11 - ソ連社会主義を破棄、ソ連人顧問団、技術者を追放、アメリカへ急接近

ソ連社会主義を破棄、ソ連人顧問団、技術者を追放、アメリカへ急接近、というサ
ダト大統領の政策変換を発表。
驚いたのはアラブ諸国でサダト大統
領をアラブの裏切り者として糾弾した
が、サダト大統領として破綻してしま
ったエジプト経済を救済する手段とし
てはアメリカをはじめとする西側諸国
との経済交流のみがエジプト経済を救
済しうる唯一の手段であるとの信念で思い切った路線転換を行った。
1977 年 イ ス ラ エ ル の メ ナ ヘ ム ・ ペ ギ ン 首 相 の 招 き で エ ル サ レ ム を 訪 問 、 エ ジ プ
ト ・ イ ス ラ エ ル 間 の 和 平 交 渉 が 開 始 さ れ 、 翌 1978 年 、 ア メ リ カ ・ ジ ミ - ・ カ - タ
-大統領の仲介でキャンプ・デ-ビット合意にこぎつけ、平和条約が結ばれた。
この合意は、長年の仇敵であったエジプト・イスラエルとの和解をもたらすばか
りでなく、第三次中東戦争で失ったシナイ半島の返還も含まれていた。
こ れ に よ っ て 1978 年 の ノ - ベ ル 平 和 賞 は サ ダ ト 大 統 領 、 ベ ン ギ ン 首 相 の ダ ブ ル
受 賞 と な っ て 、世 界 か ら は 高 く 評 価 さ れ た 。
しかし、この行為は「パレスチナのアラブ人同胞に対すう裏切り」とされ、アラ
ブ諸国からは非難が集中し、さらに国内的にもイスラム教徒の民衆の反感は凄まじ
か っ た 。 さ ら に 、 1979 年 、 イ ラ ン 革 命 が 勃 発 す る と イ ラ ン 国 王 モ ハ ン マ ド ・ レ ザ
-・バフラヴィ-一家のエジプト亡命を認めたが、イスラム教徒の民衆はこれにも
反対した。これはイラン革命はイスラム教の革命であり、イスラム教徒は反国王で
あったから、エジプト国内のイスラム教徒も反発した。
また資本主義経済の導
入により自由経済の結果
貧富の差が強まり、ナセ
ル時代の社会主義の方が
良かったとする知識層の
反発も加わり、反サダト
大統領の運動が激しくな
っ た、 1981 年 9 月 、
反サダトと見られるイ
ス ラム 指導 者 、共産 主 義者 、大 学教 授 、ナセ ル支 持者 、その他 多く の 知識 人を 逮捕 、
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