礼拝説教(2010/03/14) 四旬節第四主日 聖書 イザヤ12:1~6 Ⅰコリント5:1~8 ルカ15:11-32 「神に立ち返る」 放蕩息子のたとえ 主イエスがなされたたとえ話の中でも、今日の福音書に記されるたとえ話は、よく知られています。お そらく、このたとえ話は、当時のユダヤの人々に大きなインパクトを与えたのものだと思います。特に社 会を牛耳っていたファリサイ派という宗教的な階層の人々にとっては、ある面で我慢のならないたとえ 話であったのではないかと思います。このお話の背後には、おそらく「あなたはどうして徴税人や罪びと と共に食事をするのか」と問いただした、あのファリサイ派の人たちへの鋭い批判が込められているか らです。放蕩息子と言われる人々は、おそらく、ファリサイ派の人々がもはや救いがたい人間として捨て 去っていた徴税人や罪人といわれる人々でありますし、この弟を迎えた兄は、言うまでも無く、自分たち こそ、第一番に神の祝福を受けるべきものと自負していた人々を指したものです。 従って、このたとえ話を聞いたファリサイ派の人々は、誰よりも兄の立場を擁護したでしょうし、主イ エスのなされるたとえの結論に決して納得しなかったのではないかと思います。むしろ、そんなことが あってよいものかと、強い反発を感じていたのだろうと思います。 そしてまた、このファリサイ派の反発は、必ずしも彼らだけのものではなくて、むしろ、社会的に誠実 な生き方を貫いている者の共通した認識ではないでしようか。主イエスが言われるからというところで 私たちは立ち止まるのであって、そうでなくては案外、こういうことがまかり通るなら、私たちの努力は 一体どうなるのかと疑問に思うのでは無いでしょうか。 「われわれは、法律に添って、厳しい現実にもか かわらず、誠実に生きているのに、したい放題に生きていたあの人間が祝福されて良いのか」と考えてし まう者です。 主イエスの神観 しかし、こうしたファリサイ派や私たちの反発にもかかわらず、このたとえ話の中に、私たちは主イエ スの神に対するご理解が最もよく現れているように思います。先にも申し上げましたように、ここで、主 イエスは明らかに、二種類の人々を意識されています。一方は律法に忠実なファリサイ派の人々ですし、 他方は彼らが捨て去っている者たちです。しかし、主イエスは、神にとってはどうなのかと見られている のです。ファリサイ派の人々のように、罪を犯している人間だから、神もまた彼らを裁き、捨て去ってい るのかという問いです。確かに、ユダヤの宗教的な伝統は、神の律法を守らない者は裁かれ、捨てられる ということでありました。バプテスマのヨハネもまた、悔い改めて、律法に即した歩みをしなければ滅ぼ されると、悔い改めの洗礼を宣べ伝えたのでありました。 しかし、主イエスの宣教の基調は大きく異なっています。神を審きの神としてではなく、赦し受け入れ る神として提示されているのです。確かに、神は義であり、聖であり、不正を望まれない方でありながら、 しかし、何よりも愛の方として指し示されています。皆さんも度々、そうした主イエスの神の見方に、驚 かれることと思うのです。例えば、先週のテキストであります。実のならない木に対して、 「これを直ぐに 切り倒してしまうのではなく、肥料をやってみますから、もうしばらくお待ち下さい」と、神の忍耐が湾 曲に示されていますし、神は7を70倍するまで、即ち無限の許しを持って、私たちに関わられている方 だと語られています。そして、確かに、現実は、そうした裁きを見ることができません。悪人も善人と同じ ようにのうのうと生きています。忍耐されている神がそこに信じられているのです。 だからこそ、ご自分の上にもたらされてくる様々な悪に対しても、報復することなくこれを最後まで 甘んじて受けられたのだと思います。しかし、その甘んじて受けるということが目的ではなく、神がその ようなお方であることを、人々に伝えることによって、許されてある現実を知り、謙虚になるように求め られたのではないでしょうか。お互いに罪を持ちながらも生かされている。だからこそ、赦し赦されなが ら、互いに兄弟として、少しでも前進していくことが神の御心だと受け止めなくてはならないのです。今 日の箇所も、そのような神の愛と憐れみが如実に示されている箇所です。神は審きのお方ではなく、どこ までも赦しの神であり、どこまでも神に立ち返ってくることを待たれるお方なのだと見られています。 それ故に、あいつはだめだと、兄弟を裁く人々に対しては、どちらかというと厳しい目が向けられるとい うことになります。 人は皆、神の子 人は皆、同じ神によって生かされています。それはキリスト教の神にというのではありません。又イス ラムや或いはヒンズウの神によっているというのではありません。確かに、旧約聖書はヤーウェー以外 に神はないと言い切っていますし、イスラムだって、アラーの神以外を認めません。しかし、ヤーウェー とアラーの神が並び立っているのでは在りません。ヒンズウのシヴァ神がそれに対抗しているのでは在 りません。人が勝手に、私たちを生かし、支え、導く神に名前をつけ、自分たちにだけ特別な関わりを持つ かのように考えているに過ぎないのです。イスラエルの先祖に自らを啓示された神は、また、様々な民族 に、違った形でご自身を啓示されているのです。その啓示は、必ずしも同じものとはいえません。啓示を 受けた人の環境によって、その表し方が異なるのです。しかし、少なくとも共通しているところがあるの は、自分たちの存在の根源として、その方を理解しているところです。人は、そこに普遍的な真理を見出 すのです。神の名は、本当のところは分からない。名というのは人がつけるものであって、決して神がつ けるわけではないからです。 ある人々は、一つの宗教に偏ることのないために、この神のことを、永遠のリアリティーと呼んでいま す。永遠普遍の存在といってよい方です。そうです。本来、神には名前などありません。存在されている方 であります。モーセがあなたのお名前は何ですかと尋ねた時、神は「在りて、在るもの」と答えられました。 名などは無い、まさに「在りて、在るもの」なのだということです。でも、そこから、ヤーウェーという名を つけてきたのです。 人は、イスラム教徒であれ、ユダヤ教徒であれ、仏教徒であれ、キリスト教徒であれ、全て同じ方によっ て、この地上に生を受けているのです。これは、人間だけではなく、この世の森羅万象のすべてが、このお 方から出ているということです。そして、このお方の下に帰って行くのです。従って、人は誰であれ、神の 子であるといい得るのです。だからこそ、神に立ち返ることの大切さが、あらゆる民族の宗教性の中で語 られています。 主イエスは、この神によって生かされてある人間の現実をしっかりと受け止めておられたお方なのだ と思います。しかも、その神は、自ら生みだとした者を、どこまでも愛し、尊び、自らの創造に添って生か して行くお方であると見ておられるのです。命そのものの活動の中に、そのことをしっかりと見出され ていたからではないでしょうか。命は、常に、その命の持っている力を最大限に生かしたいと願うもので す。そしてまた、それが最大限に生かされていくところにおいて、大きな意味を持つように造られていま す。そこに神の意志があるからです。 しかし、残念ながら、人の命は、その命の持つ力を発揮していないのです。なぜなら、与えられている命 が生き生きと生きていく環境に無いからです。怖れがあり、不安があり、孤独が支配するからです。神に よって生かされて、ここにあるということを、信じられないで生きているからです。神が目を留めていて くださるという現実を見失っているからです。しかし、わたしの命をわたしの命らしく生きて欲しいと 願われているのは、他でもなく、神ご自身であるのです。わたしの命は、私独自のものであり、誰かと取り 替えるとの出来るものではありません。その命を生きるようにと願っていてくださる方が居るのです。 神に立ち返る 主イエスは、この共におられる神のもとに立ち返るように、全ての人に呼びかけておられます。放蕩息 子のことを、いつも、いつも心にかけた父親と同じように、私たちを世に生み出し、生かし、支え、導く神 が、私たちの立ち返りを待たれているのです。怖れと、不安と、孤独の中で縮こまっている命は、折角、神 が私に与えていてくださる命では無いからです。それは本人の喜びとならないばかりか、社会的にも大 きなマイナスとなるからです。だからこそ、神のもとに立ち返り、生かされている現実を受け止めていく ことによって、命を凍らせている現状を打開させ、安心と平安を与え、神が共にいてくださるという確か さの中で、生き生きと生きることの出来るものにしょうとしておられるのです。 しかも、一部の特別な人にだけ、即ち、立派な社会人だけに、そうされていくのではなく、もう、自分で も愛想をつかしてしまっている人に対しても、神は立ち返りを求めておられるのです。そこにおいて新 しい出発の力が与えられるからです 主イエスは、 「明日のことを思い煩うな、明日のことは明日自身が追いわずらう。あなたはただ、生かさ れてある今を、精一杯生きていけばよい」と言われます。その今という時を充実させるのは、与えられて いる務めを果たして、人々の中で喜んでもらうことであります。命はそこで役割を担っています。そして 又、そこで喜びを持つことが出来るように生み出されているものです。 神がわたしの命をこの世に送り、その命が真に神の御心に沿うように、私以上に願っていてくださる ことを信じることが出来るなら、私たちは安心して、それぞれの良心の中に語られる神の声に聞くこと が出来るのです。そこに神が共におられるからです。たとえ、それが私を苦境に追い込むことであっても、 そこにも、神がいますことを信じられるからであります。私たちは決して一人ではないのです。私たちと 共に、私を生かしていてくださる方が共におられるのです。このことをしっかりと心に留めて、日々の歩 みをしていきたいものです。
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