19世紀フランス女子修道会の女子教育への貢献

【宗教の社会貢献活動研究プロジェクト第 9 回研究会(2008 年 9 月 7 日)於:神戸大学】
19 世紀フランス女子修道会の女子教育への貢献
―幼きイエス会のフランス・マラヤ・日本での教育活動を事例に―
奥村みさ(中京大学国際英語学部)
本研究の目的は、活動の中心的担い手であったメール・マティルド(1814-1911)1 の生涯を
縦糸に、彼女が所属した幼きイエス会(1666 年設立。フランスの女子修道会)2のフランス・
マラヤ・日本での福祉・教育活動を横糸として、vocation に基づいた修道女たちによる教
育活動の特殊性と他の組織と共通する活動の普遍性とを明らかにすることにある。
本研究の意義としては以下の 4 点に注目した。
1)修道女という vocation(召命)に基づいた活動→宗教的動機(信仰)に注目する。
たとえば、マティルドが海外での活動をマラヤにて開始した 1852 年から、横浜で亡く
なった 1911 年までに彼女が見送った会員は 73 名にのぼる。いずれもマラヤや日本で
の「殉教」である。日本では「ベル・エポック」として知られるフランス 19 世紀社会
において、若い女性たちを「死んでもいい」と駆り立てるほどの海外宣教への情熱は
どこから生じたのか。その情熱を維持し続けた原動力は何か。社会貢献への宗教的動
機(信仰)の根源を探り、活動の担い手が聖職者であることの特殊性を考える。
2)修道女という vocation(職業)に基づいた活動→フランスのフェミニズムの一形態と
して捕らえる。
日本におけるフェミニズム研究の多くは、アングロサクソン的視点に立脚しており、
女性の政治参加の時期をひとつのマイルストーンとして考えている。その観点から見
ると、フランスで女性参政権が認められたのは第二次大戦後であり、
「遅れている」と
いうことになるが、福祉・教育分野では女子修道会は 17 世紀からむしろ主体的に活動
してきた。この分野では「進んでいた」といえよう。
3)グローバルな NGO 活動(特に女性が運営する団体)の先駆的事例として紹介する。
女子修道会の海外宣教については、日本では一般的に情緒的な慈善活動として
考えられがちだが、実務レベルでは極めて組織立った活動であり、人事・財務な
どを全て女性が運営するグローバルな NGO の先駆例と考える。
4)外国で仕事をする場合のひとつの異文化理解の事例研究として論じる。
この点は、現在に通じる問題である。外国で仕事をする場合に直面する多くの異文
化体験とそれらをどのように克服するか、という問題は時代を問わない。特に現在の
ように海外情報が瞬時に分かち合われる現代とは異なり、海外情報が限られていた 19
世紀においてはカルチャ―・ショックも現代とは比較にならないほど大きかったに違
いない。そのなかで、特に「教育」というその社会の価値観を最も正統なかたちで反
映する分野で活動することは、異文化においては多大な努力を要したであろう。異文
1
化接触の現場で生じる問題をどのように対処していったのか、を分析することは現在
の我々の海外活動においても示唆に富む事例と考えられよう。
報告は、まず「幼きイエス会」とメール・マティルドの生涯に関して紹介するところか
ら開始した。報告内容はマティルドの足跡を辿りながら、フランス・英領マラヤ・日本、
の順番で各地での幼きイエス会の福祉活動と修道院学校における教育活動の略史と、当時
の各社会情勢を背景に各地での活動の特徴を明らかにした。また後日譚としてそれらの学
校の現状を比較検討した。最後に、19 世紀の幼きイエス会の活動に対する評価と残された
課題について述べた。
今回の報告では上記にあげた意義のうち、2)・3)・4)について、つまり修道会とい
う「宗教組織の社会的貢献」についてはある程度論じることができたと考える。19 世紀、
いずれの地域でも軽視されていた女子教育に果たした幼きイエス会の貢献は著しい。彼女
たちの教育活動の成功は当時の階級社会に則って、富裕層対象の学校と貧困層対象の学校
を二本立てで平行して運営したことにあると報告者は考える。修道院学校としてカテキズ
ムを教えることは宗教学校の根幹であるが、興味深いのは、それぞれの階級に生きる女性
として必要な知識や技術(読み書きそろばん、家政一般のみでなく英語も)を身につけさ
せ社会に送り出す、という現実的な視点から実学を教えたことである。福祉活動から教育
活動に入ったことが、単に一般教養を教えるというよりも、生徒たちが彼らの出身社会(階
級・共同体)に出て役立つ教育を目標とした。その姿勢が現地文化への柔軟な対応につな
がり、賛否両論がありながらも、マラヤや日本の現地社会へ彼女たちの活動の適応度や定
着度を高めたことは間違いない。またそれゆえ、同じ修道会経営の学校でありながら、後
年、現地化することで各地の教育文化を反映しマラヤ(マレーシア)・シンガポール・日本で
はそれぞれ独自の発展を遂げることとなったのは興味深い。
但し、上記にあげた意義のうち1)に関して、すなわち個々人の「活動動機としての信
仰」、という側面については今回の報告では充分解明したとはいえず、今後の課題といえよ
う。なお、報告者は本報告に関連した著書を刊行準備中である。
=注=
1.幼きイエス会
1662 年、ミニム会ニコラ・バレ神父(1621-86)はフランス北部ルアンの郊外ソットヴ
ィルに貧しい子供たちのための学校を開設。その学校で教育にあたったのが誓願をた
てずに持ち家を持たない女性教師たちであり、その共同体が 1666 年「幼きイエス会」
として発足。当時の修道会の主流は観想修道会であり、この組織編成は画期的であっ
た。バレ神父は 1999 年、ヨハネ・パウロ 2 世により「福者」に列せられる。
2.メール・マティルド(本名:マリ・ジュスティヌ・ラクロ)
1814 年 2 月
フランス北東部ロレーヌ地方ヴォージュ県シュリオーヴィル村生まれ。
2
1826 年(12 歳) 幼きイエス会経営学校に入学。日本関係の書物を読み憧れる。
1832 年(16 歳)
ラングルの幼きイエス会寄宿学校に入学。
1832 年(18 歳)
幼きイエス会に入会。
1835 年(21 歳)
フランス南部バニョールへ赴任、
その後同じ南部のベジェ、セートで活動する。
1852 年(38 歳)
英領マラヤのペナン島、2 年後にはシンガポールで
福祉、教育活動開始。
1872 年(58 歳)
来日。横浜居留地、築地居留地にて福祉・教育活動開始。
1911 年(97 歳)
横浜にて帰天。
質疑応答
Q1.修道院学校の女子教育への貢献についてはわかったが、その教育を受けた卒業生たちの
その後の進路はどうなったか。つまり、修道院学校が全人格的教育を目指し、特に各階
級出身者がそれぞれの階級の規範に適応できるように「躾」を重視したとしたら、「躾
糸」がとれたあとの学生たちにはどれほどの教育効果があったのか。
A.19 世紀においてはかなり教育効果があったと考えられる。手元に統計はないが、フラ
ンス、マラヤ、日本のいずれの社会においても、特に貧困層に対する職業訓練校は大
きな成果をあげた。就職先としてはフランスにおいては召使、お針子(裁縫のほかに
レース編みや刺繍の技術も習得させていた)、店の従業員など。英領マラヤでは欧米式
の慣習を教え英語教育にも力を入れたので、外国人家庭や外国人経営の店で職を得た
りしたことも特徴的である。日本においても卒業生たちの就職に関して、修道女たち
が尽力し高い就職率で評判になった。
だが、21 世紀の現在においては幼きイエス会が設立した修道院学校の多くは現在で
も女子高であるが、それらの学校は進学校としての傾向が強くなり、いずれも大学への
進学率が高い。実は各界で活躍している著名人なども多く輩出しているが、一部の有名
人のみを取材してもそれらの例を一般化して論じるのは難しい。大学卒業後の進路に関
しては卒業生たちのプライバシーなど難しい問題がある。実現できれば大変興味深い研
究となるであろうが、現時点では報告者が卒業生たちに対して包括的な追跡調査をする
予定はない。
Q2.19 世紀のフランスではジャンヌ・ダルクのブームがあったとの説明だが、それはどのよ
うな影響をメール・マティルドに与えたのか。
A.19 世紀のブームはナポレオンが創出したものだともいわれ、それは「救国の少女」と
いうナショナリズムのシンボルとして解釈されることが多い。だが、ジャンヌは同時
にカトリックの殉教者である。マティルドの生まれ故郷のヴォージュ県シュリオーヴ
3
ィル村はジャンヌの出身地ドンレミ村のすぐ近くで、ジャンヌは両村間の農地で神の
声を聞いたといわれている。村の教会にもジャンヌの像があり、信仰心に厚いマティ
ルドは毎日でも教会に通っていたといい、村の中でも何度もジャンヌの話を耳にした
と推測される。伝記によるとマティルドは同郷のジャンヌを誇りに思い、大変尊敬し
ていたという。
これは報告者の想像だが、フランス人女性として前人未到の地での海外宣教に乗り
出し「命をかけても神のみ旨を果たす」というマティルドの強い使命感は、ロールモ
デルとしてのジャンヌを 19 世紀的に解釈したものではないか、と考える。
Q3.メール・マティルドがどのような文献に接して日本に興味を持ったのか、日本研究の立
場から興味深いと考える。調べる手立てはないか。
A.今後の課題と考える。ラングルやパリの修道院を訪ねたときに同じ質問を聞いてみた
がはっきりとした資料は修道院にはない、とのこと。だが、当時の児童が目にする可
能性のある日本関係の本はおのずと限られると思うので、いずれ機会があればフラン
スの国立図書館などで調査したい。
Q4.このテーマで本を書くことを考えているのであれば、彼女たちの活動を横浜の地方史
の中で適切に位置づけることが必要であろう。
A.そのようにしたい。
以上。
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