“見かけ倒し”の美学

関東学院大学文学部 紀要 第110号(2007)
“見かけ倒し”の美学
消費社会におけるイメージと現代美術・スポーツ・身体
岡 田 桂
要 旨:
現代の消費社会においては、さまざまなイメージが「もの=商品」という形
を借りて氾濫し、わたしたちの生活に深く浸透している。そして、商品はその
使用価値ではなく、主に視覚的イメージとして消費され、わたしたちはその取
捨選択という生活自体を通じた差異化(日常生活の美学化)の実践の渦中にあ
るといえる。本論では、現代美術作品にあらわれた身体やスポーツなどを事例
としてとりあげ、こうした視覚的イメージ(見かけ)と機能(使用価値)との
乖離が、近代からポストモダンな消費社会へと移行してゆく上であらわれた価
値観の変容の一例であることを考察する。
キーワード:
現代美術、身体、スポーツ、消費社会
過剰な身体
現在のボディビルやフィットネスの元祖は、19世紀末のイギリスを中心
として一大ブームとなった「身体文化」
(physical culture)に見出すことが
できる。ボディビルダーの元祖とも言われ、現在でも世界的なボディビル
大会「ミスター・オリンピア」のトロフィーとしてその姿を残すユージン・
サンドウは、その鍛え上げられた身体を自らの名を冠した雑誌メディア
(Sandow’
s Magazine of Physical Culture)などで視覚的に提示することに
よって、男性が目指すべき理想的な身体像のモデルとなった。さらにサン
ドウは、ダンベルなどを用いた様々な身体鍛錬法(「サンドウ・システム」
と呼ばれた)を提唱し、身体文化の牽引者として一躍その名を広めること
になった。彼の手による雑誌や教則本を購入してその方法に従えば、一般
男性でも自分のような逞しい身体を手に入れられるというわけである。
そもそも、この身体文化ブームは、近代化に伴って進展した都市への労
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働人口の集中と工業化、それによってもたらされた劣悪な労働条件が恒常
化し労働者階級の人々の健康状態が低下してゆくことによって、人間の身
体が本来の機能を失っていくのではないか、という恐れに支えられていた。
つまり、不健康で不衛生な生活を続けることによって、好ましくない資質
が世代を超えて定着してしまう―退化してしまう―ということである。
こうした「イギリス国民の退化」という発想の背景となったのは、19世
紀後半のイギリス社会に大きな衝撃を与えたダーウィンの著作『種の起源』
であった。ダーウィンの提示した適者生存、自然淘汰という考え方は、そ
の馴染みやすさから一般社会において様々な俗流の解釈を生むこととなり、
進化論を社会にあてはめた社会ダーウィニズム的言説が様々な分野に蔓延
することになった。こうした風潮は、健康で壮健な身体を育み、退化を予
防するための活動として、一方では中産階級を中心としたパブリック・ス
クールや大学での熱心なスポーツ奨励(アスレティシズム)を産み、他方
では、高等教育と無縁な労働者階級から下層中産階級にかけての身体文化
ブームを後押ししたのである。
かつて、兵士というものは、生まれつき身体が大きい者や力の強い者が
就く特別な職業であったという。つまり、身体とは生まれついてのもので
あり、人々はそれぞれの身体の機能にあった活動を行っていたに過ぎない。
しかし、サンドウを中心とした視覚的で平易な身体鍛錬法と身体文化は、
それまで所与のものと考えられていた人間の身体が、トレーニングによっ
て後から作り変えることができるのだという新たな見知をもたらすことに
なった。当時の人々にとって、こうした事実は非常に目新しい知識であっ
たに違いない。即ち、身体文化とは、失われつつある人間本来の身体機能
を取り戻し、
“健康”を目に見えるかたちで体現しようとする試みであった
ともいえる。
しかしながら、身体に本来備わっているべき機能を鍛錬によって増進さ
せるという、そのもともとの目的とは裏腹に、ボディビルは19世紀当時か
らその過剰さを指摘されており、ときには「肥大した筋肉の自意識」
(D. H.
ロレンス『恋する女たち』)、あるいはより率直に“アブノーマル”である
と批判されることすらあった。(M. Anton Budd: 1997)これは、現代でも
お馴染みのボディビル批判の図式である。つまり、ボディビルによって作
られる筋肉は、それを使うための具体的な目的を持たない、言ってみれば
“役立たず”の筋肉であるということである。運動生理学的に考えれば、筋
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肉はどのような目的で鍛えられようと、大きくなればそれに比例して大き
な筋力を発揮するようになる訳で、上記のような批判は必ずしもあてはま
らないのだが、要は、他のスポーツ競技のように「より速く走りたいから
足の筋肉を鍛える」とか「速いボールを投げるために肩を鍛える」といっ
たような大義名分(機能)がないため、批判の矢面に立たされやすいとい
うことだろう。
>
>
>
さらに言えば、ボディビルの目的は「逞しく見えること」にあるわけで、
その競技目標は完全に審美的(エステティーク)である。これは、ボディ
ビルが近代スポーツの範疇に含まれるか否かを考える上でも、大きな問題
となってくる。ざっと見渡してみても、近代スポーツの世界にあってこの
ように審美的な競技は、フィギュア・スケートと新体操くらいだろうか。
しかも、近年フィギュア・スケートはその採点基準を純粋に美的なものか
ら、より技術的な側面(ジャンプの高さや回数、回転数)に移しつつあり、
新体操に至っては、そもそも“新”体操であることからもわかるように、
「近代」スポーツであるか自体が疑問である。
こうした近代スポーツとボディビル、身体との関係を考えてみると、そ
こには「機能が伴うかどうか」という明確な一線が引かれているといえよ
う。近代という時代がひたすら追い求めてきた機能重視の価値観に対して、
審美的なもの―すなわち「見かけ」
―を重視する価値観。この図式を思い切
って単純化すれば、それは近代と、ポストモダンな消費社会の間に横たわ
る価値観の断絶とも捉えられる。
“役に立たない筋肉”
、
“目的を持たない筋
肉”という反機能の誹りを一身に引き受けてきたボディビルは、こうした
意味では近代スポーツの鬼子とも考えられるし、しばしば指摘されるよう
にポストモダン・スポーツであるとも言えるだろう。
ボディビルダー≒スポーツカー?
しかし、こうした「機能/エステティクス(見かけ)
」という対比の図式
が現れるのは、身体やスポーツの領域に限ったことではない。特に、ここ
数年、現代美術の世界では、こうした対比を先鋭化するような作品が多数
見受けられる。中村哲也の作品「レプリカ・カスタム」シリーズ(写真 1 )
は、こうした感覚を最も良く表しているものの一つである。もともと芸術
大学で伝統的な漆塗りを学んだ中村は、90年代以降、
「速く見える」ことに
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“見かけ倒し”の美学
執着した作品を発表しはじめた。
流線型の躯体に滑らかな表面処理、
ホットロッド・カーやジェット機
を思わせる塗装を施したこれらの
作品は、どれもみな速さを感じさ
せはするが、当然ながら実際に動
き出すことはない。機能という側
面からいえば、プラスチックの塊
に漆や科学塗料を重ねただけの、 (写真 1 )中村哲也「レプリカ・カスタム」シリーズ
いわば“見かけ倒し”である。こ
れらの作品においては、実際の機能ではなく「速さ」の視覚的イメージが
価値を持つのであり、実際に速く走る/飛ぶことができるかどうかは問題
ではない。更にいえば、このシリーズ中の作品は「インティミデイター」
と名付けられており、その意味は「威嚇するもの」
、つまりは「こけおどし」
であり、作者の作品に対する意図が直接的に反映されていると言えよう。
おもしろいことに、こうした見かけ倒しのイメージは、機能重視の代表
選手ともいえる現実の自動車産業の現場においても拝借されている。実際
に、中村の作品は有名自動車メーカー・マツダの CM にも起用されたため、
テレビ画面を通じて目にしたことのある人も多いだろう。当時、中村は自
動車雑誌のインタビューを受け、その記事中では次のような自動車業界の
状況が語られていた。つまり、かつては「より速く、よりパワフルに、よ
り高機能に」という方向性を追求してきたスポーツカーは、昨今の排ガス
規制やエコロジーの気運の高まり、更には経済状況などによって、むしろ
実際の排気量や馬力を抑え、
「見た目」で速さを表現するようになっている
ということである。実機能からいえばそれほど意味のない張り出したフェ
ンダーやウイング、スポイラーなどはその典型であり、ここにはまさに「レ
プリカ・カスタム」と同様、機能に対する視覚的イメージの優越をみるこ
とができる。
もちろん、過去においても、自動車と“速さ”のイメージは深く結びつ
いていた。1950年代のアメリカ車は、その好例といえるだろう。キャデラ
ックに代表される、ロケットを思わせるテールランプやジェット機のよう
なテールフィン、数多の装飾に加え、なによりもその過剰なサイズは、お
よそ機能的・合理的とはいえない。しかしながら、この時代の自動車デザ
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インは、当時の“速さ”イメージの代表格であった航空機やロケットへの
憧れを率直に表したものであり、いわば、機能の拡大に向かうなかで、い
まだ達成出来ない部分、あるいは不足部分を補う意味を担っていた。これ
を如実に表していたのが、その排気量と馬力だろう。長大なボディをイメ
ージ通りの速さに近づけるべく、この時期のアメリカ車は排気量とパワー
の拡大競争へと向かい、5 ∼6, 000ccは当たり前、60年代に入ると中には
8, 000ccというもはや乗用車としてはグロテスクな域にまで達することにな
る。これらの背景には、やはり、より高速に、よりパワフルにという、機
能への希求が見て取れる。
また、より身近な日本の自動車産業においても、過去に同じような傾向
を見出すことができる。近代日本における時間意識を詳細に検討した西本
は、60年代の自動車メーカーの広告が、やはり速度の「イメージ」を全面
に押し出してきたことを指摘している。その内容によれば、やはりこの時
期の日本車も“速さ”を感じさせる流体のデザインを採用し、速さを連想
させる様々な語彙を駆使した広告によって、購買欲を刺激しようとしてい
た。
(西本:2006)しかしながら、やはりこの高度成長期の自動車も、より
速く、より快適に、という機能の充実へ向けた過渡期にあり、その後の日
本車が辿る高性能化の道筋は、世界中の人々が認識するところである。
こうして比較すると、現在の自動車デザインに見られる、機能に対する
視覚的イメージ(
「速さ」イメージ)の優越は、さらなる機能への補足では
なく、機能の飽和、あるいは意識的な後退からもたらされた現象であると
考えることが出来る。
さらに、先述したボディビルの事例に戻って考えれば、ボディビルダー
は、こうした審美的な価値観の優勢を身体で先取りした存在とも言える。
現代のスポーツカーは見た目で「速さ」を表し、ボディビルダーは見た目
で「逞しさ」を表す、という訳である。
現代美術における表現―機能からエステティクスへ―
現代美術作品は、それ自体が完結した意味を持つ伝統的な美術作品とは
異なり、社会の文脈と照らし合わせてはじめて意味を成すものであり、そ
の点で社会の価値観を批判的に反映するものといえる。そうした意味で言
えば、現代美術はそれが生まれてきた社会の価値観や文化、その時代背景
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抜きでは成り立たない。そして、機能ではなく審美的(エステティーク)
という価値観は、その現代美術において顕著に現れてくることになる。
例えば、先述したレプリカ・カスタム・シリーズと非常に近い発想を持
つ作品として、マーク・ニューソンの「Kelvin 40」を挙げることが出来る。
もともと工業デザイナーとして頭角を現したニューソンは、日本を含んだ
世界各国の企業において製品デザインを手がけており、現在最も人気のあ
るデザイナーの一人といえるが、その彼が、現代美術の有力なパトロンで
あるカルティエ財団から依頼を受けて作成した作品が「Kelvin 40」である。
一見して解るように、本作は“速さ”のイメージを具現化したかのような
架空のジェット機の姿をしている。作家本人の弁に依れば、この作品を制
作するにあたっては、航空力学的な情報も加味しており、単なる想像の産
物ではないのだという。このあたりは、長年、工業デザインという、製品
の機能に制限される中での視覚表現に携わってきたニューソン流の作品制
作へのこだわりなのかもしれない。しかし当然ながら、本作品には実際の
航空機としての機能はなく、あくまでもジェット機状の躯体が醸し出す“速
さ”や“速度”のイメージにこそ、その本質があると言える。
そもそもが、工業製品という「機能」の制約を前提としたデザインを生
業とするニューソンが、純粋芸術としての現代美術作品を制作するという
この交錯自体が、現代の消費社会における工業製品や商品、あるいは日常
生活(ライフスタイル)そのもののイメージ化・美学化と不可分の出来事
とも捉えることが出来る。事実、昨今では、工業や商業的エンタテインメ
ントと美術館制度的な意味での現代美術の領域を横断するアーティストの
例も顕著である。
こうした、現代美術と日常的な消費文化との境界に関しては、後に検討
することになるが、これらを論証する上で参考となる具体例として、以下、
「機能/エステティクス(見かけ)」の対比がよく表れた現代美術作品の例
をいくつか挙げておきたい。
・制度の越境
イスラエルの現代美術作家ウリ・ツァイグは、わたしたちが慣れ親しん
だ「制度」の意味を脱構築することによって、機能と“見た目”の対比を
鮮やかに描き出す。ツァイグの映像作品「The Universal Square」
(1996年)
(写真 2 )では、公式スタジアムに二つのプロ・サッカー・チームが招聘さ
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れ、二人の審判と二つのボールで
ゲームが行われる様子を映し出し
ている。フットボールの代表とも
言えるサッカーは、身体文化と同
じく、19世紀のイングランドにお
いて近代という時代の価値観―即
ち機能性や合理性―を身に付けて
ゆくための教育の一環として制度
化が進んだスポーツである。各ポ
(写真 2 )Uri Tzig, Duel(2000)より転載
ジションの選手が役割や責任を分
担し、戦略によってチームの勝利を目指すというその形式は、まさに近代
的で機能的な制度の代表といえるだろう。
しかしツァイグは、その近代スポーツの申し子ともいえるサッカーを、
プロ・チーム、公式スタジアム、公式審判という完璧な舞台設定で行いな
がら、ただ一つボールを余分に加えることによって、スポーツにとっての
至上目的とも言える勝敗の概念を無化し、その競技としての機能を転倒さ
>
>
>
せている。そこにあるのは、ボールを使ったサッカーのような身体活動だ
けであり、スポーツという近代機能主義の代表的文化が、その意味を反転
され、“game(競技)”から“game(遊び)”へと意図的に変換されている。
ツァイグはこうした試みを継続させ、同じく二つのボールを使ったバスケ
ットボールのゲーム「Desert」や、時間と共に大きさの変化するコート内
で延々とボールの受け渡しが行われる「∞(infinite)
」などの作品を発表し
ている。これらは、わたしたちが慣れ親しんだスポーツという体裁(即ち
“見た目”)を用いてはいるが、通常のスポーツとしての理解を拒否し、そ
の機能は空っぽである。
・身体の越境
現代美術界の寵児といわれるマシュー・バーニーもまた、その作品中に
スポーツと身体というモチーフを多用する作家である。もとはアメリカン・
フットボールの特待生として大学に入学し、医学を専攻した後に体育学と
美術を修めたというバーニーの経歴は、彼の作中、身体の有り様とその加
工という形で随所に反映されている。その代表作である壮大な映像叙事詩
「Cremaster Cycle」シリーズ中(全 5 部作・2002年完結)には、ブロンコ・
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スタジアムでのページェントやマン島のバイク・レース、アメリカン・フ
ットボールを彷彿とさせる装具やユニフォームなどが登場するが、それら
はどれもイメージとして流用されるばかりで、実際の競技に結びつくこと
はない。
例えば、
「Cremaster 4」
(1994年)では、バイク・レース発祥の地である
マン島でのサイドカー・レースが描き出されるが、女性ボディビルダーた
ちが扮するレーサーは画面の上と下、つまり反対方向に向かってレースを
繰り広げ、最終的にはクラッシュしてしまう。ここでは、通常連想される
レース(競争)概念は無効となり、断片的なイメージの積み重ねのみが作
品を構成している。
そして、作中に登場する(人)物の身体はシリコンなどで過剰に加工さ
れ、時に異形であり、作品を観る側の「標準的な身体観」を逆照射する。
上述したレーサーたちの姿は、実際には性別も、そして人間なのかどうか
すらわからない姿に加工されているし、シリーズ作品中でバーニー自身は、
巨人や牧神、マジシャン、ディーヴァなどさまざまな姿で現れ、生物学的
属性や性、種、スケールなど数多の境界を越境してみせる。
中でも印象深いのは、
「Cremaster 3」
(2002年)に登場する義足の陸上選
手エイミー・マリンスであろう。マリンスは一歳のときに両足を失ったが、
高性能の義足を用いて陸上競技を始め、パラリンピックにおいて100m、
200m、走り幅跳びの世界記録保持者となった。
作中、マリンスはいくつかの登場人物を演じ
ているが、特に鮮烈に感じられるのは、アク
リル製の透明な義足をつけて登場するシーン
である。
(写真 3 )ここでは、彼女の膝から先
は一般的な意味での欠如とはみなされず、あ
えて観衆の目に触れる形で提示され、美醜の
判断は各々の価値観にゆだねられることにな
る。マリンスの、通常であれば“不完全”と
見なされかねない姿は、何が身体の美的基準
か、身体の「標準」とは何かという問いをも
相対化すると言えるだろう。
「Cremaster Cycle」中のマリンスや他の登 (写真 3 ) N. Spector, Matthew
場人物の身体は、既にそのエクステリアと機
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Barney: The Cemaster
Cycleより転載
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能との結びつきという頸木からは自由であり、そうした意味で言えば、空
っぽの身体として立ち現れているといえるかもしれない。
上記は、主に制度と身体を中心とした「機能/エステティクス(見かけ)
」
の対比の事例であるが、こうした現代美術の作品において、近代的価値観
(機能重視)の相対化にスポーツ的なモチーフが多用される理由としては、
スポーツが近代機能主義を最も良く代表するものであるが故に、その意味
の転倒による効果もまた大きいということが指摘できるだろう。また、現
代美術がある意味で現代社会の価値観を批判的に反映するものであるとす
るならば、これは現実社会におけるスポーツ的なイメージ(実活動であれ
商業であれ)の氾濫とも大いに関係するはずである。なぜなら、現代にお
いて、身体というものを直接俎上に乗せるような文化・社会領域というも
のは、実のところそれほど多くはなく、強いて挙げるなら、スポーツ(産
業)と性(産業)はその代表的な領域と言えるのではないだろうか。現代
美術で、身体およびそこから発散されるセクシュアリティがもはや不可欠
のモチーフとなっていることも、こうした推測があながち的外れではない
ことの証左といえるかもしれない。
機能から視覚的消費(イメージ)へ
現代美術が、その宿命として社会を反映するものであるとすれば、こう
した機能よりも“見かけ”という流れは、現実の社会においても進展して
いるはずである。そして事実、わたしたちは身近な例として、こうした価
値観が現代社会のさまざまな側面で浸透しつつあるのを感じることができ
る。
先に挙げた自動車産業の例では、スポーツカーのこけおどし的なエクス
テリアは既に商品として成り立っているし、ボディビルは、役に立たない
筋肉と嘲られ、そのグロテスクさを揶揄され続けながらも、価値観の一元
化が進む高度消費社会においては、既に男性身体美の理想としての地位を
占めつつある。今日、特に消費社会の代表と目される北米などの地域では、
映画やアニメ、コミックなどのメディアを通じて提供される物語に登場す
るヒーローの多くが、自然状態では決して有り得るはずのない身体(プロ
ポーションもヴォリュームも)を備えた人物として描き出されているのは、
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承知の通りである。
女性の身体に関しても、フィットネスやダイエットに関する情報が氾濫
し、
“標準”とされるサイズの洋服を着こなし、美しさの基準を満たすため
には、特定のプロポーションとサイズに自らの身体を加工せねばならない
とそそのかしている。また、いくら医学・健康科学的な見地から「太りす
ぎではない」という標準値が示されようとも、文化的な美の基準は、時に
は不健康になるリスクさえ冒して過剰な細さの身体を手に入れる欲望を促
進しているのである。
その一方で、予測できない勝敗や思いがけないプレーといった、本来コ
ントロールできない生の要素に価値があるとされたスポーツも、実のとこ
ろ(視覚的)消費のための娯楽として都合の良いように改変されている。
2006年のワールドカップでは、日本で視聴率の取りやすい放映時間帯に日
本代表の試合を合わせた結果、代表チームは現地ドイツにおいて不利なス
ケジュールで戦うことを余儀なくされたといわれているし、コマーシャル
やテレビ放映の尺に合わせるためのタイブレークや「T V ルール」は、既に
さまざまな競技で導入されている。さらには、アメリカン・フットボール
の一大イベント、スーパーボウルの“生”放送では、不測の事態に備える
ために、実際には一瞬遅れの映像(つまり生放送ではない)が流されてい
るのである。
こうした「機能重視(近代)→高度消費社会(後近代)」という図式の中
にあって、わたしたちはもはや“見かけ”や外見という審美的な価値を無
視して生活することはできない。一時期アメリカでいわれた「腹の出た男
は出世できない」というような、いささか極端な状況を経て、現在はさし
ずめ「健康のためなら死んでもいい」というもう少し入り組んだ段階とい
>
>
>
ったら良いだろうか。もちろんそれは「健康に見える」という事なのだが。
これらは、もはや機能ではなくイメージがわたしたちの実生活・実社会を
規定しているということであり、即ち、わたしたちが物事を考え判断する
際の基準である文化が、現実を規定し始めているということでもある。こ
れは、消費社会とポストモダニズムの関係について数多くの論客が言及す
る、文化と社会の関係性の変化、つまりは日常生活の審美化に関わる問題
でもある。
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日常生活の美学化―消費社会とポストモダン
現代が、車などの工業製品やスポーツなどの制度、さらには人間の身体
をも審美的な加工の対象とする後近代という時代であるならば、もはや物
事を美的基準で測るという価値観は、美術や芸術の専売特許ではない。そ
うした意味で、わたしたちは生活のすべてが美学化しつつある世界に暮ら
しているともいえる。
事実、これまでにも現代美術や消費社会論、あるいは文化研究など様々
な領域から、同様の指摘がなされてきた。ポストモダン(あるいはポスト
モダニティ)という概念と消費文化について考察したマイク・フェザース
トンは、その著書の中で、こうした日常生活の審美(美学)化についての
過去の論考を整理し、詳細な検討を加えている。ここで述べられているう
ち、いわゆるポストモダニズムを定義する上で多く強調される要素として、
「芸術と日常生活の境界の消滅、高級芸術とマス/ポピュラー文化の間の差
異の崩壊、一般的なスタイリスティックな乱雑さと記号の戯れに満ちた混
合」
(フェザーストン:1999 p. 95)などが指摘されている。フェザースト
ンは、現在ポストモダンの諸問題として取りざたされているこれらの要素
と日常生活の美学化の一部が、実のところ19世紀中期の近代都市における
消費社会の萌芽と共に出現したことを指摘している。即ち、ポストモダン
の要素と考えられているものは、必ずしも近代(モダン)と断絶したもの
ではなく、むしろ連続性を持ちうるということである。
フェザーストンによれば、日常生活の美学化には次の三つの意味がある
という。一つめは、第一次大戦から1920年代のダダやアヴァンギャルド(前
衛)
、1960年代におけるポストモダン芸術、および美術館や学界におけるモ
ダニズムの制度化に対する反動を含めた、芸術的なサブカルチャー。二つ
めは、19世紀末イギリスに遡るブルームズベリー・グループやオスカー・
ワイルドなどのデカダン派、ダンディズムの創始者ブランメルから後期の
フーコーをも含む、生活を芸術作品へと変容させようとするプロジェクト。
そして三つめは、現代社会における日常生活の構造のすみずみ=細部にま
で満ち溢れる記号やイメージの急速なフローを指すという。
(フェザースト
ン:1999)これらの意味は相互に関連し合っているが、ここで特に検討す
べきなのは、やはり三番目の意味であろう。
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“見かけ倒し”の美学
・モダン/ポストモダン/消費文化
そもそもが、ポストモダンという言葉・概念自体が非常に多義的であり、
事実、論者によってはかなり異なった意味で用いられている部分がある。
しかしながら、現在をポストモダン状況と捉えて論ずる考察に最低限共通
する要素として、やはりそれが、日常生活における決定因としての消費の
優越という、現代の消費文化と並行する変化であるということは挙げられ
るだろう。大衆消費社会の拡大は、一般の人々の新しいものへの欲求を掻
き立て、消費のための消費はライフスタイル(日常)の差異化への欲望を
産むという循環である。そして、それは現代社会における文化そのものの
役割の拡大に他ならない。(フェザーストン:1987、ジェイムソン:2006、
ボードリヤール:1979)
さしあたり、ポストモダンの定義をフレドリック・ジェイムソンの論考
に依拠して確認しておけば、それはもちろん(美術史的な意味での)特定
の様式を表す言葉ではなく、
「一つの時代を画する概念であり、文化におけ
る新しい形式上の特徴を、ある新しいタイプの社会生活および経済的秩序
―しばしば遠回しに、近代化とかポスト工業化社会、あるいは消費社会な
どと呼ばれるもの、すなわちメディア社会、スペクタクル社会、多国籍資
本主義の社会―に関連するような機能をもつ概念」(ジェイムソン:2006
p. 14)である。そしてまた、この概念は何か完全に変化してしまった新し
い時代区分を指し示すというよりは、綿々と続いてきた近代(モダニズム)
のプロジェクトに含まれていたものを引き受けつつ、むしろその既存の諸
要素のいくつかが再編成されることによってもたらされる契機を表すとい
える。
そして、それが到来したのは、先に挙げたような、商品を使用価値では
なく記号として非常に速いサイクルで消費してゆく新たなタイプの社会生
活が広まっていった時期(1960年代は過渡期として大きな鍵を握ると述べ
られている)であり、その二つの特徴が「現実をイメージへと変容させる
こと、および時間を永続的な現在の連鎖へと断片化すること」
(ジェイムソ
ン:2006
p. 35)であるという。このイメージ化は、視覚に訴える消費の
優勢という、先述した現代の美術作品や工業製品、身体の例にもよくあて
はまる要素である。また後者(歴史感覚の喪失)は、高級文化と大衆文化
の古い区別が溶解し、高級芸術(モダニズム芸術)と商業形態の間の線引
きが曖昧になる中で、多くの作品が過去の意匠や既存の工業製品・制度を
― ―
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流用した表現を用いていることにも見て取れる。
椹木はこうした現代美術の状況を「美術史自体の相対化」(椹木:1991)
と呼んだが、これは、とりわけ叙事詩的な体裁をとったマシュー・バーニ
ーの作品「Cremaster Cycle」に最も良くあてはまるだろう。ここでは、かつ
てモダニズム芸術が企図したような過去の引用ではなく、かつての大きな
歴史から切り取られたイメージの断片を「ポストモダニズム的意味でのテ
クスト」(フォスター:1987
p. 5)としてその内部に組み込もうとしてい
る。
さらに指摘すれば、現代美術と商業の間の越境は今や普通のこととして
行われている。先に述べたマーク・ニューソンはもともと工業デザイナー
であるし、中村哲也の作品は工業製品を宣伝するためのイメージとして商
業広告へと転用されている。また、バーニーの作品は映像スペクタクルと
して日本においても映画館で上映されているし、映像作家ロバート・ロン
ゴに至っては、ハリウッド映画の監督まで務めているのである。
芸術以降
これまで述べてきた消費社会の諸相と、とりあげてきた現代美術作品や
視覚的イメージの関係を吟味すれば、少なくとも現在の社会がポストモダ
ンという概念で画する状況に入っていることは確かに思える。それでは、
そのひとつの現れとして日常生活自体が美学化したとき、社会を批判的に
反映するという現代美術の非日常としての存在意義はどのようにして生き
ながらえることができるだろうか。それとも、既に批判の枠組みとしての
現代美術というジャンル自体が融解しつつあるのだろうか。
ジェイムソンは、自身の論考「ポストモダニズムと消費社会」の最後を
同じ疑問で結んでいる。即ち、かつてのモダニズムがその社会に対して批
判的な機能を果たしていたことはある程度認められるが、果たしてポスト
モダンの芸術はどのような批判的価値を持つのかということである。そし
て「ポストモダニズムに消費型資本主義の論理を反映、再現---あるいは強
化---する側面があることは、われわれはすでに考察してきた。より重要な問
題は、ポストモダニズムにはそうした論理に抵抗するような側面もあるの
かどうかということである」。
(ジェイムソン:2006 p. 35)
この疑問に対しては、上記のジェイムソンの論考を含んだ秀逸なポスト
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147
“見かけ倒し”の美学
モダン論集「反美学」を編んだハル・フォスターが、一つの可能性を提示
している。フォスターは、今日の文化の政治情勢においては、モダニズム
を脱構築し現状に抵抗しようとしているポストモダニズム=「抵抗のポス
トモダニズム」と、モダニズムを拒絶し現状を讃えるポストモダニズム=
「反動のポストモダニズム」というまったく正反対のポストモダニズムの対
立があると述べる。
「反動のポストモダニズム」は、新保守主義者による「文化を社会的なも
のから切り離し、一方(モダニズム)の実践を、他方(近代化)のもたら
した害悪のゆえに非難」し、
「そうして原因と結果とを混同することで「敵
対的文化」が弾劾され、まさに経済的、政治的現状が肯定される」という
論調である。ここでは、確かに現状追認としての新たな「肯定的な」文化
が提出されてはいるが、その文化はあくまで社会的コントロールによって
力を維持しているに過ぎない。これが「芸術、家族、宗教などにおける伝
統の真実への回帰としての、治療的な言葉---化粧的とは言わないにしても--で考えられたポストモダニズム」なのであり、
「この回帰とは、モダニズム
に対抗する失われた伝統の復活」に他ならないのである。(フォスター:
1987
p. 8 )
一方、フォスターが期待を寄せる「抵抗のポストモダニズム」の願望は、
「対象とその社会的コンテクストを変換すること」であり、「モダニズムの
公的な文化だけではなく、反動的なポストモダニズムの「虚偽の規範性」
に対しても、対抗的実践として現れてくる」ものであるという。この立場
は、起源への回帰ではなく暴露、文化コードの利用ではなく問題化、社会・
政治的帰属関係の隠蔽ではなく探求という、非常に脱構築的なものである。
(フォスター:1987
pp. 7 −8 )
こうしたフォスターの後者の立場を援用するならば、ポストモダン芸術
としての現代美術にも、いまだ社会への批判的役割を担う余地が残されて
いることになる。実際、具体的な現代美術作品を見回してみても、特にフ
ェミニズムやジェンダー/セクシュアリティ、あるいは人種などを問題意
識とした作品からは、いまだ政治的実践と現実への高度な批評性が一見し
て感じられるものも多い。しかしながら、より顕著に思われるのは、個々
の作品それ自体はもとより、実際の展覧会テーマや展示方法など、美術館
の制度的なものの相対化がそれなりに進展していることである。
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148
関東学院大学文学部 紀要 第110号(2007)
日本においても、そもそも現代美術系の展示や企画が昨今非常に増えて
いることに加え、その内容も多岐にわたり、時事性や地域性といった、美
術館の外に開かれた要素を加味するようになってきている。また、展覧会
のキュレーションにおいて、むしろ作家性よりも、日常の匿名的サブカル
チャーそのものを発見・流用してくる例が目立つことも、こうした状況を
読み解くひとつのヒントなのかも知れない。
さらにラディカルなことには、美術館制度自体に対する一般市民からの
異議申し立てという自体も現実に起こっている。現代美術の企画力で名高
いある公営美術館は、数年前、地域住民から「企画が難解すぎて一般市民
にわかりづらい。市民の税金が投入されているのだから、もっと市民に向
けた内容を検討すべきだ」という抗議を受け、新聞にも報道された。この
事例などは、まさにフォスターの言うような近代的な閉じた諸システム(美
術館)に対する、一般市民からの相対化の契機といえるかも知れない。
「芸
術」ということのみで自律的な価値を持つとされてきた状況から、地域や
社会との関係性の中で意味を模索してゆくという、説明と対話の責任を求
められる状況への変化は、多様な形で進展している。
その一方で、現代美術や視覚的なイメージの多くは、それこそ消費社会
の文脈において商業的な領域とオーヴァーラップしながらわたしたちの前
に現れてくるのであり、ともすれば、日常生活における嗜好の分化=差異
化という戦略の中で無意識に消費してしまう可能性も高まっている。そう
いう意味でいえば、芸術と商業の境界が融解しつつある現代においては、
氾濫する商品としてのイメージ(とメッセージ)を自覚的に理解し取捨選
択することと、現代美術を自覚的に理解(鑑賞)することは、ほぼ同意と
いえるのかもしれない。
参考文献
ジャン・ボードリヤール、今村・塚原訳、
『消費社会の神話と構造』、1979年、紀
伊国屋書店
フレドリック・ジェイムソン、合庭他訳、
『カルチュラル・ターン』、2006年、作
品社
ハル・フォスター編、室井・吉岡訳、『反美学:ポストモダンの諸相』、1987年、
勁草書房
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“見かけ倒し”の美学
M. フェザーストン、川崎・小川編著訳、『消費文化とポストモダニズム』上巻、
1999年、恒星社厚生閣
M. フェザーストン、川崎・小川編著訳、『消費文化とポストモダニズム』下巻、
2003年、恒星社厚生閣
ロレンス, D. H.,(D. H. ロレンス研究会編)
、
『恋する女たち』1979年、朝日出版社
富山太佳夫、
『ダーウィンの世紀末』、1995年、青土社
西本郁子、『時間意識の近代:
「時は金なり」の社会史』
、2006年、法政大学出版局
椹木野衣、『シミュレーショニズム:ハウスミュージックと盗用芸術(増補版)
』、
1991年、筑摩書房
Tzaig, Uri, 2000, Duel, Artists Space.
Budd, Michael Anton, 1997, The Sculpture Machine: Physical Culture and Body
Politics in the age of Empire, Basingstoke: Macmillan.
Spector, Nancy, 2002, Matthew Barney: The Cremaster Cycle , Guggenheim
Museum Publications.
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