農業の経営継承におけるナレッジマネジメントに関する一考察

農業の経営継承におけるナレッジマネジメントに関する一考察
新潟県花卉球根農業協同組合 相馬 寿成※
新潟大学自然科学系 木南 莉莉
1.研究の背景と目的
現在、日本の農業を取り巻く状況は厳しく、耕地面積の減少や耕作放棄地の増加、農業従事者の減少・高齢化
が進行している。平成 20 年度 食料・農業・農村白書によると、2005 年には 65 歳以上の基幹的農業従事者の数
は 57.4%に達し、近い将来これらの人々の引退が見込まれる。そのため農業の経営継承への取り組みは喫緊の課
題である。
従来の経営継承研究は主に有形資産の継承、特に農地相続を対象としている。岩本(2000)は、農地の細分化
防止のために生前一括贈与制度などが勧められてきたことが、農業の経営継承と農地問題の接点であると述べて
いる。農地の継承は、主に相続によって行われてきており、それが経営継承問題を相続問題に解消する傾向を生
じたと指摘している。しかし、継承する経営資産には農地のような有形資産だけでなく無形資産も含まれる。内
山(2001)は無形資産を「経営機能を遂行するのに必要な熟練」と定義し、FFS 理論を用いて継承過程におけ
る経営者と後継者の「個性」の意義を論じている。一方、野中(1996、2001)は、知識を個人・集団・組織の間
で、
相互に絶え間なく変換・移転することによって新たな知識が創造されるとする SECI モデルを提唱している。
これを経営継承の視点でみると、経営者個人が持つ無形資産を従業員に変換・移転することで、後継者が今まで
にない新たな価値を創造することと捉えることができる。さらに野中は SECI モデルには「場」の概念が重要で
あると述べており、経営継承にも「場」が重要であると考えられる。
本研究では FFS 理論を用いて無形資産継承の課題を明らかにし、SECI モデルを用いて無形資産継承における
「場」の重要性を探る。
2.研究対象
研究対象は、先進的な取り組みをしている 3 つの事例である。事例 1、2 は、地域循環型農業を行っている畜
産経営であり、事例 3 は、ワイナリー経営塾を通して地域の発展に貢献している事例である。これらの事例では、
現経営者が優れており、経営の持続性を考えると後継者の確保が重要になると考えられる。事例 1 では経営継承
を試みたがうまくいかなかった事例を、事例 2 では今後経営継承に取り組む必要がある事例を、事例 3 では経営
塾という「場」の形成により無形資産の継承問題を解決した事例を取り上げる。
3.事例分析
事例 1:F ファーム
熟練の性格について、経営者は、技術の継承難易度は低く、財務、戦略、マーケティングの継承難易度は高い
が、どの経営機能も農場特殊性は低いと考えている。しかし従業員は、技術の継承難易度は低いと考えているが、
農場特殊性は高いと考えている。以上の結果から、経営者と従業員には、F ファームの特殊性の考えに違いがあ
ることがわかる。また、回答から従業員は技術的な仕事のみで、財務、戦略、マーケティングは行っていないと
推測される(表1、表2)
。
経営者の個性タイプは「凝縮性」である。因子特性からみると LM(リーダーシップ)型で、新規事業の「芽」
を成長させ、リスクに対して積極的にチャレンジしながらグイグイ引っ張っていく人材タイプである。また、ス
トレスが少ないことから適度なストレス状態、もしくは刺激がなさすぎて、活性を失っているアンダーストレス
状態に陥る手前の可能性もある。従業員の個性タイプは「弁別性」である。因子特性からみると TG(タグボート)
型で、アイディアベースのものを具現化することを得意とするタイプである。また起業化タイプともいい、後継
者としては適しているタイプになる。しかし、ストレスが少なすぎるため、刺激がなさすぎて、活性を失ってい
るアンダーストレス状態に陥っている可能性がある(表3)
。
以上の結果から、経営者と従業員のタイプは適しているにもかかわらず無形資産の継承が行われていないとい
うことがわかる。無形資産継承の課題として、企業家精神、従業員への経営理念・目標の浸透、経営者になるた
めの人材育成が挙げられる。
表1 経営者の得意度・難易度・特殊度
経営者
得意度
難易度
特殊度
畜舎内
1.00
1.00
-1.00
畜舎外
1.00
1.00
-1.00
財務
1.00
0.50
-1.00
戦略的
0.67
0.33
-1.00
マーケティング
0.50
-1.00
-1.00
技術的
得意度は「得意」1 点、
「どちらでもない」0 点、
「不得意」-1 点、継承難易度は「教えられる」1 点、
「教えら
れない」-1 点、熟練の特殊度は「特殊性あり」1 点、
「特殊性なし」-1 点とし、各経営グループの平均点を算出
表2 従業員の得意度・難易度・特殊度
従業員
得意度
難易度
特殊度
畜舎内
0.75
1.00
0.50
畜舎外
0.50
1.00
1.00
財務
-1.00
-1.00
-1.00
戦略的
-1.00
-1.00
-1.00
マーケティング
-1.00
-1.00
-1.00
技術的
得意度は「得意」1 点、
「どちらでもない」0 点、
「不得意」-1 点、継承難易度は「教わった」1 点、
「教わって
ない」-1 点、熟練の特殊度は「特殊性あり」1 点、
「特殊性なし」-1 点とし、各経営グループの平均点を算出
表3 FFS 点数一覧表
A 凝縮性
B 受容性
C 弁別性
D 拡散性
E 保全性
合計
S ストレス
経営者
14
13
11
13
11
62
4
従業員
8
12
16
12
4
52
0
事例 2:H 和牛牧場
事例 2 では、事例 1 で課題として挙げた「経営理念」と無形資産である「熟練」を暗黙知とし分析を行う。
アンケート調査の結果(表4、表5)から、H 氏は経営理念を暗黙知だと考えている。経営理念の伝達方法と
して
「データや資料を見せて」
後継者に伝えようと考えているが、
現在 H 氏は従業員に経営理念を伝えていない。
したがって、従業員は後継者として対象外と考えていることがわかる。聞き取り調査によると、以前は、時間を
かけ従業員に伝えようとしたが理解してもらえず、従業員には「伝える必要がない」と考えるようになってしま
った、と回答している。暗黙知である経営理念は「データや資料を見せる」といった場だけでは伝わらないこと
がわかる。SECI モデルによると、暗黙知の伝達には創発場、対話場が必要であり、経営理念の伝達には、それ
にあった適切な場を形成する必要がある。
熟練について、H 氏は暗黙知だと考えていない。そのため熟練の伝達方法は、後継者・従業員がより理解をし
やすくするために「データや資料を見せる」方法を用いている。聞き取り調査によると、従業員の日常の仕事は
「技術的」なルーチンワークであり、従業員への作業指示は主に連絡ボードや電話を使用している。重要な仕事
である「戦略的」
「マーケティング」
、
「財務」は、H 氏自身が行っており、従業員には「伝える必要がない」と
考えている。さらに「戦略的」は、後継者として対象外と考えている従業員には「伝えたいとは思わない」と考
えている。Errington(1998)の「労働者」から「経営者」へと階梯を登っていくモデルでは「技術的」→「戦略
的」→「マーケティング」→「財務」の順番で経営者機能を獲得していく。従業員が「戦略的」な仕事に従事で
きる機会とその内容を伝える「場」を形成することにより、従業員の企業家精神を高めることができると考えら
れる。
また H 氏は、
従業員の欲求について考える必要がある。
ルーチンワークである現在の仕事は、
単調で物足りず、
従業員にはもっと成長したいという自己実現欲求があるかもしれない。そして、単調な技術的な仕事だけでは、
自分の仕事に「やらされ感」を抱くおそれがある。それは単に与えられた仕事をこなすだけであり、賃金と交換
に労働力を提供しているだけ、という発想である。従業員がこのような認識を抱くのは、経営者が従業員をきち
んとモチベートしていないからであり、これは経営活動における非常に大きな問題である。
以上の結果から、暗黙知の継承の課題として、適切な「場」の形成、経営者になるための人材育成、従業員の
欲求のマネジメントが挙げられる。
表4 後継者への暗黙知の伝達
伝達の有無
伝達方法
理由
伝える
データや資料を見せる
言葉だけでは伝えにくいから
技術的
伝える
データや資料を見せる
より理解がしやすいから
戦略的
伝える
データや資料を見せる
より理解がしやすいから
マーケティング
伝える
データや資料を見せる
より理解がしやすいから
財務
伝える
データや資料を見せる
より理解がしやすいから
経営理念
熟練
表5 従業員への暗黙知の伝達
伝達の有無
伝達方法
理由
伝えていない
−
伝える必要がないから
技術的
伝えている
データや資料を見せる
より理解がしやすいから
戦略的
伝えていない
−
伝えたいとは思わないから
マーケティング
伝えていない
−
伝える必要がないから
財務
伝えていない
−
伝える必要がないから
経営理念
熟練
事例 3:ワイナリーCD
O 氏はワイナリー開設の 5 つの条件として「資金、年齢、体力、パートナー、強い意思」を挙げている。ワイ
ナリー塾へは O 氏との面接を経て合格したものだけが入塾できる。これは内山(2001)が述べた「先代経営者・
継承者の関係性が継承プロセスに影響を与える」という問題を解決する有効な手段である。つまり塾生はワイナ
リー開設の 5 つの条件を満たし、
O 氏の経営理念に共感できる人に絞られる。
したがって、
経営者 O 氏と塾生は、
暗黙知継承において極めて良い関係であるといえる。
ワイナリー経営塾の授業内容は実習と講義に分かれ、塾生は実技と理論を身に付けることができる。実習では
ブドウ栽培やワイン醸造の作業を O 氏と協働で行い、O 氏が行う講義では教科書を用いてブドウの栽培方法やワ
インの醸造法、ワイナリーの経営学などを学ぶ。これらの授業内容を SECI モデルで表すと(図1)
、①共同化
では、O 氏と塾生が栽培や醸造作業を一緒に行うことで、O 氏と塾生が共感し合える創発場を形成している。こ
こでの共感は言葉では表せない経営理念や熟練が塾生に伝わる。②表出化では、1 対 1 で行う実習や講義での「対
話」を通して O 氏の考えを共有し合える対話場を形成している。これにより言葉で表せる O 氏の持つ経営理念
や熟練が塾生に伝わり、両者には次第に信頼関係が生まれる。③連結化では、教科書や O 氏の今までの経験から
形式知化された知識を塾生に伝える。④内面化では、ワイナリー経営塾で得た知識を、実際に自分で行うことで
スキルとして身に付ける。以上のように、暗黙知である経営理念・熟練は、共同化・表出化それぞれに対応する
創発場・対話場を経て継承されていく。
図1 SECI モデル(ワイナリー経営塾)
①
②
実習
暗黙知
表出化
(Externalization)
講義
共同化
(Socialization)
形式知
暗黙知
内面化
(Internalization)
連結化
(Combination)
形式知
③
④
実践
出所:野中・竹内(1996,p93)に加筆した
また O 氏は、ワイナリー経営塾を通して近隣にワイナリー同業者を作ることで、地元の要求水準の高い顧客(需
要条件)に対して厳しい競争が行われる環境(競争環境)を作り出そうとしている。ワイナリー経営塾生が卒業
してからも、実際に開業してはじめてぶつかる疑問や問題への答え、必要な農機具の貸し出しなど、できる限り
の援助を行っている(関連産業・支援産業)
。そこには競争関係だけでなく協力関係が共存している。そして良質
のブドウを供給する各ワイナリー(要素条件)が、競争と協力の中で地域一体的な戦略(企業戦略)を行うこと
で、角田浜一帯に一大ワイン・クラスターを形成しようとしている。それは O 氏の地域への貢献であり、地域の
発展を目的としている(図2)
。
図2 ダイヤモンドモデル(ワイナリー経営塾)
ワイナリー
同士の競争
企業戦略
競争環境
良質のブドウ
を供給する各
需要条件
要素条件
ワイナリー
地元の要求水
準の高い顧客
関連産業
支援産業
ワイナリーCD
(O氏)
出所:マイケル・E・ポーター(1999,p83)に加筆した
4.結語
以上の分析から、農業の経営継承には、有形資産だけでなく無形資産の継承が重要であることが明らかになっ
た。ただし、経営者は無形資産の継承を行うときに、熟練という技術的な側面の伝達だけでなく、経営理念の伝
達も同時に行う必要がある。そのための「場」の形成を行うことで、組織を学習する組織へと変容させることが
できると考えられる。学習する組織という「場」の形成は、経営者になるための人材育成の第一歩であるといえ
る。
本研究に残された課題が 3 つある。1 つ目は、暗黙知の抽出方法である。今回の研究では、各経営機能は形式
知か暗黙知かという二者択一の方法で行ったが、各経営機能の中には形式知と暗黙知の両方が存在する。各経営
機能の具体的な作業から暗黙知を抽出し検証する必要がある。2 つ目は、暗黙知の分類である。暗黙知には、暗
黙知から暗黙知へと変換するものと暗黙知から形式知へと変換するものがある。それぞれに対応する場を形成す
るために、抽出した経理理念・熟練はどちらの暗黙知なのかを明らかにする必要がある。3 つ目は、クラスター
が経営継承に与える影響を明らかにすることである。クラスターの形成は、多様な人材確保に有利に働くことが
期待されているが、農業の後継者確保としての可能性があるかどうかの検証も必要である。これらは今後の研究
課題とする。
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