今日の説教題は「成熟した新しいもの」でございます。もう一度、今日の

<成熟した新しいもの>
マルコ 2:18-22 節(3 月 15 日)
今日の説教題は「成熟した新しいもの」でございます。もう一度、今日の本文
の最後、22 節を見ましょう。「新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。
そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新
しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」
主イエスの、この言葉は、新しいものを入れる時には、それを入れる袋も新し
いものが必要である事を告げています。ここで「新しいぶどう酒」とは主イエス
ご自身の事です。
主イエスを受け入れるためには、古い革袋に喩えられている、古い自分のまま
ではいけない事を、告げている所です。
最近、牧師として私は、主日説教を全部解き明かしていますが、長い間、月 2
~3 回のものだと思っていたように、私達の古いものに対する愛着には相当強い
ものがあります。
そして自分が今まで信じ、行なって来た事は、そのまま自分と言う人間を形作
っていますから、尚さら、変える事はできないでしょう。
それを変えようとしたら難しくて大変ですからです。勿論、主イエスは、その
ような事を語っているのではありません。
1
ここに記されている、新しいぶどう酒を受け入れる事が出来ない「古い革袋」
とは、何でしょうか。
そもそも「新しいぶどう酒と革袋のたとえ、あるいはその前に出てきます、織
りたての布と古い服のたとえ」は、どのような話し合いの中で行なわれたでしょ
うか。それは、主イエスとファリサイ派の人々との断食についての論争の中で生
まれた話です。
今日の聖書の御言葉は、断食についての論争から始まっています。しかも、こ
の論争には、味方とも考えられていたバプテスマ・ヨハネの弟子達さえも主イエ
スに対立する構図をもっています。
この論争の発端は、13 節以下に記されている、徴税人レビの家での食事でした。
主イエスと弟子達は、徴税人レビの家に招かれ、集ってきた多くの人々と楽しい
食事の時を持っていました。そういった光景を見ていたファリサイ派の律法学者
たちは、このように言いました。
2
16 節です。「ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪意図や徴税人と一緒に食
事をされるのを見て、弟子たちに、『どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事を
するのか』と言った。」
主イエスが徴税人や罪人と一緒に食事をする事だけでも当時の社会では考え
られなかった事でしたが、その日は、たまたま敬虔なユダヤ人達が断食をする日
と重なったようです。
敬虔なユダヤ人である証拠の一つに毎週の断食を守る事があるのに対し、主イ
エスはそれを守っていないのです。そこで今まで黙っていたバプテスマ・ヨハネ
の弟子達までもが、主イエスに食って掛かっているのです。
当時のユダヤ人は、そして特に敬虔な人々と称されていたファリサイ派の人々
は一週間に二度、月曜日と木曜日に断食していたのです。またあのバプテスマの
ヨハネの弟子達も断食していたのです。
断食は人が信仰生活を維持し、また神に特別にお願いするためには必要な、な
3
くてならない事だったのです。恐らく断食をしない信仰生活などは、不真面目な
信仰生活に映ったかもしれません。
もともと断食は、自分が犯した罪や、世の中の罪を悲しみ、神様の憐れみを願
い求めるために、なされるものでした。律法に定められている断食は、年に1回
だけでした。
主イエスは罪の赦しのために定められていた断食を反対しているのではあり
ません。主イエスご自身、バプテスマを受けられた後 40 日間、断食をしたと聖
書は告げています。
主イエスは断食そのものを否定しているのではなく、断食を一つに宗教的な敬
虔さの印とする当時の人々の考え方を退けているのです。
主イエスは、ご自分の弟子達が何故、断食をしないのかと言う質問に対して、
4
ユダヤ人の婚礼のしきたりを譬えに用いてお答えになりました。
ユダヤの習慣では、結婚の祝宴は一週間ほど続けられ、その間、親戚や友人達
が招かれて、花婿、花嫁と共に、楽しく過ごしました。
それは新郎新婦にとってだけではなく、招かれた客にとっても大きな喜びであ
り、彼らはその期間中は、断食の義務から解放されていた、という事です。
そうしますと、ここで主イエスの弟子達は、結婚式に招かれたお客という事に
なります。主イエスが花婿として罪人と言われた人々と食事をしています。
主イエスが花婿であると言う言葉を理解するために、旧約聖書に現れている神
様とイスラエルの関係について理解する必要があります。
旧約聖書では、神様とイスラエルの関係を夫婦の関係として表現しています。
特に、ホセア書はそうです。ホセア書では、絶えず夫である神様との約束を破り
続ける事、妻としてイスラエルが赤裸々に書かれています。
5
夫である神が主イエスとして地上に来られ、花嫁を迎え祝宴を開いています。
つまり、一人の罪人を得た喜びの、食事の席に、先に主イエスに招かれた弟子達
が、結婚式の客と招かれているので、彼らが断食しない事は、当然ではないか、
彼らは私と一緒にいる期間は、断食する事は出来ないと主イエスは語っています。
断食は、罪の故の悲しみの印であり、神様に罪の赦しを乞う宗教的な苦行です。
罪の故に悲しんでいる人間を、その罪から救い、悲しみの代わりに喜びを与える
ために、主イエスはこの世に来られたのです。
つぐな
主イエスは、どんなに自分の力で 償 おうとしても、どうにもならない私達の罪
を赦すために、私達の罪を負って、十字架に死んで下さったのです。
主イエスが私達の身代わりになって、罪に対する神様の裁きを受けて下さった
のですから、もはや私達は神様の怒りを免れようとして、悲しい顔をして断食を
したりする必要は無くなったのです。
神様に対して犯した、罰せられ、滅ぼされても仕方ないような私達の罪が、イ
6
エス・キリストによって赦されたと言う事は、私達にとっては、これ以上ない大
きな喜びです。主イエスご自身、この喜びを結婚のお祝いに譬えておられるので
す。
このような喜びを、もたらす花婿である主イエスが、私達と共におられるのに、
どうしていつまでも悲しい顔をして断食したり、掟や習慣に縛られた生活を続け
る必要があるでしょうか。主イエスが私達の生活の中に共にいて下さるかぎり、
どんなに辛く、悲しい、喜びのない時に直面しても、私達はいつも喜んで生きる
事が出来のです。
さて、目の前に起きている事、罪人が悔い改め、神様を受け入れ、喜んでいる
と言う現実を見ながらも、それを信じようとしないファリサイ派の人々、あるい
は、依然として神様の裁きを恐れ、一所懸命に宗教的苦行に励んでいるバプテス
マ・ヨハネの弟子達は、未だに主イエスが自分達の罪を赦してくれる神様である
事を信じる事が出来なかったのです。
だから彼らや依然として、主イエスがこの世に来られたにもかかわらず、断食
をしながら救いを得るために苦行に励んでいたのです。
7
そのような彼らに主イエスは二つの譬えを語りました。この二つの譬えはいず
れも同じ事を言い表しています。
発酵の盛んな新しいぶどう酒は、弾力性のある、しなやかな新しい革袋に入れ
て保存しなければ、発酵する気体の圧力で破裂してしまいます。新しいぶどう酒、
とは、主イエス・キリストによって、罪を赦され、その恵みのもとに生かされて
いる新しい生活の事です。
コリントの信徒への手紙第二の 5 章 17 節で、パウロは次のように語っています。
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。
古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」
このパウロの言葉のように、信仰によって主イエスと結ばれ、共に生きる者は、
どんなに世の中が変わっても、どんなに肉体は、年老いても、いつも新しい喜び
と希望をもって生きる事が出来るのです。
8
新しいもの、成熟した人はどういうものでしょうか。キリスト教関係の本から
抜粋した事です。日本語のプリント物だけ、お読みいたしますので、韓国語はプ
リントを参考し、皆さんの手元にある「成熟した人とは」をご覧ください。
9
いかがですか?
ご自分も同感する所や、受け止めたい部分や、当てはまる項目はありませんか?
主イエス・キリストによって、もたらされた福音は、どんな時代にも決して変
わる事なく、私達を新しく生かす力です。
いつまでも古いしきたりや先入観にとらわれて生活を続けていたのでは、この
喜びに満ちた生活を経験する事は出来ません。
宗教的な戒めを守る事ではなく、主イエス・キリストを信じる信仰だけが、こ
の新しいぶどう酒を入れるに相応しい新しい革袋なのです。
お祈り致しましょう。
10