ヨーロッパの貴族 ハプスブルク家の歴史がわかる本

ヨーロッパの貴族
ハプスブルク家の歴史がわかる本
ヨーロッパといえば貴族。イメージはやはりベルサイユのバラ?ではあのマリーアントワ
ネットはどこから嫁いできたのでしょう?
じつはオーストリアのハプスブルク家。
このハプスブルク家が長きにわたり神聖ローマ帝国の皇帝の座を守り続けた家系。
この神聖ローマ帝国という言葉。
あのイタリアのローマ帝国と何か関係があるのでしょうか??
あるのだとしたらどのように関係しているのでしょうか?
ヨーロッパ全土を統治していた神聖ローマ帝国とは?
どのように広がったのか?
でわ、神聖ローマ帝国の土台となるドイツのお話からはじめましょう。
ライン川の東、ドナウ川の北に広がる御日のドイツ国にあたるいったいは、歴史が始まる
以前から深い森に覆われていました。
そこにはまずネアンデルタール人が住み着き、やがてケルト人がやってきます。
そして最終的な覇者となったのは、ゲルマン諸民族の人々でした。
彼らは古代ローマ人の侵入にも勇敢に抵抗し、ローマ人からは蛮族と呼ばれながらも、森
の中で民族の伝説を紡ぎ上げていったのです。
この抵抗がのちの紀元後5世紀のローマ帝国東西分裂を引き起こし、さらに西ローマ帝国
滅亡へと導き、そして”ゲルマン民族の大移動”が始まるのです。
彼らこそが今日のドイツ人の先祖であり、その中で傑出したのがフランク族であり、それ
を率いるのがカール大帝でありました。
カール大帝は今のイタリア、フランス、ドイツにまたがるフランク王国のカロリング朝の
ピピン3世の長男として742年に誕生しました。
そもそも大帝の”大”という文字は195センチ近い慎重を誇った王の体系のおおきさに
よるものだったのですが、その後の業績によって、政治的にも文化的にも歴史上の大帝と
いうにふさわしい存在にのし上がっていきました。
彼hあ768年、父のしにともなって王位を継ぎ774年には北イタリアに勢力を張って
いたランゴバルド王国を併合するまでに成長します。
さらに東方にたいしてはザクセン族を攻め、エルベ河畔(今のマイセン、ドレスデン周
辺)にまで版図を広げます。
またイベリア半島にも遠征し、スペイン辺境領を形成します。
全ヨーロッパにまたがる領土を背景にカール大帝は教皇領(法王領)をローマ強行に寄進
し、教会の支持を取り付け、800年に西ローマ皇帝を名乗るに至るのです。
かくて、フランク王国の王は(のちのドイツ国王)ドイツの王でありながら西ローマの王
ともなるのでした。
このときローマ教皇(法王)レオ3世はカール大帝をローマ郊外のノメンターナ橋まで出
迎えるという礼を尽くしているのです。
476年に滅亡した西ローマ帝国の再興をはたしたカール大帝は世俗の権威とともに、教
会の権威もこのとき手に入れ、文字通りの大帝となったのです。
カール大帝は戴冠後は現在のドイツのアーヘンに朝廷を構え、もはやどっしりと腰を落ち
着け動きません。
この調停のもとで、カロリング/ルネッサンスと呼ばれる文化が栄え、古代ローマ帝国が
耐えて以来、暗黒、と呼ばれた中世(
)ヨーロッパに、古典復興(ルネッサンス)と芸術の信仰によって光をもたらしたのが、
カール大帝なのです。
例えば、現在使われているローマ字書体は、カロリング朝の小文字体を母体にした物であ
ります。
フランク王国は他のゲルマン緒族を服属させることに努力しましたが、彼らの多くはまだ
異教徒だったので軍事行動を平行してキリスト教に改宗させるという制作をも押し進めて
いました。
かくして、フランク王国がドイツの中部から東部にかけて次々に築いていった前進基地に
も新たに司教座(キリスト教支部のようなもの)がおかれてキリスト教化の拠点となって
いくのでした。
今のドイツ周辺は地方の軍事、行政、徴税、裁判などを国王にかわって処理させるため、
グラーフ(伯爵)を置いて統治させましたが、地方によっては司教や大司教にその権力を
ゆだねました。
のちにこの地方のグラーフや司教、大司教がほとんど国王の支配を受けない独立国のよう
な諸侯になっていきました。こうしてドイツでは他のヨーロッパのの諸国に礼を見ない司
教国や大司教国が成立していったのです。
マインツ、ケルン(大聖堂や、下記の写真のコロンで有名)、トーリアの三大司教国、バ
ンベルク(薫製ビールで有名)などの司教国、オーストリアのザルツブルク(映画、ミュ
ージカル、サウンドオブユージック、モーツァルトで有名)大司教国などがそうです。
司教や大司教といえばキリスト教の高僧のはずなのに、大きな領土と領民の上に君臨し、
城塞や豪華な宮殿をいくつももっていたのはこれが理由となるのでした。
カール大帝の死後、その帝国は東西フランク王国に分裂。そして東フランクはドイツ王国
となり、962年に戴冠したオットー1世はカール大帝を模範とあおぎ、ドイツ王にして、
西ローマ王(皇帝)となるのでした。
このように神聖ローマ帝国、もともとそれは古代ローマ帝国の復活を夢見たフランク王国
(今日のドイツ、フランスの全身)のカール大帝が西暦800年ローマ法王から帝冠をう
けたのがその始まりとされます。そして支配者を神聖ローマ皇帝、その国を神聖ローマ帝
国と呼ぶようになったのでした。
そして帝国の紋章はもちろんハプスブルク家の由来であるハピツ(鷹)となるのでした
神聖ローマ皇帝はドイツの王でありながら、イタリア半島もローマ王としてしはいしなく
てはならず、歴代皇帝はなにかにつけてドイツを放り出してアルプスの南に遠征をよぎな
くさせるのでした。
それゆえに、皇帝の国内政策は高位聖職者に様々な特権を与え、国内支配の手足とすると
いう物だったのです。これは帝国教会政策と呼ばれ、教会の聖職者を皇帝が任命し、国家
管理のための官僚\に仕立て上げた訳です。
もちろんそのため、教皇(法王)との意見相違も絶えず、よってカノッサの屈辱のような
事件がおきるのでした。
教皇が皇帝を破門すると脅し、皇帝が許しをこうために北イタリアのカノッサ城で三日
三晩雪の中をはだしですごし教皇の許しを得た、、、
またのちに黄金文書(金印勅書とも)が発行され、それによりドイツの7人の有力諸侯が
皇帝を選挙で選出するという選定侯制度が生まれ、それによってドイツ国王が選出される
こととなりました。そのあと国王はさらにローマ法王から帝冠を受けることによて神聖ロ
ーマ皇帝の地に着くのでした。
マルヒフェルトの決戦
さて隣国のオーストリア。
今日のオーストリア一帯はもともとはハプスブルク家のものではなくて、辺境伯バーベン
ベルク家の所領でした。
ドナウ河周辺に数多くの修道院をたてたのも、ウィーンに城壁をめぐらせて都の発展の基
礎をきずいたのも、バーベンベルクでありました。
ところが1246年、同家に跡継ぎがとだえると、隣国のボヘミア(今のチェコ)王オッ
トカル2世がウィーンに攻め入ってきたのです
しかし、そのとき神聖ローマ帝国は大空位時代だったのです。自分たちの地位を確保しよ
うと考えだした、選定侯たちの浅はかな考えのため、操りやすい皇帝を選ぶのに時間を要
していたのでした。
そんな時に白羽の矢があたったのが、そう、スイスの片田舎の小貴族ハプスブルク家のル
ドルフだったのでした。
ドイツ、ライン川上流、スイスのバーゼルからさらに上ること数十キロ、二つの支流の合
流地点の近くに、プルックという小さな町があります。この町の郊外の山の上に1020
年に築かれた、ハビヒツブルク(鷹の城)という城があります。その名はやがて、ハプス
ブルク、となります。そう、皆様一度は聞いたことのあるあの貴族ハプスブルク家の起源
は実はスイスなのです。
1278年、8月26日、両勢力がウィーン北東のマルヒフェルトで激突。そしてこのル
ドルフがなんと勝利を収めたのでした。
操りやすい皇帝を!と探し出したルドルフが思いもよらぬ頭角を現したのでした。
このマルヒフェルトの決戦の日こそ、ハプスブルク王朝の歴史のはじまりであり、この日
はまた1918年まで640年つづくハプスブルク帝国の幕開けでもあったのです。
しかしルドルフの死後、オットカルを破った実力者として頭角をあらわしたハプスブルク
家は選定侯から嫌厭され、ルドルフ以後およそ150年間、ハプスブルク家が王冠を手に
することはなかったのでした。
オーストリアよ、結婚せよ
しかし1440年、ふたたびハプスブルク家に家運が巡ってきます。
この年ドイツ王に選ばれたフリードリヒ5世はさらに52年ローマに赴き戴冠式をあげま
す。こうしてハプスブルク家は1806年ナポレオンによって神聖ローマ帝国が廃絶され
るまでほぼ一貫して神聖ローマ帝国の地位を引き継ぐことになるのです。
フリードリヒ3世はこのローマへの度でまたとない幸運をつかみます。
美しいポルトガルの王女エレオノーレと華燭の式を挙げたのでした。しかも彼女は膨大な
持参金と年金をおちぶれはてていたハプスブルク家にもタラsに多野でした。
そこれ彼は戦わずして王家を発展させる独特の術を心得たのです。
そう、結婚政策です。1477年、彼は息子のマクシミリアンをブルグント(今のベル儀
ーやフランスブルゴーニュなどを含む)公国の公女マリアと結婚させました。
そしてこの結婚政策はさらにマクシミリアンに引き継がれるのです。
戦いは他のもに似させるがより。
何時幸あるオーストリアよ。結婚せよ。
マルス(軍神)が他のも二に与えしくにはビーナス(愛の女神)によりて授けられん。
AEIOV
フリードリヒ3世は自分の墓碑や居城などに、この謎めいた5文字を刻み込ませました。
オーストリアは滅びず、を意味するラテン文字のかしら文字だとか、その解釈を巡っては
300以上の見解があるといいます
ブルグント公国のマリアを娶ったマクシミリアン。父の戦死で公国を相続していたマリア
をつうじて、ハプスブルク家はブルグントを手に入れるのです。
ブルグント公国はブリュッセルを見や今年、今日のフランスのブルゴーニュからベルギー、
ルクセンブルク(小さな国で、免税の国)、オランダにまで広がっていた国です。当時の
ヨーロッパでは最大の富を集め、最も豊かな文化を誇っていた国でした。
そこにはまだハプスブルク家には足下にも及ばぬ華やかな宮廷、騎士文化がありました。
ブルグントの獲得はたんに所領の買う大と乙咩をもたらしただけではなく、ハプスブルク
家はそれによって、欧州で最も香り高い文化の息吹に触れることになったのです。
マクシミリアンはのちにオーストリア、西のインスブルックに居城を構えます。そう、年
に冬期オリンピックが行われたあのインスブルック。そして今では世界中で人気のクリス
タルアクセ背サリー、スワロフスキーの本社のあるインスブルック、そして黄金の小屋根
で有名なインスブルック。
実はブルグントを手にしたことにより、かねてよりブルグントいったいの土地を狙ってい
たフランスを的にまわさなくてはいけなくなったのです
そこで、ローマ時代いらいドイツからイタリアへ抜ける溶炉に位置していたこのインスブ
ルックは通商のみならず、せんりゃくてきにも重要な土地であったのです。
このマクシミリアンのもとでインスブルックは大変栄えました。そして彼はこのチロル地
方の豊かな銀や銅の採掘権を符号のフッガー家に与え、見返りに巨額の財政支援を与えた
のです。チロルはまた岩塩の山地でもありました。彼は塩への課税を行って、国の貴重な
財源としたのです。
このフッガー家に関しては、ぜひ
聞き流しながら歴史が頭に入る本/古代から近代への世界の歴史がわかる本
をご覧ください。実はヨーロッパの歴史、そしてキリスト教の歴史に大変かかわり合いの
多い一族なのです。
日没なき世界帝国
結婚政略で成功したマクシミリアン、次は息子と娘をスペイン王家と結ばせ、さらに孫と
孫娘をボヘミア、ハンガリーお置けと縁組みさせたのです。そして全く偶然にも相手の王
家に世継ぎがとだえたことから、ハプスブルク家は両王家の王冠を手にし、その所領を獲
得することになったのです。
要約すると、ハプスブルク家はフリードリヒ3世とマクシミリアン1世の2世代にわたる
結婚政策を通じて、5組の王家間結婚を成立させ、ブルグント、スペイン、ボヘミア、ハ
ンガリーを獲得したのです。
当時スペインは 大西洋の彼方の新大陸から極東のフィリピンまでを支配する植民帝国と
して躍進中であったので、この結婚政策の結果、ハプスブルク家は文字通り、日没亡き世
界帝国の支配者となったのです。そしてその主人公がカール5世、スペインカトリックの
両王、イザベラとフェルナンドの娘、精神に以上をきたしていた狂女ファナの息子なので
す。
この狂女ファナについてはぜひ
スペインの歴史
をご覧ください。
戦いに明け暮れたカール5世
カール5セインお帝国は欧州の覇者フランスを脅かすことになりました。
フランスとの敵対関係はハプスブルク家がブルグントをりょうゆうしていらいはじまって
いましたが、さらにカールはフランスと激突するのです。
ですがカールは1525年イタリアのパヴィアの戦いでフランスのヴァロア家のフランソ
ワ1世を下します。
このフランソワ1世。彼はイタリアのあのレオナルドダヴィンチをフランスに呼び寄せ、
そしてダヴィンチがフランスで彼の将来を終える所以となる王です。
フランス、 城などでご覧いただける火吹きとかげ。ブルーシャトー
ハプスブルク家の兄妹かをおそれたローマ法王がフランソワを支持すると、カールの要エ
イは北イタリアに侵入し、1527年、ローマに攻め入ります。史上ローマの略奪として
知られるこの事件で永遠の都ローマは廃墟と化したのでした。
一方でカール5世は神聖ローマこうていとして地上のみならず精神の世界でも再興の権威
者でありまshた。したかってカールの知性かで勢いをえつつあった宗教改革は彼に対する
許しがたい挑戦であったのです。
ここでルターの宗教改革を簡単にご説明
詳しくは、古代から近代への、、、、でご覧いただけます。
16世紀、このローマ教会がサンピエトロ大聖堂(今のバチカンの中心地にある世界最大
の教会)を改築しようとしました。しかし資金不足だったのです。
そこで、今のオーストリア、チロル地方の大富豪フッガー家より借金をしました。あのサ
ウンドオブミュージックとモーツァルトの出身地として有名なザルツブルクと、チロル地
方で塩を採掘し富を得た一族です。ところが借金返済に困窮したカトリック教会、なんと
そこで免罪符を販売したのです
皆のもの、天国に昇るために自分の罪を正したい者はこの免罪符を購入するべ
し、、、
この考えに真っ向から反対したのがそう、今のドイツ、ドレスデンにて修道士をしており
ました、マルチンルター
ちょっとまったーーーーそれはおかしいだろーーー
と始まったのがそう、16世紀の宗教改革。
この宗教改革のあと、このルターの考えをもとにしたものがプロテスタントと呼ばれるよ
うになるのです。
このルターと真っ向から戦ったのが、そうカール5世なのです。
1555年今のドイツ、ロマンチック街道にあるアウグスブルクにてかわされたアウグス
ブルクの宗教和議で、彼は信仰の自由を認めざるおえなくなるのでした。
カーrはルターとの戦いには破れたのでした。
大国をおさめるべく戦いに多忙な一章を送ったカール。
50歳代半ばで引退をするのですが、のちにこのように
ルターとその信奉者の異端や、一部のキリスト教諸侯の権力要求には手を焼いたが、私は
自らをまもるためどんなくろうもいとわなかった。このため私はドイツへ9回、スペイン
へ6回、イタリアへ7回出陣したここブリュッセルへも10回きた。フランスへは4回、
イギリスへは2回、そしてアフリカへは2回、全部で40回も度をしたことになる、、、
と
カールはマドリード西方のサンユステ修道院脇に隠れ屋をたて、そこに引きこもりました。
そして退位から2年後の1558年、カールは愛する亡き妻イザベラの命日ミサにでたあ
と、不調を訴え、床につきました。そして翌月58年の生涯を閉じたのでした。
スペイン系ハプスブルク家とオー
ストリア系ハプスブルク家
日没亡き世界帝国は結局のところ半世紀も続かなかったのです。
引退したカール5世の異にしたがって、ハプスブルク家は彼の息子フェリーペ(フィリッ
プ)2世のスペイン系と、カールの弟フェルディナンと1世のオーストリア毛糸に分かれ
たのです。
これによりハプスブルク帝国も二分されました。
フェリーペはスペイン、ネーデルランド(今のオランダ、ベルギー、ルクセンブルク)イ
タリア半島、および海外植民地を、他方、フェルディナンとはオーストリア、ボヘミア、
ハンガリーをそれぞれ継承しました。
そして神聖ローマ皇帝の帝冠はフェルディナントが手にしたのです。
オーストリア系に帝位がわたったとはいえ、カール以後、さしずめ家運にめぐまれたのは
スペイン系でした。スペインはフェリーペ2世のもとで史上最盛期を迎えるのです。
1571年、レパントの戦いでトルコ海軍に壊滅的打撃を与えます。
さらに1580年ポルトガルの王位も継承し、広大な海外植民地を含むポルトガル領を併
合。
波に乗るフェリーペ2世。しかし彼の犯した間違い、それは父親カール5世よりもさらに
徹底したカトリック擁護策、要するに新教弾圧だったのです。
ネーデルランド(今のオランダ)は貿易で栄え、自由の気風に富み、多くのカルヴァン派
新教徒がおりました。しかしそこで、厳しい異端審問が開かれ、生き埋めや火あぶりの計
が日常的に行われていたのです。そして民衆はついに立ち上がり、1581年、圧政に対
して独立を宣言するのでした。それはまた史上初の人権宣言でもあったのです。
このネーデルランドの背後には協力な支持者がひかえておりました。同じく新教の国イギ
リス。フェリーペはこのイギリスの王女メアリ1世を妃に向かえ、この熱心なカトリック
信者のメアリと結ぶことにより、イギリスの新教を撲滅することを狙っていたのです。
しかしメアリが他界、するとなんと彼は妹のエリザベス1世に求婚。しかしエリザベス1
世はこれを拒絶、さらに国内のカトリック復活運動を封じたのでした。そう、このエリザ
ベス一世がかの有名な一生独身を通した女王、エリザベス。近年の映画、ブーリン家の姉
妹のエリザベス。
こうしてカトリックのスペインと、新教のイギリスとの関係は険悪化。1588年、フェ
リーペの無敵艦隊はイギリス海軍に大敗、制海権をイギリスに奪われ、そしてネーデルラ
ンドは独立、スペインの没落が始まるのでした。
しかし衰退に向かったとはいえ、スペインの文化の田ではフェリーベ2世、3世、4世に
いたる3フェリーベの時代(1556〜165)に黄金の世紀を迎えます。
セルバンテスはドンキホーテを書き
ベラスケス、エルグレコは名画を後世に残すのでした。
フェリーペ2世が21年の歳月をかけてたてた壮大なエルエスコリアル宮はまさに黄金の
世紀の象徴。この時代に、日本人
スペイン語は世界ごとなり、今でも公用語としてはなされる言葉としては世界で一番
オーストリア系ハプスブルク家
さてもう一方のオーストリア系は、ハプスブルク家世襲領のオーストリアの他、ボヘミア
(今のチェコ、そう、ボヘミアングラスは今でもチェコの名産)とハンガリーを領有する
こととなります。この五まもなくスペイン系が消滅すると、ハプスブルク家はひとりオー
ストリア系がそのにないてとなり、オーストリア、ボヘミア、ハンガリーを核に他民族ド
ナウ帝国として発展していくのです。
しかしそれとともにハプスブルク家は新たな試練にたたされることになります。新旧両教
の対立に単を発する30年戦争とオスマントルコによるウィーン包囲でした。
ここでボヘミア王国について
ボヘミア王国はマルヒフェルトの戦いで(ハププスブルク家が歴史に現れたとき)神聖ロ
ーマ帝国に破れ、その基に屈っしましたが、その後ルクセンブルク家(今の免税国ルクセ
ンブルク)のボヘミア王カレル1世のもとで、黄金時代を迎えました。彼の時代1348
年には首都プラハに、中欧では初の大学が開かれました。
彼はまた1355年カレル4世として神聖ローマ帝国の帝冠を手にしました。
プラハの町中にあるかの有名なカレル橋
15世紀に入ってボヘミアではプラハ大学学長のヤンフスによる宗教改革運動が始まりま
す(注意、ルターの宗教改革は1517年、よってそれよりもかなり前)フスは1415
年ローマ法王から異端者とされ、火あぶりの刑に処せられますがフス運動は広がる一方。
1419年、多数の市民がプラハ市庁舎におしかえけ、カトリックの市長らを窓から投げ
出すという事件が起きるのです。そしてこの戦争後ボヘミアからはカレル時代の栄光は失
われていきました。
一方ハンガリーは9世紀にアジア系のマジャール人によって建国。14世紀ののラヨシュ
1世時代には北はバルト海、東は黒海、西はアドリア海にいたる広大な地域を制覇してお
りました。しかもハンガリーはボヘミアとひちがって、神聖ローマ帝国には属さない独立
の王国だったのです。
しかし王の死後、オスマントルコがこの国を脅かし始めます。
1453年、コンスタンティノープル陥落(古代から近代への世界の歴史がわかる本を参
照)もって全バルカンをその範疇におさめたあと、オスマントルコの次の目標はハンガリ
ーだったのです。ハンガリー王は当時、ボヘミア王もかねていたのですが1526年、モ
ハーチの戦いでハンガリーは大敗。美しい町は跡形もなく破壊されるのです。
これゆえ、ハンガリーの人々はトルコを未だに毛嫌いする人がいるのです。
この戦いでハンガリー王(ボヘミア王)が落命したため両国の王冠がハプスブルク家にわ
たるのです。
しかし引き継いだとはいうものの、事実
上大部分がトルコの支配下のままだったのです。
ルターの宗教改革、アウグスブルクの宗教和議が開かれ、結論として諸侯に信仰の自由が
みとめらたのですが、その後スペイン系はハプスブルク家はさらに徹底した異端弾圧政策
によってカトリックを擁護(それゆえに滅びる)これに対してオーストリア系はきわめて
寛容な態度をとったのでした。
カール5世の退位によって跡を継いだフェルディナント、その息子マクシミリアン2世は
もしろプロテスタントに近かったのです。
彼の後を次いだルドルフ2世はマドリードで教育をうけたのですが、彼はウィーンからプ
ラハに都を遷し、プラハに都を移し、挙げ句の果てはプラハ城に逃避して、練金術や占星
術や美術品収集に没頭するという奇人でありました。
プラハ上の奇人
野心家の弟マティアスはプラハに軍を進めて。兄からボヘミア王位を奪います。
こうした混乱の中で、帝国内における新旧両教の対立は悪化。
1618年、プラハのプラハ城で二人の皇帝代官らが窓から放り投げられるという事件が
起きたのです。
200年前のフス戦争のときなさながらに、この事件を発端としてボヘミアから30年戦
争が始まったのです。
当初のうちは神聖ローマ帝国内の宗教戦争であった30年戦争。しかしフランスのブルボ
ン家はハプスブルク家から欧州政治の主導権をうばうことに全力を傾けており、このフラ
ンスがこの限定的な戦争をエスカレートさせて、スウェーデン、スペイン欧州諸国を介入
させ、紛争は国際的な規模へと拡大し長期化してゆくのでした。しかものちに宗教戦争で
はなく、利害が優先する露骨な政治戦争へとかわってゆきます。。
30年にわたった戦いの結果、ことに主戦場となったドイツとボヘミアは荒廃しました。
1618年から48年まで続いた30年戦争を通じて、戦況は一貫してフランスの思惑通
りに進みました。おわってみれば、ハプスブルク家派の力はめっきりと弱まり、それに対
して、フランスは中央集権的な絶対君主国としての地位を確実なものとするのでした。
悲惨だったのはドイツ。戦場となった地域では人口の30%からひどいところでは90%
を失うという惨禍にみまわれたのです。この戦争を通じて全ドイツの人口は3分の2に減
少し、国土はあれはてました。この戦争で利を得たフランスにくらべて、ドイツは200
円の遅れを取ったといわれております。
1648年、ヴェストファリア条約によって集結。この条約に関わった国は総計66カ国
に及んだそうです。ドイツとボヘミアで始まった戦争が、結果これほどまでに国際的な戦
争へと発展していたのでした。
この条約によりアウグスブルクの宗教和議が再確認され、これまで除外されていたカルヴ
ァン派を含む新旧両教の信仰の自由がみとめられたのです。
しかし\この条約のもっとも重要な結果はこれによって神聖ローマ帝国が有名無実化した
ことです。
帝国内の諸侯には完全な信仰の自由が保障され、また諸外国と自由に条約を結ぶことがで
きるようになり、神聖ローマ帝国を世襲してきたハプスブルク家の帝国での権力はいちじ
るしくよわめられ、まったく形式的または礼儀的なものになったのでした。
オスマントルコのウィーン包囲
いったん災難さってまた災難、
ハプスブルク家はまもなく新たな脅威に直面させられます。オスマントルコによるウィー
ン第2次攻撃です。
ウィーンはこれより前1539年にもトルコ軍によって包囲されています。当時バルカン
全土を制圧し、その矛先をWウィーンに向けてきたトルコ軍。ですが、早い冬の到来と補
給難から攻略は失敗。
それからおよそ150年がたちました。イスタンブールを首都とし、アジア、アフリカ、
ヨーロッパ三大大陸にまたがるこの大帝国もスレイマンのもとで最盛期を過ぎ、衰退の兆
しが見え始めていました。オスマントルコは再度ウィーンに挑戦することによって勢力奪
回を企てたのです。かれらにとってもまさに国運をかけた戦いでした。
1683年9月、20万を超える大軍に包囲されたウィーン。皇帝レオポルト1世(マリ
アテレジアの祖父)は宮廷とともにウィーンからパッサウに退散。
トルコ軍の砲撃は日増しに強まり、食料は底をつき、市民は恐怖におののきはじめました。
ウィーンのシンボル、シュテファン大寺院目がけてトルコ軍が砲弾を撃ち込んできます。
攻防戦にあたっているのは4000人の男達だけでした。
この陥落寸前の都に救援にかけつけたのが、ボーランド王ソビエスキの指揮するキリスト
教連合軍でした。7万の連合軍はウィーンの森を駆け下りてトルコ軍を攻撃したのです。
ウィーンはかろうじて異教徒の攻撃から救われたのでした。
余談ながら、このトルコ軍によるウィーン包囲戦以来、有名なコーヒー伝説が語りつがれ
てきました。
もともとウィーンはコーヒーなる物を知らなかったのですが、トルコ軍撤退のあと、大量
の緑色の豆が残されていたのです。人々は、らくだのえさ、と思っていたのですがトルコ
語をはなすために、トルコ軍とオーストリア軍の間を行き来していた男が。それがトルコ
人の賞味するコーヒーであることを知っていたのです。トルコ軍撤退の後、彼はこの、ら
くだのえさ、をもらいうけ、コーヒー店を開いて大当たりしたとか。これがウィーン名物
のカフェの由来だとか。
もうひとつ。クロワッサン。
三日月の形をしたこのパン。
実は、トルコの国旗にある月の形をまねて作られた物なのです。
このウィーン包囲時、市内のパン屋の男が、この三日月の形のパンを作り、市民に配り、
オスマントルコなどに負けてたまるか!!!
と皆でこのパンをかじりとり、戦意をかき立てていたとか。
それから時はたち、このウィーン生まれのクロワッサンをフランスに持ち込んだのが、そ
う、ハプスブルク家出身のマリーアントワネット。そして今ではこのクロワッサンはフラ
ンス発祥のものだという考えが定着している所以なのでした。
さて、このトルコ包囲で活躍した人物が一人
オイゲン公。彼はフランス貴族に生まれ軍人を志したのですが、ルイ14世に冷遇され、
20歳の時からオーストリアのレオポルト1世(マリアテレジアの祖父)に仕えていた人
です。皮肉なことにブルボンと嫌厭の中のハプスブルク家に仕えるのでした。対トルコ戦
ではウィーン攻防でかつやくしたあと、ハンガリーからトルコ軍を駆逐したのでした。
軍事と政治の天才オイゲン公は、また芸術を深く愛したのです。ウィーンのベルヴェデー
レ宮殿。オーストリア、ウィーンを訪れたことのある方は必ず立ち寄る有名な宮殿。この
キュデンは彼の命により1723年に完成した世界で最も美しいバロック建築の一つに数
えられているのです。
オーストリアバロック
ベルヴェデーレ宮殿に限らず、この時代ハプスブルク帝国では、バロック形式の建築と彫
刻、絵画が一世を風靡していました。カール教会、シェーンぶるん宮殿、メルク修道院、
などその代表的な物であります。バロックは今日もオーストリアのみならず、チェコ、ハ
ンガリーなど旧帝国領各地に貴重な遺産を残しております。
豪華な小食、あふれんばかりの躍動感、光り輝く大理石の彫刻、花や貝殻、渦巻き模様の
彫刻、壁画には巨大な鏡。シャンで利あ。テラスの外には幾何学的に整えられた美しい庭
園。
バロックとはポルトガル語で、形の崩れた真珠、を意味するバロッコに由来します。バロ
ックはもともと反宗教改革の時代精神を表現する建築様式としてカトリックのイタリアで
生まれたのです。
バロックは建築や回が彫刻のみならず、文学、音楽にいたるあらゆる芸術分野に広がった
のです。ことにバロック音楽は、オーストリアが音楽のメッカとしての地位を築く上で少
なからぬ役割を果たしたのでした。
バロック芸術の開花はハプスブルク家がパトロンとしてまた愛好者としてsの発展を支え
たばかりでなく、王家自身がその才能に恵まれた皇帝を輩出したのです。
それらの皇帝とは、30年戦争末期に帝位についたフェルディナント3世からレオポルト
1世、ヨーゼフ1世、カール6世と続く4代の皇帝なのでした。
彼らのもと、ハイドン、もーてゃると、ベートーベンなどが活躍するのでした。
スペイン継承戦争
スペインの無敵艦隊の破壊以来、国力は下降の一途をたどっていたスペイン系ハプスブル
ク家。1700年、生涯虚弱体質で子孫が生まれることを望めなかったカルロス2世の死
去によって後継者が絶え、彼の遺言によってフランスブルボンけのルイ14世の孫がフェ
リーペ5世として即位すると、翌年スペイン継承戦争が勃発したのです。
カルロス2世の姉がフランスブルボン家、
朕は国家なり!
とかの有名な名言を残したルイ14世に嫁いでいたことにより、このブルボン家がかかわ
ってくるのでした。
この紛争もまた、主役はブルボンとハプスブルクの歴史的ライバルであり、ハプスブルク
のレオポルト1世は末息子のカール6世(マリアテレジアの父)を世継ぎにたてて戦うの
でした。双方とも、新大陸にまでおよぶ広大なスペイン領の獲得を狙っていたのです。
ハプスブルクは海上植民勢力のイギリス、オランダと結び、紛争は欧州全体を巻き込む戦
争へと発展します。12年にわたった戦争の結果、ユトレヒト条約(オランダのユトレヒ
トといえば、今日本でも大人気のウサギのちゃんのうまれたところ。またオルガンの発祥
地)によってブルボン家のフェリーペの王位が継承されたのでした。
マリアテレジアの時代
最盛期のオーストリアバロックの象徴でもあったカール6世は、深刻な問題をかかえてい
たのでした。彼には、長女マリアテレジアのほか一人の娘がいたのですが、男子の世継ぎ
には恵まれなかったのです。
カールは1713年、国事詔書、を発布し女系にも想像券を拡大することを明らかにした
のでした。しかし、バイエルン(今のミュンヘン周辺)プロイセン、ザクセンのドイツ諸
侯国はこれを認めなかったのです。1740年カール6世が死去。マリアテレジアが23
歳でハプスブルク家を相続、彼女はその4年前にロートリンゲン、トスカーナ大公のフラ
ンツシュテファンとけっこんしていました。
当然のことながら、マリアテレジアの相続に反対する背力が集結。ハプスブルク家の歴史
的なライバルであるフランスはバイエルン、プロイセン、ザクセンと語らい、ハプスブル
ク帝国の分割を画策するのでした。
プロイセン王国、フリードリヒ大王
プロイセン王国は骸骨化した神聖ローマ帝国の外側にあり、ドイツ国内の領邦国家と違っ
て、最初から独立した主権国家としてスタートを切ったのです。その前進は12世紀から
14世紀にかけて、エルベ川の東へ植民したドイツ騎士団が開拓した土地でした。いって
みれば辺境中の辺境といったやせた土地だったのです。
2代目のプロイセン王フリードリヒヴィルヘルム1世。
この王様はやたらに背の高い兵隊を集めるのが好きで、兵隊王、と呼ばれるほどの王。し
かしこの王の基でプロイセンは軍隊を持つこっかではなくて、国家を持った軍隊だといわ
れるような軍事立国の基礎が固められたのです。
この軍隊を率いて、無謀とも思えるような戦争を仕掛けたのが3代目のプロイセン王フリ
ードリヒ2世。フリードリヒ大王の’呼び名で知られるこの王はケも雨滴絶対君主として
名高く、音楽を自ら作曲し、宮廷にヴォルテールを招き、華やかなサロンをポツダムのサ
ンスーシー宮殿に現出させたため、平和的なイメージが強いのですが、実は勇猛果敢な兵
士でもあるのです。
オーストリア継承戦争では神聖ローマ帝国に戦いを挑み、ポーランドの一部シュレーゲン
を獲得します。
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