国際収支の発展段階説と日本経済の構造変化 1. はじめに 我が国では従来から国際収支に関する関心が強かったが、ここ数年、貿易収支や経 常収支の動向にとりわけ大きな注目が集まっている。日本の貿易収支は 2011 年に 31 年ぶりの赤字となり、経常収支の黒字額も大幅に減少した。2011 年の貿易赤字には東 日本大震災による一時的な要因が大きな影響を与えていたと思われるが、国民の間で 輸出が経済の屋台骨だという意識が根強いこともあり、このことは大きなショックを 持って受け止められた1。 その後も原子力発電所の稼働停止に伴い燃料品の輸入額が増加していることもあ り、貿易収支の赤字は増加傾向にある。このことを背景に、我が国では貿易収支の赤 字が定着してしまったのではないか、近く経常収支も赤字に転じるのではないかとい う懸念の声が上がり、政府に輸出産業のテコ入れを求める意見も聞かれている。また、 一部の人々は前回の資料で解説した経常収支と貯蓄・投資ギャップの関係を根拠に、 経常収支が赤字化して国内の貯蓄不足が定着すると、政府が国内の資金によって財政 赤字を賄うことが困難になり、財政危機の可能性が高まると主張している。 前回の資料で議論したように、国際収支表と対外資産負債残高表は一国の経済の対 外関係を簡潔に整理した便利な統計である。しかしこれらの統計を適切に利用するた めには、個々の勘定(項目)の定義を知るだけでなく、各勘定の間にどのような因果 関係があるのかを理解しておく必要がある。結論を先取りすると、一国の貿易・サー ビス収支や経常収支は企業の営業利益や経常利益とは異なり、それが黒字か赤字かと いうことはその国の経済力や経済の健全性とは直接的な関係を持たない。ただし日本 やアメリカ、中国のように経済規模が大きい国の場合、貿易収支や経常収支の不均衡 の余地はそれほど大きくないと思われ、それが急増したり急減する時には注意が必要 である。 この資料では、国際収支の発展段階説と呼ばれる仮説を紹介し、一国の国際収支が 長期的にどのような変貌を遂げるのか、その背後にどのような要因が作用しているの かを考える。また、それらを手がかりに、貿易収支や経常収支の縮小が日本経済にと ってどのような意味を持っているのか、経常収支と政府の財政管理の間にどのような 関係があるのかを議論する。 1 ただしわが国の貿易・ザービス収支が永く黒字だったのはモノの貿易が大幅な輸出超過だ ったためで、サービス収支は赤字が続いている(図表 1 中段のグラフ参照)。サービスの貿易 に関しては後の資料で詳しく解説する。 1 -4 10 -2 -4 20 16 12 -4 -8 1985 1986 1987 1988 1989 1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004 2005 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 -2 1985 1986 1987 1988 1989 1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004 2005 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 10 1985 1986 1987 1988 1989 1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004 2005 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 図表 1 (%) (%) 日本の経常収支と貯蓄・投資ギャップの推移 所得収支 8 貿易・サービス収支 6 経常収支 4 2 0 (%) サービス収支 8 貿易収支 6 貿易・サービス収支 4 2 0 貯蓄 投資 貯蓄-投資(=経常収支) 8 4 0 (注)いずれも GDP に対する比率。経常移転収支は省略。貯蓄と投資は固定資本減耗分を除く純 貯蓄と純投資。 (資料)財務省「国際収支統計」 、内閣府経済社会研究所「国民経済計算」 。 2 2. 国際収支の発展段階説とは 前回の資料で解説したように、一国の貯蓄・投資差額と経常収支の間には 貯蓄-投資=経常収支 (1) という関係がある。経常移転収支を無視すれば、この式の右辺を 貯蓄-投資=貿易・サービス収支+所得収支 (2) と書き直すことができる。 最初に(1)式と(2)式に含まれている各項目の意味を確認すると、 「貯蓄」は日本の居 住者(家計や企業、政府など)が一定期間(たとえば一年間)に行った貯蓄の総額を 表し、「投資」は国内で行われた実物投資(金融資産ではなく住宅や生産設備などの 実物資産の購入)の総額を表している。貯蓄額>投資額であれば、この国は資金余剰 であり、残額は海外の実物資産や金融資産の購入に充てられている。貯蓄額<投資額 であれば、この国は資金不足であり、国内の実物投資の資金の一部が海外から調達さ れたことを意味している。たとえば、国内の企業が設備投資のために株式を発行し、 それを外国の金融機関が購入した場合、海外から調達した資金が実物投資に使われた ことになる。 次に、(2)式右辺の「貿易・サービス収支」は貿易収支(モノの輸出額と輸入額の差 額)とサービス収支(サービス代金の海外との受け払いの差額)の和である。「所得 収支」には金融所得以外の所得も含まれるが、ここでは「日本の居住者が海外に保有 する資産の利息や配当の受取額」-「外国の居住者が日本国内に保有する資産の利息 や配当の支払額」と考えて差し支えない。 (1)式と(2)式に関して最も重要なことは、これらの式の左辺と右辺の項目が必ずし も同じ理由で変化するわけではないにも関わらず、事後的に両者の値が必ず一致する ことである。したがって、たとえば将来の日本の経常収支を予想しようとする場合、 右辺の貿易・サービス収支や所得収支の動向を予想するだけでなく、左辺の貯蓄・投 資ギャップがどうなるかも考え、それが右辺に関する予想と一致しているかどうかを 確認する必要がある。 第二に重要なことは、数年以内の短期間と数十年単位の長期間とでは、上式の両辺 の各項に影響を与える要因が異なることである。日本の場合、(2)式右辺の二つの項目 のうち、貿易収支が数年単位で増減を繰り返しているのに対し、サービス収支と所得 収支は比較的安定している。これはモノの輸出額と輸入額がそれぞれ外国と日本の景 気動向から大きな影響を受けること、円の為替レートの変動が輸出額と輸入額に逆方 向の影響を与えること、そして各国の景気や為替レートが数年単位で上下変動をくり 3 返す傾向があることを反映している2。 たとえば、円高が進むと、輸出の減少によって貿易収支が減少し、経常収支も減少 することが多い(右辺の変化)。また、輸出が減少して景気が悪化すると、国民の所 得が減少して貯蓄額が減少するが、家計の住宅投資や企業の設備投資はいっそう大き く後退することが多い(左辺の変化)。さらに、所得の減少は輸入需要を減少させ、 貿易収支や経常収支の減少幅を縮小させる効果を持つ(右辺の変化)。数年程度の短 期間では、このようにして(1)式の両辺の各項が相互に影響を与えつつ、結果的に両者 の等式関係が保たれている。 一方、十年超の長期間では為替レートや景気循環の影響が平準化され、より構造的 な要因が重要になってくる。たとえば図表 1 下段のグラフを見ると、わが国の貯蓄額 や投資額は数年単位で変動しているだけでなく、1990 年頃から明瞭な減少傾向にある。 また、上段と中段のグラフによると、所得収支が漸進的に増加する一方、貿易収支は 緩やかな減少傾向にあるようである。こうした長期的な貯蓄額や投資額、経常収支の 変化はどのような理由で生じているのだろうか。この問いに関するヒントを与えてく れるのが国際収支の発展段階説である。 国際収支の発展段階説とは、一国の経済発展とともに国際収支の構造が規則的な変 化を遂げるという仮説である。次節以降で解説するように、現実にはこの説の予想と 異なる収支構造になっている国が少なくなく、この説の提唱者である Crowther(1957) の研究の目的も、なぜ予想と異なるケースが散見されるのかを知ることにあった。ま た、この説が提唱された 1950 年代と今日とでは、世界の経済環境様変わりしている ことにも注意が必要である3。しかし国際収支の発展段階説は「経常収支は常に黒字 であることが望ましい」といった通念が誤りであることを理解する上で有用なだけで なく、この説が当てはまらないケースを分析することにより、この説で考慮されてい ない要因に関する理解を深めることもできる。 Crowther(1957)らによると、経済発展が進むにしたがい、一国の国際収支は図表 2 の①から⑥の段階へと移行してゆくことが自然だという。まず、所得水準が非常に 低く、工業化開始以前の段階が①の「未成熟債務国」である。この段階では自国で生 産可能な財が少なく、外国から輸入せざるをえない財が多いため、貿易・サービス収 支は慢性的な赤字となる。工業化を進めるには工場を建設したり海外から技術を導入 2 『入門・現代日本経済論』第 5 章参照。 3 たとえば当時は国境を越えたサービスの取引が非常に少なく、貿易・サービス収支は実質 的にモノの貿易の収支を意味していた。以下ではこれまでの解説との一貫性を保つだめに「貿 易・サービス収支」という用語を使用するが、サービス収支も一国の経済発展に伴って長期 的な変化を遂げる可能性がある。この点は後の資料で検討する。 4 したりする必要があるが、国民の所得が低い状態では必要な資金を自国の貯蓄で賄う ことができず、海外からの借り入れに頼らざるを得ない。そうして対外債務が増加す るにつれ、所得収支の赤字額も増加してゆく。 図表 2 国際収支の発展段階説 国際収支段階 貿易・ サービス収支 所得収支 経常収支 対外純資産 残高 ①未成熟債務国 - - -- - ②成熟債務国 + -- - -- ③債務返済国 ++ - + - ④未成熟債権国 + + ++ + ⑤成熟債権国 - ++ + ++ ⑥債権取崩国 -- + - + 所得水準 人口構成 低所得国 人口ボーナス 中所得国 高所得国 人口オーナス (注)Crowther(1957)は、貿易・サービス収支、所得収支、資本収支のみを基準として各段階を分類 している。その他の項目は著者の判断により追加した。 ②の「成熟債務国」は、工業化がある程度進んで輸出額が増加し、貿易・サービス 収支が黒字に転じる段階である。ただしそれまでに積み上がった対外債務の残高が大 きく、所得収支が大きなマイナス値であるため、経常収支も負にとどまる。したがっ て対外債務残高も増加を続けるが、増加の速度は低下してゆく。 ところで、オリジナルの国際収支段階説では明示的に取り扱われていないが、一国 の経済発展度と国民の年齢構成の間には密接な関係が存在する 4。①の初期の最貧国 の段階では、多産多死で年長者ほど人数が少ないピラミッド型の年齢構成になってい ることが多い。しかし経済成長が開始して②の段階に移行すると、国民の栄養状態や 医療・衛生環境が改善し、出生率と幼児死亡率が劇的に低下する。しかし平均寿命が 上昇して高齢化が始まるまでにはまだ時間があるため、総人口に占める生産年齢人口 (15-64 歳の人々)の比率が上昇しはじめる。 ある国において生産年齢人口比率が上昇する時期を人口ボーナス期と呼ぶ。この時 期には自ずと経済が活況を呈し、経済成長率が高まりやすい 5。人口ボーナスの初期 には生産設備などの実物資本の蓄積が不十分な上に若年層が次々に生産活動に参加 4 『入門・現代日本経済論』第 7 章を参照。 5 「人口ボーナス」という用語には、人口構成の変化がボーナスとなって一時的に経済成長 を後押ししてくれるという含意がある。 5 するため、機械や建物に対する需要が急増する。しかし国民の所得水準がまだ高くな いため、自国の貯蓄額がそれに追いつかない。②の段階にある国は、経常赤字を計上 することによって海外からの資金取り入れを継続し、自国の貯蓄不足を補いながら設 備や建物の建設に励むわけである。 その後、工業化の進展や技術進歩によって国民の所得水準が上昇すると、中進国な いし新興経済諸国と呼ばれる段階に移行する。③の「債務返済国」は、輸出額がさら に増加して貿易黒字が所得収支の赤字額を上回り、経常収支が黒字に転じる段階であ る。この頃にはそれ以前の出生率の低下を反映する形で生産年齢人口の増加率が緩慢 になるため、それ以前に比べると生産設備を増強する必要性が低下する。所得増とと もに貯蓄額が増加する一方で投資額の伸びが緩慢になるため、ある時点で前者が後者 を上回り、余剰資金が海外に投資されるようになる。こうして経常収支が黒字化する と対外純債務が減少し始め、しだいに所得収支の赤字幅も縮小してゆく。 その後、対外債権の残高が対外債務の残高を上回り、貿易・サービス収支と所得収 支の両方が黒字化するのが④「未成熟債権国」の段階である。この時点でこの国の経 常黒字はピークに達する。ただしこの頃までに所得水準が十分に上昇して先進国の仲 間入りを果たすため、労働集約度の高い軽工業の比較優位が失われ6、それらが輸出 産業から輸入産業に転じることによって貿易黒字が減少し始める。また、比較劣位に 陥った産業において企業の海外への生産移転が活発化し、国内投資が減少して海外投 資が増加するため、貯蓄・投資ギャップが一層拡大する。 次の⑤「成熟債権国」の段階では、賃金水準のいっそうの上昇などによって製造業 の縮小が加速し、ある時点で貿易・サービス収支が赤字に転じる。ただしまだ対外純 資産残高と所得収支が正であるため、経常収支は黒字にとどまっている。 なお、ある国において高齢化が進んで労働人口比率が減少する時期を人口オーナス 期と呼ぶ7。人口オーナス期には総人口が一定でも設備や工場の必要量が減少し、GDP に占める投資の比率が減少することが多い 8。ただし高齢の退職者が過去の貯蓄を取 り崩して支出を行うため、貯蓄率が投資率より大幅に低下し、(2)式の貯蓄・投資ギャ ップが負に転じやすくなる。 最後の⑥「債権取崩国」の段階では、貿易・サービス収支の赤字が所得収支の黒字 を上回り、経常収支が赤字に転じる。それに伴って対外純資産が減少するため、所得 収支の黒字額が減少し、経常赤字が拡大してゆく。その後、対外負債残高が対外債権 6 7 比較優位の正確な意味については後の資料で詳しく解説する。 「人口オーナス」期には、人口ボーナス期とは逆に、人口構成の変化が社会的な負担(onus) となり、それまでの経済成長を維持することが難しくなる。 8 『入門・現代日本経済論』第 1 章参照。 6 残高を上回ると、所得収支も赤字に転じ、①の「未成熟債務国」の段階に回帰する。 国際収支の発展段階説の重要なメッセージは、一国の国際収支が長期間に構造的な 変化を遂げることには合理的な理由があり、その国の経済発展度によって貿易・サー ビス収支や経常収支が赤字であることが望ましい時期もあれば黒字であることが望 ましい時期もあるということである。一国を一企業のように考えると、貿易・サービ ス収支や経常収支は常に黒字であることが望ましいと思われるが、このような考えは 誤りである9。たとえば経済発展の初期段階にある国が経常収支の赤字を避けるため に海外からの資金借り入れを禁止すると、設備や建物に十分な投資を行うことが困難 になり、その後の経済成長率が低下してしまう。同様に、高齢化が進んで国民の多く が過去の貯蓄を取り崩している国があくまでも経常収支の赤字化を避けようとする と、海外から資金を取り入れて設備投資や技術開発を行うことが難しくなり、やはり 将来の生産力と所得を低下させてしまう可能性がある。 さて、ここで主要国の国際収支が実際にどのような変貌を遂げてきているかを見て みよう。図表 3 は日本とアメリカ、中国における経常収支の GDP に対する比率とそ の内訳の推移をグラフに描いたものである。ただし中国では最近まで標準的な国民所 得統計や国際収支統計が作成されていなかったため、日本やアメリカに比べて短期間 のデータだけを示している。また、日本とアメリカでは 1940 年代に各項目の収支が 大きく変動しているが、これは第二次大戦前後の軍事支出や復興援助などによるもの で、長期的なトレンドを掴むためにはこの時期を除外して考えた方がよい。 日本は 1850 年代の開国時点で欧米諸国との技術格差が非常に大きく、その後も貿 易・サービス収支の赤字による外貨不足に悩まされることが少なくなかった10。第二 次世界大戦によって国内の生産設備の多くが破壊されたため、終戦直後は国民の生活 に不可欠な物資を生産することもままならず、アメリカからの復興支援(物資ないし 輸入用ドル資金の供与)によって賄われた。1950 年ごろから 1960 年代にかけて日本 の貿易・サービス収支はおおむね均衡していたが、これは輸入が増加して外貨不足気 味になる度に政府と日本銀行が経済引き締め策を行って輸出入バランスの維持に努 めていたためで、潜在的な貿易収支は赤字が続いていたと思われる。しかし 1960 年 代に入って日本企業の生産能力と輸出競争力が向上し、所得水準の上昇によって貯蓄 9 厳密に言うと、企業に関しても営業利益や経常利益が正であることが常に望ましいわけで はない。創業後間もない企業や将来の成長が期待される企業の場合、目先の決算収益を度外 視し、場合によっては巨額の借金を抱え込んででも、技術開発や事業拡張に邁進すべき時も ある。 10 この点は次回の資料で詳しく説明する。 7 額も増加したため、1960 年代末に貿易・サービス収支が黒字基調に転じた11。1980 年 代前半に対外資産が対内資産を上回り、その後は対外純資産が急増したため、所得収 支の黒字幅も拡大した。 図表 1 で見たように、今日の日本ではモノの貿易収支が黒字から赤字に変化しつつ あると思われるが、過去の経常黒字によって累積した対外資産からの財産所得が多く、 経常収支は黒字を保っている。したがって図表 2 の国際収支の発展段階に当てはめる と、日本は④「未成熟債権国」から⑤「成熟債権国」への移行過程にあると考えられ る。なお、我が国は 1990 年代前半に人口オーナス期に入り、その頃を境に貯蓄額の GDP に対する比率も急激に低下した(図表 1 下段のグラフ)。ただし後述するように、 我が国ではバブル崩壊後の長期不況の中で企業の設備投資が大きく落ち込んだこと などにより、経常収支は最近までむしろ増加傾向にあった。日本は他の先進諸国に比 べて少子高齢化のペースが早く、今後の経済と社会の姿に大きな影響が生じる可能性 がある12。 アメリカの貿易収支は第一次大戦と第二次大戦の戦間期に黒字基調に転じた。アメ リカは第二次大戦終了時点で他の国々を圧倒する経済力を誇っており、西欧や日本に 巨額の復興支援を行った。しかしその後、西欧や日本の企業の輸出競争力が上昇する 一方、ベトナム戦争によって海外からの軍事物資の調達額が増加したことなどを反映 し、1960 年代後半に貿易収支が赤字基調に転じた。対外純資産は 1980 年代半ばに負 に転じ、1990 年代後半から純債務残高が急増している(図表 3 には示していない)。 前回の資料で解説したように、それでも所得収支が正値にとどまっているのは、アメ リカの居住者が保有する海外資産の収益率が海外の居住者が保有するアメリカ資産 の収益率を上回っているためである。今日のアメリカを図表 2 に当てはめると、⑥「債 権取崩国」と①「未成熟債務国」の端境期にあると考えられるが、今後、通常の低所 得国のように①→②→③という変化を遂げるかどうかは明らかでない13。 11 1970 年代初頭と 1970 年代末に貿易収支が一時的に赤字に転じたのは、石油ショックによ って原油の輸入代金が急増したためである。 12 『入門・現代日本経済論』第 6 章参照。 13 Crowther (1957)が国際収支の発展段階説を提唱した 1950 年代には、日本を含む多くの 国々が輸出を通じて十分なドルを稼ぐことが難しく、それが慢性的な外貨不足の原因になっ ていた。Crowther(1957)は外貨の枯渇を恐れる国々が海外との貿易や金融投資を制限して いるため、これらの国々の国際収支が発展段階説から逸脱していると考えていた。しかしそ の後 10 年を経ずして、世界はアメリカの経常赤字の拡大とそれに伴うドル保有額の急増、そ の結果として生じるインフレーションに悩まされることになる。これらの現象の因果関係に 関しては後の資料で解説する。 8 図表 3 主要国の経常収支の対 GDP 比率の推移 日本 (%) 8 4 経常移転収支 所得収支 2010 2005 2000 1995 1990 1985 1980 1975 1970 1965 1960 1955 1950 1945 1940 1935 1930 0 貿易・サービス収支 経常収支 -4 -8 アメリカ (%) 8 4 経常移転収支 所得収支 2010 2005 2000 1995 1990 1985 1980 1975 1970 1965 1960 1955 1950 1945 1940 1935 1930 0 貿易・サービス収支 経常収支 -4 -8 中国 (%) 10 経常移転収支 5 所得収支 貿易・サービス収支 経常収支 2010 2005 2000 1995 1990 1985 1980 1975 1970 1965 1960 1955 1950 1945 1940 1935 1930 0 -5 (注)統計の制約により中国の国際収支は 1982 年から記載。1981 年以前の貿易・サービス収支 は税関統計から計算した貿易収支でサービスの受け払いを含まず。 (資料)IMF, International Financial Statistics 及び各国の国民所得・国際収支統計をもとに集計。 9 中国は 1970 年代後半まで社会主義経済体制の下で対外取引を厳格に管理していた ため、貿易・サービス収支はほぼ均衡していた。中国政府は 1978 年にそれまでの自 力更生から改革開放へと政策の方針を転換し、沿岸部に設立した輸出加工区などを通 じて海外との結びつきを強めていった。1980 年代半ばと 1993 年には輸入急増によっ て貿易赤字が拡大したが、為替レートの切り下げや税制改革などを通じて輸出しやす い環境が作られ、その後は貿易収支が黒字になる年が増加した。2000 年代半ばには輸 出額と経常黒字が未曾有の水準に達したが、2008 年に欧米諸国が金融危機によって深 刻な不況に陥ると、これらの国々への輸出が激減し、経常黒字も縮小した。 なお、中国の大きな特徴は、多数の外国企業が現地に進出し、これらの企業の子会 社や関連会社が貿易の重要な担い手になっていることである。外国企業の現地法人は 海外の親会社などから物資を輸入して商品を製造し、その多くを輸出するため、輸入 と輸出の双方に深く関わっている。中国は一時期「世界の工場」と呼ばれていたが、 2000 年代に入ってから政府が地場企業を育成するために外資系企業の優遇策を次々 に撤廃している。図表 2 の国際収支の段階説によると、今日の中国は③「債務返済国」 から④「未成熟債権国」への移行段階にあると考えられる14。 3. 国際収支の発展段階説の説明力と問題点 図表 3 によると、一国の国際収支が長期間に大きな変貌を遂げ(う)ることは事実 のようである。また、上記の三か国に関する限り、国際収支の発展段階説はこのよう な変化を比較的上手く説明できているように見受けられる。 ただし上述したように、国際収支の発展段階説を常に成立する法則だと考えること は誤りであり、この説と異なる収支構造を持っている国も少なくない。それにはいく つか理由があるが、第一に指摘すべきは、一国の国際収支がその国の事情だけによっ て決まるわけではなく、その時々の外国の状況によっても左右されることである。た とえば仮に世界のすべての国々が十分に豊かになったとしても、これらの国々が同時 に⑥の「債権取崩国」になることはありえない。ある国の経常収支が赤字であれば、 必ず他のどこかの国の経常収支が黒字になっているはずだからである。 上記の点は、日本やアメリカ、中国など、相対的に経済規模の大きい国にとってと りわけ重要である。人口の少ない小国の場合、貿易・サービス収支の黒字や赤字が相 14 ここ数年、中国では賃金が急上昇し、外資系や地場の企業が海外に工場を移転する動きが 目立ち始めている。なお、Crowther(1957)の時代にも企業が海外に進出するケースはあっ たが、多くの国々が対内直接投資の受け入れに消極的だったため、今日に比べると各国の生 産活動や貿易における外資系企業のプレゼンスは小さかった。 10 当増加しても大した金額になりえず、アメリカや中国のような大国の収支が多少調整 すればそれを吸収することができる。しかし逆にアメリカや中国の貿易・サービス収 支の不均衡が拡大した場合、小国の収支の調整によってそれを吸収することは不可能 であり、他の大国の収支が逆方向に変化する必要がある15。しかし、たとえばある時 期に日本や中国の経済が経常黒字の拡大が望ましい状況にあったとしても、それがア メリカにおいて経常赤字が拡大すべき時期と一致しているとは限らない。 上記のことは、世界経済への影響が大きい大国の場合、長期的に維持可能な国際収 支の不均衡に自ずと限度があること、何らかの理由でこれらの国々の収支構造が大き く崩れた場合、近い将来に大きな揺り戻しが生じる可能性があることを示唆している。 2000 年代に日本や中国の貿易黒字とアメリカの貿易赤字が急増した後に急減したこ とは、その一例だと考えることができる。主要国の対外収支が大きく変動すると、こ れらの国々や他の小国の経済が不安定化し、海外との貿易や金融取引を制限するなど の保護主義的風潮が強まることが少なくない。このような事態を避けるために、国際 通貨基金(International Monetary Fund、IMF)などの国際機関が主要国の対外収支の 動向をモニターしているが、対外経済関係の調整のために自国の利益を進んで犠牲に する意思のある国は多くない。 第二に、国際収支の発展段階説では一国の経済が工業化→脱工業化というプロセス を踏むことが暗黙裡に仮定されているが、すべての国がこのような発展過程を辿ると は限らない。製造業の中でも伝統的な衣料品産業などは典型的な労働集約型産業であ り、大きな雇用創出力を備えている。ある程度の人口を擁する国々の場合、経済成長 の初期にいったん軽工業を中心とした工業部門が拡大して国内の余剰労働力を吸収 することが必要となる。しかし、豊富な地下資源に恵まれた国々は、それらを輸出し て外貨を稼ぐことができるため、必ずしも自前の製造業を育成する必要がない。また、 人口が少ない小国の場合、観光業や金融業などによって十分な外貨を稼ぐことが可能 な場合もある。この点に関しても、国際収支の発展段階説は比較的大規模な国を念頭 に置いた仮説だと考えられる。 ここで上記の二点を現実のデータを用いて検証してみよう。図表 4 は、2000 年代の 世界各国の所得水準と経常収支の対 GDP 比率の関係をグラフに描いたものである。 横軸の所得水準は、各国の物価の違いを調整した購買力ベースの実質 GDP を人口で 割った値によって測っている。ここでは 2000 年代の 10 年間のデータの平均値を利用 しているため、景気循環など一時的要因の影響はおおむね均されている。 15 図表 3 において日本や中国の貿易・サービス収支とアメリカの貿易・サービス収支が対照 的な動きを示している時期があるのは、このことを反映している。 11 上段のパネル(A)には、計算に必要なデータが得られた 163 か国をすべてプロッ トしている。国際収支の発展段階説があらゆる国に当てはまっていれば、このパネル の点は全体として逆 U 字を描くはずだが、実際には右上がりに近い分布になっている ように見える。また、所得水準が同レベルの国々の経常収支の間にも大きなばらつき があり、中には経常収支の黒字や赤字が GDP の数十%に上っている国もある。 次にパネル(B)では、上記の 163 か国から人口 50 万人未満の小国と輸出総額に占 める燃料品(原油など)の比率が 50%を超える資源国を取り除き、それ以外の国々に 関しても円の大きさによって相対的な人口規模が分かるようにしている。パネル(B) ではパネル(A)に比べて縦軸の値のばらつきがかなり小さく、円が大きい人口大国 の中で縦軸の値が±10%を超える国は見当たらない。また、これらの大国だけに注目 した場合、パネル(A)に比べると逆 U 字に近い分布になっており、国際収支の発展 段階説とある程度整合的になっている。 国際収支の発展段階説が常に成立するとは限らない第三の理由は、一国の国際収支 がその国の政策から大きな影響を受けることである。このことを理解するためには、 一国の政府の政策を、①民間部門の国際取引に関する規則や規制、②政府自身の行動、 の二つに分けて考えることが有益である。 ①に関して注意すべき点は、一国の国民は常に外国と自由な経済取引を行えるわけ ではなく、自国の政府と外国の政府がそれを許可して初めて可能になることである。 欧米や日本などの先進諸国間ではすでに国境を越えた貿易や投資の多くが自由化さ れているが、このような状況が実現したのは 1980 年代に入ってからのことであり、 今日でも部分的な規制を残している国もある16。それ以外の国々の場合、モノの貿易 の自由化を進める一方で国際金融投資を厳しく管理している国が少なくない。 ある国において民間部門の国際金融投資が禁止されている場合、資金が余剰だった り不足したりしていてもそれを調整するメカニズムが働かないから、政府がその役割 を買って出ない限り、モノやサービスの貿易が自由化されていても(1)式の左辺は 0 の 近傍にとどまらざるを得ない。図表 3 において 1960 年代半ばまでアメリカや日本の 経常収支がおおむね均衡していたのはこのような事情によるところが大きい。中国は 現在でも海外との金融取引を規制しているが、中央銀行が外国為替市場介入を通じて 貿易・サービス収支の黒字分以上の外貨を買い上げ、それを海外の金融資産や実物資 産に投資しているため、巨額の経常黒字を計上することが可能になっている。 16 この講義の初回に紹介したように、日本政府は一部の農産品や食料品に輸入禁止的な高率 関税を課している。また、他の先進諸国と比べると、外国の労働者の受け入れにもきわめて 消極的である。 『入門・現代日本経済論』第 6 章参照。 12 図表 4 世界各国の所得水準と経常収支の関係(2001-2010 年平均値) (A)すべての国々 50 (%) 40 30 20 10 0 300 -10 3,000 30,000 -20 -30 -40 -50 (B)小国と産油国以外の国々 25 (%) 20 15 中国 10 5 0 300 -5 -10 日本 インドネシア バングラデシュ ドイツ ブラジル インド 3,000 30,000 アメリカ -15 -20 -25 (注)各パネルの縦軸は経常収支の GDP に対する比率(%) 。横軸は購買力ベースの一人当たり 実質 GDP で 2005 年のドル換算値。下段のパネルの円の大きさは人口を表す。 (資料)World Bank, World Development Indicators のデータをもとに作成。 13 次に、②の政府自身の行動は、今後の日本の経常収支と財政危機の関係を考える上 で重要な点である。(1)式や(2)式の左辺は一国全体の貯蓄・投資ギャップだから、そ の国の個々の経済主体の貯蓄・投資ギャップの和と一致する。SNA では、これらの経 済主体が「家計」、 「非金融法人企業」、 「金融機関」、 「一般政府」、 「対家計民間非営利 団体」という 5 つの制度部門に大別され17、それぞれの貯蓄・投資ギャップ(資金過 不足)が報告されている。ここでいう一般政府には国および地方の行政部門と公的年 金などの社会保障基金が含まれ、一般的な意味での政府より広く定義されている。一 般政府の貯蓄・投資ギャップは SNA の定義による財政収支を意味し、その値が負の 時には公債(政府債)を発行するなどして歳入不足をカバーしなくてはならない。 4. 日本の経常収支と財政危機のゆくえ この資料の冒頭で紹介したように、最近、「日本で経常赤字が定着すると財政危機 の可能性が高まる」、 「経常収支の赤字化を避けるために政府は財政再建に励むべきだ」 と主張する人が増えている。一国の貯蓄・投資ギャップが制度部門別の貯蓄・投資ギ ャップの和であることを考えると、これらは妥当な主張に聞こえるかも知れない。し かし現実には個々の制度部門の貯蓄・投資ギャップが独立に変化しているわけではな く、政府の財政ポジションが変化しても、それがそのまま日本の経常収支に反映され るとは限らない。本節ではこの点を少し掘り下げて考えてみよう。 図表 5 は、日本の制度部門別の貯蓄・投資ギャップ(資金過不足)の対 GDP 比率 の推移を示したものである。ただし「対家計民間非営利団体」は他の部門に比べると マイナーな存在であり、「金融機関」は他部門間の資金貸借を仲介する立場にあるた め、これら二部門の資金過不足が日本の貯蓄・投資ギャップに大きな影響を与えるこ とは少ない。そこで、この図では「家計」と「非金融法人企業」、 「一般政府」の貯蓄・ 投資ギャップだけを折れ線グラフで示し、残りの二部門を含む日本全体の貯蓄・投資 ギャップ(経常収支)を面グラフによって表示している。 図表 5 を見てまず気づくのは、日本全体の貯蓄・投資ギャップに比べると、主要三 部門別の貯蓄・投資ギャップが格段に不安定なことである。図表 1 において日本の貯 蓄総額と投資総額がともに 1990 年代前半から急激に減少したことを見たが、図表 5 によると、この時期には部門間の資金過不足の関係が大きく変化している。非金融法 人企業とはもともと外部から資金を集めて事業を行う存在であり、これらの資金の多 17 これらの 5 部門のうち、 「対家計民間非営利団体」は「会社でない法人」と「法人でない団 体」を意味し、労働組合や政党、宗教団体、私立学校などを含んでいる。なお、公立学校は 一般政府に分類されている。 14 くは、企業の株式や社債を家計が直接購入するか、金融機関が預金や投資信託などの 形で家計から余剰資金を集め、それを企業に融資したり投資したりする形で提供され ている。その時々の個々の企業や家計の資金ポジションはまちまちだが、非金融法人 企業部門は全体として貯蓄不足(資金不足)、家計部門は全体として貯蓄超過(資金 過剰)であることが自然であり、実際、1990 年代初めまではそうなっていた。しかし 1990 年代半ばから家計部門の貯蓄超過と非金融法人企業部門の投資超過が急激に縮 小し、後者は 1990 年代後半に貯蓄超過に転じた。 図表 5 15 部門別の貯蓄・投資ギャップの推移 (%) 10 5 合計(=経常収支) 非金融法人企業 0 一般政府 -5 1980 1985 1990 1995 2000 2005 2010 家計 -10 -15 (注)いずれも GDP に対する比率。貯蓄・投資ギャップは SNA の資本調達勘定(金融取引)の 「資金過不足」による。 (資料)内閣府経済社会研究所「国民経済計算」をもとに作成。 第 2 節で述べたように、一国の経済が成熟して高齢化が進むと、家計の貯蓄額が減 少し、企業の設備投資意欲が後退することが多い。1990 年代以降の日本の家計と企業 の貯蓄・投資ポジションの変化の一部はこのような事情を反映していると思われるが、 それだけが原因だとは考えにくい。たとえば家計の場合、バブル崩壊後の長期不況に よって失業や賃金カットに見舞われる人々が増えたため、やむを得ず貯蓄を切り詰め ざるを得なかった人もいたはずである18。法人企業に関しても、長引く不況によって 18 前回の資料で解説したように、経済学では、貯蓄額を収入-消費額と定義している。した 15 倒産や事業整理に追い込まれる企業が増加する中、新しい設備や技術に資金を投じる ことを控え、手元に潤沢な資金を確保しておこうとする動きが強まっている19。 最後に、一般政府は 1980 年代後半にいったん貯蓄超過に転じた後、大幅な資金不 足に陥った。一般政府の貯蓄・投資ギャップが不安定なのは、不況期に税収が落ち込 む中で財政支出による景気対策が実施され、資金不足が拡大するためである。数年単 位の政府の資金ポジションの変動にはこのような景気対策としての側面があり、民間 部門の貯蓄・投資ギャップの変動と独立に変化しているわけでない。たとえば、「経 常収支の赤字化を避けるために政府は財政再建に励むべきだ」という意見にしたがっ て政府が大胆な財政赤字を敢行した場合、少なくとも短期的には景況が悪化し、企業 や家計が投資を削減する可能性が高い。その場合、日本の経常収支は政府の赤字削減 分以上に増加するが、それが望ましいかどうかは意見が分かれるところだろう。また、 不況によって輸入が減少すると円の為替レートが変化する可能性があり、それも貿易 収支や企業の設備投資の変化を通じて経常収支に反映されるはずである。 ただし上記のことは政府財政が黒字でも赤字でも構わないという意味ではない。一 般政府の貯蓄・投資ギャップがその時々の景況から影響を受けることが事実だとして も、日本政府は 1992 年以来ずっと資金不足状態にあり、景況が相当好転した 2000 年 代半ばにも赤字が解消されなかった。このように一般政府が慢性的な資金不足状態に あり、構造的な赤字が増加している一つの理由は、不況期に実施された財政拡張策が 景気回復後に十分に調整されていないことである。しかしそれよりいっそう重要な理 由は、高齢化に伴って年金や医療関連支出が急増していることである。国立社会保 障・人口問題研究所の推計によると、日本の老年人口指数(65 歳以上人口の生産年齢 人口に対する比率)は 2010 年の 36.1%から 2022 年には 50.2%、2036 年には 60.4%へ と急上昇し、その後も上昇を続ける。このような状況の下で現在の社会保障給付を維 持しようとすると、一般政府の資金不足がますます拡大し、その分だけ政府債務の増 加スピードが高まってゆく。 図表 6 は日本を含む主要国における一般政府の債務残高の対 GDP 比率の推移を示 したものである。ただし多くの国々の政府は公債や借入金などの形で負債を負ってい るだけでなく、銀行預金や公営企業への出資金などの資産も保有している。とりわけ 社会保障基金は国民から集めた保険料を運用して将来の給付に備える機関であり、巨 額の金融資産を保有していることが多い。したがって一般政府の財政状況を正しく評 価するためには、グロスの総債務残高に加え、債務残高から資産残高を引いた純債務 がって財産所得のない定年退職者や失業者の貯蓄額は負になる。 19 非金融法人企業のうち、民間企業が保有する現金や預金は 2011 年末時点で 202 兆円にも上 っている。 16 残高も確認する必要がある20。図表 6 では上段のパネル(A)が総債務残高の対 GDP 比率、下段のパネル(B)が純債務残高の対 GDP 比率を表している21。 パネル(A)によると、日本の総債務残高の GDP に対する比率は 1990 年代初頭に は 70%前後にとどまっていたが、その後の 20 年間に 200%を超える水準に急上昇し、 ここに示した 6 か国の中で最も高くなっている。パネル(B)の純債務残高は相対的 に低いが、それでも財政危機直前のギリシャ(2009 年ごろ)と同様の水準に達してい る。ギリシャと日本では経済環境が異なるため、このことから直ちにわが国の財政危 機が近いとは言えないが、今日の日本政府の総債務や純債務が歴史的に見て未曾有の 水準に達していることは事実である。 日本の一般政府の債務には、残高が非常に大きいことに加え、以下の二つの特徴が ある。第一の特徴は、図表 6 から分かるように、他の国々に比べて総債務と純債務の 差が大きいことである。このことは、日本政府が借金を抱えながら多くの金融資産を 保有していることを意味している。その一つの理由は社会保障基金が国債等の金融資 産を大量に保有していることだが、それだけが理由ではない。 たとえば、わが国の中央政府には一般会計とは別に多数の特別会計が存在し、これ らの特別会計が多数の行政法人に資金を供給して様々な事業を実施している。これら の行政法人は法律・会計上は民間部門に属するが、実態としては政府の外局に近い存 在である。これら行政法人が行う事業の多くは収益性に乏しく、長期的に政府の出資 金が毀損したり、巨額の財政補てんが必要になったりする可能性は低くないと思われ る。 また、前回の資料でも言及したように、日本政府は過去の外国為替市場介入の結果 として、他の先進諸国の数十倍の外貨準備を保有している。政府が為替介入を実施す る場合、外国為替資金特別会計と呼ばれる特別会計から政府債を発行して円資金を集 め、それを外国為替市場においてドルなどの外貨と交換する。こうして購入された外 貨の多くは外貨建ての債券などに投資され、やはり一般政府の一部である外為特会に よって管理されている。その後に円高が進むと円で測った外貨準備の残高は減少する が、外為特会が発行した政府債の残高は変化しないため、その分だけ純債務残高が増 加する。実際、今日の外為特会は数十兆円の負債超過に陥っている(熊倉 2011)。 20 年金基金などに関しては、本当は将来に支払いを約束している金額を潜在的な債務と考え るべきだが、ここではそれは算入していない。 21 政府は行政庁舎や土地などの実物資産も保有しているが、パネル(B)ではこれらの分は 差し引いていない。これは、実物資産の多くが業務上不可欠であること、これらの中に購入 (建設)してから長い時間が経っているものが少なくなく、それらの市場価値を適切に評価 することが難しいことなどによる。 17 図表 6 主要国の政府債務残高の推移 (A)債務残高 250 (%) 200 ドイツ ギリシャ 150 イタリア 日本 100 イギリス アメリカ 50 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004 2005 2006 2007 2008 2009 2010 2011 0 (B)純債務残高 180 (%) 160 140 ドイツ 120 ギリシャ 100 イタリア 80 日本 60 イギリス 40 アメリカ 20 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004 2005 2006 2007 2008 2009 2010 2011 0 (注)いずれも GDP に対する比率。純債務残高=負債残高-資産残高。 (資料)IMF, World Economic Outlook のデータをもとに作成。 18 図表 7 20 (兆ドル) 主要国の政府債券の発行残高と海外保有比率(2011 年末現在) 発行残高(左軸) (%) 100 海外保有比率(右軸) 80 15 60 10 40 5 20 0 0 (注)債券は財務省証券等の短期債を含む。 (資料)World Bank-IMF, Quarterly Public Sector Debt Statistics 及び Quarterly External Debt Statistics の データをもとに集計。 日本の政府債務の第二の特徴は、残高が巨額に上っているにも関わらず、その大半 が国内の経済主体(日本の居住者)によって保有されていることである。図表 7 では、 日本を含む先進 10 か国の政府債の発行残高を棒グラフで示し、そのうちどれだけが 海外の投資家や政府によって保有されているかを折れ線グラフで示している。この図 を見ると分かるように、主要国の中で日本とアメリカの政府債の発行残高が突出して 多いが、日本ではアメリカに比べて海外投資家の保有比率が非常に低い。このことに 注目して、日本では政府が国民に借金しているだけだから、家庭内の貸借のようなも ので、残高がいくら増えても問題ないと言う人もいる。この意見は正しいだろうか。 上記の問題を考える上でまず知っておくべきことは、日本の政府債の相当部分が公 的機関や準公的機関によって保有されていることである。たとえば、社会保障基金は 100 兆円近い国債や地方政府債を保有しているが、これは政府が国民から集めた年金 や医療の保険料をその時々の財政赤字の穴埋めに利用していることを意味している。 しかし年金や医療保険の給付額が急増により、社会保障基金の積立金はすでに増加か ら減少に転じており、保有資産を少しずつ売却せざるをえなくなっている。また、日 19 本銀行やゆうちょ銀行、かんぽ生命などは統計上は民間機関であっても政府の影響下 にあり、必ずしも自らの意志で政府債に投資しているわけではない。ここ数年、政府 関係者の間で日銀にいっそうの金融緩和を求める声が強まっているが、これは実質的 に日銀に国債の買い増しを要求しているのと同じである。財政赤字を日銀の通貨発行 によって賄うことを続けてゆくと、物価や金利が急上昇するなど、経済全体に深刻な 悪影響を与える可能性がある22。 また、政府債の国内保有比率が高いからといって財政危機が生じないとは限らない ことにも注意が必要である。2012 年末時点で海外投資家が保有する国債(国庫短期証 券を含む)の残高は 80 兆円余りに上り、仮にこれらが一斉に売却された場合、日本 の民間金融機関がそれらを一手に買い受けることは不可能である。発券銀行である日 銀が買い入れることは可能だが、日銀が大量の政府債を引き受けざるをえなくなるこ とは実質的に財政破綻を意味し、上述した問題を引き起こしかねない。 最後に、日本国債の国内保有率が高いことはそれが海外投資家にとって魅力を欠い ていることを意味し、決して望ましいこととは言えない。前回の資料でも解説したよ うに、国際金融投資が自由化されている国の場合、対外債権と対外債務が同時に発生 するのが本来の姿であり、経常収支の黒字や赤字に対応する資金過不足分だけが海外 との間でやりとりされるわけではない23。たとえばドイツは日本と同様に長く経常黒 字を計上してきており、一国全体としては債権国である。しかし図表 7 を見ると分か るように、ドイツ政府債の大半は海外投資家によって保有されている。これはドイツ 政府が健全な財政管理を行っており、ドイツ債市場の流動性が高ため、外国の投資家 にとって魅力が高いことを反映している。このように考えると、日本の経常収支や国 債の海外保有率と財政破綻の可能性の間に明瞭な関係があるわけではないが、今日の 政府財政がきわめて憂慮すべき状態にあることは事実であり、経常収支が黒字か赤字 かによらず、一日も早い財政再建が望まれる。 参考文献 熊倉正修(2011)「我が国の為替市場介入と外貨準備管理の問題点」『世界経済評論』 第 55 巻 6 号 Crowther, Geoffrey (1957) Balances and Imbalances of Payments. Boston, MA: Harvard University Press. 22 この点に関しては後の資料で詳しく解説する。 23 前回の資料の表 2 と表 3 の違いを参照。 20
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