意のダンスで単位を取り、喧嘩で友達を作り、アメリカに馴染んで、しぶと く生きて、何とかアメリカの高校生になってくれたんだね。 凄いことだ、と思うよ。 (5)四回目の勝負 亮爾は、その後3回高校を変わり、最後はアリゾナ州のフェニックスのジョホールバレ -3- ー高校を卒業した。 その頃、ヒップホップダンスに夢中になり、黒人と組んで全米第二 位まで上り詰めていたが、また全員で家族旅行に行った。 君の車で見渡す限りサボテンしかない荒野を2,000km位走って、途中の「セドナ渓谷」 で泊まってゴルフをやリ、また車で「グランドキャニオン渓谷」を見に行ったね。 その間、宿で君の将来について話し合った。 「お前は、踊りのプロになるのか?」 「否、黒人の身に付いた踊りの能力にはどうしても敵わない!」「日本人の俺が、踊りで プロになるのは難しい、と感じている」、と言う。 凄いことを言うね。 君は遊びの中 でも成長していたんだね。 「それなら、何をやるか、考えよう」「お前は踊りの他には何が好きだ?」「・・・ウー ン、何時も今まで苦労したのは髪かな?」「髪のことで、高校でも、アメリカでもトラブ ったから、俺は髪のことが一番気になるね」・・・「そうか、ならば、美容師になるか?」 ・・・「ウン、いいかもしれない」、と段々に絞り込まれてきた。 「よし、ならば、ど うすればプロの美容師に、『それも世界一の美容師になれるか?』考えてみよう!」、と言 うことになった。 そこで、私が、ナポレオンヒルの「思考は実現する!」を要約して話 し始めたら、「お父さん、一寸待って、紙に書き留めたいから」、と言う。 何とわが子 は成長したものか、と私は涙を抑えきれなかった。 それから、3日間、夜になると「成功哲学」を君に語り、君はそれをノートに書き留め たね。 ね。 嬉しかったよ。 これで、少しは成功の階段を上る方法を受け取ってくれたから その後、フェニックスの美容専門学校に通い、美容師の資格を取った。 (6)五回目の勝負 美容師資格は取ったが、さて何処で働くか、が問題となった。 電話でやりとりしたね。 「うん、そうか。 「フェニックスのような地方では良い仕事の場はないよ!」 ならば、ニューヨークに出るか」「今までも、自分で交渉して、高校 を3回も変わったんだから、ニューヨークに行って、自分で交渉してみろ!」「何とかな るさ!」、とまたかなりいい加減な指示をした。 と返事して、君はニューヨークに行った。 「ウーン! ・・・やってみるよ!」、 「まず、様子見にあちこち行ったけど、バン ブルバンブルという店が一番お客さんが多くて元気がよかったので、そこに行ってみる よ」、と何のコネも当てもなく、直接売り込み交渉に行った。 幸いにも日本大好きの社 長に会うことができて、バンブルバンブルに入社することが決まった。 良かった良かった! いよいよ君の美容師としての勝負がようやく始まるね! 我々は、 ただ応援するしかできないが、頑張れよ! (7)六回目の勝負 バンブルバンブルで頑張って、1年半位の頃、亮爾から電話、「社長から、パリに行 ってくれないか、と言われてるんだけどどうしよう?」、と。 「行け行け!」「行かせて下さい! しなさい! パリで修行させて下さい!」と直ぐに社長に返事を 「日本人は、パリがファッションや美容の都だと思っているので、パリで一 流になったら、日本人は文句なく受け入れるぞ!」「このチャンス逃すな!」 そして、君 はフランスに行った。 (7)六回目の勝負 フランスに行って、ヘヤーアーチストのロラーンの助手として修行中、我々が家族旅行 -4- で君の所に行った時、アメリカにおいて来た妻のサンドラが浮気をして、今後どうするか 問題になった。 亮爾が一人で1年以上もパリに行ってしまったので、アメリカ人である サンドラは、日本人のように待てずに浮気したのだろうが、亮爾は「どうしても許せな い!」、と言う。 亮爾とサンドラを日本に呼んで、話し合いさせて、結局、離婚するこ とになった。 (8)七回目の勝負 「アンパン食べない!」と声を掛けてきたイザベルと仲良くなり結婚する、と言う。 会ってみると、金髪美人で、ソルボンヌ大学哲学科を卒業した日本好きの美しい秀才だっ た。 彼女の両親とも会食したが、両親共に離婚し、再婚した面白い二家族と育ての親で あるお婆ちゃんとの大集団であった。 下手な英語で会話もしたが、まさに異人さん達だ、 と思った。 イザベルの希望で日本の明治神宮で着物を着て神前結婚式を行った。 女の 子も生まれ、アテナ(充奈)(いっぱいの赤いリンゴの実)と名付けた。 しかし、彼女とも離婚することになってしまった。 何故ならば、最初から、「一寸冷 たい感じのある娘だな」、とは感じていたが、「亮爾の仕事を、頭の良い奥さんとして助 けてくれるかもしれない」、と期待したのに、それと反対で、「私がマネージャーをやる」 と亮爾を師匠のロラーンから引き離し、自分がマネージャーとなってしまい、「良い仕事 は取れない」し、「お金は自分の服や趣味の為にばかり使う」し「モデルや仕事関係の女性 との付き合いを嫉妬する」しで、「亮爾の仕事の成長を邪魔している」と判って来たから だ。 また、頭が良い女性なのに、金銭感覚が無く、あるだけのお金は自分の為に使い、 無くなると親である私の方に「お金を貸して下さい、返しますので」と無心してきて、ア パートの敷金と行って渡したお金は、自分の為に使ってしまっていたり、その内、「この 人は、父親の私のお金を狙って結婚したんじゃないか?」と思うしかない人間だ、と判っ たからだ。 「亮爾、どうする?」「ウーン、彼女と居ても苦しいばかりで、仕事は少な くなる」し「モデルや仕事仲間の女性と食事をしても、夜中まで嫉妬して寝かせてくれな いし、仕事にならないよ」、とも言う。 「判った、イザベルとは別れるしかないね」、と言う家族会議の結論になり、イザベル の弁護士と和解して向こうが言う通りのお金を渡して離婚した。 れたお金は2,000万以上かな。 それは正解だった。 イザベルに食い散らさ イザベルと別れた後は、自分で仕 事の交渉をするので、君が人に好かれる所や、面白い工夫をしたこと等が写真家やプロヂ ューサーに認められて、仕事が順調に進むようになり、オランダ、イタリア、ドイツ、イ ギリス、サウジアラビア等の国でもファッションショウや雑誌の写真撮影で活躍すること ができるようになり、「ブック」も充実したね。 結局、フランスでの7年間の修行期間を経て、またニュウヨークに戻り、今は日本でも 仕事をするようになった。 今後も、何度も勝負時が来るだろうが、君の「創意工夫」と「ど根性」で乗り切れるさ。 私でよかったら何時でも相談してくれ! のだからね。 それが親としての私や母さんの喜びでもある 君のお陰で面白い経験をいっぱいさせてもらえたよ。 2012年 6月 18日 -5- 記 有難うね。
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