礼拝説教(2010:03:28) 枝

礼拝説教(2010:03:28) 枝の主日
聖書 ゼカリヤ9:9~10
フィリピ2:6~11
ルカ19:28~48
「覚悟の歩み」
ゼカリヤの予言
ゼカリヤのこの部分の予言が何時ごろのものであるかははっきりしていません。しかし、イスラエル
の人々にとってゼカリヤの予言に示される王の到来は、民全体の悲願であった思います。イスラエルと
言う国の持っている地理的位置は、災いの大きな元であったのかもしれません。日本という国は、島国で
あるために、海洋が一種のとりでとなって、外国から即座に攻められるというようなことはありません
けれども、イスラエルという国は、大国の狭間にある陸橋のようなところに位置していたものでありま
すから、常に外敵にさらされ、大変危険な状況に置かれていたといえます。
そういう国の人々にとって、何よりも願われていたことは、平和であることでした。この平和への願い
は、おそらく争いの多い世界ほど切実なものになっているのだと思います。従って、イスラエル民族が、
このゼカリヤの予言に接した折、どんなに、その実現を待ち望んだかはかり知れないと思います。戦争は
もう懲り懲りです。どうか早く平和な世界が実現しますようにと、願っていたに違いないのです。
しかし、人の社会と言うのは、なかなか願いの適うところではありません。イスラエル民族の上に、予
言されていた平和が到来したかと言うと、決してそうではありませんでした。このゼカリヤの予言から、
主イエスの時代まで、おそらくは、二、三世紀があったのだろうと思われますが、この間にも、戦争は絶え
ることはありませんでした。大国の野心のために多くの人がその犠牲になり、また、自国の独立を勝ち取
ろうとして、犠牲者を生み出し、イスラエルの歴史は屍の上に築かれたといってもよいくらいです。従っ
て、この国の人々にとって、平和とは、夢のまた夢と言うことであったのではないでしょうか。にもかか
わらず、彼らは、必ず、神がこの事態を改善し、イスラエルを中心とした平和をこの世界に確立してくだ
さると言う信仰を持っていました。この民族特有の信仰であります。
主イエス
主イエスもまた、この民族の中に生を受けられたお方です。当時のユダヤ社会は、皆さんもご存知のよ
うに、ローマの支配下に置かれていました。ローマという国は、征服した民族の持っている文化を大切に
したようです。ですから、ユダヤもまた、このローマの支配の中で、ある程度の自由と平和を維持するこ
とが出来、反逆的な行動が現れない限り、
「ローマの平和」を共有できた時代でした。しかし、ローマの支
配下にあるという状況は、様々なところで、民の不満が蓄積されます。何度も、ローマに対する反乱が起
き、その都度、鎮圧されたという現実があります。主イエスが活動を始められたころは、ローマの支配下
に置かれて、既に、80年から90年を経過しております。ローマの国は益々力をつけてきていますから、
ユダヤの趨勢は、現状の継続と言うことであったと思います。しかし、現状を肯定しているユダヤ指導者
層は、ローマの平和の中で結構甘い汁を吸っていたのです。一般庶民にとっては、不満の溜まる状況でし
た。特にガリラヤ地方では、厳しい生活を強いられ、中央に対する強い不満は日に日に高まっていたと言
ってよいのです。ローマの支配に甘んじ、そこで漁夫の利を得ている指導者層への不満となっていたの
です。
こうした社会情勢の中で、主イエスは活動を展開されていたわけです。ですから、その活動はこうした
不満分子に利用される危険にさらされていましたし、指導者層の誤解を受ける危険にもさらされていま
した。ですから、イエスはご自分の言動には、特に注意を払われたと思われます。ご自分の働きが、政治的
な意味に誤解されることがないように、最大の注意を払われたのではないでしようか。あくまでも、人々
の中に、現に共におられる神を証し、人々が置かれている場で、神と共に歩むことが出来るようにするた
めでありました。ローマの支配から、ユダヤ人を解放するとか、独立した王国を再建するとか言うような
ことではなく、互いに神に生かされてあるものとして、共に生きることの中に、人間の真実があるという
ことを人々に理解してもらうことでありました。だからこそ、同じユダヤ人でありながら、社会から締め
出された人々に、イエスは特に目を注がれたのです。
主イエスにとって、ローマ人がイスラエルを支配しようと、ギリシャ人が世界を支配しようと、そのこ
とには、それほど拘ってはおられなかったのかもしれません。それよりも大切なことは、神の御心がなさ
れるか否かであります。為政者が人々の生活脅かすことなく、自由を保障し、福祉に力を注いでいる限り、
ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうとローマ人であろうと、それはどうでもよいことでした。それ
よりも、問題なのはユダヤ人同士が、救われるものと、そうでないものを選り分けて、勝手に神の国から
排斥している現実でした。
普遍性の受難
私たちの世界は、凡そ、利害を土台にして動きます。正しいことを基準にして行動をする者は、凡そ、敬
遠されます。人は皆、お互いに罪を持つからです。自分も裁かれないためですし、人々を裁いて仲間はず
れになることを恐れ、孤立せられることに大きな不安を持ちます。だからこそ、人はそれぞれの群れの中
で、その群れの利害関係を共にしていきます。官僚の世界や、公務員の世界で、他の人がしていることを
しないと仲間はずれにされ、嫌でも悪い習慣に染まっていくのです。
しかし、主イエスは、人々の持つしがらみから自由でありました。誰が何と言おうと言うべきことを言
い、為すべきことを成されました。そのことが、周囲の人々の隠れた現実を白日のもとにさらす結果なっ
たのです。黒いものの中に白いものが入ると、黒は一層目立つものです。主イエスのごく自然な言動が、
私たちの内に秘められている自己中心的な思いを露にしていきます。人間のあるべき姿に生きられたイ
エスでありましたがゆえに、イエスの前に出る人は、自ずと自らの罪を知らされます。しかし、これを認
めたくない人々がイエスと対立して行ったのです。
イエスがガリラヤからエルサレムに上洛される折、取られた行動が今日の福音書に記されます。旧約
聖書ゼカリヤ書に記される予言の言葉に添った行動です。イエスがこの旧約の予言をご存じなかったと
言うことは、まず、言えないことです。イエスの言動の中に、私たちは旧約から引用を多く見るからです。
しかも、ロバに乗ってのエルサレム入城は十分に計画されてのものであることを文脈から受け止めてい
くことが出来ます。
平和を生み出すものとして
このイエスの行動は、ご自分のご使命を明確にされるためであったと思うのです。主イエスは、ゼカリ
ヤの予言の中に、ご自分に託されている大切なご使命を見られたのだと思います。それは、神のお心をこ
の世界に示し、人々がそこから互いに仕えあうものになっていくことであり、そのための一粒の種とな
っていくことにあるということであります。平和を生み出し、互いに仕えあう世界を生み出していく、そ
の原点になるように召されていると自覚されていたのだと思います。
イエスは、人々に対して、そういう者であるご自分を明らかにされたかったのではないでしょうか。し
かし、同時に、そのことが、やはり誤解を生み出すものであることを知っておられたと思うのです。弟子
たちでさえ、イエスの行動が何をもたらすかを理解しないで、文字通りのことが起きると信じて、興奮し
ていたくらいですから 、当局者がイエスのこの行動を、むしろ平和のための入場としてではなく、既存
の権力に対する挑戦として受け止めたとしても、何の不思議もないわけです。
主イエスはこの後、神殿に入られます。そして、神殿の当局者に向けて、神から託されているユダヤ共
同体のため、何一つ貢献していない現実を痛烈に批判されます。その批判の背後には、こうした神殿当局
者の強欲の犠牲になって苦しめられている底辺の人々の顔が浮かんでいたのではないでしょうか。この
イエスの言動が、決定的な引き金となって、十字架への道行きとなるのです。しかし、イエスは既に、あの
エルサレム入城から、明らかに、覚悟の歩みに入っておられたと思われます。それはご自分の目的が何で
あるかを明らかにされることであり、同時に、そのことが反対者をあおり、一層頑なにすると言うことを
知っておられたからです。そして、真の平和を生み出すために歩むものを排斥し、十字架につけることに
よって、自分たちの支配の延命を図る人々であることも知っておられたからです。しかし、そうする事に
よってのみ、この世界に平和の礎石をおくことが出来ると考えておられたのです。私たちは、その据えら
れている礎石のうえに平和と言う家を建てて行くことができるのです。
最も早い信仰告白
こうした主イエスの覚悟の歩みは、主イエスの死後の早い時期に、フィリピ書のこの信仰告白を生み
出しています。
「キリストは神の身分でありながら、神と等しいものであることを固執しょうとは思わず、
かえって自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、へりくだ
って、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く引き上げ、
あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」と言っています。
主イエスの歩みが、まさに、神でなくては出来ない歩みと見たのです。しかも、その神が世に仕えてく
ださったと言っています。この信仰告白は、どの福音書よりも早い時期に、人々の口に上っていた信仰告
白であり、当時の人々が、主イエスに対してどのような信仰を持っていたかを明確に示しています。ここ
に明らかにされていることは、主イエスの透き通った愛の命であります。人々のために、徹底して仕えて
いてくださる、そのご人格であります。どこまでもへりくだって、人々に仕えとおされたお姿の中に、人
ではなく神が見られていたのです。そして、人々はこの方を遣わしてくださった、天の父を讃美していま
す。私たちもまた、神と見られた主イエスのお姿を仰ぎつつ、父なる神の御心をこの与えられた場で生き
て行きたいと思うのです。