さようなら私の恋人

せずには帰れない
電脳版
Illustration /メグ・ホソキ
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せずには帰れない
吸殻
﹁うーん、 確 信 が も て な い ﹂
と言われたときはびっくりした。
びっくりしつつも、なんとなくそんな気もしてた、と思った。
回答は私 が 発 作 的 に 、
﹁ねぇ、私 の こ と 好 き ? ﹂
ときいたことにたいしてである。
こんなめったにきいたことのないことをどうして尋ねてしまったかと
いうと、二人で一緒にベッドにいるときに彼の携帯電話が鳴り、見るつ
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もりもなく掛け布団をとろうとして見てしまったら、女の人の名前だっ
たからであ る 。
べつに深夜に女の人から電話があっても、私のあずかりしるところで
はないのだが、その日はなんとなくきいてみたくなるような日だった。
その日、私たちは東京ドームのネット裏の入り口で待ち合わせをした。
私がどこかの社長からもらったチケットがあったのだ。
私は彼に後ろから近づいた。
彼は私に電話をかけようとしていて、ふりむいて、
﹁ああ、そ こ に い た の ﹂
といったが、もうかつての顔ではなかったからだ。
この人はかつて待ち合わせ場所で会うたびに、私のことをまるでまぶ
しいものを見るようにして見る人だった。
私は変わらないけれど︵歳は五歳ほどとったけどね︶
、彼の中の何か
がかわった の か も し れ な い 。
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私はこの世の男すべてに否定されたって、この顔で私のことを見る人
がいる限り平気だと考えていた。
ネット裏で私は彼にいろいろ話しかけたが生返事とはいわないけれど、
かつてとはちがう︵ここで私は江夏さんとしゃべりに言ったりするのだ
が、それどころではない︶。
帰りに焼き鳥屋で銀座の並木通りの話をした。
﹁え、じゃあ、あそこは九丁目?﹂
﹁ちがうよ。九丁目は水の上、っていう歌があるでしょ﹂
﹁しらないよ。だったらあの店は八丁目?﹂
﹁そうよ。だから銀座ナインは九丁目のつもりじゃないの?﹂
﹁それはわ か っ て る っ て ﹂
とかいうどうでもいい話だったのだが、彼はいらいらと答えた。
びっくり し た 。
﹁そうかぁ、だからナインっていうのかぁ﹂
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とかいう返事が返ってくると思っていたから。
私たちはセックスをしたが、彼の心は私の心とセックスしたわけでは
ない。
だから帰り際、﹁私のこと好き?﹂と私は尋ねたのだ。
詳しく尋ねると、ある事件があって以来、彼は私への気持ちが揺らい
でるらしい 。
それは私が彼を殴った日のことで、なぜ殴ったかと言うと、彼がその
夜、誰かと約束があるのを私に内緒にしていて会いに行った、と思って
私が怒った の だ 。
それは勘違いで、突然、電話が鳴って行かなくてはならなくなったら
しいのに、私は最初から示し合わせたのだ、と邪推したからだ。
もう彼はそのことは許しているらしいのだが、私の曲がった心がいや
だったのだ ろ う 。 当 然 だ 。
しかしその後も半年以上、私たちは続いていた。
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私はよく泣くようになった。
私は彼の気持ちの動きがものすごくわかる。
無意識に何かが変わったのを察知していたのだろう。
歌を忘れたカナリヤは遠いお山に捨てられるらしいが、声あげて泣く
女は隅田川 に 捨 て ら れ る 。
捨てられればいいけれど、捨てられない何かがあるから苦しみがある。
泣きなが ら 私 は 思 う 。
私をどうしてくれるの、私はこうして欲しいの、私はね、私はね、と
私は泣いて、主語があなたの場合は、あなたはああしてくれなかった、
あなたは優 し く な か っ た 、
あなたは ね 、 と な じ る 。
賭けてもいいけれど、こうなった場合の女が井上和香であっても、男
は川に捨て に 行 く 。
私はよく自分から川に飛び込んだ。
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二十代のときは、天王洲アイルの第一ホテルの前のボードウォークか
ら、川に本当に飛び込みかけたこともある︵だから最近、銀座ですれ違
ったら逃げ ら れ た ん だ な あ ︶
。
しかしもはや私もいい年齢で、自分が正しいなんてちっとも思ってい
ない。
彼が変わった、私が変わった、そんなことではなく、あの美しかった
思いやりのある関係はいったいどこにいったのだ、と思うのだ。
もっと愛されているうちにさよならすればよかった。
そしてその機会は何度かあり、何度も実行したのに、いぎたなく私は
残ってしま っ た の だ 。
先月まで は 、
﹁文句があってもずーっと仲良くしてくれ﹂
といって い た 男 が 今 は 、
﹁あなたの中に﹃好き﹄以外は﹃嫌い﹄しかないんだったらやめる?﹂
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とかいっ て い る 。
﹁他に好き な 人 が い る の ? ﹂
﹁いないよ。あなたと付き合ってからずーっとあなただけだ。他に好き
な人がいたら話は簡単だけどね﹂
そういえば゛その何時間か前、
﹁次にあなたがくるまで、あなたの吸殻捨てないのよ。だって急に死な
れたり、別れたりしたら私には思い出の品とかないから﹂
と言った ら 、 笑 っ て 、
﹁心配しないで捨てればいいよ﹂
と言われたばかりだったのに。
何が悪い の だ 、 時 間 ?
私、古くなって、野菜のように傷んだ?
それとも 責 任 感 の 発 生 ?
私、もはや結婚なんかしたくないんですけど。
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飽きた?
わからな い 。
憎まれてやるのがいいのかな。
﹁あんたなんて最低だったわ、私ばっかり泣いてたわ﹂とか。
さわやかに別れるのがいいのかな。
﹁いい時間をありがとう。私、幸せだったわ﹂とか。
そんなの島村洋子の読者は怒るだろう。うそつき、って。
惜しむらくは最後の夜なのに阪神は負けて、私は虎柄のアロハシャツ
だった。
阪神が大勝して、私が着物だったら良かったなあ。
それにしても私にはずーっとわからないことがあった。
それは文春文庫にあったヴィヴィアン・リーの伝記で、彼女は若い恋
人が出来た夫のローレンス・オリヴィエに離婚を迫られるのだが、その
次の行に﹁ヴィヴィアンは、愛するラリーの望みはすべて彼女の望みで
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もあったので快くそれを受け入れた﹂
というのがあって、中学生のときの私には謎の文章だったのだ。
しかし今 の 私 に は わ か る 。
彼の望みは私の望みだ、それは心からではなくてそうあるべきだから。
私の一生を誇り高くさせるほどの思い出が私にはある。
五年近く、楽しいことも苦しいこともあったが、そのどちらも美しい
ものだった か ら 。
彼が続けたいなら続ける、彼が別れたいなら別れる、どちらでもいい
なと思い手 紙 を 書 い た 。
しかし届く前に私は自分からさよなら、とメールを書いた。
書きながらよくもこのながきにわたってこんな勝手な私の恋人でいて
くれたもの だ 、 と 感 動 し た 。
﹁本当にあなたってやさしい人なんだなって思った。心からありがとう。
いつまでも
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元気でね ﹂ と 返 事 が 来 た 。
私はやさ し く な ん て な い 。
やさしくいたかったからだ。
なぜやさしくいたかったからかというと、彼がいつも私を美しいもの
として扱っ た か ら だ 。
捨てたつもりだった吸殻、二本残っている。
私が死んだときは棺桶に入れてくれ。
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︻著者略歴︼
島村洋子︵しまむら
ようこ︶
1964年、大阪市生まれ。帝塚山学院短期大学を卒業後、証券会社勤務などを経て、
1985年にコバルト・ノベル大賞を受賞し、小説家としてデビュー。
﹃せずには帰れない﹄﹃家ではしたくない﹄
﹃へるもんじゃなし﹄等のエッセイの他、
﹃王
子様、いただきっ!﹄﹃ポルノ﹄﹃てなもんやシェークスピア﹄﹃色ざんげ﹄など多数。
また﹃恋愛のすべて。﹄﹃メロメロ﹄が絶賛発売中。
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