高泌乳牛における繁殖と肝機能:主役は IGF-I と性ステロイドホルモン 宮本 帯広畜産大学大学院 明夫 畜産衛生学専攻 動物医科学講座 教授 要 旨 先進国の乳牛は、過去 20 年間の乳量が直線的に増加してきたのと同時に、空胎日数も比例 して延長してきています。この現象は日本でも、そして北海道の乳牛においても同様に起きてい ることは周知の事実です。たとえば、過去 15 年間のデータから、北海道の乳牛は 305 日乳量で約 1,200kg 増加し、空胎日数は 27 日間延長しています(家畜改良事業団) 。この世界的に共通して いる事実から、 「高泌乳化が繁殖機能に悪影響を及ぼしている」ことが様々な視点から取り上げら れ、短期間で大成功を収めてきた乳牛の育種改良の今後の方向性について、懸念が持たれてきて います。この問題は、現代の高泌乳牛の総合的な生理学的特徴づけがなされない限り、数え切れ ないほどの環境要因に混乱しながら、常に推測で状況を何となく整理するに留めるしか為す術が ありません。 この問題の深刻さに、いち早く気づき、栄養と繁殖の概念をリードしてきたのは、米国コ ーネル大学の Butler 教授です。彼は、乳牛の泌乳初期におけるエネルギー収支(エネルギーバラ ンス)と卵巣機能の回復の関係を土台にして、分娩後の泌乳ピークまでの極端な「負のエネルギ ーバランス」の期間の繁殖機能の停止(分娩後 0∼30 日程度)、泌乳ピークを過ぎた時期からの正 常な発情周期の再開(分娩後 30∼60 日程度)、そして泌乳量が安定してくるそれ以降の時期から のエネルギーバランスの正への回復と受胎・妊娠の成立、という極めて単純化されたわかりやす い概念を提案し、現在でも多くの現象の解釈がこの概念を土台に考えられています。 さて、私たちは帯広で、乳牛の卵巣生理学の研究を続けてきていたので、まずは、十勝の 高泌乳牛を対象にして、我が国では初めての詳細な生理学的調査をほぼ2年間にわたっておこな いました。この調査が可能であったのは、通常の代謝プロファイルテストや一般の泌乳情報(量・ 質)に加え、栄養や繁殖の多種に渡るホルモン測定や遺伝子解析が同時におこなえる比較的大規 模な研究室と数名の熱意をもった研究員や大学院生が中核になって、彼らが粘り強く調査したこ とによります。一連の調査から明らかになった普遍的な事実は、 「見かけ上健康な乳牛は、分娩後 3週目までに排卵するものが半数、排卵しないものが半数程度である」ということでした。これ らの乳牛のその後の繁殖機能回復や受胎率を調査すると、分娩後早期に排卵する乳牛は異なる飼 養環境(農場・農家)でも、一般的に繁殖機能回復が早く、受胎率も良い、という共通性が確認 できました。そこで、本日の講演では、以下の項目について、順次私たち自身のデータをご紹介 しながら「繁殖と肝機能」について現時点での概念をわかりやすく説明したいと思います。 1. 分娩後早期の初回排卵とその後の繁殖性および泌乳との関連性 本学の畜産フィールド科学センターに飼養する初産牛と経産牛を対象に調べると、初産牛 は 70%が、経産牛は 50%が分娩後最初の主席卵胞が排卵しました。この排卵した牛は排卵しなか った牛に比べて正常な発情周期の開始が 20 日間前後も早いことがわかりました。さらに、高泌乳 牛を飼養する管内一般農家の経産牛を調べると、初期排卵した牛の初回 AI が分娩後約 70 日なの に比べ、排卵しなかった牛は約 95 日と大幅に遅れ、空胎日数も 110 日に比べ 150 日と延長してい ました。以上の事実から、分娩後最初の主席卵胞が排卵した牛は、1)分娩後正常な卵巣周期の 開始が早い、2)初回授精日数が短い、3)分娩後早い時期の受胎率が高い、4)空胎日数が短 い、ということがわかり、繁殖性が良好であることが示されました。 さらに、本学の乳牛を対象にして、この分娩後最初の主席卵胞の排卵の有無と泌乳曲線の 形との関連性を統計学的に調べてみました。すると、早期の初回排卵がみられた牛はみられなか った牛に比べ、泌乳曲線の分娩後1週目からピークまでの乳量増加率が有意に小さく、排卵しな かった牛はこの数値が大きいことがわかりました。つまり、分娩後最初の主席卵胞が排卵しない 牛は、急激な乳量増加のため、より大きな負のエネルギー状態であることが示唆されました。 2. 乳牛における周産期の栄養代謝状態 これまで主眼にしてきた分娩後最初の主席卵胞の排卵の有無と分娩前後の栄養代謝状態と の関連性について、詳細に調べてみました。すると、経産牛では、早期に初回排卵する牛は、排 卵しない牛と比べて乳量に差はないが、分娩直後からの血糖値が高く推移すること、血中のイン スリン様成長因子(IGF-I)が分娩前後とも高いことがわかりました。一方、初産牛では、分娩後 3週間以内に排卵する牛はしない牛に比べ、分娩後3週間までの乳量は有意に少なく、血中遊離 脂肪酸も低く推移しました。また、血中 IGF-I は高く推移しました。以上のことから、高泌乳牛 では、産次、乳量、エネルギー状態に関わらず、 「分娩後最初の主席卵胞が排卵する牛は血中 IGF-I 濃度が高い」ことがわかりました。 3. 分娩後早期の初回排卵に直接関わる要因 ここまでの結果から、分娩後最初の主席卵胞の排卵の有無は、分娩前後の母体のエネルギ ー状態を反映しており、その後の繁殖性に密接に関わっていることがわかってきました。そこで、 この分娩後早期の排卵について、その内分泌環境を中心に徹底的に調べてみました。その結果、 1)排卵の有無に関わらず、分娩直後から血流供給を伴った主席卵胞が同様に成長すること、2) 唯一の違いは、排卵する卵胞からはエストロジェン分泌が分娩後 1.5 週目頃に増加するのに対し、 排卵しない卵胞からは分泌されないこと、3)排卵した牛は、その前の 10 日間の血中 IGF-I 濃度 が高く、排卵直前(血中エストロジェンのピーク時)からの血中インスリン濃度が上昇すること、 4)排卵しない牛は、これらの変化はみられないこと、が初めて明らかになりました。したがっ て、分娩後の最初の主席卵胞の発育期には、エネルギー状態が「ましな」牛は肝臓からの IGF-I 濃度が相対的に高く、主席卵胞が十分に発育し、排卵にむけて成熟する時期には膵臓からのイン スリン濃度が上昇する(おそらく、主席卵胞からのエストロゲン分泌に刺激されて)ことで、十 分な成熟を迎え、LH サージを受けて排卵に向かうと考えられました。 4. 優勢卵胞ダブル選抜モデルの確立と卵胞発育への GH の関与 これまでは、分娩前後の特別な状況下での早期の排卵と栄養代謝状態との関連について述 べてきました。ここで、乳牛が分娩後の最も厳しい時期を乗り越え、泌乳ピークを過ぎて正常な 発情周期を繰り返し、人工授精する時期になると、成長ホルモン(GH)は肝臓に強く働き、肝臓 での IGF-I 分泌を支えるようになってきます。私たちは、卵巣生理学の研究から、必ず2つの卵 胞が成長するモデルを確立して、その詳細を調べていました。このモデルは極めて単純で、LH サ ージが起こる前に優勢卵胞を吸引してしまい、その後の1週間は黄体が存在しない状況を作り出 すのです。すると、いわゆる第1卵胞波は黄体が無いので血中のプロジェステロンが基底値であ り(0.5 ng/ml 以下)、上位2つ卵胞が同時に成長を続け、排卵に至ります。この状況で、従来の LH や FSH に加えて GH と IGF-I についても合わせて調べてみました。その結果、2つの卵胞が成 長する牛では通常の黄体形成中の第1卵胞波の時期の牛に比べて、1)血中エストロジェン濃度 が2倍である、2)血中 FSH 濃度に差は無い、3)LH パルスが活発である、4)GH パルスも活発 である、5)血中 IGF-I 濃度が高い、6)主席卵胞では選抜前の小卵胞に比べて LH レセプターと GH レセプターの両方が多く発現している、ということがわかりました。以上から、どうやら主席 卵胞から分泌されるエストロジェンは、下垂体前葉からの LH と GH の両方のホルモン分泌を活発 に促していることが考えられました。そして、活発な GH 分泌は、肝臓での IGF-I 分泌を刺激して いると考えられました。 このことを裏付けるように、正常な発情周期を繰り返す、泌乳ピークを乗り切った時期の 乳牛と、加えて泌乳の負担が無い肉牛(黒毛和種)について、周期中の血中プロジェステロンと IGF-I 値を調べると、いずれも負の相関がみられました。つまり、発情期には血中 IGF-I は高く、 黄体期には低いことがわかりました。これらのことから、乳牛はいったんエネルギーバランスが 正に戻り、正常な発情周期を回復すると、卵巣からの性ステロイドが、今度は下垂体からの GH と 肝臓からの IGF-I 分泌を調節し、卵巣機能を支える機構が存在するのではないか、という仮説を 立てました。 5. 性ステロイドと代謝ホルモン:健康システムへの貢献 この仮説を試すために、とても単純な実験を試みました。すなわち、乳牛の成牛を卵巣割 拠して安定するのを待ち、その後、EB(エストロジェン)を1回筋注する群、CIDR(プロジェス テロン)を2つ腟内に挿入して 7 日間処置する群、そして無処置群です。牛からは 16 時間、15 分間置きに連続採血し、血中の GH とインスリンのパルス状分泌を観察しました。また、その翌日 に屠殺によって肝臓を採取しました。結果は、エストロジェン処置は、1)GH 分泌を刺激し、2) IGF-I 分泌を刺激し、3)肝臓での GH レセプター、インスリンレセプター、そして IGF タイプ1 レセプター(IGF-I レセプター)を刺激しました。以上の結果から、1)エストロジェンは GH の 分泌を刺激し、肝臓の GH レセプターと IGF-I レセプター発現を増加させることで、代謝系を活性 化させる、2)エストロジェンは肝臓のインスリンレセプターを増加させることで、肝臓のイン スリンへの感受性を高め、炭水化物の代謝を活性化するかもしれない、という新しい概念にたど り着きました。 他のグループのこれまでの研究から、エストロジェンとプロジェステロンは牛の代謝病(異 化作用)の負の影響に対して、相当な拮抗作用をもつことなどから、これらの性ステロイドの存 在は、動物を疾病からまもる、という考え方が提唱されています。したがって、高泌乳牛の分娩 直後の過酷な状態から通常の状態に至る時期の考え方は、以下のように考えられます。 1) 分娩直後のエネルギー収支が大きくマイナスの時期:分娩直後の急激な泌乳を始めた乳 牛の GH 分泌は「飢餓状態」に近いため活発だが、肝臓の GH レセプターが極端に減少し、肝 臓からの IGF-I 分泌は低い。 2) 泌乳ピークを乗り切り、通常の発情周期を繰り返す、エネルギー収支がプラスに転じる 時期:この時期には、肝臓の GH レセプターは増加し、肝臓は IGF-I を大量に分泌する。その 結果、卵巣からは性ステロイドが常に分泌され、下垂体と肝臓の代謝軸を活性化し、卵巣の 周期性をより強固な状態に維持する。 以上、結論として、高泌乳牛において分娩後最初の主席卵胞が排卵する牛は、早期の卵巣機能 回復や高い受胎性を示します。このような牛では、肝臓からの IGF-I 分泌が活発であり、この因 子が直接的に分娩直後の主席卵胞のエストロジェン分泌を刺激して、排卵に導きます。この IGF-I 分泌が活発な牛は、エネルギー状態が「まし」であり、出す乳量に対して何とか餌を食い込んで 過酷な最初の1ヶ月を乗り切っています。この時、乳量の増加があまりにも急激な場合は、エネ ルギー状態が「まし」から「無理」になり、肝臓での IGF-I 分泌は低下し、早期排卵は起きませ ん。1度、卵巣機能が回復し正常な発情周期を繰り返すようになると、性ステロイドは下垂体の GH 分泌と肝臓での IGF-I 分泌を刺激して、結果として健康で疾病に強い状態を維持することにな ると考えられます。この最後の部分の性ステロイドと健康に関する部分は、乳牛の分娩後の過渡 期に関しては今のところ全くの仮説ですが、私たちは信じるに足る概念だと考えています。今後、 さらに調査と実験を進め、この概念について取り組んでゆきたいと思います。一方で、もちろん、 これまで述べてきた IGF-I 分泌がより活発な状態になる「飼養管理」が最も重要であり、この課 題についても、本学の木田先生を中心に取り組んでいるところです。今後とも、皆様から様々な 現場での問題や課題についてご教示いただければ幸いです。 *************************************************************************************************************** 宮本 明夫 先生 Dr. Akio Miyamoto (帯広畜産大学大学院 畜産衛生学専攻動物医科学講座 教授) 1987 年 東北大学大学院においてインヒビンの研究により農学博士。その 後、ドイツ ミュンヘン工科大学生理学研究所において乳牛の卵巣生理学、特 に黄体機能の研究に従事。帰国後も引き続き、「微透析システム」や「カラード ップラー超音波画像診断装置」等を駆使して血管機能と卵巣機能(黄体内で 分泌される様々な生理活性物質、例えばオキシトシン、IGF を始めとする多くの成長因子、黄体内で 合成分泌される様々なプロスタグランジン(PG)の黄体機能の制御機構)の新事実を数々見出し、 世界的にもその画期的研究が注目されている。最近は、高泌乳牛における健康と繁殖の問題を、 北海道の乳牛の調査解析したデータベースから、乳生産のための肝機能の酷使による繁殖機能へ の悪影響を主に内分泌的視点から示し、同時に、欧州の研究者らと連携した調査研究を進めてい る。2003 年より教授、2006 年より現職。
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