第9号 - 南方熊楠顕彰会のホームページ

田 辺 市 民 総 合 セ ン タ -3階
田辺市教育委員会文化振興課肉
TEL,0739(
22
)5300(代表)
ゆ
の
り
憲
法
お
喜
陽
氏
霊場高野山では血を見る
ことを嫌い、﹁石子詰﹂(い
しこづめ)と呼ばれる方法
で罪人を処刑しました 。な
わでしばった処刑者を深い
穴の中に立たせたうえで、
石子詰の刑
います。しかし、撮影条件
が悪かったのか、﹁坂口氏
蛇柳写真せんとすれど成ら
ず﹂と、不鮮明な写真しか
残されていません。おぼろ
げな写 真 には、大きく枝を
広げた恐ろしげな柳の木が
写っています 。 これが高野
山の蛇柳です。
熊楠は坂口が撮影した写
真を植物学の第一人者であ
る牧野富太郎氏に送ってい
ます 。しかし、熊楠が蛇柳
に関心を寄せたのは、植物
学的な面からではなく、そ
れが高野山の処刑場に植え
られていたからです。
か
普段着の南方熊楠⑨
w 吉岡野山の蛇柳
た形跡はありません。
熊楠は大正九年八月と、
翌年の十年十一月の二度に
わたって、植物調査のため
高野山に登りました 。日記
によると熊楠は、 一回目の
調査である大正九年八月二
十四日、同行した坂口総一
郎(旧制海草中学教諭)に
﹁蛇柳﹂の写真を撮らせて
肯E
楠
級機轡
蛇柳(じゃゃなぎ)﹂と記された木片が展示されています。
和歌山県西牟婁郡白浜町の南方熊楠記念館に﹁高野山
畿 壊
CONTENTS
処刑場に恐ろしげな姿
発行所
南方熊楠邸保存顕彰会
和 歌 山 県 田 辺 市 湊 16198
何の説問書きもない一片の木片に、さまざまな物語が秘
められていました。
木片には、﹁高野山蛇柳
風ニテ折タル幹大正九年
八月 二十四日﹂と熊楠の自
筆で記されています。木片
には穴が空けてあり、ひも
が適されていますが、切り
口は八十年近く経った今で
もみずみずしく、日常文鎮
代わりに使ったり、キーホ
ルダーのようにつるしてい
南方記念館所蔵の
I
蛇柳 jの木片
第9
号(
1
)
KUMAGUSUWORKS
1998年 1
0月26日
万自の天王池と
須佐の森の生き物たち①
後藤伸氏
熊楠スケルトン
一枚のむしろを頭にかぶ
せ、石や土を投げ入れて生
き埋めにしました 。処刑は
必ず深夜に行われ、そのさ
い、蛇柳の枝に燈明(とう
みよう)がかかげられたと
いいます 。
﹁石子詰の刑﹂は 、高 野
山の暗部の歴史であり、 一
般に語られることはありま
せん 。日本を代表する民俗
学者、柳田国男も実際にそ
ういった処刑が行われたか
どうかについて疑問を持っ
ていたようです 。 しかし、
熊楠は明治十九年、 二十歳
の時に高野山の 登り口であ
る橋本村(現和歌山県橋本
市)の知人を訪ねる途中、
直訴の報復として石子詰の
刑に処せられた義民の子孫
を訪ねています 。
寺石正路宛 書簡(大正六
年二月十五日)でその時の
様子が次のように述べられ
ています(一部略)。