命のビザとインセンティブ・ツアー - 日本コングレス・コンベンション

特 別 寄 稿
命のビザとインセンティブ・ツアー
フリーランス・ライター
北出 明
(元 JNTO コンベンション誘致部長)
標題を目にして殆どの方は「ハテ、どういうことだろう?」と思われたに違いない。
今や、
“命のビザ”といえば、第二次世界大戦中に 6000 人のユダヤ人を救ったと伝えられる
杉原千畝の発給したビザを指すことは広く知られている。
一方、
“インセンティブ・ツアー”は説明するまでもなく、いわゆる報奨旅行のことで、マ
イス(MICE)産業を構成する四本柱のうちの一本である。
これらの二つがどこでどのように結びついているのか、という話をさせていただきたい。
これまで何度か杉原千畝の命のビザに関連する話題を本誌で紹介させてもらったが、それを
かいつまんで記述すると以下のようになる。
私が JNTO に就職した 1966 年、JNTO は国の予算を獲得し、国際会議(コンベンション)
誘致の事業を開始することになり、そのための部署としてコンベンション・ビューローが新設
された。そして、その責任者として JTB から大迫辰雄氏が迎えられた。
「コンベンション・ビューロー」という言葉は、現在では観光の世界の人ならだれでも知って
いるが、当時はまったく耳新しい
ものだった。
「部」ではなく「ビュー
ロー」と称し、大迫さん(と呼ば
せてもらう)の肩書も「部長」で
なく「室長」であり、JNTO 内に
はまさに新風が吹きこまれた感が
あった。
そして、ここに新入職員の私が
配属され、大迫さんの下で 3 年間
働くことになったのだが、それは
今になって思えば、なんとも“運
①
前列右から 2 番目が大迫氏、後列右から 2 番目が筆者
命的”なことであった。
(写真①)
それから 20 数年経たある日、たまたま手にした「日本交通公社 70 年史」に目を通していた
私は、JTB が 1940 年から 41 年にかけて、第 2 次世界大戦下のヨーロッパからナチスの迫害
を逃れてきたユダヤ難民の逃避行に一役買っていたことを知った。そして、驚いたことに、ウ
ラジオストクから福井県の敦賀までの海上輸送の任に当ったのが大迫さんであったという。ユ
ダヤ人迫害史上きわめて重要な出来事に、かつての上司が関わっていたとは信じられない思い
だった。
(写真②)
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さらに 10 年ほど後の 1998 年 6 月のこと。
ソウル勤務を終えて東京本部に戻り、帰国報
告に大迫さんを訪ねた私はようやくにして
当時の話を聞かせてもらうことが出来た。
「あれは社命でやったまでのことで・・・」
と大迫さんはあくまでも謙虚だった。と言う
のも、当時は杉原千畝の話が評判になって来
ていた時だけに、大迫さんとしては、自分の
過去の行いをそれと同列に並べられること
に戸惑いを覚えたのかも知れなかった。
②「天草丸」船上の大迫氏と難民の乗船客
しかし、その場で読ませてもらった「ユ
ダヤ人輸送の思い出」と題する回想記の最後には、「私たちビューローマンのこうした斡旋努
力とサービスが、ユダヤ民族の数千の難民に通じたかどうかは分からないが、私たちは民間外
交の担い手として、誇りをもって一生懸命に任務を全うしたことはたしかである」と記されて
おり、大迫さんの自負心が窺えた気がした。
この時、私を最も驚かせたのは、大
迫さんがさりげなく取り出した一冊の
古びたアルバムだった。当時の貴重な
写真が 5~6 ページにわたって収められ
ている中で、
「ユダヤ群像」と記された
ページに貼られてあった 7 人の顔写真
は圧巻であった。いずれも、大迫さん
が船上で世話をした人たちからもらっ
たものとのこと。
(写真③)
ナチスの魔の手から、着の身着のま
ま、飲まず食わずで逃げてきたに違い
③
ない人たちが、よくぞ大切な自分の写
真を大迫さんに残して行ったものだ・・・。衝撃に近い感動を覚えた私は、いつかこの話は世
間の人に知ってもらいたいものだと考えずにはいられなかった。
その 5 年後、大迫さんは 86 歳で他界された。もっと詳しい話を聞いておくべきだったと深
い後悔に襲われた。さらに 6 年後の 2009 年、遂に行動を起こそうと決意した。ご長女の國本
美恵さんにアルバムの拝借を願い出た。1 か月後、電話をくれた美恵さんの声は興奮に満ちて
いた。
「北出さん、ようやく見つかりましたっ!実は、父の遺品をひとまとめにしてあったのですが、
その後の引っ越しの混乱の中で行方不明になっていたのです。父が、早く見つけろ、と背中を
押してくれたような気がします。ご依頼が無ければ、永久に日の目を見ることがなかったかも
しれません。
」
11 年ぶりの“再会”の日以来、私は毎晩のようにアルバムの 7 人と対話を続けた。
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「あなた方はヨーロッパのどこからやって来たのですか? 日本に到着した後、次はどこへ
行ったのですか? そして、今はどこにいるのですか?」
翌 2010 年 8 月末、私はアルバムを携えてアメリカに渡り、ヒューストン、ボストン、ニュー
ヨーク、シカゴの各地で今なお健在の杉原ビザの受給者に会った。彼らの連絡先は、敦賀市と
岐阜県八百津町(杉原千畝の生誕地)の役場から教えてもらっていた。行く先々では温かく迎
えられたが、残念ながらアルバムの 7 人に心当たりのある人はいなかった。
「なにしろ 70 年も前のことですからねぇー。それに、あの混乱した状況の中ではねぇー」
私自身、手がかりを得るのは難しいだろうと予想はしていたが、異口同音の答えに落胆の気
持ちは拭えなかった。しかし、素晴らしい人たちから滅多に聞けない経験談を聞かせてもらう
ことが出来、収穫も大きかった。
帰国後、AP 通信をはじめ内外のメディアの取材を受けたほか、在京のイスラエル大使館を
通じてヤド・バシェム(エルサレムにあるホロコースト博物館)のホームページに大迫アルバ
ムの 7 人の写真を掲載してもらうなど、広報も怠らなかった。その結果、何件かの情報がもた
らされたが、いずれも有効なものではなかった。
この時点で、これまでの活動をまとめて本を出版することを決心し、取材、調査、情報収集
に努めた。その結果、アメリカを訪問した 2 年後の 2012 年 6 月、『命のビザ、遥かなる旅路』
(交通新聞社刊)が完成した。大迫さんに初めてアルバムを見せてもらった時から数えて 14
年の歳月が流れていた。幸い本書は各方面から予想以上の好評を博したが、その理由は、杉原
千畝の人道的行為を陰で支えた多くの日本人がいた点に光を当てたこと、それに、杉原ビザで
助かったユダヤ人たちのその後の歩みに触れたことにあったようだ。
さて、2013 年に入り、本のお陰で国内外において講演を行う機会に恵まれたほか、これの
英語版の出版に踏み切るなど、紆余曲折はあったものの私の取り組みは順調に進展してきた。
そして、――― 。
昨年 4 月、遂に朗報がもたらされた。半ば諦めていた、7 人のうちの一人(女性)の身元が
判明したのだ。
事の起こりは、カナダのモントリオー
ル在住のジュディス・クローリー
(Judith Crawley)さんという女性が
上記のヤド・バシェムのホームページを
見たことから始まった。
「これは、ひょっとして私の叔母さんで
はないだろうか?」
疑問に思った彼女はニューヨークに
住む従妹のデボラ・リード(Deborah
Reed)さんに知らせ、それを受けたデ
ボラさんが弟のデイビッド(David)さ
④ リード(Reed)一家
んと妹のシェリー(Shelley)さんに知
らせ、3 人で確認した結果、
「私たちのお母さんに間違いないっ!」との結論に達した。
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この経緯を私に知らせてくれたのは、ジュディスさんと親交のあるバンクーバー在住の日本
人ジャーナリストの高橋文さんだった。
「おめでとうございます」に始まる高橋さんからのメールに私は釘付けになった。70 年余り
の時空を超え、よくぞ見つかったものだ!
しかもこの女性は、7 人の中で最も強い印象を私に与えた人物だったのだ。理由は、迫害に
追い詰められた当時のユダヤ人たちの苦悩を凝縮したような表情にあった。
早速、デボラさんとの間でメールのやり取りが始まり、以下のことが明らかになった。
・氏名:ソニア・リード(Sonia Reed)
(結婚前:ゾシア・ゲルトラー(Zosia Gertler)
)
・生年月日:1923 年 11 月 5 日(死亡:1997 年 9 月 8 日。享年 74)
・出身:ポーランド、ウッジ(Lodz)市
・夫:カート・リード(Curt Reed)
(ベルリン生まれのユダヤ人、2011 年 93 歳で他界)
また、何枚もの写真が送られてきた。それらを見ると、アメリカに逃れてきた後は幸せそう
な人生であったことが窺え、嬉しかった。
(写真④)
「こうなった以上、写真はお子
さんたちの手に戻してあげた
い」と思うようになり、國本美
恵さんに相談したところ、「是
非そうしてあげてください」と
快い返事。
2014 年 11 月 24 日、
在ニュー
ヨークの日本総領事館のご配
慮により総領事公邸で“返還
式”が行われた。デボラさんを
⑤
始め、弟、妹、さらに従妹のジュ
ディスさんも娘と一緒にカナ
ダから駆けつけてくれ、さなが
ら “Reed 家全員集合”の観が
あった。
(写真⑤、⑥)
「両親と姉二人の命を奪われ
たという母は、私たちに当時の
ことは殆ど語りませんでした。
よほど辛い時代を送ったので
⑥ 左の写真は大迫アルバムに残されていたソニア・リードさん
しょう。この写真を見て、その
頃の母の様子が偲ばれ、感無量です。
70 年以上も前に母が大迫さんに残した言葉は『私のことを覚えていてください。素敵な日
本人へ』でした。
そして、母の願いは叶えられました。彼女は生き延びて幸せな人生を送ることが出来ただけ
でなく、しっかりと記憶されていたのです。そして、助けを必要としていた人々に示された日
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本人の親切もまた間違いなく記憶されていたのです」
デボラさんのスピーチは会場に感動の渦を巻き起こした。
(写真⑦)
では、最後にインセンティブ・ツ
アー(この後は単にインセンティブ
と呼ぶ)の話で本稿を締めくくりた
い。
私のニューヨーク滞在最後の日
となった 11 月 25 日の夜、デボラさ
んとデイビッドさんがお礼にと夕
食に招いてくれた。その時の歓談の
中で驚くべき話を聞かされた。数年
来の活動を通じて何度もビックリ
するような話に出会ったが、この夜、
⑦
デイビッドさんが語ってくれた話
は、その最たるものだった。
上述の通り、私の JNTO における最初の仕事は国際会議(コンベンション)の誘致業務だっ
たのだが、実は退職前の最後の 4 年間の担当業務もそれであった。1966 年に大迫さんが初代
の「室長」に就任してから 32 年後の 1998 年に、私は「コンベンション誘致部」と名称が変更
された部署の「部長」となった。時代の変遷とともに、それまで花形であった国際会議から、
企業が主催するインセンティブに誘致の重点が置かれるようになって来ていた。学術団体など
が主体となる国際会議は手間暇がかかるが、民間企業が主導するインセンティブはテンポが速
く、短期間に結果が出るのでやっていて張り合いがある。また、個人旅行と違い、スポンサー
がついているので、参加者たちはお土産の購入などに多額のお金を消費してくれる。
ところで、デイビッドさんの話になるが、―――。
「父は板金工場を経営していて、母がそれを手伝っていました。日本との関わりもあったよう
でしたが、ドイツを追われてきた父にしてみれば、枢軸国の一員であった日本に対しては抵抗
感があったのでしょう。しかし、母はよく日本人はとても親切な国民だということを言ってい
ましたので、父もその話を信用したのだと思います。日本の『アマダ』という工作機械の大手
企業がカリフォルニアに進出しており、取引が始まったようです。
そして、1979 年 5 月に両親はアマダの招待で約 10 日間、日本を訪れました。工場見学のほ
か、東京や京都で観光を楽しんで来ました。これが、その時の写真です。見てやってください。
本当に楽しそうでしょう!」
大迫さんにアルバムを見せられた時の、あの重苦しさを伴った感動は今もって忘れられない
が、この時、目の前に差し出されたアルバムはまた違った意味の感動をもたらしてくれた。
1940 年当時、両親と二人の姉がナチスのために命を落とし、命からがら日本に逃げてきた
若い女性が、その 40 年後に夫と共に再び日本にやってきてこのように晴れやかに笑っている。
しかも、これらの写真は、私が JNTO の最後の段階で取り組んだインセンティブの典型例を
示している。1979 年と言えば、日本ではまだ“インセンティブ”の概念は無かった頃である。
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一般の人々にとっては単なる外国人の団体旅行の記念写真に過ぎないかも知れないが、私に
は諸々の想いが溢れ出てくる写真である。
「日本を旅行した際、あなたは苦難の逃避行の末、日本の敦賀に上陸した 40 年前のことをど
のように思い出していたのでしょうか?
その上陸の直前、船上であなた方を世話してくれた一人の日本人青年にあなたが自分の写真
をそっと手渡したことを覚えていましたか?」
これは、ソニアさんが生きていれば是非とも尋ねてみたかった私の質問である。そして、も
し、いつかデボラさんと再会する機会があれば、そのことについて語り合ってみたいものだと
考えている。
(写真⑧~⑫ 提供:デイビッド・リード氏)
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