秋田地方の場合│ 東北地方における中世城館の歴史地理学的研究 ︹論説︺ i 櫓山町絵図(秋田県庁蕨) ζ の絵図は、享保絵図で、秋田藩が幕府に差し出した地図で、か 左 hノ 詳 し く 書 か れ て い て 、 櫓 山 城 や そ の 城 下 町 の 構 成 を 知 る 唯 一 の ものである o 同角舘城見取図(角舘図書舘蔵) 本 図 は 、 門 脇 賢 一 郎 に よ っ て 作 成 さ れ た も の で あ る o 本図 K示さ F D 本堂城実測平面図 土崎湊嘉永記年図(青木保蔵所有) 確K把握できる。 日に佐藤佐によって実測作成されたもので、城舘の規模や構造が正 本堂城跡の調査にあたヲて、昭和一一年(一九三六年)八月一八 ω 氏 の 調 査 が 、 い か K適性であるかがうかがえる。 わが国の中世紀は、荘園制度が次第に崩壊し、守護大名や名主層 を全て大名の給与地であるとし、その表高を基準として、一定の軍 役・公事・反銭・夫役などを課し、彼等を家臣とした。 中 世 の 守 護 大 名 や 名 主 層 は 、 近 世 大 名 の よ うK、 組 織 的 ・ 集 中 的 左統一的権力、または直接かつ単一的に農民を支配する体制をもた な か っ た 点 が 異 念 る 。 こ の よ う な 中 世 的 背 景 の も と khvけ る 秋 田 地 江戸末期の絵図であるが、中世城舘の位置や城下町の形態左どを 三、城舘の分布と立地 知るよい資料である。 6馬 場 包 波 8岡本城 二、主なる研究資料の検討 ζと は 、 適 格 念 資 料 が 得 が た い と 凡 開 方の城舘の構築と城下町形成の地域的位置づけを試みたい。 中世城舘の研究で、最も至難左 1 0岡 f被 日鴻城 1 4大舘城 5木 千 塘 7. 11.域臣峻 9詑!(減 1 1来円沢縁 1 3嵐 田 城 とである o 特に東北地方にないてそうである。 T 。,、 0・まみね@あらし 作山峯之嵐(岡見知愛著) 本研究で主たるよりどとろした資料は次にあげる著書と地図類で ある。 ω L鹿角地方を障( J 1槽!iJ城 2務 城 3,備本噌 4."島 城 ; r 秋 田 藩 境 目 奉 行 岡 見 知 愛 が 文 化 二 年 こ 八O 五)に書いたもので、 秋釦命以北 B 仙北・平獲・雄勝 3罰 1原 庭 城 2横手械 3. 11連 域 4 . A { ' ;峻 5 . . 東減 6院 内 城 7小 野 城 8 . 崎城 9箇馬音広域 1 0桟 舞 減 Il樋口減 1 2吉田成 日初白域 1 4 ., l 毒事変城 1 5 た胞雛 16六 郷 減 1 7本 全 域 1 8角 舘 減 目柄舘械 立した時期である。戦国大名の性格は、領国内の国人・土豪の所領 れてある城舘の構成や城下町の位置左とは、今現地に足を入れると 一、はしがき ( 2 ) が発生し、中世末期から戦国時代にかけて、いわゆる戦画大名が成 J 1 s 知愛が藩内の土形調査のため巡回し、中世城舘については、所在地 A -1- 鉄 の地形状況、領主及びその城舘に関する歴史的事項一などが記述され、 信びょう性がある o 主要減舘の分布 図 1 浦 , , 、 城舘の分布 城 舘 の 分 布 は 図 1 K示 す 通 り で あ る 。 た だ し 、 由 利 地 区 と 鹿 角 城﹂の時代で、特殊左要害の地形を利用して、峻険左山頂左どに築 城されたので、城下町はほとんど発展し左かったが、室町時代や戦 備などの理由から、築城地点が領国の政治経済の中心地、交通の要 国時代になると、商品経済の発達、大名領地の拡大、軍団組織の整 A 地区(横手盆地)の I グ ル ー プ は 、 小 野 寺 氏 の 一 族 、 重 臣 の 拠 、近世城郭のよう念﹁国 地 な ど の 平 野 部 に 進 出 移 動 す る よ うK 左 hJ 地区は除外した。 城である ι 小 野 寺 氏 は 、 関 東 地 方K ないて成長した東国武士で、弘 堅固の城﹂ではなく、それへの過渡期の形態と考えられる﹁所堅固 制丘陵、台地l①稲庭城、②横手城、③川連城、⑤三梨城、 A 地 区 ( 番 号 は 図 中 K記 し た も の ) を地形立地の立場から大別すると次のように左る。 秋田地方k bけ る 築 城 も そ の 例 外 で は 左 い 。 図 1 K示した城舘 般であるとしている。 の城﹂で、ある枢要地点の E陵や河川を利用して構築されるのが一 長 こ 二 六 一 1六 一 三 年 間 か ら 文 永 こ 二 六 四 l 七 四 ) の 初 年 頃K 雄勝郡に移住し、南北朝時代には、相当な勢力を得、東北地方の武 将としての基盤は、鎌倉時代の後期にできあがった℃ E グループの白岩氏、前田氏、六郷氏、本堂氏、戸沢氏は、一応 小野寺氏の配下にぞくし念がらも独立的立場をとった。 B 地区(秋田平野・米代川流域)は、全て安東氏(三浦氏)の一 ⑥院内城、⑦小野城、⑧岩崎城、⑨西馬立国内城、⑭樋口城、⑬柳 族 、 重 臣 の 拠 城 で あ る 。 安 東 氏 は 鎌 倉 時 代K津 軽 地 方 の 十 三 湊 を 中 ' 心 に 地 頭 的 地 位 に あ っ て 勢 力 を は っ て い た 豪 族 で 、 南 北 朝 以 後K 日 O 沼舘城 丘陵、台地l①槍山城、③本城、④豊島城、⑤太平城、 内沢城、。三浦城、 O 扇田城、@大舘城 河口l②湊城 数 え 、 平 地 K立 地 す る 平 城 は 、 僅 か K六を数えるにすぎない。 さ ら に 形 態 上 か ら す れ ば 、 丘 陵 や 台 地K立 地 す る 山 城 は 、 二 七 を ω ⑥馬場目減、⑦五城目城、⑧岡本城、⑨能代城、@阿仁城、⑪米 ω B 地 区 ( 番 号 は 図 中K記したもの) 日 開 扇 状 地10桟 舞 城 、 ⑨ 吉 田 城 、 ⑫ 本 堂 城 似沖積原l@大出城、 田城、⑭馬鞍城、④白岩減、⑮六郷城、@角舘城 h vい た 櫓 山 安 東 氏 と 湊K根拠を h vいた湊{女 本 海 沿 岸 を 南 下 し て 、 秋 田 地 方K 入 夕 、 秋 田 郡 の 小 鹿 島 、 湊 を 含 む 一帯の地域を支配した。 安東氏は槍山に根拠を 東氏の二大対立の形勢で、両安東氏とも、との状況は一五世紀の中 葉とされている o 天 正 一 七 年 ( 一 五 八 九) Kは、槍山城を湊に移し、 城舘の立地と形態 秋押城介を名乗り、秋田郡・槍山郡・比内郡を、その支配下になさ めた c ω 城舘とは、一一般K城とその外、周囲の山河を含める場合が多い。 原因伴彦によれば、中世の城舘はその初期はいわゆる﹁城堅固の そして外敵の侵攻から守るための防御施設のととである。 -2- 回、城舘の構成と地形利用 城舘は、外敵の侵入を防御するととが目的であるから、その構成 は、立地点の地形を城舘構成の最大の要素として、功みに利用して、 そ の 目 的K か左うようにし-なければ走らないことはいうまでも念い。 図 2 享保年聞の櫓山町(秋田県庁蔵より) 本穏では、山城の好例として、槍山城・角舘城、平城の好例とし て、本堂城・湊城 K ついてそれぞれ述べよう。 櫓山城(図 2) T . K多賀谷家中 A. K芦名家中 M 飯野組下 A 且経 3 三ノ丸 4 隅櫨脇 多賀谷氏輯跡 T H. A .I ・山安東氏暗跡 北 槍山城跡付近の地形は出羽山地の一部分、母体国有林と谷地沢国 有 林 か ら 発 源 す る 稽 山 川 が 丘 陵 中K狭 い 谷 を つ く っ て 、 北 西 方 を 流 下する米代川本流と東能代付近で合している。 槍山城跡の立地する丘陵(標高二ハ一 m ) は、槍山川の谷中に発 達 す る 道 路 と 志 戸 橋 洪 積 台 地 上K開 発 さ れ た 旧 街 道 と の 交 差 地 点 に 形 成 さ れ た 檎 山 町 の 背 面 山 地K あ た る 。 そ の 山 形 は 、 大 き 左 馬 蹄 型 地形の様相を呈し、とのような地形を利用した稽山城をエゾ舘式馬 構 成 l本丸、二ノ丸、一二ノ丸から成る。 蹄形の典型的城舘と称されている。 MW 付 作 事 l 丘 陵 中 央 部 の 標 高 一 四 五 mK本 丸 が な か れ 、 そ の 南 面 に 一 段 低 く こ ノ 丸 、 さ らK 一段下って三ノ丸(武者だまb) 、 最 前 に 取 る よ うK 眺望がきく o 築城 K欠 く と と の 不 可 能 な 泉 は 、 本 丸 の 線にあたって物見櫓が設けられ、ことからは、米代川下流地域が手 西側Kあ っ て 、 人 工 と 思 わ れ る 長 方 形 の 石 枠 が 現 存 す る 。 馬 蹄 形 の 峰 は 、 僅 か に 一 五O m位であるが、谷が深︿峻険そのものであって、 l@空 濠 ( 本 丸 の 東 側 の 緩 斜 面 に 空 濠 が 数 個 み ら れ 、 中 難攻不落の言が適格である。 付土工 には濠の上に土塁を築いたものもある。との点は峰一つ越すと、櫓 山 川 の 谷K 発 達 す る 小 沢 口 部 落 へ 容 易 に 通 ず る と と が で き る の で 、 防 御 上 特K意 を 用 い た も の で あ ろ う 。 西 側 正 面 の 三 ノ 丸 、 隅 楼K い える斜面K、 土 橋 切 通 し と 称 す る 空 濠 が あ る 。 と れ は 城 舘 本 拠 を 防 ぐ目的であったにちがいない。﹀、②待伏穴(空一家の内側khvける 山地や台地に大小の凹地が在在するが、がそらく伏兵戦用であった ろう。)、③段状の築造︿減舘周囲の峰や台地には、回廓上の段状 -3- ω E 本丸 2 ーノ丸 安 東 氏 が 津 軽 十 三 湊 の 地 か ら 秋 田 地 方K 入ったととは既述した。 稽 山 城 は 五 世 紀 皇 官 、 安 東 忠 季 Kよって構築され(旬。 両 容 西 ず、作戦上の﹁カラクリ﹂を仕かけるのに使用されたものではある の構築が施されてある。 ζれ は 城 舘 内 の 連 絡 通 路 で あ っ た の み 左 ら の標高二ハ八 mの第一台地は本丸で、 を 現 存 す る 山 地 形 と 図 3 ﹁角舘城の見取図﹂とからみると、最上 念 山 城 で あ る こ と は 、 前 述 の 稽 山 城 の 場 合 と 同 様 で あ る o その機構 ζれ を 取 り 囲 ん で 第 二 台 地 が ま い か 。 二 ノ 丸 、 三 ノ 丸K み ら れ る 段 状 構 築 は 、 見 事 と い う ほ か は i l if C 望f ト一一一一 a 外郭には水濠をめぐらし、横 それぞれ控え、さらに山城の 檎 木 内 川 、 北 方K院内川を、 要 す る に 、 角 舘 城 は 西 側K 城の形態をとっている。 めぐらされ、完全な山城兼水 K よる水濠が、北東と北西に 山麓には、院内川からの引水 湧 泉K依 存 し た 。 と の 山 城 の 飲 料 水 は 山 麓 の 数 カ 所K ある して利用されたに違い左い。 地 点 で あ る が 故K、 当 然 砦 と 城舘の心臓部の役を果すべき 置されたととろであるから、 倉庫・兵糧庫・役所左どが配 北側の舌状台地は、軍営・ として利用されたであろう。 展望がきき、砦(物見トリデ) ζれ ら の 出 丸 か ら は あ る が 、 と れ が 二 ノ 丸 、 そ の 外 側K第 三 台 地 の 三 ノ 丸 が あ り 、 さ ら 何時築 議士築造 がある。 、@(本丸からの見通しの悪い地点には、見張用の﹁ト 形 態 (カノク叫乍 職K利 則 ) 戦 K手1 問1) G) と { 多 hに を構築 山崎兼水練 付 } -4- ない 直 に南側K半 長 円 の 台 地 が あ る o 西側Kは 軍 営 を も っ 西 出 丸 ・ 南 出 丸 る水極的築 宜側建築 リデ﹂を構え・た。槍山中学校裏側の丘陵K あ る 砦 は 、 そ の 跡 が 今 友 会 よ く わ か ぽ ゲ ) 要 ナ る K、 槍 山 城 舘 の 構 成 は 本 拠 地 点 の 本 丸 が 馬 戸沢氏の角舘地方への進 出は、判然とし左いが、応 状の段状地 ζれ を 取 り 巻 い て 馬 蹄 型 内 側 の 急 斜 面 図 3 角舘城の見取図 (門脇賢一郎氏作、角舘図書舘蔵) 宮勇水 、 の引ホによ ノメL 永 年 間 説 ( 三 九 四 1 一四二 ノA L ノ 工 院内!f!から 中' L ' K t ! A由 民 ニノ ; t L 七)と天文年間説(一五四 状の段状地 2 楠本内1 1 1・ Ol四五)とある。いずれ 的利用 3 L 領主の舘を 1 姥杉山山侃 K せよ、戸沢氏が、南部岩 手から秋田仙北郡に入った (6) ζと は 事 実 で あ る 。 角 舘 城 は、横手盆地北部の第三紀 分 離 丘 陵 で あ る 古 城 山K 建 造された中世末期の典型的 {カゾクリ f 乍 1 1 I ¥ e 内1 埴 らの炭 Z 米代川と槽 左 1 . ..メL Z 話 埴書官か } 局 . i l . !V C . J i す丘崎町利 角 宝療の q' , L'~ご 11'1 由‘ U I は J 11 集〈 植ヨの需を {~'地 (fC l!..!! 臨 , 蹄型地形の中央部になかれ、 ¥ x , ヘ エ ゾ 臨A馬 埴結の峰や ノ丸 が あ り 、 そ の 上 最 も 危 険 祝 さ れ る 地 点Kは 空 濠 を 掘 り 、 ま た 待 伏 穴 取 蹄f ちの埴館 l ' 1 1 楕山丘蝿の 作伏穴 を築造し、峰や台地には伝達用兼カラクリ用の段状地を構える念ど、 , 湧水 1 . 島蹄作会地 f 号 Z 情 J 転 要 ﹁エゾ舘式馬蹄型城舘﹂の性格を表現している。そして北方には、 比例 水 象 段状地 飯さの書官 I~ 地 IJ:~ 構 I ¥ ! : 1 埴 角舘域 H ‘九 2 ノ1 3 ノJ ' 0,吻 1 M丸 0,ぬ同月 I h札 d 槍山城と角舘城と の比較 表 1 米代川、丘陵直下には槍山川が流れ、最前線の防御線を形成してい る 。 ( 2 ) 固な城舘でちった。次に穐山城と角館城とを構成要素でるる地形・ 手盆地北部平野に孤立する古城山の丘陵利用と相侯って、極めて堅 成 は 図 5 ﹁ 本 堂 城 実 測 平 面 函 ﹂ で 見 る と 、 本 丸 の 面 積 は 三0 ・八 真昼川一扇状地末端部の舘ノ間付近K 平 城 を 築 い て 移 転 し た 。 そ の 構 )り塁がめぐらされ、その一 るo また本丸の周囲に土 八八 s mで 東 門 ・ 商 門 ・ 南 門 が あ っ て 、 そ の 門 跡 が 今 な な 明 ら か で あ などについて比較すると、表ーの通りである。 領主の舘・段状地・濠・待状穴・砦(物見トリデ)・飲料水・形態 櫓山城と角舘城との大きな相異は、防御上から前者は空濠を、後 者は水濠をもってし、また形態や性格上からは、槍山城がエゾ舘式 図ょ部分が北東から南西部に 原図 - 測 か け て 残 存 す る o なな外 の実 効日濠と内濠が、整然と配さ 馬蹄形の山城であるのに対して、角館城は山城兼水域である点であ る。稽山城はエゾ舘式であるととは、櫓山安東氏が津軽になける抗 本堂氏は、上本堂(元本堂)、 防 本 堂 城 ( 図 4 ・5) 下本堂(城回)を、本拠とした 豪族で、陸奥田和賀郡から移住 し、その時期は室町時代の初期 頃 と さ れ て い る o 戦国時代には、 伊勢守忠親・茂殺の二代にあた か 立 津軽安東氏が秋田地方に入ってから、内証によって櫓山安東氏と よる水域である。 河 川 利 用 の 水 濠 と 土 塁K た o 要 す る K本堂城は、 耕地整理によって失われ け佐この内・外の濠は、今は ω藤 れ て い た と と も 知 ら れ る o 同湊城(図6) 湊安東氏の二大勢力が対立した。湊安東氏の根拠地は、湊城である。 本堂城は、はじめ室町時代の 下の真展一川と、その支流に狭ま o 土崎湊嘉永記念図(青木保蔵所蔵﹀の三葉があるが、湊城の位置の 土崎の古図として、元文の地図、弘化三年の地図(川口家所蔵)、 川の川口で砂地である 初期、当地仙北郡の真昼断層崖 図 4) 0( その位置は現在の土崎駅前神明社の地点であった o 地形的には雄物 図 5 本堂城跡 れた細長い丘陵地を利用した山 城である その後、本堂氏の勢力伸張に 伴 い 、 天 文 四 年 ( 一 五 三 五) K、 5- 一 争の経験から得た築城法であろう o 本堂付近(五万分ノ一、フ榔図幅・国土地理院) 図 4 j c 内 E神 明 社 内 務 城 跡 図6によ 図6のみであ 確認されるのは 和六年(一六二O ) 檎山城が、破却され安東氏にかわって、佐竹氏 は略々現在の町議K近 い 状 態 ま で 整 え ら れ た も の と 考 え ら れ れ 。 元 移 住 が 行 わ れ 、 天 正 一 七 年 二 五 八 九 ) 、 戦 国 期 の 安 東 実 季 時 代K の縁戚Kあ た る 多 賀 谷 氏 が 支 配 者 と 左 り 、 槍 山 城 跡 か ら 北 西 に あ た 湊城跡である。 社で、かつての き当たりは神明 町との小路のつ 方へ蒜町と萱村 田町 K 一四人と記されてある。以上の町 K足 軽 町 ・ 倍 臣 町 を 含 め て (御組下)六四人、その内訳は、新町 K 二二人、赤舘町 K二一七人、 大町(一七八間)、馬一州場町(一三九間)と念っている。さらに ﹁槍山在住者士族氏名調﹂ Kは 、 多 賀 谷 家 々 中 七 六 人 、 多 賀 谷 支 配 間)、下タ町・倍臣町(一三六間)、高町・愛宕町(一 O 七間)、 三O 間 ) 、 赤 舘 町 ( 三O 二 間 ) 、 田 町 ( 九 五 間 ) 、 足 軽 町 二 五O 町 割 は ﹁ 羽 陰 湿 故 誌 ﹂ に よ る と 、 新 町 ( 二 四O 間 ) ・ 亀 堂 町 二 との湊城跡に平 内町と称し、その他の町は外町と称した o櫓山町は多賀谷氏時 K 入 所土崎支所々蔵)にも明記されている。以上述べた本堂城と湊城の P、 中 世 末 期 に 角 舘 城 を 築 造 し た 戸 沢 氏 K 角 舘 城 下 町 は 前 述 の 通- 間 角 舘 城 下 町 ( 図 3) よって形成された。す左わち、古城山(角舘城築造の丘陵)北方山 に 、 櫓 山 川 の 北 方 、 松 山 城 の 立 地 す る 丘 陵 を パ ッ ク K南 方 に 形 成 さ 安東忠季K よ っ て 計 画 、 建 設 さ れ た 。 城 下 町 は 図 2 で わ か る よ う 槍山城下町は、室町期(一五世紀中)中葉に、槍山城を構築した 更正検地日空によれば、戸沢氏にぞくする郷村数回三、知行高四 城廻は、給人屋敷であったろう o 存地名の本町(もとまち)は、市町で商人の居住地であったらしい。 東 K向 っ て 設 け ら れ 本 道 に 架 せ ら れ た 橋 の た も と に 設 け ら れ た o 現 麓の水濠と院内川との中間低地につ︿られ、大手門は、本丸から北 れ 、 領 主 を 中 心 と す る 支 配 者 と 防 衛 の 武 士 団 は 、 城 舘 の 左 右K居住 四、三五O 石 、 士 率 は 約 一 、 五OO人 、 百 姓 は 四 、 四 三 五 世 帯 と 左 る。戸沢氏の経済的基盤地域は、城舘から北方の稽木内川流域と、 (mM) し ︿ 屋 敷 跡 ) 、 そ の 他 の 人 々 は 、 北 方 の 母 体K居 住 し た ら し い 。 町 削櫓山城下町 玉、城下町の成立とその時代 二平城は、唯一の防御線として水濠を構えているととは共通点である。 って、近世的城下町として出発するととに念る。 城の防御用とし る御番所から東 ると、雄物川の e 川口地付近にあ O る台地状の茶北山に舘均構えた。 る 土返りの年代は不明であるが、田町、赤舘町ができると、母体からの -6- 土崎湊嘉永紀年図 図 6 5永覚町 4下指田町 1 1相 染 新 1 0新 町 9森町 7小鴨町 8貸付町 2城 町 3 .1::酒山町 1殺 保 町 6加賀町 て北東にわたって鍵状K水濠の存在が認められる口地籍図(秋田市役 取 経 済 的 Kは 勿 論 、 軍 事 的 Kも 意 義 が 深 い 。 慶 長 七 年 ご 六O 二)佐 まb 両河川の合流点である谷口に城舘と城下町を構成したととは、 町、加賀町、永覚町、上・下両酒田町、新城町在どの区劃が判然と 人のみとなったので、新しく町割が施行され、蒜町、萱村町、小鴨 院 が 久 保 田 城 下 に 移b、 湊 町 地 域 に は 空 地 が 多 く な り 、 そ の う え 町 近世期 K念 っ て 、 久 保 田 城 ( 佐 竹 義 宣 ) が 完 成 す る と 、 武 士 ・ 寺 竹 義 宣 が 秋 田 K入 部 し 、 戸 沢 氏 は 常 陸 松 岡 へ 転 封 さ れ 、 翌 八 年 ( 一 左った。とれらの町を総称して湊八町とよび、湊の中心街を形成し 玉川流域 k bかれ、前者は金山 K後 者 は 森 林 K大きく依存した o つ 000石の知行を与えられて、 六O 三)義宣の弟、声名氏が一五、 平城を た。とれより湊町は秋田藩の外港として経済の一大源泉と念った。 同 本 堂 城 下 町 ( 図 4 ・5) 角舘城主と念る。芦名は角舘城の正面を一戸沢氏時代の北高から南面 K移 し 、 さ ら K城 の 位 置 を 山 麓 へ と 移 し て 、 近 世 的 城 下 町 の 町 割 を 本堂城下町は、天文四年(一五三五)本堂寺舘(舘間 ) κ 施行した。 Kは じ ま る 。 現 存 す る 穀 保 町 の と こ ろ K、後城(うしろじよう)、 目 木 念 ど が あ る o 地形図には左いが、字名として残存するものは、 思われるものを、地形図からひろうと、本堂城回、舘問、飛沢、百 構えてから町割がなされ、その位置は城舘東方約一加はなれた扇状 城町(じようまち)、馬口労町(ぱくろうまち)左どの字名が残存 舘、北舘、八巨川、一本杉、道尻士口清水、後町、宿回、嶋の腰、観 同開湊城下町(図6) する o 恐 ら く 安 東 氏 時 代 の 武 士 屋 敷 で あ ろ う 。 ま た 湊 城 の 北 西 側 K 音堂、城方小屋、田町、森崎、馬場、仲の町、横町、本堂町左ど一 地の湧泉地を選んだ。今の本堂城田の地である。当時の残象地名と 当って、一騎町と称する地名があるが、一騎当千の侍の居住地で、 六を数える。以上の地名から当城下町の形成を判断すると、舘、北 湊城下町の形成は、湊安東氏の成立の一五世紀中頃(一周囲二) いわゆる﹁御家中屋敷﹂である。 いるのは、穐山と戸島の二つの町だけであって、土崎の記載は左い。 安東実季の門知行自窒(天正一九年正月) Kよると、町を形成して の付近 K居住地が設けられた。 舘間は、一般武士の居住地であったろう。いずれも城舘を中心にそ 舘、舘聞は、城舘の位置を表わし、二ノ丸は重臣の鹿住地、北舘・ (日) したがって、当時の湊は一つのまとまった町では左︿、小部落であ 寺 、 摂 津 国 か ら 一 カ 寺 な ど の 寺 院 が 転 移 し 、 さ ら K北陸地方や山形 また、戦国の戦乱をさけて、加賀園から五カ寺、河内国から一カ 大日如来、後町の八幡宮、北舘の観音堂、寺舘の稲荷明神、百白木 また信仰の中心として、馬場の稲荷明神、田町の神明社、仲の町の る ζと は 、 本 堂 城 回 は 、 純 然 た る 町 人 の 町 で あ っ た ζとが窺える。 後町、田町、仲の町、横町、本堂町などが、本堂城囲内にみられ の日本海沿岸地方から移住した人々によって、沼田町・加賀町が成 の雷神、士口清水の善証寺などがあった。近世げいなると、佐竹氏の支 ったと考えられ、そ一 ζがいわゆる町人の町であったろう口 立し、湊町の基礎がつ︿られた。湊安東氏の経済的重要機能を果た 配下 Kぞ く し 、 多 く の 社 寺 が 、 六 郷 城 下 町 Kま と め ら れ 、 人 家 や 町 (比) した ζとは否定でき左い。 一 7 H (時) 扇状地 {平埴) 人・百姓が減少した。 本堂氏 の舘 六 、 地 域 的 位 置 付 け ( 表 2) H 中世オ 1535 檎 山 城 は 、 出 羽 山 地 北 部 k bけ る 日 本 海 岸 沿 い の 金 光 寺 や 志 止京屋敷と " 1人屋世の地帯j が念された。 昼 芋 主 ω w , H 戸橋によって代表される洪積台地に続く要害性の丘陵地を利用した 扇末松地 端 佐竹氏 の支配 エ ゾ 舘 式 馬 蹄 形 の 典 型 的 山 城 で あ る 。 城 舘 の 前 面 K稽山川の谷を、 久保日!粧ι IA伶 、 新 し 〈 町 割 吐 い 純 然 た る 時 町 が市 b Xされた。 近世 はるか北方に米代川を要し、東・西・南の三方は山地にかとまれ、 H O J 山と川 K よ っ て 防 御 で き る 絶 好 の 地 形 的 位 置 Kあ る 。 城 下 町 は 山 麓 , 1 1 1 L I (平抽) に つ く ら れ 、 当 初 は 槍 山 川 沿 い の 小 沢 口 に 近 い 母 体 K武土を居住さ 埴町{武家屋敷)と鳥 1 1労町、舟付場、絹日 1 町 、 加!¥町(晶人町)が形成された。 氏揖宣の銑 車 せたが、後 K交 通 を 考 え 、 城 舘 の 北 西 部 の 丘 陵 を 切 り 開 き 、 羽 州 街 H 中世 1442 て、米代川流域 K支 城 を 置 き 、 領 国 体 制 を 整 え 、 経 済 的 Kは米代川 I I I L Iの 低地 揖 道に短距離で連絡し得る地点に町割をし、城下町を形成した。そし 氏托より、埴舘の南側低地に新 L (町割が合 芦 , され近世埴下町の銑ができた。その世 t t i竹氏が継 本す。 声竹 名 佐氏の両 舘 流域の森林資源と鉱山資源を会さめ、さらに能代湊を交易の核とし H H 町近世 て、槍山安東氏は米代川流域を基盤伊作戦国大名へと成長した。近世 K念ると、城下町は多賀谷氏 K よ り 再 び 町 割 が な さ れ 、 近 世 城 下 町 角舘城舘は、横手盆地北部の分離丘陵を利用した山城である H 佐竹氏 の主自i c として発展する。 ω 本町{庶民町}と塙魁{武家屋京)が形成された。 左夕、近世になって、 城舘南面の槍木内川 J T 施 と玉川と K よる沖積 原K新 た に 町 割 いたって立派な城下 行し、佐竹氏時代 K 湊城は、雄物 町が形成された。 ω 川 の 河 口 付 近 K、 出 くみに利用して防御 雄物川の河跡湖をた 線とした平城である。 槍山安東氏が、山城 を構えたの K対し、 めて、湊を中心とす 湊安東氏は海岸を求 る経済交易に重点を ないたことはよいコ ントラストである。 城下町は武士の居住 つの要素から形成され、商業活動 K主 点 の あ っ た と と は い う ま で も 地 域 と し て 発 展 し た で あ ろ う o特 K近世 K入 っ て か ら は 、 久 保 田 の ない口湊は、雄物川流域を後背地にもち、北海道、関西方面を前方 地である城町・後城と高人の居住地である沼田町・加賀町と湊と三 D 城下町は、本町(庶民の居住地)と城廻(武士の居住地)とから 安東氏、南方の雄小野寺氏 Kよく抗し得た原閣であったろう 流 域 は 、 戸 沢 氏 の 穀 倉 地 で あ る ば かb でなく、木材や砂金の産 K恵 町近世 が、水濠をめぐらしである点から、水域の性格をももっ。城舘の前 H 角 面である北西方に、槍木内川と院内川が流下し、東南方は山地 K よ って、完全 K遮 断 さ れ た 要 害 の 地 で あ る 。 そ の う え 、 檎 木 内 川 と 院 六郷埴下町 K 社与の~(が移転し、町人、白牲が 山麓 書E , 8- 誠少した。 再庄の町載により、内町と外町の区分がをされた。 戸昔て氏 の舘 埴下町のれ成とその変曹 まれた地域である。かかる地域的優越性が、戸沢氏をして北方の雄 内川の両谷の合する交通上の要地でもある。槍木内川や院内川の両 r H (丘山職陵) , 中伊 1423 庶民 山 多賀幸舘 子 氏の 町近t!t 武京の居住地割が施行された。 山睡 槽中 144 世 3 稽山室 東氏の 舘 (山塘) 屋敷 武 社 事 寺 、l 機 能 の 変 容 構成要素 E 陵 位置 歴史的 地帯的位置 核(舘) 時期 町 城 下 槍山、角舘、湊、本堂の城下町の対比 表 2 外港、 また西廻り航路の要として、裏白本げいなける重要左海として れも後者にぞくし、檎山城舘や角舘城舘は、天然の要害に人工を加 撃と防御の二菌性をもっ城舘である o 本稿で取扱った城舘は、いず えた堅屈な山城で上杉氏の春日山城、畠山氏の七尾城などに匹敵す 格付けされた。 同本堂城は、横手盆地北部の真昼断層崖下の川口川扇状地の麗 岩氏、戸沢氏、六郷氏、前田氏などの諸豪族に対する中央的位置、 進 め や す い 地 点 、 交 通 的 Kは 角 館 街 道 の 要 地 、 軍 事 的 、 政 治 的 に 白 国 体 制 を 整 え る に は 、 ま ず 経 済 的 K扇 状 地 の 湧 水 を 利 用 し て 開 発 の を め ぐ ら し た 点 で 水 域 の 性 格 を も っ 。 本 堂 氏 が 、 戦 国 期 khvけ る 領 湧水に恵まれた一扇端部の舘間付近に築城された平城で、二重の水濠 城下町を平地に形成した o したがって、減舘と城下町とは、ある距 済 的 、 交 通 的 面 を も 考 考 し て 選 定 さ れ た o 特 に 経 済 活 動 K留意し、 た o したがって、一旗舘の位置は、軍事的考慮のほかに、政治的、経 積は、必ずしも広くは左いので、領域開発に力を入れる必要があっ 補強した o ま た 領 域 は 夫 々 分 割 統 治 の 形 を と フ て い る か ら 、 そ の 菌 らし、そのうえ土塁を築く左ど天然の要害に劣らぬ程、人工を加え 湊城舘や本堂城舘は、平城で河川を巧みに利用して、水濠をめぐ る 。 これらの点を考慮すると、城舘の位置が、舘間付近が最良というと 頂 部 に あ た る 断 層 屋 上 Kあった山城から、一歳央の乏水地をさけて、 とになる。城下町である本堂城回は、武家屋敷と町人屋敷とからな 一九七六年日本地理学会春季学術大会げいないて発表 離間隔がたもたれた。 ﹁本研究は、 hM 私学研 し た 要 旨 Kそ の 後 の 研 究 を 加 え た も の で あ る 。 現 地 調 査 に 際 し て は 、 河田駒蔵氏や後松州造氏のど教示を得たことを感謝す。左 一九六二年 (聖霊女子短期大学) 秋田県﹃秋田県史﹄第一巻、古代・中世一編 修福祉会の研究費によることを付記す。﹂ (1) 9 っていた o 近 世 に 左 っ て 、 佐 竹 氏 の 支 配 下 K 入るし亡、多くの社寺が 六 郷 町 に 移 転 し 、 町 人 ・ 百 姓 が 次 第 Kその数が減少した。 七、むすび 東 北 地 方 K関 東 武 士 が 定 着 し 、 在 地 領 主 と し て 勢 力 を 伸 張 し 、 発 展 す る に い た っ た の は 、 大 体 鎌 倉 末 期 と 思 考 さ れ る o これより東北 地 方 が 新 時 代 を 迎 え る が 、 同 時 K秋 田 地 方 の 中 世 期 の 開 幕 で も あ る 。 関 東 系 武 士 は 、 雄 勝 郡 K土 着 し た 小 野 寺 氏 、 比 内 K土 着 し た 浅 利 氏 がある o 地方系武士は、安東氏・戸沢氏・本堂氏:::左どである。 前 掲 ヘ 1) 四一六 i 四四一一員。 三九Oi二一九二頁。 (2) 九一 l九六 に努力した口開発面では、鎌倉武士団の移住による開発と現地士一豪 一一月八日付。 原田伴彦﹃歴史一地理講座第三巻﹄一九五七年 頁 。 秋田魁新報﹁槍山城と安東氏﹂ 一九七七年 (3) 中世期 Kたける城舘は一つは、鎌倉時代の守護地頭の配置による 支 配 体 制 か ら く る 山 城 、 他 の 一 つ は 、 室 町 l戦 国 時 代 K か け て の 攻 (4) による開発と二重構造的性格をもつものといえる。 彼等はその領域内に一族・重臣を配して防御体制を整えながら開発 j 主 (8) (7) (6) (5) 能代市編さん委員会﹃能代史稿第二輯﹄近世上一九七 l 千畑村公民舘﹃本堂公特集﹄一九七二年三一二!四六頁。 前掲(1)四二O 頁 。 河田駒雄氏(穐山町在住、郷土史家)による。 。 一九九頁。 前掲 (8) 一九七七 一九六一年 (9) 年一二八頁。 前掲 ( m ) 一二九頁。 秋田県﹃秋田県史資料﹄古代・中世編 入九 l四O 四頁口 前 掲 ( 四 ) 四O 九!一五頁。 歴史図書社﹃羽陰湿故誌﹄四(新秋田叢書四) 、-'、./ (刊) ︿ (日) H) ︿ 臼 ) 前 掲 (7) 一一一一!二三頁。 〆旬、 12 1 1 A STUOY ON す栂E HISTORICAL GEOGRAPY OF THE MIDDLE AGES CASTLES 0側 TOHOKU DISTRICT. JAPAN THE COUNTY OF AκITA ・ ・ τ t uro 輔 l u r . rhis paper is a tr ・ ia1 essay 0:1 the regユonal positlon for the foundation 01'じ h e castles and the castle-towns of Akita. ' ii dd1e ム耳 es in the Tohoku 1 Ji strict begin when Kanto・ ベ . iamurais The I cam~ to settle down i n the areas in もhe Late Kamakura period,which a1so means the beginning of the Middle Ages in Akita. The lords of the territories who were called Onodera,Ando,Tozawa, Hondo and l イo kugo, were from the most famous powerful-families in those clays of Akita, they buil七 a castle in their own territories and made ~reat efforts for the reclamation of their a r e 8 f i . ~pecia1ly in this study 1 stated about the cast1es and cas七1e-towns cons七ructed by the above-mentioned powerfu1-families in the period from the Muromachi s 胃e to the ~engoku ~ge. One of the characteris七1CB of the construction of the castles was in the point ma . kin p ; good use of ffio~~tains or riverst and as 七he territory was narrow they had to strive on,and the sites of the castle-towns were se1ected for the reclamatェ on for the politics,economy and traffic in the area. with consideratェ -10ー
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