崔洋一× 梁泰昊 論争 - 『金日成のパレード』&『北朝鮮・素顔の人々』

「シティロード」「映画芸術」での
『崔洋一× 梁泰昊 論争』
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【シティロード
1991年
8月号より】
★なお、聞き手の斉藤氏がどなたなのか、現在のところ確認がとれておりません。ご存じの方がいらっし
ゃいましたら、お知らせいただけますと幸いです。
よ。たとえば政治主義とか、構造化された差別っていう、そういう意識のもとの目的意識的な暴力と
は違うわけでしょう。
斉藤
無知の為せる技だね。
崔
無知が故に、誰かが懐柔しやすいといえば懐柔しやすいわけよ。懐柔する方法としては暴力
ってのは、てっとり早かったわけ。確かに考えてみると、大きく政治が揺れ動くとき必ずその狭間で
起きてるわけね、大きな事件は。1番大きかったのは65年の「日韓」の頃よ。俺が入った頃。特に
その前がひどかった。人も死んでるし。それはやっぱりね、そのときの時代の匂いっていうのはみん
な無知が故にさ、敏感に伝播するんだ、これが。やってもいいんだ朝鮮はっていうさ。おっそろしい
ぐらいやるわけだ。それはこの国の一朝一タではないものを感じるよ。その根深さは。ただ現場レベ
ルでいうと、やられたらやり返せってやつ。こっちだってやってんだからね。過剰防衛と言われるよ
うなレベルじゃなくて。正義の専守防衛じゃないからね。
自分の血を一般化されてもそれは違う
斉藤 時は流れて(笑)
、20年くらい前になるか、駒場に一人住まいの頃、ちょうど崔君
のアパートにキャロルと金日成全集があったよね。金日成って、今どう?
崔
20年前っていうのは、まさに矢沢永吉と金日成は同居できたんですよ。でも、一週間ぐら
い前に引っ越ししてさ、見事に捨てたね、いわゆるマルエンから何から全部捨てたね。彼が永遠なる
スターリニストか、永遠なる抗日パルチザンなのか、と。
で、抗日パルチザンという響きはやっぱりとっても気持ちのいいものがあるんですよ。それは単純に
斎藤を嫌いになるっていう意味の無知な反日ではなくてね。そこにはずっとやり続けることのスタイ
ルの美しさみたいなのはあるんですよ。エイトビートは不滅です、みたいな。だから矢沢永吉とどっ
かで同居してたんだな。
斉藤 最近こっちに伝わってきている、例えばポーランドの映画『金日成のパレード 東欧の見た
“赤い王朝”』なんかね、軸で入ってくる北のイメージってのがあるじゃない。
崔
『金日成のパレード』っていうのは、そのうち書くつもりだけど、ぜったい許さないよ。と
くにあれを入れた連中を許さないね。俺の感情をまったく逆撫でしてくれたって感じで。
斉藤
ある種の、からかいっていうことだよね。
崔
あそこから感じる意図っていうのは、明らかに白人種の、イエローのワンマン独裁国家に対
する意図明白なシニカルというか、からかいだよな。それを分かってて入れてるなんてズルイよ。
斉藤 確信犯。
崔
確信犯ですよ。あんなのを今入れる意味はなんだっていうさ。大きな地球儀の流れで言えば
そうじゃないだろう。
「君の国と君の国の人々は、取り残されちゃいけないよ」っ(注:脱字)
与えられるってことが政治だとするなら、そういうもんでしょ。そっから明らかに逸脱している。ア
ンフェアな映画だよね。アンフェアの映画ってのは笑えるんだよ。絶対に。でも俺は許さない。ま、
床屋政談風に言うと、世界の流れは自明の理なんだけれども、そのことによって変わらずを得ない北
とか南とかいうことを、じゃあ個人的に俺にもしくは俺の周辺に影響を与えるか与えないか、という
問題に関して言うと、与えます、これはね。金日成から金正日へと至る道も含めてね。で、具体的な
日常生活においてどうかということでは、日常生活もたぶん含めてだろう、という気がするんだな。
俺が生まれてから41歳になるこの年まで、常にそのことってのは生活一般にも、そうでもない部分
にもやっぱり影響してきたし、それはもう変わらないだろう。それは受け止め方の問題なんだな、
どこまでいっても。それ映画の話に戻すと、いわゆる在日朝鮮人、韓国人の李学仁という映画監督が
いたり、金佑宣とかいたりして、 彼らの中では寓話としての祖国ということでなくて、本当に幻想
としての祖国という比喩が多分にあったと思う、濃厚に。そんなことって、俺個人の中では全然遊離
した世界なのね。
斉藤
なるほど。
崔
自分の血はこうであって、こういう出自で、たぶんこういう括られ方の中でこのように生き
るであろうなんてことは、ある程度個人的には分かるだろうけどさ、それを一般化されたって困るぜ
って。どうやら大多数の在日は、型にはまりたがってるフシはあるんだけどね。ただそれはもうダメ
なんだということは、もうここ4、5年でハッキリするだろうと思うのね。したがって、いきな
りカタッチイ話になりゃあ、たぶん(注:脱字)
のが俺は個人的にはとってもここ何年かでは喜ばしい。
映画全体を貫く
ヒエラルキーに結構なじんだ
斉藤
ところで “崔洋一年譜”風に言うと写真専門学校に入ったよね。あれは何年?
崔
68年だよな。
斉藤
その写真専門学校に入ろうとした当時の意図は?
崔
俺は東京朝鮮中高級学校、俗称東京朝校っていうとこ出たんだけど、単純に言うと大学の入
試の資格がない。各種学校の扱いでね。その頃は要するに左翼偏向大学しか受け付けてないところが
あったんだな。
斉藤
今でも、一方的に入れないわけだ。
崔
そりゃ無理なんだよ、資格がないから。まぁ、もうちょっとちゃんと専門的なことをやりた
いって奴らは大検を受けてやってたんだけど。ただ当時の流れとしては大検受けるのは潔しとしない、
と。ややもすると民族虚無主義的な、つまり血の薄まる方向への学問への逃避だろうというよつな匂
いが朝校の中に多分にあったんだね。当然有能な奴は朝鮮大学校に行くというのが、既存の路線だっ
たから。
斉藤
そういうときに、こういうカメラマンがいいなぁ、というのはいたのかな。
崔
たまたま俺が中学生のときに、風邪で家で寝てたんだよ。廃品回収業の人が定期的に家の地
域をまわっていて、たまたま家に何か取りに来て、
「おい寝てるのか」
「風邪ひいちゃって」なんつっ
てて、
「じゃあ退屈だろ?」
「マンガある? おじさん」なんて感じだったの。
「マンガはないなぁ。
でもこれなら見てるだけでもわかる(ここで終了)
【シティロード
1991年
9月号より】
映画『金日成のパレード』を観て崔洋一は、何故、
「感情を逆撫でされ」
「許さない」と思ったのか?
困ったときの <今、何時>というのがある。話題に詰まって何となく座がしらけそうになると、
やおら時計をみつめて、<もうこんな時間、じゃここらでお開きにするか>とタオルを投げるので
ある。同じように困ったときの<今、何故?>がある。何かキャッチフレーズが思い浮かばないとき
に、
<今、何故**か?>とつければ、その**が何であっても、それらしいコピーになると思っている
らしい。<今、何故ゴルバチョフか?>でもいいし、<今、何故冷麺か?>でもかまわない。所詮は
たいした知恵も浮かびませんでしたという<逃げ>である。
ところで「金日成のパレード 東欧の見た“赤い王朝”」という映画が大いにうけている。東京・
大阪とも劇場の観客動員レコードを塗り替え、さらに更新中である。この映画のことを崔氏が<あん
なのを今(日本に)入れる意味は何だっていうのさ>と発言しているのには笑ってしまった。
1998年9月に撮影され、90年春に活字(キネマ旬報)を通して日本に紹介された映画が、し
かるべき手続きを経て日本で上映されるということに何の不満かあるのか。それとも新鮮であるべき
ドキュメントを、梅酒じゃあるまいし何年も漬け込んでおきたいのか?商業映画としてごく当たり前
に公開された作品に対して、崔氏が<今、何故「金日成のパレード」か>と問う、その<今>とは何
か。
映画監督としての崔氏が問い、考えねばならないことは<今、何故それを入れたか>ではなく、
<今、何故それがうけているのか>であろう。そして「
「ベン・ハー」の戦車競争や「十戒」の大群
衆を上回る迫力」(6・28朝日新聞)あるいは「客観主義で貫かれた映像は、裏に隠れているもの、
語られなかったことをぼんやりと(このような体制を知る人には強く)浮かびあがらせる。この国に好
意を持つ人も、批判的な人も、優れたドキュメンタリーであることを認めるはずだ」
(7・15読売
新聞)等への感想に対してではなかろうか。
この映画について崔氏は<あそこから感じる意図って明らかに白人種の、イエローのワンマン独裁
国家に対する意図明白なシニカルというか、からかいだ>という。もし仮にそうだとしたなら、日本
の観客は崔氏が“感じる”(感じている)そんな映画を歓迎しているということになるが、その事態
をどう受けとめるのか。
「白人種」対「イエロー」などという一面的な対比でごまかすのではなく、もう一度ポーランドで作
られた記録映画だということを思い起こすべきだろう。自ら「ナチス」や「社会主義」という全体主
義に苦しんだ経験があるからこそ、それがどこであれ全体主義を悲しみ、冷静にみつめなければなら
ないということを。人類に共通する課題であり、今の、日本や、いわゆる先進諸国の一部にもないと
はいえない現象ではないか。
崔氏はこれが<笑える映画>だということがお気に召さないらしい。しかし<笑って終わりにできる
映画ではない>ということには気が付かないのだろうか。崔氏は<そのうち書くつもり>とのことだ
が、願わくば理論として分かるようにぜひとも書いてもらいたいものである。
梁
泰昊
(フリーライター)
【映画芸術
1991年
(
「金日成のパレード」
連
載
冬号】
崔洋一 )
「逆流ホルモン鍋 ①」
『金日成のパレード』における、あるべき姿とは
崔洋一
●映画監督
「パルス」なんて気取ってみたが、止めにする。もっといかがわしく猥雑であるべき俺のクソッたれ
の小さな陣地の名前としてはふさわしくないのだ。ちょいと前に知り合いの飲み屋の内部通信に書い
た駄文のタイトルが気に入ったのでそのまま流用してしまう。
「逆流ホルモン鍋」と言う。結構お気に入りのタイトルであるので皆々様においては適当にお引き回
し願いたい。
さて『金日成のパレード―東欧の見た赤い王朝―』である。
『シティロード』八月号誌上の俺のお
喋りで「
『金日成のパレード』はダメだ、ぜったい許さないよ。とくにあれを入れた(輸入、配給)
連中を許さないね」
、と、はっきり言った。なおかつ、「書くぞ」、と、言った。予想はしていたが、
俺が書く前にリアクションが起きた。翌号の『シティロード』投稿欄にフリーライターを自称する梁
泰昊なる男から俺に対する奇妙な反論(?)が掲載された。全体の文脈からは、どうも、この梁泰昊
は俺の喋りの脈絡を読めなかったようだ。
まあ、仕方がないから梁泰昊が読んで分かる程度の「理論」の展開をしてみるとしよう。
君は「しかるべき手続きを経て日本で上映されるということに何の不満があるのか」云々と俺に泣
きを入れているが、俺の「許さない」が手続一般(輸入、配給のしかるべき事実が分かったら世の中
的には面白いかもしれないネ)を指すものでないことはきちんと読んでいれば誰もが理解できる筈で
ある。いわんや『金日成のパレード』日本語版ナレーション台本作成者の君がこんな理屈も分からな
いなんて、まるでおバカさんじゃありませんか。ついでだから言っておくが、『シティロード』誌に
おける君の肩書は何で「フリーライター」なんだ。どうしてスタッフとして『金日成のパレード』に
深くかかわっていることを隠すんだ。なおかつ、君が練りに練ったであろう問いと作文の趣意及び表
層があたかも『金日成のパレード』への熱烈なるシンパシーとして純化を装う必要があるのだ。俺は
この『金日成のパレード』における君の存在が一体なんであるのかなんてどうでもいいが、インチキ
臭い術は俺には通用しないことを言っておく。それとも周到な君の藪蛇の類ですかネ(おっとあぶな
い、キナ臭い)
。
梁泰昊よ、言うまでもないことではあるが俺の「許さない」の当たり前は、『金日成のパレード』
を入れた君および、君たちの意図に対する批判なのだ。君は『金日成のパレード』が東京や大阪で劇
場の観客動員レコードを塗り替え、さらに更新中と、数(客の量と質の問題は一切触れぬまま)を他
のみにふんぞり返り、
「考えねばならないことは〔今、何故それがうけているのかであろう〕」などと
夜郎自大の御託である。
いいかい、梁泰昊よ、この『金日成のパレード』がこの国でどんな反応をもちえ、どんな効果が
波及するのかはちょっと気がきいた右や左の政治主義者やプロの運動屋、そして、「チョーセン」の
安売り屋たちだったらただちに読み込めることだよ。梁泰昊よ、こんなことぐらいは君だってわか
っている筈だ。ソ帝(我ながら古い)がつぶれ知らんぷりの中国があり、どうやらまとまるカンボ
ジアがあり、カリブの頑固親父のカストロが妥協を始め、明らかに湾岸の戦争を経てアメリカの一
局化が世界をのしている今現在、社会主義国家を標榜し、まともに(?)残る国家は「朝鮮民主主
義人民共和国」だけだ。こんなに気軽に叩けて遊べる対象は近ごろのこの国の民族的狭量の圧倒的
な部分を、「世界の潮流」である「正義のような反共」として相対化させ満足させるのに充分に余り
有るシチュエーションである。したがって、おかど違いの客は来るのである。湾岸を軸とするメデ
ィア戦争に慣れきっているこの国の多数派にとってのエンターテイメントな刺激はテレビの中の戦
争の正義であり、よく分からないが何となく怖い「朝鮮民主主義人民共和国」であり、タンコブを
ぶら下げているデブの「独裁者金日成」であり、その息子「金正日」なのだ。ようするに身近に来
ない現実は不幸であればある程に気をそそる楽しさがあるという極めて分かりやすいリアリズムな
のだ。ましてや小さな劇場でまるですべての秘密を解きあかすがごとき煽情的なタイトルの、それ
もあの「連帯」の国の「ポーランド」が作った「ドキュメンタリー」だったりするのは、この国へ
の良心的な帰属のアリバイを証明したい人々にとってもってこいではないか。梁泰昊よ、本当に君
たちはタイムリーでツボをえている。だけどこの手のやり口は昔からプロパガンダなんて言わなか
ったっけ?
そして、予定調和の君たちの意図はこの図式にいやおうがでも当てはまってしまう。
「朝日」や「読売」は誉めているんだから俺にも同じレベルで考えろ、君は得意満面だが、それが
どうしたって言うんだよ。
梁泰昊よ、もう一度言っておく。ことの始まりは君および、君たちがこの『金日成のパレード』を
この国に入れたことから始まるのだ。過程なき結果に拠り所を求める君および、君たちの『金日成の
パレード』はすでに出発から充分に政治的である。この『金日成のパレード』がただ単に「商業映
画」などとは言わせない。
「自ら(ポーランド)〔ナチス〕や〔社会主義〕と言う全体主義に苦しんだ
経験があるからこそ、それがどこであれ全体主義を悲しみ、冷静に見つめなければならないことを。
人類に共通する課題であり、今の日本や、いわゆる先進諸国の一部にもないとはいえない現象ではな
いか」と崇高なマニフェストする君および、君たちの『金日成のパレード』がどうして「商業映画」
と呼べるのだろうか。普通の日本語ではな、この手の言い回しと方法を「政治」って言うんだよ。そ
れと「ナチス」と「社会主義」が同質としての「全体主義」っていうのはどういうことだよ。君がど
んな教科書を読んできたのかは知らないが、いまどき文部省の官僚だってこんなむちゃなレトリック
は使わない。
梁泰昊よ、君が心配する「今の日本」のことだが、君がこの国におけるどんな場所にいるのかを惚
けちゃいけないよ。
「客観」的にも「主観」的にも君や俺はこの国においてはエイリアンなんだって
ことを「ポーランド映画」にこと寄せて、まるでこの国の人であるがごときの曖昧な客体化へとすり
替えるのはどう転んでも君や俺の現実ではない。
『金日成のパレード』は、
「その制作過程において、すべての状況が朝鮮民主主義人民共和国の提
供であり、同国の資料にもとづいて制作したもので、ノン・フィクションである」ことを売りの謳い
にしている。ようするに「客観」的であると言っている。したがって「真実」があるのではないかと
いう毎度お馴染みの三段論法への飛躍は至極同然の必然と言える。
しかしポーランドのエリート上がり(プレスシートによればである。しかし、三八歳になるこの人
物はご幼少のころから特権階級である共産党とは無縁だったのかな?)のアンジェイ・フィディック
監督が描くところの『金日成のパレード』は「朝鮮民主主義人民共和国」の「客観」であり、
「真
実」であるのであろうか。
「私たちの日常からは想像もつかない(君たちはとっくに知っていた)北朝鮮の素顔を、社会主義
ポーランド(デマはいけないよ。一九八八年の制作時、ポーランドは実質的に〔連帯〕の支配下にあ
り社会主義政権は瓦解寸前だったじゃないの)の目を通して照らし出した迫真のドキュメントであ
る」とのたまう『金日成のパレード』の描く現実は俺でも知っている事実だ。ついでに言っておくが
俺の「政治」的検証を君がお望みならばただちにお近くのレンタルビデオ屋に走るがいい。俺は個人
史の紆余曲折を隠そうとは思っていない。誰かさんと違ってネ(オッといけないアブナイ挑発)。
そして、この『金日成のパレード』は「客観、客観」と現実の北朝鮮を画で重ねる程に白々しい
「真実」の相貌を見せてくれる。
「神の為政者金日成」と愚鈍な「朝鮮民主主義人民共和国の民」が
織りなすオカルティックな「国家」の創造とでも呼べばいいのだろうが、君と君たちの『金日成のパ
レード』が客に強要する「朝鮮民主主義人民共和国」に対するイメージの喚起は、その「モンタージ
ュ」において一気に勘違いへと雪崩こむ。「国家」とは何か「人間」とは何かと、この『金日成のパ
レード』が俺に真摯に問うものならば、繰り返し編集されていく「客観」が、否定されるべき「真
実」へと化けていく『金日成のパレード』の方法こそが本質的に否定されるべき「政治」そのもので
あるのだ、と断言しておく。
梁泰昊よ、アイロニーの達人らしい君に、君自身の言葉を送る。「・・・朝鮮人として生きることは、
朝鮮人が歩んできた歴史を批判力をもって点検し、新しい自分のあるべき姿を創造していくことであ
ろう」
(
『プサン港に帰れない』一九八四年 第三書館)
ところで、君の壮大な一般論の間抜けな旅はいつまで続くのであろうか。どこかでつまずいて転ば
ないようご自愛の程よろしくね。とりあえずの健闘を祈りつつこの項を終いとする。
【映画芸術
1992年
春号】
(
「金日成のパレード」 梁泰昊 )
「華麗なる憂い」をしかと受け止めよ。
「金日成のパレード」とは何であったか。
梁泰昊
映画であれ、小説であれ、作品というものが世に出たときは、それは一つの生き物として一人歩き
する。その作品がどんな意味をもつかは作品それ自体をもって語るものだ。名の通ったシェフの高級
料理であろうが、屋台のラーメンであろうが、うまいものはうまいし、まずいものはまずいのであっ
て、評価は相手方に委ねるしかない。
映画に対して批評をするなら、映画を見て何がよくて何がよくないのか、という議論をすべきだ。
などと事新しく言わなければならないのも、前号で崔洋一君が児戯に等しいおしゃべりをしているお
かげだ。とはいえ、
「あるべき姿の心とは」というのが、まともな日本語と言えるかなどと詮議する
暇はない。「飲み屋」でオダを上げるならいざ知らず、公衆の面前では眉をひそめられるのがオチだ、
とだけ言っておこう。
チラシのいくら隅々まで目を通したところで、映画を語ることにならないことぐらいは小学生でも
分かる道理だ。崔洋一君、君は本当に「金日成のパレード」を見たのか。もし見たのであれば、それ
をどう思ったかということを語ればよいのだ。
中身を語らずして「あれを入れた連中は許さない。俺の感情を逆撫でした」などと、いくら大声を
あげても何の足しにもならない。
短いコメントに付された肩書がどうだこうだと重箱の隅をつついているが、そもそも肩書で人を判
断しようとする気持ちがすでにさもしいものだ。あえて言うならその意味するものは、単発の何に係
わったかをいうものではないくらいジョーシキではないか。映画や文章の中身ではなく、ラベルによ
りかかって議論しようとしている君の「感情」たるや陳腐の極みだ。一事が万事、見当外れな常套句
の羅列を「理論の展開」とはおなぐさみだ。そのようなステレオタイプで弁じる者をこそデマゴギー
というのだ。
君は「<許さない>は手続き一般をさすものではないことは誰もが理解できる」というが、話しを
すり替えてはいけない。
「シティロード」での経過をすべて載せれば明白なことだが、たとえば「あ
んなのを今入れる意味は何だ」という、その「今」とは何であり、果たして「いつ」ならよいのか。
映画を見るのにこざかしく時期の選定をすべしとは、倣慢以外の何物でもない。
崔洋一君のいう「今」が狭小な政治主義に基づいていることは見え透いている。君は「日本に入れ
た意図」を「許さない」という。さらに「金日成のパレード」がこの国でどんな反応をもちえどんな
効果が波及するのか、と問う。これだけでも、問いかけというのはえてして心の鏡だということがよ
く分かる。
つまりは君自身の中に何らかの「意図」があり、それに伴う反応と効果を期待する「感情」がある
に過ぎない。それならば、君の仕事としてそういう映画を作ればすむことだ。ただしその時はまたど
こかに「俺の感情を逆撫でした」とわめく奴が出てくるであろう。「意図」とか「感情」とかいうも
のはせいぜいその程度のものだ。
「傾きかけた社会主義国」であるポーランドで制作したものなんぞ、倉庫の片隅にでもおいておけ
ばよかったんだと、君は言いたいのか。しかし忘れてはいけない。この映画がポーランド内にセット
をこしらえ、想像逞しくして作られたのではなく、まさに朝鮮民主主義人民共和国で撮影されたもの
であることを。朝鮮民主主義人民共和国において、いかに「友好国」の取材班であろうと、自由勝手
にフィルムを回せるわけではないことはだれでも知っている。
撮影シーンを辿ってみれば、それが朝鮮民主主義人民共和国自慢のカタログであることは一目瞭然
だ。首領様の誕生地、パリのそれよりも大きい凱旋門、長いエスカレーターの地下鉄、ピョンヤン産
院、蒼光幼稚園、主体思想塔--それらはいずれも取材班が撮影したものという以前に、朝鮮民主主
義人民共和国が案内をし、説明をし、撮らせたものなのだ。それらが朝鮮民主主義人民共和国にとっ
て見てもらいたいものであることは朝鮮新報社発行の<朝鮮観光案内>によっても明らかではないか。
それとも君は、朝鮮民主主義人民共和国に招待されたのだから、その思い通りの作品にならなけれ
ば気がすまないとでも言いたいのか。思惑通りの映像になればよいというだけなら、自分で作って自
分で配ればすむことだ。わざわざ外国から呼んで(ポーランドだけではない)、撮らせるというのは
「外国人」がこんなに称賛したということを誇示するためであろう。つまりは朝鮮民主主義人民共和
国は外国人に「ほら、どうですか。立派でしょう」と自慢をしているに過ぎない。
自慢というのは、言わなければ、見せなければ、分からないというものだ。しかしそれは、言われ
れば言われるほど、見せられれば見せられるほど、鼻持ちならなくなって、こそばくなって、しまい
には笑うしかなくなる。
「金日成のパレード」における「笑い」とはそのようなものだ。
「そうか、そうか、よかったね。あんたが大将!」と言われて嬉しいのだろうか。ポーランドに限
らず、フランスでもカナダでもよいが、それを言うようなシチュエーションを精一杯作って、相手か
らその言葉が出るのを、固唾を呑んで待っているのだ。言ってくれればしめたもの、指パッチンして
「やったね」と快哉を叫ぶ、そんな構図が丸見えではないか。あげくにはどこそこの国の映画では
「あんたが大将!と言っている」と、ストーリーを逆輸入して新しい勲章の一つにつけくわえるのだ。
(映画の中の「国際親善博覧館」を見よ)。
何故そんなことに力を入れるのかは言うまでもない。まさにプロパガンダとして映画が有効だと信
じているからである。ガイドが説明したことを「大衆」が素朴に信じるであろうという期待がなけれ
ば、撮影させようとも思わないであろう。
崔洋一君は「金日成のパレード」を持ってきたことが「プロパガンダ」であるという(しかし「プ
ロパガンダ」というのもなつかしい言葉だ)。浅薄な「利敵論」というほかはない。かびの生えたよ
うな「利敵論」がどれだけ民主主義をゆがめ、言論を撲殺したかは、言わずもがなの歴史の教訓だ。
けれど、世間はそんなに甘いものだろうか。たかだか 1 本の映画で世論形成ができるほど、「大
衆」は純でナイーブだと、君はマジで思っているのか。語るにおちるとはこのことだ。もしこれが
「笑える」映画ではなく、
「称える」映画という触れ込みだったら、君は「許せる」とでもいうのか。
それこそまさに「タイムリー」だと。
実際のところそんな勘違いをした人も皆無だったわけではない。「金日成の称賛映画なんてけしか
らん」と、恐らく君の思いとは正反対のところで、プロパガンダを怪しんだのだ。
崔洋一君。映画が政治的なプロパガンダのために有効だなどと告白するのは、思考停止ということ
にとどまらず、映画人として一種の自殺行為ではないのか。政治的プロパガンダとして映画を使うと
いうことにもっとも力を入れたのはヒトラーであることぐらいはだれでも知っている。その“成果”
が「民族の祭典」であったことも。さかのぼればレーニンもまた、表現活動は党組織に従属すること
も要求した。情報を独占し、操作しようとするということでは、社会主義もナチスも、もちろん戦前
の日本も同じことをやってきた。体制のために表現を奉仕させるというシステムがどんな結果を招い
たか、今さら言うまでもあるまい。それは主義主張の問題ではなく、社会構造の所産なのだ。
崔洋一君は「金日成のパレード」が笑える映画だということをさかんに非難するが、実際にこれを
見たのなら、君は笑えたかね。正直にいうが私には笑えなかった。
私のこの映画を見ての感想は「悲しくなった」ということだ。われわれの同胞が何故、いつまでこ
んなことを続けなくてはならないのか。まるで他人事のように「あそこまで、よくやるよ」では決し
てすまされない。民族が背負っている悲しみだ。
この映画で目を見張るのは、息を呑むような大マスゲームであり、人類の歴史に「メモリアル」
として残されるであろう「100 万人の大パレード」である。それがとてつもなく「華麗」であり、
「壮大」であればあるほど、空虚さを感じずにはいられないのだ。その空虚を「笑い」として受け
止めるか「悲しみ」として受け止めるかは、切実さの相違だ。
多くの人の瞼に焼きついた一つの光景は、行進の途中、ほんの短い間、写し出された白い靴である。
片方だけが脱げたまま放置されて、行進はとどまることがない。
「私の靴」をとりに戻ることができ
ないのだ。あるいは流れる汗を拭くこともできず、両手に掲げるたいまつの熱に耐えて、夜の闇の中
に人文字を描きながら、行進し続ける姿は、見る者の胸を痛くする。同胞であると思えばそれはなお
さらのことだ。
この映画を見て、ライプヒチ映画祭の観客は笑ったと伝えられている。そのことを崔洋一君は白人
が東洋人をけなしているのだと、きわめて人種主義的な反応を示した(そんな下卑たことがなければ、
わざわざ「反論」を言う必要もなかったわけだ)
。それは、
「俺はこの国においてはエイリアンなん
だ」と思っている者として、もっとも言ってはならないことではなかろうか。
もしかすると「エイリアン」であるがゆえに人種主義への嗅覚が鋭いのだと言いたいかもしれない。
その場合にはもういちど鏡を見るようにすすめる。君にとってエイリアンとはどういう現象かという
検証もなしに、不可触的かつ特殊な位置に身を寄せることも「アンフェア」というのだ。
崔洋一君。気安く「俺はこの国ではエイリアンだ」などと吹聴しないほうがよい。どっぷりとこの
国につかって、君の営為もあるのではないか。それとも君は「現実ではない世界」に存在しているの
かね。
再現すれば君は、
「あそこから感じる意図というのは、明らかに白人種のイエローのワンマン独裁
国家に対する意図明白なシニカルというか、かいらいだ」と言う。よしんば君がそういう匂いを感じ
たとしても、その源は朝鮮民主主義人民共和国にあるのであって、あえてそれを引き受けることが、
「あるべき姿」なのだ。感覚的な拒否におぼれず、身の内から生まれたものを胸に受け止めて歩むこ
とこそが、自らを慈しむ方途であろう。
ましてやポーランドがかかえもつ現実の中でよく言えたものである。少なくともポーランドには分
割された戦前と、領土変更を余儀なくされた戦後があることを知っておれば、同じような歴史的な痛
みを持つものとして親近感をもちこそすれ、人種的な対抗意識を燃やすなど信じられないことだ。こ
の映画でポーランドが「朝鮮民主主義人民共和国」を笑ったと考えるのは余りに短絡に過ぎる。かれ
らは自分たちの体験し歩んだ「越し方」を笑ったに過ぎない。
ひるがえって、日本は「金日成のパレード」を笑えたのだろうか。日本に生まれて、あるいは日本
人に生まれてよかった、と胸をなでおろしているのだろうか。襟にバッジを光らせ、満員電車をもの
ともせず、ノルマのためには他人の迷惑かえりみず、死にいたるまでも働くのは、ある種の「パレー
ド」ではないのだろうか。
看板が「何の」であれ、うまく「パレード」の列に入りたいと願って、悪戦苦闘しているのがおお
よその「現実」ではないか。しかし、それで本当にいいのか?
1985年に製作された中国映画に<大閲兵>というのがある。1984年に行われた中国建国
35周年のパレードのために、数カ月にわたって軍内で訓練を受ける若い兵士の悩みや葛藤を通し
て「大閲兵」
(英語名 Big Military Parade)とは何かを問う作品である。十分な作品とは言えまい
が、ともかくも「自前の問いかけ」だということは記憶にとどめてよい。
いつかきっと朝鮮民主主義人民共和国において「われわれのパレード」とは何であるかを自問す
る映画ができることを期待してやまない。
(フリーライター)