横浜市立大学エクステンション講座 エピソードで綴るパリとフランスの歴史 第9回(7/9) 仏独関係 — 永遠の犬猿関係 — 序章 1 ヨーロッパ史におけるダイナミズム 分裂のヨーロッパ 16世紀まで中進国にすぎなかったヨーロッパが究極的に優位に立つ理由は、 そこにある種の持続的なダイナミズム(政治的、経済的・文化的)が存在した ことと無関係ではない。歴史的ヨーロッパは地理的・社会機構的・文化的特性、 諸事件の偶発性が絡みながらできあがったものである。 (1) 政治的分裂 ヨ-ロッパは有史以来、今日に至るまで政治的につねに分裂している。全土 を支配する強大帝国は一度として生まれなかった。一部地域の支配にしてもロ ーマ帝国、シャルルマーニュ帝国、キエフ帝国のような大国はむしろ例外の部 類に属する。 (2) 地理的特性 ヨ-ロッパの政治地図はいつの世もパッチ・ワーク状態であるが、そうした 政治的分裂はその地理的特性に負うところが大きい。 ①南北端に偏り、東西方向に走る山脈 ↓ ・気候の多様性(西岸海洋性気候と大陸性気候) ・ 南北に流れる河川 ・ 異民族の侵略を受けにくい ②3方が海(バルト海、北海=大西洋、地中海)に囲まれている半島 ↓ どの国にも海洋発展の可能性があり、これは覇権国家の出現を抑制 ③平原多しといえど、けっこう起伏はある ↓ 難攻不落の自然の要塞……・ナポレオン一世の挫折 ・第一次大戦におけるヴェルダンの惨劇 ・ヒトラーの蹉跌 91 ④土質はどこも肥沃とは限らない(石灰質) ↓ 多数の人口を扶養できない(← 麦科植物をめぐる人間と家畜の争い) 地形と気候の多様性は生産物の多様性につながり、ここでは昔から地域間交 易が盛んだった。木材・穀物・ワイン・羊毛・海産物・鉱石など、粗生産物や 嵩ばる重量商品が交易の対象になってきた。 地形と気候の多様性 ↓ 水上交通(海と河川) ↓ 1. 造船技術の持続的改良と船乗りの養成 2. 経済の国際分業を必至とする 3. 国際規模の信用と保険が利用された 2 ヨーロッパの「3権分立」 (1) 聖・政・経分離 政治の中心、経済の中心、精神の中心は重ならないことが多く、自然に聖・ 政・経の分離が形成された。これは権力関係のみならず、場所的な中心の分散 にもつながった。 ○政治(国王・諸侯) VS 経済(都市商人) VS 精神(教会) ○ローマ教皇 VS 国王 VS 領邦君主 ○都市商人はこれらの対抗関係を巧みに利用 ある者が経済活動を統制下におこうとすると、つねに他から牽制する者が現 われ、この努力が究極的に無効になる。亡命はヨ-ロッパに特有の現象(アジ アでは存在しない)。 ○ユダヤ商人、フランドル新教徒、ユグノー ○経済統制や宗教統制はある程度行われたが、温情主義でないと金の卵を 失う結果になる。統制の強化は、カスティーリャCastilla帝国とブルボ ンBourbon王朝が凋落した原因の一つとなった。 宗教界の影響も低下する一方だった。1494年のTordesillas 条約[教皇の仲 裁による西・葡分界協定]はすべての国がこれを遵守する の は不 可 能 だっ た 。 ○教会の教義的硬直化と聖職者階級の世俗化はプロテスタントを生む ○16世紀中に信仰熱は後退し、フランスは宿敵=神聖ローマ帝国と戦うの に 、異教徒 オスマン =トル コと の同盟さ え厭わな かった( キャピテ ュ ラ シオンCapitulation)。 92 「合従連衡」はヨ-ロッパの伝統的政治原理である。ヨ-ロッパで覇権国が 成立しなかったのは、いずれの勢力も似たような条件下で新技術を取得するこ とができたから、ある国や地域による技術独占は不可能であった。技術は人と ともに移動。海軍国は陸軍において劣り、…。 3 文化的イデオロギー面での弾力性 (1) 科学技術の不断の発展 軍事技術・兵器の不断の改良は全体としての技術の発展・集積の結果であり、 それを推進した不断の科学発展を見逃すべきではない。 もともと技術の面で受身であったヨ-ロッパが、なぜ、新技術の供給者にな りえたのだろうか? ○カトリック教義(Catholicism)は必ずしも反科学主義ではない! カトリック教義…①アニミズム(Animism)信仰(=自然神信仰)を打破 ②自然法思想と合理主義を胚胎 ○宗教改革以降は聖・俗分離が進み、科学発展を抑制する力が弱い。 ○競争原理がカトリック教義の迷妄を無効とした。即ち、ルネサンスと宗 教改革が合理主義を育くんだ。 (2) 技術面における奨励 ○技術の連鎖的発達 ○銃の発達 → 外科医学の発達 ○ ブリ オ ニ ズム → ボー リ ン グ技 術 → 石 炭 採 掘 → 排 水 ポン プ と 運搬 用レール → 蒸気鉄道 ○印刷技術 → 知識の普及 → 俗人の文人階級の出現(特権階級による知 識独占を打破) 4 社会的流動性 (1) 身分秩序の弾力性 ヨーロッパのダイナミズムの根源は社会的流動性にある。出世と没落がかな り容易であって、身分秩序の垣根が低く、それゆえ、能力さえあればだれにで も栄達の機会が開かれていた。 ○「国王と羊飼いは死の前に平等なり」という諺 ○ヨーロッパの「3権分立」が身分制度の桎梏を弱める方向に作用する ・大商人の貴族化 ・商人出身の教皇 93 ・貴族の零落 ・貴族とブルジョアの通婚 ○知的専門職(profession)の地位(法律家、大学教授、医師、公証人) (2) 文化革命・市民革命・産業革命 文化(宗教)・政治・経済面の諸革命は既存の身分秩序を転覆した。 ○発生の順序つまり宗教革命 → 市民革命 → 産業革命の順に注目せよ ・宗教革命……新旧教会分裂、理神論、無神論、俗界の自立 ・市民革命……新興階級、中央集権国家、ナショナリズム ・産業革命……新興階級、農業・工業・商業が揃って変革を経験 第1章 第1節 独仏対立の起源 「独」「仏」「教皇」三巴の争い ヨーロッパ史は英仏対立を中心に考えられがちであるが、ヨーロッパなるも のが成立して以後の1300年という長いスパンで考えるとき、むしろ独・仏対立 を中心に考察するほうが理解しやすい。英仏対立を軸に歴史を見るという視点 は17~19世紀には妥当するが、中世にまで溯ると、必ずしも妥当するとはいえ ない。理由は以下の4つ。 ① 英の封建制成立は遅く、ノルマン人侵入(11世紀後半)以降 ② 英は中世の全体を通して小国(人口少・原材料産出国)である ③ 英の外交指針は終始、消極的(自国利害第一、大陸で覇権国出現阻 ④ 英仏摩擦は17・18世紀に集中(1670年代~1815年の150 年間) ヨーロッパは誕生以来20世紀まで独・仏・教皇の三巴の争いを軸として歴史 を刻む。 ○フランク王国の正統継承国としての東フランク → 神聖ローマ帝国 ・「神聖」は皇帝就任式における教皇による聖油の塗布に由来 ○フランク王国の傍系としての西フランク → カペー朝フランス王国 ○神聖ローマ帝国の支援を受けて信徒を獲得してきたカトリック教会 独・仏・教皇の少なくとも2つ以上が関わる戦争は枚挙に暇なく、言わ ば 、 この3勢力はヨーロッパの平和を乱す元凶だった。しかも、これらの勢力は抗 争を通して力を減退させるどころか、近隣諸国を併合することでますます力を 強めてきた。そのうち教会勢力は15世紀半ばあたりから徐々に力を殺ぎ取られ 94 ていく。宗教改革でカトリックの対抗勢力=プロテスタントを生みだしたこと もその一例であるが、教会弱体化の要因としてはヨーロッパ各地で教会領が成 長過程にある絶対主義王権によって簒奪されたことのほうが大きい。カトリッ ク教会を精神界に君臨する権力とみる見方はいかにも狭すぎる。 第2節 自然国境 独・仏が隣接しあうという地理的関係は紛争多発の要因の一つで、独仏に限 らず、ヨーロッパで隣りあう国どうしで紛争を経験しない国は皆無である。 ロシア vs ポーランド オランダ vs ベルギー ロシア vs オスマン=トルコ イタリア vs オーストリア ロシア vs スウェーデン イタリア諸都市間紛争 ロシア vs ブルガリア オーストリア vs チェコ ブルガリア vs ルーマニア オーストリア vs ハンガリー デ ン マ ー ク vs ス ウ ェ ー デ ン オ ー ス ト リ ア vs オ ス マ ン =ト ル コ デンマーク vs ブランデンブルク=プロイセン 1 バルカン諸国間紛争 フランスの安定性の基礎 フランスの早期の中央集権化、これと対照的にドイツのこの面での遅延と不 安定さは自然的条件に起因する。 ○フランスは3つの海、3つの山塊、1河川(ライン)で囲まれた六角形 ○この六角形は非常に安定している(ライン川の境界だけが不安定) ○中核パリ盆地は豊穣地で、ケスタ地形により天然の難攻不落の要害に その観点から望ましい国家の形状というのは、領土がコンパクトであり、中 央に中核をもつ円形、あるいは、それに近い多角形である。フランスとルーマ ニアが他のどの国よりも、この理想形に近い。反対の例はノルウェーやチェコ スロバキアのように細長い国である。じっさい、チェコスロバキアはついに分 裂してしまった。 フランスはケスタで取り囲まれたパリ盆地を中核とし、ピレネー、アルプス、 ジュラ、ヴォージュ、アルデンヌといった山地を防衛の外壁としており、国防 上においてすばらしく恵まれた自然的条件を備えていた。 国家統合のうえで経済的意味での自然的条件も重要である。砂漠や凍土に覆 われた地域では住民は生活することはできない。この点、フランスは恵まれた 土壌をもち、3つの海に開かれ、諸外国と交易を営め、大きな人口を養うこと ができた。近代以前には大きな人口というのは国防上欠か せ ない 要 素 であ る 。 95 2 ドイツの2つの中核 ドイツの自然的条件はヨーロッパで最悪というわけではないにしても、フラ ンスと比較すると恵まれていない。ドイツには南方を除けば、外壁に相当する 部分がない。 ○バルト海、アルプス山脈を自然障壁とし、東西に開放部をもつ ○ドイツ内の地形は多くの盆地・峡谷・丘陵が複雑に入り組む構造 ○北ドイツ平原とライン川上流地域は肥沃なレス土壌で穀物栽培に適す ドイツが東西に開放部をもっていたことは国家発展のうえで有利である反 面、防衛上は不利だった。有利な面というのは、ドイツ人が開拓団を構成し進 出する際の自然的条件となった。実際、ドイツの膨張はブランデンブルク辺境 伯のドイツ開拓団(東方騎士団)によってなし遂げられた。バルト海沿岸が穀 物栽培に適したことも有利に作用した。不利な面とは、ここが異民族の通り道 となり、たびたび侵入の脅威に晒されたことである。 ドイツ地政学上の不利さがフランスに有利に働いたことを忘れてはならな い。つまり、ドイツの東方辺境地帯(スラヴ人居住地)と東南方の辺境地帯(ハ ンガリー人居住地)があるおかげで、フランスは外敵と戦う必要がなく、いわ ば、ドイツによって守られていたのだ。この辺境地帯の近代版が緩衝国である。 ヨーロッパの多数の小国の存在理由はこのような緩衝機能にある。独仏間の緩 衝国ルクセンブルクは他の状況下では存在できたとは思われない。同じことは ベルギーとスイスについても当てはまるだろう。 ドイツの故地(ラインラント)が絶えず分裂を繰り返し、中核的機能を喪失 していったのに対し、ドイツの2つの突出部が強力な軍事力でもってドイツ統 合の担い手となった。これら2つの中核は、中世コスモポリタン的世界では問 題にならなかったが、18世紀以降のナショナリズムの嵐にぶつかると、民族統 一運動の主導権争いで衝突することを宿命づけられていた。 ○ブランデンブルク=プロイセン……積極的移民策(同国人・外国人 の 別 を問わず) ○オーストリア……ハプスブルク家の巧妙な指導(婚姻政策) ドイツの2つの突出部は強大化すればするほど、それらの支配下におかれた 異民族の反発エネルギーは膨れあがる。かくて、1945年のナチス=ドイツの大 敗北をもって逆襲が始まる。 ○第一次ゲルマン民族移動時の最多集団フランク族でさえ僅か15万 ○1945年には1,500万のドイツ人が土地・財産を奪われ追放された 第3節 シャルルマーニュの帝冠 96 後述するように、フランスとドイツは文化的に何もかも対照的なのだが、両 国は同じ根から出発していることを忘れてはならない。すなわち、両国の建国 はフランク王国の東西分裂に起源を発し、仏独両国のライバル関係はそのとき 以来のものである。 フランスの語源はゲルマンに1部族フランクFrankに由来。フランス人のほ とんどは土着のラテン系部族ガリア人から成るが、フランスという国名を彼ら の征服民族ゲルマンから継承する。そして、カロリング朝フランクを建国した シャルルマーニュ(カール大帝)をフランスの建国の祖とみる。 ○ガリアに定着したゲルマン人はフランク、ブルグンド、西ゴート ○フランス人はローマ文化の継承を誇り、ゲルマンを未開人と見なす ○フランス人はローマのガリア征服に激しく抵抗したヴェルサンジェト リクスVercingétorix とカミュロジェーヌCamulogèneを英雄視する ○フランス人は封建制の起源を古代ローマの親分子分関係に求める ゲルマン民族の大半は現在のドイツの地に定住。それらはフランク族、ザク セン族、バイエルン族、シュヴァーベン(アラマン)族、テューリンゲン 族 、 フリーゼン族(ゲルマン6部族)である。それらが現在のドイツの各州の基礎 となった。フランク族が最大勢力で、これがゲルマン諸族を服従させるかたち でフランク王国を築いた。ドイツ人は以下を主張する。 ○自らをゲルマン諸族の後裔と見なす ○ローマ化の程度が地域によって異なることは承認 ○封建制はゲルマンの遺制(従士制度)であると主張 シャルルマーニュ(カール大帝)が西ローマ帝国の皇帝に就任した意義は以 下の4点に要約できる。 ① ローマ帝国の再建 ・ラテン語(文法と修辞)…蛮族から離脱したことの証明 ・ローマ法…ローマ帝国のキリスト教的・普遍的原理を継承し、これ を皇帝権の基礎にすえる ②教皇と皇帝の依存・対立関係の始まり 古代ローマは皇帝教皇主義の立場をとったが、西ローマ帝国は微妙 ② 帝権の継承は世襲ではなく選挙制に依存 ③ ヨ ーロッパ の独立… 教会とい う有力な 保護者を 得て、西 ヨーロッ パが 東ヨーロッパ(東ローマ帝国)から独立を開始 第4節 1 独仏の生地の差 地域差の根源 97 ヨーロッパの成立は古ゲルマン文化(封建制)、ローマ文化、キリスト教と いう3要素の融合をもって始まり、これを最初に実現したのがシャルルマーニ ュだといわれるが、この融合度合いには地域的に濃淡差がある。そうした差が あらわれるのに、もともとの生地の差がからんでいる。 エマニュエル・トッドの大著『新ヨーロッパ大全』(Ⅰ・Ⅱ巻、藤原書 店 、 1992年)は歴史界に衝撃を与えた。彼は、①家族世帯の同居か別居か、②相続 をめぐる兄弟間の平等か不平等かという2本の軸を使って4類型を想定し、こ のなかにローマ化の程度が見られるという。 ①家族世帯の同居・別居……親子関係が自由主義的であるか、権威主義的で あるか? ②兄弟が財産相続で平等・不平等……兄弟関係が平等であるか、不平等であ るか? ○4類型……絶対核家族…平等主義家族(仏) 直系家族(独)…共同体 家族 ○4類型とキリスト教のカトリック、プロテスタントへの分裂とのあいだ にも関連がある 2 封建制の諸問題 封建制には集権的機能と分権的機能といった、相反する機能をもつ。封建制 の成立は異民族侵入による世相の不安に発する。弱者は有力者に身を寄せ(主 従関係)、集団で防衛しようとしたのが封建制の始まりであり、両者を媒介し たのが土地と勤務(兵役)である。平和の到来とともに、主従関係の紐帯は緩 む。これが封建的割拠である。 ○封建制は1世代終身を原則とし、主従の死去ごとに契約をやり直す ○横の連鎖がなく縦の連鎖のみで、しかも一つおきの縦連鎖に弱点がある ……諺にいう「私の家臣の家臣は私の家臣ではない The vassal of my vassal is not my vassal」 ○フランク中核部が分解したのに、異民族侵入の続く辺境部は分解せず フランスの辺境部でも独立化の傾向は生じたが、にもかかわらず、完全な封 建的分解はフランスでは出現せず。それはなぜなのか? ① 古代ローマの属領としてガリアの歴史……言語と法律 ② Orléanais, Champagne, Ile-de-france, Picardie……豊穣の地 ③ 10世紀のノルマン人侵入時にカペー家は封建制を駆使して再統合 ④ カペー朝(ルイ八世,1223-1226)が早くも世襲王制を確立 ⑤ カペー朝とヴァロア朝は一貫して中央集権国家への道を着実に歩む 98 ・南西部に領土をもつイギリスとの百年戦争 ・ブルゴーニュ侯(背後に神聖ローマ帝国)との永続的な争い ⑥ 辺境のブルトン、バスク、カタルーニャは海山に隔たれ、援軍を期待 できず、フランスによる統合をよぎなくされた ただし、フランスにも、強いローマ化を経験した南部地中海地域とゲルマン 化の影響を残す北部との対立はある。フランスの統合は、北部の方言であるパ リ語を標準語として普及させることにより徐々に達成されていく。 ドイツはローマ支配下に入ったライン河畔を除き、ゲルマンの古い慣習をそ のまま継承し、奴隷制も都市商業も経験しなかった。要するに、制度や慣習の 面でバラバラということだ。 ①ムーズ川~ライン川……ローマ文化を継承、フランクの完全支配圏 ②ライン川~エルベ川……フランク族の征服によりフランクに帰属 ③エルベ川~オーデル川……東方植民により徐々にドイツの版図に入る フランクによる征服(上掲②)は完全制圧を意味せず、服従と引き換えに部 族の長に支配権をそのまま付与するかたちで進行(部族公爵制)。シャルルマ ーニュのとき一時的に「国王の役人」という官職制に切り換えられたが、やが て元に戻ってしまう。 ドイツの割拠化を進めたのはノルマン人、マジャール人、モンゴル人、トル コ人など異民族との対決である。フランクの故地が封建的分散に向かっている とき辺境部が強くなり、かくて、ますます国家統合の求心 力 が失 わ れ てい く 。 フ リ ー ド リ ヒ 一 世 が 創 始 し た 帝 国 諸 侯 制 (Reichsfürsten) も 割 拠 化 に 輪 を かけた。 第2章 第1節 1 独仏の命運 分裂状態を望むドイツ人 分権と集権 プロイセン国家およびヒトラー第三帝国の印象があまりに強烈に残ってい るため、今日なおドイツは権威主義ないし膨脹主義国家と見られるがちである。 そうした性格は近代以降に形成されてきたもので、歴史上のドイツ国家はむし ろ受け身で平和願望の無為主義に終始した。 ○分権か集権かは環境に依存し、異民族の脅威に直面したとき集権国家に なる。以下、3つの実例を示しておこう。 99 1. キエフ公国(882~1240)、ノヴゴロド公国(1136~1478)は緩やか な貴族共和政だったが、モンゴル来襲により、ロシア国家(モスクワ 公国)は専制国家に転換していく 2. 8世紀前のイベリア半島(西ゴート王国)は選挙王政と疑似封建制だ ったが、イスラム教徒の侵入により一変し、レコンキスタの中心国カ スティーリャは専制国家になる 3. 7世紀以前のブリテン島はアングロ=サクソン7王国の分散状態だっ たが、11世紀後半のノルマンの侵入によりここに中央集権国家が誕生 ○ヨーロッパ周辺部の大国(防壁)のおかげで、内部は平和を享受し小国 分立状態になり、東ローマ帝国という「防波堤」のあるおかげで、イタ リアでルネサンスが花開く ハンザ同盟(Deutsche Hansebund)はバルト海通商に従事していたドイツ商 人が1160年にヴィスビー(Visby) に築いたのが最初とされる。それは、ドイ ツ人の植民活動による北東ヨーロッパの開発と交易の発展を基礎にする。この 同盟は,西方の北海沿岸諸都市(イングランドとフランドル)とバルト海 沿 岸 およびロシアを商業的に統合する仲介者としての地位を築いた。 ○封建領主に特恵関税、交易自由と安全、居留地設置、自治権を要求 ○1360年頃、最盛期を迎え傘下に100 以上の都市を従え、対デンマーク戦 争に勝利 ○裁判権と規則的行政機構をもたない点が近代国家とは違う(オランダ連 邦共和国に類似) ○オランダ重商主義、同盟内部の対立、ドイツ領邦国家の圧迫等で衰退 ○同盟はドイツのコミューン運動のモデルとして長く影響力をもつ 2 史上最小の選挙区 神聖ローマ皇帝の選出は世襲制ではなく選挙制に拠った。ただし、完全に自 由な選挙というわけではなく、血統による有資格者のなかから有力諸侯によっ て選ぶのだ。神聖ローマ帝国(962~1806)の創建者オットー一世は後継者 指 名権をもっており、その意味で事実上の世襲制であったが、1254年のシュタウ フェン家の没落後に再び選挙制が復活。13世紀中に選帝侯(Kurfürst)は聖俗 諸 侯 7 名に 限 定 され た 。 …… マ イ ンツ , ケルン, トリエルの大司 教 、 ライン= ファルツ伯、ザクセン公、 ブランデンブルク辺境伯、 ベーメン王…以上7名 ○カール四世の「金印勅書」(1356)は7選帝侯の権利を保証し、以下の 規程をもつ……①7選帝侯、② フランクフルトで選挙、③多数決、④ア ーヘンで戴冠式、⑤教皇による聖別は不要 100 ○17世紀以降,顔ぶれはしばしば変化 第2節 独仏の力関係の逆転- ブヴィーヌの決戦 神聖ローマ皇帝とローマ教皇の対立はカノッサ事件(1077)により、ひとま ず後者の勝利に終わったが、聖俗の争いは完全に終止符を打ったわけではない。 ○1170年、英王ヘンリー二世がカンタベリー大司教を暗殺(?) ○1209年、英王ジョンは大司教人選を巡り教皇インノケンティウス三世と 対立し破門される ○パリ=ローマ枢軸は強固であり、十字軍遠征途上で客死したルイ九世は 聖人(サン=ルイ王)に列せられる ○皇帝フリードリヒ一世はローマ帝国復活という野望を懐いてイタリア 遠征を敢行 ○オットー四世は英王ジョン一世とフランドル伯を味方につけブヴィー ヌBouvineの丘で仏王フィリップと対決 勝利した仏王フィリップ二世(威厳王、1180~1223)は、フランドル毛織物 業で繁栄する北部諸都市の民兵軍でもって連合軍を撃破し、一躍英雄とな る 。 →仏王は対英戦重視に転換。 一方、オットー四世を継いだフリードリヒ二世(1215~1250)は対イタリア 政策を再開するが、もはや勢威を欠いた帝権に従うのを潔しとしないドイツ諸 侯の協力が得られずこれに失敗する。彼の死後、ドイツは大空位時代(1256~ 1273)を迎え、フランスにとって東から来る脅威は消滅。 英仏の対立は、大陸に領土をもつプランタジネット朝ヘンリーが英王になっ たとき(1154)に始まる。仏王にとってドイツ皇帝と並びイギリス王は度しが たい宿敵だった。ただし、この対立抗争をフランスとイギリスの国民間の争い と位置づけるのは早計である。 パリ=ローマ枢軸は強固であったが、13世紀に入ると強化された王権と、叙 任権闘争に勝利し俗界の最高指導者に食指を伸ばそうとした教皇との間に衝 突が発生。 ○仏王フィリップ四世とボニファティウス八世の対立の原因は課税問題 にある。軍事費増大に悩むフィリップ四世は教会領にも十分の一税を課 税(国益か聖益か?) ○教皇権と王権のどちらが上位に立つか?の争いに発展 1303年6月、仏王は全国三部会を召集、9月に教皇をアナーニに幽閉 1309年、教皇庁はアヴィニョンに移設(アヴィニョン幽囚)→シスマ *シスマとは教会分裂(ローマとアヴィニョンの対立、1378~1417) 101 ○フランスの教会は国民教会主義(ガリカニスム)への第一歩を標す 1307年、テンプル騎士団を解散させ財産を没収し、会計検査院を掌握 第3節 フランソワ一世とカール五世の宿命的対決 中世末は、皇帝と教皇を中心とする普遍的なキリスト教世界が領邦国家の形 成によって徐々に解体に向かう時期にあたる。その象徴となったのが、モザイ ク模様の分裂国家群のイタリア半島を戦場とするイタリア戦争である。これは 1494年から1559年まで65年間も続く。ルネサンスの残照のあったイタリアは戦 火に焼かれ、教皇権とともに歴史の表舞台から徐々に姿を消していく。 イタリア戦争(1次~9次)は1519年のカール五世の皇帝就任を境に前後に 分かれる。 ○前期はイタリアに覇権を求めるフランスに対し、諸列強は離合集散を繰 り返す ○後期はハプスブルク家(墺)とヴァロア家(仏)が全国境で対決 イタリア戦争の発端は、仏王シャルル八世が血縁的相続権を盾にナポリ王国 を領有しようとしたことに発する。シャルルは大砲と火縄銃を装備した3万の 軍隊を派遣し、ナポリ制圧に成功するが、その野心を見たヴェネチア、教 皇 、 皇帝、スペイン、イタリア諸都市の連合軍は反撃に出た挫折させる。つづくル イ十二世の遠征も同じような軌跡を描き頓挫する(1513)。 ルイの従弟で新王となったフランソワ一世は長躯2mを超す大男で、騎士道 精神に通じた丈夫であった。彼はミラノを奪回し、ボローニャで教皇レオ十世 と政教協約を結び、イタリアに平和を戻すことを約束し、彼は暫時、敵味方か ら賞賛され英雄となる。 折から、神聖ローマ帝国の皇帝マクシミリアンが病気がちで後継者問題が発 生。皇帝は孫のスペイン王カルロス一世を皇帝に選出させるため7選帝侯に積 極的に働きかける。 ○ヘンリー八世、フリードリヒ賢王、フランソワ一世等が皇帝候補者に ○フッガー家の支援により85万フィオリーネ(フィレンツェ金貨で金塊2 トン相当)を使ったカルロスが勝利(カール五世) ○選挙時、フランクフルト近郊に布陣したシュヴァーベン軍25,000の威圧 の影響も! カール五世の帝座獲得で強大なハプスブルク朝国家の出現により、三方から 脅威を受けたフランスは国境の全線に亘ってこれと戦うはめになった。フラン ソワ一世とアンリ二世父子の治世44年のうち、22年間はハプスブルク家との戦 いに明け暮れる。 102 ○3つの係争地……ナヴァラ、ブルゴーニュ(仏王服属)、イタリア(仏 王ミラノ領有) ○パヴィアの戦い(1525)でフランソワは捕虜になり、1年以上マドリー ドに幽閉された ○マドリード条約でブルゴーニュを要求した皇帝に、列強は仏に同情 フランソワ一世が異教徒オスマン=トルコとの間に結んだ通商条約(Capitul ation)は内外に波紋を広げた大事件。なぜなら、トルコ人はビザンツ帝国の 破壊者、聖地の圧政者、地中海の海賊、バルカン半島の蛮行者、すなわちキリ スト教徒にとって不倶戴天の敵であったからである。トルコと結ぶことはサタ ン(悪魔)と結ぶことに等しく、このタブーを「最もキリスト教的な王」の彼 が破ったのである。これはまさに衝撃的事件となった。 ○Capitulationの草案は残るものの、本文は存在しない(秘密条約か?) ○パヴィア虜囚事件(1525)がきっかけ? ○トルコにモハッチの戦い(1526)を要請したのはフランソワ自身か? ○1528年のドリア事件(海賊襲撃)、1529年のウィーン攻囲もフランソワ の教唆か? ○1536年以来、仏艦隊とベルベル海賊が対スペイン共同行動を展開 ○1543~44年、トルコ艦隊はフランスのトゥーロン港に停泊 フ ラ ン ソ ワ お よ び ア ン リ 二 世 と カ ー ル が 対 峙 し た 37年 間 に 歴 代 5 人 の ロ ー マ教皇がいるが、そのいずれも仏王の背教的行為にたいして曖昧な態度をとり つづけ、パウルス三世(1534~49)などは仏王に荷担するほどであった。 フランソワの跡を継いだ(1547)アンリ二世も宿敵カール五世との戦いを継 承する。フランス史上初めて多数の艦船が建造されたが、トルコへの依存は継 続された。 ○1553年、仏土連合艦隊はコルシカ島をジェノヴァから奪取 ○1558年、トルコ艦隊がトゥーロンに入港 信仰問題が後退したことを印象づけるもう一つの事件がアンリ二世のもと で発生。それは、同王がドイツのプロテスタント諸侯とロッシャワ条約を結び (1552)、諸侯軍に支援を約束する代わりに、メッス、トゥール(ロレーヌの Toul)、ヴェルダンの3要塞の占拠を許可されたことである。これもカトリッ ク王とプロテスタント諸侯の軍事的同盟の最初の例である。 ○カール五世はメッス奪回を図るも失敗 → カールは引退決意(1556)? 長期の戦争で疲弊著しい独仏両国はカトー=カンブレジ条約(1559)で和議 を結ぶ。両国とも宗教問題をかかえ、これ以上の戦闘持続は不能に陥っていた。 和議に基づく婚儀行事の一つとして挙行された騎馬試合での傷がもとで、アン 103 リ二世は落命する。同講和条約の骨子は以下のとおり。 ①イタリア戦争の終結 ②仏はサヴォア、ピエモンテを放棄し、カレー、サン=カンタンを獲得 ③アンリ二世の娘と妹をそれぞれフェリーペ二世、サヴォア公に嫁がせる 第4節 宗教戦争 16世紀のヨーロッパでの最大事件は宗教改革である。これはヨーロッパの全 土で戦火を巻き起こし、古い機構をぶち壊し、各地域が一斉にナショナルな装 いをまとう契機となった。ルネサンスはまだ文芸上の変化でしかないが、宗教 改革はイデオロギーと社会構造の根本をも揺るがす大変動であり、近世の幕開 けはこれをもって始まる。 宗教戦争はイデオロギーの争いであると同時に、列強の世俗の争いが宗教的 外被をまとったものでもあり、渦中に巻き込まれた王権と教皇権はともに痩せ 細る一方だった。 ○宗教内乱はドイツで先行し(1530)、フランスが遅れた(1559) ○最初、ドイツの内乱を利用しようとしたフランスは藪蛇となる ○トリエント公会議(1545~63)に拘る教皇の頑な態度にも責任あり ○各党派には地域・縁故・個人・集団の鬱屈した野心が交錯 ○英・西・独諸侯・仏諸公の損得の思惑が入り乱れ、混乱に拍車 ○世紀末の通貨混乱、インフレ、租税増大、投機熱が社会の変貌を促す アウグスブルクの宗教和議(1555)はドイツの宗教紛争をひとまず片づけた が、カール五世自身が密かに望む宗教統一の悲願がついに潰えたことをも意味 する。同和議はすべてが中途半端に終わったという意味で、次の三十年戦争の 遠因となった。 ①諸侯および都市は新旧両派のいずれかを選択でき、住民は領主に従う ②旧教の大司教・司教が新教に改宗するときは、その地位と領土を失う 「ナントの勅令」(1598)は、プロテスタントからカトリックに改宗した(1 593)アンリ四世が発令したもので、フランスの宗教戦争を終結させた(→168 5廃止→ユグノー亡命)。 ①プロテスタントに個人としての信仰の自由を承認 ②200の都市と300の要塞で新教徒の公式の信仰を承認 ③新教徒に完全な市民権を付与、集会の自由、裁判の自由を保証 第5節 ドイツ三十年戦争とヴェストファーレン条約 アウグスブルクの和議は新旧両教徒の平等・同権を定めたが、それはあくま 104 で原則上のことで、完全な和解を意味したのではない。ましてや、この恩恵に 与らないカルヴァン派の憤懣は激しかった。同じ新教徒とはいっても、職業倫 理と予定説を教義とする改革派はルター派から見れば、何らカトリックと変わ るところはなかったのだ。 三十年戦争の勃発の背景には次のようなものがある。 ○アウグスブルク和議は休戦にすぎず、各派は信徒拡大の野望を捨てず ○歴代皇帝が宗教指針において一貫性を欠く…… FerdinantⅠ(妥協的)、 MaximilianⅡ(親Protestant)、RudolfⅡ(親Catholique) ○政治に興味をもたぬルドルフ二世と、その弟マティアスの兄弟争い ○マティアスの従弟にして頑迷なフェルディナント二世の即位が新教徒 を刺激 三十年戦争は複雑な展開を辿るが、大雑把にいえば、第一段階は緒戦のプラ ハ郊外のヴァイセルベルク(白山)の戦い(1632)におけるカトリック派の圧 勝、第二段階はプロテスタントの巻き返しである。その最大の山場は名将ヴァ レンシュタインとスウェーデン王グスタフ・アードルフによるライプチヒ近郊 の激突である。払暁から日没までつづく正面衝突は僅かの差で新教徒が凱歌を 挙げたが、アードルフは流れ弾に当たり戦死。これを境に旧教徒のほうに武運 が傾き、プラハの講和(1635)に行き着く。帝国の勢威増大を恐れたフランス が介入することで第三段階を迎えた。宗教問題は二の次となり独仏の直接対決 となる。 ○1635年、フランスはスペインに宣戦布告 ○1636年、フランスは一時窮地に陥るがスペイン軍を撃退 ○落日のスペイン(中南米の金銀鉱が枯渇)は財政難に陥り、戦争継続が できなくなっていた ヴェストファーレン講和条約(会議は1644~48年)は宗教的側面からいえば、 1555年のアウグスブルク和議を追認したにすぎず、ドイツ領邦君主は完全に主 権を認められるにいたった。以後のヨーロッパ史との関連で重要なのは次の諸 点である。 ①初のヨーロッパの憲章であり、以後150 年間効力をもつ ②ドイツの ― 正確にいえば、列強保護観察下における ― の憲法 ③大陸でのフランスの覇権確立 → 後顧の愁いなく海上覇権をかけて 英・蘭と激突 第3章 ドイツの覚醒 105 第1節 1 フランス革命 外交革命 「外交革命」と言われる仏墺接近(1855)は列強を一驚させた事件である。 これはフランスの絶対王政をたちまち不人気に陥れ、フランス革命政府および その後の歴代仏政府にも大きな重荷を背負わせるところとなった。すでにフラ ンスが18世紀中に徐々に衰退の道を歩み始めたのと対照的に、プロイセンとロ シア台頭の著しいヨーロッパにあって巧みな外交を要するときに、仏墺接近と いうカードが禁じ手になったことは、仏政府にとって採りうる選択肢が狭めら れたことになる。 仏墺接近は両国の思惑・利害の一致から生まれた策である。まずフランスの 事情から述べると、次のような要因が推定できる。 ○ルイ十四世の度重なる外征のツケが空前の財政難を招来 ○進行中の海外進出を容易化するため、大陸では均衡政策に重点を移す ○ロレーヌの併合により、独仏の間にもう一つの緩衝地帯が形成された ○新興の軍事国家プロイセン(ヨーロッパの新たな攪乱者!)への警戒 だが、仏墺接近の力としてはたらいたのはオーストリア側の事情のほうが大 きい。 ○マリー・テレーゼ(1740~80)が墺帝となり、オーストリアに相続争い が発生 ○プロイセンがシレジエンを併合し(1740)、普墺対決が不可避となる ○スペインが独立したいま、オーストリアの野心はバルカン方向に向く ○「3枚のペチコート外交」(テレーゼ、ポンパドゥール、エリザベータ) の勝利 オーストリア継承戦争(1740~48)と七年戦争(1756~63)の2連戦の勝利 者は英国のみであり、普・墺・仏はそれぞれ苦境に陥る。とくに仏は失うのみ で得るところなし。 ○オーストリア継承戦争で勝利した普は七年戦争であわや亡国の危機に 遭い、いっそう軍国主義に傾斜していく ○前戦で苦戦した墺はシレジエンを喪失、後戦では善戦したが、露の裏切 りに遭う ○仏はカナダとインドの海外植民地を喪失 上述2度の英仏対決の結果はフランスに遺恨を残し、アメリカ独立戦争(参 戦)、フランス革命戦争、ナポレオン戦争の準備に連なった。一方、2連敗し ても仏墺同盟の揺らぐ気配はなかった、少なくともフランス革命までは…。フ 106 ランスはさらにイタリア、スペインのブルボン朝とも同盟し、対英復讐熱を培 った。その結果、大革命直前にフランスが英国を凌ぐほどの大艦隊を擁したこ とはあまり知られていない。 2 フランス外交政策の転換、そして再転換 革命政権の絶対王政と旧制度への憎悪は即、外交政策にまで及ぶのはむしろ 当然であった。暴政を支えたもの、暴政のつくりだしたものの一切が否認の対 象となった。カトリック教会然り、領主制・ギルド制然りである。おまけに列 強が革命に干渉しようと機会を窺っていたことは旧来の外交政策への懐疑を いっそう強めた。 そのうえ、革命政府自身が揺り起こし革命推進の原動力とした暴力と無秩序 の脅威に晒されることになった。行き場を失った革命政府は対外戦争に訴える ことで急場を凌ごうとする。その矢先、国王と王妃の公然たる裏切行為が犯さ れた。かくて、「オーストリア女」は格好のスケープゴートとなった。もはや 開戦の切札しかない! ○ルイ十六世との結婚生活の破綻 ○フランス人の心中に眠るオーストリア嫌い ○遊興三昧の生活、王妃の失言「パンがなければお菓 子 を食 べ れ ばよ い 」 戦争は為政者が始めることもあれば、民衆が始めることもある。1792年4月 20日の国民議会での投票ではほぼ全会一致で宣戦布告が可決された。このとき フランスに十分な軍備はなく、列強が即座に応戦し四方八方から侵入していれ ば、フランスはいとも簡単に屈した可能性が高い。列強の応戦が遅れた理由は 何か? ○国内の政治情勢の読み違い- 革命政権は早晩、自壊するであろう ○列強相互の思惑- 勝ちが勝負では最小の犠牲で済ませたい ○ポーランド(分割)のほうが美味しい獲物 英国の参戦が遅れたのは同国特有の計算からである。宰相ピットは対岸の騒 乱を歓迎していた。混乱がフランスを疲弊させ平和裏にアメリカ独立戦争での 仕返しをしてくれるものと、彼は読んでいた。しかし、革命軍がラインラント とベルギーを制圧し、エスコー川付近(イギリス海峡を挟んでテムズ川の対岸) を併合するに及んで、迅速に参戦を決断した。当時、フランスの世界最強の海 軍は不規律と亡命(海軍将校は貴族)によって自壊してしまい、英軍と矛を交 えるにいたらなかった。国民公会の対英宣戦の決断が余りに遅かったのである。 かくて、大革命は大陸の戦争にのめり込むことになった。革命の後継者で軍神 ナポレオンが登場したときも、事態は何も変わっていなかった。 107 第2節 ナポレオン支配 ナポレオンがクーデタで統領に就任し政権を掌握したとき、30才の若さであ った。コルシカ生まれながら、彼の思想は軍士官学校でのフランス式教育によ って形成された。彼は職業軍人として技術面で習熟し、旺盛な読書と考究心で もって独創的な戦法を編み出す。彼の頭脳でとくに優れている点は天才的な記 憶力である。政治思想として共和主義に傾いたとはいえ、中流フランス的、農 村的、プチブル的秩序の感覚であり、その達成手段としての政体の理想のほう は啓蒙専制主義(行政権の優越)のそれであった。彼の信 条 を挙 げ て みよ う 。 ○個人主義 ○秩序・所有権の絶対性 ○法の前の平等=特権の廃止(とくに行政権への参与について) ○信仰の自由、寛容の精神 ○普遍主義的ヨーロッパの実現(革命の輸出) ナポレオンが直面した革命と征服の問題はかつてジロンド派を悩ませたも のと同次元である。うちつづく戦勝は面倒な問題を引き起こした。 ① 戦争をどの段階で止めるか ② 征服地に革命を起こすか ③ 征服地を属国とするか ④ 自然国境をどこに定めるか… イデオロギーに基づく革命と戦争は宗教戦争のばあいと同じく、必然的に好 戦的になる。その現象は自然であって、国内的にみたばあいにおいて、同胞愛 が不可避的に内戦に移行するのと同様である。 ベルギー、ルクセンブルク、ラインラントがフランスのものとなり、バタヴ ィア共和国(オランダ)、ヘルヴェシア共和国(スイス)、シザルピーヌ共和 国(北イタリア)、リグリア共和国(ジェノヴァ)がフランスの保護領となっ た。多くの教皇領が教皇の手から離れ、独・伊61の自由都市のうち45が消滅。 ドイツの国家数は360 から83に減少。 やがて敗北とともにフランスの遠征活動は停止した。イギリスとの和平にい ちばん時間がかかったが、エジプトにおける仏軍降伏(1801.8)がきっかけと なった。イギリスが完全勝利を諦めフランスの大陸制覇- 半ばだが- を認 めたのは、革命の余波の国内への波及を恐れたからである。 ナポレオンはフランス国民に理想を与えた。自然国境は達成され、征服した 国々も統治してなお平和、秩序と平静と忘却と和議の革命! フランス人は偉 大な統治者を選び出したことにたいする自賛。ナポレオンの栄光は長い悪夢 108 (革命)の終焉であった。しかし、この無上の幸福感が将来に大きなツケを残 したことも忘れてはならない。 ① ポレオン治世の理想化 →“栄光”の再現 → ナポレオン伝説の誕生 ②諸国民における怨恨 第4章 ナショナリズム — 渦の中心としてのドイツとフランス — 第1節 ウィーン体制は不満同盟だった! ヴェストファーレンの作成者(フランス)は1世紀半後に自らの手でこれを 解消してしまったのだ。フランス革命とナポレオン遠征は二重の意味でドイツ を改革に追いやった。だからこそ、フランスの侵入に対するドイツ人の態度は 両義的(反発と受容)である。ドイツ人は、自らが“奴隷化された”と同じ程 度に“解放された”という実感をもつ。 ① 仏の干渉は異邦人介入に対する自然な憤慨感を掻立て愛国心を刺激 ② フランスの政治的影響によってドイツの社会的、政治的変化を助長 中世ドイツを終わらせたのはウィーン会議とされるが、じっさいはナポレオ ンが引導を言いわたした後の追認にすぎない。 ナポレオン革命は普・墺で異なった効果をもつ。すなわち、オーストリアの 敗北は壊滅的ではなく、したがってその怨恨は限られていたが、プロイセンの 敗北(イエーナの戦い、1806)は完全であり、したがって怨恨は測り知れなか った。①伝統国と新興国の差、②古代ローマ文化を直接継承した国とゲルマン 国の差、③ローマ=カトリック国とプロテスタント国の差が露骨なかたちで 表 面化する。そのうえ、ナポレオン支配の手緩さと手厳しさとが普墺両国の運命 を分かつことになる。 ○ナポレオンはプロイセンを消滅させようとしたが、ロシア皇帝の干渉に より断念 ○ナポレオン支配に対する民衆の反乱はドイツ知識人たちの作り話! タレーランの辣腕の所産とされるウィーン条約後のフランスに対する極度 に穏便な処置はたぶんに、革命とナポレオン征服の悪夢再発に怯える列強が生 み出したものである。勝利をおさめた列強は、「諸悪の根源はナポレオンにあ り」とし、フランス自身が彼を王位簒奪者として追放した以上、もはやフラン スに戦争責任を問う必要はないとした。正統の王(ルイ十八世)を立て旧制度 に復したことによって、フランスは列強と同じ体制(同盟国)になったことを 109 もって“過去の罪状”は赦免されたのである。 ○ウィーン体制の独仏協調は第一次大戦後のシュトレーゼマン=ブリア ン協調に酷似 ○ウィーン条約で列強はそれぞれ保護国をもったことで満足感をもつ 普……ドイツ諸国 墺……イタリア 露……トルコ 英……ケープ植民地など海外領土 ウィーン体制に対するフランスの恨みは“ワーテルロー”後のパリ条約(18 15.11.20)による占領と賠償によって培われた。7億フランの賠償金支払の義 務履行の保証として5年間、フランスの負担で15万の外国軍の駐留を認めさせ られた。それまで放棄されていた賠償金が再び取りあげられ、しかも過去に溯 って個人または公共の機関に支払うべき債務までもが掘り起こされた。こうし てフランスが蒙った戦後処理方式は以後の普仏戦争、第一次大戦、第二次大戦 の処理において報復的な色合いをもって継承されていく。 ○16億フラン(天文学的!)の債務(→イギリスの干渉で1500万に減額) ○七年戦争の債務まで、さらにアンリ四世時の債務まで ドイツの秩序問題は領土の整序問題より困難であった。秩序を導く大原則は ひたすらフランスの攻撃を防ぐことであった。ライン河畔でプロイセン、ポー 河畔でオーストリアがフランスの防波堤となること以外に、留意されたのは弱 小のドイツ諸邦を防衛の邪魔にならぬよう配置することであった。これはある 意味でヴェストファーレンの再版である。 ① ドイツ領国の割拠状態の存続 ② 連邦議会は共同行動を強制する権力をもたない(1国の拒否権発動) ③ 統一ドイツという理想と割拠制の矛盾(国際連盟に酷似) ④ 列強によって保証された体制(保護観察下のドイツ) ⑤ ドイツ国民国家の連邦という境界と現実国家の国境線との不一致 ナショナリズムは民衆を媒介としてのみ- なぜならドイツにはブルジョ ア層がいない- 力となり、その意味で自由主義を鼓舞しなければならないの だが、ウィーン体制は前者のみを鼓舞し後者を弾圧してしまう。ドイツ諸邦の 主権者たちは民衆への不信感をもち、政治生活から民衆を排除しようとし た 。 彼らはウィーン体制を非難したが、ウィーンでつくられた均衡が機能している 限りにおいて安泰であった。その意味では、ドイツ以上にウィーン体制を非難 しつづけたフランスにおいても同様であった。 ドイツでナショナリズムが頓挫している間、オーストリア支配下のイタリア 110 とハンガリー、そしてベーメンで目覚ましいナショナリズムの躍動が見ら れ 、 これが大国オーストリアの屋台骨を揺することになる。かくて、オーストリア は多民族国家に固執しドイツ・ナショナリズムのブレーキ役を演じるであろう。 1815年から1848年までの一世代の間、目だった進展はなく、ドイツにヴェス トファーレンの沈滞が以後も持続するかに見えたが、普墺二強の均衡体制は日 増しに崩れつつあり、これがドイツの大変化の下地をなす。そして、関税同盟 問題が均衡破壊の後押しをする。 ○普=純粋なドイツ国家 VS 墺=多民族国家 ○普=プロテスタント国家(宗教的寛容)VS 墺=宗教的不統一(不寛容) ○普=高度の中央集権国家 VS 墺=不統一にして非能率な官僚制国家 第2節 独仏対立はナポレオン戦争をもって新段階を迎える ナポレオン自身がシャルルマーニュを真似てヨーロッパ制覇の野望を懐い ていたことは否定できない。彼がつくらせた「シャルルマーニュの剣」、遺し た書簡、配下に書き取らせた『回想録』などがそれを証拠だてる。ナポレオン はヨーロッパの各地にフランスを範として傀儡政権を配置するが、それらはナ ポレオン失脚と運命を共にした。ナポレオンのヨーロッパ支配とナポレオン戦 争は諸国において数々の問題を残した。 ナポレオンの征服は農奴制の圧政に苦しむドイツ国民を解放するととも に 、 新たなかたちの圧政を押しつけることになった。すなわち、ナポレオンはドイ ツに諸改革の断行、内政への容喙、重税の課税、軍事徴用・挑発を強制し た 。 それまで分裂国家状態のなかで安逸の夢を貪っていたドイツ人はナポレオン の支配を通してナショナリズムに目覚め、着実に国家統一への歩みをはじめる。 しかし、ドイツの統一運動は、諸邦間の争いとくに普墺両大国の主導権争い がつづき、なかなか足並みが揃わない。また統一方式をめぐっても、民主主義 と自由主義に基づく国民主権国家による統一か、それとも既存の君主制国家の 緩やかな連合による統一かの間に両立しがたい対立があり、官民一体の運動と ならなかった。統一運動の推進主体はナショナリズムに鼓舞された民衆たちだ が、1820年代にこの運動が弾圧され、統一への圧力はしだいに弱まってい く 。 政治的統一への動きが足踏み状態に陥ったときでも、関税同盟を梃とする経 済的統一への機運はいっこうに衰えなかった。ドイツ関税同盟(1834年)は諸 国間の経済的依存関係をつよめ、全体的な経済発展に貢献するところとなった。 プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの登場とともに、関税同盟はドイツの政治的 統一を補うかたちで一挙に進むことになる。一方、関税同盟の運動にたいし消 極的姿勢に終始するオーストリアは、政治的統一の主導権争いでプロイセンに 111 一歩も二歩も遅れをとることになった。 ナポレオンの挫折とウィーン体制は- フランス人はこれを「1815年体制 」 と呼ぶ- フランス人にトラウマを残した。ナポレオン時代の栄華の思い出は 見果てぬ夢としてフランス人の心中に深く刻みこまれることになった。彼らが 何よりも望んだことは「1815年体制」を打破し、外交上の主権を取り戻すこと であった。だが、ナポレオン失脚後の2体制(復古王政と七月王政)はいずれ も、国民世論の与望に応え積極的な政策を打ち出せなかったため不人気に陥り、 ともに短命に終わる。以下、これについて説明したい。 復古王政は「外敵」の手で復興させられた体制であるため、この政府がどの ような政策を行っても、国民からの支持共感は得られずじまいに終わった。 七月王政は革命から誕生した体制であり、当初こそ期待をもたれたが、内政 および外交でさしたる成果を挙げることができず不人気となる。政府は人気挽 回を期し、ナポレオンの遺骸を本国帰還させる儀式を演出するが、これはかえ って本物のナポレオン崇拝熱を呼び覚まし、ボナパルティスムの復活に手を貸 すことになった。 二月革命が切り裂いた社会的対立の修復および「1815年体制」の打破という 国民世論の与望を担ってルイ=ナポレオンが政権の座につく。 ルイ=ナポレオンはクーデタによって帝政を再開し、ナポレオン三世を襲名 する。この新皇帝は伯父大ナポレオンの失敗の教訓を胸に、対英協調路線と国 際会議によりフランスの外交主権の回復をめざした。しかし、ナポレオン戦争 以後、ヨーロッパ紛争から距離をおくようになったイギリスは終始、フランス からの協力要請に冷淡な態度をとりつづけた。また、紛争調停のための国際会 議の呼び掛けに応じる国はなく、結局のところ、焦慮したフランスは紛争解決 のために武力を行使する。それが他国の反感と不信を買い、同国の国際的孤立 を深めることになった。 大ナポレオンが巻き起こしたナショナリズムはドイツとイタリアでは内向 きに作用することによって統一国家の達成に帰結するが、フランスのナショナ リズムはもっぱら外向きの併合主義ないし覇権主義と結びつくことによって 諸外国と衝突する宿命をもっていた。「1815年体制」はそのものとしてフラン スの国際的地位と安全を保証していたにもかかわらず、政府と国民はこれに甘 んじず、つねにそれ以上のことを望んだのである。そのことがナポレオン三世 を登場させ、不用意にもフランスが普仏戦争に誘い込まれる誘因となったのは 言うまでもない。 (c)Michiaki Matsui 2015 112
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