【近代 5 主権国家体制の展開】 1.イギリス革命と議会政治の確立 2.フランスの絶対王政 3.プロイセン,オーストリア 4.ロシア・北欧諸国 1.イギリス革命と議会政治の確立 新興勢力と王権 A) テューダー朝ではジェントリらの支持を得て,安定した統治を実現。 B) エリザベス女王期にはジェントリらの地主勢力,新興産業が発展し商工業者らの市 民階級の伸張が見られる。とくにジェントリは議会で大勢力を形成…同時に国政へ の新たな要求へ。 C) ステュアート朝において,新興商人らは国王,貴族,特権商人と対立(国王や貴族は イギリス国教徒) ステュアート朝 A) ジェームズ 1 世…スコットランド王家よりイギリス王位を継承(1603~) の成立 ・王権神授説を唱え,従わない聖職者を追放。 ・ぜいたくな宮廷生活,対外戦争での出費を重税,大商人に特権を与え,不足を補 おうとする→議会と対立 ・国教を強制して清教徒(ピューリタン)を弾圧→ピルグリム・ファーザーズがメイ フラワー号で新大陸へ(1620) 議会と王権の対立 B) チャールズ 1 世 ①国教を強制,重税 →議会と対立。議会の対応…権利の請願(1628)…議会の同意 なしの課税や不当な逮捕をしないよう決議し,国王に提出 ②王は議会を解散(1629)…以後 11 年間閉鎖。貴族や大商人も離反,ピューリタンも 合流→反政府が主流になる。 ③王はスコットランド教会に対しても国教会の祈祷書と儀式を強制して絶対君主 としての地位強化をはかる→スコットランドに反乱が起こる。 ↓ 鎮圧するため戦費調達を行いたい。 ④議会を再び召集(1640)→しかし,議会は拒否したため解散させる(短期議会)。 戦 いに破れスコットランドに賠償を払うことに。その賠償金もまた特別に徴税しない とまかなえない。 ⑤同年再び召集(長期議会)するが,議会は国王を非難する決議 ピューリタン革命 A) 武力衝突へ…第一次内乱 議会派 VS 王党派 清教徒革命ともいう(1642~49) …王党軍が優勢→議会派のクロムウェルの鉄騎隊 が活躍→新模範軍として再編成→ネースビーの戦で王党軍に勝利(1645) ・議会派…産業資本化,ジェントリ,ヨーマン…清教徒中心 ロンドンなど東南部の 都市が地盤 ・王党派…封建貴族,特権商人,保守的な農民…国教徒中心 ヨークなど西北部の農 村が地盤 B) 議会派の分裂 ・長老派…近代的地主,大商人ら→立憲王政,長老制教会 ・独立派…産業資本家,ヨーマン→議会主権,清教徒主義 首領クロムウェル ・水平派…小農民,商人,職人ら→急進的な平等主義,共和制を主張 C) 第二次内乱…国王はスコットランドに逃亡して反撃→議会軍は再び国王を捕える。 ・クロムウェルは長老派を議会から追放し,残部議会を開く→国王を処刑し,共和政 を樹立(1649) クロムウェルの独 ・王党派や水平派の反乱を鎮圧 裁 ・議会を武力で解散→護国卿に就任 独裁,厳格な清教徒主義を実施 ・アイルランド・スコットランドを征服…王党派の拠点となったとしてアイルランドで 大規模な土地没収を強行→植民地化 ・国内産業保護と重商主義政策…航海法(1651) オランダ船のイギリス入港を禁止し,そ の中継貿易活動を排除。 これを機に第一次英蘭戦争始まる(1652~54)→勝利し,制海権握る 自由な経済発展を妨げる特権承認の独占権を廃止するなどして市民層の立場強める。 ・クロムウェルの独裁政治の不満→死後,息子のリチャードが就任するが混乱 王政復古 A) チャールズ 2 世即位…ステュアート朝が再開(1660) 絶対王政への復帰ではなく議会王政の復活を約束するが,次第に反動的な政治に移行 カトリック教徒を保護 ・議会の対応 審査法(1673) 官吏や議員は国教徒に限ることを定める 人身保護法(1679) 不当逮捕の禁止 1670’s 末 政党の形成 ・トーリー党…貴族,聖職者,地主ら 王権,国教会を支持 ・ウィッグ党…王権の制限,信仰の自由を主張 中産階級 次の王として王弟ジェームズを認めるか否か,というわけ方でもあった。 名誉革命 立憲君主政の確立 B) ジェームズ 2 世即位→カトリック保護政策,専制政治 ↓52 歳で男子ができる 議会は,排除の方針をひそかに検討。これを察した王は亡命 C) 議会 ジェームズ2 世の長女メアリ2 世と夫ウィリアム 3 世(オラニエ公ウィレム, オランダ人)を国王に迎える。 ・権利の宣言 (1688)…立法・行政・司法・課税すべてに議会の承認が必要だとす る内容。議会が決議し,新国王らが承認して即位→「権利の章典」として発布(1689) ↓ D) 議会主義へ…ウィリアム 3 世の頃 トーリー党,ウィッグ党の両党の代表者の内 閣。17C 末以降 多数党が組閣する政党政治が始まる。しかし,議会の議員の選 出方法に改革はないので,依然として貴族と大商人中心の構成であった。 ・アン女王治世中 イングランドとスコットランドの合併→大ブリテン王国(1707) …女王の死でステュアート朝断絶 A) ジョージ1世(ドイツのハノーヴァー家よりジェームズ 1 世のひ孫)を迎える ハノーヴァー朝始まる(1717)…1917 よりウインザー朝と呼称(ドイツと交戦し, 敵国の地名を嫌ったため) ・英語が話せない上,ドイツ滞在が多い国王。王にかわって行政を行う首相と内閣 の制度が生まれる ↓ 議会主権(立憲君主制)の確立 政党政治も定着し始める B) ウィッグ党のウォルポール内閣のもとで責任内閣制(内閣は王に対してではなく,議 会に対して責任を持つ)。 ・財政制度も整い,対外戦争遂行能力向上 ・ 「王は君臨すれども統治せず」の伝統が始まる…立憲君主政 2.フランスの絶対王政 ブ ル ボ ン 朝 A) アンリ 4 世 成立 ・ユグノー戦争(1562~98)の最中,ヴァロワ朝が倒れ, ・ナントの勅令(1598)…ユグノー戦争終わる 絶対王政の基礎…名門貴族をおさえ,下級貴族を登用し官僚制強化。 東インド会社設立(1604)まもなく経営不振。 ケベック植民地建設 B) ルイ 13 世 ・当初,幼少のため王権弱体(1610~43) ・宰相リシュリュー…王権の強化に努力。大貴族,ユグノーを弾圧。 三部会停止(1614 召集,15~解散停止) 三十年戦争に介入→ハプスブルク家の没落を図り,新教側に参加 絶 対 王 政 の A) ルイ 14 世(1643~1715) 確立 ① 即位 5 歳…母后が摂政,宰相マザランが実権 三十年戦争を有利に解決→アルザス地方獲得 フロンドの乱(封建貴族らの大反乱)を鎮圧→貴族は完全に無力化 ②親政開始 22 歳 1661~ 「朕は国家なり」 ボシュエを重用 王権神授説を唱えて,絶対君主の典型…しかし,貴族,都市自治体など の特権団体が依然大勢力で中央集権化のあゆみは緩やか ・官僚制整備 ・地方:長官を派遣。封建貴族はヴェルサイユ宮殿に移住 ・強力な常備軍…陸相ルーヴォアらのもと,ヨーロッパ最大の陸軍 ・重商主義政策…財務総監コルベール 特権マニュファクチュアの育成…優良な輸出品を作るため, 高級毛織物ゴブラン織りやガラ ス,兵器の工場を建てた。 東西インド会社の復興…ルイジアナ植民地 インド東部にポンディシェリ,シャンデルナゴル ・ヴェルサイユ宮殿を建造…宮廷生活の儀式化 衰退へ ①贅沢な生活での出費増大 ②ナントの勅令を廃止 (1685)…新教徒には商工業者が多く,亡命者を多数生み,フランスの 産業は打撃を受ける。 ③4 度の侵略戦争…自然国教説を唱えて行うが,国家財政破綻。 1667~68 南ネーデルラント継承戦争…失敗 1672~78 オランダ侵略戦争…一部獲得 1689~97 ファルツ戦争…失敗 (アウグスブルク同盟戦争) 1701~14 スペイン王位継承戦争 スペイン王 A) 経緯 位継承戦争 ・スペイン王位断絶(1700)→その後継として孫を王位につけようとしたが,フランスの 拡大に反対するオーストリア(ハプスブルク家),イギリス,オランダが対抗 B) ユトレヒト条約(1713)…ルイ 14 世の孫をスペイン王フェリペ5世として認めるが,スペ インとフランスの合併は永久禁止。 ・イギリス…ジブラルタル,ミノルカ島,新大陸の奴隷貿易権(スペインから)。ハドソン 湾,ニューファンドランドやアカディアなど現カナダの一部を獲得(フランスから) ・オーストリア…フランスとラシュタット条約(1714)…スペイン領ネーデルラント,ミ ラノ,ナポリ,サルデーニャ。 ※スペイン王位を得たが,海外領土の多くを失う ・最も利益を得たのはイギリス…領土拡大,奴隷貿易で莫大な利益をあげることになる。産業 革命のための資本となったと考えられる。 ・曾孫ルイ 15 世 外国貿易は急増したが,政治指導力は欠けていた。 3.プロイセン,オーストリア プロイセン ①ドイツには神聖ローマ帝国(オーストリアのハプスブルク家が支配)があったが,全くまと まらず,三十年戦争の後にはさらに 300 以上の領邦に分解。 ②三十年戦争後,プロイセンがフリードリヒ2世のもと台頭。 ③オーストリアはプロイセンとの 2 度の戦争に敗れ,絶対主義政策も不成功。 ・エルベ川以東の植民により開拓進む→ユンカー(土地貴族)の成長 1134~ ブランデンブルク辺境伯(エルベからオーデル川流域一帯) 1415 ホーエンツォレルン家がブランデンブルク選帝侯として支配 13C ドイツ騎士団領→1525 プロイセン公国(騎士団長が新教に改宗して) 1618 ブランデンブルク・プロイセン ↓ フリードリヒ・ヴィルヘルム フランス側に立って三十年戦争に参戦 東ポンメルンを獲得。プロイセンに対するポーランドの宗主権を破棄させた。 ユグノー亡命者を受け入れ,産業育成。 ドイツで第二の強国へ。 プロイセン公国(ホーエンツォレルン家) ↓スペイン王位継承戦争 オーストリア(ハプスブルク家)を支援し,王国へ昇格 プロイセン王国へ(1701~) プ ロ イ セ ン A) フリードリヒ 1 世 スペイン継承戦争に参戦 王国 オーストリア(ハプスブルク家=神聖ローマ皇帝家)を支援→王国に昇格(1701) B) フリードリヒ・ヴィルヘルム 1 世…官僚制度を整え,徴兵制で常備軍の育成=「兵隊王」 と呼ばれる…内政と軍隊の充実により列強におどりでる C) フリードリヒ 2 世(大王) (1740~86)…啓蒙専制君主(後進的な自国を近代化・強国化を目 指した,進歩的な専制君主)。 「君主は第一の僕」と述べて,行政改革や産業の保護軍備 強化に努める。例)租税収入から貴族勢力を排除 ・オーストリア継承戦争(1740~48)…アーヘンの和約(1748) シュレジエン(鉱工業がさ かん)を獲得 ・七年戦争(1756~63)…オーストリアとフランスの同盟(外交革命)で孤立→イギリスと 結んでオーストリアへ先制攻撃。一時苦境に陥り自殺を図るが,ロシア軍脱落により救 われ,逆転。フベルトゥスブルク条約でシュレジエンの領有確認 ・第 1 回ポーランド分割(1772)に参加 ※プロイセンの支持基盤:ユンカー オ ー ス ト リ A) 多民族国家を支配するハプスブルク家 ア ・ハプスブルク家は中世以来,婚姻政策によりオーストリア,ボヘミア,ハンガリー, ネーデルラント,ミラノ,ナポリを含めた多民族国家となる。また,神聖ローマ皇帝を 兼ねているが,ウェストファリア条約によりこの時代には名ばかりになっている。よっ て,オーストリアの君主として以前より内政への比重が高まる ・カール 6 世…スペイン継承戦争(1701~14)の後,スペイン領ネーデルラント(ベルギ ー)・ミラノ・サルディーニャを獲得。男子がなかったため,国事尚書を発布(1713)…女 子相続,領土不分割を決め,国内外に認めさせた。 B) マリア・テレジア…ハプスブルク家の全領土を相続して即位(1740) ・同時に→オーストリア継承戦争 ザクセン,バイエルンらの諸侯,スペイン王が彼 女の即位に異議を唱える。フランスが後おしし,便乗した形でプロイセンは承認の代償 にシュレジエンを要求して侵入(オーストリアはイギリスと結んで交戦)…夫フランツ 1 世の皇帝位が認められるが,アーヘンの和約でシュレジエンを失う。 ↓ 対プロイセンへの復讐を目指して,フランスと結ぶ=「外交革命」 軍・行政改革に着手…租税収入確保を各領邦議会に認めてもらう(領主の特権を認める こととひきかえに) ↓ ・七年戦争(1756~63) 墺・仏・露 VS 普・英 →しかし,ロシアの離脱,フラン スが海外植民地でイギリスに敗れて単独講和したことなどで,プロイセンへの復讐なら ず。 戦後,プロイセンのシュレジエン領有を確認 ・第 1 回ポーランド分割に参加(1772) C) ヨーゼフ 2 世…母・マリア・テレジアと共同統治(1765~) 啓蒙専制君主 プロイセンとの戦争にそなえ種々の改革,統制 宗教寛容令…非カトリック教徒にも信仰の自由を認める 農奴解放らの諸改革を行う ドイツ語をハンガリー人やチェコ人(ベーメン王国)に強制 統一的な行政区を作ろうとして領主の特権が残る県を廃止しようとする。 ↓画一的改革では広範な領域にそぐわない 保守派の反対や異民族の反乱。多民族,特権を守ろうとする貴族・地域社会の抵抗→改革 は挫折 啓 蒙 専 制 主 ・啓蒙思想の影響をうけながら,中央集権化・近代化を推し進める 18C の君主のスタイル。中・ 義 東欧に多くみられる。 ・一般に農民保護などの社会改革をめざす開明的な一面を持っていたが,他方では国内の経済 発展が未熟で貴族に対抗すべきブルジョワが弱かったため,自ら「上からの改革」に乗り出さ ざるをえなかった。 4.ロシア・北欧諸国 ロシア A) イヴァン4世(雷帝)…正式にツァーリの称号を使用,貴族を抑圧,専制政治の基礎をかため る 領土を南ロシアに広げ,シベリアの一部=コサックの首長イェルマークが占領。 死後,帝位をめぐる内紛→ミハイル・ロマノフ即位(1613) ロマノフ朝 絶対主義 B) ピョートル1世(1682~1725) ・ステンカ・ラージンの乱(1670)(ドン・コサックの首領) 鎮圧後に即位。 ・西欧諸国を訪ねて,技術や文化を学ぶ。 ・アムール川方面に進出…ネルチンスク条約(1689) 清と国境協定 ・オスマン帝国を圧迫→アゾフ海へ進出(1696) 苦戦から西欧化を決意。 ・皇帝権力を強めるため,軍備,官僚制の整備→ロシアを強国化 ・北方戦争(1700~21)…バルト海進出を図り,デンマーク,ポーランドと結んでスウェー デンと交戦。ポルタヴァの戦(1709)…カール12世軍を破る。ニスタット条約(1721) エス トニア,ラトビアらバルト海沿岸を獲得 戦争中,ペテルブルクに遷都(1712~) 「西方の窓」 現在のサンクト・ペテルブルク C) エカテリーナ 2 世(1762~96) オスマン帝国と戦い,ドニエプル川下流域,クリミア半 島ら黒海沿岸を併合 ・治世の初期,啓蒙専制君主として改革を試みるが→プガチョフの乱勃発(1773~75)ヴォ ルガ川流域の農奴,過酷な労働条件の改善を要求して立ち上がったウラル地方の鉱山・工 場労働者,コサックらが中心 →貴族と妥協し,鎮圧…農奴制強化(さらに,フランス革命を知り 反動化) 第 1 回ポーランド分割(1772) 第 2 回ポーランド分割(1793) コシューシコ率いる義勇軍の抵抗 第 3 回ポーランド分割(1795) ポーランド滅亡 ・アラスカ,千島占領 ラクスマンが松前に来航し通商を求める(1792) デンマー ・14C 末 カルマル同盟によりノルウェー,スウェーデンも支配 ク 三十年戦争でドイツの新教徒を支援 北方戦争ではロシア,ポーランドと同盟 スウェー ・カルマル同盟から独立(1523) バルト海を制する…バルト帝国を形成 デン グスタフ・アドルフ 三十年戦争に参戦(17C) カール 12 世 北方戦争でエストニア,ラトビアを失う(18C) ノルウェ ・スウェーデンと同君連合(1814) 1905 独立 ー ポーラン ・16C 後半ヤゲウォ朝断絶 ド 選挙侯制で国内の貴族間対立…隣接大国の干渉を招く 第一回分割の後,近代化を試みたが西欧諸国の関心がフランス革命に奪われ,2 回,3 回と 分割され消滅 ★ 【近代⑤ 主権国家体制の展開】 1.イギリス革命と議会政治の確立 2.フランスの絶対王政 3.プロイセン,オーストリア 4.ロシア・北欧諸国 1.イギリス革命と議会政治の確立 新興勢力と王権 A) テューダー朝ではジェントリらの支持を得て,安定した統治を実現。 B) エリザベス女王期にはジェントリらの地主勢力,新興産業が発展し商工業者らの市 民階級の伸張が見られる。とくにジェントリは議会で大勢力を形成…同時に国政へ の新たな要求へ。 C) ステュアート朝において,新興商人らは国王,貴族,特権商人と対立(国王や貴族は イギリス国教徒) A) ジェームズ 1 世…スコットランド王家よりイギリス王位を継承(1603~) [ ] 朝の成立 ・王権神授説を唱え,従わない聖職者を追放。 ・ぜいたくな宮廷生活,対外戦争での出費を重税,大商人に特権を与え,不足を補 おうとする→議会と対立 ・国教を強制して清教徒(ピューリタン)を弾圧→ピルグリム・ファーザーズがメイ フラワー号で新大陸へ(1620) 議会と王権の対立 B) チャールズ 1 世 ①国教を強制,重税 →議会と対立。議会の対応…[ ](1628)… 議会の同意なしの課税や不当な逮捕をしないよう決議し,国王に提出 ②王は議会を解散(1629)…以後 11 年間閉鎖。貴族や大商人も離反,ピューリタンも 合流→反政府が主流になる。 ③王はスコットランド教会に対しても国教会の祈祷書と儀式を強制して絶対君主 としての地位強化をはかる→スコットランドに反乱が起こる。 ↓ 鎮圧するため戦費調達を行いたい。 ④議会を再び召集(1640)→しかし,議会は拒否したため解散させる(短期議会)。 戦 いに破れスコットランドに賠償を払うことに。その賠償金もまた特別に徴税しない とまかなえない。 ⑤同年再び召集(長期議会)するが,議会は国王を非難する決議 [ ] ] C) 武力衝突へ…第一次内乱 議会派 VS[ 革命 清教徒革命ともいう(1642~49) …王党軍が優勢→議会派の[ ]の鉄 騎隊が活躍→新模範軍として再編成→ネースビーの戦で王党軍に勝利(1645) ・議会派…産業資本化,ジェントリ,ヨーマン…清教徒中心 ロンドンなど東南部の 都市が地盤 ・王党派…封建貴族,特権商人,保守的な農民…国教徒中心 ヨークなど西北部の農 村が地盤 D) 議会派の分裂 ・長老派…近代的地主,大商人ら→立憲王政,長老制教会 ・[ ]派…産業資本家,ヨーマン→議会主権,清教徒主義 首領クロムウ ェル ・水平派…小農民,商人,職人ら→急進的な平等主義,共和制を主張 E) 第二次内乱…国王はスコットランドに逃亡して反撃→議会軍は再び国王を捕える。 ・クロムウェルは長老派を議会から追放し,残部議会を開く→国王を処刑し, [ ]を樹立(1649) クロムウェルの独 ・王党派や水平派の反乱を鎮圧 裁 ・議会を武力で解散→[ ]に就任 独裁,厳格な清教徒主義を実施 ・アイルランド・スコットランドを征服…王党派の拠点となったとしてアイルランドで 大規模な土地没収を強行→植民地化 ・国内産業保護と重商主義政策…[ ]法(1651) オランダ船のイギリス入港を禁 止し,その中継貿易活動を排除。 これを機に第一次英蘭戦争始まる(1652~54)→勝利し,制海権握る 自由な経済発展を妨げる特権承認の独占権を廃止するなどして市民層の立場強める。 ・クロムウェルの独裁政治の不満→死後,息子のリチャードが就任するが混乱 A) チャールズ 2 世即位…ステュアート朝が再開(1660) 絶対王政への復帰ではなく議会王政の復活を約束するが,次第に反動的な政治に移行 カトリック教徒を保護 ・議会の対応 [ ]法(1673) 官吏や議員は国教徒に限ることを定める [ ]法(1679) 不当逮捕の禁止 王政復古 1670’s 末 政党の形成 ・トーリー党…貴族,聖職者,地主ら 王権,国教会を支持 ・ウィッグ党…王権の制限,信仰の自由を主張 中産階級 次の王として王弟ジェームズを認めるか否か,というわけ方でもあった。 [ ]革命 立憲君主政の確立 B) ジェームズ 2 世即位→カトリック保護政策,専制政治 ↓52 歳で男子ができる 議会は,排除の方針をひそかに検討。これを察した王は亡命 C) 議会 ジェームズ2 世の長女メアリ2 世と夫ウィリアム 3 世(オラニエ公ウィレム, オランダ人)を国王に迎える。 ・[ ] (1688)…立法・行政・司法・課税すべてに議会の承認が 必要だとする内容。議会が決議し,新国王らが承認して即位→「権利の章典」とし て発布(1689) ↓ D) 議会主義へ…ウィリアム 3 世の頃 トーリー党,ウィッグ党の両党の代表者の内 閣。17C 末以降 多数党が組閣する政党政治が始まる。しかし,議会の議員の選 出方法に改革はないので,依然として貴族と大商人中心の構成であった。 ・アン女王治世中 イングランドとスコットランドの合併→[ ]王国 (1707)…女王の死でステュアート朝断絶 E) ジョージ1世(ドイツのハノーヴァー家よりジェームズ 1 世のひ孫)を迎える [ ]朝始まる(1717)…1917 よりウインザー朝と呼称(ドイツと交 戦し,敵国の地名を嫌ったため) ・英語が話せない上,ドイツ滞在が多い国王。王にかわって行政を行う首相と内閣 の制度が生まれる ↓ 議会主権(立憲君主制)の確立 政党政治も定着し始める F) ウィッグ党の[ ]内閣のもとで[ ]制(内閣は王に対して ではなく,議会に対して責任を持つ)。 ・財政制度も整い,対外戦争遂行能力向上 ・ 「王は君臨すれども統治せず」の伝統が始まる…立憲君主政 2.フランスの絶対王政 [ ] A) アンリ 4 世 朝成立 ・ユグノー戦争(1562~98)の最中,ヴァロワ朝が倒れ, ・ナントの勅令(1598)…ユグノー戦争終わる 絶対王政の基礎…名門貴族をおさえ,下級貴族を登用し官僚制強化。 東インド会社設立(1604)まもなく経営不振。 ケベック植民地建設 B) ルイ 13 世 ・当初,幼少のため王権弱体(1610~43) ・宰相[ ]…王権の強化に努力。大貴族,ユグノーを弾圧。 三部会停止(1614 召集,15~解散停止) 三十年戦争に介入→ハプスブルク家の没落を図り,新教側に参加 絶 対 王 政 の B) ルイ 14 世(1643~1715) 確立 ①即位 5 歳…母后が摂政,宰相[ ]が実権 三十年戦争を有利に解決→アルザス地方獲得 フロンドの乱(封建貴族らの大反乱)を鎮圧→貴族は完全に無力化 ②親政開始 22 歳 1661~ 「朕は国家なり」 ボシュエを重用 王権神授説を唱えて,絶対君主の典型…しかし,貴族,都市自治体など の特権団体が依然大勢力で中央集権化のあゆみは緩やか ・官僚制整備 ・地方:長官を派遣。封建貴族はヴェルサイユ宮殿に移住 ・強力な常備軍…陸相ルーヴォアらのもと,ヨーロッパ最大の陸軍 ・重商主義政策…財務総監[ ] 特権マニュファクチュアの育成…優良な輸出品を作るため, 高級毛織物ゴブラン織りやガラ ス,兵器の工場を建てた。 東西インド会社の復興…ルイジアナ植民地 インド東部にポンディシェリ,シャンデルナゴル ・[ ]宮殿を建造…宮廷生活の儀式化 衰退へ ①贅沢な生活での出費増大 ②ナントの勅令を[ ] (1685)…新教徒には商工業者が多く,亡命者を多数生み,フラ ンスの産業は打撃を受ける。 ③4 度の侵略戦争…自然国教説を唱えて行うが,国家財政破綻。 1667~68 南ネーデルラント継承戦争…失敗 1672~78 オランダ侵略戦争…一部獲得 1689~97 ファルツ戦争…失敗 (アウグスブルク同盟戦争) 1701~14 [ ]戦争 スペイン王 C) 経緯 位継承戦争 ・スペイン王位断絶(1700)→その後継として孫を王位につけようとしたが,フランスの 拡大に反対するオーストリア(ハプスブルク家),イギリス,オランダが対抗 D) [ ]条約(1713)…ルイ 14 世の孫をスペイン王フェリペ5世として認めるが,ス ペインとフランスの合併は永久禁止。 ・イギリス…ジブラルタル,ミノルカ島,新大陸の奴隷貿易権(スペインから)。ハドソン 湾,ニューファンドランドやアカディアなど現カナダの一部を獲得(フランスから) ・オーストリア…フランスとラシュタット条約(1714)…スペイン領ネーデルラント,ミ ラノ,ナポリ,サルデーニャ。 ※スペイン王位を得たが,海外領土の多くを失う ・最も利益を得たのはイギリス…領土拡大,奴隷貿易で莫大な利益をあげることになる。産業 革命のための資本となったと考えられる。 ・曾孫ルイ 15 世 外国貿易は急増したが,政治指導力は欠けていた。 3.プロイセン,オーストリア プロイセン ①ドイツには神聖ローマ帝国(オーストリアのハプスブルク家が支配)があったが,全くまと まらず,三十年戦争の後にはさらに 300 以上の領邦に分解。 ②三十年戦争後,プロイセンがフリードリヒ2世のもと台頭。 ③オーストリアはプロイセンとの 2 度の戦争に敗れ,絶対主義政策も不成功。 ・エルベ川以東の植民により開拓進む→ユンカー(土地貴族)の成長 1134~ ブランデンブルク辺境伯(エルベからオーデル川流域一帯) 1415 ホーエンツォレルン家がブランデンブルク選帝侯として支配 13C ドイツ騎士団領→1525 プロイセン公国(騎士団長が新教に改宗して) 1618 ブランデンブルク・プロイセン ↓ フリードリヒ・ヴィルヘルム フランス側に立って三十年戦争に参戦 東ポンメルンを獲得。プロイセンに対するポーランドの宗主権を破棄させた。 ユグノー亡命者を受け入れ,産業育成。 ドイツで第二の強国へ。 プロイセン公国(ホーエンツォレルン家) ↓スペイン王位継承戦争 オーストリア(ハプスブルク家)を支援し,王国へ昇格 プロイセン王国へ(1701~) プ ロ イ セ ン A) フリードリヒ 1 世 スペイン継承戦争に参戦 王国 オーストリア(ハプスブルク家=神聖ローマ皇帝家)を支援→王国に昇格(1701) B) フリードリヒ・ヴィルヘルム 1 世…官僚制度を整え,徴兵制で常備軍の育成=「兵隊王」 と呼ばれる…内政と軍隊の充実により列強におどりでる C) [ ] (大王) (1740~86)…啓蒙専制君主(後進的な自国を近代化・強 国化を目指した,進歩的な専制君主)。 「君主は第一の僕」と述べて,行政改革や産業の 保護軍備強化に努める。例)租税収入から貴族勢力を排除 ・[ ]継承戦争(1740~48)…アーヘンの和約(1748) シュレジエン(鉱 工業がさかん)を獲得 ・[ ]戦争(1756~63)…オーストリアとフランスの同盟(外交革命)で孤立→イギ リスと結んでオーストリアへ先制攻撃。一時苦境に陥り自殺を図るが,ロシア軍脱落に より救われ,逆転。フベルトゥスブルク条約でシュレジエンの領有確認 ・第 1 回ポーランド分割(1772)に参加 ※プロイセンの支持基盤:[ ] オ ー ス ト リ A) 多民族国家を支配するハプスブルク家 ア ・ハプスブルク家は中世以来,婚姻政策によりオーストリア,ボヘミア,ハンガリー, ネーデルラント,ミラノ,ナポリを含めた多民族国家となる。また,神聖ローマ皇帝を 兼ねているが,ウェストファリア条約によりこの時代には名ばかりになっている。よっ て,オーストリアの君主として以前より内政への比重が高まる ・カール 6 世…スペイン継承戦争(1701~14)の後,スペイン領ネーデルラント(ベルギ ー)・ミラノ・サルディーニャを獲得。男子がなかったため,国事尚書を発布(1713)…女 子相続,領土不分割を決め,国内外に認めさせた。 B) [ ]…ハプスブルク家の全領土を相続して即位(1740) ・同時に→[ ]戦争 ザクセン,バイエルンらの諸侯,スペ イン王が彼女の即位に異議を唱える。フランスが後おしし,便乗した形でプロイセンは 承認の代償に[ ]を要求して侵入(オーストリアはイギリスと結んで交 戦)…夫フランツ 1 世の皇帝位が認められるが,アーヘンの和約でシュレジエンを失う。 ↓ 対プロイセンへの復讐を目指して,フランスと結ぶ=「外交革命」 軍・行政改革に着手…租税収入確保を各領邦議会に認めてもらう(領主の特権を認める こととひきかえに) ↓ ・[ ]戦争(1756~63) 墺・仏・露 VS 普・英 →しかし,ロシアの離 脱,フランスが海外植民地でイギリスに敗れて単独講和したことなどで,プロイセンへ の復讐ならず。 戦後,プロイセンのシュレジエン領有を確認 ・第 1 回ポーランド分割に参加(1772) C) ヨーゼフ 2 世…母・マリア・テレジアと共同統治(1765~) 啓蒙専制君主 プロイセンとの戦争にそなえ種々の改革,統制 宗教寛容令…非カトリック教徒にも信仰の自由を認める 農奴解放らの諸改革を行う ドイツ語をハンガリー人やチェコ人(ベーメン王国)に強制 統一的な行政区を作ろうとして領主の特権が残る県を廃止しようとする。 ↓画一的改革では広範な領域にそぐわない 保守派の反対や異民族の反乱。多民族,特権を守ろうとする貴族・地域社会の抵抗→改革 は挫折 啓 蒙 専 制 主 ・啓蒙思想の影響をうけながら,中央集権化・近代化を推し進める 18C の君主のスタイル。中・ 義 東欧に多くみられる。 ・一般に農民保護などの社会改革をめざす開明的な一面を持っていたが,他方では国内の経済 発展が未熟で貴族に対抗すべきブルジョワが弱かったため,自ら「上からの改革」に乗り出さ ざるをえなかった。 4.ロシア・北欧諸国 ロシア A) イヴァン4世(雷帝)…正式にツァーリの称号を使用,貴族を抑圧,専制政治の基礎をかため る 領土を南ロシアに広げ,シベリアの一部=コサックの首長イェルマークが占領。 死後,帝位をめぐる内紛→ミハイル・ロマノフ即位(1613) ロマノフ朝 絶対主義 B) [ ] (1682~1725) ・ステンカ・ラージンの乱(1670)(ドン・コサックの首領) 鎮圧後に即位。 ・西欧諸国を訪ねて,技術や文化を学ぶ。 ・アムール川方面に進出…[ ]条約(1689)清と国境協定 ・オスマン帝国を圧迫→アゾフ海へ進出(1696) 苦戦から西欧化を決意。 ・皇帝権力を強めるため,軍備,官僚制の整備→ロシアを強国化 ・[ ]戦争(1700~21)…バルト海進出を図り,デンマーク,ポーランドと結 んでスウェーデンと交戦。ポルタヴァの戦(1709)…カール12世軍を破る。ニスタット条約 (1721) エストニア,ラトビアらバルト海沿岸を獲得 戦争中,[ ]に遷都(1712~) 「西方の窓」 現在のサンクト・ペテル ブルク C) エカテリーナ 2 世(1762~96) オスマン帝国と戦い,ドニエプル川下流域,クリミア半 島ら[ ]沿岸を併合 ・治世の初期,啓蒙専制君主として改革を試みるが→[ ]の乱勃発(1773~75) ヴォルガ川流域の農奴,過酷な労働条件の改善を要求して立ち上がったウラル地方の鉱 山・工場労働者,コサックらが中心 →貴族と妥協し,鎮圧…農奴制強化(さらに,フランス革命を知り 反動化) 第 1 回ポーランド分割(1772) 第 2 回ポーランド分割(1793) コシューシコ率いる義勇軍の抵抗 第 3 回ポーランド分割(1795) ポーランド滅亡 ・アラスカ,千島占領 [ ]が松前に来航し通商を求める(1792) デンマー ・14C 末 カルマル同盟によりノルウェー,スウェーデンも支配 ク 三十年戦争でドイツの新教徒を支援 北方戦争ではロシア,ポーランドと同盟 スウェー ・カルマル同盟から独立(1523) バルト海を制する…バルト帝国を形成 デン グスタフ・アドルフ 三十年戦争に参戦(17C) カール 12 世 北方戦争でエストニア,ラトビアを失う(18C) ノルウェ ・スウェーデンと同君連合(1814) 1905 独立 ー ポーラン ・16C 後半ヤゲウォ朝断絶 ド 選挙侯制で国内の貴族間対立…隣接大国の干渉を招く 第一回分割の後,近代化を試みたが西欧諸国の関心がフランス革命に奪われ,2 回,3 回と 分割され消滅 ★
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