ヨーロッパにおける日本映画の影響

ヨーロッパにおける日本映画の影響
マティアス・ハンプ
–序論
2
™本文
2
•第一文
3
映画とは
3
日本映画とは
4
影響とは
5
第二文
6
ヨーロッパに於ける日本文化需用
6
日本映画の国際化歴史
7
国際映画誕生前の輸出作品
8
日本国際映画史
12
›第三文
17
日本映画の影響
17
日本映画の視聴率
18
★結論
19
š参考文献
20
1
–序論
日本の文化は日本国民の起源となる縄文時代以降発達しつつ、自立性が時代
にわたって高められてきた。近代こそ世界中における日本文化は異文化として代表
的であろう。文化というのは実際の見方を基本とした個人のあらゆる反応である。こ
の繋がりが文化及び個人によって格差を表示するはずといっても良い。従って文化
を比較的に述べるときは、間接的に世の中における実際に対する個人の個性の相
違について話す。この個性をまとめて文化と呼ばれているのだろう。文化を抽象的
に見るとき、人間の個性の種類について言及したいと思う。
以下、この考えの過程は「映画」を具体的とした例とする。何故かと言うと、映画と
言うのは芸術において一番実際との繋がりが深いアートである。と言っても個性の
作品で一番リアリティと近い個性の表現であろう。それはもちろんのこと見方によ
る。しかし、映画はオーディオ・ビジュアルの感覚を満たす上に、その技術によって
主観的な視点で話を視聴者に見せさせることができる。
映画による個人へ、或いは文化への影響が頻繁に研究されているが、日本文化
に携わっている研究者の見方はだいたい、日本映画は西欧映画に対してどういう
風に発達しているのか、或いはどの影響をうけているかに限られている。その傾向
に対して私の論文は逆と言える、ヨーロッパにおける日本映画の影響と言う見方を
読者に提供する動機で書かれている。
™本文
三つの項目に分けられている次のような過程に従って外国における日本映画の
影響を分析してみたい。初めに映画と日本映画及び影響という概念を解説するに
つれてこの概念の曖昧さを明快させたい。第二項目では日本映画の国際化を歴史
的に論述したい。最後の第三節は種種の視点を提供する。
2
•第一文
映画とは
映画について考えようとするとき、我々がまずその概念の意味を定める事に励も
う。
他人が想像した話が1絵画的な法方で拝見者に提供するのは映画歴史上で最も根
本的でありながら今日の映画構造はずいぶん発達してきました。絵画だけではなく
音声や音楽やアニメーションなどによって映画という芸術範疇は拡大されている。こ
の傾向は映画技術発達と共にますます強くなってきている。いくつかの新しい映画
の型、例えばアニメや人形劇映画や現実的な映画などが全く違った法方で作られ
ていても同じ範疇に含まれている。その現状に対して二つの進化が見えてきた。一
方、映画という範疇が色々な分野に分けられており、片方は、ある作品が映画範疇
に属するかどうかはその作品の性質に寄らず見る法方によって決められるようにな
った。
とにかく話を伝えるのは昔から変貌しながら発達してきたもので未来でも進歩す
る筈だ。だから映画という語り方の元でいくつかの新しい語り方が出来上がるのは
自然的な発展である。それに従って映画の定義は長い目で見れば臨時的な存在し
か果たさない。
日本映画とは
前節に映画の定義の曖昧さを論じたことを除いてここでは日本映画の説得はどう
なるかという質問を調べておきたい。この問題は SUZABO 監督の最新映画「Der
Fall Furtwengler」で例示するのは具体的で便利だと思う。この映画の内容は短く
纏めます。
1
内容だけではなく想像そのものは語り方に対しても必要と考えられる。
3
イツでも活躍をしていた。そのため戦後、非ナチ化の過程で、ナチスの象徴である
かどうか検察を受けて起訴されました。というのは FURTWÄNGLER 氏の個人的な音
楽作品はナチドイツの象徴として訴えられた。この事件で日本映画の定義に関する
問題点を視覚化できる。ある監督の作品はどの根拠の元で日本映画と呼ばれるだ
ろうという質問は以上の映画話題「Der Fall Furtwängler」で描いた事柄と同様であ
る。
映画が描く対象でその質問を決められるなら「戦前に台湾や朝鮮、満州で日本人
が制作や監督をしたフィルムは、果たしてどの程度にまで日本映画と呼ばれうるの
か。」2映画の監督やスタッフが日本人であるから、ある映画は日本映画に属すると
さい
いえば「 ,催
よういち
,洋一や
イハギン
,季学仁といった在日韓国人が監督したフィルムはど
うなるのか(もしそれが日本映画ではなく、また在日朝鮮人が主演したフィルムさえ
も日本映画という範疇から排除してしまうなら、戦後の日本映画史は崩壊してしまう
だろう)。」3テクニックによって所属させられるのも不可能であろう。映画を作るとか
見るとか現像するとかに使うカメラやあらゆる映画に関する機械は世界中ほとんど
日本製品である。だからといって全世界の映画は日本映画になるのも考えられな
い。続いてこの問題に対して四方田氏は次の論じている。
たかむね
「
つよし
,高嶺 ,剛のように沖縄語で制作し、日本語の字幕スーパーが入っているフィルムはどうな
のか。千九七十年代以降の黒澤明や渡島渚のように、フランスの資本で制作されたフィルムは
どうなのか。
2
3
四方田犬彦『日本映画史 100 年』14 頁。
Ibidem.
4
„Der Fall Furtwängler” Suzabo 2002
ドイツ出身の FURTWÄNGLER 氏は世界中有名な指揮者として知られておりナチド
め、それを口にする事が両義的な行為になりつつあることを意味している。もっともそれは日本
映画にかぎった傾向とはいえない。ヨーロッパでは資本とスターフ、キャストにおいて多国籍で
あることは、すでに当然の事と化している。[…]日本人の監督が日本の俳優だけを用いて、日
『乱』
(黒澤明監督)
こうした一連の問いは、近年にいたって「日本映画」なる観念が一義的なものであることをや
本語によって日本で映画を撮影するという完全な条件を備えたフィルムは、二一世紀にはどん
どん数が少なくなっていることだろう。」(四方田、15 頁)
発達を通してこのような一貫首尾を果たす作品は極めて少ないと言えるのではない
か。例えば 1950 年代から
ほんだ
,本多
いのしろう
,猪西郎4監督が創造した『モスラ』や『ゴジ
年代)
ラ』などのような怪獣映画と 1985 年の黒澤明監督の『乱』との共通点を定めるのは
0
5
9
1
か思考が続いていることであろう。しかし、日本映画の起原となる 1890 年代以降の
『
モスラ』
や『
ゴジラ』
(
本多猪西郎監督
日本映画というジャンルを見定める事にまた考えられるのは一貫首尾のスタイルと
不可能ではないか。また、前者の映画等と 2001 年の手塚治虫5監督の『メトロポリ
ス』というア二メの間には、技法や主題を越えて、映画の自己認識の資源において、
恐ろしいまでのへだ足りが横たわっている。
的に影響と呼ばれている。芸術の範囲で言うと他人の作品を受容することは「物の
効果」に対応している。作品を受容する人の意識や考えや感情などに反応を起こし
とも同様で、見ているときに感化されながら意識などに変化をもたらす働きは影響と
いうことであろう。さて、拝見者にとって、映画を見ることは以前に意識がなかった話
題を受容する意味になる。だから、単なる映画の受容によって影響が起こすという
定義の元で続いて第二項目では外国における日本映画受容の歴史を述べてみた
い。
5
)
たり変化させたりすれば、受容した作品の元で影響が果たしている。映画を見るこ
1
0
0
2
抽象的にある物の効果に基づく他の物の効果に反応・変化を起こすことは一般
『メトロポリス』
(
手塚治虫監督
影響とは
第二文
日本映画はもはや前前世紀末から存在し、100 年以上の歴史を持っている。そ
の期間では概観できない程たくさん映画が作られたため日本映画史を執筆するの
に非常に知識が必要だと思う。それにもかかわらずここの項目では日本から輸出さ
れた映画の歴史とその映画の受容について話したい。しかし、まず日本映画受容を
日本文化受容の中として紹介して置きたい。
ヨーロッパに於ける日本文化受容の中の日本映画受容
映画の発明以前ヨーロッパにおける日本文化受容は、1543 年ポルトガル人が来
日してから三世紀及んでいてもわりに少ない。それは徳川時代による鎖国政策に
主に由来する。1543 年からヨーロッパ以内、キリスト教の宣教師や数ヶ国の貿易の
お影で日本文化について情報や文化財を入手できるようになっていた。この状態は
1638 年から、つまり日本でのキリスト教禁止と徳川幕府の鎖国政策以来、大きな
変化をしてきた。前の繁盛な文化交流がオランダの貿易の実行に限られてきたた
め、日本文化を受け入れることは極めて小さい社会階級に限定していた。それは知
識層として日本の文化を意識にしていた。この状態はほぼ 200 年続いていて 19 世
紀半ばの開国に断絶した。BUTOR 氏は次のようにこの時期について話す。
«C’est seulement dans la deuxième moitié du XIXe siècle que le Japon fera une
sensationnelle réapparition, un Japon profondément changé, qui a été ouvert, puis c’est
ouvert et qui, en pleine transformation, devient capable d’envozer des images beaucoup
plus nombreuses qu’avant. [...]Apartir de l’ouverture , de nombreux comerçants
européens vont écumer le Japon, ce qui provoquera une popularisation, une
vulgarisation de ce pays et la constitution de collections nombreuses. Ces objets auront
une influence considérable sur l’art européen de la fin du XIXe siècle.»(BUTOR p.35-36)
この引用で暗示されている傾向は、1878 年パリや 1873 年ヴィーンの全世界博
物展覧会が開催された時に日本文化に対しての憧れが活発化された。この展覧会
6
に伴ったジャポニスムという社会的な運動を生み出した。その結果 19 世紀末日本
文化は大幅に流行され、数多くの芸術家に大きな影響を与えた。その元にある日
本から輸出された作品に日本製の映画も次のような存在していた。
浅野よく九九年には、新橋の料亭で三人の芸者達の踊りを撮った。[...]なぜ芸者だったのか?
[...]時代はジャポニスムの真っ盛りで、パリでは浮世絵がもてはやされていた。芸者の映像に
は国際的な需要があった。撮影機を前にした浅野は、西洋人の目差しを借用し模倣すること
で、芸者をフィルムに収めるといえる。(四方田、43頁)
ちなみに、四方田が挙げている浅野西郎は『化け地蔵』という作品で 1898 年最
初と考えられる日本映画を撮影した。したがって、日本映画の国際化はジャポニス
ム運動に関連しながら日本映画の起源と同じ時期くらいに行い始めた。浅野氏の
活躍以来、日本映画の国際化について次の文節をご覧くさい。
日本映画の国際化歴史
多くの研究者6は日本映画の国際化の初めを第二次世界大戦争後の 50 年代に
配置しているが佐藤氏はドイツ語で出版された「Filme aus Japan; Retrospektive
des japanischen Films」という回顧展の序論で話す。
[...]wenngleich Japan auch eine der weltweit größten Filmproduktionen unterhielt, war
das Publikum hingegen fast ausschließlich auf inländische Zuschauer beschränkt. Erst
las 1951 der ein Jahr zuvor unter der Regie von Akira Kurosawa entstande Film
Rashômon auf den Internationalen Filmfestspielen von Venedig den großen Preis der
Jury gewann, wurde Japan auch international als Filmland bekannt, was jedoch nicht
bedeutet, daß das japanische Kino erst jetzt ein hohes künstlerisches Niveau erreicht
hatte. Schon 1928 wurde Teinosuke Kinugasas Film Jûjiro (Kreuzweg), den der
Regisseur in Berlin unter den Titel Yoshiwara no kage (Im Schatten von Yoshiwara) der
Öffentlichkeit vorstellte, von der Kritik angemessen gewürdigt - ein Zeichen dafür, daß der
japanische Film bereits damals international durchaus mithalten konnte.
Yoichi、11頁)
7
(佐藤忠男 in SHIMIYU
50 年代以前にも国際的な作品が存在していると主張してもこの作品は余り国際
化の中に大きな役割を果たしていない。田中氏は言う7、「また日本映画史上の最も
優れた作品のいくつかは 1930 年代に作られた。しかし、それらの作品はヨーロッパ
『十字路』(ある光景の一部)
やアメリカの人々の目に触れる機会は殆どなかった。日本映画の輸出を試みた人
たちは少なからずいたが、ごく一部の例外を除いては、殆どは外国営業者の冷たい
黙殺に出会うだけで、劇場公開にこぎつけることも出来なかった。そうした経験の積
み重ねの上で、日本映画はアメリカ、ドイツ、フランス、イタリア、ソビエト、イギリスな
どの映画に較べて全体に格段に劣るのだという判断が日本人の常識になってい
た。」この引用を通して、とにかく国際化を促進する動機が存在したと推論してもい
いだろう。ですから続いて国際化の過程を二つの時期に分かれて、いくつかの作品
を紹介しながら国際化の歴史を述べてみたい。まず 1950 年代以前、つまり日本国
際映画誕生前、の発達を「国際映画誕生前の輸出作品」の文節に当たる。その後
の過程を「日本国際映画史」と言う課で述べる。
国際映画誕生前の輸出作品
国際的と考えられる日本映画がいくつかの形でありえるので、それぞれの種類に
分けておきたい。四方田氏が理想的と言っている「日本人の監督が日本の俳優だ
けを用いて、日本語によって日本で映画を撮影」した輸出作品で代表的である衣笠
貞之助監督の『十字路』は「ヨーロッパ中の劇状で公開され、高い評価を受けた。」8
この映画はドイツ首都のベルリン市に『Im Schatten des Yoshiwara』というタイトル
で公開された事は初めての生粋的な日本映画上映だった。それにもかかわらず衣
『 Im Schatten des Yoshiwara 』 ( 衣 笠 貞 之 助
1929、ベルリンでの公開にて)
笠貞之助監督の『狂った一頁』や例の『十字路』は 1920 年代のドイツ表現派の映画
に影響されたと言う9から生粋的な日本の作品で呼ばれるのも問題である。
8
まったく違う形で日本を話題した Fritz LANG 監督の『Harakiri』という映画は 1919
年 に 上 映 さ れ た 。 そ れ は LANG 氏 の 作 品 で "Eine unbedeutende
Gelegenheitsarbeit”
10
であって Lang 氏が 1913 年パリに住むようになる前に日本
を訪れた時の経験に基づいている。TÖTEBERG 氏曰く、「Harakiri, schloß sich an
den ersten Teil der Spinnen, Der goldene See an. Lil Dagover, die Lang als
『Harakiri』(Fritz Lang 1919、 ある光景の一部)
"geborene Salondame" schätzte, [...] spielte die Hauptrolle in der fernöstlichen
Liebestragödie frei nach "Madame Buttefly.」11この作品は日本のことを余りにも
想像的に描いた故、四方田氏の理想的な日本映画に反していると言ってもいいだ
ろう。
西洋に知られた日本出身の俳優が登場している。幾つかの外国作品には
早川雪洲
はやかわせっしゅう
,早川雪洲と言う俳優の活躍が代表的であるので彼の役割を紹
介したいと思います。「[…]一九一〇年代のアメリカに東洋趣味映画のブームがあ
り、またハリヴィドのあるカリフォニアが日本人移民の多い土地柄で、そのためハリ
『
戦場に書ける橋』
( David Lean 1957
)
ヴィドに野心的な若い日本人たちが受け容れられて[…]」 12いた当時、早川雪洲俳
優はその野性的な若い日本人の一人であった。「[…]セシル・B・デミル監督の『チー
ト』13(一九一五)で、歌舞伎に特有の無表情の演技を見せて、異彩を放った。それ
は
じょうぜつgeschwaetzig
,饒舌な身振りだけがいたずら横行する無声映画の中
で、神秘のアジア人という観念に見合っていたからであった。
日本人移民排斥の嵐が吹き暴れるアメリカで、危険な黒髪の美貌をもって白人
女性を暴力的に誘惑する雪洲の存在は独自のものであった。」14その映画で俳優と
して西洋映画業界で突破したこと以来早川氏は主にアメリカ映画に出演してきた 70
本余りの作品の内で一番知られている 1957 年の『戦場にかける橋』で準主役の日
『戦場に書ける橋』(ある光景の一部、右側、早川
氏)
本軍の斎藤大佐を演じた。
9
た。日本の風景や風俗を西洋に知らせたいと言う動機で伊丹万作監督はドイツの
アーノルド・ファンク博士と一緒にこの映画の脚本の制作に勤めていた。撮影する
内に。伊丹はジャポニスムに彩られた脚本を嫌って日本版を作った、結局二本のバ
ージョンが完成された。日本版の『新しき土』に対してファンク監督の『Die Tochter
des Samurai』について田中氏の意見を長く引用させていただく。
そして結局、アーノルド・ファンク版と伊丹万作版という二本の『新しき土』が完成した。どちらに
しろ日本人にとっては奇妙な映画であったが、見所はあった。純情可憐な二本娘の役に起用さ
れた新進の原節子が輝くばかりに美しかったことと、日本各地の山岳をモンタージュした山の
場面が、さすが山岳映画の名手だけあって見事に撮れていたことである。興行的にはヒットした
し、この映画がドイツで公開されることになって原節子がベルリンに向かって東京をした出発し
たとき、日本女性の美しさが今こそ西洋にも知れ渡るのだと歓喜した人々によって東京駅には
空前の見送りの人々は殺到した。
ドイツでもこの映画は大々的に公開された。後でアーノルド・ファンクが関係者に配った 100 ペ
ージほどの本『
さむらい
,武士の娘』(新しき土のドイツ版の題名である)には、この作品を絶賛する
新聞評が二〇〇余りも列挙されていた。しかし実は、ドイツ公文書館に保存されている当時の
ドイツ宣伝省の各報道機関への通達には次のように記されていた。
三月二十四日付 通達 映画『武士の娘』封切上映についての報道は、大々的に行うこと。加
えて、『武士の娘』試写会に置ける貴賓の様子についても報道すること。
政府の指示にもとづく賞讃だった。しかもそんな通達を出した宣伝省のトップのゲッペルス自身
は日記にこう書いていたのである。
今夕、独日合作映画『武士の娘』の初日へ。映画は映像的にすばらしく、日本生活や考
え方について良い印象を与え、筋書きも妥当である。しかし、やり切れぬほどに良い。これ
は大変なマイナスだ。ハサミがあれば大幅にカットしてやりたいと感じた。(ゲッペルスの日
記、1937 年 3 月 24 日)
なお、前述のファンクの本には、共同監督だった伊丹万作に、自分の作品のために不本意な
仕事を強いたことについてすまないと思っているという意味の文章があり、さらに底にはこうつ
け加えられていた。
私の心にあったのは、わが総統の希望と、その外交政策の遂行のため、最前線に置か
れているという意識でした。
この本をお読みいただければ、どれほど高度の政治的目標が、ここに達成されたが、理
解されることでしょう。わがドイツ国民に、共同戦前に加わった新たな友を理解し、認識し
てもらわねばならなかったのです。
10
原節子
日独合作の『新しき土』(1937)にも雪洲氏が原節子という女優と一緒に出演し
この重大な課題を負った私は、わが国政府の支援を受け、この課題をなし遂げるまで
国に帰るわけには行かなかったのです。
ドイツ政府にとっては、映画『新しき土』の製作は来るべき日本とドイツの同盟関係のための文
化的布石だった。
他方この映画は中国では、満州と思われる土地を日本の“新しき土”と称して中国侵略を正当
化しているという理由で、満州事変、上海事変以来、抗日意識の高まりで結集していた進歩派
はの映画人達の抗議行動を引き起こした。(田中純一郎、419頁)
「やり切れぬほど良い」とい言ってそれは果たしてどうしてゲッペルス宣伝省長に
大変なマイナスであろうか。当時、「武士の娘」はドイツの大都会の映画観に数週間
上映されていてアーノルド・ファンク氏が「Das Publikum geriet ganz aus dem
Häuschen」15と書くほどドイツ人に歓迎された映画になったがゲッペルス氏の批判
は主観的な原因に立てられているのだろう。ファンク氏は初演にてゲッペルス氏に
ついてこう述べた、
Nach der Vorstelung: [...]Oben am Tisch die Größen der Politik. Am einen Tischende
Goebbels – zu seiner Rechten der japanische Botschafter, Mushakôji, zur Linken saß ich.
[...]Mushakôji hielt in tadellosen Deutsch eine Ansprache: Danksagung an Minister
Goebbels für diesen deutschen Regisseur. Er sei anfangs sehr skeptisch gewesen, ob da
ein echt japanischer Film entstehen könne. Sei jetzt desto mehr überrascht, wie glänzend
es dem deutschen Regisseur gelungen sei, sich in die Seele eines den Europäern
fremden Volkes so tief einzufühlen. Er hoffe, daß das nur der Anfang gewesen sei zu
einer weiteren Co-Produktion.
Goebbels verzog dabei keine Miene. Nun hätte es die Höflichkeit end Etikette erfordert,
daß er bald darauf geantwortet hätte. Als nichts erfolgte, ließ Mushakôji ihn durch meinen
Freund Dr. Hack, der eng mit der japanischen Botschaft verbunden war, diskret anfragen,
wann er mit der Antwort rechnen könne. Aber Goebbels schlug ab, Mushakôji verließ
daraufhin die Feier. Gegen Taktlosigkeiten sind die Japaner sehr empfindlich.(FranckARNOLD in
SHIMIYU Yoichi S.66)
やはり、ゲッペルス氏はこの合作作品をそれほど尊重すべきと考えなかった。実
は 、 当 時 の 大 使 が 求 め て い る 日 独 協 力 は ド イ ツ 側 が 「 [...]behauptete
deutsch-japanische Schicksals- und Wertege-meinschaft wenig mehr als eine
『燃ゆる大空』(阿部豊監督 1941)
11
propagandistische Worthülse war」と FRANKE 氏が主張している。しかし、ゲッペル
ス氏は 1942 年『Nippons wilde Adler』16という宣伝戦争映画の初演にて大いにこ
の映画を絶賛した。この映画の上映自体はドイツで非常にいい評価されていた。実
は、安部豊監督の原作『燃ゆる大空』(1940)をナチイデォロギに応じてリメークした
Erwin Toku BAELZ17氏版の映画は典型的なナチ戦争映画と見られている。その映
画は日本を宣伝的な動機で描いたため、以前に紹介した映画とはまたずいぶん違
う形でヨーロッパの人々に受け容れられた。
ここの文節で挙げた例はただ一部的である。最後に指摘したいのは、19 世紀初
期にヨーロッパやアメリカから派遣された撮影隊が日本を訪れて当国の風俗などを
撮影してからフランスの記録映画『明治の日本』のような作品で西洋視聴者に提供
したという事もあった。
日本国際映画史
さて、日本国際映画の誕生時期に視点を移そう。50 年代はなぜ誕生時期であろ
うか。それはヨーロッパにおける国際映画祭にいくつかの邦画が短い期間の内で受
賞していたからである。Yahoo 百科事典にはこう書いてある。
12
『Nippons wilde Adler』(Erwin T. Baelz 1942)
『
西鶴一代女』
(
溝口建二監督
C’est à cette époque que le cinéma japonais, via Kurosawa et Mizoguchi, et grâce aux
festivals de Cannes, de Venise et de Berlin, accède à la reconnaissance internationale.
Mizoguchi réalise alors ses plus beaux films (La Vie d'O'Haru, femme galante, 1952; les
Contes de la lune vague après la pluie, 1953; l'Intendant Sansho, 1954), peintures sans
concession de l'enfer social, dans le monde féodal comme dans le monde contemporain,
victime. Pour sa part, Kurosawa surprend par la diversité de son inspiration et de son
style, passant de l'influence néoréaliste (Vivre, 1952) au film d'action (les Sept
Samouraïs, 1954), et adaptant les grands écrivains occidentaux (Shakespeare,
Dostoïevski).
(http://fr.encyclopedia.yahoo.com/articles/ma/ma_2843_p0.html)
) 『
七人の侍』黒(澤監督
1952
et dont la femme (interprétée par l'inoubliable Kinuyo Tanaka) est à la fois l'enjeu et la
1958)
その時期以来、邦画に対して急にヨーロッパからの需要を増やしたと言うことに
基づいている日本映画国際化の過程を誕生時期とそれ以来の発達に分けて、この
文節をさらに小分したい。
誕生時期
の目差しにされる事となった時代であった。」 18この時期の代表的な作品として3本
の映画を紹介したいと思っている。順番通りに挙げると、1951 年黒澤明監督『羅生
の名作が誕生時期として最も代表的と考えても良いだろう。
13
1954
門』、1952 年溝口建二監督『西鶴一代女』と 1954 年に衣笠貞之助監督『地獄門』
『
地獄門』衣(笠貞之助監督
誕生時期の「50 年代とは、日本映画が初めて本格的に海外、とりわけヨーロッパ
プリを受賞したのは、田中氏によると「日本人の殆ど誰もが全く予想もしていなかっ
ら西洋人のエキゾチスムを刺激したのだろう、と言ったり、“真実は分からない”とい
1951)
た意外なニュースだった。」19それに対して「疑い深い人たちは、これは時代劇だか
『
羅生門』黒(澤明監督
『羅生門』は 1951 年にイタリアのベニス市で催されている国際映画祭でグラン・
い関心の背景でよく分かることだが『羅生門』が呼び起こした日本映画の黄金時代
『
西鶴一代女』
(
溝口建二
で次々と名作が制作されたり国際映画祭にもよく受賞したりする内にこの疑問が消
)
1954
うテーマが、いまや虚無的になっている西洋人にアッピールしたのだろう、などと考
えたりした。」20このリアクションは 1950 年代以前の欧米が示した邦画に対しての低
えてきた。
した。『羅生門』に続いてその作品は「特に樹種津を狙った西洋人のためのエキゾ
チスム映画というわけではない。ただ、[...]芸術的な時代劇を[...]相次いで作る事が
会社の社長[大映の永田雅一社長]が意識するようになったからである事は間違い
ない。そして事実、溝口建二は、『西鶴一代女』につづいて『雨月物語』と『山椒大
夫』で三年連続してベニスで賞を獲得すると言う偉業をなしとげた。」21
『地獄門』(1954)は「明らかに国際的な賞をねらった企画であり、見事にその狙いが
的中したものだった。」22「[...]大映の永田雅一が国際映画祭を標的として、いかにも
「ガイジン」が興味を引きそうな主題と物語[...]」23である。衣笠貞之助監督がこの時
代劇でカンヌ国際映画祭のグラン・プリを得たことは、日本人として最初の受賞では
なかった。
14
1959)
黒澤監督と溝口監督の国際的な成功はむしろ偶然的なものだった事に対して
)
『
雨月物語』溝(口建二監督
1956
可能になったのは、それらが外国の映画祭で賞を貰いやすいジャンルであることを
『
山椒大夫』
(
溝口建二監督
翌 52 年ばかり、同じベニス国際映画祭で建二溝口監督の『西鶴一代女』が受賞
もう既に、1952 年カンヌで杉山公平氏と言うカメラマンが『源氏物語』の撮影で受
賞したし、衣笠氏の受賞以来『影武者』や『楢山節老』等など日本映画が受賞してい
た、即ち、50 年代となる黄金時代から日本映画が西洋に価値の高い映画として評
価を得ていたがそれは日本で制作されていた作品の一部に限られていた。時代劇
以外の日本映画の国際化は遅れていた。つまり、述べた国際映画の誕生時期が邦
画の一部にしか及ばなかった。どのような過程に従って邦画が全体として発達した
『楢山節郎』(ある光景の一部)
のかは次の文節に調べてみたい。
国際化の歩み
だがそれ以外の邦画の受容を追体験できる事はそれほど易意なことではない。主
(1983)
に受容の過程は三つの視点によって行ったと考えられる。第一に目立つ事はドイツ
『
影武者』
黒澤明監督
黄金時代は主に日本映画が国際映画祭で受賞した事実の元でよくはかれること
とフランスの映画年鑑24を見通した結果、国際映画祭で欧米に紹介された日本監督
されている。黒澤明監督の作品の受け入れはそのための典型的な例である。『羅
生門』(カンヌのグラン・プリ 1951)や『隠し砦の三悪人』(ベルリンのゴルデネル・ベ
めてヨーロッパの大都会で見る事ができた。今村昌平監督の『楢山節老』(カンヌの
グラン・プリ 1983)や『うなぎ』(カンヌのグラン・プリ 1998)も同様である。
楢山節老』
(
今村昌平監督)
1959) 『
ル 1959)や『影武者』(カンヌのグラン・プリ 1980)の受賞以来殆どうの黒澤映画はせ
『隠し砦の三悪人』黒(澤監督
が映画祭に出席してから、出品した競争映画を除いて、よく欧米に作品輸入を依頼
『
うなぎ』
(
今村昌平家督)
15
代劇を好んだ時期が遂に終わってきた。欧米が現代劇やアクション映画などの違っ
た日本映画ジャンルにも関心を示した結果、多種類ジャンルの公開がますます増
の條件』、小津安二郎監督の『 秋刀魚の味』(1962)、
てしがわら
ひろし
,勅使河原
,宏監督の
『砂の女』(1962)などはその初時期に当たる代表的な例である。そのとき以来、現
ほんだ
,本多
いのしろう
,猪西郎監督の『ゴジラ』やアクション系のような新型映画は
西洋によく売れた25。尚且つ、80 年代の日本アニメで有名な
おおとも
かつひろ
,大友
,克洋監
督の『アキラ』(1982)は一般的に日本の漫画分化界に対して西洋の興味を呼び起こ
)
『
アキラ』大(友克洋
1966
した結果今日まで漫画流行が続いている。
『
人間の条件』
(
小林正樹監督
1962)
代劇以外
)
『
砂の女』勅(使河原宏監督
1962
加をし始めた。その傾向は 60 年代初ぐらいに現れていて、小林正樹監督の『人間
『
秋刀魚の味』
(
小津監徳
第二に、日本映画受容のジャンルは 50 年代を多様化されていて、欧米は主に時
1966)
によって受け入れの過程はさらにはかりがたくなってきた。西洋に、映画館を除いて、テ
レビやビデオによって知られてきた日本映画は数多く存在している。一つの視点からこ
の問題を見て置きたい。テレビ番組として放送されている『パワー・レンジャー』或いはア
ニメの『アルプスの少女ハイジ』や『ポケモン』などが欧米の子供に人気でありながら日
本映画である事は意識されていない。しかも、無意識に自分の文化の作品であると錯
覚をしているかもしれない。錯覚していた視聴者の一人は私どもである。だからメディア
の進化と共に日本映画の受容の形も変わってきているといってもいいだろう。
16
『
アルプスの処女ハイディ』
『
パワー・
レンジャ』
『
ポケモン』
第三に、マスメディアの進化、つまりテレビ、ビデオ、ディギタルなどの新媒体の開発
›第三文
歴史的に日本映画の受容を述べてからここの第三項目で一方統計的に日本映
画の受容を述べてみたい。日本映画の受容によって影響はどういう風に見えるか
は他の意向である。
日本映画の影響
たい。黒澤明監督が描いている戦国時代で行った冒険はアメリカの西部劇の影響
を受けていた作品であるに反して欧米の監督たちにも影響を与えた作品である。
「特にアメリカ映画に多くの模倣者を生み出した。アメリカ映画を模範として日本映
画の伝統を大きく変化させた作品が、今度は元のアメリカ映画に影響を与えたので
ある。」26その模倣作品として代表的である John Sturges 監督の『The glorious
Seven』、そんなに知られていない Jimmy Murakami 監督『Sador‐Battle Beyond
the Stars』は両方黒澤監督が想像した話に基づいている。
七人の戦士が、悪人の群れに威嚇や恐喝されている貧しい人々を救うためにこ
の 泥 棒 の 群れ を 向 か い合 っ て 戦 う こ と に な ると 言 う 話 筋 に 従 っ て い る 。 『 The
glorious Seven 』 の 場 合 こ の 話 は ウ ェ ス タ ン と し て 枠 さ れ て い る こ と に 対 し て
『Sador』は SF ものになっている。
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『 The magnificent Seven
』 (John Sturges 1968)
『 Sador
』 (Jimmy Murakami1980)
ここでは一つの例として黒澤監督『七人の侍』がはたした国際的な役割を紹介し
映画の視聴率
ドイツ、1987 年度における日本映画輸
入率は右のグラフ27によって主に米国から
ドイツに於ける日本映画輸入率(1987)
の輸入に集中されています。というのもドイ
ツ国内で制作された作品の公開率はアメリ
その他
33%
日本
1%
カから輸入された映画より低かった。日本
から輸入された作品はまるで一㌫しかない
が隣国のフランスの率に較べてそれほど
米
62%
仏
4%
米
日本
仏
著しくないことだがグラフ 2 を見ると日本映
画の輸入率は表示されていないほど低い
0
200
国内撮影率
400
600
ドイツへの輸入率
ものです。
実は、1987 年度にドイツに輸入されていた四本の映画は 12 万 8700 人視聴者し
か呼び起こしていない。較べてみるとアメリカの映画は 180 万 7151 人を映画館
に足を運ばせた。
結局、ドイツへの日本映画輸入は日本国内の制作量に較べて非常に少ない
のでドイツでの受容は余りにも行っていなかったと言えるに違いない。むしろ、ド
イツはアメリカ映画に圧倒的な影響されている事は明らかに証明されている。
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★結論
日本映画の国際化と受容を顧みた結果、推論できる判断は日本映画は極めて
少量に限られている上、主に国際映画祭のお陰で西洋に知られて来た。国際化は
日本映画を幅の広い範疇として定めるとほぼ日本映画の起源以降働いているがそ
の国際化の影響、つまり輸出されてきた映画の受容はあまり意味ありげなものでは
ないと主張できる。最初に日本映画の国際化が重要になった事は誕生として表現し
た 50 年代である。その時期以来いくつかの映画が西洋に受容されてきたが他国の
映画輸出率と比較的に軽度な過程であろう。しかし、小さくてもこの過程にも変化が
現れてきた。最初に、日本映画の国際化は映画祭の働きに負うところが多かったが
マスメディアの発達によって視聴者に届ける作品は多様化された。つまり、映画祭
の働きを除いて違う法方で日本作品は西洋に受容できるようになった。この傾向は
今日、さらに強くなりつつありながら未来はどうなっているか皆で楽しんで見ましょ
う。
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š参考文献
参考文献に表示されている作品は日本映画に対して内容の面で適応と考える作品であるがこの論文にて全部を
利用されているわけではない。主に、四方田氏や田中氏や SHIMIYU 氏などの論文に基づいている上に、図の場合インタ
ーネトの提供に負うところが多かった。
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