ジギタリスの赤い涙 1( ) 百(五十枚 人生の掃き溜めに首まで浸かった俺には、オリンピックが終って ) 間もないシドニー空港が、万華鏡を覗いたようにカラフルに見えた。 税関のチェックを済ませ、レンタカーのカウンターへ寄った。日 本を発つとき予約していたので、太った女性スタッフが、ランド・ クルーザーのキーを渡しながら、車が駐車場の端にあることを教え てくれる。俺は旅行トランクを押しながら公衆電話の前に立ち、電 話帳から必要になりそうなページを破り取り、車を探しに駐車場へ 歩き始めた。 三代目の涛子さえ今回の件を言い出さなかったら、オーストラリ アくんだりまで人を殺しに来ることもなかったはずだ。そう言うわ けでもないだろうが久しぶりのシドニーは、観光で来た時と違って ウエルカムとは言いがたい雰囲気で俺を包み込んでいる。 広域暴力組織﹃天声会﹄の大隈会長が射殺されてから半年が経っ た。組織の箍が緩むのを恐れた幹部は、美術品のバイヤーでイギリ スに住んでいる会長の娘、涛子を呼び戻した。俺は仕事柄、涛子に ついて少しだけは知っていた。もっとも以前、大阪府警に勤めてい た時の情報だから、いささか古いのは仕方がないが。 涛子は高校卒業する頃には既に姐御気取りで、組織か ら付けられ たボディーガードを引き連れ、恐喝、詐欺、覚せい剤など、いっぱ しのアウトロー気取りで大阪や神戸をのし歩いていた。少年法の適 用ぎりぎりのところでイギリスに渡ったのは、大隈会長の親として の情けか、単に所払いにされたのか分からないが、その後の消息は 聞いていなかった。 涛子に呼ばれたのは一週間ほど前だった。会長の住んでいた広大 1 な私邸だが、同席していたのは最高幹部の一人で吉井誠二。会見で は録音はおろかメモすることさえ許されなかった。 涛子の雰囲気は、ズベ公だった頃の子供っぽさが消え、俺の予想 を見事に覆した。 ﹁三代目の涛子です﹂ 透き通るような声が、開け放たれた窓の前に広がる、日本庭園の 百日紅の葉を震わせ、奥の赤い鳥居を頷かせたようだった。 ﹁故あって仕事をしている檜垣久三です﹂ 仁義を切るほどでもないが、俺は涛子の眼を見据えて応えた。ほ とんどメークをしていない顔は、旬の水密桃のようにみずみずしく、 柔らかそうな髪は濡れていた。ベージュ色のリネンのフードつきジ ャケットに、ウエストを紐で結んだゆったり目のストリング・パン ツを合わせ、インナーのTシャツからはノーブラのバストが俺を挑 発している。 ﹁こんな格好で御免なさい、暑かったので泳いでいたの﹂ 俺にはイブニングドレスより、こっちのほうがいい。 ﹁近ごろの本丸はプールでもなければ、リクルートが難しそうだ﹂ ﹁ここのプールを使えるのは私だけ﹂ タバコを掴んで差し出された腕首に、僅かに﹃根性焼き﹄の痕が 見てとれた。涛子も一本抜き取り口に銜え、カルティエのライター で火をつける。 ﹁十年程前、噂は聴いていたが::﹂ ﹁女は十年間に何度も生まれ変わるものよ。あなたも昔はチョウ・ ユンファに似ていたのでは?﹂ 過去は馬に喰われてしまったような言い方だった。 ﹁今の、小林旭と言ってくれてもいい﹂ ﹁誰よ、その人?﹂ ﹁むちゃ言いよる::﹂ 俺は呟きながらベッドの上の涛子を想像した。浅黒く、スポーツ で鍛え抜かれた肢体は、中年過ぎの俺とはつり合いが取れないがそ 2 んな事はどうでもいい。腹の上に乗せ、思い切り操縦してみたい欲 望に駆られる。 ﹁今から頼むことが、ほんとのムチャよ﹂ ﹁仕事かな?﹂ それで呼ばれているのは分かっていたが、あえて訊いてみた。 ﹁会長が殺されて半年経ったけど、犯人はまだ挙がらない。私も親 の仇を討たないことには、三代目の職責を果たしているとは思われ ないでしょう?﹂ ﹁犯人の目当ては?﹂ ﹁あなたを呼んだ理由はそこにあるわけ。当局の調べで公開したの は、狙撃現場に落ちていた動物の毛と植物の胞子だけ。科研の知り 合いが密かに教えてくれたのは、動物の毛は羊で植物の胞子は、ジ ギタリスだったの﹂ ﹁羊は分かるが、ジギタリスとは?﹂ ﹁別名﹃キツネのてぶくろ﹄と呼ばれる炎のように赤い花で、毒が あるから嫌がられるのかもね﹂ ﹁狙撃したのは外国人か?﹂ ﹁そうかもしれないし、外国に住んでいる日本人かもしれない﹂ ﹁外国と言っても広いからな。それで警察は何と?﹂ ﹁何にも言ってくれない。元々本気で捜す気なんか無いのよ。でも 密かに入手した情報によるとオーストラリアのようね﹂ ﹁ハッキリしない情報に、広大な国土。それで俺に何をしろと?﹂ ﹁決まっているじゃない。オーストラリアへ行って会長を殺した男 を見つけ出し、抹殺してきて欲しいのよ﹂ 冷静に見えた涛子が、少しだけ本性を覗かせた。 ﹁広すぎて何年かかるか分からない﹂ ﹁高利貸しのピンハネをして警察を首になったような人だから、脳 味噌もカボチャ程度だと思っていたけど、やっぱりそうのようね﹂ 涛子はそう言って胸を張ったので、乳首がTシャツを通して浮き あがった。 3 ﹁五百メートルの距離から狙撃を成功させる腕は、そこいらに転が っていないし、ライフルケースから落ちたと思われる砂は、オース トラリアの沿岸部にのみ見られるものだから、海岸線に広がる牧場 を捜せば、案外見つかるのじゃない?﹂ ﹁そこまで分かったのなら、なぜ俺に?﹂ ﹁あなたは好きになったホステスに逃げられたうえ、悪徳警官のレ ッテルを貼られ、妻と娘にも出て行かれた。手帖を取り上げられた 以上、失うものは何も無いし、どこで野垂れ死にしても誰も悲しま ないからよ﹂ むかつくけど、涛子に俺の素性なんかお見通しらしい。 ﹁そんな俺に大事な仕事を任せてもいいのか?﹂ ﹁檜垣!﹂ 部屋の隅に座っていた吉井が、頭を擡げこちらを睨んでいた。 ﹁吉井は口出しをしないで﹂ 涛子の権力は見たところ、三代目の威力を保持しているようだっ た。その諌めた眼で俺を見た。この女のためなら、命を賭けさせる ような眼だった。 ﹁もちろんあなたが始めて行くわけではない。既に五名のヒットマ ンを送り込んだのに、ことごとく返り討ちにあった﹂ ﹁ということは、的は絞れているわけだ﹂ ﹁ええ、三人にね﹂ ﹁その三人は固まって暮らしているのかな?﹂ ﹁どうとも言えない。オージー オ(ーストラリア人 は)イエスと頷く だろうし、日本人は否定的な応えをすると思う。つまり日本の五倍 のクイーンズランド州にみんなばらばらに住んでいて、場所は特定 できていないから﹂ ﹁で、具体的な方法は?﹂ ﹁報酬のことを言っているのなら、経費込みで五千万。オプション に同額支払うわ﹂ ﹁オプションとは?﹂ 4 ﹁狙撃した犯人を差し向けた本物のワルを聞き出すこと﹂ ﹁それなら簡単に消すわけにはいかない﹂ ﹁相手に白状さすまではね﹂ ﹁それでその三人の特徴は?﹂ ﹁分かっているのは、アメリカ海兵隊を除隊して豪州に住む、湾岸 戦争で勲功章をとったビル・ヘイマン。日本の大手スーパーに食肉 を卸している会社の使用人、ベトナム人のカオ・バン・スン。元陸 上自衛隊員で訓練中に誤って上官を射殺してしまった熊谷銀二。し かしどこに住んでいるのか特定できてない。確認するまでに殺され たからね﹂ ﹁俺も殺されに行くようなものだ。断われば?﹂ ﹁また時給八百円の警備員に戻ることね﹂ 涛子の返事を信じたわけではなかった。組織の﹃掃除屋﹄として、 ダーティーな秘密を知りすぎてしまった俺は、いずれ消される運命 にある。 ﹁いいだろう。仕事はやらせてもらうが、オプションを上手く成功 させたら、こちらのオプションも追加させてもらう﹂ ﹁なにを?﹂ ﹁三代目と寝てみたい﹂ 吉井が顔色を変え、立ち上がりかけた。 ﹁私は了解よ﹂ 吉井を制した涛子は、俺を見て頷いた。会見は終ったらしい。 大阪と気候が反対のシドニーでも、広い駐車場を歩いたので、車 にたどり着いたころは汗をかいていた。借りたトヨタの四輪駆動車 の前面には、アウトバック 荒(野 で)動物を撥ねた時のために、ステ ンレスパイプで補強してある。 運転席に座った俺は、助手席のトランクからGPS対応の世界中 どこでも通話可能な携帯電話とパソコン、小型のパラボラ・アンテ ナを取り出した。シガーライターに電源をつなぎ、アンテナを屋根 5 に置くと、パソコンを立ち上げる。すべて涛子の指示だった。 毎日、Eメールを送る。これが条件で、手付の三万ドルと機材を 与えられた。他にも指示はあったが、俺が生きていたらの話だ。デ ジタルカメラで空港の景色を写し、メッセージと共に涛子のアドレ スへぶち込んだ。 ︽シドニー空港に着いた。今からチャカの段取りに走る︾ ここから先は、俺の独断で行動することにしていた。市内の地図 を開き、海の玄関口サーキュラー・キーのフェリー発着場へ向かう。 メールで連絡していた銃の密売人、イーサンがスカボロー号でご登 場するからだ。彼とは以前観光で来た時、知り合った。訪れたシュ ーティング・レンジ 射(撃場 の)オーナーで、俺が銃器に詳しいので 欲しければどんな銃でも手配すると囁いた。 フェリーからシボレーのカプリスに乗って降りてきたイーサンは、 店の在庫処分が出来ると思ったのか、俺を見てにやりと笑った。ゆ うに百キロを越す体重が、体熱を上げるのか、年中Tシャツで過ご している。今日は五輪のマークが入ったシャツだ。人気のない岸壁 で、俺たちは車を寄せた。 ﹁お好みの銃を揃えている。何が欲しい?﹂ イーサンが錆びの浮いたカプリスのリアフェンダーを蹴った。 ﹁拳銃三丁に、十番ゲージのポンプ式ショットガンを一丁﹂ ﹁十番で撃つような大きな動物は、ここにはいない﹂ 聴き取りにくいオージー・イングリッシュで、同じ口径ほどの口 を開けイーサンが言った。 ﹁相手が大勢なら効果がある﹂ 通称ロード・ブロックと呼ばれ、道路封鎖に使われるショットガ ンの威力はアメリカの警察でも実証済みだ。 ﹁拳銃はどんなのがいる?﹂ ﹁安くてバランスが良ければ、器種は 問わない﹂ ﹁任せてくれるのならダブルアクションのリボルバー一丁に、オー トマチックを二丁勧める。どれもスミス&ウエッソン社製だ。弾 6 は?﹂ ﹁各三ケースずつ﹂ ﹁戦争でもおっぱじめる気かな?﹂ ﹁ワニ狩りを考えている﹂ ﹁それならテフロン加工した弾を一ケース、サービスしよう。防弾 チョッキも貫通するからな﹂ イーサンはニヤリとしながら片目を瞑った。 ﹁全部で幾らになる?﹂ ﹁アメリカドルで七千﹂ ﹁高すぎる。もっと安くしろ﹂ 俺は親指を下に向けた。 ﹁六千八百までだ。それ以下ならこのままフェリーに乗って帰る﹂ ﹁よし、いいだろう﹂ ﹁そうこなくっちゃ。全ての銃に犯歴なしだ。身元が割れることは ない﹂ 俺は金を払い、イーサンは素早く銃と弾を後部座席へ移し変えた。 作業が終ると、運転席のドアポケットから飲みさしのワインを出し、 ひと口含んで俺にも勧める。オージー式のセレモニーと思い、ぬる い液体を喉に流し込んだ。 ﹁使用済みになったら買い取るよ﹂ イーサンがずるそうに笑った。 ﹁ここへ戻ってくる気はない。レンタカーはどこかで乗り捨てる﹂ イーサンと別れた俺は、旅の準備をするため更に市内で買い物を した。一日目としたら出来すぎた日だった。 2( ) シドニーから、北へ千六百キロ走ったロックハンプトンのキャラ バンパーク オ(ートキャンプ場 で)目を覚ますと、パソコンの電源を 入れた。各サイトにライフラインが完備した五つ星のパークは、今 7 回の旅に欠かせない。飛行機は早いが、銃器を運ぶことは出来ない し、ホテルに泊まるのは相手に気付かれる恐れがあった。あえてシ ドニーからオーストラリアに入ったのも、いきなりクイーンズラン ド州に姿を現したくなかったからだ。 この三日間はこれから旅する大陸を知るのに貴重な時間だった。 落書きだらけのピ クニック・テーブルで食事をし、ガソリン・スタ ンドの汚いトイレでクソをたれ、人気のない海岸で銃の発射テスト を繰り返す。 ﹃旅は、おろか者の天国だ﹄と言ったのは米国の思想家 エマソンだが、きっと彼には人を殺すための旅など考えが及ばなか ったのだろう。 インターネットで調べたが、牧場主にビル・ヘイマンの名前はな かった。その代わり仲買人に同姓同名が二人見つかった。一人はヨ ーク岬半島に住んでおり、車で行くとなると、乾期の今でも相当な 準備が必要になる。そんなわけで、もう一人を先に当たることにし た。 ロックハンプトンから車で一時間ほど走ったヤプーンには、観光 客に人気のあるコアラを抱ける公園がある。その近くに二人目のビ ル・ヘイマンが住んでいるらしい。晩い午後だったが俺は冷たいビ ールが欲しくなり、道路沿いにある一軒しかない安酒場に入ってい った。 先客がいた。それも大勢。タバコの煙の中から、一斉に俺を睨ん でいる。モツ煮込みとビールの飲み滓が、すえた臭いを発し、注意 深く嗅がなくてもその中に小便の臭いが混じっているのが分かる。 カウンターの前に立ち、ビールを注文した。隣の労働者風の大男 は、皿に山盛りのモツを掻き込みながらワインで流し込んで いる。 ﹃フォスターズ﹄の缶ビールを目の前に置いたバーテンが訊いた。 ﹁観光客か? そうは見えないが::﹂ 確かに俺はワーク・ブーツを履き、ジーンズの上に羽織ったスエ ードの上着に黒い野球帽を被っていた。 ﹁人を捜している﹂ 8 ﹁どんな奴を?﹂ ﹁ビル・ヘイマン、アメリカの退役軍人だ﹂ ﹁何の用がある?﹂ 俺は飲み干した缶ビールをカウンターに置き、もう一本頼んだ。 バーテンは動こうとしないで、返事を待っている。 ﹁講演を頼みにきた﹂ ﹁講演? あいつに、アルファベットを最後まで言わすのも難しい﹂ 聞き耳を立てていた周りの客がどっと笑った。 ﹁勲章を貰ったのだろう? 非常時における危機管理について喋っ て欲しい﹂ ﹁兄貴には無理だ﹂ カウンターの端に座ってウイスキーの瓶を抱え込んでいた大男が 立ち上がった。背丈は俺より確実に二十センチ高く、体重は想像が つかない。顔の半分は髭で埋まり、たくし上げたシャツから覗く二 の腕はプロのゴルフバッグのように太い。 俺の喉仏の動きが聞こえるほど、酒場が一瞬静かになった。銃は 車の中に置いてきたし、素手で立ち向かうには好んで相手をするよ うな奴ではない。 ﹁あんたの兄貴は、ビル・ヘイマンか?﹂ ﹁よそ者に、用はねえ﹂ ﹁本物ならこっちに用がある。勲章を貰ったヘイマンか?﹂ 立ち飲みの客がさっと散り、俺との間を遮るものがなくなった。 大男がカウンターに手を滑らしながら近寄ってきた。 ﹁それならどうする?﹂ 太い指を丸めた拳骨が、顔の正面に飛んできた。わずかに躱す。 勢い余って目の前にきた髭面へ、両手で作った拳をテニスのバック ハンドの要領で叩き込む。生のハンバーグを潰したような音がした。 数多い過去の喧嘩の中で、自分より相手が先にへばって来るのを 知っているのか、鼻血を流し始めた大男の動きに衰えた様子はない。 酒場の狭いフロアーは、完全に俺達の争いの場となった。紙幣を数 9 枚握って囃したてる者もいる。 数回ジャブが行き交った後、飛んで来た大男の右フックを完全に ブロックできず、俺の身体が揺れた。左の拳が空いたボディにめり 込んでくる。一瞬息が止まり、頭が下がる。相手の膝蹴りの緩慢な 動きが目に入った。横に動き背後に回りながら、飛び蹴りで大男の 腰を突く。バランスを崩した肉の塊が傾き、カウンターの端で額を 打ち、スイカを床に落としたような音がした。 俺は素早く近づき、カウンターのワインの瓶で後頭部を殴りつけ た。瓶が割れ、赤い汁が飛び散り、巨体が床に転がる。唖然とする バーテンの前に、ポケットから抜いた十ドル札を置き店を出た。 酒場の外は埃っぽいが、涼しい風が吹いていた。路肩に停めた車 に近づき扉を開ける。 ﹁待ってくれ﹂ 振り向くと大男が、酒場のドアの枠に寄りかかっていた。俺はホ ルスターを引き寄せ、叫んだ。 ﹁勝負は着いた﹂ ﹁兄貴のところへ案内してやる。会いたいのだろう?﹂ ﹁会いに行って、戻ってこなかった奴がいる﹂ ﹁そいつは知らねえな。きっと間違って、ワニのいる水溜りへでも 入って行ったのだろう。会いたきゃ、俺のボロ車に着いて来てくれ﹂ 大男は鼻血で汚した顔を拭こうともせず、歩き出した。酒場の裏 手に車を停めているらしい。俺はランクルの運転席に座り、腰のベ ルトにリボルバーの入ったホルスターを留めた。S&W357マグ ナム。銃身の短いダブルアクションだが、そのエネルギーはコンク リートブロックを軽く割ってしまう。 建物の影から、やっとダットサンの文字が読み取れる錆びだらけ のピックアップが現われた。窓から顔を突き出した大男が、親指を 立て、ついて来いと合図している。 車は町を出ると、両側が何キロも続くサトウキビ畑 の中を貫く道 を走った。ちょうど収穫期で、農民達が焼いた茎から糖蜜の薫りが 10 漂い、疾走するタイヤの後には、赤い火山性土壌の砂と黒い灰が舞 っている。 一時間ほど走り、夕暮れが迫った頃、スレート葺きの平屋の前で 車が停まった。ユーカリの大木が既に黒い影絵のようになり、納屋 の屋根に被さっている。ピックアップが近づくと、二匹の犬が吠え ながら飛び出てきた。 俺は運転席に座ったまま、大男が玄関へ向かって歩き出すのを見 ていた。扉が開き、アジア人と見られる女が現われた。こちらに向 かってわずかに頭を下げている。 ﹁降りてきてくれ、兄貴は起きたところだ﹂ 大男が叫んだ。俺が車を出ると、首輪もない犬が足元から激しく 吠えた。雑種だが牧羊犬の血が混じっているらしく、攻撃する気配 は見せない。女の鋭い口笛で、犬はさっと散っていく。そのあと流 暢な日本語が聞こえた。 ﹁いらっしゃい、こんな辺鄙なところまでようこそ﹂ 畑仕事のせいか、歳よりは老けて見えるが、声は若い。と言って も、四十代の前半か。後ろに束ねた長い髪は黒く、通った鼻筋がエ キゾチックな感じを与えていた。 ﹁日本人に見えるが::﹂ 俺は手を差し出しながら言った。 ﹁関西の出身です ﹂ ﹁兄貴のワイフだ﹂ 大男が囁いて、玄関を入っていった。 ﹁どうぞ中へ、むさ苦しいところですが﹂ 俺たちは網戸を開け、部屋へ入った。三十畳ほどのリビングで、 奥にキッチンが続いている。部屋の中央のソファに針金のように痩 せた男が座り、テレビで日本製のアニメを見ていた。横に車椅子が 置いてある。 ﹁ビル、お客さんですよ﹂ 女が言った。痩せた男に反応はない。俺には、GIカットの頭に 11 一筋の傷痕が目に入っていた。多分、脳障害を起したほどの傷だっ たに違いない。 ﹁日本に里帰りしたことは?﹂ ﹁まだ一度もございません﹂ 俺には女が嘘を言っているようには思えなかった。部屋の端のサ イドボードには、戦時中の写真が数枚、フレームに収まっている。 その中の一枚だけが伏せてあり、裏に滲んだインキで﹃秋野景子﹄ と書かれていた。フレームを起すと、この女の若い時の写真らしく、 隣の誰かを意識的に切り取ったものに違いなかった。 その時、大男が缶ビールを片手に部屋に入ってきた。 ﹁兄貴に訊くことがあるのだろう?﹂ ﹁喋れるのか?﹂ ﹁無理だが、こちらの言うことは理解できる﹂ 俺は無心にテレビを見ている男の前に座った。 ﹁日本からあんたを訪ねてきた。質問に正直に答えて欲しい﹂ 男は怪訝な顔をしていたが、女を見て頷いた。 ﹁あんたは湾岸戦争で勲功章を貰ったビル・ヘイマンか?﹂ 男は俺が邪魔になるのか、身体を捩ってテレビの画面を覗き込ん だ。 ﹁質問に答えるのだ﹂ 俺はテーブルのリモコンを取り上げ、テレビのスイッチを切った。 突然男が、低い唸り声をあげ、腕を振り上げた。 ﹁ビル、おやめなさい﹂ 女のたしなめる声が響いた。 ﹁兄貴はテレビだけが生きがいなんだ﹂ 大男が飲み干した缶ビールを握りつぶしながら言った。 ﹁これじゃ、質問しても意味が ない﹂ 俺がぼやいたので、女があとを継いだ。 ﹁私で良かったら何でも訊いてください﹂ ﹁頭の傷は?﹂ 12 ﹁湾岸戦争の終わりごろ、イラクの狙撃兵に撃たれたものです。命 は助かりましたが、ごらんのような状態で::﹂ これでは日本へのこのこ出かけ、天声会の会長を狙撃することな ど不可能だ。俺はこの部屋の息苦しさが気になり出したところだっ たので、早くここから出たかった。 ﹁これでは講演を頼むのも無理らしい。帰るとするか﹂ 俺は立ち上がった。 ﹁遅いですし、近くにホテルはありません。泊まっていって下さい﹂ 女は哀願口調で言った。久しぶりの日本人に会って、四方山話が したいのだろうか。悪いが俺には付き合っている閑なぞなかった。 ﹁車の中で寝るのは慣れているし、先を急ぐから失礼する﹂ 玄関を出ると、女は立ち止まり、大男が車まで送って来た。後ろ の座席をじろじろと覗き込みながら言った。 ﹁銃を積んでいるのか?﹂ 兄貴のワイフか、傷痍年金か?﹂ ﹁アウトバックでキャンプを張るからな。それにしてもあんたの望 みは何だ? 大男が言葉を理解し、窓ガラスを割らない内に、俺は車を出した。 3( ) 三代目の涛子にメールを送っ たのは、内陸部へ一旦入り込むカプ リコーン・ハイウエーに小さなキャンプ場を見つけてからだ。 ︽ビル・ヘイマンは狙撃者にあらず︾ 夕食は、クラッカーにコンビーフを薄く切ってを挟み、タバスコ で味をつけ、紙パック入りのワインで流し込んだ。仕上げにインス タント・コーヒーを飲みながらメールを開くと、涛子から返信が届 いていた。 ︽あと二人ね。厳しい追い込みがなければ、相手は本当のことを喋 らない︾ 仕事のやり方で涛子の指示に従う気はなかった。俺は焚き火の傍 13 で夜空を見上げた。大阪では見ることの出来ない大きな星が、バー チャル画像やCGで表現できない輝きで迫ってくる。こんなロマン チックな夜に、女と一緒でないのが少し口惜しく、車からウイスキ ーの瓶を取り出し、半分ほど飲み寝袋に入った。 男と逃げたホステスのマリは、思い出すだけでも忌々しいが、妻 の奈津美と家を出て行った娘の博美には、この旅が終れば会ってみ たい。博美は多感な年頃だ、出来の悪い父親を呪っているかもしれ ない。 朝五時、強烈なフォーンで目を覚まされた。木立の間を六両編成 のトレーラーが走り抜けていく。タイヤの付いた貨物列車が、この 大陸では有用なのか。朝食にはドライフルーツと、残っていたイン スタントコーヒーを温め直し飲んだ。気温は少し肌寒いが、この辺 りは冬の今がベストシーズンだろう。 キャンプ場には三台の車が泊まっていた。俺以外はまだ眠りから 覚めていない。パラボラアンテナを広げ、パソコンのスイッチを入 れた。ベトナム人カオ・バン・スンを検索する。事務所はブリスベ ンだが、牧場で働いているのが分かった。 牧場はケアンズから北へ、キャップテン・ハイウエーを一時間ほ ど走った沿岸部から、三百万坪の扇型で内陸へ広がっている。近く には高級リゾート地のポートダグラスがあり、俺も仕事が終れば寄 ってみたい。 ﹃P&D食肉商会﹄が正式名称で、豊富な牧草が茂る放牧場と、出 荷前に段階的に飼育させる囲いを持つ、肉の生産工場だ。もっとも まだ見たわけではないが、ブリスベンで仕入れた業界紙にはそう書 いてあった。 俺は荷物をたたむと車を出した。キャンプ場の外に延々と続くブ ッシュは、輝き始めた朝日にも葉っぱの色を鈍らせ、今日の暑さを 予想させた。この国の北側は年がら年中、夏なのだろうか。 田舎町ルムーラは、日本のスーパーが委託する食肉会社がなけれ ば、若者など一人も居着きそうにない何の変てつもない町だった。 14 言い方を変えれば、この会社のお陰で従業員のアパートがあり、車 の修理工場があり、チャーター便の発着できる空港がある。俺は五 百人のスタッフが出入りする入場門を見ていた。ガードマンが二人 立ち、トラックの積荷と伝票のチェックをし、乗用車の運転手はセ キュリティーカードを本人かどうか確かめられている。 訪れた意味が違う俺は、堅固な門から入るのを諦め、工場の裏手 に続く牧場のフェンスに沿って車を走らせた。フェンスを境にこち ら側はブッシュなのに、内側は緑の絨毯のように豊富な牧草が茂っ ていて、牛の肉付きも良い。おそらく人工的な灌漑施設が完備して いるに違いない。 牧場はところどころで仕切られており、工場を離れるにつれ、牛 も痩せてくる。暫らく走ると放牧場に出た。上空と地上で爆音が聞 こえる。モトクロス用のバイクに乗ったカウボーイが、犬と一緒に 牛を追っている。上空のヘリが無線で指示しているのだろう。 ベトナム人のカオが、この広大な敷地のどこで働いているのか知 らないが、フェンスの中に入り込まないと話にならない。俺はフェ ンスの上に取り付けてある監視カメラを見た。おそらくセンサーと 連動したCCDカメラに違いない。一旦フェンスから離れ、 再び小 さな町へ戻った。 昼過ぎていたが、久しぶり人間らしい食事にありつきたい。通り に面して立つ、一軒のレストラン﹃デニーズ﹄へ車を進めた。角の 電柱に、マジックインキで乱雑に書いた張り紙がしてあった。ロス ト・ペットと書いてある。行方不明になった犬でも探しているのか と思ったら、タランチュラ、スパイダーと続いている。この国では 猛毒を持つ大蜘蛛でもペットになるらしい。 張り紙のせいでもないが、俺はウエートレスが勧めるワニのステ ーキを頼んだ。郷に入れば郷に従えだ。良く冷えた白ワインと食え ば、食材が何であろうと喉を通る。腹が満たされると、もう一つの 欲望が目覚めてきた。 小さな田舎町に、そんな欲望を叶える場所があるとは思わなかっ 15 たが、前の客が残した新聞に﹃エンジョイ・ハウスは二十四時間営 業﹄とあったので、レストランから電話をかけてみた。 町外れの館は、入口に小さな看板を出しているだけで、﹃オープン﹄ と鎖を付けた板がぶら下がっている。呼び鈴を押すと、ドアの覗き 窓が開いた。 ﹁何の用?﹂ 値踏みしているような言い方だった。 ﹁ランチを済ませたところだ。気分がよくなったので訪ねてみた﹂ ﹁誰でも腹がふくれると、チタくなるものさ﹂ オージー訛りがひどく、薄い髭が生えているので、どちらとも取 れる顔が頷き、ドアが開いた。長袖のワンピースを着た女が現われ、 素早く俺を引っ張り込む。胸の辺りに白いフリルが付いているが、 俺の倍は体重がありそうで、気持ちが良くなる保証はなさそうな女 だった。 ﹁昼寝をさせてくれるだけでいい﹂ ﹁時々、そう言う客もいるよ﹂ ﹁美女の館だと思ったが::﹂ ﹁ヨーク半島に住むイリエワニに比べれば、カワユイものさ﹂ 俺には毒を持ったペットでも、逃げ出す理由がわかった。 ﹁この館の住人は?﹂ ﹁今は、私だけだよ。どっちにしろ金はあるのだろうね?﹂ ﹁昼寝をするぐらいなら﹂ ﹁八十ドル。熱いシャワー付だから安いものさ﹂ 女は右手の親指と人差し指を擦っている。俺は仕方なく財布から 八枚の十ドル札を抜いて女に渡した。案内された二階の部屋は、ロ ココ調にディスプレーされたバス付の寝室だった。寝袋と違って、 数時間は熟睡できそうだ。服を脱ぎシャワーを使った。毛穴まで入 り込んだアウトバックの細かい砂を落し、バスルームを出る。 ベッドが小山のように盛り上がり、女がこちらを見ていた。好色 さが招いた過失だが、俺は揉め事を起したくなかった。バスタオル 16 を巻いた身体をおずおずとベッドの端から入れた。何も着けていな い人肌に触れ、大事なところが縮み上がる。 ﹁静に寝させてくれ﹂ ﹁すぐ寝息を立て始めるわ﹂ 女の分厚いが柔らかい手の平が股間を触った。俺は目を瞑った。 しかしその後の三十分は、支払った金額に充分見合う時間だった。 手の動きで蘇った俺のペニスを、女は口と身体の一部を使い翻弄し 萎えさせた。ことが終った後、女がシャワーを使い再び俺の傍に来 た。 ﹁アメリカドルだったので一生懸命サービスしたよ﹂ ﹁オーストラリアの女が、金勘定に疎いと思ったのを 撤回する﹂ 俺は親しみを込め女の肩を抱いた。 ﹁ここに来る客はどんな奴だ?﹂ ﹁あんたみたいなコースを外れてたどり着いた旅行者に、地元の食 肉会社のカウボーイ達ね﹂ ﹁アジア人も来るのか?﹂ ﹁来るよ。コリアン、チャイニーズ、ベトナミーズ、ジャパニーズ。 みんな好きものだね﹂ 女はニーズと強調し、侮蔑感を露にしたが、俺にはどうでもよか った。 ﹁ベトナム人は、ここの食肉会社に勤めている奴か?﹂ ﹁そうさ、いつも牛の血の臭いをさせているからね﹂ ﹁カオ・バン・スンという男が来たことはないか?﹂ ﹁アジア人は皆、 同じ顔に見えるからね﹂ 女が狡賢そうな表情を浮かべた。 ﹁思い出してくれ﹂ 俺はサイドテーブルの財布から、十ドル札を一枚抜き取った。 ﹁確かにベトナム人が一人、 肉を捌く所で働いていると聴いたけど﹂ 女は無表情で、指の間の札を摘んだ。俺は指に力を入れ、抵抗し た。諦めた女が白状した。 17 ﹁頬骨の出た小さい男だよ。 体重は私の太ももぐらいしかないけど、 セックスは強いよ﹂ ﹁外見の特徴は?﹂ ﹁髪を金髪に染めている。似合わないのにね。まるっきり猿さ﹂ 女は素早く紙幣を取り上げた。 ﹁どこに行けば会える?﹂ ﹁給料日はここにくるけど、まだ五日はあるね。デニーズなら夕方 から、 唐辛子の入ったビールを飲んでいるよ。 でも構わないことね。 すばしっこく、喧嘩に慣れていて、ナイフが上手いよ﹂ ﹁助かった。少し寝させてくれ﹂ ﹁いいよ。次の客が来たようだから﹂ 女は恥ずかしげもなくベッドから出ると、ワンピースを頭から被 った。 オーストラリアは、 何から何まで大味だと言った奴がいたが、 一つの現象で全てを測ったからだろう。起されたのは夕方の五時だ った。 客が立て込む時間になったので、 部屋を空けて欲しいらしい。 俺は熱いシャワーを浴び、館を後にした。 六時きっかり、金髪に染めた小男がデニーズへ入っていくのを、 俺は車の中から見ていた。ジーンズに、背中に龍を刺繍したジャン パーを羽織っている。身のこなしが軽く、まるで野生の動物が這っ て歩いているようだ。女が言ったナイフのことを思い出し、脇腹の 傷痕が疼いてくる。 あれは師走に入ってすぐの事だった。若い男を始末するように連 絡が入った。殺しの依頼は、最高幹部が直接言ってくるようなこと はない。ナンバー・スリーぐらいの幹部が、俺を呼び出し、写真と 資料を渡してくれる。いつものように消す理由は言ってくれない。 若い男を見つけたのは関西国際空港。海外へ逃げようとしていた。 慎重に後を尾けたのに、俺にも油断があった。まさか飛行機に乗る のに、刃物を持っているとは思っていなかったから。 駐車場に追い詰められた男は、見逃してくれと言った。組織から 大学まで行かせて貰ったのは自分だけだし、きっと組のため恩返し 18 をすると約束した。俺は黙っていた。判決が下された人間をどうす ることも出来ない。俺の仕事は執行官。 拳銃を抜き、サイレンサーを取り付けようとした。男は身体ごと ぶつかってきた。隠し持ったナイフは俺の脇腹を突いたが、銃口を 男のこめかみに当て引き金を引いた。即死だった。強力な止血剤を 車に積んでいたので、俺はとりあえず大阪市内まで何とか辿り着き、 組織が抱えている医師に診てもらった。 事件は新聞に載ったが、死んだ男が組織の準構成員ということも あり、喧嘩の果てに殺されたのではないかと判断され追跡記事は出 なかった。その事があってから、俺は殺す相手を二メートル以内に 近づけたりしない。刺されたのはセラミック製のサバイバル・ナイ フで、片方の刃がギザギザになっていた。そのせいか、時々なにか の拍子に疼きがぶり返す。 デニーズの入口を見張って二時間。入る者はいても、出てくる者 はいなかった。八時五分過ぎ、金髪の小男が現われた。携帯電話を 耳に当てている。俺は暗闇でも見える暗視スコープをバッグから取 り出し、カオ・バン・スンの様子を窺った。顔が小さく、年齢を推 測するのは難しい。 一台のミニバンが、店の前に滑り込んできた。スモークガラスで 中の様子はわからない。助手席にカオが乗り込むと、車は走り出し た。既にエンジンを掛けていた俺は、百メートルほどライトを消し て走り、対向車のタクシーとすれ違った時に初めて灯りを点けた。 ミニバンは俺が懸念した通り町中を 抜け、海の方へ向かっていた。 あまり遠くだと、尾けているのを悟られる恐れがある。標識が現わ れた。 ポートダグラスへ行くつもりらしい。俺は前方と距離を取り、 追い越したタクシーを挟み後を追った。 ミニバンが右折する気配を見せた。 ﹃ミラージュ・カントリー﹄の 標識が出ている。ゴルファーなら噂に聞く、オーストラリア屈指の 美しいリゾートコース。俺は直進しT字路を過ぎると、車をゴルフ コースの細いメンテナンス道路に乗り入れた。ミニバンのライトが 19 曲がりながら、コースの奥へ消えていく。 前方にぼんやりと光のもやが浮かび上がった 。俺の勘が当たって いれば、ラグーンプールにそそり建つ白亜の宮殿のような﹃シェラ トン・ミラージュ・ホテル﹄だろう。 車を停め、辺りの様子を窺った。ミニバンがホテルへのアプロー チ道路を走らなかったのは、何か訳があるに違いない。ベルトにク リップで留めたホルスターの拳銃を確認し、咄嗟の時の言い訳に、 デジタルカメラを首に掛け観光客の振りをする。車を降り、暗視ス コープを目に当て歩き出した。 コースをセパレートするユーカリの木の間を慎重に歩くと、ミニ バンがニッパヤシの陰に停まっているのが目に付いた。さらに二十 メートル進み、芝生に伏せた二つの頭を見つける。頭の向く方にア クアブルーに輝くプールが浮かび上がり、 何かのパーティーらしく、 ビキニ姿の女やタキシードの男がグラス片手に談笑していた。 ガードマンは広いプールサイドの端に数名いるだけで、こちら側 には見当たらない。俺はレストランで見た記事を思い出した。国際 オリンピック委員会 I(OC の)次期会長が、ここに投宿しているの を。 二つの影が起き上がり、ケースを開くと、細い棒のようなものを 取り出した。銃身に間違いなければ、狙撃銃を組み立てる準備をし ている。俺は腰のリボルバーに手を掛けたが思いとどまり踵を返し た。こんな所でブッ放せば、プールサイドの客にも危害が及ぶ。 素早くゴルフコースから車を出し、携帯でホテルへ電話する。繋 がったフロントへ短く言った。 ﹁プールサイドの反対側に、痴漢が潜んでいる﹂ 俺はガードマンが走っていくのを想像しながら、通りで待ってい た。あんのじょうミニバンが猛烈なスピードでコースから現われ、 クック・ハイウエーへ戻っていく。 ハイウエーに出たミニバンは、タイヤを軋らせながらスピードを 落とさず、ケアンズの方へ向きを変えた。十五分近く走るとブレー 20 キランプが点滅し 、左折して消えた。 道路沿いに建つ営業していないレストランだった。ミニバンは裏 手の駐車場に入ったらしい。俺は三百メートルほど通り過ぎ、路肩 に停めると車を降りた。首からデジカメを吊り、背骨の辺りのベル トにもオートマティックを差し込んでいる。 星明りの下、歩く道路の右側は絶壁になっており、トリニティー 湾から打ち寄せる波が砕け散っている。磯の香りが日本海ほどしな いのは、海藻が少ないためか。建物に近付くにしたがって俺はガー ドレールを越え、絶壁の上の岩場を歩いた。 廃業したレストランに人影はなかった。しかしミニ バンは海へ尻 を向け駐車している。俺はリボルバーを抜き、車の中を覗いた。フ ィルムを貼ったガラス窓から確認しにくいが、空っぽなのは分かる。 勝手口の扉を押してみた。 ロックされている。 板壁に沿って歩くと、 連装の張り出し窓の一部が壊れているのが見つかった。潮風で中の クロスがめくれ、音を立てないで揺れている。 中の様子を窺い、俺はそっと部屋の中へ潜り込んだ。眼が慣れる のを待って動いた。客席フロアらしく、テーブルと椅子がかなりの 数で並んでいる。躓かないように歩きながら聞き耳を立てた。微か だが二階の方から笑い声が漏れてくる。階段の軋みに注意しながら 一歩ずつ上がって行った。 階上の踊り場から覗くと、二人の男が影絵となってベッドの端に 座っていた。時々、サイドテーブルの上でカツカツと音を立て、鼻 を近づけては吸い込んでいる。コカイン常習者が、良質な粒状のヤ クをカミソリで刻んで吸い込むのは、手入れの時見たのと同じだ。 二人が路上にたむろするゴロツキなら簡単だが、狙撃者と助手な ら、どこかで訓練を受けているはずだった。軍隊なら攻撃に対する 反撃も当然習っている。俺は背筋に寒気を覚えながらも一、二、三 と数え、勢いをつけてドアを蹴った。同時に、マグナムを小男に向 かって発射する。衝撃の大きさでベッドの端まで転がり、壁に両足 をつけ逆さまになった。 21 床に倒れベッドの下に隠れた男が発砲した。マットから飛びぬけ た弾が、頬を掠める。俺も残りの弾をつるべ撃ちし、さらに背中の オートマチックを抜き、倒れこみながら連射する。銃の発火の明か りで、男の頭がザクロのように割れて見えた。 硝煙の香りが部屋に充満し、血と排泄物の臭いが漂ってくる。窓 を開け、潮風を入れた。逆さまになった男をベッドに横たえ、鼻に 手を当てる。まだ息があった。髪が星明りで金色に光っている。 ﹁いいか良く聞け、カオ・バン・スン。天声会の会長を狙撃したの はお前達か?﹂ カオは怪訝な顔で俺を見ていた。 ﹁会長に恨みがあったのか?﹂ ﹁::コキやがれ﹂ ﹁お前はもう長くない。最後のヤクをやるから喋ってみろ﹂ ﹁::ヤクをくれ﹂ カオの腹からは絶え間なく黒い液体が吹き出ていた。その上をリ ングの嵌った手が押さえている。 ﹁喋るのが先だ﹂ カオの口から舌打ちがもれた。 ﹁天声会はウチが輸出する肉一キロに、私設関税を五円掛けていた。 それを倍にすると通告してきた﹂ ﹁それで殺ったのか?﹂ ﹁::ヤクをくれ﹂ 言葉に力がなくなった。俺は床にこぼれた白い粉を摘んで、鼻に 持っていった。突然、カオの左手が伸び、拳銃を握っている手を逆 手に取った。目の前でナイフが光り、肩に刺すような痛みが走る。 俺は手刀で払い、頭突きをカオの額にかち込んだ。自由になった拳 銃を小さな胸に押し付け引き金を引く。ピクリと動いただけで、そ れ以上の余力は残っていなかった。 もう少し話を訊きたいのに、喋るような相手ではなかった。俺は ベッドの下の男を引っ張り出し、カオの横に並べて寝かせた。転が 22 っているナイフで、左手の小指の第二関節から切り落とす。むかつ く仕事は早く済ませたかった。デジタルカメラで、ベッドの二人を 撮り、切り離された指を、欠けた手に添え拡大写真を撮った。フラ ッシュに垣間見たカオは猿のように皺が多く、相棒はにきび面の白 人だった。 現場から、一時間ほど走った。かなりのスピードだったので百キ ロ近くは離れたことになる。死体は絶壁から海へ投げたし、ミニバ ンはブッシュに隠した。あのレストランに他人が入ったところで、 血で汚れたマットレスが何を意味するか理解できないだろう。 肩の血で、上着の下のシャツはぐしょぐしょしていたし、パンツ のゴムの周りまで血で濡 れている。車をブッシュの中へ入れ木立の 間に車を停めた。裸になり、簡易シャワーを使って身体を洗う。傷 口は切るというより、突かれた穴が開いていた。消毒液を流し込み、 止血剤を塗ったガーゼを当てるとテーピングする。 ウイスキーをマグカップに注ぎ、半分ほど飲んだ。料理を作る気 にもなれず、チーズの塊を口に入れる。薄暗い車内灯の下でパソコ ンをセットし、涛子へメールを送った。 ︽ベトナム人のカオ・バン・スンと相棒を始末した。証拠はデジカ メの写真を見てくれ。あんたの組は、日本のスーパーが持っている 食肉牧場を脅し、キロ当たり十 円の口銭を取ろうとしていた。耐え かねた会社側は、天声会の会長に賞金を掛けたのかもしれない︾ 死体から小指を切り取り、ワインに漬けて日本へ送れ、と言った のは涛子からだ。忌々しいから、釣り糸で結んで運転席のミラーに 掛けてある。カラスに盗られなければ、干乾びたのを封書で送り付 けてもいい。 鎮痛剤を飲んだので痛みはだいぶマシになった。寝袋を地面に敷 いて野宿の用意をする。薬とアルコールのせいで眠くなってきた。 用心のためショットガンを抱いて寝る。 4( ) 23 痛みで目が覚めたが熟睡できたのだろう、頭はスッキリしている。 涛子からメールの返信が入っていた。 ︽残りの一人を確認するまでは、安心できない︾ 上官を誤って殺した熊谷銀二は、陸上自衛隊信太山駐屯地の特殊 破壊班で、爆破支援のスナイパーだった。爆薬を仕掛けている間、 周囲の敵から仲間を護る役目で、事件当時は雨だったらしい。 三名のスナイパーの腕があんまり悪いので、怒った上官が標的の 前で こ「こを狙え と 」言った。熊谷は皆が見ている前で、その上官の 胸を一発で捉えた。 裁判の争点は、普段から仲が悪かった上官と部下の軋轢が生んだ 事件として取られ、熊谷は五年の実刑を受けた。射撃の技術が下手 だったのではなく、雨の日にカッパも無しに訓練を続けさせた上官 に反発した仕業だと考えられた。服役後、熊谷が選んだ仕事は狩猟 家だった。オーストラリアの国内を、季節に応じて移動するサファ リ・ハンティングのガイドは、野生の牛や豚を狩る。今はクイーン ズランド州最北部のアボリジニ保有地にいるらしい。 優秀なプロのガイドは、俺から二日の行程の場所で、アボリジニ のために家畜を襲う野犬を狩っているのか。とにかく熊谷が移動し ないうちに追いつきたかった。観光案内地図には、二軒のガス・ス テーションが印さ れていたし、豊富に積んだ缶詰類以外の油と水は そこで補給できるはずだった。 朝食にサバの味噌煮の缶を開け、クラッカーに乗せて食べる。肩 の傷は薬のせいで、鈍痛に変わっていた。以前、腹を刺された時も そうだった。刺した男の名前は忘れたが、組員には滅多に見かけな いインテリ風な奴で、語学も堪能に見えた。俺が見張っているとも 知らず、外人の観光客と話し合っている姿は、空港のスタッフと見 間違えるほどだった。 オーストラリアは奥地に入ると、何日でも人と会わずに済む。こ の二日間に会ったのは、二軒のガス・ステーションと二人の老人だ 24 けだった。どちらも後継ぎがいないから、いずれは店が閉鎖される ことになるだろう。肩の傷はだいぶマシになった。毎日取り替える ガーゼに、滲み出る血の量が減ってきている。 既にアボリジニの保有地に入っていた。保有地と言っても五十キ ロメートル四方だから、上手く行けば夕方までに接触できるはずな のに、熊谷の気配はない。ブッシュの中にユーカリの木が茂る保有 地は、確かに肥沃なのかもしれないが、アボリジニから奪った土地 に比べればアンパンに乗るゴマ以下だ。 突然、 ヘッドランプの割れる音がした。 続いてライフルの衝撃音。 音速を越えた弾が飛んで来たのが分かる。俺は頭を伏せ、車をバッ クさせながら、比較的大きなユーカリの木陰に車を入れた。ショッ トガンを抱き、素早く外へ滑り出て、車の下に潜り込む。スコープ の付いたライフルに身を晒したら、相手がプロならひとたまりもな い。俺は大声で叫んだ。 ﹁熊谷、お前だと判っている。出てきて話し合おう!﹂ 返事はない。 ﹁こちらから撃つ気はない﹂ 俺は嘘が見破られないか心配した。反応があった。 ﹁銃を捨て、両手を上げて出て来い﹂ 三流西部劇でも、今時こんなセリフは出てこない。俺はショット ガンを投げ出し、車の下から這い出た。プロのガイドは風下から獲 物に近付くはず。風下に背中を向け、ベルトのオートマチックを見 られないように立ち上がる。暫らくして背後から声がした。距離に して二十メートルか。 ﹁何の用で追って来た?﹂ ﹁天声会の会長殺しの疑いが掛かっている﹂ ﹁昔、吉井さんにはスカウトされたことがある﹂ ﹁組織の中には、吉井が裏からあんたを操り、会長を狙わせたと信 じている者もいる﹂ 背後で軽いボルト・アクションの音がした。弾が、チェンバーに 25 送り込まれた。初弾を外せば、こちらに分がある。 ﹁勝手に思わせといたらいい。それより、一度はマンハントをして みたかった﹂ ﹁自衛隊でやったのだろう?﹂ ﹁あれは事故だった﹂ ﹁俺を狩るつもりか?﹂ ﹁逃げてくれたほうが面白い﹂ ﹁俺は野生の豚みたいに速く走れない﹂ 熊谷の一歩近付く音がした。 ﹁五分待って、追いかける﹂ ﹁俺にそんな悠長な時間はない﹂ 言葉が終らないうちに、左へ飛んだ。目の前で土煙が上がり、轟 音が耳を劈く。既に俺は右手に拳銃を握っていた。転がりながら、 熊谷のボルト・ハンドルを引く手元へ向かって、引き金を三度、立 て続けに引いた。白いサファリジャケットに、徐々に赤い染みが浮 かんでくる。 ライフルが地面に落ち、その上に熊谷の上体がゆっくり崩れた。 俺は両手で拳銃を握り、近寄ると足で上体をひっくり返した。ポケ ットから折りたたみナイフを出し、 熊谷の左手の小指を切り落とす。 車に戻りデジカメを持ち出すと、全身像と左手のズームアップした 写真を撮った。忌まわしい仕事だが、涛子へ撮ったばかりの写真と メールを送る。 ︽熊谷銀二を始末した。以前、幹部の吉井さんにスカウトされたこ とがあったらしい。会長を撃ったかどうかの返事は取れなかった︾ 俺はパソコンを仕舞い 、切り取った小指を釣り糸に追加し、運転 席のミラーに吊った。マグカップにウイスキーを半分ほど入れ、外 気で熱くなった炭酸水を抜き、普通では飲めたものではないハイボ ールを造った。スカッと爽やかにいきたいところだか、腐りかけの 風邪薬みたいで、飲みかけを捨てる。乾いた大地が一瞬に吸い込み、 もっとくれとせがんでいるようだ。 26 運転席に座り、熊谷を見た。三十歳を越えたばかりだろうが、日 焼けした顔が年寄り臭く見せる。三日もすれば野生動物の餌になり、 骨だけになるだろう。俺は、撃たれてどこかのドブにはまり込んだ、 自分の分身を見ているような気がした。無性にアルコールが欲しく なり、再びマグカップにウイスキーを注ぎ、半分啜り、残りを熊谷 に掛けた。そしてサンバイザーの間に挟んだキャメルの箱から一本 抜き取り火をつけ、ブレーキをリリースすると車を出した。 5( ) 目の前で揺れる三個の小指を見ていると、小さな操り人形のよう で眠くなる。それでなくても単調な道のりなのに、二度目ときてい る。帰りに寄った最初のガス・ステーションには、ヘッドランプの スペアは置いていなかった。それでも白い顎鬚の店主は、申し訳な さそうに冷えたビールはいらな いかと、訊ねた。俺は半ダースもら い、ガソリンを満タンにする間に二本空にした。 ブリスベンの以北で一番大きな街、タウンズビルに戻って来るま で、涛子から返信のメールは届かなかった。届いたのは久しぶりに バックパッカー用の安宿で、シャワーを浴びたあとだ。 ︽返事が遅くなってごめんなさい。 ゴルフで二日ほど旅していたの。 吉井は既に現場の人間ではない。仕事は完了したわけだから、振込 み銀行が分れば金は送る。しかし会長暗殺に誰が荷担していたのか 判らなかったから、オプションは認めない︾ 吉井に何が起こったのだろうか。うしろで糸を引いたのが誰かは っきりとはしなかったが、オプションの五千万を一切認めないのは、 涛子らしいやり方だ。一度、曖昧さを認めると、組織の運営は成り 立たなくなる。涛子はワルを見せびらかすガキではなく、したたか な三代目を歩き始めているようだった。 南へ下る退屈なブルースハイウエーも、人並みの食事とベッドの 上の睡眠で、快適に飛ばしていた。相変わらず吊るされた小指は、 27 車の振動で飛び跳ねているし、水分の抜けたぶん、三日前に落とし たシーズー犬のクソほどに縮んでいる。 肩の傷は疼く程度で、運転に支障が出るほどではない。体の調子 が戻ってくると、頭もスッキリする。今朝、歯磨きしている時、以 前、俺の腹を刺した若い男の名前を思い出した。アキノとか言った。 どうってことはない。俺にこめかみを撃たれ、既にこの世にいない 人間だ。 秋野清隆は組織から学費を出してもらって、東京の有名私大を卒 業した。預かった資料の顔写真の横に略歴が書いてあったから、そ うなのだろう。どんな不始末をして殺される羽目になったかは知ら ない。 ::チクショウ、追い越した大型トレーラーの排気ガスが、ま ともに車内へ入ってきた。 ビル・ヘイマンの家にいた女も秋野だった。名前は景子。写真の 裏に書いてあったからそうに違いない。もし関係があるのなら、ど ういうことになる。単なる偶然でも、俺は疑問が浮かぶと、どうし ても確かめなくては気が済まない性分だ。どうせ長い帰り道。あの 大男に会うのは気が進まないが、もう一度ロックハンプトンの郊外、 ヤプーンへ寄ってみてもいい。それにしてもこの国に、雨降りはな いのか。テレビで垣間見る天気予報でも、太陽のマークがぎらぎら している。 ヤプーンへ到着したのは、午後四時ごろだった。稼ぎの良い弁護 士や不動産屋なら家族のもとへ帰る時間帯でもある。俺はいきなり 訪ねて行くようなことはしなかった。こっちが秋野に興味を持った としたら、相手も俺のことを忘れていないかもしれない。 暗くなるのを待った。ヘイマンの家は一軒家で、一番近い隣の家 からでも二十キロは離れている。オーストラリアでは珍しいことで はないし、連中も離れすぎているとは思っていない。 俺は農道の傍に茂るバナナの木の下に車を停めていた。百メート ルほど西側に灌漑用水の池があり、表面を水草で覆っている。ここ からだとヘイマンの家の玄関が、双眼鏡で確認できた。しかし人の 28 顔まで判別できない。どっちにしろ住んでいるのは、車椅子のヘイ マンと日本人妻の景子に大男。体型を見れば誰か判る。 玄関に明かりが灯ったのは、夜の八時過ぎだった。夕食を終えた のかもしれない。腹が満たされ敵愾心が薄れるのを願った。俺は後 ろの座席から毛布の下に隠していたショットガンを取り出し、十番 用の四号散弾を装填した。一度に二五〇の鉛粒が飛び出るバラ弾だ が、命中パターンが密になり当たる確立も増大する。 リボルバーは腰のホルスターに留め、オートマチックは背骨の辺 りのベルトに差し込む。もう一丁の自動拳銃にはテフロン加工した 弾を詰め、車を降りるとフロントタイヤの陰に隠した。 その時、車の走る音が聞こえてきた。双眼鏡の焦点を絞る。前方 屋根に、派手なライトを数個付けた四輪駆動車が、土煙を上げヘイ マンの家に近付いていく。 玄関に到着すると、家の中から大男が出て来て、手を挙げた。車 から三人の男達が降りてきた。いずれもライフルを握っている。夜 間にカンガルーでも狩りに行くのだろうか。 様子を見ることにした。居間の明かりに人影が動いている。 二時間経った。出てこないところを見ると、ビールでも飲んで狩 りの自慢話をしているのかもしれない。さらに二時間経ち日付が変 わる頃、やっと居間の明かりが消えた。空を見上げると、いつの間 にか雲が覆っている。空気も湿気を含んできていた。オーストラリ アに来て、初めての雨に出会うのだろうか。 野宿に近い張り込みが続き、空が白み始めたので俺の決断もリミ ットを迎えた。金は涛子が約束したし、ここに留まる理由はなかっ た。でも、何かが引っ掛かる。このまま行き過ごすと、二度とこん な辺鄙なところへは戻って来ない。訊ねて行き秋野景子の素性を質 し、あわせてもう一度ビル・ヘイマンの事件との係わりを洗ってみ てもいい。とにかく涛子に聞いた三人の内、生きているのはヘイマ ンだけなのだから。 しかし俺がここにいる本当の理由は何だろう。オプションを成功 29 させ、涛子とベッドを共にすることだろうか。確かに、あのしっと りとした若いラブラドール種みたいな浅黒い肉体のためなら、人殺 しも逡巡させない何かがある。だけど今、家の中にいる三人のガン マンと大男相手に勝てる見込みはない。 結局、俺は死に場所を見つけているのかもしれない。この仕事を 始めてから、死はいつも脳裏から離れない。だから冷酷になれる。 死ぬ気でやらないと生き残れないのは確かだが、大阪へ戻ったとこ ろで、これ以上状況が良くなるわけでもない。見知らぬ土地で、見 知らぬ奴に撃ち殺されるのも俺には似合っているかもしれない。 一体いつから人生が狂い始めたのか分からないが、元はと言えば 収賄で捕まる原因となったあの女、マリからだ。 ::チクショウ、ど うでもいいけど中途半端でこの国を離れる気にはなれない。 バナナの木陰の車へ這って戻り、小便を済ませ、チーズを口に含 み水で流し込んだ。再び張り込み場所に座り、双眼鏡で様子を窺っ た。玄関から入って行き、 景 「子さん、親戚はいますか? な」んて訊 けたらいいのに。俺のビビッた考えを嘲笑うかのように、カラスが 鳴いた。 ここから玄関まで、約 二百メートル。周囲は果樹園になっていて 低木が一定の間隔で並び、列の間は給水用の側溝が掘ってあった。 もっとも手入れはあまりしてなく、雑草がかなり茂っている。百メ ートルは側溝を這って進めるから隠れられるが、残りの百メートル は恐らく丸見えの状態だろう。 気持ちは決まった。中途半端はケガの元。俺は這って百メートル 進むと、立ち上がり、納屋へ向かって駆けた。二匹の犬が吠えなが らこちらへ走って来る。閃光があがったのは居間の右端からだった。 すぐ傍の果樹の葉が散って舞い上がる。轟音の後に、怒声が聞こえ た。犬が驚いて納屋へ戻っていく。相手も俺が動くのを待っていた。 やめるには遅すぎる。昨夜訪れたのは、やはり応援のガンマンだ った。開いていた納屋の扉が閉まり始めた。中に誰かいる。俺は走 りながら、ショットガンを両手に構え、地面に倒れこみ、引き金を 30 引いた。乾いた爆発音の後に、納屋の扉にスイカほどの穴が開き、 その周辺に無数の鉛の染みが浮く。フォアーエンドを手前にスライ ドし、排莢口から空のケースを吐き出させる。 続く二発目は扉の中央を壊し、ライフルを小脇に抱えた男が顔を 血だらけにしてよろめき出てきた。体当たりで倒し、納屋へ転げ込 む。ゴルフ場で使うような、トラクターが押す大型草刈機の傍で、 血だらけの犬が二頭横たわって虫の息をしている。 母屋へ続く通路に人影が映った。相手の発砲した弾が、腐った柱 を撃ち抜き、木っ端が舞う。ショットガンを撃った。人影が両手を 上げ後ろへひっくり返る。 背中のオートマチックを抜き、母屋へ続く通路を走る。母屋の扉 が閉まっていた。ロック錠の辺りに数発撃ち込み、扉を蹴った。大 きなテーブルのあるダイニングキッチン。缶ビールが一ダース以上 乗っている。向かいの扉が開き半身を隠した男が一発撃ってきた。 銃口が下を向きすぎたのか、飛沫を上げ、缶ビールが吹っ飛ぶ。 俺は拳銃を相手に向け、三度絞った。二発目が眉間を捉え、痩せ た男が入口を塞ぐ形で横に倒れる。床に屈みショットガンに弾を装 填する。立ち上がり入口に横たわる男を跨いだ。三名のガンマンは、 貰った日当を使わずじまいに死んだようだ。 居間に入った。無人。二十畳ほどの部屋に、布貼りのソファーセ ットとサイドボード。テーブルには、ウイスキーの瓶と数個のグラ ス。奥に扉がある。寝室ならヘイマンと景子がいるはず。窓の外に 人影が動くのが映った。迷わずショットガンが火を噴く。木製の窓 枠が粉々になっただけで、手応えはない。 部屋の扉へ向かって散弾を放つ。チーク材の扉が震え、ささくれ 立った木肌がイガグリのようだ。同じ個所へもう一発。今度は穴が 開き、ロック錠も吹っ飛ぶ。突然、部屋から撃ってきた。弾が腰を 屈めた頭上を掠める。ショットガンの弾は尽きていた。 俺は床に伏せ、上下の蝶番にリボルバーの弾を浴びせた。扉が傾 き部屋の内側に倒れこんだ。右のベッドにうつ伏せになった景子の 31 頭に、車椅子に座ったヘイマンが、拳銃を当ててこちらを睨んでい た。左のベッドにスコープを装着したライフルが置いてある。 叫んだのは景子だ った。 ﹁撃たないで! この人は状況が理解できていないの﹂ ﹁どういうことだ?﹂ ﹁まだ戦争をしているつもりなの。殺されるぐらいなら、私を撃っ て自決するつもりよ﹂ ﹁あんたに訊くが、秋野清隆は知り合いか?﹂ ﹁弟よ﹂ ﹁天声会の会長殺しは、ヘイマンの仕業か?﹂ ﹁言ったでしょう。こんな体のビルに、人を殺す真似など出来ない﹂ ﹁それでは、大男か?﹂ ﹁彼にはトラクターの運転が似合っている﹂ ﹁弟はなぜ殺されなければならなかった?﹂ 突然、ヘイマンが拳銃を投げ出しライフルを掴んだ。俺は咄嗟に 両手に握った銃を離した。リボルバーは撃ち尽くしているし、ショ ットガンの弾は尽きている。床を転げた。ブスッと、床板に被弾し た音が聴こえ、同時にライフルの発射音がした。 相手がボルトハンドルの操作で二発目を撃とうとした時、俺は背 中のオートマチックを抜きヘイマンの胸板を狙っていた。 ﹁待って、撃たないで!﹂ 景子の悲鳴ともつかない叫びが聞こえた。ライフルの銃口がこち らを向く前に、俺の拳銃は火を噴いた。ヘイマンが崩れるように車 椅子へ沈む。 起き上がった景子がヘイマンを抱きかかえ、揺すりながら 死 「なな いで! と 」、悲鳴をあげた。 ﹁撃たないと、俺が死んでいた﹂ ﹁死ねばよかったのよ﹂ 涙を流しながら景子が俺を睨んでいる。 ﹁弟はなぜ殺されなければならなかった?﹂ 32 ﹁三代目の涛子さんに訊いたら? 彼女が親分でしょう?﹂ ﹁俺は、あんたに訊いている﹂ その時、火の爆ぜる音がした。ガソリンの臭いが鼻につく。誰か が家に火をつけた。乾燥しているからバシバシッと、炎が窓の外に 揺らぐ。 ﹁焼き殺されるぞ、家を出よう﹂ ﹁厭よ、ここで死ぬ﹂ ﹁あんたまで死ぬことはない﹂ ﹁あなたこそ何よ! 他人の家に入り込んできて、無意味な人殺し をするなんて﹂ ﹁話は外でもできる。ここを出よう﹂ ﹁出るものか﹂ 景子がベッドに投げ出された拳銃を握り、俺に向けようとした。 仕方なく飛び込んで、頬を殴りつける。ベッドへ昏倒した景子を抱 いて寝室を出た。居間もガソリンが撒かれ火勢が天井まで上がって いる。撃ち破った窓から、外を窺い地面に降りた。景子を担ぎ車ま で歩き始める。 カタ、カタ、カタと音がする。見ると果樹園の低木をなぎ倒し、 大型の草刈機が俺たちの方へ移動して来る。運転席には大男の顔。 俺は走り出した。エンジンの唸り音がひときわ大きくなった。地響 きまで伝わってく る。バナナの木陰に停めた車まで、あと八十メー トルほど。 草刈機は完全に俺たちを視野に入れ、最短距離で追って来る。 カタ、カタ、カタ。背後に迫った。三十メートルか。俺はベルトの オートマチックを抜き、振り向いて運転席へ連射した。弾はフロン トガラスをガードする鉄板に当たり、虚しく跳ね返ってくる。銃の スライドが後退した位置で止まり、マガジンが空になった。 歯を剥き出して笑う大男の顔がはっきり見えた。俺は拳銃を投げ 捨て、景子を担ぎ再び走り始める。カタ、カタ、カタ、草刈機も笑 っているようだ。死ぬのはお前だ、死ぬのはお前だ。俺にはそう聴 33 こえる。あと車まで二十メートル。 ﹁放して逃げて﹂ 肩の景子が呟いた。 ﹁そうはいかない。事情を訊くまでは﹂ 草刈機が畑の畝に乗り上げ、水車のような巨大な輪が、トンボの 口のように動く刃を見せた。カタ、カタ、カタ、死ぬのはお前だ。 バナナの木陰が目前にきた。ランクルのテールランプも見えた。も う少し。 ﹁車の下にもぐりこめ!﹂ 俺は景子を地面に転がし、タイヤの下の拳銃を握った。仰向けに なったまま、草刈機の運転席へ発砲する。テフロン加工の特殊ブレ ットが、鉄板を撃ち抜き運転席の大男を捉えた。苦渋の表情に変わ った顔が、ガマ蛙のように醜くフロントガラスを押し付け、血で汚 している。 撃ち尽くした銃が俺の手に残った。急に角度を変えた草刈機が、 用水池の方へ移動して行く。母屋は完全に火に包まれ、巨大なキャ ンプファイヤーのように燃え盛っている。 ﹁もう大丈夫だ、出て来い﹂ 俺は車の下に手を差し伸べた。景子の涙と土で汚れた顔が、おず おずと現れる。冷たいものが頬に当たった。空を見上げると、分厚 い雨雲から水滴が落ちてくる。 ﹁::家が﹂ 立ちあがった景子が呟いた。後ろに束ねた長い髪と、化粧気がな い顔に、地味な長袖のワンピースが開拓農民を思わせる。 ﹁家は燃えたし、ヘイマンも大男も死んだ。あんたに帰るところは あるのか?﹂ ﹁あの人は銃を持ったロボットの兵士だったの。大男の言うことだ けは聞いた﹂ ﹁知り合ったのは?﹂ ﹁清隆が大阪で殺されたのを聞き、この国に住んでいた私は仇を討 34 つために、射撃の上手い人を募集したの。ヘイマンの実績がずば抜 けていたので雇ったけど、条件は大男の慰み者になる話だった﹂ ﹁慰み者?﹂ ﹁セックスの奉仕﹂ 景子が切れ長の目を伏せた。 ﹁天声会の会長を撃ったのはヘイマンだな?﹂ ﹁現場に行ったのは二人だけ、私は車の中で待っていた﹂ ﹁なぜ仕事が終ったあとも、別れずにいた?﹂ ﹁ビルは私にはいい人だったけど、大男が付きまとい、二人で逃げ 出すことが出来なかったの﹂ ﹁なぜ、あんたの弟は殺されるようなまねをした?﹂ ﹁私にも判らない。ただ::﹂ ﹁殺した奴が憎かったのだな?﹂ ﹁殺しを指示したのは組織の会長だと思ったの。だから仇を討ちた くて﹂ 草刈機は用水池に半分ほど水没していた。果樹園の雑草の中に、 指先ほどの、縦に連なった袋状の赤い花が咲いている。 ﹁あの花は?﹂ ﹁あなたみたいな毒をもった植物::。ジギタリスよ﹂ ﹁どういう意味だ?﹂ ﹁デジタルと同じ語源なの﹂ ﹁俺が血も涙もない、デジタル人間と言う意味か?﹂ ﹁::::﹂ ﹁俺と一緒にここを出よう﹂ 景子もジギタリスの花を見詰めていた。 ﹁::組織から頼まれ、清隆を殺したのはあなたね?﹂ ﹁どうしてそう思う?﹂ ﹁会長殺しを追って、オーストラリアまで来るのは、組織の息の掛 かった人間ですもの﹂ ﹁だったらどうする?﹂ 35 ﹁私が一番殺してやりたかった人に、助けてもらったみたいね﹂ ﹁好きな所へ連れて行ってやる。ここを出よう﹂ 景子は棟が焼け落ち、まだ炎が立ちのぼっている家を見ていた。 ﹁行って。警察には、私を取り合いになったヘイマン兄弟の喧嘩が 原因だと伝えておくから﹂ 景子は大男を撃ち殺した自動拳銃を拾い、ワンピースの裾で葺き ながら、ジギタリスの前まで歩いて行った。雨を含んだ柔らかい土 を小枝で掘り、拳銃を埋めている。 俺は運転席に座ると、車をバナナの木陰から出した。 ﹁本当に、一緒に行かないのか?﹂ 景子の瞳から、雨とも涙ともつかない水滴が流れていた。 ﹁行ってどうするの?﹂ 俺は静かにアクセルを踏んだ。背を向けた景子の肩が震えている。 ジギタリスに付着していた赤い砂が、水滴と一緒に落ちていた。花 も泣いているようだ。景子の涙も、こんな赤い色をしているのか。 俺はそっと景子の肩を抱いてやりたい気持ちにかられた。 今度も俺は死ななかった。生き続けるのもそれなりにしんどいも のだ。ロックハンプトンからブリスベンまで、二日掛かりで帰って きた。ここで車を返し、空港から関西国際空港行きの便に乗った。 手荷物を入れようと頭上の蓋を開けると、日本の新聞が手に触れ る。久しぶりの日本語に、数日遅れの新聞でも気にならない。社会 面を最初に開く。右隅に五行ほ どの短い記事に目が行った。 ﹃今日未明、名神高速道路の大津付近を走っていた乗用車が、トラ ックに追突され炎上、運転席の上原奈津美さん 四(一歳 と)助手席の 上原博美さん 十(三歳 が)焼死しました。追突したトラックはそのま ま逃げ、警察では捜査中﹄ 別れた妻が連れて行った娘は、博美で十三歳。元、妻の名前も歳 もこの記事と同じなら、同一人物だと信じないほうがおかしい。俺 は博美が炎に包まれながら、助けを求める姿が瞼に浮かんだ。 36 確かに生きていくのは辛い。だが、少しばかり長生きして、この トラックは必ず見つけ出してやる。 俺は通路を通りかかったワゴンのトレーから、一番強そうなアル コールの入ったグラスを取り上げ、ひと息で空けた。 6( ) 大阪も十月に入りやっと秋らしくなった。俺が住むマンションの 下を、トレーニングウエアを着た学生達が、地下鉄の駅から長居競 技場の方へ向かっている。今日は体育の日だった。 窓際に、オーストラリアから持って帰った三個の小指が、釣り糸 に結ばれ吊ってある。俺は冷蔵庫のウーロン茶を出し、ペットボト ルごと喉に流し込む。こぼれた液体が喉を濡らし、胸毛の間で止ま った。 ﹁わたしにも頂戴﹂ 逃げたマリがここに居たら、きっとそう言ったに違いない。 俺はバスルームへ入り、シャワーの栓を捻った。マリと一緒に浴 びた温度にセットする。ブラジル人の血が四分の一混じるマリの身 体は、弾ける寸前のイチジクのようで、抱くと本物のジュースが溢 れ出るように反応した。 マリと知り合ったのは、 ﹃視察﹄と称して飲みに行ったキタのクラ ブだった。もちろん飲み代なんか払わない。その代わり、俺で済む ような揉め事には相談に乗ってやる。店のママが、マリのことで相 談にきたのは、五年前のちょう ど今ごろだった。 ﹁今度入ったマリは、ここできっとナンバーワンになるようないい 子だけど、かなり借金があるみたい﹂ ﹁どうしてほしい?﹂ ﹁誰に借りているか訊いて、判ったら相手のところへ行ってまけて もらってきて欲しいの﹂ ママが連れてきた女を一目見た瞬間、俺はこの女のためならどん 37 な事でもしてやろうと思った。マリは男が守ってやろうとするタイ プの女だった。 ﹁そうとう借金があるらしいな?﹂ ﹁私が借りたのは一千万円だけです。しかし浅沼さんは、利子も含 めてニ千万返せと﹂ ﹁浅沼とは金貸しか?﹂ 頷いてマリが差 し出した名刺には、﹃金融業 浅沼商事 浅沼聖四 郎﹄と刷ってある。観光ビザで違法就労する女は、警察へも駆け込 めないのを知って、外人ホステス専門に融資する高利貸しに違いな い。あくる日俺は、その金融屋と会った。予想を覆し、ホストクラ ブで働いているような二枚目だった。 ﹁あこぎな金貸しはあんたか?﹂ ﹁とんでもございません。返済はいつでもいいけど、利子は高くな りますよ、と納得してもらって貸しました﹂ ﹁法定金利の数十倍も取っているだろう?﹂ ﹁一応リスクを考えて。いつ居なくなるか分かりませんからね﹂ ﹁取れるところからは、取るつもりだな?﹂ ﹁まともに払ってくれる客には、おまけしています﹂ ﹁マリの借金は俺が責任を持つから、利子はまけてくれ﹂ 結局、銀行金利で元金は分割払いを認めさせた。俺の働きに感謝 したのか、マリとはいい仲になった。いやのぼせたのは俺のほうか もしれない。 悪いことが重なるのを味わったのは、一年後だった。まず浅沼が 捕まり、直後にマリがブラジルの男と逃げた。浅沼は、マリが書い た﹃返済金は全て檜垣さんへ渡しています﹄という手紙を、取調官 に提出した。俺が高利貸しの上前をはねたという話は、そんなとこ ろだ。当然、妻の奈津美には知られ、警官の同僚からは物笑いにな った。官舎なんかに居れるわけはない。警視までなった奈津美の親 爺は、別れて戻って来いと言うし、奈津美もその通りにした。 俺も一時はマリと本気で一緒になりたいと思ったくらいだから、 38 潔癖性の奈津美の行動も受け入れざるをえなかった。もともと俺の 中に漂う悪徳警官の臭いを、奈津美の本能が嗅ぎ取っていたのが原 因だったかも知れないが。 シャワーを浴びスッキリすると、チノパンツの上にコーヒー色の ジャケットをひっかけた。戸棚を開け、アメリカの通販で手に入れ た一見ダイアリーに見える十二オンスしかないガンケースに、ベレ ッタM9とミンクスのサイレンサーを入れる。コルト・ガバメント に替わり、アメリカ陸軍の制式拳銃に採用されたイタリア製のベレ ッタは、重量が一キロにも満たないのに、十五発もの弾を詰めるマ ガジンを内包している。 マンションの駐車場から、去年手に入れたトヨタのハリアーを引 っ張り出した。フルタイムの4WDだが、アスファルトでもすこぶ る快適に走る。ミラーにマンションから持ち出した干乾びた小指が、 釣り糸に結ばれ揺れている。 滋賀県警の交通課の係長が、やっと会うと言ったのは、府警時代 の同僚、坂下に金を掴ませたからだ。奈津美と博美を殺したトラッ クは、事件当日、事故現場から二十キロ以上離れた黒丸パーキング エリアから見つかった。車内からは何も出てきていない。 警察の捜査は、十日以上経っても進まず、証拠物件の車をしぶし ぶ見せる気になったらしい。昼過ぎに着いた県警の中庭で、係長と 会った。俺より若いが、腹の周りに脂肪がたっぷり付いている。 ﹁檜垣さんといえば、生活安全課で外人専門の::、語学の達者な﹂ 係長は言い過ぎたことに気がつき、語尾を繕った。 ﹁語学は英語以外に、ポルトガルと中国語が会話程度なら出来る。 ブラジルの女とヤル時は、俺が付き添ってやろうか﹂ これ以上絡まれるのが厭なのか、係長は車の前に案内した。ブル ーのシートを捲ると、いすゞの四トントラックが現れた。 ﹁ナンバーは他の車から盗まれたものが付けられていました。指紋 は拭き取られ、残留品も有りません﹂ 39 ﹁トラックの持ち主は?﹂ ﹁大阪市内の西成区の玉出に住む自営業者で、夜間、路上駐車をし ていて盗まれたそうです﹂ ﹁住所と電話番号は判っているのだな?﹂ ﹁でも、捜査は警察で進めていますから、あなたが相手の所に行っ ていろいろ調べられるのは具合が悪いのですが::﹂ ﹁夜中に路駐していなかったら、人が死ななかったかもしれない﹂ 口ごもる係長から、持ち主の住所と電話を訊きだし、県警を後に した。トラックの運転席は綺麗に掃除機で吸い取られていたし、奈 津美が運転するマークⅡに接触した部分は、僅かに凹み白い塗装が 付着していた。俺に判ったのは、運転手はプロで、最初から奈津美 と博美を殺す気だったことぐらいだ。 渋滞につかまり、 西成区の玉出に着いたのは夕方四時過ぎだった。 自営業者は、帝塚山に登っていく沿道に建つレストランの裏側に住 んでいた。事務所が一階で、二階以上が住居になっている。 ﹃住野ケ ーブル﹄と、ガラス戸に金文字で書いてあった。 俺はそのドアを開け中へ入った。パソコンの前に座っている顔色 の悪い五十過ぎの男が、ギョッとしてこっちを睨んだ。 ﹁::車の件なら、この間話したとおりですが﹂ 俺を刑事だと思っている。 ﹁車を盗まれたのは分かっているし、あんたが賭場で三百万スッて、 借金のカタにトラックを差し出したのもな﹂ 俺は大阪へ戻る途中、賭場に詳しい情報屋へ携帯から連絡を入れ、 この二カ月ぐらいの間に、高額を負けた玉出に住む自営業者はいな いか調べてもらった。十分後に掛けてきた情報屋は、住野茂男の名 を上げた。 ﹁トラックは店の前に置いていたら盗まれました。何度も警察にお 話したとおりです﹂ ﹁トラックのキーは壊されていなかった。合鍵を誰かに手渡し勝手 に乗って行ってもらったのだろう?﹂ 40 ﹁いえ、決っしてそんなことは::﹂ ﹁あのトラックで二人が殺された。あんたも殺人幇助で監獄行きだ な﹂ 住野の顔色がますます悪くなった。 ﹁だが、助かる手もある﹂ ﹁::どんな事でしょう?﹂ 住野の顔に赤味がさし、ずるそうな期待感が浮かんだ。俺はそれ に気付かないふりをして訊いた。 ﹁車を取りに来たのはどんな奴だ﹂ ﹁夜中で、私は寝ていましたので﹂ ﹁そんなゴタクを吐いていると、助かる道は遠のくぞ﹂ 住野はもじもじしていたが、意を決したように言った。 ﹁実は私も、あとで問題になったらいけないと、相手のことを知ろ うとしました﹂ ﹁どういうふうに?﹂ ﹁車の鍵を牛乳箱の中に入れておくから、と伝えておきました。箱 は蓋を触らないと取り出せないので、手袋をしていなかったら指紋 が残っているはずです﹂ ﹁その牛乳箱は?﹂ ﹁車が持ち去られたあと、すぐに保管しました﹂ 住野は後ろのロッカー からビニールの袋を取り出した。まったく 抜け目のない奴。 ﹁預かっておこう。科研で調べれば何か出てくるかもしれない﹂ ﹁私は罪になるでしょうか?﹂ ﹁指紋が出てこなかったらな﹂ 住野が俺に不審な気を起す前に、ビニール袋を持って店を出た。 その足で大阪城公園まで行き、向かいの府警本部から昔の同僚、坂 下を呼び出した。 ﹁このビニール袋に牛乳箱が入っている。蓋の部分に指紋が残って いたら、誰のものか調べて欲しい﹂ 41 ﹁部外者に情報は流せない﹂ ネズミのような坂下の顔が歪んでいる。 ﹁とりあえず中を覗いて見ろよ﹂ 俺は五万円の入ったビニール袋を広げ、坂下の前に出した。中を チラッと見ただけで、袋を受け取った坂下が言った。 ﹁いつまでに知らせたらいい?﹂ ﹁善は急げさ、少しぐらい残業をしたほうが酒は旨いだろう?﹂ 坂下の口元に皮肉な笑いが出た。 ﹁分かった。結果が出たら携帯へ連絡を入れる﹂ 公園で別れ、長居のマンションへ車を入れた時、携帯の呼び出し 音が鳴った。 ﹁結果が判ったから知らせる。天声会の三次団体、寝屋川市の船井 組に山武剛志という組員がいる﹂ ﹁そいつの事をもっと詳しく知りたい﹂ ﹁あと二万、追加が欲しい﹂ ﹁昔からそんなにがめつかったのか?﹂ ﹁あんたが惚れたような外人ホステスは高くつく﹂ どこまでも憎たらしい奴だけど、大事な情報源には違いない。 ﹁分かった、教えてくれ﹂ ﹁昔、鈴鹿でも走ったことのあるドライバーで、賭けレースで追放 され、組に拾われた痩せて背の高い奴だ﹂ 坂下はそれだけまくし立てると、組事務所の住所を知らせ、追加 料金の振込先を言って電話を切った。俺は車から降りず、そのまま 寝屋川へ向かった。 組事務所など、俺達には臭いで分かる。駅前繁華街の一筋裏にす ぐ見つかった。二階建て長屋の端の棟に、暴対 法のせいで代紋は上 げていないが、アルミ扉に﹃船井﹄とだけ、勘亭流の書体で書かれ ている。近くに、組事務所御用達みたいな喫茶店があるので、入っ てハンバーグ定食とビールを注文した。テレビではナイターを中継 していた。 42 食い終わってタバコに火を付け、サービスのコーヒーを頼んだ。 阪神タイガースの負けが確定した時、組事務所の扉が開いた。野球 賭博の集金に出かけるのかもしれない。痩せた背の高い男が、喫茶 店へ向かって来る。 入ってきた男へ店のママが声をかけた。 ﹁いらっしゃい。食事にする?﹂ ﹁いや、事務所へアイスコーヒー三つ頼むな﹂ ﹁ヤマちゃんが持っていく?﹂ ﹁運転手の堀田が取りに来る。おれはちょっと出かけるから﹂ 男が出て行ったので、俺はスポーツ新聞で隠していた顔を上げ、 レシートを摘んだ。男は事務所に寄らず、三十メートルほど離れた フェンスで囲った月極めの駐車場へ向かっている。 俺はポケットから出した手袋をはめ、男のあとを追った。スモー クガラスの白いセルシオがそうらしい。電磁ロックが解除され、扉 に手をかけたところで、男の首を掴み思い切り車の屋根に叩きつけ る。アスファルトの上に崩れた体を、素早く後部席に押し込み、奪 った鍵で車を出した。ダッシュボードの時計は九時半を回っている。 薄暗い駐車場の水銀灯に、他の影は写っていなかった。 ミラーで後ろを見ながら、ガンケースから出したベレッタを股の 間に挟む。十分ほどで成田山不動尊の大駐車場へ車を入れた。昼間 は交通安全を祈願する車が並び賑わうが、この時間は数台しか停ま っていない。 俺は端のほうへ車を寄せ、後ろの座席へ移った。男は額に大きな コブを作り、血を流している。 ﹁おい、目を覚ませ﹂ 男のポケットをまさぐり、 運転免許証に携帯とナイフを見つけた。 免許証には山武剛志の名前と顔写真が刷ってある。助手席のガンケ ースから消音器を抜き取り、ベレッタにはめ込む。銃口を左の太股 に当て引き金を引いた。弾頭の先端に穴のあいたハロー・ポイント 弾が、布地と肉を切り裂き、革張りのシートにめり込んだ。 43 カッと目を開いた男の顔が、恐怖で変形する。 ﹁山武よ、お前が事故に見せかけ殺した一件は、誰に頼まれた?﹂ 事態をやっと呑み込み、うわずった声を出した。 ﹁::あ、あんたは誰だ?﹂ ﹁名乗るほどでもないが、死んだ二人に関係がある﹂ ﹁お、おれが、勝手にやった﹂ 太股の内側へ、もう一度引き金を引く。男の 尻が跳ね上がり、激 痛で思わず傷口を両手で押さえた。 ﹁ごたくは聞きたくない。ホンマのことを言え﹂ ﹁く、くみちょうの指示だった﹂ ﹁船井は誰に頼まれた?﹂ ﹁::幹部でしょう。お、おれには分からない﹂ ﹁死んだ二人に申し訳ないと思うか?﹂ ﹁どうでもいいこった。それよりあんたは、なん::﹂ 最後まで男は喋られなかった。三個目の銃弾が、心臓を打ち抜き シートの背もたれに突き刺さった。俺は取り上げたナイフで、三個 の弾をシートから抉り出し、ポケットに仕舞った。車を降りロック し、歩いて寝屋川駅まで行き、コイン式の駐車場に預けていたハリ アーに乗り、マンションまで帰ってきた。 7( ) 事実は時々、どこかでねじ曲がる。翌朝のテレビのニュースは、 白いセルシオが福島区の淀川河川公園の傍で見つかり、残っていた 指紋から、自動車窃盗グループの仕業だろうと伝えていた。高級車 を一晩、路上駐車すれば、盗まれる確率が高いと踏んだ俺の作戦が 当たったようだ。知らずに盗んだ奴は、後部座席の死体に気づき、 動転して逃げたに違いない。 今朝は曇天で、午後から雨になると天気予報は伝えていた。コー ヒーを飲んだだけでマンションを出る。 44 殺された奈津美の実家は京阪電車の枚方市駅から、南側に開発さ れた丘陵地帯の住宅地にあった。昼前に﹃上原泰助﹄と表札の上が った門の前に車を停める。引退した男が住むには、庭木の手入れも してなく、うら寂しい感じがする。電話をしていたので、車の停ま る気配で老人が玄関から出てきた。無言で中へ入れと合図する。 未だに俺のことが許せないらしい。お互い独り者同士が、玄関脇 の和室で顔を合わせた。真新しい仏壇が飾ってある。 ﹁元気そうだな?﹂ あくまでも上司と部下の関係か。線香をあげる背後から声が掛か る。博美の写真は心なしか、憂いを含んでいて不憫さがこみ上げる。 ﹁ええ、なんとかやっています﹂ ﹁用とは?﹂ 俺が長居するのを嫌がっているような言い方だった。 ﹁奈津美と博美は、なぜ早朝に名神を走っていたのです?﹂ ﹁瀬田ゴルフコースで、親子コンペがあったのだが、スタート時刻 が朝一番に変更になったと、前日の夜に電話があった﹂ 俺と別れたあと奈津美は、父親に勧められたゴルフにハマッたら しい。豪華賞品の出る女性だけの格安コンペに抽選で当たり、数日 前から張り切っていたらしい。 ﹁時刻の変更を伝えてきたのは、コンペの幹事から?﹂ ﹁そうだろう。まだ到着していないと、うちに連絡があったのは、 朝の八時前だったから﹂ コンペは、大手スポーツ用品メーカーがスポンサーで、当日のパ ンフレットが残っていた。 ﹁奈津美もだが、博美がかわいそうでなぁ﹂ 娘と孫を同時に失くした老人の肩に、警視までなった警察官の威 厳は見当らない。しかし懲戒免職になった俺を元親戚とは認めたく ないらしく、茶を出すでもなくひとりごちた。 俺の携帯が鳴ったのは、そんな老人と別れ、名神高速の吹田料金 所に入った時だった。 45 ﹁檜垣か? 吉井や。組織の下のほうで、なんやごちゃごちゃしと あんたが現場の人間でなくなったのは、三代目 る。噂は耳に入ってこんか?﹂ ﹁どんな噂です? に聞きましたが﹂ ﹁相談役として裏から支える役目についた。ところで最初の頼みだ が、船井のセイやんを知っとるやろう?﹂ いきなり核心を突いてきた。 ﹁船井組の船井清助組長ですか?﹂ ﹁セイやんがまずい事になった﹂ ﹁頼みとは?﹂ 厭な予感がして、受話器を握り直す。 ﹁消えてもらわなあかん﹂ ﹁誰の指示です?﹂ ﹁組織の総意や。三代目の意思でもある﹂ ﹁俺に消せと頼んでいるわけですか?﹂ ﹁他の誰にも勘ぐられたくない。事はいそいどる。ヤッてくれる か?﹂ ﹁理由は、訊いても教えてくれませんな?﹂ ﹁知らんほうがええ﹂ 断わっても、誰かがやることになる。俺の仕事上のライバルが増 えるのは気にくわない。 ﹁いつまでに?﹂ ﹁三日以内だ﹂ 命令口調になった。吉井が現場の人間ではなくなったと涛子は言 ったが、陰の参謀として使うのかもしれない。俺は了解して電話を 切った。車は茨木の出口に近付いている。アクセルを踏み、前の車 を追い越し右車線に入ると、 スピードを時速一四〇キロまで上げた。 何かが周りで動き出したようだ。真実を摘み出すには、俺も 動いて もっと攪拌する必要がありそうだった。 瀬田ゴルフコースのスタート係りは、当日のコンペを良く覚えて 46 いた。二十歳前後の日焼けした男は、俺の問いに、メンバーの組み 合わせ表を見せながら答えた。 ﹁上原奈津美さんと博美さん親子は、八時半のスタートでしたから 八時までに受付を済ませていただけば良かったのですが::﹂ ﹁コンペの最初のスタートは何時?﹂ ﹁六時四十分でした。なんせ二百人のコンペですから、パーティー も考慮に入れると、早朝のスタートになったのです﹂ ﹁上原組のスタート時刻に、変更はあったのか?﹂ ﹁いいえ、コンペの幹事さんからは何の連絡も受けていません﹂ 奈津美たちは、幹事を装った奴に、スタート時刻が早くなったと 教えられ、早朝の名神高速道を走ったことになる。あの日は俺が、 熊谷銀二を撃ったあくる日だった。 何かの符丁があるとは思えんが、 勘ぐってみるのは俺の癖だから仕方がない。 大阪まで戻ってきたのは、午後三時ごろ。阪神高速の長田ランプ で下り、府立図書館へ向かう。この一件は、俺が今まで拘わってき た殺しと関連があるのなら、全てを洗い直す必要があった。 秋野清隆が殺された当時の新聞を、数紙借り出して読んでみた。 慶応大学を出てUCLA ロ(サンゼルス大学 へ)、二年間留学してい る。組織は組の費用で学校を出させたのなら、清隆に何を期待した のだろう。それを裏切ったから殺されたことになる。 閉館時間になり、図書館を出た。再び車に乗り、寝屋川へ向かう。 先日、山武を襲った駐車場を見渡せるコンビニの前に車を停め、少 し見張ることにした。メルセデスの600SELが、私は堅気では ありません、と宣言しているように駐車している。 その大型ベンツが動き出したのは、午後八時過ぎ。 俺が車の中で、 不味いハンバーガーを三つ平らげ、コークを二缶、キャメルを半分 空にした後だった。 車まで来たのは五名で、 乗ったのは三人。つまり見送りが二人で、 運転手とボディーガードが船井の傍にいる。路地そのものが要塞に なっている狭い道路を抜け、阪神高速の守口料金所へ入ったのは十 47 分後。三台の車を間に挟み後ろを尾けた。 相手は俺の顔を知らないが、船井の顔は見覚えがあった。ランク から言えば、上から数えて三十番目に入るかどうか。しかし古株な のと、上納金の額から、幹部も一目おかないわけにはいかない。 俺は携帯を取り上げ船井の事務所へ電話を入れた。 ﹁船井事務所です﹂ 若い電話番の声。 ﹁山武剛志を殺した奴が分かった。組長へ伝えたい﹂ 電話の向こうで、一瞬息を飲むのが分かった。 ﹁ど、どちらさんですか?﹂ ﹁名は言えないが、組長に直接伝える﹂ ﹁今、外出してますけど﹂ ﹁携帯へ連絡を入れたい、番号を教えてくれ﹂ どちらさんでっし 電話番は、沈黙した。後ろに控える兄貴分と相談しているのだろ う。野太い声と変わった。 ﹁うちの山武をヤッたのを知っとりまんのか? ゃろ?﹂ ﹁組長にしか言わない。長引くようなら電話を切る﹂ ﹁ま、待っておくれやす。今、言いますさかい﹂ 俺は訊き出した番号に掛ける。歳相応の声が聴こえてきた。 ﹁::船井やが﹂ ﹁山武が殺され、今度は組長のあんたに懸賞金が掛かった。理由が 知りたい﹂ ﹁お前は、だれや?﹂ ﹁あんたの命を預かっている者だ。一度会って話がしたい﹂ ﹁わけの分からん奴と、会う気はない﹂ ﹁命を預かっているから、会わないとあんたは死ぬことになる﹂ ﹁あほぬかせ。誰にも命を預けたことないわい﹂ ﹁吉井幹部が言ったとしたら::﹂ ﹁なんやて、お前はどこのどいつや?﹂ 48 ﹁会うのか、会わないのか?﹂ ﹁::よし、関空へ渡る橋の手前に、マーブルビーチがあり 、三百 メートルほど先に突堤が見える。そこで十時に会おう﹂ ﹁分かった。猿は連れて来るな﹂ ﹁わかっとる。お前も一人で来い﹂ 電話を切った。船井は関空へ見送りでも行くのだろうか。九時に は、マーブルビーチに着くが、先回りして様子を見るのもいい。俺 は環状線に入るとアクセルを踏み、メルセデスを一気に追い越し、 湾岸線に出た。 泉佐野南で湾岸線を降りた俺は、ビーチの東側にある公園の駐車 場へ車を入れた。無料なのか、数台の車が停まっており、ライトに 照らされ慌てて身を隠すカップルもいる。俺は上着を脱ぎ、ショル ダー式のホルスターを着けると、ガンケースから出したベレッタを 左脇のケースに収めた。右側に予備のマガジンと、携帯電話をぶら 下げ、黒いナイロン製のブルゾンを羽織る。靴はラバー底のスニー カーに履き替え、車を降りた。 二車線の道路を横切り、ビーチの前に広がる松林に身を隠しなが ら、突堤へ近付いた。時刻は十時二十分前。突堤はコンクリート製 で、人の背丈ほどの段差が付いた階段状で百メートル近く海へ突き 出ている。先端で三人が夜釣りをしていた。俺は下段の波打ち際に 沿って、身を屈めながら前へ進んだ。 突然脇の下の携帯がマナーモードで振動した。 ﹁船井や。もう着いたか?﹂ 俺は壁面に身を寄せ、小さな声で事実と嘘の両方を言った。 ﹁三十分前に到着した。アジの喰い付きがいいから、竿を借りて釣 っている﹂ ﹁分かった。もうすぐ行く。そのままそこに居てくれ﹂ 船井の声に変わったところはなかった。俺はビーチの遊歩道を窺 った。来るとすればそこを歩いて来るはずだが、雲が出てきて顔の 判別が出来ないほど暗い。突堤の先端のほうで声が上がり、チヌが 49 釣れたと騒いでいる。 そのままで、五分待った。突然、叫び声がして、水音がした。釣 り人が海へ落ちたのか。先端へ眼を凝らした瞬間、再び、人が崩れ るように海へ転げ込んだ。 続いてもう一つ、黒い影が吹き飛ばされ、 海へ落ちていく。俺には、銃で撃たれたのがすぐ分かった。 壁に沿って中腰のまま、突堤を走り、遊歩道へ出る。ベレッタを 無意識に抜いていた。俺が釣りをしていると思い、突堤に立つ全員 を一瞬のうちに射殺してしまった。 船井の子分にできるわけがない。 携帯が振動していた。俺の生死を確認しているのか。 松林と道路を横切り、車に戻った。辺りを窺いそっと出す。まだ、 パトカーも救急車のサイレンも聞こえない。遺体が見つかるのは、 恐らく明日の未明、漁船が動き出す頃だろう。用心のため、一旦、 国道二十六号線へ出て、堺から阪神高速に上がった。 寝屋川の船井の事務所には、まだ人の気配がした。大型ベンツは 駐車しておらず、留守番の者だけだろう。俺は事務所の扉をノック した。 ﹁どちらさんですか?﹂ 扉の奥から声がする。電話番の男だ。 ﹁警察のもんや。山武のことでちょっと訊きたい﹂ ﹁昼も、来ましたやんか﹂ 電話番でも、警察にナメた口をきく。 ﹁何度来ても、かまわんやろう。なんなら署で訊こうか?﹂ ドアスコープから覗いていたのだろう、チェーンの外れる音がす る。ロックが解かれると同時に、ドアを開け、目の前に現れた男の 急所を蹴り上げた。物音で背後の部屋から出てきたもう一人に、ベ レッタを向ける。 ﹁おとなしくしてろ。話を訊くだけや﹂ ﹁おまえ、そんなハジキもって警察やないやろう?﹂ ﹁みたいなもんさ。さ、奥へ案内しろ﹂ しぶしぶ後ずさりする二人を押し立て、事務所へ入った。部屋の 50 天井の隅に、提灯をたくさんぶら下げた神棚があり、中央には、十 人は座れる応接セットが置いてある。背中を見せた電話番の男の後 頭部へ、拳銃のグリップを打ちつけた。どさっ、と腹からソファー の上に倒れこむ。 ﹁な、なにさらす﹂ 兄貴分のほうが、ギョッとして俺を睨んだ。 ﹁組長はどこへ行った?﹂ ﹁知るか、そんなこと﹂ 俺はサイレンサーを出し、ベレッタの銃身へ装着した。 ﹁訊くのは一度だけだ﹂ ﹁::知らん﹂ 俺は引き金を引いた。撃たれた衝撃でソファーに倒れ、太股から 流れる血を両手で押さえている。 ﹁今度は腹を撃つ﹂ 恐怖と苦痛で、顔をゆがめる男の口から声が漏れた。 ﹁女のところや﹂ ﹁場所を言え﹂ 男は目の前に倒れている電話番を睨み、テーブルのメモ用紙に、 住所を書いた。ひったくって見ると、裁判所近くの西天満のマンシ ョンと部屋番号が読めた。表札は北村。女の名だろう。 ﹁さてお前をどうするかな? 組長に連絡されても困るし﹂ 俺は太股を押さえている男に言った。 ﹁ロッカーに手錠が入っている。俺たちを繋いで、電話から遠ざけ とけば、連絡の取りようがない﹂ 男のずるそうな眼が、こっちも同意するはずだと語っていた。 お前達ふた ﹁それもいいが、船井組はもう終わりだ。明日の新聞を見れば分か る。それより、金庫にはカネが眠っているのだろう? りの物になる可能性もある﹂ 男は暫らく考えていたが、意味を理解したらしい。 ﹁殴るのなら、右の後頭部にしてくれ﹂ 51 振り向いたので、言われたところへ拳銃のグリップを振り下ろし た。倒れている二人を、ロッカーから出した手錠で繋ぎ事務所を出 た。頭の回転が素早い奴なら、組長の異変を確認して、金庫のカネ を持ち逃げするはず。いや、確認もしないかもしれない。 裁判所は何度か来たことがあったので、この辺りの路地には詳し い。車は御堂筋のアメリカ総領事館の近くに停めていた。かなりア ルコールの回った二人の酔客が、タクシーに乗るのか、表通りのほ うへ歩いていく。 訊きだしたマンションは、玄関 にセキュリティーの付いた三LD Kの分譲になっていた。場所柄、ホステスの住まいか事務所に使わ れているケースが多い。タクシーが停まり、女が降り車の男に手を 振っている。マンションに入るのなら、このタイミングを外すのは まずい。俺は歩き出そうとして、思わずビルの陰に身を隠した。 船井の大型ベンツが玄関に滑り込んできた。堀田とかいう運転手 とボディガードが前の席に座っている。船井が出かけるのか。 マンションから人が出てきて乗り込んだ。後部座席のスモークガ ラスが半分ほど開いた。男と女のカップル。えっ! 男は確かに熊 谷銀二。なぜだ。女が一瞬、外を見た。秋野景子だった。車は俺の 思惑なぞ関係なしに、あっという間に走り去った。 タクシーがまた停まった。俺は躊躇しながらマンションの玄関に 近づいた。タクシーから降りた女に続いて、セキュリティーのドア をくぐり抜ける。船井の女の部屋は五階。中途半端な気持ちを切り 替えるため、エレベーターを使わず、階段を上がって五階のフロア へ行った。 表札には﹃北村﹄と書いてあった。俺は携帯を取り出すと、受話 器にハンカチを被せ、船井にコールした。長い呼び出し音の後に、 船井の声が聴こえた。 ﹁なんや?﹂ 明らかに不機嫌な声。 52 ﹁運転手の堀田ですが、熊谷さんが土産を渡すのを忘れた言うて、 持って来ました﹂ 見破られないのを願う。 ﹁ドアの所に置いとけ﹂ ﹁なんやエメラルドの原石と言うてました。大きいもんです﹂ ﹁待っとけ、今、あけたる﹂ なんとか堀田になり済ませたらしい。欲が大きければ、原石を部 屋へ入れるのにチェーンを外すはず。あんのじょうチェーンの外れ る音がして、ロックが回った。ドアが開き、バスローブ姿の船井が 正面を塞いだ。キックで股間を襲う。驚愕したままの顔で船井がひ っくり返った。ドアを閉め、驚いて出てきた女 に拳銃を向けた。顔 が引き攣っている。 ﹁ちょっと待って、揉め事はいやよ。お宅たちで勝手にやって﹂ ﹁物分かりのいい姐さんだが、話を聞かれるとまずい﹂ ﹁大丈夫、音楽でも聴いているから﹂ 女はCDのイヤホンを耳にはめ、ピンクのネグリジェ姿で奥のベ ッドに横になった。俺は目の端に女の姿を捉え、船井をソファーに 座らせた。憎々しげにこっちを睨んでいる。 ﹁お前が、檜垣か?﹂ ﹁そうだ。突堤に来なかったな?﹂ ﹁急な取り込みがあって、行けなくなった﹂ ﹁名神で親子を事故に見せかけ、殺すように頼んできたのは誰だ?﹂ ﹁おれはチャカを向けられても、唄うたりせん﹂ ﹁熊谷が、なんで大阪の街をうろついている﹂ ﹁お前を殺すためさ﹂ ﹁やっと本音を吐くようになったな﹂ 俺はベレッタにサイレンサーを捻じ込んだ。ベッドの女がこちら を見ている。 ﹁ここからの質問は一度だけだ。名神の件は誰に頼まれた?﹂ ﹁死んだ女のアソコに耳を当てて聞いてみろ﹂ 53 俺は船井に向かって引き金を引いた。ソファーの背もたれに置い た左手の小指が付け根から吹っ飛ぶ。船井のうめき声に、女が寝返 った。眼で牽制する。 ﹁死にたいか? 今ならケガで済む﹂ ﹁::吉井あにいが、頼んできた﹂ ﹁何を?﹂ 医者 船井がバスローブの裾を丸め傷口を押さえていた。既に血が滲み 出て、ソフトボールほどの大きさになっている。 ﹁名神の一件と、突堤でお前を殺す件さ。もういいだろう? に見せたい﹂ 女がベッドで再び寝返りを打った。手に持っているのは、CDプ レーヤーでなく携帯電話。数分前から誰かに緊急連絡していたに違 いない。運転手とボディガードなら近くにいるはず。 ﹁突堤で会う手はずを整えたのは吉井か?﹂ 女の眼が僅かに動いた。 背後に人。俺はソファーの陰に飛び込み、 シートの底から見えた忍び寄る足元へ連射した。ブスブスッと相手 がシートに撃ち込んできた音が、耳元で響く。 人の叫びと転がる音。 うめき声が続く。空になったマガジンを入れ替え、拳銃を握った手 首を持ち上げ盲撃ちする。ソファーを蹴飛ばし、床に倒れた運転手 とボディガードに、止めを刺す。 船井は、胸も赤く染めソファーの上で息が絶えていた。ベッドの 女もイヤホンをはめたまま、胸の数箇所から血を流している。ボデ ィガードが持っていたのは、イングラム・マックのサイレンサーを 装着したUZIのミニ機関銃。不慣れな扱いが、一分間に二百発も 撃てる銃で組長とその愛 人を殺してしまった。 俺は玄関から外を覗いた。廊下に人影はない。そっと出て、扉を 閉めた。上がってきた階段から下に降り、ゆっくり歩いてハリアー に戻った。ミラーに吊るされた小指が、ネオンで青から赤に変わっ た。ほんとに吊るされる小指が別にある。俺にはジグソーパズルの 組み合わせが、おぼろげながら見えてきた。 54 8( ) 天声会、大隅会長の私邸は豊中市にあった。大阪大学の校舎が並 ぶ小高い丘の一角に、市内を見下ろす形で建っている。アプローチ は一見フランク・ロイド・ライト風だが、巧みな要塞建築にも見え る。シャッターは下り、監視カメラが二か所、道路の左右を睨んで いた。 俺はこの建物を外からだが何度か下見していた。こけおどしに見 える入口があるのは、逃げ道も有りますよ、と教えているようなも のだろう。裏は石積みの崖になっていて、三十メートルほどの落差 がある。崖の下は車一台がやっと通れる狭いアスファルト道路が、 東西へ一方通行になっている。崖の反対側は住宅街で、この道路は 裏通りとして使われていた。 車を大学の裏門に停めた俺は、歩いて崖の下まで来ていた。石積 みの崖に一箇所だけ、掘り込みのガレージがある。シャッターが降 り、表札も あがっていない。鍵が掛かっているのは既に知っていた から、 鉤型のピッキング道具を用意していた。 ピンを鍵にさし込み、 右に捻ると簡単にロックが解けた。 シャッターを五十センチほど持ち上げ、中に滑り込む。ライター を点け、様子を見た。軽自動車が一台停まっており、天井に垂れて いる紐を引っ張ると、木製のハシゴが降りてきた。天井から上は、 螺旋階段になっている。私邸の敷地の中だから、登っていけばどこ かへ出ると踏んでいた。 腕時計の夜光文字は、午前二時を指している。左脇のホルスター からベレッタを抜き、サイレンサーを付けた。 右脇には十五発詰ま ったマガジンを、三本収めている。螺旋階段を登りきると、木製の 小さな扉があった。そっと開けてみる。水銀灯の仄かな照明で、日 本庭園の中だと分かった。 外に出てみた。見覚えのある百日紅の向こうにガラス戸が光って 55 いる。涛子と会見した部屋だ。するとここは鳥居の立つ祠の裏側に なる。邸内は真夜中でも監視役が二、三人はいるはず。 問題はセキュリティーのセンサー。日本庭園に体熱感知のセンサ ーが仕込まれていると動けないし、ガラス破壊センサーが窓にセッ トされている可能性もある。しかし逆の考え方をすると、この扉に 辿り着くには、どのセンサーにも引っ掛からないような造りになっ ている可能性のほうが強い。 扉から母屋の軒下まで、踏み石が闇夜に白っぽく浮かんで見えた。 運を俺の考えに任せるしかない。石の上を素早く駆け抜け、母屋へ 辿り着いたがアルミのドアが閉まっていた。ロックを外したとたん、 警報に通じる仕組みかどうか分からないが、わざわざ逃げ道をビデ オテープに残す装置はしていないと思った。 ロックをピッキングの道具で外し、建物に入り込んだ。監視して いるのなら、間もなく誰かが駆けつけて来る。階段を二段上がり、 廊下に出た。 この種の建物の常で、内部は凝った造りになっていた。 廊下は直線でなく、壁にはやたらと出入り口の扉がある。 ダウンライトの下を忍び足で歩いていると、仄かに湿った空気が 流れてきた。俺が通うジムでもおなじみの塩素の臭いが、温水プー ルの近くだと教えている。廊下がTの字に分かれ、左に入る通路の 壁が大理石に変わった。プールの匂いもそちらから漂ってくる。そ れにしてもこの広さだったら、建物内にテニスコートがあっても驚 かない。 大理石の壁の途切れたところが前面ガラス張りになっており、畳 二十畳ほどのフロアに、フィットネスの器具が並べてある。そのフ ロアを通り過ぎるとドアがあり、プールの入口になっているようだ った。まだ誰も駆けつけていないところを見ると、気付かれていな いということか。 扉を開け中へ入った。右がロッカー室で、左がサウナと浴室。突 き当たりの扉がプールへの入口だろう。その時、背後から足音が聞 こえた。一人ではない。俺は迷わずプールへの扉を開け、驚いた。 56 ジャングルプール。そうとしか表現の仕様がない光景だった。三 階まで吹き抜けになった天井は、ドーム型になっており、恐らく電 動で開閉式になっているはずだ。二十五メートル以上あるプールサ イドは、岩で形作られ、デッキチェアの他に木製の大型テーブルが 置いてあるのは、恐らく食事もするためだろう。 満たされた温水は照明効果のせいか、エメラルド色に輝いている。 奇抜なのは周囲のデイスプレーで、中生代の羊歯や常緑樹に混じっ て、毒々しい原色の肉食植物の花が咲き、その間に動いているもの がいた。大型ケイジに入っているのはオウムに違いない。それも一 箇所ではなく数箇所に置いてあり、ツガイになっている。 足音が間近に迫り、俺はプールサイドに駆け下り、人工のジャン グルの中に身を隠した。 ドアの所からまず現れ たのは、白い料理服を着たシェフだった。 後ろに小柄だがマッチョなスーツ姿の男を従えている。裸になれば 恐らくプロレスラーのように筋肉の盛り上がった体躯だろう。しか し服がオーダーメイドでないのか、右脇が膨らみ、拳銃を隠してい てもバレている。 プールサイドに降りるスロープを、二人は脚にコマのついたワゴ ンを慎重に運んだ。テーブルクロスを整え、椅子を並べる手際の良 さから、普段もプールサイドで食事をしているに違いない。 マッチョがドアの傍で調光器を触ると、照明が青みを帯び、温水 もコバルトブルーに変わった。ジャングルの朝 を演出したのか。俺 の腕時計も四時前を指している。 シェフはワゴンから、保温器に入った料理や、クーラーに入った ワインを取り出しテーブルに並べ、大ぶりのメロンを牛刀みたいな ナイフで切り分け、生ハムで包んでいる。 俺の頭の上で何かが動いた。ギョッとして見ると、見覚えのある 爬虫類の脚。オーストラリアで喰ったこともあるワニだ。まさか食 用に飼っているわけではあるまい。人工の樹木の間に巨大な水槽が 櫓の上に置かれ、ワニはじっとしている。時々きらりと光る魚は、 57 ピラニアか。誰の趣味か知らないが、樹木の間から恐竜が顔を覗か せてもおかしくない雰囲気に造ってある。 マッチョが扉の傍で直立不動になった。 先頭に現れたのは涛子で、 吉井が後に続き、死んだと思った熊谷銀二が秋野景子をエスコート していた。 涛子はひときわ美しくなり、オーラを放っているようだった。誰 に断わるでもなく、ワインレッドのガウンを脱ぐと、僅かにビキニ で包んだ見事な肢体をプールに躍らせた。 水しぶきが上がったあと、 暫らく潜水し、水面に出た頭が蛇のように滑らかに進む。 プールサイドに立つ全員が、固唾を飲むように見詰めていた。タ ーンして戻って来た涛子がプールから上がると、マッチョが恭しく タオルを差し出す。それを首に掛け、背後から用意されたガウンに 腕を通すと椅子に座った。それを見届け、マッチョとシェフがドア の外へ消えた。立っていた吉井が頷き、景子と熊谷が着席する。シ ャンパンの栓が音を立て抜かれ、全員に吉井が注ぎ終わると口を開 いた。 ﹁今日は、ここにいる全員にとって、わだかまりのあるトゲが取れ た日でもあります。これからは日々仕事に精進し、天声会のますま すの発展を祈願しましょう。乾杯﹂ 保温器の蓋が取られたのだろう、ニンニクとオリーブオイルのい い匂いが漂ってきた。オウムが嗅覚を刺 激されたのか羽ばたきをし ている。スパゲッティー料理らしい。涛子の声が聴こえた。 ﹁熊谷は暫らく日本にいるの?﹂ ﹁ええ、吉井さんに仕事をいただける間は﹂ 迷彩模様のサファリジャケットの熊谷が答えた。 ﹁腕前は吉井に聞いているけど、どんなモノを?﹂ A ﹁今までは、レミントンM700を改良したボルトアクションでし たが、今夜、檜垣を撃ったのは自衛隊で使っていたのと同じM 2です﹂ 突堤で魚釣りの三名を速射で殺した事を喋っている。第一、俺に 58 16 小指を切り落とされたから、ボルトアクションの操作が難しくなっ の使うようなライフルを持って入ってきた。 たのが本音 のはず。それにしても、どうして生きていたのだろう。 マッチョがゴルゴ 熊谷が受け取り、三十発装弾のマガジンを取り外し、 再び装着した。 それを見ていた涛子が、興味が無さそうに景子のほうへ向いた。 ﹁景子さん、あなたもやっとトラウマから解放されるわね?﹂ ﹁::私は、清隆の仇を討つのをそれほど望んでいたわけではあり ません。今日、招待されたのも不本意で::﹂ 声が小さく、聴き取りにくい。景子は焼け落ちた家の前で別れた 時とは、だいぶ趣が変わっていた。後ろに束ねた長い髪はそのまま だが艶があり、ルージュも引いている。黒のフェミニンなニットの ドレスから覗く日焼けした足を、アウトバックの匂いがするサンダ ルで包んでいた。 吉井の耳元でマッチョが、先ほどからしきりに囁いていた。頷い た吉井が立ち上がった。 ﹁どうやら、この屋敷にネズミが一匹忍び込んだようだ。料理に忙 しく、警備の連中がビデオを今ごろ見て報告している﹂ マッチョとシェフが料理人と監視役を兼ねていたらしい。吉井が いつの間にか、アルマーニの上着の裏側から、拳銃を出し、テーブ ルの上に置いた。熊谷が涛子の傍に立ち、辺りを見回してい る。シ ェフが、プールの入口にミニ機関銃を持って現れた。マッチョは既 に上着を膨らませる原因となった銃を両手で握り締め、天井を睨ん でいる。 吉井が叫んだ。 ﹁檜垣! このプールにいるのならでて来い。冥土の土産に面白い 話を聞かせてやる﹂ ライフルの改良型。府警にいるとき密輸銃の取締りでも 俺は連中の火力をもういちど計算した。一番厄介なのは、やはり 熊谷のM 59 13 っとも神経を使った奴で、NATOの新型カートリッジ五 五・六ミリ 口径のライフリングは、六条右回り。発射速度は一分間に六百発。 16 三点バースト機構の付いたこの銃は、引き金を絞れば、三発の速射 ができる。プロが持てば、俺が両手に拳銃を持っていても勝負にな らない。 ﹁檜垣、聴こえるか! 船井を使ってお前をおびき寄せたが、熊谷 はまた失敗した﹂ シェフのミニ機関銃が火を噴き、近くの羊歯をなぎ倒した。 ﹁撃ったら駄目。オウムのほうが、檜垣より高いのだから﹂ 涛子はタバコを銜え、リラックスしているように見えた。俺は背 丈が一メートル近くあるオウムのケイジのほうへ、そっと移動した。 このツガイは確かに俺の命より高いかも。しかし待っていても、蜂 の巣にされるのが落ちだ、あることないこと喋 ってみるのもいいだ ろう。すぐ撃てる体勢で声を出した。 この不景気に、外国まで人殺しをさせに ﹁三代目が、オーストラリアへヒットマンを送った話は嘘だった﹂ ﹁檜垣、やはり居たな! 行かせるほど酔狂な組織はない﹂ ﹁俺には行かせた﹂ ﹁死んでくれると思ったからさ。そしたら金を支払う必要もない。 それに上手くいけば、横着な食肉会社の殺し屋も消えてくれる﹂ ﹁最初から、俺が殺されるのを望んでいたのだろう?﹂ ﹁そうよ、頭の鈍い奴﹂ 過去の殺しと関係あるのか?﹂ マッチョが両手で拳銃を握り、プールサイドまで降りてきた。 ﹁消される理由は何だ? 吉井の返事が返ってこない。半分は確信があるので言ってみた。 ﹁狙撃された会長は、組のために優秀な秋野清隆に目をつけ、学費 を出し、UCLAまで卒業させてやった。アメリカのマフィアのよ うな参謀弁護士に育てるために﹂ マッチョが拳銃をこちらに向け発射したが、オウムのケイジから 五メートルほど離れている。吉井の反応がなかったから、もう少し 押してみた。 ﹁会長は、ゆくゆく三代目と一緒にさせても良いと考えていた。ロ 60 ンドンからロスへ、たびたび三代目を遊びに行かせていたのはその ためだった。そして会長の思惑通り、二人は親しくなった﹂ ﹁::そんな事実はなかった﹂ 吉井の言葉から勢いが失せたようにも見えた。マッチョが銃口を こちらに向け、引き金に添えた指に力が入った。今度は当たる確率 が高い。俺は安物のスーツのポケットに狙いをつけ引き金を絞った。 サイレンサーで音を感じ取れなかったのか、キョトンとした顔で岩 の上に崩れるように倒れた。シェフの銃が火を噴いた。俺は樹木の 間を走り、二つ目のケイジの傍に身を隠し、シェフがマガジンを替 えるのに手間取っている間に、府警の坂下から小耳に挟んだ事を喋 った。 ﹁ところが吉井さん、あんたにも認知はしていないが息子がいた。 自衛隊で﹃上官殺し﹄をした男、熊谷銀二。三代目と一緒になって くれれば、天声会はあんたに落ちたも同然。それには清隆が邪魔に なる。清隆が組のカネを使い込んだとか言って、組織の統制を取る には消さねばならぬと会長に進言した。そして決済がないまま俺に 殺させた﹂ 熊谷がライフルを構えたので、慌てて伏せる。くぐもるような銃 声が三回響き、頭上のオウムが羽を散らして暴れ、動きを止めた。 涛子の声が響いた。 ﹁オウムは殺すなといったでしょう!﹂ 悲鳴に近かった。俺は自分の言葉に自信を持った。 ﹁三代目は、親しい清隆を殺させたのが、自分の父親でも許せなか った。清隆の姉、景子に言って旦那のビル・ヘイマンに﹃父親殺し﹄ を頼んだ。もっとも画策したのは吉井さんだが﹂ 今度も熊谷が撃った。フル オ ・ートで放たれる弾が、すぐ傍の人工 樹脂の幹を削り取っていく。 ﹁檜垣の話はガセネタばかりや!﹂ 吉井の声にも余裕はない。テーブルを離れ、プールサイドまで降 りてきた。涛子が叫ぶように言った。 61 ﹁そうよ、父親も憎かったし、檜垣、あんたは殺しても飽き足らな いくらい憎かった﹂ ﹁そんなら大阪で殺せばよかった﹂ ﹁景子さんにも恨みを晴らさせてやりたかったから、オーストラリ アへ行かせたのよ。すると熊谷は失敗するし、気付いたあんたはど こへ消えるか分からない。別れた妻でもケガすれば、また大阪に現 れると思ったのさ﹂ ﹁ケガで済まなかったし、関係のない娘まで死んだ﹂ ﹁あんたが生き残ったから悪いのよ﹂ ﹁熊谷が失敗した﹂ ﹁だから景子さんを餌に、熊谷にもう一度チャンスを与えている﹂ 吉井がテーブルの拳銃を握っていた。 ﹁檜垣、熊谷が生き残ったのは、こいつは野生の牛の角から身を守 るため、腹部にケ プラー製の腹巻をしていたからさ。だけど重傷だ ったのは間違いない。アボリジニの祈祷師に助けられ、失くしたの はお前に切り取られた小指だけで済んだ﹂ 涛子がタバコを銜え、点かないライターを何度も擦っていたが、 諦めたのか、神経質そうに天井へ向かって喋った。 ﹁::それにしても吉井は、会長と私が話しているとき、一度も間 に入ったことはなかったね?﹂ ﹁親子の会話に私ごときが、入ることは出来ません﹂ ﹁両方に都合のいい事を話していたとしたら?﹂ 涛子と吉井の間の、雲行きが怪しくなった。シェフが吉井を睨ん でいる。俺はハッ タリをかました。 ﹁吉井さんは、組織も三代目も欲しかった。実現すれば、影の大統 領になれる﹂ ﹁どうなの吉井?﹂ シェフの顔色が変わり、頷いている。涛子と同じ気持ちらしい。 ﹁権力を欲しがっていたのは、三代目も同じじゃないですか。会長 の狙撃も黙認した。早く実権を握りたかったのはあなたのほうだ﹂ 62 ﹁清ちゃんを殺すことはなかった﹂ 涛子の顔色が蝋色になり、必死に感情を押さえている。このまま では吉井の思う壺。テーブルの前で椅子に座り、俯いている景子も 危ない。 ﹁三代目を苦しめているのはあんたや!﹂ 突然シェフが叫び、ミニ機関銃が吉井を襲った。脚を撃たれた吉 井が、もんどりうってプールへ落ちる。熊谷のライフルが、シェフ へ向かって三度唸った。白いユニホームが血に染まり、手に持った 銃が爆竹のように揺れ、弾がそこかしこに飛んでいく。 水槽にも当った。割れた強化ガラスから大量の水と共にワニが流 れ出てきた。俺は傍の垂れ下がったカズラに掴まり、濁流をやり過 ごすが、プールに流れ込んだ三頭のワニは、血の匂いに刺激された のか、もがく吉井に近付いていく。 熊谷がワニへ向かって発砲した。弾が切れ、ポケットから新しい マガジンを出す。俺は叫んだ。 ﹁熊谷、どっちか選べ!﹂ 手を休めず装弾した熊谷がこちらを見た。ライフルを構えたら撃 つつもりだった。熊谷が俺の言葉に逡巡したようだが、銃を持ち上 げた。 俺のほうが先に撃った。手に軽い反動と同時に、左の脇腹に焼け たハンマーで殴られたような衝撃が襲い、撃たれたのが判った。体 がエネルギーの切れたコマのように一回転し、床に転がる。仁王立 ちした熊谷が、胸から血を滴らせ、両腕で銃を構え、こちらに狙い をつけた。目を瞑り、観念する。 轟音が響き、人の倒れる音がした。目を開けると、景子が両手で、 硝煙の上がる拳銃を挟み込むように握っている。床の熊谷の眉間に は小さな穴が開き、開けた眼は死んでいた。俺はよろめきながら傍 に行き、驚いて我に帰った景子に言った。 ﹁俺の車で逃げろ、人が大勢集まる﹂ 車のキーをポケットから出そうとしたら、脚がもつれた。 63 ﹁血が::﹂ 景子の支える手が、脇腹から溢れ出た血で濡れている。 ﹁::かすり傷だ。車は大学の裏門に停めてある﹂ ﹁あなたは?﹂ ﹁拘わりになるな、早く行け﹂ 景子は、頭を傾けたが、頷いて扉から消えていった。プールに吉 井の姿はなく、底のほうから赤い泡が浮かんでくる。涛子が虚ろな 目でテーブルの上のタバコを銜えた。ライターが目の前にあるのに 気がつかない。俺はアヒルのような足取りで近付き、火を付けてや りながら囁いた。 ﹁三代目、あんたの思い通りになったな﹂ ﹁どういう意味よ?﹂ ﹁あんたは最初から父親を殺す機会を狙っていた。何らかのトラブ ルを犯した清隆が消されると、それを父親のせいにした﹂ ﹁::組織を抜け、アメリカ娘と結婚すると言い出したからよ﹂ ﹁それだけで、清隆を消す理由にはならない。吉井が三代目の知ら ないうちに、指示を出し、会長に事後報告をした。あんたは未練の あった清隆 が殺されたのを、父親のせいにし、そればかりか、図に 乗って三代目の椅子を早く手に入れたくなった﹂ ﹁全能の椅子だからね。それに、あなたが邪魔になった﹂ ﹁なぜだ?﹂ ﹁飼い主のいない狂犬だからよ。組の秘密を知り過ぎたのに忠誠心 はなく、道端で死ぬのを望んでいる﹂ ﹁都合が悪くなると他人のせいにするのは、昔のままだ﹂ 俺は銃口をぴたりと涛子の胸に向けた。 ﹁私を殺すの?﹂ ﹁死んだ娘のためにそうしたい﹂ 涛子が薄笑いを浮かべながらガウンを脱ぎ、テーブルに広げた。 均整のとれた肢体が照明に艶かしく光り、俺の下腹部 が疼く。 ﹁傷を負っているようだけど、世界一豪華な朝食を食べない?﹂ 64 テーブルに上がった涛子が、勝ち誇ったようにビキニ姿のまま大 の字に仰向けになった。 ﹁殺しが失敗したら色仕掛けか?﹂ ﹁欲しいのでしょう。黒幕が分かったら、オプションで私を抱きた いと言ったわね?﹂ ﹁そのままでは喰えない﹂ 俺はテーブルのナイフを取り上げ、涛子のピンクのブラジャーを、 カップの谷間で切り離した。完熟寸前の果物のような乳房が二つ転 がり出る。 目を瞑る涛子の左手を押さえ、小指にナイフを宛がうと、一気に 体重を乗せた。悲鳴とともにテーブルから転がり落ちた涛子が、怒 りたぎった眼で俺を睨む。切り離された小指は、飢えたカラスも躊 躇うように色が変わっていく。 ﹁くそ! 調子に乗って。殺してやる!﹂ 鬼の形相になった涛子が、手から血を滴らせ、床に転がるライフ ルを掴んだ。 ﹁ああ殺してもいいけど、三代目とやり取りしたEメールが、俺が 死ぬと、ある所で開かれることになっている。今の権力を手放した くなかったら我慢するのだな﹂ ﹁ちくしょう、指が::﹂ ﹁指を失くしたその姿で、始めから階段を登ってみたらいい。三代 目にそれだけの器量があれば、組織はあ んたを指導者として認める はずだ。俺に捨てるものがないと言ったが、それはあんたも同じ﹂ 俺はテーブルの小指を拾い、ポケットに入れた。左手の止血もせ ず俺を睨む涛子を残し、日本庭園に出た。空が白み始め、百日紅の 葉が夜露に濡れ、透明な水滴を溜めている。 祠の木戸を開け、螺旋階段をつまずきながら下りると、狭い裏通 りに出た。アスファルトの上を歩きながら脇腹に手を当てた。ライ フルの高速弾は貫通しているが、激しい痛みだ。後ろでフォーンが 鳴った。振り返ると、俺のハリアーに景子が乗っている。 65 ﹁::逃げなかったのか?﹂ ﹁こっちが逃げる方向よ。それにこれが必要でしょう?﹂ 景子の手に、車の後部座席に積んでいたアメリカ海兵隊の救急キ ットが握られている。俺が助手席に座ると、太股にモルヒネを打ち、 傷口に止血バンドを当てた。 ﹁::あんたと狙撃された会長の関係は?﹂ ﹁昔、愛人だったの。弟の清隆は優秀だったので、学費を見てもら ったのだけど、アメリカに好きな子ができ、会長にも涛子さんにも 怒りを買ったわけ﹂ ﹁焼けた家で見た切り取られた写真の半分に写っていたのが会長だ な。ビル・ヘイマンとは?﹂ ﹁湾岸戦争の前に一緒になったけど、実質的な結婚生活は短かった﹂ ﹁会長をヘイマンに狙撃させたのは?﹂ ﹁狙撃に成功すれば、清隆の仇も討てるし報奨金も出すと、吉井さ んに言われ::。私は、会長に捨てられた恨みもあったしね。しか し結局はビルも殺され、私たち姉弟は天声会に翻弄されたのね﹂ 車はスピードを上げ、中国自動車道から山陽道へ入ったようだっ た。モルヒネのせいで痛みは薄らいだが、意識がはっきりしない。 ﹁::どこへ行くつもりだ?﹂ ﹁姫路に知り合いの医者が居るの。あなたの傷を診て貰う﹂ ﹁助かるかどうか分からないが::、そのあとは?﹂ ﹁オーストラリアへ戻るわ。ねえ、大丈夫?﹂ ﹁::元のところへ?﹂ ﹁ううん、今度は西へ行ってみる。パースは美しい都会よ﹂ ﹁::俺も行ってみたいな﹂ ﹁それより、あなたみたいな人間に、ぴったりのところがある。ナ ラーボア平原﹂ ﹁::いい所か?﹂ ﹁アボリジニも見放した荒野で、鉱山町ノースマンから寂れた漁港 セデューナまでの千二百キロのあいだに、十一箇所のロードハウス 66 しかないところ。ねえ、どうなの、聴いてるの?﹂ ﹁::ああ、ロードハウスとは?﹂ ﹁宿泊施設付きのドライブインだけど、そこを繋ぐエア・ハイウエ ーは、東部の当局が指名手配した犯罪者や、はみ出し者が逃げ込む 無法者の道ね﹂ 起き上がった俺は、かすむ目で、ポケットから出した涛子の小指 を、ミラーに吊り下がっている三本と一緒に結んだ。 ﹁なによそれ!﹂ 景子が叫んだ。 ﹁::プライドさ。失うものがなくなった俺に、そんなことはない と教えてくれた。ナラーボア平原へ案内してくれ﹂ ﹁本気なの? それなら死なないでよ、これ以上、死人を見るのは、 もうたくさん﹂ ﹁::パースは近いのだろう?﹂ ﹁車でとばせば二日ぐらい。ねっ、どうなの、死なないでよ!﹂ ﹁::それで充分さ。ときどき会える::﹂ 寒気が全身をおおい、外を見る景色も血のように染まってきた。 今度ばかりは助かりそうにない。ナラーボア平原は無理なようだ。 顔を拭うと頬が濡れている。景子がこちらを向いた。泣いていた。 どこかで見た花のように涙が赤く見える。 薄れる意識の中で、俺はどちらの涙が赤いのかと、馬鹿なことを 考えていた。 67 68
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