1 使徒言行録2章24~42節 「救いとは正にこのこと」 私たちは今朝、この

使徒言行録2章24~42節 「救いとは正にこのこと」
私たちは今朝、この聖書の中で最も有名な伝道説教を、直接聖書から聞いています。ペンテ
コステの聖霊降臨の直後に、ペトロはこの、主イエスが他のところでなされた説教よりも、も
っと長い説教を語りました。主イエスの場合にはいつも、説教のあとは非難を受けたり、石を
投げられるようなことになり、いつもその場から退かれていましたが、しかしこのペトロの説
教は、この説教を語っている側から、3 千人もの、驚くべき数の回心者を生み出しました。
そのような、キリスト教が生まれて最初の、エルサレムでの、歴史に残る、記念すべき大伝
道集会のようなシーンで、その礼拝の中でペトロが説教する様子を、私たちは今朝、御言葉か
ら、ライブ中継でそれを見るようなかたちで、それを覗いています。
そして、この一回の説教をしっかりと聞き取るだけで、洗礼を受けるに足る決断へと人を導
くほどの、それだけの救いと力を提供するこのペトロの説教を、今朝は私たちも、その場で洗
礼を受けた三千人の人々と耳を揃えるようにして、一緒に聞きたいと思います。
ペトロはここで、まだキリスト教信仰を持っていない人々に向かって説教をしましたけれど
も、その時に、もちろん聖書を使って説教をしました。そしてこの当時、まだこの新約聖書は
出来あがっていませんでしたが、すでにこの時、人々には、旧約聖書が親しまれていて、それ
が毎週ユダヤ教の会堂で、巻物を読むような仕方で朗読されていました。当時は、聖書といえ
ば、旧約聖書のことだったのです。そこでペトロは、旧約聖書の御言葉と用いて、イエス・キ
リストの福音を語りました。
説教とは、ある意味で、これまであった御言葉の意味を新しく定義し直して、古い言葉を掘
り起こしながら、その日その時に示される、神様の新しい御心を盛り込んで、それによって、
人が今まで見たことがなかった、あるいは考えたことがなかった、新しい景色を示し、新しい
未来を描くことです。
ペトロは、ダビデが詠んだ、有名な詩編16編を引用しながら説教しています。先程朗読さ
せていただきました、詩編 16 編は、とても美しい詩編で、詩編全体に、ダビデの神様に対す
る深い信頼が溢れでているような詩編です。ダビデにとって、主なる神こそが全てであり、す
べての幸いは、
主なる神様から来るものです。
それをはばかることなくダビデは表明しながら、
その主なる神がおられるゆえに、ダビデは、自分が黄泉の地獄に捨て置かれることは起きず、
死する時にも、神様が命の道をわたしに示してくださるだろう、と語りました。
ペトロは、この詩編16編を引用しながら、ダビデが詠んだ詩編を、再解釈、再定義します。
そして、ダビデが詩編16編で、
「わたし」と言っているのは、実はダビデ自身のことを指して
いるのではなくて、それは預言的な仕方で、イエス・キリストのことを指しているのだと語っ
ていきます。ですから、詩編16編の「わたし」という言葉に、イエスという名前を当てはめ
なさい。そうすれば、詩編16編が語っている一番深いところの意味が分かる。主イエスが十
字架で死なれてから、しかしそこから復活されたということは、何か急に起こった、思いがけ
ないことなのではなくて、そのことはもうしっかりと、ダビデによって聖書書かれていたこと
で、ダビデもそういう意味で、キリストの復活を預言して、この詩編16編を書いたのだ、と
言うのです。
その上で、今朝の使徒言行録2章25節からのペトロの説教の言葉を、28節まで、改めて
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朗読させていただきます。
「2:25 ダビデは、イエスについてこう言っています。
『わたしは、い
つも目の前に主を見て」いた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。
2:26 だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。
2:27 あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままに
しておかれない。2:28 あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満
たしてくださる。
』
」
。
さらに、ダビデは、主イエスの復活について、前もって詩編で預言していたのだということ
の説明として、あれはエルサレムにある墓に入ったダビデのことではなくて、もっと遠い未来
の、50日前に起こったばかりの、主イエスの復活のことをこそ指していたのだと、説明する
言葉として、29 節から 32 節の言葉が語られています。
「2:29 兄弟たち、先祖ダビデについて
は、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。2:30
ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっき
り誓ってくださったことを知っていました。2:31 そして、キリストの復活について前もって知
り、/『彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない』/と語りました。2:32
神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。
」ここの最後
の 32 節では、ペトロは、自らも、そして他の弟子たちも、この聖書が語る主イエスの復活の
証人ですと断言して、
聖書の言葉の信ぴょう性を、
さらに自分の体験によって補強しています。
そして、さらに次のひとかたまりの部分でも、これまでと同じ理由で、ペトロはダビデの詩
編110編を引用しながら、ダビデは天に昇ったことはないので、それを実際に為したのはキ
リストなので、110 篇の「わたし」という言葉も、ダビデは自分のことである以上に、キリス
トのことを想定して詠ったのだと、解説しています。34 節から 35 節です。
「2:34 ダビデは天
に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。
『主は、わたしの主にお告げになった。
『わ
たしの右の座に着け。2:35 わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで。
』
」だから、
神の右の座に座った「わたし」とは、実はイエス・キリストのことだったと。そしてそのイエ
スが、聖霊をおん父から受け取って、私たちに注いでくれたので、先程の聖霊降臨が、目に見
えるかたちで起こったのだ。それはあなたがたの見聞きしていた通りでしょう。
ペトロは、
「もう、ここで起こっていること、今あなたがた皆が見ていることは、偶然とか突
然とか、そういったことではなくて、あのダビデが詩編で詠っていた、聖書が1000年も前
の時点からずっと語ってきたことの実現なのです」と、だから主イエスは、ダビデが語ってい
た通り、今は、復活して、天に昇り、天国で神様の右に座しておられますと、こうやって、と
てもスケールの大きな、主イエスの復活と昇天を、とても説得力ある説教で語りました。
そして、これは、伝道説教ですから、ついにこの最後に差し掛かる部分で、ペトロは、聴衆
の心に問いかけ、訴えます。それが 36 節です。
「2:36 だから、イスラエルの全家は、はっき
り知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、また
メシアとなさったのです。
」この 36 節は、他の翻訳聖書の方が、ふさわしい訳し方をしていま
す。新改訳聖書は 36 節を、こう訳します。
「ですから、イスラエルのすべての人々は、このこ
とをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこ
のイエスを、あなたがたは、十字架につけたのです。
」文章の結論が逆です。
「あなたがたが十
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字架につけて殺したイエスを、神は、
」ではなくて、
「神が、御自身の右に座す救い主とされた
主イエスを、しかし、あなたがたが、殺した。
」という文章です。そして、これを説教として今
語っているペトロも、御存じのように、かつては、ずっと主イエスのそばに居ながら、主イエ
スが十字架に連れて行かれるのを阻止できず、逆にペトロは、主イエスのことは知らないと、
自分はあの人とは関係ないと、嘘をついて、みすみす殺させた。裏切った。その一人でした。
ペトロはその罪を、人類皆の罪として取れています。つまり、聖書に約束されている、復活の
命の道を、神様への道を示してくださる救い主が、せっかく来たのに、私たちは、その主イエ
スを十字架につけて殺してしまったのだ。説教の半ばに急に訪れた、突然の沈黙、ものすごく
大きな、暗転です。急に舞台が真っ暗になるような、すべてが台無しになるような罪の事実で
す。私たちは何と恐ろしい、恐れを知らないことをしてしまったのか。説教が、この罪の指摘
をした後で、一旦止まってしまっています。
そして 37 節に、このペトロの説教の中断に際しての、群衆の反応があります。37 節「2:37
人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、
「兄弟たち、わたしたちは
どうしたらよいのですか」と言った。
」
「大いに心を打たれ」と言う訳語は、
「心を引き裂かれ」と訳すべき言葉です。心打たれてペ
トロの説教に感動したというのではなく、人々は心が引き裂かれる痛みを、主イエスを十字架
につけてしまったということから感じたのです。人々は言いました。
「わたしたちはどうしたら
よいのですか」神を冒涜する。神をないがしろにする。これ以上に救い難い、大きな罪はあり
ません。けれどもその罪を犯してしまったことに気付いた人々による、ある種のパニック状態
が、ここに起こっています。
もちろんここに集まっていた群衆は、キリスト教の信仰こそ持っていませんでしたが、ユダ
ヤ教の背景に居ながら、神様に対する信仰は持っていて、旧約聖書の神様を恐らくほとんどの
人が知っていて、ダビデの詩編の意味もよく分かり通じる人々です。そしてそこで、当然、自
分の救いというものを求めていた人たちです。
そして当時の人々の救いとは、罪から遠ざかること、罪を犯さないことで、潔白となるとい
う救いです。そして、その罪を犯さず、罪を避けて正しい者とされて救われるための道筋とは、
十戒をベースとした、律法の戒律の遵守でした。そういう、戒律を守り、掟を学び、その掟を
一つ一つクリアーして、
正しい人になるために、
一歩一歩聖い人間へと乗り越えあがっていく、
その先に、救いがあった。けれども、人々は、神を冒涜する罪を犯すどころか、それよりもも
っと悪い、神の右に座す神の御子を十字架にかけて殺すという、神様殺しの罪を犯してしまっ
た。みんなでこぞって十字架にかけてしまったあのイエスが、キリストでありメシアであるな
らば、その方を殺したわれわれ皆は、すべてノーチャンス、救われることない罪人になります。
罪に堕ちた者に救いはない。地獄での永遠の死が待っている。これは当然のことです。説教を
聞いていた人々は皆、青ざめました。
けれども、ペトロはそこで、説教を止めずに、さらに口を開きました。38節。
「2:38 する
と、ペトロは彼らに言った。
「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼
を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
」
ペトロは、それまでにはなかった、新しいことを語りました。
「悔い改めなさい。イエス・キ
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リストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。
」
悔い改めるということは、帰る、引き返すという言葉から来ています。皆が全て受けていた
割礼ではなく、イエス・キリスト名による洗礼を受けなさい。そして、罪を赦していただきな
さい。罪を犯してはいけませんという言葉ではなく、犯した罪を、赦していただきなさいとい
う、新しい言葉です。
そして、洗礼とは、
「洗う」という文字が使われていますように、洗って綺麗にすることです。
それは罪という汚れを洗い流すこと、そして罪が招く最悪のものとしての死を洗い流すことで
す。そして、イエス・キリストの名による洗礼を受けるということは、復活されて、天におら
れる、主イエス・キリストの名義で、罪と死からの救いを保証され、太鼓判を押されることで
す。これも新しいことです。罪を犯さないようになるのではなくて、罪を犯す自分は変わらな
くても、その罪が必ず全て赦され、洗い流されて、天国に行けるフリーパスを、もう保障され
るのです。
しかも、39節。
「2:39 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいる
すべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与え
られているものなのです。
」この救いは、時間を超えて、場所を超えて、主なる神様が招いてく
ださる者ならだれにでも与えられます。
これは、それまでにあった、自分の力で、自分の功徳(くどく)で掴みに行く救いではなく
て、新しい、与えられる救いです。まさにこれこそが、救い。掬い取られる、掬っていただく
のです。
最後のところでもペトロはこう訴えています。40節の言葉です。
「邪悪なこの時代から救わ
れなさい。
」救われよ!というこの最後の命令形の言葉、これは、邪悪なこの時代から抜け出よ
だとか、時代を打ち砕けというような、その時代の中に生きている、私たち本人にやることを
任されているような、あなたがこうしなさい!という命令形ではなく、あなたはこうされなさ
い!という、受動態の命令形です。救うのは、復活して、天におられ、罪を赦し、洗礼を与え
てくださる主イエスです。この主イエスに救われなさい!救っていただきなさい!そこに救い
がある。これがペトロの説教の結論です。
愛読している翻訳書に、こういう言葉があります。
「最も大切なのは、信仰生活とは、君がな
していることではなく、
君に対してなされていることだと知ることだ。
」
という言葉があります。
神様は、私たちに、働かれます。握っている手を開き、広げて、神様に、働きかけていただく
こと、救い出していただくこと、心の内側から、洗い清めて、赦していただくこと、聖霊を受
けて、私たちの中に、宿っていただくこと。この時代の中でどうこうする、明日明後日のこと
でどうこうする、あの人のことで、あの案件のことでどうこうすることよりも、時代を超えて、
場所を超えて、今この場所に届けられている、キリストの救いを受け入れて、救っていただく
こと、これが、私たち皆にとって、何よりも、最も大切なことです。
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