第10回 『建築を使い続けることの大切さについて ~近代建築の保存・再生を中心に』 花 田 佳 明 氏 神戸芸術工科大学 環境・建築デザイン学科教授 日時 2013年11月 2013年11月20日( 20日(水 日(水) 場所 NSRIホール 目次 【1】近代建築の保存の難しさと必要性 4 【2】ドコモモ(DOCOMOMO)という活動 7 【3】オランダにおける近代建築の保存・再生事例 13 【4】八幡浜市立日土小学校の保存再生 17 【5】松村正恒という建築家 33 【6】日土小学校の保存再生の位置づけ 34 41 フリーディスカッション 講師紹介 花田佳明( 花田佳明(はなだ よしあき)氏 よしあき)氏 神戸芸術工科大学環境・建築デザイン学科教授 1956 年 愛媛県生まれ。1982 年 東京大学大学院・工学系研究科建築学専攻修士 課程修了。1982 年~1992 年 日建設計。1992 年~1997 年 神戸山手女子短期 大学講師・助教授。1997 年 神戸芸術工科大学芸術工学部環境デザイン学科助 教授。現在 同大学デザイン学部 環境・建築デザイン学科教授、博士(工学)。 2011 年 日本建築学会教育賞(教育貢献) 2012 年 日本建築学会賞(業績)「戦後 木造モダニズム建築としての八幡浜市立日土小学校の保存と持続的活用」 2012 年 ワールド・モニュメント財団/ノール モダニズム賞 著書は、『再読/日本のモダンアーキテクチャー』(共著、彰国社、1997 年) 『植田実の編集現場』(ラトルズ、 2005 年) 『建築家・松村正恒ともうひとつのモダニズム』(鹿島出版会、2011 年) 等 ご案内役(ファシリテーター) 林 和久( 和久(はやし かずひさ) かずひさ) 日建設計 上席理事 1950 年 大阪生まれ。1973 年 大阪大学工学部建築工学科卒業。1975 年 東京大学 大学院・工学系研究科建築学専攻修士課程修了。日建設計入社。1981 年 米ペンシ ルバニア大 M.Arch 取得。1986 年~NY駐在員事務所長。米国建築家資格取得。 2002 年 上海駐在員事務所長。2006 年 執行役員名古屋代表。 現在 CR大阪代表席 上席理事 「日建設計 115年への生命誌」 の執筆中。 1 建築を使い続けることの大切さについて ~近代建築の保存・再生を中心に 木村 大変長らくお待たせいたしました。ただいまより第 10 回 NSRI フォーラムを 開催いたします。本日は、お忙しい中、お越しくださいまして、まことにありがとう ございます。 本日のファシリテーターは、日建設計上席理事・林和久でございます。よろしくお 願いいたします。 林 今日の案内役の林でございます。よろしくお願いします。先ほど音楽が流れてお りましたが、あの音楽はロンドンを拠点に活躍しておりますドーリック弦楽四重奏団 のブラームスの弦楽四重奏第一番ハ短調です。なぜここで流したかと言えば、この音 楽は大阪のいずみホールというホールで収録されたのですが、このホールを設計され たのが今日の講師の花田佳明先生です。日建設計に在籍された時に設計されました。 花田先生のご略歴を簡単にご紹介申し上げます。1956 年、愛媛県にお生まれになり、 1982 年、東京大学大学院・工学系研究科建築学専攻修士課程を修了され、その年に日 建設計に就職されました。いずみホールや松江のブラバホールの設計をされ、その後、 1992 年から神戸山手女子短期大学助教授等を経られまして、1997 年から神戸芸術工 科大学芸術工学部環境デザイン学科の助教授、そして現在は、同大学の環境・建築デ ザイン学科の教授、工学博士でいらっしゃいます。 主な著書といたしましては、 『建築家・松村正恒ともうひとつのモダニズム』という 本がございます。これは先生のドクター論文を書籍化したものです。もうひとつ、非 常に興味深い注目の本として、『植田実の編集現場』もございます。 2011 年、日本建築学会教育賞、2012 年、日本建築学会賞を受賞されました。これは今 日のテーマの「戦後木造モダニズム建築としての八幡浜市立日土小学校の保存と持続 的活用」という業績での受賞です。また、2012 年、ニューヨークに本部があるワール ド・モニュメント財団の世界的な賞、ノールモダニズム賞を、この日土小学校の保存 と再生にかかわられたチームとして受賞されています。そして、ドコモモインターナ ショナルから今年、Architectural Heritage Conservation Award を受けられました。 2 今日は、ご案内のとおり、 「建築を使い続けることの大切さについて~近代建築の保 存・再生を中心に」というテーマでお話しいただきます。 私はこの春、桜が満開のころに、兵庫の自宅から車を飛ばして、愛媛県八幡浜市の 日土小学校に行って参りました。この小学校は、本当にすばらしい山懐の小川のせせ らぎの横に建っています。季節もよかったこともあるかもしれませんが、桃源郷とい うのはこういうことを言うのかなと、しみじみとした感慨を持ったことを今でも鮮明 に記憶しています。歴史的な蓄積を大切にされた花田先生たちの保存と再生へのクリ エイティブなご努力によって、子どもたちが生き生きと生活するすばらしい学び舎に なっています。 去年の 12 月に、日土小学校は文化庁から国の重要文化財に指定されました。戦後 建築としては4番目。ほかは丹下健三さんの広島平和資料館、村野藤吾さんの広島の 平和記念聖堂、ル・コルビジェの上野の西洋美術館です。それに次ぐ4番目であり、 しかも、愛媛県八幡浜市という小さな町の、松村正恒というあまり知られてない、か つ戦後の木造小学校が国の重要文化財に指定されたというのは画期的なことと思って います。 前口上はこのくらいにいたしまして、花田先生にご講演をお願いします。よろしく お願いいたします。 花田 神戸芸術工科大学の花田です。初めまして、よろしくお願いします。今、林さ んから過分なご紹介をいただいて恐縮しております。いずみホールの写真を映して音 楽までかけていただき、在職中に設計したとまで言っていただきましたが、わずか 10 年しか日建にはいませんでしたので、チームの中で一番下っ端のメンバーとしてやっ ていました。現場にも2年常駐して一生懸命やりましたが、私が設計したなんて言っ たら、当時の主管さんに怒られます。 東京に1年、大阪に9年いました。それ以上いても余りお役に立てそうにないとい うことで、大学のほうに逃げていってしまいました。 今日は、こんな機会をいただけたことを大変うれしく、ありがたいことだと思って おります。 早速、本題に入りたいと思います。私が設計の最前線から大学に戻りその後ずっと、 3 近代建築の 20 世紀前半の建物の研究と、それを保存して、かつ使い続ける作業をや ってまいりましたので、そのお話をさせていただきたいと思います。 今日ご参加の方の多くは、恐らく古いものよりは現代建築やまちづくりの最前線で 新しいものをつくっておられる方々で、直接はご自身の仕事に関係ないなというとこ ろもあるかもしれません。しかし、古いものを見直す仕事も増えてきていると思いま すので、そういうことに少しでもお役に立てればと思っております。 私は今、神戸の神戸芸術工科大学におります。小さな大学ですので、ご存じない方 も多いかもしれません。デザイン全般、ファッション、漫画、建築、プロダクト、何 でも扱っている大学です。 小さい学校ですが、多少建築界とは縁があります。初代の学長がかつて東大におら れました吉武泰水先生です。吉武先生は筑波大、九州芸工大と大学をつくっていかれ ましたが、最後の仕事が神戸芸術工科大学です。その後は建築計画の鈴木成文先生も 学長をされていました。建築のアカデミックな分野とパイプの太い大学です。 最初に、近代建築という 20 世紀前半の建物の保存の難しさや必要性、それをめぐ る状況についてお話させていただきます。 【1】近代建築の保存の難しさと必要性 DOCOMOMO という国際組織があり、建築の保存、特に 20 世紀の建物の保存活動 をやっています。そういう組織が、日本の 20 世紀の建物についてどういう評価をし ているかというお話をします。 また、そういう時代の建物の先進国、ヨーロッパ、その中でもオランダではそうい う建物をどう扱っているのかということをご紹介したいと思います。 その後、私が 20 年近く関わってきた愛媛県の八幡浜市という小さな町にある日土 小学校の保存・再生が実現いたしましたので、それを題材として詳しくお話ししてい きます。こういう時代の建物をどんなプロセスを経て残したかということをご報告し たいと思います。 最後に、日土小学校の保存・再生はどんな評価を受けたか、そして近代建築を例に 建築を使い続けることの意味をお話しして終わりにしたいと思っております。 4 今日は 100 枚以上スライドがありますので、映像を楽しんでください。 (図1)(法隆寺等の写真のスライド) まず、法隆寺や東大寺や姫路城を建て替えようという人は絶対にいませんね。姫路 城を改造してホテルにするという話はあり得ないわけです。どうしてか。それしかな いからです。奈良時代から始まって 19 世紀までの建物の多くは現代にないデザイン で、何よりも数がありませんので、それを残すと言えば、その必要性は、専門家だけ でなく一般の方にも理解していただけるわけです。 (図2) これは神戸の旧居留地に建つ異人 館、十五番館という有名な建物です。 立派な柱があって、重要文化財に指定 されています。これなら大事な建物だ ということが一般の方にも伝わる。実 際、阪神大震災でつぶれたわけですが、 それを3年後に再建して今立派に建 っているわけです。ペディメントがあ ってオーダーがついていてわかりやすいデザインです。 (図3) このぐらいになるとどうでしょう か。一つは 1938 年に建てられた神戸 にある昔銀行だった建物です。今はき れいに保存改修されて、中におしゃれ なレストランがあり、使われています。 もう一つの建物は、上よりも少し古 い 1928 年の同じ神戸にあるビルです。 かつてブラジルなどへの日本から移 民が政策として行われていました。そ の時、全国から移民の希望者が集まって1週間ぐらいのトレーニングを受けた建物で す。この建物はツタが絡まっていて、かなり汚い。この二つが建てられた時代はほと んど変わりませんが、一つはカッコよく、もう一つは「どこかの古い病院みたい」と 5 いうことで、潰される可能性があった。一般の方に、これはすごく大事なんですよと 言っても、通じないところがあります。ですが神戸市はこの建物の重要性を認識して、 現在はきれいに保存・再生し、移民ミュージアムになっていたり、現代美術のアトリ エが入っています。 (図4) こうなるとどうでしょう。ひとつは 大阪の千里ニュータウンです。もうひ とつは秩父セメントの工場です。秩父 セメントの工場は、建築に詳しい方は、 名作であり、谷口吉生さんと日建設計 の前身の会社が設計したということ をご存じですので、恐らく価値を認め られると思います。しかし、普通の人 は、「汚いボロボロになった団地と汚い工場」と思うわけです。「これを残さないとだ めですよ。文化的な価値がありますよ」と言っても、なかなか理解してもらえない。 ところが、こういうものが実は 20 世紀をつくってきている。団地や工場、オフィ ス、学校、美術館が 20 世紀の我々の生活を支えてきている。しかし建築を見ると、装 飾なんか一切なく、ただの箱のようなので保存の必要性が理解されない。しかし、こ れらがもし本当に消えてしまうと、20 世紀の市民生活は何も残らないことになってし まう。そこで、今、その時代の建物の保存運動が始まっているわけです。 (図5) ところで今日の話は「近代建築」という言葉をタイトルに入れています。この言葉 についてはやや意味が揺れていますので、釈迦に説法かもしれませんが、念のためお 話ししておきます。 (図6) 普通の方は、近代建築というと、いわゆる洋館や洋風建築を想像される方が多いと 思います。明治期あるいは大正ぐらいまでに海外から入ってきて、日本の大工がつく った建物や、あるいはレンガ造の建物などです。 (図7) ところが、英語で「近代建築」は、モダンアーキテクチャーになるわけです。モダ 6 ンアーキテクチャーという英語があらわしているものはむしろ鉄とコンクリート、ガ ラスなどでつくられた、様式を否定した四角い箱です。ミースやコルビジェの建物で す。 (図8) つまり、英語のモダンアーキテクチャーという言葉と、日本語の近代建築という言 葉が、まったく違うニュアンスをまとってしまっている。 この時代の建物のことが紹介される中で、 「モダニズム建築」という言葉も登場しま す。この言葉は、日本語で近代建築というと、今申し上げたように洋風建築をあらわ すことがあるので、苦肉の策でつくり出された日本語です。英語でモダニズムアーキ テクチャーという単語があるかというと、これはほとんど使われてない。つまり英語 のモダンアーキテクチャーを、日本語でモダニズム建築といっているという矛盾した 状態なのです。 モダンアーキテクチャーと片仮名書きをした例もあります。でも定着しませんでし た。 僕としては、モダニズムアーキテクチャーという英語はないことから、モダンアー キテクチャーの直訳である「近代建築」が一番わかりやすいと思っていまして、今日 は「近代建築」という言葉で 20 世紀前半の鉄とガラスとコンクリートでできた四角 い建物を表すことにします。 【2】ドコモモ(DOCOMOMO)という活動 (図9) ドコモモという組織がございます。ご存じなかった方は豆知識で覚えて帰ってくだ さい。インターネットで調べていただくといろいろな情報が出てまいります。 (図10) ド コ モ モ と い う の は 、 Documentation and Conservation of buildings,sites and neighbourhoods of the Modern Movement の略です。Modern Movement、まさに 20 世紀前半の建築運動の、建物と敷地と周辺環境の記録や保存を目指した組織です。 これは国際組織ですが、日本にもドコモモ・ジャパンという支部が 1999 年から立 7 ち上がっております。 この組織の名前が今日もこの後何回か出てきます。先ほどお見せした一般の方に通 じやすい様式建築や伝統的な建築の保存ではなく、一般の方になかなか理解されない 四角い箱の建物の保存を訴えている組織というわけです。 (図11) それでは日本では、どういうものが具体的に評価されているのでしょうか。ドコモ モ・ジャパンが 1999 年に、20 世紀前半の日本の近代建築ベスト 20 を選びました。 これがその後どんどん増えて、今 160 ぐらいまで来ています。一番古い建物は 1928 年の同潤会のアパート、一番新しいのは、1966 年の日建設計が設計したパレスサイド ビルです。戦争を挟んで 40 年間ぐらいの間の建物を選んでいます。これら 20 の建物 を御紹介します。 どのような建物が今大事だと言われ始めているかということです。 まずは表参道にあった同潤会アパートです。今は残念ながらなくなって、安藤忠雄 さんが設計したビルになりましたが、コンクリートでつくられた日本の初期の重要な 集合住宅だったわけです。 (図12) 大阪の住友銀行の本店です。これは今後もずっと大事にしていただくことが決まっ ております。様式的な柱があると思われるかもしれませんが、これはそのままヨーロ ッパのまねではなく、幾何学的な構成やディテールの省略が始まっていますので、ド コモモ・ジャパンとしてはアカデミックな目で見て、日本における近代建築の初期の ものだと考えたわけです。 (図13) 藤井厚二という建築家が設計した京都の大 山崎にある聴竹居という住宅です。これは伝 統的な日本の和風住宅だと思われるかもしれ ませんが、ガラスの温室があり、アールヌーボ ーのようなデザインもあり、非常に環境工学 的に設計されていると言われております。 8 (図14) 小菅の刑務所です。 (図15) 東京中央郵便局は、今は建て替えられてい ます。 (図16) 土浦亀城という、フランク・ロイド・ライ トのもとで勉強した建築家の自邸です。目黒 にまだあります。 (図17) 慶應義塾の小学校です。谷口吉郎の作品です。 (図18) 村野藤吾設計の宇部にある市民館です。これはきれいに改修されて現役で使われて います。 (図19) 堀口捨己が設計した一見和風に見える建築 です。 (図20) ここからが戦後になります。鎌倉にあり、 保存問題で揺れている、坂倉準三が設計した 美術館です。 9 (図21) 増沢洵が設計された個人住宅です。 (図22) 前川國男が設計した神奈川の音楽堂・図書館 です。 (図23) 先ほど登場しました秩父セメント工場です。 (図24) 丹下健三の設計した広島のピースセンター。 (図25) それから、この後詳しくお話しする日土小学 校です。 10 (図26) 丹下健三の香川県庁舎。 (図27) レーモンドが設計した群馬の音楽ホール。 (図28) 丹下健三の代々木の体育館。 (図29) 早稲田の吉阪先生が設計した八王子の大学 セミナー・ハウス。壊されてきています。 11 (図30) 日建設計の林昌二さんが設計されたパレス サイドビルです。 これらの 20 の物件をドコモモ・ジャパンとしては、日本を代表する近代建築とし て最初に整理したわけです。 見ていただくと、かなりバリエーションがある。構造も、コンクリートも、木造あ ります。デザインも、ヨーロッパの色合いがあるものから、日本的に変形したもの、 日本の伝統を重ねたようなものまで、かなり幅広くある。つまり日本における 20 世 紀前半のデザインの仕事は、ヨーロッパの影響を受けながらも、そこに地域性や歴史 性を重ねていく仕事だということが非常によくわります。 日本がこのベスト 20 を選んだ時に同時に世界中のいろいろな国のドコモモ支部で、 それぞれの国のベスト 20 を選んで1冊の本にしています。その結果、国によって本 当にさまざまだったということが改めてわかりました。コルビジェのような白い箱ば かり並べた国もあり、他の国と比べると日本が一番幅広いということがよくわかりま す。 (図31) ただ、こういう時代の建物の保存は、最初に申しましたように、なかなか難しく、 現実は厳しい。例えば大阪ですと中央郵便局はつい先般壊され、現在そこに何もあり ません。広場のまま残されている。 前川國雄の京都会館も、大ホールが、規模が小さ過ぎて、オペラができないという 話になり、左半分だけ、今切り取られて、そこに新しいホールが挿入されることが進 んでおります。 それぞれ、ドコモモも、建築学会も、市民の方々もいろいろな意見を言いましたが、 都心の一等地にあり、そのままというわけにはいかなかったというわけです。 12 【3】オランダにおける近代建築の保存・再生事例 (図32) 次に、近代建築発祥の地の1つであるオランダにおける近代建築の保存・再生事例 をご紹介します。 (図33) オランダはちょうど九州ぐらいの 大きさです。申し上げるまでもなく、 埋め立てでできた国です。世界のほ とんどの場所は神様がつくったけれ ども、オランダだけはオランダ人が つくったと言われています。九州ぐ らいの土地に九州ぐらい数の人が住 んでいます。全く山がありませんの で、人口密度は非常に低い。 (図34) オランダの建築は 1900 年代に入 ってから、それまでのヨーロッパの 歴史的な様式からだんだん変形され ていきました。最初のころは当然そ れまでの伝統や歴史に縛られていま した。例えば、1903 年のアムステル ダムの証券取引所。まだレンガが積 まれていたりする。いろいろな装飾 がある建物です。これは非常に大事 にされて今も使われております。 13 (図35) 1919 年、わずか 16 年後に、エイヘン ハールトの集合住宅が建ちます。これ も今から 100 年ほどさかのぼった時 代のものですが、現役で普通に人が暮 らしています。 宮崎駿がデザインしたのではない かと思うようなかわいらしい建物で、 それまでの伝統的なものとは違って いますが、そういうものを引きずりながらだんだん近代化されていっています。 (図36) 一方、1924 年のシュレーダー邸で す。リートフェルトが設計した、非常 に構成的で現代的な建築が同じ時期 に出現しています。 (図37) これもほとんど同じ時期、1930 年 に建てられたヒルベルスムという町 の市役所です。現代的な四角な建物と 様式性との中間のデザインです。これ は私が撮った素人写真ですが、絵はが きではないかと思うぐらいきれいな 写真が撮れました。内部もきれいです。 もちろん現役の市役所として使われ ています。結婚式の会場にもなります。タイルのディテールも、すごくきれいです。 14 (図38) この建物の地下におりていきますとミュージアムがあります。 「dudok」と書いてあ りますが、設計した建築家の名前です。この市役所の地下にはデュドックのミュージ アムがあるんです。模型や図面や写真が張ってあって、デュドック以外にオランダの 近代建築に関する展示も行われています。ここにはタイルメーカーのショールームか と見間違えるようなストックヤードがあり、そこにこの建物を補修していくのに必要 なタイルなんかが全部置いてある。必要に応じて張り替えているということです。だ からあれほどきれいなんですね。 勉強コーナーもあります。ドコモモ関係の資料も置いてあって、一般の市民の方が 来て、自由に勉強していました。日本の県庁や市役所、町役場の地下に、その建物を 設計した建築家のミュージアムがあるでしょうか。本当にびっくりしました。考え方 が全然違います (図39) 近代建築の教科書を見たら必ず出 てきます。1930 年にアムステルダム に建てられた「オープン・エア・スク ール」という小学校です。絵に描いた ような近代建築で、四隅の柱をなく し、キャンチレバーで、可能な限りガ ラスを入れた、カーテンウォールの 建物です。もう 80 年以上経っていま すが、現役の小学校として使われて います。サッシはスチールサッシです。古い建物ですから、忘れられたような学校か というと、この住宅地域の中では、人気の学校なんだそうです。建物の年齢でその中 身の価値が一緒に下がっていったりはしていないということです。 15 (図40) 先ほどの市役所のあるヒルベルス ム郊外ある、ゾンネストラール・サナ トリウムという結核療養所です。すご くきれいです。真っ白な外壁で、サッ シも青々とスチールサッシです。キャ ンチレバーも多用され、まさに近代建 築です。 (図41) 中も公開されていて、きれいな階段室や、かつて食堂だったホールが、全部見学で きるようになっています。観光バスがやってきて、専門家ではなく、普通の方が建築 を見学に来ていました。 (図42) 実は、この建物は、広い場所で何棟も病棟があり、僕らが見に行ったときは工事が まだ途中のものもありました。全体が廃墟になっていたんです。ガラスは割られ、ス プレーで落書きはされ、コンクリートは欠け落ちたような状態だったものを全部原設 計の通りに戻した建物です。もとは結核療養所です。オランダはダイヤモンドの産業 が当時盛んで、加工する方が粉を吸って胸を悪くしたそうです。 (図43) オランダのデルフト工科大学のヘンケット先生がこの状態をご覧になって心を痛め、 学生も投入して、もとに戻したんです。このヘンケット先生が、先ほど申しましたド コモモという組織の必要性を訴えて始め た方です。ドコモモという組織にとっては、 巡礼の地とも、ドコモモ発祥の地とも言え る建物です。 (図44) 最後は近代建築の教科書に必ず載って いるロッテルダムのファン・ネレという工 16 場です。煙草などの嗜好品をつくっていた工場です。これも近年全面的にリノベーシ ョンされて、現在はオフィスビルとしてよみがえっています。デザイン系の事務所が 入っており、プリントセンターもあります。もともと大きな機械が並んでいた場所は 食堂になり、現役の建物として使われています。 (図45) オランダの近代建築は、伝統的なボキャブラリーのものからだんだん白いガラスの 建物になってはおりますが、日本ほど幅がないということは、見ておわかりになると 思います。 いずれにしても、オランダではこういう建物を全て大切にして、100 年経っても使 っているということは日本と大分違うわけです。 【4】八幡浜市立日土小学校の保存再生 (図46) ここから、私が長くかかわった日土小学校のお話をして、建物を残すプロセスが、ど 17 ういうことかということをもう少し具体的に、皆さんにわかっていただければと思い ます。 【4-1】日土小学校の概要 (図47) 日土小学校というのは、木造2階建ての細長い瀟洒なデザインの小さな小学校です。 (図48) 場所は愛媛県の八幡浜です。松山から車で小1時間走ったところにある港町です。 市の中心部から車で 10 分ほど奥に入ったところに日土小学校は建っています。周り は段々畑のみかん山です。耕して天に至るという表現がありますが、山のてっぺんま で耕されてみかんが栽培されている、のどかな地方都市です。その谷筋に建っており ます。 (図49) できたのは 1956 年から 58 年(昭和 31 年から 33 年)にかけてです。運動場から 見て右側が 1956 年にできました。職員室とか特別教室があります。そしてもう一つ の建物はその2年後 1958 年にできた普通教室が6つ入っている建物です。川がこの 裏を流れておりまして、その川にほとんど接するように建っている建物です。川沿い の風景が素晴らしく、ファンも多いという建物です。竣工直後には、建築界でいろい ろ話題になりました。 (図50) 改修前の1階と2階の平 面図です。下側が川です。1 階には、職員室と、家庭科室、 特別教室があります。渡り廊 下を挟んで反対側の建物は、 普通教室が上下合わせて6 つ。1学年1クラスという構 成になっています。 設計したのは松村正恒と いう建築家で、戦前、近くの 18 大洲という町で生まれ、東京の武蔵高等工科学校(現・東京都市大学)で勉強しまし た。その後、土浦亀城の事務所に勤め、戦後、愛媛に戻って八幡浜市役所の職員とし て色々なものを設計した建築家です。 何しろこの建物をご覧になったことのない方ばかりだと思いますので、改修後の様 子をビデオでお見せします。2011 年に竹中工務店のギャラリーエークワッドで松村正 恒展が開かれた時、竹中さんのほうでつくっていただいたビデオです。それにニュー ヨークのワールド・モニュメント財団から賞をもらったときにそこが英語の字幕を入 れて、短く再編集しました。 (ビデオ上映) 田舎の小学校は朝早くて、7時に子供達が登校してきます。 本当は向かって左の建物(東校舎)の1階に昇降口があったのですが、今回の改修 の中で、職員室の近くの方がいいということで右側の建物のほうに移してあります。 児童数は 60 人を切っておりまして、本当に小さな学校です。今度近隣の学校が統 合されるので、もう少し増える予定です。 中校舎に職員室があります。ガラスが多いですが、このあたりは今回の計画の中で 手を加えた部分です。 廊下から左のロビーのあたりは、もとは小部屋で間仕切りがありましたが、今回オ ープンにしました。 放送室で給食の時間の校内放送をしています。懐かしいですね。 そのすぐ前のガラス張りの部屋は職員室です。見通しをよくするために改造しまし た。階段のあたりはもとのデザインから一切変えてはいません。そのかわり材料は取 りかえています。壁は全部張り替えていますし、塗りかえていますが、デザインその ものは変えていません。手洗いはオリジナルです。 建具も9割方、補修して元のものを使っております。ガラスは入れ替えていますが、 骨組みも90数%、元のままです。床板は張り替えていますし、天井板も張り替えて いますが、構造体とか建具は元のままだと思ってください。 壁面も基本的には張り替えています。ただ、剥がすと裏側に元のものが残っていま す。元のものの上からいろいろなものが取りつけてあります。 これが教室です。1学年ひとクラス。 19 教室が広過ぎるので、ランドセル置き場の家具をつくって、逆に小さく見えるよう にしました。 木造の建築なのですが部分的に鉄骨が入っています。手づくりのトラスでスパンを 飛ばしたりと、いろいろな工夫があります。 鉄筋ブレースを入れることで壁を減らし、非常に明るい空間をつくっています。 柱と外壁が離れています。木造ですがカーテンウォールになっています。 すりガラス、透明ガラス、日よけスクリーンなど、いろいろな工夫があり、それも 元の通りにしています。今風に言えば、環境工学的な工夫があちこちに見られます。 色調は全体にパステルカラーです。戦前、逓信省なんかも使っていたような薄いブ ルーやウグイス色、ピンクを使っています。木造ですが、床以外は基本的にはペンキ が塗られています。 廊下と教室が切り離されていて、廊下と教室の間に中庭があり、風通しに工夫があ ります。 給食の時間です。 一番奥に見えているのは新校舎です。今回普通教室を 4 つを持つ校舎を増築しまし た。 図書室のべランダは、川のほうにせり出した気持ちのいい場所です。 日土のことをご存じの方には有名なエピソードですが、建物が川にはみ出していま すね。敷地境界線を越えていて、ベランダ以外の階段も幾つか越えています。当時、 県と町側が打ち合わせする中で、親水性が大事だということを切々と訴えて、県のほ うも、「これっきりですよ、松村さん」ということで許可が出たそうです。 改修するに当たってその問題が再燃しまして、1年半ぐらいかけて県と交渉して、 現状を認めていただくことになりました。 図書室の左側の書架も全部なくなっていましたが、改めて原設計のとおりつくりま した。 家具も松村さんが図面を書いておりまして、それを再現してあります。色ガラスも あって、図書室は非常におもしろい意匠で、近代あり和風ありで遊びのある場所にな っています。 テラスに行きますと、本当にどの季節でも気持ちが良くて、まさに桃源郷にいるよ うな気分になる場所です。 20 階段も川に迫り出しています。 鉄骨階段も今回はつくり変えたりは一切していません。一回外して工場に持ってい って、まるで工芸品のような補修を行っています。今だったらグレーチングを載せて 終わりですが、全部手づくりの、鉄筋やアングルでつくった階段です。 廊下と教室の間に中庭が入っています。 東校舎の廊下は非常にゆったりした勾配で気持ちのいい場所です。 ここの階段は踏み板だけオリジナルのものを使っています。非常に厚い立派な板で したので、白線が残っているわけです。消せませんでしたし、残しておこうというこ とになりました。 これがもとの昇降口です。 このガラスの向こうが中庭の部分です。奥に見えているのが教室の外壁で中庭のお かげで、教室の両サイドから光と風が入ってくる、そういうつくりになっているわけ です。 下駄箱の中仕切りを少し低くしてあるので、向こうに見通しがききまして、文字ど おり透明感のあるデザインになっています。 去年の今ごろ、ワールド・モニュメント財団の賞の表彰式がニューヨークであり、 このビデオを映しました。アメリカの人たちは、子どもたち自身が学校を掃除してい ることに感激していました。 夜見ると、本当にきれいで、全点灯してみると、壁が全くないということがよくわ かります。絵に描いたような近代建築で、カーテンウォールにして壁をなくすという ことを考えたんだなということが非常によくわかります。 僕は何度もこの学校に行っているわけですが、夜景を見る機会はありませんでした。 これを見て大変感激しました。 (図51) 日土小学校と私の出会いをお話しします。1994 年ですからもう 20 年前ですが、 私が日建設計をやめた後、研究に戻る中で、友人と四国の公共建築をいろいろ見て回 って、雑誌にルポルタージュのようなものを書きました。その時に初めてこの建物を 見ました。私は 1956 年生まれで、大学で建築教育を受けていますが、松村正恒とい う建築家の名前も、日土小学校という建物の名前も、知りませんでした。四国を回る 前に、何を見に行こうかと相談する中で、当時、松村さんがお亡くなりになった直後 21 でしたが、「無級建築士自筆年譜」という本が出ていました。本が出るような人がい たんだ、そんな建物がどうもあるらしいということで候補にしました。 すぐ近くに内子という町がありました。原広司先生が設計された、大江健三郎の卒 業した大瀬中学校の建物がある町です。それをみんなで見た後、日土小学校に夕方行 きました。下校が始まっていました。あちこち傷んではいましたがすごくきれいなの で大変驚きました。「何なの、これ!」という感じになりました。間もなく閉まると いうことで、走り回って写真を撮りました。当時八幡浜市には松村さんの設計した建 江戸岡小学校や神山小学校という大型の建物がまだありましたので、そこにも慌てて 車を飛ばして行って、写真を撮りまくりました。感動してしまいまして、一緒に回っ ていた編集者から後で、「花田さん、泣きながらシャッターを切っていた」と笑われ たぐらいびっくりしたんです。 神戸に戻ってからもすごく気になって、桃源郷のような自分の知らない暮らしをし ている村に入って、そのまま帰ってきたかのような、あるいは夢を見ていたのだろう かというような思いにとらわれてしまいまた。これはもう一回ちゃんと調べに行かな くてはと思いました。色々つてをたどって、窓口になる方を探し、設計者の松村正恒 の研究をしたり、愛媛の人たちとネットワークをつくり、保存活動をやってきまし た。それからあっという間に 20 年が経ったということです。非常に不思議な出会い だったなと思っております。 【4-2】日土小学校の建築的特徴 (図52) 日土の建築的な特徴をお話します。なぜ保存しようと思ったかという話です。 ① 教室と廊下を分離したクラスター型配置である(東校舎) まずはアカデミックな価値からです。この学校は教室と廊下、教室と昇降口が切り 離されて、間に中庭を入れた構成になっています。これは建築計画学の分野ではクラ スター型と呼んでおります。クラスターというのはブドウなどの房ということです。 ブドウは幹があって枝があって実がたくさんぶら下がっている。この小学校も、廊下 があって前室があって実としての教室がぶら下がっています。普通は廊下と教室がく っついて兵舎のようになっています。それだと教育が画一的になるので、戦後、明る く風通しの良いクラスター型を普及させようという動きがありました。東大の吉武泰 22 水先生の研究室で、研究や実践が始まったんですが、それとほとんど同じ時期に非常 に高い完成度で、八幡という地方の町にクラスター型が実現していました。従って先 駆的事例として非常に重要である。 (図53) ② 教室への両面採光の完成形である 次にクラスター型教室配置を採用したことによって教室に光と風が両方から入ってき て、非常に気持ちのいい空間ができる。そういう考え方を両面採光と呼び、松村正恒 は多くの小学校でそれにチャレンジしていましたが、日土小学校は、その完成形であ るということです。これは東校舎の矩計図で、両面採光の様子がよくわかります。実 施設計図は一式きれいに八幡浜市役所に残っております。それ以外の建物の図面も非 常にいい状態で残していただいています。この矩計図は1日眺めていても飽きない。 本当に微妙な細かい設計がなされております。 僕たちは、ドコモモ・ジャパンが展覧会をしたときにこの日土小学校の 20 分の1 の巨大な模型をつくりました。この実施設計図だけでつくることができました。何を 言いたいかというと実物と全く差がないということです。竣工図かと思うくらいの実 23 施設計図である。頭の中で全て彼は把握していたということがよくわかる図面です。 ③ 木造とスチールを組み合わせたハイブリッドな構造形式である (図54) 構造も非常におもしろいことになっています。木造とはいいながら、鉄筋のブレー スを入れることで壁をなくして、横力に抵抗していたり、必要なところにはアングル でつくったトラスが入っている。自由自在でハイブリッドな構造計画になっていて、 これは木構造の歴史のほうから見ても非常におもしろいことです。 ④ 現代建築においても他に類を見ない豊かな空間性を持っている 日土小学校には何より非常に豊かな空間性があって、あんな空間は、今いろんな 新しい学校がつくられていますが、ほかになかなか例を見ない現代的な空間とも 言えます。あらゆる空間が子供たちの居場所なのです。 ⑤ 戦後の民主的な教育思想を空間化した建築である (図55) 少し理屈っぽい解釈にはなりますが、そういう空間は、ただ「すてきね、豊かね」 ということだけでなく、日本が戦後解放されて、民主的な教育をしなければと言って いた教育観をただ時間割に反映するのではなくて、空間に反映した稀有な例であろう と思います。 (図56) これは川に迫り出したテラスのひとつですが、そこに女の子がひとり立って遠くを 眺めています。これは当時、『建築文化』に発表されたときに採用されている写真で す。今どきの小学校に子どもが1人ポツンとたたずんで、遠くを眺めるような場所は あるでしょうか。非常に豊かな空間だと思います。 ⑥ 欧米のモダニズム建築に対する独自の解釈を示している (図57) 先ほどオランダの例をお話ししましたが、日本に欧米の近代建築が入ってきたとき に、いろいろな変形が行われました。その中でも、日土小学校にはかなり独自の解釈 が見られます。屋根の部分を手で隠してしまうと、水平連続窓がスーッと走って、グ ロピウスが設計したかと思うような絵に描いた近代建築になります。でも、平気でス レートかわらの切妻屋根を載せて、軒を出しているわけです。地域的に雨の多いとこ ろですから、フラットルーフはとんでもないということです。そういうローカリティ 24 ーとインタナショナリティーを非常に巧みにまぜたおもしろい事例だと言えます。 (図58) こういうことをいろいろ考えていくと、日土小学校という建物には、歴史的な価値 がある。また、今の学校としても全く見劣りしない。そうすると、歴史的価値と現在 的価値があるわけですから、残して、かつ使えばいいではないかという結論に至った わけです。 【4-3】日土小学校の保存再生計画の概要 (図59) 次に保存・再生のプロセスをお話しします。これは工事中の写真です。最初申しま したドコモモ・ジャパンがベスト 20 に選んだのが 1999 年です。最終的に改修工事 が終わったのが 2009 年ですから、ちょうど 10 年かかりました。その間、いろいろ なことがありました。 (図60) 改修前の様子はこんな感じです。さっき見ていただいたきれいな図書室もこんな様 子でした。書架は全部なくなり、図書室としては使われていませんでした。職員室は もので溢れています。ペンキも、剥げています。もちろん市も地域の方もメンテナン スはやっておられた。50 年近くの間に5回ぐらい塗りかえはされていましたが、そ れでもこんなふうになります。テラスも危なっかしい。スチールの部分は錆びていま す。こういうものを普通の方が見たら 「これは、あかんわ」ということに当然なるわけです。「こんな危ない学校に子ども を通わせたくない、新築してくれ」という話が当然、出てくるわけです。 25 (図61) 1999 年のドコモモ 20 選に選ばれたというのが、大きな手がかりになりました。 私も、その少し前から研究を始めていましたし、愛媛の皆さんとのネットワークもで きてきたので、このころから地元で本格的に保存活動がスタートしたわけです。 (図62) その後は色々なことをしました。2003 年には、木の建築フォーラムという、内田 祥哉先生たちがやられている木構造の専門家の団体のシンポジウムを日土小学校で開 かれ、われわれも保存を訴えました。展示をして、地域の人にも見てもらいました。 そのころ、地元にも保存グループが生まれました。翌年の 2004 年の夏には、こんな 素晴らしい空間を大人も使わせてもらおうということで、建築系の学生や専門家の8 月に、ここで1泊2日の勉強会をやりました。みんな、雑巾1枚を必ず持ってきて、 掃除をしてお礼をしました。このころはすごくうまくいっていました。何とかなると 思っていました。市も調査費用をつけると言っていました。2004 年8月の夏休みで す。 (図63) ところが、この会が終わって、私は神戸に帰り、よかった、よかったと思っていた ら、大きな台風が来て、東校舎の棟の廊下の屋根が吹き飛び、クラスター型の中庭に 落ちました。それを機に、実は地域の中にはかなりの比率で建て替えを希望する方々 がいるということがわかりました。日土小学校の去就は、一旦白紙に戻されました。 市の中に新たに委員会がつくられ、そこで検討をして残すか壊すか決めることになり ました。委員会には我々の保存グループからは愛媛大学の曲田先生しか入れてもらえ ず、一時は「だめかも」と思って辛い気持ちになりました。それでも、あの手この手 でいろんなことを動かしていきました。 建築史の鈴木博之先生や木構造が専門の東大の腰原幹雄先生にもこのころから応援 をお願いして、調整を重ねていきました。結果的には八幡浜市が腹をくくってくれ て、残すということになりました。 (図64) もちろん、そのまま神棚に飾るような残し方はだめですから、地域の方が満足して くれるように、一部増築もするし、改修もするという案を建築学会でまとめたわけで す。 26 正式に市から建築学会に現況調査の依頼が発注されました。2006 年、床下から天 井裏まで全部入って実測をし、CAD 化し、愛媛大の農学部で木の状態を調べてもら い、東京大学生産技術研究所の腰原さんが調査をし、立派な報告書をまとめました。 構造的には全く問題ない、耐震補強は可能であるという結論を得て、それならという ことで改修案をまとめました。 (図65) この図は1階のビフォー、アフターです。ビフォーは先ほどご説明したとおりで す。松村さんの設計ではない建物がありましたので、それは壊し、そこに1フロアに 2教室、上下合わせて4学年分の4教室を入れた新しい建物をつくりました。中校舎 では職員室の周りの見通しが悪かったので、先ほどビデオで見ていただいたように、 この辺は少し改造いたしました。クラスター型をとり文化財的な価値のある東校舎に ついては、原則完全に元へ戻すことにしました。そのかわり、地特別教室の理科室や 図工室へと用途を替えました。 27 (図66) 工事は 2008 年 9 月から 2009 年 6 月までかけて行われました。床、壁、天井、建 具、屋根も全部外して、改修工事が行われました。きちんと記録を残すために、工事 現場で監理をした建築家と工務店の間で細かい調整をして、「とにかく捨てるな。全 部チェックしてからだぞ」ということで作業をしていただきました。 (図67) この仕事を実現するための体制を紹介します。基本的には建築学会の四国支部の中 に、鈴木博之先生を委員長とする委員会をつくり、地元のいろいろなまとめ役のでき る愛媛大学の曲田曲維先生と、松村さんのことを調べている私と、学校建築に詳しい 東京電機大学の吉村彰先生と、木構造の専門家である東京大学の腰原幹雄先生と、地 元の松山の建築家4名がメンバーになりました。そこで調査を行い案をつくっていき ました。 実施設計は、このメンバーの中の和田耕一さんと武智和臣さんのお2人の建築家が それぞれ、既存部と新校舎を担当しました。構造は東大の腰原さんが全部見てくれま した。もちろん、事業主体は市の教育委員会です。この3つのチームで、情報を交換 28 してまとめていったということになります。フラットな関係のとても良いチームだっ たと思います。 (図68) 鈴木先生が参加されたころから、重要文化財になるかもしれないという話がありま したので、文化庁さんと改修計画の内容については打ち合わせをしながら進めていま す。何しろ文化財としての価値が高いわけですから、当初の状態に戻すということが 大原則です。色から工法から、いろいろなものを全部調べ上げてやっていきました。 色は5回ぐらい塗りかえられていますので、塗装部分を削っていき、塗装の専門家の 人たちと情報交換をして、これが一番下であろう、下地ではないだろうと、色を突き とめ、ピンクの木製サッシの色など、全てを確定していきました。 (図69) 構造補強が当然問題になりま す。当時の基準にはもちろん合 っているわけですが、現行の建 築基準法には合っていません。 そこを腰原さんにいろいろ考え ていただきました。文化財的価 値が非常に高いので、構造補強 が目に見えないようにしようと いう目標を立てました。原則と して、床、壁、天井内に隠れるだけで補強をしています。1カ所だけ目につく補強を したのは東校舎の教室の鉄筋ブレースです。元は、教室の、川側のカーテンウォール 側の 5 スパンのうち、中央の1スパンに1個入っていました。それではさすがにも たないということで、構造側からは2スパンにしろ、3スパンにしろという話があっ たのですが、意匠的が崩れると判断し前後2連にして構造と衣装を両立させこれは結 構うまくいったなと思っております。 先ほど言いましたが、普通教室を特別教室に変えるととんでもないことになるので はないかと思われるかもしれません。しかし、そんなことはありませんでした。意匠 的には、床、壁、天井、建具、全部オリジナルの普通教室に戻して、そこに什器備品 を置いているだけなんです。もとの状態を傷めているとしたら、配管の穴を何カ所か 29 抜いているだけです。什器備品をのけてしまえばオリジナルの状態に戻りますので、 文化財的価値は全然損ねてないということです。 (図70) 職員室回りは池田小学校の事件の影響もあり、見通しをよくしてほしいという地元 の方のご希望に従って、割と手を入れました。2 階では足りない教室をつくるために 廊下の一部を区切りました。水回りや音の問題は、可能な限り手を入れました。トイ レはつくり直しています。そういった機能的な部分は使い続ける文化財ということで あれば、手を入れないといけないと実感しました。 (図71) 新校舎を、横に名作があるわけですから、なかなかの難問でした。武智和臣さんの 事務所で、一緒に案をつくりました。既存部と同じものをつくったのでは意味がな い。松村デザインの特徴を抽象化して水平性などの言葉に翻訳をし、それを別のモチ ーフで実現することによって、対比と継承を実現しました。構造も、もともとの校舎 が柱梁のフレームですので、新しい方は、建物の真ん中に羽子板状に木の壁を立て て、水平力に持ちこたえるようにして、構造的な図式も対比があるようにしました。 (図72) 30 完成した姿です。去年ニューヨークで講演したときは、「It Shines like goddess of architecture」と言いました。日本語ではとても恥ずかしくて言えないんですが、英 語だと言える。この建物は男性には見えない。女性に喩えたくなる建物だと思いま す。 (図73) 非常に透明感があ ります。改造すると ころは改造していま す。元へ戻すところ は元へ戻しました。 (図74) 未来と松村正恒の 対話。これもちょっ と恥ずかしいことを 書いています。 31 (図75) こんなふうに子ど もたちが戻ってき て、楽しく使ってく れています。 【5】松村正恒という建築家 (図76) 設計者である松村正恒のことを簡単に紹介したいと思います。愛媛県大洲の旧家、 に生まれました。社会派で、自由人で、正義感が強いお人柄です。ただ、小さいとき に寂しい育ち方をされています。お父さんが小さいときに亡くなっています。彼の絶 筆の原稿に思い出が書かれています。父親が亡くなったお葬式の棺の上で何にも知ら ない自分が遊んでいた記憶。その後お母さんとも別れて暮らすことになったそうで、 小学校の入学式には1人で行ったとか、お母さんに久しぶりに会いに行って、帰るの を渋ったとか、いろいろ書いておられます。大きな家の出で、豊かに育っているので すが、寂しい思い出を抱えた方です。その後、学生になり、建築家になっていく中 で、病院や孤児院、託児所、そういうものに非常に関心を持ち、戦前は東京で社会活 動もされています。その背景には幼い頃の記憶があるのかなと思います。 (図77) 戦前の武蔵高等工科学校時代の卒計の写真も見つかりました。「childrens care school」というタイトルです。母子家庭の学校なんだそうです。彼はそういうことを 32 学生時代から考えていました。 (図78) 土浦亀城の事務所時代には、絵に描いたような近代建築を設計していました。お金 持ちのための「白い箱」ですね。彼は最初はここで楽しくやっているんですが、その うちこういうことが嫌になる。社会派の何かがムラムラとよみがえったようで、土浦 事務所を辞めて、農地開発営団に移り戦前の日本海側の貧しい農村調査に携わりま す。 (図79) 彼はすごく勉強していて、戦前の『国際建築』という雑誌で、託児所に関する特集 号を組んだり、学校建築の海外情報を入れていた。彼の自宅では戦前の勉強ノートが 残されています。コピーがない時代、トレーシングペーパーで色々な文献を写して貼 りつけて、今でいう設計資料集成みたいなものを手づくりしていたのです。 日土小学校のデザインは、彼のセンスだけでできているのではなく、その背景に知 識があったということです。 (図80) 八幡浜市役所の時代には、学校以外にいろいろなものをつくっています。病院関連 施設もたくさんつくっていた。いずれも、ガラス面積の大きい明るい近代建築です。 残念ながら全て残っておりません。 (図81) 1960 年 5 月号の『文藝春秋』では、前川國雄や丹下健三など、そうそうたる建築 家にまざって日本のベストテンに選ばれました。この年、定年前ですが彼は市役所を やめて、松山で自分の事務所を始めます。その後、1993 年に亡くなるまで 400 以上 の建物を設計しています。しかしそれらの建物のデザインは、ごく普通のものです。 そのことをどう解釈したらいいかなと私はずっと考えています。 (図82) あるとき対談でこんなことを彼は言っています。医者と建築家を比べて、「医局に いるときは一生懸命勉強するが、開業した途端にヤブになる。正直な開業医が言うて おりましたね」と。開業したらお金儲けに走って勉強しないというわけです。「私 も、これは、市役所にいるあいだは医局みたいなもので、開業(事務所を開いたとの 意)は違いますが、駄目ですな。思うようにできんでしょう」。民間の仕事のほうが 33 冒険をしにくいと彼は言っているんですね。税金を使って公共建築をつくるときは思 いっきり実験をしたけれど、人様が一生懸命稼いだお金だと、なかなかそうもいかな いと。批評とも弱音ともとれる面白い言葉です。こんなことを言うような人でした。 (図83) 自分の先生の蔵田周忠の座右の銘をご自身でも書に書いています。「徳弧ならず 必ず隣あり」。一生懸命やっていたら必ず見てくれている人が隣にいるということを 思っていたようです。 こう言うと、かた苦しい人のように思われるかもしれませんが、非常に洒脱でユー モラスな方だったようです。僕は、2年ぐらいのタッチの差で、お目にかかれなかっ たんですが、いろいろな講演会のテープをいただいて聞いていると、本当におもしろ い話をされる方だったようです。 【6】日土小学校の保存再生の位置づけ (図84) 最後に、日土小学校の保存再生の仕事がどう評価されたかをお伝えしたい。 (図85) 保存改修が終わり、2011 年に、竹中工務店のギャラリーエークワッドで日土小学 校と松村正恒についての大きな展覧会を開催していただきました。これで認知度が上 がったと思います。私も長くやってきた松村正恒研究を博士論文にまとめて、出版す ることもできました。 (図86) 2012 年には、建築学会賞(業績)をいただきました。 (図87) 学会賞を取れたとみんなで喜んでいましたら、その秋には、ワールド・モニュメン ト財団/ノールモダニズム賞を受賞しました。その財団は、世界中の世界遺産クラス のものに支援をしているニューヨークのNPOで、グーグルやアメックス、ティファ ニーなどからも基金提供を受けているアクティブな組織です。最近そこが、古いもの だけでなくて、近代建築にも興味を持っていて、保存・再生事例に賞を出していま 34 す。夏に応募しないかという打診があり出しましたら、世界中から応募された 44 物 件の中から我々の仕事が受賞しました。本当にびっくりしました。 (図88) ワールド・モニュメントファンドのホームページをごらんになるとNPOというも ののイメージが変わります。日本も、京都の町家や東北の被災地などいろいろ支援し ていただいています。 (図89) 2008 年から1年おきに出している賞で、2008 年の 1 回目は、ドイツの学校の保 存・再生が賞をもらいました。ハンネス・マイヤーという近代建築史上非常に有名な 建築家、バウハウスの校長もやった人です。2回目の、2010 年には、先ほど写真で お見せしたゾンネストラール・サナトリウムが受賞しました。私はその建物を見に行 ったときに、日土もこんなにふうになったらいいのになと思っていましたので 3 番 目の受賞が日土小学校だったということで感激いたしました。 (図90) ニューヨークのMoMAで表彰式があり、みんなで行ってきました。こ非常にいい 経験をしました。 (図91) 何が評価されたのか。アメリカの大きな財団が極東の地の小さな木造校舎をどうし てピックアップしたのか。彼らの評価のポイントは 3 つです。まず、名も知れぬ建 物と建築家をディスカバーしたこと。2つ目は、行政や地域や専門家がチームになっ て保存再生を成し遂げたということ。3つ目は、そういうこと全体が、世界中の近代 建築の保存・再生にとってモデルといえるということ。有名建築家による有名な作品 だけではなくて、むしろそれ以外の名もない建物が実は 20 世紀前半の市民生活を支 えてきているのであって、そういう弱い建物こそ守っていかないといけない。日土小 学校で行われたことはそのためのモデルだ、規範だというふうに言っていただいたわ けで、僕らとしては大変うれしかった。 (図92) 同じ年の暮れには、日土小学校が国の重要文化財になりました。 重要文化財になると、文化庁が出している冊子の中に評価のポイントを書かれま す。その中でも、「今回の答申における特筆すべきもの」として、佐渡の銀山と日土 35 小学校を特に挙げてくださっています。 (図93) 戦後建築の重要文化財としては、まず丹下さんの広島のピースセンターと村野さん の世界平和記念聖堂が最初に選ばれました。その後、コルビュジエが設計した西洋美 術館で、その次が日土小学校ということなので、とてもうれしかったわけです。 (図94) 日土小学校の保存再生が実現するまでには、反対派の人との調整や行政との調整な ど、かなり紆余曲折がありました。一方、改修案の方は、もとの建物を基本的に残し て、ちょっといじっているだけだと思われるかもしれません。しかし実は案自体も結 構紆余曲折があるんですね。それを去年、改めて引っ張り出して学会で発表しまし た。最初のうちは、我々もかなり派手なことを考えていました。2005 年の案では、 中校舎に吹き抜けをつくってメディアセンターにしようと考えているんです。西側に 増築というのは最初から何となくありました。しかし普通教室とは思ってなくて、地 域のためのボラティアセンターです。普通教室は東校舎のままが良いと思っていたわ けです。 (図95) 2006 年になりますと、もっと派手になっていて、東西両方に増築しています。職 員室棟を東の端にわざわざつくっているんです。それはなぜかというと、東校舎を普 通教室のまま使おうとしていたので、職員室が近いほうがいいだろうという考えで す。今思うと恥ずかしいぐらい派手な案です。 (図96) そのうち地元の方のご意見がわかってきて、普通教室が東校舎のままなのは嫌だと 言われたので、それを特別教室にして、西側に普通教室棟をつくろうということに 2006 年になりました。それでもまだかなり派手な形をしています。 (図97) その後さらに調整し、最終案になりました。できてしまうとよくわかりますが、途 中案のどれかにしていたら、とても重要文化財に認定されなかったと思います。 (図98) 東校舎、中校舎、新西校舎という 3 つの建物の意味を整理してみると、全部を新 36 築した場合との一番の違いは、日土小学校には時間性が複数あるということだなと思 い至りました。東校舎は原則もとに戻して、新しい用途をちょっとだけ足しています から、「過去」が非常に多くて、ちょっとだけ「現在」がある。中校舎はかなり手を 入れて、地元の皆さんのご希望に一番忠実にしていますので、「現在」も非常に多い けど、少し「過去」がまざっている。新西校舎のほうは「未来」です。でも、デザイ ン的に継承するものはしているので、「過去」も少しある。 言葉のあやかもしれませんが、全体として複数の時制が共存していて、日土小学校 の中を歩いていると、タイムトンネルの中を行ったり来たりしているような感じがす る。それは記憶の継承装置と言ってもいい。 (図99) やり終わってみた実感としては、保存運動を勝ち取ったというよりも、面白い建物 を設計したという思いが僕らの中に強く残っています。 つまり松村さんがつくった既存部があって、それを最新のものにリノベーションせ よという設計課題を与えられ、文化性も考慮しながら設計したという感覚ですね。 これもややレトリックが過ぎるかもしれませんが、手がかりが既にありますので、 作為性のようなものを排除する形で何かデザインができないかというようなことも考 えていたような気がします。有名建築家が作品性を重視して行う設計とは少し違うこ とができたのではないかと思っています。 これは余計なことですが、もし、松村さん本人が生きていたら、松村さんにこの仕 事がいったかもしれません。もし我々がやるとしても、彼のことがすごく気になった と思うんです。つまり保存・再生という仕事はもとの設計者がやればいいというもの ではなく、非常に知的な作業であり、いろいろ考える、余地のある作業なので、別の 手が入ったほうが面白い結果を生むのではないかと思った次第です。 (図100) 結局、保存再生とは何をする作業なのか、何をどう残すのか、残すと言ったときに その根拠は何かといった問題はかなりの難問です。しかし建築のことを考える上で は、非常に知的でエレガントな演習問題だろうと思っています。そのための手がかり を専門家もいろいろ考えていまして、よく言われるのはオーセンティシティという概 念です。日本語にしにくいですが、真正性、正しさなどと訳されています。いろんな 37 エレメントに関して、オーセンティックかどうかをチェックする。例えば形態はオー センティックか、もとの形と同じか、材料はどうか、用途はどうか、技術はどうか。 最近は、インテグリティという指標も出てきて、原設計の価値を一体的に継承してい るかどうかみたいなことも問われています。 ただ、物理や数学とは違うので、定義やはっきりした概念はありません。それぞれ の具体的な事例の中で、「こういうことを手がかりにした」と説明できることが重要 だと思うんです。こういう理由でここは変えたという説明がどこまでできるかという ことをそれぞれの設計者がちゃんと考えていけばいい。そういうことを考える作業 は、自分の個性を出そうという設計行為とは全く別の面白さをもっていると思いま す。 人間でも臓器を少しずつ入れかえていくと、どこかの段階でもとの人間とは言えな くなる瞬間があるはずです。自動車をカスタマイズしていくと、どこかでもとの車と 違うものになる。建築の保存再生にもそれと全く同じ哲学的な問題が隠れています。 そういうことを考えるのはとてもおもしろいと思います。 (図101) 最後に私の暮らす神戸の写真です。阪神大震災で被災した三宮の阪急の駅を解体し ているところです。アーチの中に電車が入っていって、とてもいい建物でしたが、残 念ながら壊されました。日本人的な感性ということでしょうか、「形あるものはどう せ消えていく。でも、記憶は残る」、という言い方がある。しかし少なくことも僕ら が暮らす街や村や建物に関しては、形あるものが消えたら記憶は消えるというふうに 言うべきでしょう。日常の経験でありますよね。朝出社するときに、道を歩いてい て、空き地があって、「えっ」と思って、きのうまで何が建っていたか全く思い出せ ない。建物と一緒に記憶も消えてしまいます。三宮の駅も、解体しているときに神戸 の人たちがズラーッと並んで見ていました。あの中に映画館があって、神戸の人たち にとっては青春の思い出がいっぱい詰まっていた場所なんです。村上春樹や映画監督 の大森一樹も書いています。自分の記憶が消えていく、過去が消えていくということ を感じながら、皆さん、見ていたのではないかなと思います。 ワールド・モニュメント財団から賞をもらったときのスピーチの中で、我々のメン バーの 1 人が「改めてこうやって人様から褒めてもらうと、日土小学校を保存して 再生することによって、日土小学校ができてから今までの 50 年間を学校で過ごした 38 子ども、先生、PTA、家族の記憶を守ることができたんだなとしみじみ思う」とス ピーチしました。そういうことだったんだなと私も改めて思った次第です。 今日は、最前線の現代建築をつくっておられる方も多いと思いますが、古い建物の リノベーションの仕事も増えていく時代ですので、過去をどうやって継承していくか ということを少しお考えいただいて、新しいものをつくっていっていただいたらと思 う次第です。どうもありがとうございました。(拍手) 花田佳明氏 39 フリーディスカッション 林 ドラマチックなお話、どうもありがとうございました。 これから皆様方からのご質問に先生からお答えいただきたいと思いますが、その前 に、英語ではブレーキングアイスというんでしょうか、花田さんと2言、3言、雑談 しまして、皆さんのご質問に入りたいと思います。 本当にドラマを見せていただいたような気がいたしました。花田さんのお話を聞い ていて、宮崎駿の「風立ちぬ」を思い出しました。もちろんドラマということもあり ますが、あの緊迫した時代にゼロファイターというあれだけの機能と技術と美しさを つくり出した。松村正恒の生きた戦後日本のグラウンドゼロのような、戦災で壊滅し た状態、ゼロから出発しないといけない時代に、松村正恒のゼロからの論理性といい ますか、そういうものとゼロファイターというのは似たような気がしました。そうい う感想を持った次第です。 花田 この間、林さんといろいろお話しする中で、「風立ちぬ」の話が出て、「風立ち ぬ」は戦前の話で、こちらは戦後の話とはいえ、日土小学校って零戦かもしれないと 思いました。緻密につくられた工芸品のような工業製品というのか、物として非常に 似ているし、それを設計した2人の設計者の精神性や知性が似ているなと感じまし た。 余りにも漠然とした感想なので、ロジカルにどういうことかというのはちょっと言 えませんが、僕も、戦争を挟んだ時代の建物を少し追いかけていると、日土小学校や 零戦に限らず、林さんが今おっしゃったようなことは、あの時代に通底するものだと 思うことがあります。時代だと言えばそれまでですが、社会的な目標がはっきりあ り、それに対して建築で応えた時代ですね。そこにある志の高さみたいなものは、そ の時代の建築を見ていると、団地であれ、美術館であれ、学校であれ、駅であれ、感 じられるような気がします。 林 その志の高さがあるせいか、なぜか今、戦後モダニズム建築のいろんなものが 我々の心を強く引きつける。今同じものをやっても全然意味がないんですが、あの時 代ああいうものが生まれたということの磁力というものを本当に感じますね。戦後の 若々しい精神というか、映画で言えば黒沢明かもわかりませんが、あの時代の光、松 村正恒のこの作品にも非常に感じるわけです。 40 花田 鈴木成文先生が、神戸芸工大の学長でおられたころに、戦後間もなくのことを ヒヤリングしました。新しい団地のプロトタイプをつくられたり、建築家が設計した 病院に対して、建築研究者としてかなり批判をした。きつい調子の記事を『国際建 築』に出しておられるんです。そういうことを鈴木先生に話して、「昔はすごいです よね。研究者と設計者の志が」と、言っていましたら、「何言っているの、花田さ ん。今のほうがずっと言いたいことが言える。花田さんはすぐ昔がよかった、昔はよ かったと言うけど、だめだよ、そんなんじゃ」と怒られたことがあります。 林 私も、鈴木先生の弟子ですので、その辺の気持ちはよくわかります。 花田 ノスタルジーに走ってはだめなので、僕も松村さんのことを研究する中で、そ こから、これからの時代のためのヒントが取り出せるかということをやっているつも りです。そうでないと、ただノスタルジーになってしまいます。 林 日建設計でも戦後の薬袋公明や林昌二とかの時代、それの少し前、彼らを生み出 した長谷部竹腰の時代、その前の臨時建築部の時代、その後、ずっと来て今東京スカ イツリーに来ている。このあたり、我々はどこから来たのか、どこに行くのかみたい なことを日建設計でもやらないといけない、そういう機運がございまして、今、実は その執筆をしているところで、来年1月から 12 月までホームページに連載で、「日 建設計 115 年の生命誌」というタイトルで発表します。 皆様方からご質問がおありと思いますので、どうぞお気軽にお願いいたします。 赤松(市民情報誌+α編集委員会) 事例の中で、商業的なものとしては、JPタワ ーや三菱1号館の部分的な保存や活用例がありましたが、一方で今回の日土小のよう な場所は地元性が強い。背後に山を背負って、川との間の場所に建っている中山間的 な地形の場所です。地元の人にとってみたら、当初は建て替えの願望もあったのかも しれませんが、しっかりとした原設計の資料をたどっていくことによって、今回のよ うな作品性が獲得できたのだと思います。地元性があって、地味であるからこそうま く活用できるパターンと、商業的で、誰にでも認識されているものは、逆に商業的に しか保存・活用できない、そういったような違いがあると思います。そういった流れ の中で、今後の保存・活用には、単に商業的なものだけではなく、きちんと生活を積 み上げて、時代性を飛躍させずに連綿と続くものとして作品の中に取り入れていくこ とができる背景としては、どのような条件があればよいのかといったことをお伺いで きればありがたいと思います。 41 花田 すごく難しい問題で、私も教えていただきたいぐらいです。都市部にあって、 不動産価値が高くて商業的価値がついている建物は、やはり商業的にしか保存されな いというご指摘でしたが、逆に地方はお金がないので、日土小学校も改修は建て替え の費用よりは安いことはプラス側に作用しました。経済的な背景から2種類あるとい うご指摘は全くそのとおりだと思います。都市部にあった、大阪中央郵便局は壊され てしまったわけです。国が買い上げるぐらいしか方法はないと思うぐらいです。ただ あのときもいろいろな案が出ていましたから、仮に商業的な前提が求められたにして も、もう少しやり方はあったのではないかと思います。やはり保存再生は設計だと思 うんですね。 地方の物件についてもおっしゃるとおりで、有名建築家がつくったものでもない、 でも地元に愛され、しかし行政に財源もないみたいなときにどうやったら残せるのか というのは難しい問題です。今、僕は兵庫県で、それこそまさにそういう感じの小学 校の保存再生にかかわっていますが、うまくいったところと揉めているところを比べ ると、結局は行政や市民の見識の有無に尽きると思います。ある自治体から呼ばれ、 日土小学校などのお話しをしたところ、市長さんの頭にクエスチョンマークが浮かん だのが僕はわかりました。「あれ、うちの町は間違ったことをやってないか?」とい う反応でした。その場で、教育委員会の人に市長さんが、木造校舎への場当たり的な 補強工事の発注を止めたんです。そして、きちんと全体を見直した保存再生計画へと 方針が変わったのです。 建物を壊すということは、何百人、何千人、何万人の人の記憶を抹消する行為だと 思うんですね。それを怖いことだと思うかどうか。そういう見識があるかどうかが問 われています。 日土小学校の保存再生で構造設計をしてくれた腰原幹雄さんは、「現行法規を基準 にして耐震性能が足りないということは、建物を壊す理由にはならない。条件さえ出 してくれたらどんな耐震補強だってできる。建物を壊したいというのであれば、耐震 性以外の理由が要る」と言います。そういうロジカルな議論を受け入れる土壌みたい なものをつくっていくしかないなと思っています。 林 これだけのことをなさった背景から出てくる強いお気持ちだなという気がいたし ます。 いかがでしょうか。発注者の見識という意味では、松村正恒の新築のときの話です 42 が、菊池市長という方が松村正恒を非常に尊敬されていて、学識、見識、かつ戦後教 育に物すごい情熱を持っておられた方ですね。 花田 菊池清治という名市長で、松村さんをかわいがったんです。戦前に広島高校の 校長などを歴任した。戦後、市長になりました。松村さんに、戦後間もない八幡浜市 の主要なインフラである学校や病院を設計させたんです。松村さんの学校は、正面性 が全然ないので、古い教育委員会の人やPTAや校長先生から総スカンを食らってい た。それを議会で攻撃されて、松村さんは反論するわけですが、「ほどほどにしてお けよ」みたいな感じでおさめてくれた。自分の部下が東京に陳情に行こうとすると、 「そんなものに行くな」と叱ったというエピソードすらある人物です。そういう市長 のもとで、ああいう建築家が町をつくっていた。昭和 30 年代にはそういうことも可 能だったということです。 林 昭和 30 年代の雰囲気を伝える言葉です。建築が歴史的な時間を蓄積するという ことが、本当に豊かな空間になる可能性になっている。これは鈴木博之先生の『保存 原論』からの言葉ですが、都市景観においても安らぎと潤いを与える。しかも、先生 のおっしゃっていた保存・再生というのは、知的な読み込みをして、クリエイティブ な設計行為なんだというのが、非常に心に残っております。 黒木(㈱日本設計) 花田さんの2年後輩に当たる者です。大昔の大学に戻ったよう な話を聞かせていただいて泣きそうになりました。縁あって現地の建物を見せていた だいて、そのときに県庁の方からいろいろご説明いただいた記憶がよみがえってまい りました。大変理論的な背景があるということも今日わかって勉強になりました。先 ほどからロジカルに説明していただく話を伺って、大変意を強くしました。私も、若 干ですが、保存系のことに関係していて、1つだけどうしても自分ではロジカルに解 けていない問題があります。それは、嫌な記憶をとどめているので壊してほしいとい う問いなんです。これは幾つかの現場で直面して、答えられずにいます。 端的に申しますと、昭和 20 年代の建物はほとんどないんですね。身近な人に聞く と、貧しくて、町はすさんでいて、暴力的で、とても嫌な時代だった。時代が変わっ て、自分が若かったあのころのことを一切思い出したくない。だから壊してほしい。 でも、建築的に見ると近代建築の時代で、それだけの価値のある部分があったりす る。そういうことに対して、情緒ではない答え方が果たしてできないものだろうか。 そこを乗り越えたくて何人かの方にお尋ねしています。最近の津波の遺構を残すかど 43 うかという問題と若干似ているところもあって、どう答えていったらいいのか、ご示 唆があればお願いします。 花田 本当に難しい問題ですね。植民地の建物もそうですね。韓国や中国に日本が当 時つくった建物は現地で批判的に扱われて、壊されたりする。 ただ、ちょっと他人事のような言い方になりますが、基本的には辛いものでも残す べきだろうと私は思います。つらい思いをしたから壊してほしいとおっしゃるその気 持ちは一時的なものであって、100 年、200 年たったら、やっぱり残しておいたほう がよかったということになる可能性があるのではないかと思うんです。原爆ドームな んかまさにそうですね。あれは丹下さんがピースセンターの軸線を合わせたおかげ で、逆に残ったとも言われていますが、現在、原爆ドームのない広島を想像すること は難しい。ナチの収容所もそうですよね。基本的には、残すということから出発すべ きだと思います。建物だから、壊してくれとおっしゃるけれど、これが文書や写真だ ったらそういう話にはならないでしょう。いろいろなことを記録した公文書を、つら い記憶だから焼き捨てろとはなりません。建物も、歴史的な史料だというクールな説 明を尽くすしかないのではないかと思います。 僕も余り経験がありませんし、それぐらいのことしか今は言えないです。 宋(東京大学大学院) 今日の事例はモダン建築の小学校を保存・再生しただけでな く、もともと小学校として建てられて、使い続けて機能しているところがいいと思い ました。自分の質問は、小学校ではなくて、例えばハウジング。そういう建物がある 地方の町で、建物が意味があるから残すべきだという意見がある。人口が減っている ので、住む人がいないときに建物を使い続けていく、建物自体が残っていくのが大事 というところに焦点を置いて、商業的な利用をどんどん入れて、食べ物屋だったり、 土産物屋だったり、そういう用途で埋めていく。そういう現象で、それでも建物が残 って使い続けているからいいというところは、先生はどういうふうに思われますか。 花田 コンバージョンですね。用途を変えて保存・再生をする。僕はそれはとても良 いことだと思っています。団地を商業施設にという例は余り知りませんが、小学校の 校舎は、全国津々浦々にあるので、用途を変えた例はたくさんあります。芸術家の集 まりの場所にしたり、宿泊施設にしたり、いろいろなことをしています。文化財的な 価値が高い場合は、用途変更まで受け入れるにはかなり変えないといけないのでつら いですが、そこまではいってない、そこそこの建築の場合は、とても有効だと思いま 44 す。 宋(東京大学大学院) そういうときに、先ほど先生が使われた表現で、日常の場と しての記憶は失せていってしまうところがあるような気もします。でも、建物を使い 続けて残るからいいことなんだというふうに。 花田先生 そこがやはり設計の上手下手の話になってくる。仮に用途変更しても、き ちっと考えていくと、もとの雰囲気を残すことは可能だと思います。 今日お見せした神戸の事例の中で移住センターというのがありました。私はその保 存再生に関わりました。そのときに繰り返し設計の方にお願いしたのは、移住に関す るミュージアムへ用途転用するところで変な展示計画をしないでほしいということで す。建物の空間そのものが展示なんですよというお願いをした。当時そこで研修を受 けてブラジルに渡った方が久しぶりに日本に来られて、あの建物にいらっしゃる。す るととても懐かしいとおっしゃいます。用途を変えてもデザインさえちゃんと考えた らいろいろなことが可能だと思います。 保存再生の問題は、残せ、残してくれと言っているだけだと絶対うまくいかない。 こんなふうに使えますよということを同時にアピールしていくことがすごく大事だと 思います。最初お見せした古いお城や神社の保存とは違いますから、使い続けるため の案を示すとわかっていただきやすいし、こちらもやっていておもしろいというと思 います。 林 建築というのは、負っている遥かな時間を現在に受けとめて、未来につなげてい く。多くの人たち、使う人、つくり出した人、大きなテーマが、建築の保存というテ ーマにかかわってくると思います。今日は本当にドラマを聞かせていただきまして、 うれしく思っております。ありがとうございました。 花田 日土小学校は、普段見学をお断わりしています。学校として使っていますの で。そのかわり、春休み、夏休み、冬休みと長期の休みには必ず、教育委員会が主催 の見学会をやっております。私も学生と一緒に行きます。ぜひ、現地に来てくださ い。心が洗われるのではないかと思います。 林 ぜひ桃源郷へ行ってください。 花田先生、本当に今日はありがとうございました。(拍手) (了) 45
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