「復古」と「一なる教会・一なるキリスト」: 12 世紀キリキア・アルメニアにおける教会合同をめぐる言説と歴史意識 浜田華練 正教会・アルメニア教会間の合同をめぐる議論は、6世紀のアルメニア教会によるカルケドン公会議否認の 宣言以降、長期にわたりビザンツ・アルメニア間で交わされてきた。中でも、1165 年から 1180 年にかけて皇 帝マヌエル 1 世と、当時アナトリア半島のキリキア地方に中心を移していたアルメニア教会の総主教たちの間 で行われた交渉では、双方向的な議論によってかなりの程度まで合同が実現に近づいた。本報告では、先行研 究で指摘されるように教会合同交渉がビザンツ・アルメニア間の双方の政治的利害関係に基づく外交政策の一 環であるという前提に立脚しつつ、アルメニア教会が、交渉の場でビザンツ側からの譲歩を引き出さねばなら ないという状況の中で、教義上の問題、とりわけカルケドン以後争点となっているキリストの神人性について どのような議論を展開したか、書簡や議事録などのアルメニア語・ギリシア語テキストから明らかにした。 まず、バグラト朝アルメニア王国の崩壊に伴い 11 世紀以降コーカサス高地からアナトリアへ移住したアル メニア人有力氏族がビザンツ帝国との関係を概観した上で、教会合同の重要な思想的背景としてキリキア・ア ルメニアにおける復古志向を指摘した。当時のアルメニア人宗教エリートは、アルシャク朝アルメニア王国に おけるキリスト教の国教化・アルメニア文字創出・聖書翻訳といった事業が行われた4世紀から 5 世紀前半ま での時代を、アルメニア教会と「全地教会」の一致が実現していた時代として理想化し、そうした古き良き時 代への回帰、すなわち全キリスト教徒の一致の回復を自らの使命とした。 こうした歴史的・思想的背景のもと、アルメニア教会は正教会との合同を目指し、そのために教義上の諸問 題の解決に取り組んだ。アルメニア教会は、キリストの神人性について、カルケドン信条の「二つの位格(ヒ ュポスタシス)、一つの本性(ピュシス)」ではなく、「神性と人性の合一した一なる本性」を教理的表現とし て採用している。アルメニア教会によるカルケドン公会議の承認とカルケドン信条の採用を合同の絶対条件と するビザンツ側に対し、ビザンツからの使者との討論を主導したネルセス4世シュノルハリは、カルケドン公 会議を承認する姿勢を見せながらも、ビザンツに対して合同後もアルメニア教会が引き続き独自の信仰告白を 使用することを容認するよう求めた。ここで着目すべきは、ネルセスが「キリストの神性と人性の一致」を、 教理的表現として明文化するよりも、教会合同を実現させる根拠、すなわち分かたれた二者を一へと向かわせ る神的原理として提示している点である。 アルメニア教会など非カルケドン派が信仰告白として採用する「神性と人性の合一した一なる本性」は、カ ルケドン公会議で断罪されたエウテュケス的単性論のように神性のみを認める立場とは異なり、「神性との一 致によって完成された本性」を含意する。それゆえ、神のロゴスたるキリストの受肉を、 「人性と神性の一致」 という究極の神秘の実現ととらえ、 「神性との一致に与ることで損なわれた人間本性が救済されること(神化) 」 の実現の可能根拠とする信仰はカルケドン派・非カルケドン派双方で共有されている。さらに、ネルセスは、 ロゴスの受肉が被造世界においても結合力としてつねに働いていることを重要視した。つまり、神性と人性と いう決して交わることのない二者を結合させたキリストの受肉という究極の合一に包摂されることで、被造物 もまた相反する二(あるいは多)から一へと向かうよう定位されていることになる。 こうしたキリスト論の伝統に立脚しつつ、時間的・物理的な隔絶を超越した「一なるキリスト」に即して教 会が「一になりつつある(一になるべき)」という図式を提示した。しかし、ネルセスのこうした姿勢は、教 理的表現の文言という目に見える文書での合意を目指す交渉の場では受け入れられず、外交政策としての教会 合同の実現と教理上の問題の解決を両立することの限界を示すこととなった。
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