HIKONE RONSO_278_001

1
中欧の体制転換
社会主義から資本主義へ一
福 田 敏 浩
1。はじめに
1980年置末から1990年代初めにかけて政治革命に見舞われた旧社会主義諸国
は,いま,転換の時代を迎えている。政治体制と経済体制が根本的に変化し始
めたのである。もとより体制転換の方向は国により異なる。おおざっぱに言っ
て,旧ソ連(CIS加盟諸国,グルジア,バルト三か日およびバルカン諸国(ルーマ
ニア,ブルガリア,旧ユーゴスラヴィア,アルバニア)における転換方向の鮮明度
は,相対的に低い。政治体制は総じて共産党独裁から西欧型議会制民主主義へ
向かいつつあるように見えるが,ナショナリズムの台頭と民族対立の表面化を
考慮に入れると,どの国でも議会制民主主義が定着するとは断言できないよう
な状況にある。経済体制の面では社会主義からの離脱と資本主義(または市場経
済)への転換が叫ばれているが,目指すべき体制の輪郭は総じて明瞭でなく,す
べての国でそうした転換が実現できるかどうか予断を許さない状況にある。
これに対し,地理的に西欧に隣接し,文化的にも西欧の影響を強く受けてき
た東ドイツ,ポーランド,ハンガリーおよびチェコスロヴァキアの中欧4ヵ国
における体制転換方向の鮮明度は極めて高い,と言える。1989年10月に「穏や
かな革命」を経験した東ドイツは,その後政治・経済の両面で西ドイツ化の道
を選択し,1990年10月に西ドイツとの統合を果たした。i現在,東ドイツ地域では
西ドイツ型の議会制民主主義と誘導資本主義の移植が急ピッチで進行している。
1)
1989年10月に「静かな革命」を体験したハンガリーでは1990年代に入ると,
政治体制と経済体制の転換が同時並行的に開始された。スローガン風に言うと,
一党独裁から議会制民主主義へ,市場社会主義から誘導資本主義へ,の道が選
2 彦根論叢 第278号
択されたのである。東欧革命の先陣を切ったポーランドの状況も基本において
ハンガリーと同様である。
チェコスロヴァキアは1989年11月の「ビロード革命」以降,西欧化を開始し
た(もっとも,社会主義化される以前のチェコスロヴァキアは議会制民主主義と資本
主i義の国であったので,正確には,西欧への復帰を開始したと言うべきであろう)。こ
の国は現在,一党独裁から議会制民主主義へ,管理社会主義から誘導資本主義
へ,の道を進みつつある。
本稿は,中欧諸国での経済体制転換にかかわる経済政策の実際を展望しよう
とするものである。以下の論述は,体制転換の中核をなす私有化(privatization)
をめぐって展開される。
II.経済改革の時代
東欧革命以後の中欧諸国では,非共産党系の政党を中核とする連立政権によ
って経済体制の転換(transformation)が開始されたが,そのスタイルは二つに
区別できる。すなわち,管理社会主義から市場社会主義を経由して誘導資本主
義を志向するものと,管理社会主義から誘導資本主義へのジャンプを目指すも
のである。前者を選択したのはハンガリーとポーランドであり,後者の道をと
ったのはチェコスロヴァキアである。東ドイツも後者の部類に属するが,ただ
この国については注釈が必要だろう。
東ドイツでは旧政権末期に延命策のため市場社会主義への移行案が国民に提
示されたが,「マルクスからマルクトへ」(von Marx zum Markt),「マルクスか
らマルクへ」(von Marx zum Mark)という国民の声と時の流れには抗しがた
2)
く,実施されないままに終わってしまった。そればかりか東ドイツそのものが
1)ハンガリーの政治革命は下からの革命ではない。それは,1989年2月に社会主義労働者
党の中央委貝打総会で決議されたプランに即して行われた上からの革命であった。同年10
月に複数政党制へ移行することがプログラムされていたのである。国民の抵抗運動や大量
デモが発生しなかったゆえんである。
2)Ebel〔7〕Kap.1(S.10−44)は,「穏やかな革命」から1990年の統一に至るまでに,東ド
イツ国民がいかに西ドイツマルクや市場経済に期待を寄せていったかをリアルに叙述して
いる。
中欧の体制転換 3
西ドイツに吸収合併され,世界地図から姿を消した。現在,東ドイツ地域にお
ける経済体制の転換は統一ドイツ政府(キリスト教民主同盟を中核とする連立政
権)によって推進されている。残りの中欧諸国と違って新しい国家の枠組の中で
誘導資本主義化が展開されているのである。東ドイツは特異なケースと言えよ
う。
以上のような最:近の経済体制の転換を的確に把握するには,過去を振り返っ
ておく必要がある。以下,体制転換の前史を簡単に見ておこう。
中欧でソ連子管理社会主義が定着したのは1950年代前半である。筆者の「所
有,相互・上下調整の三元論」の立場からすれば管理社会主義の基本構造は,
3)
国有,中央管理経済および指令方式の組み合わせから成る。中欧4ヵ国の管理
社会主義は,細目の点では相違が見られるものの,基本構造の面ではこのよう
な組み合わせを共有していた。
1960年代になると,中欧諸国は経済成長の減速に直面して経済改革を開始し
た。経済改革は経済体制の改造を内容としていたが,そのスタイルは部分的改
革と全面的改革とに区別される。部分的改革とは,管理社会主義の基本を保持
したままで指令方式の部分的修正(義務的指標数の削減,企業の成功指標の総生産
高から利潤への転換,中聞管理機関への意思決定権の一部委譲)を図ろうとするもの
であった。全面的改革とは,相互調整方式および上下調整方式を対象とし,管
理社会主義の柱を成す中央管理経済を市場経済へ,指令方式を誘導方式へ,と
転換しようとするものであった。ただし,所有方式については公有の原則が保
持された。全面的改革とはいえ社会主義の枠内での体制改造だったのである。
当時,部分的改革を選択したのは東ドイツとポーランドであり,全面的改革を
実施したのはチェコスロヴァキアとハンガリーであった。その後の各国の経済
4)
改革のアウトラインは次のごとくである。
東ドイツが他の国々に先駆けて新経済システム(Neues Okonomisches Sys−
tem)という名の経済改革を開始したのは,1963年である。この国は指令方式の
3)筆者の説については福田〔8〕第6章および福田〔9〕第1章を参照されたい。
4)くわしくは福田〔10〕を参照されたい。
4 彦根論叢 第278号
部分的改革で経済効率の改善を図ろうとしたが,思うような成果があがらず,
結局1970年代初頭に部分的改革そのものを放棄し,逆に管理社会主義を強化す
る策に出た。国有企業のコンビナート化を通して中央指令を強化したのである。
その後考ドイツは,1989年の「穏やかな革命」の直前まで,管理社会主義を頑
に堅持していた。
ポーランドでは1960年代後半から断続的に経済改革が行われたが,1970年代
末までは管理社会主義の枠内での改革に終始していた。1980年代になると,自
由労働組合「連帯」の登場に伴い改革路線に変化が生じ,市場社会主義への移
行が目指されるようになった。それは戒厳令の施行と保守派の抵抗で一時期中
断を余儀なくされたが,1980年代後半から再開され,1989年の政治革命の段階
では市場社会主義(国有+市場経済+誘導方式)の制度化が本格化していた。
チェコスロヴァキアは,1968年1月1日から「人間の顔をした社会主義」を
キャッチフレーズにして管理社会主義から市場社会主義(労働者自主管理+市場
経済+誘導方式)への移行を開始した。しかし,この国の改革は政治体制の改革
(議会制民主主義の導入)をも射程に入れていたため,ソ連の軍事介入を招き,
わずか1年で挫折してしまった。チェコスロヴァキアは管理社会主義の道に引
き戻され,20年後の「ビロード:革命」までこの体制を保持してきた。
ハンガリーが全面的改革を開始したのは,チェコスuヴァキアと同じく1968
年1月1日であった。この国が目指したのは国有+市場経済+誘導方式から成
5)
る市場社会主義であった。その後曲折はあったものの,この体制の建設が精力
的に推進され,1980年代の半ばには一応の完成を見ていた。ところが,ハンガ
リーの市場社会主義は効率改善という所期の目的を達成できなかったことから,
1980年代後半になると,一一部はすでに80年代前半に開始されていたが一社
会主義の最後の砦ともいうべき国有方式の改革を余儀なくされた。国有企業内
でのスモールビジネスの育成,国有資産のリース制の導入,小規模の私的工業・
商業・サーヴィス企業の容認,国有企業の株式会社への転換,外資との合弁企
業および100%外資企業の誘致など,私有化の方向での所有改革が矢継早に展開
5)ハンガリーの経済改革については福田〔8〕第8章を参照されたい。
中欧の体制転換 5
された。また,これと並行する形で資本市場(株式・債券市場)や金融市場の整
備が開始された。ハンガリーは,1989年の「静かな革命」の直前には経済体制
転換の一歩手前に迫っていたのである。
III.経済体制転換の経済政策
以上に見たごとく,1960年代から1980年代署までの中欧における経済改:革は,
部分的改革はもとより全面的改革といえども,社会主義の枠内での改造であっ
た。東欧革命以後の状況はこれとは根本的に異なる。中欧諸国は社会主義から
離脱し,誘導資本主義の道を志向し始めたのである。経済体制改革の時代が終
わり,経済体制転換の時代が到来した。
経済体制の転換に関する中欧各国政府の当初のシナリオは,転換の速度に注
目すると,二つに区別できる。軟着陸シナリオ(soft landing scenario)と硬着
6)
陸シナリオ(hard landing scenario)である。前者は時間をかけてステップ・バ
イ・ステップで体制転換を果たそうとする戦略であり,後者は比較的短いタイ
ム・スパンの中で急速に新体制を樹立しようとする戦略である。よく指摘され
7)
るように,前者の代表はハンガリーであり,後者の代表はポーランドである。
東ドイツとチェコスロヴァキアの当初の体制転換シナリオは,ポーランドと同
様に硬着陸の道であった。
以下,中欧で私有化と呼ばれる所有方式の転換を中心にして,中欧諸国での
体制転換にかかわる経済政策の実際を見ていくことにしよう。
1.ハンガリー
体制改革と体制転換の違いは所有方式を転換するか否かにある。ハンガリー
をはじめとする中欧各国が公有から私有への転換を目指しているのであってみ
れば,今回の変動は体制転換と言わざるをえない。「社会主義から資本主義
6)Simon〔31〕p.41.ハンガリーの方法は進化的アブu一チ(evolutionary approach)ポ
ーランドのそれはラディカル・アブP一チ(radical approach)と呼ばれることもある。
Murrell (26) p. 79.
7)たとえば次の箇所参照。Abe1, Bonin〔1)p.41, Sachs〔30〕p.5, Simon〔31〕p,41.
6 彦根論叢 第278号
8) 9)
へ」,「共産主義から資本主義への移行」と言われるゆえんである。
先に指摘したように,ハンガリーは旧政権の時代にすでに一国有優位の原則
の枠内ではあったが一私有化政策を展開していた。それは,次の三つの柱から
成っていた。
第1は小規模私企業の育成である。1982年以降,従業員30人以下の小規模私
営企業および小私営協同組合の設立が公認され,製造・商業・サーヴィスを中
心に私企業が増加した。旧政権末期には,1989年1月から施行された新会社法
によって従業員500人までの私企業の設立が公認されるまでになっていた。
第2は国有企業内でのスモール・ベンチャーおよび国有資産のリース制の導
10)
入である。1982年以降,国有企業内に経済労働共同体という名の,主としてパ
ート・タイムの就業形態を取る作業チームが形成された。また,同年以降,国
有企業の保有する資産を借り受けて営業する会社が登場した。その多くは修理
サーヴィス・ワークショップの形を取った。両タイプの組織は,それらが利用
する設備・機械等の資産の所有権が国家に帰属していたので,厳密には私企業
とは言えないが,私営会社には分類できるであろう。
第3は外資導入である。1980年代置には主として西側資本との合弁企業およ
び100%外資企業(外国企業の子会社)の設立が認められた。
以上の80年代の私有化政策には国有優位のイデオロギー的制限が置かれてい
たために,1988年の時点で私的セクターの占める割合は7.1%までにしかならな
11)
かった。工990年4月に登場した民主フォーラムを中核とする連立政権は,体制
転換を図るために,1994年までに国有の占める割合を50%に圧縮するという目
12)
標を立て,私的セクターの一層の拡大に乗り出した。1990年以降の私有化政策
8)Brada, King〔2〕p.37, McKinnon〔22〕p. 97.コルナイも古典的社会主義から資本主義
的市場経済への移行を主張している。Kornai〔18〕p. xxv, p.389.
9)Poznanski〔29〕p.57.そのほか,「計画から市場へ」,「中央計画から市場経済へ」と表
現する論者もいる。Brada, King〔2〕p.37, Sutela〔33〕p.59.
10)これについてはNeumann〔27〕pp. 26−31がくわしい。
11) Kornai (18) p. 72, table 5. 1.
12)Lindsay〔20〕p.102.国会に議席を持つすべての政党が私有化に賛成しているという。
Hoch (15) p,263.
中欧の体制転換 7
の主眼は大・中型国有企業の私有企業への転換であった。その具体的方法は以
下の二点である。
第1は自発的私有化(spontaneous privatization)である。マトルチィ(Gy.
Matolcsy)によれば,これはかれ自身が1980年代初めに行った提案をベースにし
13)
ている。自発的私有化とは,政府の指令やキャンペーンによって行われる私有
14)
化ではなく,企業自体によって発動される私有化の手続きである。ハンガリー
では1987年以降,株式会社や有限責任会社の設立が可能になり,大型国有企業
は株式会社への転換を目指すようになった。自発的私有化とは,内容的には,
このような株式会社への転換を意味する。
転換の方法にはいくつかのものがあるが,最も典型的な方法はメディコル・
15)
タイプである。1987年秋,大型国有企業メディコル・カンパニー(Medicor Com−
pany)は,本社機能と各単位(工場)の機能を分離した。つまり,各単位を独立
した株式会社に転換し,本社をその企業全体の資産の管理センターに特化する
措置を取った。このようなタイプはその後広く採用されるところとなり,本社
のトップマネジメントは所有者機能を,各単位(工場,店舗,事業所など〉のミ
ドルマネージャーは経常活動のマネジメントを担当するという企業が増えた
(所有者機能と経営者機能の分離)。株式会社への転換にさいし外部からも資本参
加があった。アウトサイダーの株主は,当該企業およびその諸単位と取引関係
にある国有供給企業,国有需要企業および国有銀行であり,その資本参加比率
は10%から30%であった。残りの部分は同一企業内の各単位(株式会社)の間で
16)
の持ち合い(cross−ownership)という形で保有された。
以上から知られるように,自発的私有化は,私有化と言われてはきたものの,
内実は国有企業の株式会社化に過ぎず,語の本来の意味での私有化ではない。
13) Matolcsy (21) p.2.
14) Lindsay(20) p. 94, Matolcsy(21) p. 9, Mora(25) p. 39, Voszka (34) p. 285.
15) Matolcsy (21) pp. 2−5, Mora (25) p. 40.
16)Mora〔25〕p.40.なお,国有企業間および国有企業と国有銀行の間の株式の相互保有も
持ち合いと呼ばれる。これは私有化を阻む壁となったと言われる。この点については次の
箇所参照。Csaba〔5〕p.247.
8 彦根論叢 第278号
国有資産の所有権が,私人および私的法人(ハンガリーの私人および私的法人,外
国人および外国の私的法人)に移転したのではなかったからである(アウトサイダ
17)
一株主も国有企業であった)。しかし,だからと言って,自発的私有化の意義を無
視するわけにはいかないだろう。これによって企業レベルでの主体的な所有転
換に道が開かれたのだし,また,企業構成諸単位の相対的自立性が高まり,非
18)
効率の代名詞であった大型国有企業の解体への端緒が開かれもしたからである。
比較的規模の小さい構成単位の相対的自立化は,私有化を容易にする。私有化
のコストが比較的少なくてすむからである。事実,ハンガリー政府は最近,構
成単位の真の独立を図るため,その株式の国内外の投資家への売却を計画して
19)
いる。大型国有企業の私有化は今後この方向で進むと思われる。
第2の方法は,政府主導の私有化である。私有化行政を担当する機関として,
1990年3月に国家資産庁(State Property Agency)が設立された。この機関は
政府の監督下に置かれ,その経常活動は国家会計検査院によってコントロール
されている。国家資産庁の主たる任務は,国有資産の民間への売却である。そ
の主要な方法は次の三つである。
第1は,入札による競売方式である。これは,売店や運送店など小規模の国
有資産の民間への売却に適用された。
第2は,国家資産庁によって任命されたコンサルタントを通してする国有資
産の民間への売却である。従業員300人以下で資本額および年間売上高が3億フ
ォリント以下の国有企業が,この方式の対象となった。国家資産庁は1991年初
めに20の企業の売却をアナウンスし,それぞれについてコンサルタントを任命
17)自発的私有化には多くの問題があることがハンガリーのエコノミストによって指摘され
てきた。その主なものは次のごとくである。トップマネジメントの新旧交替が行われなか
つたこと,外部株主の占める割合が低くイノベーションが生じなかったこと,株式がクロ
ーズドな所有のため資本市場による規制が働かなかったこと,出発点で資産を過小評価す
る傾向があったこと,組織転換にさいし中央管理機関の干渉があったこと,組織転換はマ
ネージャー主導で行われ労働者の意向は無視されたこと。Mora〔25〕p.39, Neumann〔28〕
p. 323, Voszka (34) p, 281,
18) Matolcsy C21) p. 9.
19) Lindsay (20) p.99.
中欧の体制転換 9
し,その売却を図った。
第3は,小型国有企業のその従業員への売却である。従業員30−50人の小型
国有企業については,国家資産庁の指導のもとに,その従業員による買取りが
推進されている。
以上のほか,国家資産庁は,国有企業の保有する株式をブダペスト証券取引
所へ上場することによって,私有化を推進しつつある。ブダペスト証券取引所
20)
は1990年6月に設立され,1991年6月末には14銘柄の株式取引が行われた。
2.ポーランド
1980年代のポーランド経済は,管理社会主義の弛緩と市場社会主義の制度化
21)
の遅れのため,ポーランド・シンドローム(Polish Syndrome)と呼ばれる慢性
疾患に悩まされた。インフレーションと物資不足の同時並存というショーティ
22)
ジフレーション(shortageflation)が構造化したのである。政治革命の年の1989
年にはインフレはハイパーインフレーション化し(8月だけで39.5%の物価上
昇),工業産出の成長率はゼロになり,財政状態は悪化し(GDPの10%の財政赤
字),ショーティジ・スタグフレーション(shortage−stagflation)という危機的
23)
状況が出現した。
政治革命以後の1989年9月に登場したマゾヴィエツキ政権は,同年10月に副
首相兼蔵相のバルツェロビッチ(M.Balcerowicz)を中心に「経済改革プログラ
ム」を策定し,経済の安定化と経済体制の転換を同時に行うことを決定した。
そのさい,注目すべきは改革プログラムの実施期間の短さである。1990年から
2年間で経済の安定化を図り,同時に資本主義への転換を行うことが目指され
20)ブダペスト証券取引所は1864年に開設されたが,社会主義化のため1947年に閉鎖された。
新しい証券取引所は1990年1月の新証券法によって設立が決定された。それはブローカー
41社によって設立された独立の非営利機関である。くわしくはLindsay〔20〕p.105を参
照。
21) Kornai (18) p. 549.
22)Gabrisch, Laski〔14〕p. 27.なお,この用語はコロドゥコとマクマホンによって初めて
使われた。それは「充足されない有効需要と多くの商品の不足の組み合わせ」,「不足を伴
うインフレーション」と定義されている。Kolodko, McMahon〔16〕p.177, p.197.
23) Milanovic (23) pp.517−518.
10 彦根論叢 第278号
たのである。硬着陸シナリオと呼ばれるゆえんである。
経済安定化政策は,ショック療法(shock therapy)の形を取った。1990年1
月目ら,賃金抑制,財政の均衡化(補助金の大幅カット,増税),通貨切り下げ(1
ドル=6500ズロチから1ドル=9500ズロチへ)およびタイト・マネー政策(実質金
利の引き上げによる信用需要の抑制)が同時並行的に実施され,ポーランド・シン
ドロームからの脱却が図られた。
このような安定化政策は即効性を発揮し,1990年中に,ハイパーインフレが
抑制され,ズロチの経常勘定交換性が実現してGDPの3.5%の貿易余剰が出,
24)
輸入消費財の国内市場への大量流入が実現された。しかし,他方でショック療
法は新たな問題を引き起こした。工業生産が急減(1990年1年間で対前年比25%の
下落)し,失業が深刻化(1990年末で失業者数120万人)し,ハイパーインフレは
25)
収まったものの月当り4−5%のインフレが依然として続いた。ショック療法
は,ショーティジフレーションからスタグフレーションへのシフトをもたらし
たのである。このため,労働者側からの反発が強まり,政府は1990年7月には
早くも金融引き締めの緩和と賃金抑制の緩和を余儀なくされた。その結果とし
x
て賃金・物価スパイラルが再燃し,ポーランド経済は再び危機的状況に直面し
た。
このような経験に鑑み,ショック療法はJカーブ効果よりもLカーブ効果を
26)
もたらすと主張する論者が現れている。すなわち,ショック療法の擁護者は,
外科手術を施すことで経済は当初は悪化するが,それも短期間のことでその後
は順調に回復し成長軌道に乗る それは丁度Jの形状と同じ軌跡を描く一と
考えたが,実際は逆で経済は悪化し,丁度L字のような軌道をたどった,とい
うものである。ポーランドのショック療法に徴する限り,このような議論は妥
当するように思われる。資本主義体制がまだ定着を見ていない過渡期の段階で,
西側先進資本主義国の安定化政策(より正確には新自由主義的安定化政策)を模倣
24) Milanovic (23) p. 529, Sachs C30) p. 12.
25) Charemza (4) p.21, Milanovic (23) p. 529, Sachs (30) pp. 14L15.
26)これについては次の文献参照。Brada, King〔2〕.
中欧の体制転換 11
したところに無理があったと考えられる。
「経済改革プログラム」のもう一つの柱をなす経済体制の転換については,
1990年の初めから市場経済の整備が行われる一方,私有化の方向での所有方式
の転換が実施された。私有化は,1990年7月に成立した私有化法によって本格
化した。その方法は,私企業の新設と既存国有企業の私有化の二つに大別され
る。
私企業の新設については,二つの方法が取られた。ひとつは,私的企業の設
立の容認である。これにより,特に小売業を中心に零細・小規模の私企業の設
立が相次ぎ,小売の80%が私的セクターとなった。もうひとつは,リース制の
導入である。国有企業の従業員が有限責任会社を設立し,国有資産を借ワ受け
て営業するものである。1991年4月の時点でリース方式を採用した企業数は185
27)
社であった。
現存国有企業の私有化の主要な方法は次の二つである。
第1は,国民への売却である。国有企業を株式会社に転換し,その株式を国
民に提供する方式である。1990年下半期に20の企業の売却が企画されたが,同
28)
年度末までに国民の株式取得で私有化された企業は3社であった。
第2は,国有企業のその従業員への売却である。国有企業を株式会社に転換
し,その株式を当該企業の従業貝が買い取り,私有化する方式である。このイ
ンサイダーへの所有権移転方式は,1990年の後半に始められたが,当初は従業
員への限定的優先販売の形を取った。つまり,従業員は総記行株式の20%まで
を価額の半値で取得できるというものであったが,そのさい従業員への譲渡株
式総額は当該企業の年間の賃金総額を越えてはならないという制限が付されて
いた。1991年になると,従業員500人の国有企業について,インサイダーの借入
金による取得が認められた。つまり,インサイダーは資産価額(帳簿価額)の20
29)
%を頭金として支払い,残りを政府からのローンで支払うという方式である。
27) Mizsei (24) p. 291.
28)Sachs〔30〕p. 8.具体的には1991年7月に開設されたワルシャワ証券取引所への上場と
いう形を取るが,この取引所は過度に規制され流動性に乏しいという。Mizsei〔24〕p.291.
29) Sachs〔30〕pp.9一ユ0.
12 彦根論叢 第278号
これによってインサイダーによる国有企業の私有化が加速されるようになった。
以上のほか,クーポン方式でポーランド国民へ国有資産を無償配分するとい
う案も登場しているが,今までのところ実施はされていないようである。
マゾヴィエツキ政権の当初の予定では経済体制の転換を2年間で行うはずで
あったが,現実には私有化ひとつをみても転換は大幅に遅れており,今のペー
スで推移するとすれば,資本主義への移行は2!世紀を待たねばならないであろ
う。
3.東ドイツとチェコスロヴァキア
東ドイツにおける所有方式の改革は,旧体制最後のモドロウ政権によって開
始された。モドロウ政権は,1990年3月の第1次信託法によって信託庁(Treu・
handanstalt)を設立し,8000の人民所有企業(国有企業)をそれに譲渡した。こ
れによって,企業は資本会社(合資会社,有限会社,株式会社)に転換されたが,
依然として人民所有の体裁を取っていた。1990年6月の第2次信託法によって
人民所有企業の私有化が開始されるようになり,8000の人民所有企業のうち公
30)
益企業(地方自治体へ移管)を除く6100社が私有化の対象となった。
1990年10月のドイツ統一後は,私有化政策が精力的に推進されるようになっ
た。その方法は,国有資産の旧所有者への返還と国有資産の売却の二つである。
国有資産の旧所有者への返還は,旧東ドイツ国家によって強制収用された資
産の所有者およびその子孫に対して国家が収容した土地,建物,店舗および生
産設備などを返還するというものであった。これによって,150万の資産物件に
ついて120万の返還申請が,企業については11,200件の返還申請がなされた。し
かし,資産返還は土地台帳の不備や古い所有関係の確認の困難などで思うよう
にはかどらず,このため政府は1991年3月に障害排除法を制定して返還原則を
31)
緩和し,購入意欲のある投資家に取得優先権を与える措置を取った。
国有資産の売却は,小規模国有資産および大型国有企業について行われた。
小規模国有資産(飲食店,ホテル,小売店)は入札による競売方式で国民に売却
30) Sinn C32) S.81−82.
31) Sinn (32) S.69, S.7Z
中欧の体制転換 13
された。1991年4月までに2000の薬局のうち1000が,4500の飲食店のうち1700
32)
が私有化された。
大型国有企業の売却は,東ドイツの真珠と呼ばれてきた一部の優良企業のほ
かは,信託庁が力を注いできたにもかかわらず,思うようにはかどっていない。
その理由としては,規模が大きすぎること,整備にコストがかかること,予想
33)
を上回る賃金上昇があったことなどが考えられる。
チェコスロヴァキアでは1990年2月に44年ぶりに総選挙が行われ,市民フォ
ーラムが圧勝し,共産党を除くキリスト教民主同盟などとの連立政権を結成し
た。その連立政権の経済政策の柱となったのが,市場経済の制度化と私有化で
あった。
連立政権による私有化政策は,チェコとスロヴァキ・アの双方にそれぞれ設置
された国有資産管理・私有化省を通して推進されてきた。その柱は次の三つで
ある。
第1は国有資産の旧所有者への返還である。これは東ドイツの方法と同じで
ある。
第2は私企業の新設である。1990年に政府は国民の私的ビジネス活動を公認
する法を制定し,私企業の設立を奨励した。しかし,私企業に対する税や銀行
信用などの条件が国有企業と同等であったために,その設立は容易でなく,事
前に登録した私的ビジネスマンのうちわずかに1こ口みが事業(商業,旅行業,
34)
旅館業など)を興したにすぎないと言われる。
第3は,現存国有企業の私有化である。これについては次のような諸措置が
取られた。
小規模国有資産については入札による競売方式で国民に売却することが試み
られた。小規模の国有の商店,レストランおよび運送店などがこの方式で国民
へ売却された。
32) Sinn (32) S.68.
33) Sinn (32) S.71, S.82.
34) Kupka (19) p. 299.
14 彦根論叢 第278号
大型国有企業の私有化についてはクーポン方式による国民への無償配分とい
う方式が考えられた。1991年5月に発布されたチェコおよびスロヴァキア両共
和国の法令によれば,両共和国に永住する18歳以上の国民は連邦財務省が発行
したクーポン券を1冊35コルナで購入できる。クーポンは点数で表示され一人
当り1000点が持ち点となる。国民はあらかじめ当局によってアナウンスされた
企業の株式の購入をクーポン券を使って申し込む。各会社への申し込み額は中
央で集計され,需要が供給に同等かそれを下回るばあいはその企業の株式は注
文者に譲渡され,需要が供給を25%以上超過するばあいには注文が取り消され
て持ち点は各人に返還され,株のレートが高められて次のラウンドが開始され
る。需要の超過が25%以下のばあいには連邦財務省は注文を最大20%カットす
35)
ることができる。
このようなクーポン方式は1991年半ばから実施されたが,連邦財務省は国民
総数1150万人のうち750万人がこれに参加するものと見込んでいる。
IV.む す び
筆者は,現代の西側先進諸国に制度化されている経済体制の基本構成は,私
有+市場経済+誘導方式から成ると捉え,これに誘導資本主義という名称を与
36)
えてきた。このような筆者の立場からすれば,中欧諸国は現在,明らかに誘導
資本主義の道をたどりつつある。本稿は中欧での所有方式の転換政策に焦点を
絞ってこのことを実証しようとしたものである。本稿では触れることができな
かったが,中欧では市場経済の制度化(財市場・金融資本市場・労働市場の形成,
価格の自由化,通貨の交換性の実現)および誘導方式の実現化(企業の自立化,営
業の自由化,政府によるミクロ経済の間接的誘導方式の制度化)が私有化と並行する
37)
形で展開されている。
中欧諸国の中で最も時間をかけて誘導資本主義への転換の準備を行ってきた
35)Kupka〔19〕pp.309−310.クーポン方式は連邦財務省とピッツバーグ大学が共同で開発
した方式である。
36)福田〔8〕第6章,福田〔9〕第1章を参照されたい。
37)1980年代診までの動向については福田〔10〕を参照されたい。
中欧の体制転換 15
のは,ハンガリーである。今から振り返って見ると,市場社会主義の制度化が
行われた1968年から1989年までの22年間は,誘導資本主義へのいわば助走期間
であったとも言える。誘導資本主義への転換過程が比較的スムーズに進行し,
オートクラシーからデモクラシーへの政治体制の転換も国民の抵抗運動や大量
デモなしに平穏のうちに行われてきたゆえんである。
後発資本主義の国であったハンガリーは,この半世紀の間に管理社会主義と
市場社会主義の段階を経て,今また,誘導資本主義へ向かおうとしている。ハ
ンガリーの経験は,社会主義の生命力の弱さを端的に示している。コルナイ(J.
Kornai)は,管理社会主義(コルナイはこれを古典的社会主義classical socialism
38)
と呼ぶ)はそれを構成する一党独裁,国家的所有および官僚的調整の間に親和性
があるから凝集性の高い安定した体制であるが,市場社会主義はそれを構成す
る一党独裁,公有および市場的調整の間に親和性がないために内に矛盾を含む
39)
不安定な体制である,と主張した。筆者は,このような経済体制の構成諸要素
間の親和性(両立性)の議論そのものは説得力があり,ことに市場社会主義の脆
40)
弱さを説明するには有効であると考える。しかし,凝集性の高い安定した体制
であるはずの管理社会主義がハンガリーでなぜ短命に終わったか,については
一考を要すると思われる。管理社会主義の構成諸要素間に親和性があるとして
も,それが高効率に結びつかなかったところに管理三会主義の脆さがあったの
ではないか。行政経済方式は効率が低いのである。確かに,ソ連や東ドイツや
チェコスロヴァキ・アでは,さらにルーマニアやブルガリアやアルバニアでは,
管理社会主義はハンガリーよりも長く生き延びた。これをどう説明すべきか。
さしあたって考えられるのは,これらの国々では 少なくともハンガリーより
は一一共産党の支配力が強く強権的政治が行われたことである。強権的支配に
よって管理社会主義の低効率からくる国民の不満を押さえ込むことに成功した
からだ,と言えるのではないだろうか。もっとも,この点の論証は簡単にいき
38) Kornai (18) p. xxv.
39) Kornai (18) p. xxv, p.500, p.571. Kornai (17) pp.44−48,
40)くわしくは福田〔11〕,福田〔12〕を参照されたい。
16 彦根論叢 第278号
そうにもない。経済的要因や非経済的要因が複雑に絡みあっているように思え
るからである。今後の課題にしておこうと思う。
ハンガリーで長年にわたって蓄積されてきた体制転換の知識は,周辺の中欧
41)
諸国はもとより,広くソ連やバルカン諸国で活用されている。私有化政策一つ
を取ってみても,ハンガリー方式は最も多彩で機動的である。周辺の中欧諸国
での私有化政策にハンガリー方式の一部が取り入れられていることは,上述の
ところがら読み取れるであろう。ハンガリーのパイオニアとしての役割は小さ
くないのである。
ポーランドは,現在,経済の低迷に加えて,小党乱立で政情が不安定化して
おり,体制転換の速度を落とさざるをえない状況にある。よく指摘されるよう
に,体制転換の政治的要件として,強力な指導力をもつ議会と政府の存在が必
要だが,現在のポーランドにはこの要件が欠けているだけに事態は楽観視でき
ない。今後の体制転換には相当の困難が予想される。
東ドイツ地域ではソ連型の管理社会主義から誘導資本主義への転換が行われ
てきたが,それは経済体制の仕組みを180度転換しようというのであるから,西
のビッグブラザーの強力な支援があるとはいえ,体制転換の完了までにはかな
りの時間がかかるものと思われる。また,体制転換には多くの困難も予想され
る。事実,体制転換に伴う摩擦とコメコン体制の消滅による東方貿易の崩壊に
よって企業の不振と倒産が深刻化し,1990年に失業者は23万人,操短労働者
(Kurzarbeiter)は76万人であったのが,1991年3月になると失業者は150万人に
42)
急増し,操短労働者は166万5000人にものぼった。その後失業率は漸減の傾向に
はあるが,ここ当分の間は大幅な改善は望めそうもない状況にある。
チェコスロヴァキアも東ドイツと同様に管理社会主義から誘導資本主義への
転換を目指した。経済体制の根幹を成す所有方式,相互調整方式および上下調
整方式を全面的に転換するというのであるから,相当の摩擦と困難が予想され
41)たとえば,ソ連のペレストロイカの基本構想に影響を与えた。くわしくは福田〔10〕を
参照されたい。
42) Deutsches lnstitut (6) S. 140, Tabelle 19.
中欧の体制転換 17
る。かつて資本主義の国であったとはいうものの,東ドイツと違って強力に支
援してくれるビッグブラザーが存在せず,またコメコン体制の消滅によって東
方貿易が衰退したことからして’、この国の体制転換は東ドイツ以上の難航を強
いられそうである。加えて,最近の報道によると,1993年1月1日を期してチ
ェコとスVヴァキアはそれぞれ正式に分離独立することになったようである。
両地域の分離独立が体制転換にどのような影響を及ぼすか,予断を許さない状
況となっている。
中欧諸国は,いま,誘導資本主義への過渡期の段階にある。いつの時代もそ
うであるように,過渡期には混乱と困難がつきものである。破局的状況が生じ
て全体主義政権が再登場するという事態が発生しない限り,中欧諸国が社会主
義へ回帰するようなことはないであろう。
思えば,ソ二型管理社会主義は国民から生産の権利や営業の権利を取り上げ,
43)
暴力的に国民をパブリック・セクターへ動員し,全員を「国家の賃金取得者」
にしてしまうリバイアサンであった。ユニフォームの世界では創造的ダイナミ
ズムは生まれようがない。あるのは,無気力と停滞と低効率だけである。管理
社会主義の代案として登場した市場社会主義は,市場の導入で,また部分的私
有化で一部の国民に生産の自由を認めばしたが,大半の国民は依然としてパブ
リック・セクターのサラリーマンであった。市場での主役は国有企業だったの
である。低効率から脱却できなかったのも頷ける。
市場社会主義の経験は,市場経済の円滑な機能のためには私有が不可欠であ
44)
ることを教えてくれた。ハンガリーが徐々に私有化を推進せざるをえなかった
ことが何よりの証拠である。生産手段の私有化とは,生産の権利や営業の権利
などの経済主権を市民に返すことである。市民をパブリック・セクターからプ
ライベート・セクターに帰すことである。ポズナンスキー(K.Poznanski)の巧
45)
みな表現を借りれば,私有化は「社会的復員」(societal demobilization)を促進
する。中欧諸国は,いま,社会的復員の時代を迎えている。
43) Brown (3) p.115.
44)くわしくは福田〔13〕を参照されたい。
45) Poznanski (29) p.73.
18
彦根論叢 第278号
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一1992・ 8 ・31一