OYS002202

『天理大学おやさと研究所年報』 第 22 号 2016 年 3 月 26 日発行
論文
台湾先住民族とキリスト教伝道
―とくにタイヤル族の長老教会について―
金子 昭 要旨
本稿は、台湾の先住民族におけるキリスト教伝道の歴史と現在について論じるも
のである。その際、主にプロテスタント最大の教派である台湾基督長老教会について、
またその中でも先住民族タイヤル族のキリスト教会について取り上げる。
最初に台湾におけるキリスト教伝道史を概観した上で、日本統治時代(1895-1945)
に先住民への伝道を志し、タイヤル族の村落で医療奉仕を行った井上伊之助の生涯を
振り返り、彼が先住民社会に果たした貢献について述べる。当時、先住民族へのキリ
スト教伝道は台湾総督府により禁止されていたが、伊之助はそうした困難の中で医療
奉仕を献身的に行った。彼は、タイヤル族の宗教観をよく理解し、キリスト教伝道の
可能性について先見的な見方を得ていた。第二次世界大戦後は、先住民社会でのキリ
スト教伝道が解禁され、キリスト教のあらゆる教派・会派が積極的な伝道を展開した。
長老教会も 1954 年から 10 年間展開した「教会倍加運動」で教会及び信徒数を文字
通り2倍にするなど、教勢を進展させた。そうした過程の中で先住民伝道も拡大した。
この伝道に関しては、カナダ出身のディクソン牧師夫妻の活動が顕著である。先住
民社会での宣教者育成のため、ディクソンの委嘱で聖書学校が 1946 年に花蓮県で設
立され、玉山神学院として今日に至っている。
現在、キリスト教の伝道は安定期に入っているように見える。その一方で、貧困
や失業など先住民社会がかかえる問題と、カリスマ運動の台頭などキリスト教がか
かえる問題とが顕在化してきている。これらの諸問題を解決すべく、先住民キリス
ト教長老教会は生活及び信仰の両面で粘り強く取り組みを行っている。
【キーワード】長老教会、台湾先住民社会、タイヤル族、井上伊之助、
ウットフとガガ、ディクソン牧師、烏来地区、カリスマ運動
はじめに
台湾のキリスト教伝道は 17 世紀に遡る。この伝道はその後 200 年間、中断を余儀
なくされるが、19 世紀後半にイギリスとカナダのプロテスタント長老教会が南部と
北部でそれぞれ伝道を開始した。今日にいたる台湾基督長老教会の歴史はここに始ま
(1)
る。長老教会 Presbyterian Church はカルヴァン派の流れを汲むプロテスタント改革派
の教会で、16 世紀後半にスコットランドで確立し、その後イギリスから北米にも伝
道が行われたが、台湾の地において、イギリスからの伝道線とカナダからの伝道線と
─ 23 ─
がいわば合流したのである。長老教会は、万人祭司主義のプロテスタント的伝道に立
ち、教会組織としては長老による管理運営の方式を取る。長老は信徒の中から選出さ
れる。組織運営を司る長老(教会の代議者)と牧会活動を担う牧師とが、相携えて「小
会」を形成して教会組織を統括し、他の信徒とともに中会及び総会の組織運営にも関
わる(教會 2012:32)。
本稿では、まず最初に、17 世紀後半に始まる台湾におけるキリスト教伝道史を概
(2)
観した上で、第2に、日本統治時代(1895-1945)に先住民族の一つであるタイヤル
族の村落で医療奉仕を行った井上伊之助の事績を紹介し、彼が先住民社会に果たした
貢献について述べる。彼自身はとくに長老教会に所属しているわけではないが、戦後
の台湾長老教会が日本統治時代におけるキリスト教伝道者として伊之助を高く評価し
ており、先住民伝道の一翼を担う存在として本稿でも取り上げるものである。伊之助
はタイヤル語を自ら習得して彼らの宗教観をよく理解し、キリスト教の先住民伝道の
可能性について先見的な見方を獲得していた。そこで第3に、彼の観察した先住民の
宗教観とキリスト教伝道の可能性について取り上げる。
戦後の先住民社会でのキリスト教伝道解禁以後、長老教会を含め、あらゆる教派
や会派が積極的な伝道を展開し、どの先住民族の村落もキリスト教化していった。タ
イヤル族においても同様で、そこに伊之助の先見の明があったと言えよう。そこで第
4に、戦後の先住民社会での長老教会の伝道について取り上げる。その際、とくに台
北近郊の烏来地区のタイヤル族の村落を中心に論述する。最後に、タイヤル族のキリ
スト教会及びその教会を取り巻く先住民社会の状況について、先住民キリスト教会が
今日かかえる課題を整理し、その展望を述べることにする。
なお、本文中では、西暦の後に、清・日本・中華民国のそれぞれの年号を入れている。
このようにしたのは、台湾の歴史が外来政権による統治の歴史でもあり、台湾の先住
民族やキリスト教の伝道がその時々の国家体制の中で翻弄されてきたことを確認する
(3)
一つのよすがになると考えるからである。
1.台湾におけるキリスト教伝道史
台湾では、キリスト教は天主教(カトリック)と基督教(プロテスタント)と別個
(4)
の名称になっている。両者を合わせて基督宗教と言うこともあるが、これは主に学術
用語として用いられ、一般的には使われていない。すでに 17 世紀の初め頃に、オラ
ンダとスペインの伝道者がそれぞれ台湾の南部と北部に渡来して、天主教と基督教の
布教伝道を行っている。1626 年にスペインから天主教が伝来し、翌 1627 年にオラン
ダの基督教改革派が伝来した。これら 17 世紀のキリスト教新旧両派の伝来が、台湾
社会のキリスト教伝道の第 1 期と呼ばれている。
─ 24 ─
金子昭 台湾先住民族とキリスト教伝道
オランダの場合、1624 年にはすでに台湾南部を占領して植民地開拓を始めており、
改革派教会宣教師が到着したのが 1627 年であった。当時、彼らの伝道の対象は漢民
族ではなく、平地に居住する先住民族であった。布教伝道の期間は、鄭成功によりオ
ランダが撤退するまで 38 年間に及んだ。1659 年の時点では南部と中部あわせて6割
(5)
の人々が洗礼を受けていたとも報告されている(鄭 1981:75)。
一方、北部ではスペインのドミニコ宣教団が基隆から淡水に入り、やはり布教伝道
の対象は先住民族が主だったようである。この布教伝道もやはり、スペインの植民地
政策と連動するものであった。スペインの北部台湾領有期間はオランダ人に駆逐され
るまでの 16 年間と短かったが、4,000 人以上が天主教に改宗したという。この期間
に 29 人の宣教師が派遣され、その中には2人の日本人の名前が見られる。1人は平
戸出身の Nishi Rokuzaemon、もう1人は大村出身の Sato Tomonaga である。2人とも
マニラのドミニコ会神学校に入り、卒業後すでにキリシタン禁制になっていた日本に
戻れず、台湾伝道のために派遣されたのだった(牧尾 1912:19-20、井上 1960:182(6)
183)。当時の台湾で、すでに日本人宣教師が伝道活動を行っていたという事実は驚き
でもある。
しかし、宣教活動は鄭成功の時代から清朝後期に至る 200 年間、中断を余儀なくさ
れる。再び宣教活動が始まるのは 19 世紀も半ば、西欧列強による海外進出の格好の
拠点として台湾が再び注目された時期である。この時期からキリスト教伝道の第2期
が始まる。当時、支配的勢力となっていたのはイギリスであった。イギリスの長老教
会は、1847 年に最初の宣教師を中国に派遣した。台湾に対しては、1865 年(同治4)、
J・マックスウェル J.Maxwell/ 馬雅各(1836-1921)が台南で医療伝道活動を始めた。
この年が台湾基督長老教会の宣教第一年になる。また、カナダの長老派宣教会から
派遣されたG・マカイ G.L. Mackay/ 偕叡理、馬偕 (1844-1901) は 1872 年(同治 11)
に北部台湾で伝道活動を始めた。両者とも医師であったことは注目すべきで、西洋医
学を台湾社会に導入することで大きな貢献をなした(マカイの活動を礎として今日の
馬偕記念病院が建てられた)。また神学校の他、淡水や台南に中等学校を建てるなど、
一般人子弟のための近代教育を施した(これらの学校が基になって、淡江高級中学、
真理大学、長栄大学が設立されている)。開拓の地域への伝道の三点セットと呼ばれ
る「教会・学校・病院」が、19 世紀台湾の長老教会の伝道においても典型的な形で
登場しているのである。
1895 年(光緒 21/ 明治 28)の下関条約により、日本は台湾を領有し、以後 1945 年(昭
和 20/ 民国 34)まで半世紀続く日本統治時代 ( 日治時代 ) が始まる。この期間の前
半までは、日本政府は台湾のキリスト教会やキリスト教伝道に対して友好的であった
とされる。
─ 25 ─
長老教会の場合、マックスウェル経由で始まった南部の伝道と、マカイによる北部
の伝道は、それぞれ「南部中会」
「北部中会」に分かれて教線を広げていたが、1912 年(明
治 45)に南北教会連合規則を作り、それに基づき「台湾大会」が成立し、翌 1913 年(大
正2年)にこの「大会」は教派の名称を「台湾基督長老教会」とすることを決定した。
以後、台湾の長老教会全体として、統一讃美歌、教会報、式文や信条、教師試験、日
曜学校、救癩協会、東部諸教会の帰属、中会の分設などの問題を討議し、調整してい
くことになった(加藤 1991:183)。
日本政府のキリスト教に対する友好的態度が大きく変化したのは、1930 年以降、
日本と欧米列強との関係が悪化してからである。国家主義的圧政により台湾のキリス
ト教に対する圧迫が強まっていった。また、戦争末期には台湾のキリスト教の統合を
求めてきたので、1944 年(昭和 19)4月には日本基督教台湾教団が成立し、長老教
会もこれに所属することになった。
日本統治時代を通して、日本から多くの教会教派の宣教師が派遣された。従来か
ら活動が活発だった長老教会はもとより、日本聖公会や日本聖教会が移入され、また
中国大陸経由で真耶穌教会が活動を始めた。こうした動きの流れの中に、本稿でとく
に取り上げる井上伊之助(1882-1966)の先住民伝道活動がある。これら長老教会、
日本聖教会、真耶穌教会が当時のキリスト教の主たる宣教会派だった。
1945 年に日本が第二次世界大戦に敗退し、台湾の日本時代も終わりを告げた。代
わって台湾を統治したのは蒋介石率いる中華民国の国民党政府である。この年の 10
月には日本基督教台湾教団も解散し、長老教会は独自の歩みを再開した。1949 年(民
国 38)、中国大陸で共産党政権が樹立するまでに、大半のキリスト教会教派や信者が
避難民として台湾に渡ってきて、あらゆる教派が宣教活動を行った。このように、戦
後さまざまな教会教派によりキリスト教の伝道活動が活発になった時期が、台湾のキ
リスト教伝道の第3期にあたる。
この時期で特筆すべきことは、アメリカ経由でキリスト教が盛んな布教活動を展
開したことで、とくに 1950 年代から 60 年代にかけて、多くの先住民が入信した。な
かでも戦後すぐに来台して 1948 年(民国 37)に台湾神学院の院長になった長老派の
J・ディクソン牧師 James Dickson/ 孫雅各(1900-1967)は、積極的に山地に入って
伝道活動に従事した。彼は、1946 年(民国 35)に早くも先住民伝道師育成のための
聖書学校(後の玉山神学院)の創設に尽力し、また 1954 年(民国 43)設置された山
地宣道処(後の先住民宣教委員会)の初代処長に就任するなど、今日ある台湾先住民
教会の基礎を築いた。またディクソン牧師夫人 Lillian R. Dickson/ 孫理蓮 (1901-1983)
は同年、社会救済のために基督教芥菜種(からし種)会を結成し、慈善活動を行った。
その他、山地診療所や産院を設け、巡回医療団を組織するなど、医療伝道の分野にお
─ 26 ─
金子昭 台湾先住民族とキリスト教伝道
いても貢献した(楊 2011:111)。
この時期に、先住民の大半がキリスト教に集団改宗したことについては、種々の
説が取り沙汰されている。日治時代の反動で信仰的空白が生じ、先住民の文化や暮ら
しも不安定になったところに入った強力な伝道宗教だったからという内在的要因説、
また欧米からの物的支援や医療援助などと共にもたらされ、これら先進的なものの力
が大きかったという外在的要因説、さらには漢民族への対抗意識もあってキリスト教
を取り入れたという理性的選択(道具論)あるいは「現代性」(進歩論)などの見方
もある(楊 2011:98-100)。いずれにせよ、この改宗が集団的なものだったというこ
とは、実は先住民社会に息づいていた神霊的根拠を有する一種の掟の倫理(タイヤル
語で gaga)が大きく作用したのは間違いない。後述するように、この点は日本統治
時代にすでに井上伊之助がその慧眼で着目していたものであった。
国民党政府は、自由中国の建前で信教の自由は認めたものの、中国の正統は中華
民国にありとして、同時に徹底した中華化政策を取った。また、38 年間という長期
にわたる戒厳令を敷くことで、政府の方針に反対する人々には容赦なく干渉し弾圧を
加えた。長老教会は粘り強く抵抗につとめたが、1975 年(民国 64)には政府はタイ
ヤル語の聖書と讃美歌を礼拝中に没収するという強権発動を行い、また台湾語訳聖書
も没収した。これは北京語を台湾の国語として普及するさまたげになるからというこ
とであったが、母語を用いての民族主義的な動向に対して、こうしたところからも芽
をつもうとする動きでもあった(鄭 1981:108)。長老教会は 「 国是に対する声明と提
案 」(1971)、「我々のアピール」(1975)、「人権宣言」(1977)を提出するなど、政府
に対する抗議姿勢を続けた。玉山神学院の院長も勤め、1970 年(民国 59)から 1989
年(民国 78)まで長老教会総会総幹事の要職にあった高俊明牧師(1929- )は、こ
の間投獄されるなど多大な苦難を嘗めた(高 2001)。戒厳令は 1987 年(民国 76)に
解除されたが、こうした長老教会の抵抗的姿勢は現在もなお特徴的なものであり、長
(7)
老教会はリベラルで独立派的・反国民党的な性格を有している(藤野 2013:78-80)
。
しかし、見方を変えれば、長老教会は台湾の民主化運動、市民社会運動の一翼を担っ
てきたと言えるのである。
先住民族に対しても、長老教会は先住民運動団体と連携し、時にはその中で主導
的な役割を果たしながら、彼らの権利と地位向上のために尽力してきた。とくに重
要なのは、1988 年(民国 77)、1989( 民国 78)、1993 年(民国 82)の3度にわたる
「我に土地を還せ運動」である(教會總會原住民宣教委員會 1998:554-562、若林
2008:319-332)。多くの先住民族が住む山地の地域は、国民党政権の下でも、日本統
治時代以来の「保留地制度」を引き継いでおり、さまざまな面で先住民族に制約が課
せられていた。長老教会自体も、先述したような政府との確執があった。1981 年(民
─ 27 ─
国 70)には、先住民信徒提供の山地保留地であろうと、あるいはまた固有地を借り
てであるとを問わず、山地に建てられた長老教会は各地方政府から「違法に保留地を
使用する外部団体」として高額の地代を取り立てられるようになっていた。土地の回
復は、今や先住民族と長老教会とにとっての共通課題となったのである。
1983 年(民国 72)には、長老教会の支援を受けて、先住民族の若者たちが台北で
「台湾原住民権利促進会(原権会)」を結成し、この運動過程の中で上記の「我に土地
を還せ」運動のデモ行進が行われた。とくに3度目のデモ行進(1993 年)の時は折
しも国際先住民族年の年であり、「侵略に反対し、生存を勝ち取り、我に土地を還せ」
のデモ行進が行政院、立法院及び外交部に向かい、誓願活動を行った。政府もそうし
た中で、1990 年(民国 79)に「山胞保留地開発管理辦法」を公布するに至った。一
連の「我に土地を還せ」運動は一定の成果を挙げてきたが、現在も土地回復問題は解
決されたわけではない。しかし、こうした運動を皮切りに、長老教会は今日に至るま
で、先住民族の権益や福祉、また固有の言語や文化の促進のために、先住民族との協
働の歩みを続けているのである。
2.井上伊之助の先住民伝道
(1) 井上伊之助と台湾伝道
日本統治時代の先住民伝道において、井上伊之助の名前は欠かすことができない。
伊之助が台湾伝道を決意したのは、1906 年(明治 39)7月末に当時、花蓮港で樟脳
会社に勤めていた彼の父・井上爾之助が、ある商業上の紛争により先住民に襲われて
殺害されたことが動機である。伊之助は当時、聖書学院(東洋宣教会)の学生であっ
たが、自分こそ先住民のためにキリストの福音を伝えなければならないと決意した。
彼はしばらく千葉県の佐倉で伝道していたが、1910 年(明治 43)9カ月ほどかけて
伊豆戸田の宝血堂医院にて基礎的な医療の手ほどきを受け、翌 1911 年(明治 44)10
月渡台し、12 月に新竹州樹杞林カラパイ社に入り、現地の「蕃人療養所」に勤務する。
これが最初の台湾渡航であるが、台湾総督府より理蕃政策上いまだ時期尚早とい
うことで伝道活動ができず、その後正式に「蕃地伝道」は不許可との通達を受けた。
1917 年(大正6)病気のため帰国し、回復後しばらく福岡聖公会神学校で学びつつ
伝道活動を行い、その後家族とともに3年間、種子島で伝道生活を送った。1922 年(大
正 11)、賀川豊彦の支援もあって再度、台湾に渡航し、新竹市の日本基督教会にて伝
道活動を行った。このとき、タイヤル語のマタイ伝福音書の翻訳を行うという計画も
立てた。1926 年(大正 15)4月に一時帰国して『生蕃記』を警醒社より出版。そし
て再度、総督府に伝道許可を求めたものの、このときも不許可になった。この年の
12 月に台中州白毛社(タイヤル族)で医務嘱託として配属された。この頃まで総督
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金子昭 台湾先住民族とキリスト教伝道
府から要注意人物と見られていたが、これでようやくブラックリストから解除された
と伊之助は述懐している(井上 1960:274)。
しかし 1929 年(昭和4)4月、台湾でのラジオ放送で先住民についての放送が当
局の忌避に触れて辞職し、台北市で総督府文教局学務課に勤務することになる。翌
1930 年(昭和5)1月、台湾総督府現地開業試験に合格して、台北市立伝染病院に
勤務し、研究と診療に従事した。1931 年(昭和6)5月に台中バイバラ社に医務嘱
託として入り、霧社事件で移住させられた先住民たちのマラリア等の診療を行った。
翌年3月には海抜 1,800m の高地にあるマレッパ社に転勤、さらに 1933 年(昭和 11)
6月にはブヌン族のナイフンポ社に転勤、8月にはナマカバン社に移った。1939 年
には同地から台北市内湖に愛生医院という診療所を開設し、1941 年(昭和 16)には
台北仁済医院に、翌年春には台北松山の養神院(精神病院)に勤務した。
第二次世界大戦終結後の 1945 年(昭和 20)10 月 28 日、養神院は中華民国台湾省
衛生局により接収され、伊之助はそのまま留用された。その後、帰国命令が出ては直
前に解除されるなどして、1947 年(昭和 22)4月まで台湾にとどまった。その間、
8月末には台北県下のテンソンピ発電所に開業し、その近隣地域で伝道活動を行った。
伊之助はこのまま中国(中華民国)に帰化し、名前も「高天命」と改名することまで
考えていた。しかし、同年 4 月 25 日に再度帰国命令が出され、強制退去を余儀なく
される。5月に佐世保に上陸し、ここに 1911 年以来、紆余曲折を経て進めてきた 36
年間の台湾伝道生活にもついに終止符を打つこととなった。この在台期間に5人の子
供の内、3人を病気で亡くしている。それほど伊之助の台湾生活は過酷なものであっ
た。
帰国後、伊之助は 1951 年(昭和 26)に清水市に移り住み、東海大学講師として保
健衛生の講義を行い、1954 年(昭和 29)9月に眼病のため辞職するまでこれを続けた。
1959 年(昭和 34)からは3男の経営する大阪の愛隣児童園に住み、保育事業の支援
をしつつ、台湾での伝道活動について講演や執筆活動を行った。この時期の著作に『台
湾山地伝道記』
(新教出版社、1960 年)がある。1966 年(昭和 44)に 84 歳で死去した。
(2) 井上伊之助による先住民伝道
井上伊之助は先住民の居住地区を廻り、巡回伝道を行っていた。彼は先住民語(タ
イヤル語)をゼロから学び、先住民語を通じて伝道活動を行うというものであった。
しかし、総督府から正式な伝道許可が下りないために、表向きは医師として勤めてい
た。彼は、タイヤル語の学習を通じて、タイヤル族の神観念やキリスト教の受容につ
いて、細やかな観察記録を残しており、また彼らの身になって、さまざまな支援を行っ
た。その中に、次のようなエピソードがある。
─ 29 ─
1925 年(大正 14)に『生蕃記』を出版すべく上京した折、伊之助はタイヤル族の
娘2人が玉の井の私娼窟に売られているという噂を耳にした。彼は総督府出張所や警
視庁を通じて調べて貰った結果、カフェーを転々としていることが分かり、ようやく
彼らを探し出した。まるで自分の子どもを見つけたような心地がして、彼はタイヤル
語で話しかけて事情を聞いた。玉の井に売ったのは台湾に住んでいたある警部補で、
2人は台湾人の養女であった。伊之助は総督府出張所に出向いて説得したりするなど
して、ようやく解決を見た。2人は無事に台湾の生地に帰ることができたのである。
しかしながら、台湾ではいっこうに先住民伝道には許可が下りなかった。総督府
から伊之助は要注意人物のように見做されている。内地に戻った折など、東京や大阪
でタイヤル族の宗教や伝説について講演やラジオ放送を行ったりして、彼なりに内地
人にタイヤル族の紹介をしていたが、同じような内容を 1929 年(昭和4)、台北放送
局でラジオ講演したところ、当局の忌避に触れ、台中州白毛社での医務嘱託を解職さ
れることになった。ただ、それがきっかけで現地開業試験を受験し、合格の後に台北
市立伝染病院に勤務できるようになった。
「どんなことがあっても神を信ずる者にとっ
ては『すべてのことが働いて益になる』」と、伊之助はこの時のことを語っている(井
上 1960:218)。
実際、山地にあって生活環境が厳しく、また暮らしも貧しい先住民社会では、医
療的支援は必要なものであった。戦後しばらく経ってもそのような状況が続いてい
た。1968 年(民国 57)8月に南投県仁愛郷 10 カ村で行った巡回医療で診察した患者
約 2,701 人の内、呼吸器疾患が 809 例、寄生虫感染が 676 例、消化器系疾患が 486 例、
精神神経疾患 284 例、皮膚病 250 例となっている(教會總會原住民宣道委員會 [ 編 ]
1998:294)。山地の人々は栄養状態が概して悪いので、肺結核やマラリア患者が多く、
(8)
また幼児死亡率も高かった。
医師として伊之助が行った先住民の村への往診は数千回にも及んでいたが、伝道
活動がままならないことは、やはり大変つらいものがあった。1934 年(昭和9)、あ
る往診先の村で犬に噛まれて丹毒になり、台中病院に入院することになった。その折
に台中の聖公会の祈禱会に参加した際、彼は次のように参加者の前で語った。
主よわたしは何年ぶりに信仰の友と祈り得ることを感謝します。顧れば二十五
年前、聖霊の御導きにより高砂族伝道に献身いたしましたが、政府は伝道の自
由を与えず、一人の信者もなくただ医者として過ごしました。主よ弱き不甲斐
(9)
なき僕の生涯を赦したまえ!(井上 1960:228)。
伊之助はそう言ってその場に泣き伏し、人々も同じように泣き伏したという。1947
─ 30 ─
金子昭 台湾先住民族とキリスト教伝道
年(昭和 22)5月、彼は我が子3人の遺骨も抱え、台湾から帰国した。
しかし、戦後になって先住民伝道は大きく開花することになる。伝道の担い手は
欧米の宣教師のほか、平地の神学校で学んだ先住民の若者たちであった。1952 年(民
国 41)5月、伊之助の本の読者だった花蓮在住タイヤル族の葉保進(イヤン・タイン)
は、伊之助宛の手紙で、「現在タイヤル族はほとんど信者になりました。特に花蓮港
方面では各村落に教会が建てられており、花蓮県タイヤル族の村落数二十三カ所とも
皆部落の真中に教会があります。信徒数は十分の七を占めています」と書いた(井上
1960:333-334)。また伊之助が最初に入った新竹のカラパイには8つの教会があると
報告している。そのカラパイ(嘉樂)の状況について、戦前に伊之助とも交流のあっ
た新竹長老教会の台湾人牧師・莊聲茂は翌 1953 年 12 月の伊之助宛書簡の中で、カラ
パイを含めた周辺 12 カ所の村に教会ができ、自分も毎週これらの山地教会を巡回し、
伝道や説教活動を行っている旨報告している。
伊之助は後年、来日した葉牧師にも会い、先住民社会へのキリスト教の浸透の様
子について直接話も聞いている。78 歳になった伊之助は、次のように述懐した。
「五十
年間の祈りと使命は果たされた。自分に不可能であったことが、神御自身とえらばれ
た他の人によって成しとげられたのである。神は織りたもう。トミーヌン・ウットフ。
神は台湾の民族を、日本人も世界人類も見事な織物として救い聖化し給うことを信ず
る」(井上 1960:317)と。彼の墓碑にも、この「トミーヌン・ウットフ」という言葉
が刻まれている。
3.先住民の宗教とキリスト教伝道
ここで伊之助が記したタイヤル語の「トミーヌン・ウットフ」(神は織る)という
言葉であるが、これは世の中のあらゆる出来事は神の織物であるという意味である。
不幸や不運は「神の織り方が悪かった」
、幸福や勝利は「神が良く織った」というこ
とになる。このウットフは現在のアルファベット表記では utux または rutux と表記さ
れ、神霊または祖霊とも訳されている。ただし、それは漢民族のような共同祖先の霊
魂であるというよりは、むしろそのような名称で表される一種の超自然の力への信仰
であると、黄柏棋は指摘している(黄 2015:101)。漢民族の場合は、血縁原理に基づ
いた家父長的家族や親族単位で祖先祭祀を行うが、タイヤル族の場合は、家族を超え
た親族集団を作らず、ガガ gaga またはガヤ gaya と呼ばれる一種の祖先の遺訓や制
度を共にする共同体単位を中心として結束する(黄 2015:102-103)。ガガにはウッ
トフ信仰が中心にあり、それは祖霊の訓示や規範を共に守る祭祀集団である。
すでに井上伊之助は、キリスト教伝道にあたって、このガガに注目していた。伊
之助は、1923 年(大正 12)12 月に台北連合祈禱会で講演した「蕃人教化の急務」では、
「生
─ 31 ─
蕃」にはウットフ・ガガ(神の律法)があると指摘している(井上 1960:135-137)。
それは、コト・ガガ(祭祀などを同じくする一部族、すなわち宗教的習慣)、コト・ネッ
コン(婚姻など喜怒哀楽を共にする)、コト・リータン(狩猟団体)、コト・ハーバン
(戦争同盟)という四つの規則からなるとされる。
伊之助によれば、これらはすべて教会に当てはまるという。すなわち、教会につ
どう我々は宗教を同じくし、一つの聖書、同じ信仰に立っているがゆえにコト・ガガ
である。また聖餐を共にし、聖書と祈禱という霊的食物に預かる「コンミュニオン」
なるがゆえにコト・ネッコンである。そして、たとえ教会教派を異にしても、共に協
同して人をすなどる伝道を行うがゆえにコト・リータンである。さらには、敵なる異
教思想や異端に対する戦争の同盟なるがゆえにコト・ハーバンである。
このような説明から、先住民がもともと有している共同体原理や共同体そのもの
が、そのままキリスト教の教会原理や教会共同体に移行しうるものになると、伊之助
は示唆しているのである。そして事実、第二次世界大戦後の先住民社会におけるキリ
スト教への改宗は、多くの場合こうしたかたちの集団改宗という形を取っていった。
近隣集団としての「組」ないし同じガガの仲間がまとまって、長老教会か天主教のい
ずれかの信者で占められるという現象が生まれたのである(山路 2011:187)。これを
(10)
早い時期に伊之助が見通していたことが分かる。ウットフを祖霊と訳してしまうと、
漢民族の祖先概念と同じように見られるおそれがあるが、こうして見ると、伊之助は
ガガとの関係において、先住民の神観念についてより正確に捉えていたとも言えよう。
伊之助の実感としては、台湾先住民へのキリスト教伝道は十分見込みのあるもの
であった。それは、1926 年(大正 15)に2回目の伝道願書を提出した際に、当時の
総督府理蕃課長・中田秀造との書面によるやり取りで読み取ることができる。伊之助
(11)
は、中田の問い合わせに対して、次のように答えている(井上 1960:109-110)。
まず、「伝道の方法、計画」に対しては、「国語[日本語のこと]を解する青年男
女に対し、童話および簡単なる宗教書を用い、教育的伝道をなし、一般蕃人に対して
は講話をもってす。当分のうちわたし一人にて着手し、将来適当なる時期において、
御諒解を得たる上にて伝道者を増加いたしたし」と答えている(ひらがな及び一部漢
字の部分は原文ではカタカナ書き。以下同様)。
また、「蕃人に伝道するに当たりて基督教そのままをもってする見込みなるや」と
いう問いに対しては、「現在の蕃人に対し基督教の真理すべてを知らしむるはとうて
マ
マ
い不可能なるにつき、彼らの脳力知識をもって理解し得る程度にしたがい、徐々に教
化いたしたし」と述べている。
注目すべきは、「蕃人の有する観念と基督教とは元来一致せざるべし、如何にして
これを証明せんとするや」という質問である。伊之助は次のように自信をもって答え
─ 32 ─
金子昭 台湾先住民族とキリスト教伝道
ている。「蕃人は幼稚なれども原始的宗教観念を有し、宇宙間に神霊の存在を認め、
これを畏敬し、彼らの年中行事、社会組織はこの信念より生じたるものにして、決し
て基督教の神観と相反するものにこれなく、説明上可能性を有し候」と。
ここで神霊というのは、先述したタイヤル語のウットフのことである。これがキ
リスト教の神観とも相反しないというわけであるが、伊之助は晩年、先住民社会にキ
リスト教が浸透していった理由として次の4点を挙げている ( 井上 1960:316-317)。
第1に、先住民族の間には偶像がない。第2に、幼稚ながらも宗教心があって、一神
教に近いウットフという霊神があると信じている。第3に、偽りや盗みをせず、男女
間の貞潔も固いが、これは人が見ていなくも神が知っているからである。第4に、死
後はウットフのもとに行く。またその際、虹の橋を渡って先祖たちや死んだ人にあえ
るという信仰がある。
このように見てきた時、先住民のキリスト教受容に際して、井上伊之助の先見の
(12)
明がもっと評価されてもよいのではないだろうか。
4.現代の先住民社会における長老教会
(1) 戦前・戦後の長老教会の先住民伝道
現在のキリスト教の教勢は、プロテスタント教会に限っていえば、台湾基督長老
教会が群を抜いて信者数が最も多く、教会数も 2011 年(民国 100)の統計では台湾
全土で 1,238 カ所ある。その中でも先住民社会の教会数は 509 カ所に上り、どの先住
民集落にも必ず長老教会が存在する。長老教会の主要な行政単位は中会(15 カ所以
上の堂会)及び区会(中会としての基準を満たしていない組織単位で先住民族にのみ
適用)である。堂会とは、30 人以上の陪餐会員、各2名以上の長老と執事のいる教
会を指し、その定員に満たない教会を支会と言う。23 ある中会の内、平地の中会が
12、先住民中会(族群単位)が 11、先住民区会が4という数字であり、教会数では
平地(主として漢民族)と先住民とは拮抗している(長老教會 2012:60-66)。台湾の
人口比で言えば、圧倒的多数を占める漢民族の中にあって、先住民族(現在 16 族が
公認)は人口の2%のマイノリティに過ぎないことを考えれば、基本的な教会行政の
単位について両者を同等に置いているという点で、長老教会が先住民教会を重視して
いることが分かる。
ここまで至る長老教会の先住民伝道の歴史的過程では、カナダから来たディクソ
ン牧師夫妻の活動が顕著である。彼らはすでに第二次大戦前の 1927 年(昭和2)に
来台し、夫のディクソン牧師は若くして台北神学院 ( 現台湾神学院 ) の院長を務める
など教伝道の要職にあった。このときに試みられた先住民伝道の状況についてディク
ソン自身が短く報告しているが(教會總會歷史委員會 [ 編 ] 1965:365-371)、その中
─ 33 ─
に次のような挿話をはさんでいる。
マ
マ
1929 年、筆者[ディクソン]は初めて東海岸に遊んだ。かねてよりマカイ博士
は私に対し、「花蓮に1人、タロコ族の婦人信徒がいます。彼女を淡水に呼んで
きて、婦人聖書学校で学ぶようにしてあげられませんか」と語っていた。私は、
これは容易ならざることだと思った。彼女は来たがらなかったのである。1人
の高山族の女性がはるか東部から淡水まで出てくるなんて、しかも全く面識も
ない客人でもあり、そんなことは前代未聞のことだ。果たして、私たちが会っ
た後も、彼女はいろいろな理由を挙げて、行きたがらなかった。私は熱心に誘っ
た。私は、淡水に行けば、多くの友人たちができると請けあった。彼女たちは
キリスト教徒だし、あなたの世話をしてくれると。彼女は、「人々が私の顔にあ
る入墨を見れば、きっと私のことを野蛮人だと言うでしょう」と答えた。私は、
「怖
がることはありません。彼女たちはそんなふうには受け取りません」と言った。
私たちが乗った日本の小輪船が基隆に着いた時、多くの人々は、1人の外国人
が1人の野蛮人の女性を伴っていることに、好奇の視線をあびせてきた。彼女
の淡水行きによって、彼女の同族たちには新しい歴史の一頁が開かれた。2年後、
彼女は故郷に帰り、活動を開始した。そして一族全体の運命を変えることになっ
た。(教會總會歷史委員會 [ 編 ] 1965:366)
このタロコ族の婦人は芝苑(姫望)Ciwang Iwal(1872-1946)と言い、タロコ族(一
説に先住民族全体)で初めて洗礼を受けたキリスト教徒である。総督府の厳しい監視
の中で熱心に伝道を続け、多くの信徒を育成し、「山地教会の母」とも称された。戦
後の 1961 年(民国 50)、彼女の功績を称え、その名前にちなんだ「台湾基督長老教
会芝苑紀念教会」が花蓮県富世村に設立された(總會歷史委員會 [ 編 ] 1965:373(13)
376) 。
芝苑との会話は何語で行われたのか、ディクソン牧師は何も記していない。芝苑
は漢族の台湾人と結婚経験もあったので台湾語が話せ、また日本語も解していた。ディ
クソン自身は来台してまだ2年目で、当時の公用語であった日本語をどれだけ解して
いたか不明である。もとより先住民語は各部族で異なり、漢民族の台湾語も先住民全
体には通じず、北京語はまだ一般には使用されていない。いずれにせよ、キリスト教
の信仰と人間愛が人種・民族の差別や偏見を超えて、一人の先住民信徒の心を動かし
た一場面であり、世界宗教としてのキリスト教の面目躍如たるものを感じさせる挿話
である。
しかし、このような状況も長くは続かず、ディクソン牧師夫妻は 1940 年(昭和
─ 34 ─
金子昭 台湾先住民族とキリスト教伝道
15)に台湾総督府の圧力により離台を余儀なくされ、南アフリカのギニアに渡り伝道
活動に従事した後、1947 年(民国 36)に再び台湾に戻り、そこで亡くなるまで先住
民族への伝道活動に献身した。牧師夫妻は先住民族、とりわけタイヤル族の住むあら
ゆる地域で伝道活動に従事し、また教育文化や社会奉仕の方面でも大きな足跡を残し
た。その代表的なものが玉山神学院であり、基督教芥菜種会である。
玉山神学院は、先住民社会での宣教者を養成するため、ディクソン牧師の委嘱に
より温榮春牧師が 1946 年(民国 35)9月、花蓮県富世村の農業講習所の建物を借り
(14)
て「台湾聖書学校」を開校したことに始まる。2年間の修了年限で初年度は、タロコ
族(23 人)、タイヤル族(9人)、アミ族(2人)、サイシャット族(1名)の 35 人
が入学した(卒業者は 24 人)。その後、何度も移転を余儀なくされ、また財政困難に
なって一時は閉鎖もやむなきという事態にまで立ち至ったが、高俊明牧師が院長に就
任して立て直しをはかり、国内の長老教会や信徒、またキリスト教系各基金会、さら
にはカナダ、オーストラリア、ニュージーランドなど海外のキリスト教会からの寄付
を得て、1959 年(民国 48)に現在地の鯉魚潭の土地を購入、1961 年(民国 50)5月
に鉄筋コンクリートの校舎が完成した。学生も当時の先住民の分類で全9族の学生を
かかえることになった。その後、先住民族の職業訓練のために農業科や家政科も一時
的に設けたが、1970 年代初めにはそれらは停止して神学教育のみになり、1975 年(民
国 64)には正式の神学士の学位を出せる資格も得た。1977 年(民国 66)には正式名
称が玉山神学院と定まった。
現在、玉山神学院では、いずれも学士の資格を得られる4年制のキリスト教教育
学科、教会音楽学科、教育社会工作学科、2年制専修の宗教学科のほか、大学院修士
課程に相当する神学研究所を有しており、社会教育活動としても先住民族の伝統文化
や社会支援を積極的に展開している。
一方、夫人のL・ディクソンのほうも、ハンセン病患者の施療活動を皮切りに
1954 年(民国 43)、基督教芥菜種会を結成し、先住民に対して各種の社会救助、医療、
(15)
教育や職業訓練など本格的な社会事業に乗り出した。この活動は 1991 年(民国 80)
に再編成して強化され、託児所や幼稚園、少年グループホーム、コミュニティサービ
ス、老人ケアセンターや職業訓練の多元化などを行うようになり、またインドやカン
ボジアの貧困児童への支援など海外でも活動を展開するようになった。
日本のキリスト教各教会がいずれも離台した後、宣教師の派遣や財政的支援など
欧米の長老教会の応援もあって、台湾の長老教会は大きく教勢を伸ばした。初期の信
徒は、いずれも皆熱心で、人々の心に福音を植え付けるべく各地を駆け回り、集会の
際にはどの村落でも聖書を携えて教会へと集まっていくほどであったという(教會總
會原住民宣教委員會 1998:605)。その結果、わずかの期間にキリスト教信者は先住
─ 35 ─
民人口の8割を占めるまでに至った。この頃の先住民伝道は、まさに「二十世紀にお
ける神の奇蹟」と称賛された。さらに特筆すべきは、1954 年(民国 43)に提唱され
た「教会倍加運動」である。これは 1965 年 ( 民国 54) の長老教会宣教 100 周年の年
までの 10 年間で文字通り教会数を倍加していこうというものである。実際、1954 年(民
国 43)の時点で長老教会は 233 カ所(信徒数 59,471 人)だったのが、1964 年(民国
53)には教会 466 カ所(同 102,943 人)と、教会数及び信徒数も文字通り倍増させた
のである(教會總會歷史委員會 [ 編 ] 1965:353)。
現在、どの先住民族の村落にも長老教会をはじめとして、キリスト教の教会建物
が聳立し、先住民社会はほぼキリスト教社会となったと言えるだろう。今ではその勢
いも一段落し、かつてのような熱狂的な信仰心や伝道熱の高揚も薄らいでおり、一部
には教勢の漸減傾向も見られる。実際、教会の礼拝では若い世代の出席者が少なく、
高齢信者の姿が目立っている。そのような状況に対し、先住民伝道の反省点として、
宣教の計画性の無さ、信徒の信仰的指導や訓練の不足があったことが指摘されている
(教會總會原住民宣教委員會 1998:606)。
(2) 現在のタイヤル族長老教会の状況
現在、11 ある先住民中会の一つタイヤル族長老教会は、タイヤル中会として区分
され、現在 119 カ所(活動停止中の教会も含める)存在するが、その内訳は表1の通
りである。
(16)
表1 タイヤル中会の教会内訳
所 在 県 市*
地 域
新竹県(五尖)
尖石郷、五峰郷、關西鎮
桃園県(復興)
復興郷
苗栗県(苗栗)
泰安郷、南庄郷
台中市・南投県(和仁)台中市和平区、南投県仁愛郷
新北市(烏来)**
烏来区
宜蘭県(宜蘭)
大同郷、南澳郷
その他
上記地域及びその周辺、都市部
教 会 内 訳
堂会 18 支会7 活動停止2 計 27
堂会 14 支会9 活動停止1 計 24
堂会7 支会5 活動停止0 計 12
堂会 11 支会3 活動停止0 計 14
堂会3 支会3 活動停止0 計6
堂会 14 支会3 活動停止1 計 18
堂会 10 支会7 活動停止1 計 18
* ( ) 内は地域グループとしての区会名称である。タイヤル中会は 1969 年に設立された。
** この地域は、当初、烏来区会設立時に成立していた烏来教会、忠治教会、信賢教会、下盆教会、福山教
会の5教会だけが含まれていたが、南光教会も現在では含まれている。
長老教会では 1985 年(民国 74)に「台湾基督長老教会信仰告白」を制定したが、
現在この文書は台湾語(ローマ字及び漢字)、華語(中国語)、ドイツ語、日本語、客
家語をはじめ、方言も含めた 17 の先住民語で記されている。このように母語による
信仰告白を多言語で示すことで、長老教会では少数民族に対する尊重の念を表明して
(17)
いるのである(教會 2013:95-139)。
─ 36 ─
金子昭 台湾先住民族とキリスト教伝道
また、この 「 信仰告白 」 の公表と同じ年の 1985 年、日本基督教団と台湾基督長老
教会は一時途絶えていた宣教協約を締結することになり、その中で「先住民族に対す
る宣教」が両教会の宣教課題として新たに加えられた。ここで先住民族というのは、
日本ではアイヌ民族、台湾では原住民(先住民)を指す。日本基督教団公式サイトに
よれば、2005 年(民国 94)12 月に第 10 回の教会協議会が行われ、そのときに発表
された「共同声明」の中には、「台湾における原住民教会が台湾基督長老教会の中で
果たしている大きな役割に注目し、日本の教会もアイヌ民族や少数グループとの交わ
りと宣教について努力し、そのために両教会は宣教師の派遣をはじめ、宣教の協力を
(18)
推進する」と記されている。
黄約伯によれば、タイヤル族の場合、カトリックとプロテスタントあわせて約
(19)
84%がキリスト教を信仰しているという。タイヤル族の居住地域の一つで、大都市台
北に隣接する烏来地区には6カ所の先住民長老教会があるが、その内訳は表2の通り
である。
(20)
表2 烏来地区の先住民長老教会 *
4
烏来教会
忠治教会
南光教会
信賢教会
下盆教会
福山教会
種別
堂会
堂会
堂会
支会
支会
支会
設立(昇格)年 礼拝参列者
1947 年(1978 年)
95 人
1952 年(1958 年)
80 人
1963 年(1988 年)
30 人
1948 年
25 人
1955 年
30 人
1955 年 **
25 人
陪餐会員
178 人
96 人
47 人
36 人
42 人
51 人
未陪餐会員
125 人
105 人
16 人
4人
4人
44 人
不在会員
74 人
34 人
4人
0人
6人
14 人
* 礼拝参列者数は年間平均人数、各種会員(信徒)数はその年全体の人数。ただし、烏来教会が 2014 年、
忠治教会、南光教会、信賢教会が 2010 年、下盆教会、福山教会が 2010 年の時点での数字である。
** 台灣基督長老教會ホームページの「教会一覧」では 2002 年であるが、同「略史」のほうの記述に合わせた。
私は 2014 年(民国 103)11 月と 2015 年 ( 民国 104) 5月、烏来にあるこれらタイ
ヤル族の長老教会の内、最も大きな烏来教会と、2番目に大きい忠治教会をそれぞれ
訪問したが、現代の先住民キリスト教会は安定期に入っているという実感がした。烏
来教会は、1945 年(民国 34)に台北和平教会の莊丁昌牧師が伝道を開始した。1947
年(民国 36)にディクソン牧師が烏来地区の中心に伝道拠点を設けた。教会の礼拝
堂も何度か建てなおされ、場所も移転して現在地となったが、今の建物は 1995 年 ( 民
国 84) に建てられた4階建ての立派なものである。また、忠治教会は 1955 年(民国
44)に玉山神学院を卒業した游金全が宣教師としてこの地域に入り、伝道を開始した
(後に正式の牧師となる)。1982 年(民国 71)に3階建ての教会が建てられたが、最
近になって現在ある円形劇場のような独特の教会建物が建設された。
タイヤル語では長老教会は Cyourow Kyokay、イエス・キリストは Yesu Kiristo、
十 字 架 は zyuzika と 表 記 さ れ、 日 本 語 式 の 発 音 が そ の ま ま 定 着 し て い る( 教 會
─ 37 ─
2013:111-112)。なお神(上帝)はタイヤル語の Utux Kayal である。どちらの礼拝でも、
北京語とタイヤル語が両方用いられている。戦後まもなくの頃は北京語があまり通じ
ず、日本語がより広範に用いられており、北京語や英語の説教も日本語に通訳しても
らっていた。そのため、キリスト教用語の中にも上記のように日本語式の発音のもの
が存在する。そうした話を、私は主に日本語の通じる文字通り“長老”信者にうかがっ
た。日本教育を受けた世代は、今日(2015 年現在)ではすでに 80 歳を超え、漢民族
の場合はその年齢以上にならないと日本語が通じないが、先住民の場合はもう少し下
の世代でも日本語が通じるところがある。それは戦後も先住民社会の「公用語」とし
て日本語が残存したことや、とくに烏来の場合、観光業に従事した人々が多く、日本
人観光客との接客日本語ができる人々が少なくないからでもある。国民党政府は中華
化政策により早期に日本語の使用を禁止し、先住民言語の使用に制限を加えていたが、
森田健嗣によれば、山地の統治の際に人心をつかんでいるキリスト教の存在を無視す
ることができず、利用しつつも穏やかに制限を課すという微妙な使い分けがあったと
いう ( 森田 2013:1-19)。実際、先住民社会では多くの場合、日本語や先住民語を用
いてキリスト教の布教伝道が行われていたのである。
5.先住民社会の諸問題と長老教会の取り組み
現在、先住民社会ではさまざまな問題を抱えている。それは先住民社会そのものが
かかえる問題と、先住民キリスト教長老教会がかかえる問題とに分けられるものの、
ある意味で両者は連動しているところがある。烏来のある長老教会の略史の中では、
「教会の現況」として、次のような厳しい現状認識が述べられている。
教会はもはや信賢村の生活の中心ではなくなった。時代の変遷や社会の偽りの
価値観や為政者の好ましからざる政策に加え、教会が村の生活や文化をおろそ
かにしたことで、村の中は劣悪な生活空間になり、教会環境も不十分なものと
なり、信仰生活は危機に瀕している。村には過去の美しさは失われ、有るのは
現代の哀しみばかりである。村は伝統的な本来の文化を喪失し、漢人文化によ
るあらゆる社会的陋習や悪弊ばかりを受け継いでいる。貧困問題以外に、酒害
(21)
や麻薬問題、青少年問題や老人問題などがある。
たしかに、国内及び海外の伝道協会などの支援を受けて教会の建物は立派なもの
になっているし、先住民であることで政府から生活面や教育・福祉面での便宜を受け
ている。(私が忠治教会で面談した2人の老婦人は、それぞれインドネシア人のメイ
ドを伴っていた。)しかし、有名な観光地でもある烏来には 200 余りの温泉旅館が建
─ 38 ─
金子昭 台湾先住民族とキリスト教伝道
てられているが、ほとんどが漢民族(平地の人と呼んでいる)によるもので、タイヤ
ル族の経営になるのは数カ所に過ぎない。先住民の多くは単に従業員として雇われて
いるだけである。その上、大都市台北の水源地(翡翠ダム)があるために土地開発に
厳しい規制がかかっており、住まいを建てなおすことすら容易ではない状態である。
また、山地では生活が困難なため、大都市に出て働く若者が増えている。しかも学歴
や経験も概して低いために安定した職種に就くことが難しく、失業率も高い。男性の
多くが肉体労働に従事しているが、景気の変動や外国人労働者の移入によって失業率
も高く、アルコール依存症になるなどして体を悪くし、また早死にしてしまう人も少
なくない(そのため村には女性ばかり残り、
“寡婦村”と呼ばれるところもあるという)。
また女性たちも風俗営業に従事したりして、生活や家庭内でさまざまな諸問題を抱え
ているケースが多い。現在、大都市に暮らす先住民への物心両面でのケアが問われて
いる。
そうした女性たちの支援に当たりながら、都市在住の先住民族に対する開拓伝道
を行っているキリスト教の教会として、福音主義の神召会に属する台北神愛教会の事
例がある。その伝道活動には日本人の牧師夫人が関わっており、これは安定期に入っ
(22)
ている先住民キリスト教社会の中での新しい動きでもある。この教会の場合、そうし
た大都市台北に暮らす先住民を物心両面から支援しており、大きな成果を挙げている。
主な伝道対象を台北に出てきた先住民の若い世代、とくに風俗営業に従事している女
性たちにしぼり、彼女たちの心魂及び生活両面のニーズに徹底して対応できたことが
大きい。もちろん問題は女性や子供たちばかりではなく、不安定な生活を強いられて
いる男性労働者や山地に残された高齢者たちへの支援など、多くの課題が残されてい
る。長老教会でも、1986 年(民国 75)から労働、少女人身売買、漁民、先住民都市コミュ
ニティなどの問題に対応する部門を設置していった(若林 2008:322)。先住民族は実
際、これらの個別案件全般に関わる生活課題を抱えているのである。そうした課題に
対して、長老教会は官民さまざまな部門と連携した取り組みも進めている。というの
も、現実的な課題解決のためには、キリスト教精神に涵養された全人的なエンパワー
メントと共に、さまざまな社会資源の活用が必須となるからである。
先述した基督教芥菜種会の活動の他に、台湾基督長老教会全体の取り組みとして、
(23)
先住民宣教委員会の社会活動が特筆される。この委員会は、もともと 1954 年(民国
43)に「山地宣道処」として設置されたが、1989 年(民国 78)に先住民宣教委員会(原
住民宣教委員會)と名称変更され、今日に至るものである。現在、事業目標として、
「伝
道と宣教」、「社会と公正」、「伝統と教育」の三つを掲げ、先住民教会の発展と先住民
族の権利擁護や社会福祉、文化及び教育に対するてこ入れを一層強化している。その
ほか、反原発運動や先住民族の居住・財産権を守る運動などを、他の草の根の活動団
─ 39 ─
体とも協力しながら進めている。
また、いわゆる先住民教会ではない教会であっても、大都市在住の先住民を信仰
と生活から支援していくことに積極的な教会も存在する。例えば台北東門教会では、
1980 年に日本語による祈禱会を始め、都市先住民へのケア事業の部門を設けた(こ
(24)
れには日本人牧師も携わっていた)
。現在、同教会では、漢民族向けの台湾語の礼拝
のほかに、先住民向けの華語(北京語)の礼拝が行われ、先住民牧師が担当している。
その一方、すでに“キリスト教社会”となっている先住民社会なるがゆえの、キ
リスト教内部の問題もある。キリスト教自体がすでに飽和状態であり、全体として伝
道拡大は頭打ちの上、代を重ねるなどして信仰心が薄れ、教会離れが進むという問題
に直面している。また同じキリスト教といっても、実際には多様な会派の教会が一種
の競合状態にある。そのため、ある教会教派が教勢を伸ばすと、別の教会教派がその
分信者を減らすということにもなる。とくに都会に住む先住民の中には、伝統的な礼
拝様式に飽き足らず、歌や踊りを多く取り入れ、異言や癒しの業を行う教会に魅かれ
る傾向がある。長老教会はそうした教会教派をカリスマ運動(霊恩運動)的なものと
見なして警戒感すら抱いている(楊 2011:192-200)。
しかし、それに類する動向は、実は戦後まもなくの時期から存在していた。そも
そも戦後、キリスト教各派が先住民集落へと押し寄せ、入り乱れて福音を伝えたため
に、村落の紐帯に悪影響を与え、こうした混乱状態の上に近年のカリスマ運動の普及
があると見ることができるのである。
戦後、キリスト教各派が次々に先住民族を福音の対象として争奪したため、もと
もと純粋で忠義に厚く、正直で豪気な性格の先住民たちは、各教派の争いや対
立のために次々と複雑な事態に巻き込まれていった。もとは苦難を共にしてい
た一つの村が教派の争いのために四分五裂してしまった。カリスマ運動はそう
した中に突如として現われてきたのである。たとえば、『モルモン経』を聖典と
するモルモン教、キリストの神性を否定するエホバの証人、セクト中心的な眞
耶穌や安息日会や聚会所がそうである。これらは自らの教派の他には救いはな
いと強調している。さらに近年では、韓国教会の禱告山の影響もあって、先住
民教会のカリスマ運動をいっそう過激(Radical)なものにし、教会との摩擦や
深刻な分裂をもたらしている。(教會總會原住民宣道委員會 [ 編 ] 1998:308)
この文章の中には、キリスト教の異端であるモルモン教やエホバの証人の他に、伝
統的なプロテスタント会派からすると異端的教派(セクト中心的と表現されている)
の眞耶穌、安息日会(セブンスデー・アドベンチスト教会)や聚会所(召会)、また
─ 40 ─
金子昭 台湾先住民族とキリスト教伝道
韓国系の禱告山(中華祈禱院とも称される)まで含まれている。キリスト教の明確な
異端は論外であるが、そもそもプロテスタント教会それ自体においても、聖書解釈や
礼拝様式の相違などにより各会派に分裂し、それぞれが自己の正統性を主張して分派
的対立を生む傾向がある。それぞれの会派が布教伝道を展開すれば、純朴な信仰者に
とってはどれが真実なキリストの福音なのか、戸惑い混乱するばかりであろう。
このように教会教派が多種多様に分かれ、同じキリスト教でありながら、それぞ
れの教会教派の間で一種の競合状態になってしまっているのが、プロテスタント教会
の特有な状況である。これは、すでにキリスト教が定着している先住民社会にあって、
今度はその限られた信者たちを数多くの教会教派が取り合う事態が生じていることを
意味している。山地では各教会が地域の人々に根ざしているため、教会教派間の競合
はそれほどでもないが、都会に出て暮らしている先住民たちは、山地の教会からも離
れ、心魂面で孤立した暮らしをしているため、より魅力ある教会教派が伝道してくれ
ば、そちらに入信するということにもなる。
このような状況にあって、とりわけカリスマ運動は礼拝に歌や踊りを取り入れ、
異言を語ったり、治病儀礼を取り入れたりして、先住民の心を引き付けやすい。しか
し、往々にして教義内容が排他的・独善的になりやすく、また指導者が文字通りカリ
スマとして信徒を服従させる傾向が強いので、正統的なプロテスタント教会のあり方
から往々にして逸脱しやすく、台湾の最大会派である長老教会にとっても大きな脅威
になっている。
けれども、逆に言えば、カリスマ運動は、長老教会にとっては、従来のあり方に
対する反省を促すものであり、教義や教会運営の面で逸脱しないかぎりにおいて、こ
の運動からも参考にすべきものを取り入れるようになってきた。とりわけ、現代の大
都市に生きる先住民にとって、より魅力ある礼拝様式や教会運営は可能であり、実際
にそうした試みは伝統的な長老教会でも取り入れられている。烏来教会や忠治教会で
は、身ぶりを交えたポップな讃美歌も取り入れられ、また伴奏にピアノやドラムが使
われていたりする。キリスト教の場合、とりわけプロテスタント教会においては、中
心的な信仰箇条さえ守っていれば、組織や儀礼のあり方など、それ以外の諸要素は教
会教派の流儀によって、また時代や社会の状況によって適宜変更することは決して難
しいものではない。しかも、近年では異なる教会教派同士の相互交流も進んでいる上
に、信徒にとっても所属教会の変更は比較的容易である。こうした柔軟さや可塑性こ
そ、伝道宗教としてのキリスト教が持つ最大の強みである。それゆえ、異なる教会教
派でそれぞれ個性を活かした礼拝様式や社会活動を打ち出していき、そこに良い意味
での競争があれば、キリスト教もまた全体としてより魅力ある伝道宗教に変容するこ
とができるのである。
─ 41 ─
おわりに
2015 年(民国 104)、台湾基督長老教会は宣教(創立)150 周年を迎えた。キリス
ト教それ自体、台湾にとって外来の宗教であるが、その伝道過程の中で、清や日本、
中華民国というその時々の外来政権に翻弄されてきた歴史を持つ。長老教会の場合は、
とくに戦後の戒厳令体制の下、国民党政府による抑圧と干渉に対抗して、信仰の自主
独立や台湾の独自な主権を強調してきた。また、圧倒的多数を占める漢民族中心の台
湾社会の中、わずか2%の先住民族にとってのキリスト教は、先住民族が自らのアイ
デンティティの拠り所を形成する大きな要素になっている。そして、キリスト教の側
も、先住民社会の中にあって、貧困や失業などの生活面の諸問題に取り組む一方、カ
リスマ運動による教会への脅威など、キリスト教内部の問題にも直面している。本稿
の論述を通じて見えてきたのは、そうした先住民族の心性に内面化したキリスト教の
姿であり、先住民族におけるその社会的存在感である。
また、一方では、同じキリスト教の同じ教会教派であるにもかかわらず、それぞ
れの文化や伝統、言語や習慣を重視すればするほど、別個の教会組織を形成していく
ことになるという、ある種悩ましい側面もある。その背景には、生活習慣や文化伝統
の違いのため、またこれまでの政治的・社会的な経緯もあって、先住民族と漢民族と
がどこかよそよそしい間柄になりがちであることが挙げられる。さらに近年では、東
南アジアや中国大陸から婚姻などで、台湾に移入し定着する新移民と呼ばれる人々が
急増している。こうした傾向に対し、台湾では、多様なエスニックグループが自らの
生活習慣や文化伝統を大切にしつつ、相互理解や交流をはかる動きが官民挙げて進め
られている。世界宗教としてのキリスト教にはパウロ以来の異文化伝道の長い歴史的
経験の蓄積があり、多くの経験知を有している。台湾基督長老教会においても、そう
した経験知を活かしながら、自らの教会教派としての「信仰告白」に立脚しつつ、同
時代の人々の信仰や生活ニーズに対応した教団運営を行っていこうとしているのであ
る。
*本稿は、2015 年 6 月 27 日に天理台湾学会第 20 回記念研究大会の一環として開催された「台
湾の伝道宗教」フォーラムで発表した「台湾のキリスト教の伝道―とくに先住民キリスト教
教会をめぐって―」(2015b)を、大幅に増補改訂したものである。
**中央研究院助研究員の黄約伯氏には、烏来長老教会、忠治長老教会の訪問調査に種々の便
宜をはかっていただき、また本稿を作成するにあたり、筆者の疑問等にも快く答えていただ
いた。この場を借りて深く感謝申し上げたい。
─ 42 ─
金子昭 台湾先住民族とキリスト教伝道
註
(1)台湾基督長老教会は、1985 年(民国 74)に制定した「信仰告白」の前文で、自らの教会
の歴史的由来と信条について次のように述べている(日本基督教団台湾関係委員会の訳文に
よる)。「台湾基督長老教会は、一八六五年イギリスの長老教会のジェームス・エル・マクス
ウェル医師と、一八七二年カナダ長老教会のジョージ・エル・マカイ牧師の福音宣教によっ
て創立された。この二つの母教会は、スコットランドの教会の信仰的伝統、すなわち、ジュ
ネーブにおける宗教改革で、カルヴァンが聖書に基づいて、『ただ神にのみ栄光』を唱えた
改革派教会の基本精神を受け継いでいる。我らの教会は、創立された時から、初代教会の使
徒信条とニカイア信条、および一六四八年に制定されたウェストミンスター信仰告白を受け
継いでおり、今に至るまで、これらの信条と告白を信仰の規範として守っている。」(加藤
1991:194)。
(2)台湾の先住民族は従来9族に分類されていたが、現在は 16 族が政府により認定されてい
る。タイヤル族はアミ族、パイワン族についで3番目に多い部族である(2004 年まではタロ
コ族もタイヤル族の中に含み、人口比で言えばアミ族についで2番目であった)。また政府
の認定を受けていない平地在住先住民族である平埔族も 13 族存在する。台湾では 1994 年以
降、「原住民」が正名 ( 公式名称 ) となっているが、長老教会では、これに先駆けて、1989
年には所属の全組織と文書において、従来の「山胞(山地同胞)」を廃止し、「 原住民 」 の語
を用いることに決定した(若林 2008:327)。
(3)これは台湾における歴史的認識の問題にも関わってくるが、台湾がその時々の政府(国
家体制)の下に統治されてきた歴史的事実に即した対応である。呉密察による『台灣歷史年表』
も、本稿で記したように記述している(吳 2001) 。なお、呉は、3世紀から清朝以前のオラ
ンダ時代、鄭成功の時代にいたるまでの中国の年号も入れている。
(4)カトリックも先住民のキリスト教として大きな割合を占めている。40 万人を超える先住
民総人口の内、実に4分の1にあたる 12 万人がカトリック教徒である。台湾全体のカトリッ
ク教徒が約 30 万人であるから、先住民のカトリック教徒はその5分の2を占める。カトリッ
クもまた社会福祉や医療事業、先住民文化への貢献の活動をさまざまに展開しており、その
存在感は大きいものがある(丁・詹・孫 2004)。カトリックについては機会を改めて取り上
げたい。
(5)オランダ人宣教師のG・カンディウス、R・ユニウスはシラヤ語地域である台南近くの
新港村で伝道を精力的に行った。オランダの伝道の結果として、ローマ字を伝えて神学校を
建設したほか、新港語マタイ伝福音書、祈禱文、教理問答が作成された。
(6)牧尾は疑問符付きであるが、Nishi Rokuzaemon に「西六左衛門」、Sato Tomonaga に「佐藤友永」
という漢字を当てている。両者ともその後、日本に渡り、国禁を犯した者として長崎にて刑
死した。
(7)ただし、これは漢人系の長老教会に目立つ特徴であり、先住民族のほうは全体として国
民党支持が強い。これには閩南系台湾人との日常的な利害関係や軋轢が深い根として伏在し、
閩南系台湾人を押さえつけてくれる外省人に与する先住民グループという、一種のねじれ現
象が起きているという指摘もある。石垣はそのような先住民たち(ブヌン族)の証言を紹介
している(石垣 2010:28-32)。
─ 43 ─
(8)実は、現在でも平地の漢民族社会に較べると、医療をめぐる社会環境は良くないので、
現在でもキリスト教系に限らず、巡回医療活動は継続して行われているくらいである。私も
2002 年(民国 91)の夏、仏教系の慈済人医会の巡回無償診療に同行してブヌン族の村を訪
問した際、そうした医療ニーズの必要性があることを実感した(金子 2005:67-73)。
(9)これは当時、台中聖公会牧師子弟だった木村毅三が『キリスト教家庭新聞』に寄稿し
た「高砂族の父井上先生」によるもので、伊之助はこの文章をそのまま転載している(井上
1960:227-229)。
(10)ただし、伊之助自身はこれより大きな信仰的文脈で捉えていた。というのも、教会教派
としては日本基督教会、組合教会、聖公会の三つであり、人種(民族)としては英国人、内
地人、本島人の三種族であるが、いずれも神の法律(ウットフ・ガガ)によって連合された
ものだという認識を持っていたからである(井上 1960:137)。この講演は台北連合祈禱会に
おけるもので、これらの教派や人種(民族)がそこに集っていたことが想像される。
(11)中田秀造の問い合わせ文書(1926 年 4 月 23 日付)は8項目にわたるもので、伊之助は回
答文書(同年 5 月 20 日付)の中で、その一つ一つに丁寧に答えている。伊之助はこのとき
身元保証人として、日本聖公会台湾管理監督の名出保太郎の名前を挙げている。
(12)現代の先住民観の視点から、井上伊之助の伝道姿勢を批判することは容易であろう。た
しかに、彼の伝道上の課題は、先住民をキリスト教を用いて「教化」し、「蕃害」を起こす
先住民をいかに「善良な民」となるよう導くか、というものだった。そこには抗日蜂起を起
こさざるを得なかった先住民の現実に対する視点が欠如していた(東 2004:201)。しかし、
そのような批判は、当時の時代状況の中で生きた伊之助に対して一方的な見方であろう。む
しろ、伊之助の全身全霊をもって取り組んだ真摯な姿勢のほうを強調すべきところである。
(13)近年では、芝苑の代わりに、先住民 Ciwang(Chi-oan iwad とする表記もある)の発音に
即した漢字名として、姫望という表記を用いるようにもなっている。彼女の生涯と事績は、
次のサイトに詳しい。「原住民信仰之母―姬望」(金清山撰《台灣原 Young》原住民青少年雜
誌 9期 2005 年 7 月)http://www.laijohn.com/archives/pg/Taruku/Ciwang/brief/Kim,Csan.htm
(14)『台灣基督長老教會原住民宣教史』第四部第三章「玉山神學院簡史」(玉神編輯室)(教
會總會原住民宣道委員會 [ 編 ] 1998:511-521)及び、玉山神學院ホームページ http://www.
yushanth.org.tw/ を参照。
(15)この芥菜種(からし種)会という名称は、
「一粒のからし種は他のどの種よりも小さいが、
大きく成長してその枝に鳥がとまるほどになるだろう」(マタイ十三 31, 32)というイエス
の言葉に基づいている。『台灣基督長老教會原住民宣教史』第四部第五章「基督教芥菜種會
─台灣基督長老教會在台灣宣教夥伴」
(教會總會原住民宣道委員會 [ 編 ] 1998:535-545)及び、
基督教芥菜種會ホームページ http://www.mustard.org.tw/ を参照。
(16)台灣基督長老教會ホームページ http://www.pct.org.tw/ の「教會機構 查 詢」http://www.pct.
org.tw/data/church.htm より整理した。
(17)この「信仰告白」の先住民語版は次の通り。タロコ語、アミ語、パイワン語、タイヤル語、
ブヌン語(2種)、ツォウ語、タウ(ヤミ)語、ルカイ語、ピヌヤマヤン語、セデック語(3種)、
カヴァラン語、パゼッヘ語、クハブ語、サイシャット語の 17 族語(方言を含む)。この中に
は政府の公認を得ていない先住民族の言語も含まれている。
─ 44 ─
金子昭 台湾先住民族とキリスト教伝道
(18)日本基督教団公式サイト「教団新報」(4593 号)共同声明「第 10 回日本基督教団と台湾
基督長老教会との教会協議会」より。http://uccj.org/newaccount/17556.html
(19)黄約伯の研究発表「台湾原住民とキリスト教の沿革」(2013 年 1 月 25 日)による(天理
大学おやさと研究所『グローカル天理』2013 年 3 月号、金子昭「第 245 回研究報告会」報告
記事より)。
(20)台灣基督長老教會ホームページ「找教會」http://www.pct.org.tw/look4church.aspx より整理
した。1998 年に刊行された『台灣基督長老會原住民宣教史』では、各教会の設立年が信賢教
会 1949 年、烏来教会 1950 年、忠治教会 1951 年、福山教会 1955 年、下盆教会 1956 年と多
少異なっており、また南光教会は記載されていない(台灣基督長老教會總會原住民宣道委員
會 [ 編 ]1998:283)。こうした相違は何をもって教会の設立とするかについての理解が異なる
ことで生じているが、いずれにしても 1950 年代に矢継ぎ早にこの烏来地区で長老教会の教
勢が拡大したことには変わりはない。
(21)台灣基督長老教會ホームページ「下盆教會 簡史」文中の「2. 教會現況」の記述による。
http://www.pct.org.tw/ChurchHistory.aspx?strOrgNo=C17022
(22)台北神愛教会は、タイヤル族の顔金龍牧師と日本出身の丸山陽子副牧師の夫妻により、
台湾での開拓伝道のために設けられた。教会とは別個に 1999 年に「先住民ケア協会」(社團
法人台北市原住民關懷協會)を設立し、風俗営業に従事するシングルマザーとその子供た
ちのケアと教化育成に尽力し現在に至っている。今では台湾の神召会として最も盛んな教
会となり、また布教伝道と社会活動を有機的に連動させた宗教事例としても顕著なもので
ある。台北神愛教会 / 台北市先住民ケア協会については既に拙論で詳しく紹介した(金子
2015a:15-34)。
(23)先住民宣教委員会については、台灣基督長老教會ホームページより「原住民宣教委員會」
を参照。http://www.pct.org.tw/ab_abo.aspx 同委員会は独自のサイトも持っている。台灣基督
長老教會總會原住民宣教委員會ホームページ http://aboriginal.pct.org.tw/
(24)この日本人牧師は日本イエス・キリスト教団所属の二宮一朗牧師である。二宮牧師は
1994 年から 2002 年まで8年間にわたり、台北東門教会で都市先住民のための牧会活動に従
事した。東門教会については、以下のサイトを参照。台灣基督長老教會ホームページより「台
北東門教會」http://www.pct.org.tw/churchdata.aspx?strOrgNo=C02010、また台北東門教會ホー
ムページ http://www.eastgate.org.tw
【参考文献】
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金子昭(2015a)「台湾の“無縁社会”における宗教者の開拓伝道と支援活動―台北神愛教会 /
台北市先住民ケア協会の挑戦―」、『天理大学おやさと研究所年報』第 21 号、15-34。
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鄭児玉(1981)「台湾のキリスト教」、呉利明・鄭児玉・閔庚培・土肥昭夫『アジア・キリスト
教史 (1)―中国・台湾・韓国・日本―』教文館、67-111。
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会と日本基督教団との宣教協約の視点から―」、『神學研究』51 号、199-213。
藤野陽平(2013)『台湾における民衆キリスト教の人類学』風響社。
牧尾哲(1932)『臺灣基督教傳道史』私家版。
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山路勝彦(2014)『台湾タイヤル族の 100 年』風響社。
山本春樹・黄智慧・パスヤ=ポイツォヌ・下村作次郎(2004)『台湾原住民族の現在』草風館。
若林正丈(2008)『台湾の政治―中華民国台湾化の戦後史―』東京大学出版会。
2.中国語(画数順)
①長老教会関係
*文中引用では「台灣(臺灣)基督長老」の部分を省略した形にしている。
台灣基督長老教會總會原住民宣道委員會 [ 編 ](1998)
『台灣基督長老會原住民宣教史』台灣基
督長老教會總會原住民宣道委員會。
台灣基督長老教會(2012)『認識我們的教會―台灣基督長老教會―』台灣教會公報社。
台灣基督長老教會(2013)『台灣基督長老教會信仰告白解說教材』使徒出版。
臺灣基督長老教會總會歷史委員會 [ 編 ](1965)『臺灣基督長老會百年史』臺灣基督長老教會。
②その他
丁立偉・詹嫦慧・孫大川(2004)『活力教會―天主教在台灣原住民世界的過去現在未來―』光
啟文化事業。
李智仁(1995)『台灣的基督教會與祖先崇拜』人光出版社。
李世偉 [ 主編 ](2002)『台灣宗教閱覽』博揚文化。
吳密察 [ 監修 ] 遠流台灣館 [ 編者 ](2001)『台灣歷史年表』遠流出版。
吳惠巧(2005)『台灣宗教社會觀察』大元書局。
高俊明・高李麗珍 [ 口述 ], 胡慧玲 [ 選文 ](2001)『十字架之路 高俊明牧師回憶錄』望春風文化。
經典雜誌 [ 編著 ](2006)『臺灣慈善四百年』經典雜誌。
楊士範 [ 編著 ](2011)『阿美族都市教會』唐山出版社。
鄭志明(2010)『台灣宗教組織與行政』文津出版社。
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金子昭 台湾先住民族とキリスト教伝道
Aboriginal Peoples of Taiwan and Christian Mission:
The Case of the Presbyterian Church of the Atayal Tribe
KANEKO Akira
This essay discusses the history and current state of the Christian mission for the aboriginal
peoples of Taiwan. It mainly focuses on the largest Protestant denomination, the Presbyterian
Church of Taiwan, in particular the church of the Atayal tribe.
After an overview of the history of the Christian mission in Taiwan, this essay reflects on the
life of Inosuke Inoue who, determined to evangelize the aboriginal peoples, provided volunteer
medical services in the villages of the Atayal tribe during the era of Japanese rule (1895–1945),
and highlights his contributions to the aboriginal community. At the time, the Christian
mission for the aborigines was banned by the Government-General of Formosa. Under such
difficult circumstances, however, Inosuke dedicated himself to volunteer medical services. He
had a good understanding of the Atayal's religious views and the foresight to see the potential
of the Christian mission. After the Second World War, the ban on the Christian mission for
aboriginal communities was lifted and a variety of Christian denominations and sects actively
engaged in missionary work. As a result of the "double-the-church" movement it carried out
for a decade from 1954, the Presbyterian Church increased its size by literally doubling the
number of churches and followers. The mission for the aborigines also realized expansion,
to which Pastor James Dickson and his wife, both from Canada, made notable contributions.
At his request, a Bible school was established in 1946 in Hualien County in order to train
missionaries for the aboriginal mission. It has since been serving its purpose, now as Yu-Shan
Theological College and Seminary.
At present, the Christian mission appears to be in a stable phase. Coming to the surface,
on the other hand, are the problems of the aboriginal communities such as poverty and
unemployment and the problems of Christianity including the Charismatic Movement. The
aboriginal Presbyterian Church is trying to address these problems with persistent efforts in
both areas of life and faith.
Key words: Presbyterian Church, Taiwanese aboriginal communities,
Atayal tribe, Inosuke Inoue, utux (rutux) and gaga, Pastor Dickson,
Ulai district, Charismatic Movement
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