第15号 - 國學院大學栃木学園

第15号
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主
命
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学園創立47周年 中学校12周年
建学の精神を胸にたくましく進め
佐々木周二学園長名誉校長
創立47周年記念式典 式辞を述べる木村好成理事長
新年度スタート 対面式 中学生・高校生がお互いに挨拶
中
学
・
高
校
こ
の
一
年
一年生徒研修 建学の精神を学ぶ
校内球技大会
サマースクール 大志を抱き研鑽を積む
文化祭 ミュージカル部の公演
体育祭 色別対抗リレー
中学校 校外学習(奈良)
中学校 体験学習(稲刈り)
ラグビー部全国大会2回戦で佐賀工と対戦
全校マラソン大会女子のスタート
国際情報科2年オーストラリア修学旅行
普通科2年修学旅行 安芸の宮島
平成二十年戊子年 年頭所感
第十五号
学園長佐々木周二先生の長寿を寿ぐ
世の中の流れを正したい
目
次
木村 好成︵
︶
︶
︶
︶
小塙
研一︵ ︶
菅又
和彦︵ ︶
石塚 透︵
赤塚 徹︵
影山 博︵
渡邉
勇︵ ︶ 心にとめておきたい言葉第十四集
亀山
瞳︵ ︶ 一人暮しも楽しいもの
私の育った小・中学校時代︵戦中・戦後︶その三
マッシャーブルム登山遠征について
高等学校草創期の一齣 山下
宏︵ ︶ 電話今昔
坂本
一成︵ ︶ 明日は新しい日
︶
︶
︶
︶
︶
︶
青木
一男︵ ︶
島田
秋︵ ︶
古口 敏夫︵
須藤 光三︵
筒井 健介︵
水代 勲︵
西沢 敏︵
水野 正︵
中島
亨︵ ︶ 私の二つの同窓会
田原
千晶︵ ︶ 親友から教わったこと
9
41 27 20
61 55
ଟ⟢ ே⟢ Ⅰ
千葉の〝おっちゃん〟
田口
幸子︵ ︶
佐賀インターハイ報告
心理学の先生の言葉
佐々木和俊︵ ︶ モーツァルト偏愛
菅
麻衣子︵ ︶ 祖母の味
大月
一男︵ ︶
ビバ アメリカ
国際情報科 オーストラリア修学旅行
第九回 中学校ニュージーランド語学研修
﹃江戸時代女性文庫﹄を読む 特にイチョウの雌雄と変体仮名﹁つ﹂について
すいせいがもたらした天文現象
﹁香り﹂への誘い │﹁香道﹂の入門編 │
ଟ⟢ ே⟢ Ⅱ
痛
み
﹁ブルーノ・タウト展﹂の印象
ランドセル同盟
いざな
59 53
118 113
99 96 92 81 75 66
120 114
(2)
64 57 51
121 117 111
・
・
・
・
島田
利文︵ ︶ 私の幸
金子
茜︵ ︶ 私の好きなことわざ
西
克幸︵ ︶ 自分を振り返って
デンマーク往復書簡
思い出に残る教師像
架空授
業 私の漢文講座︵冬期課外編︶
書に親しむ ︱ 漢字と仮名作品を書く ︱
ଟ⟢ ே⟢ Ⅲ
君に伝えたいことがある あなたの趣味は何ですか?
亡き祖父に想う
私のオペラ人生 Ⅴ
新米教師の文学散歩
ボランティア
創立四十七周年記念講演
世界文化遺産 日光東照宮について
Twenty years
探検、夢、発見
英字新聞に挑戦しよう
佐山
洋︵ ︶
田中
千鶴︵ ︶
新井
聖貴︵ ︶
瀬賀 大島 安塚 加藤 私が目標とする先生たち
﹁高校教師﹂になりたくて
正博︵
秀郎︵
孝昭︵
敏明︵
︶
︶
︶
︶
野村
拓矢︵ ︶
綾川
浩史︵ ︶
峰 茂樹︵
三好 一郎︵
久保田千秋︵
︵
︵
︵
ハンス・リントゥバ︵
ー
デビン・ケルソウ
︵
村田 真一︵
日光東照宮禰 宜 高藤 晴俊︵
191 184 178
平成十九年 度 歳時記
太平台
﹁太平台春秋﹂の創刊に寄せて
編集後記
172 146 137 123
︶
︶
︶
185 180
︶
208 205 194
︶
︶
︶
212
︶
︶
︶
238 233 225
254 252 239
189 182 177
平成二十年戊子年
年頭所感
平成二十年戊子年の年頭に
木
村
好
成
学園長佐々木周二先生の長寿を寿ぐ
世の中の流れを正したい
今年も一月一日は、東京渋谷キャンパスに齋祀る國學院大學神殿での歳旦祭に、國學院大學栃木学園
理事長・國學院大學理事として参列し、皇室の弥栄と国運の隆昌、学園の発展を祈願し、併せて学園の
役員・教職員、学生・生徒・園児等と、それぞれのご家族のご健勝ご発展を祈りあげ、さらにそのこと
の実現のために日日努力・精進することをお誓い申しあげた。
今年平成二十年は、皇紀二六六八年・西暦二〇〇八年である。平成の御世は、昭和六十四年一月七日
に先帝昭和天皇が崩御あそばされて、明治の御世からの元号一代一元の定めにより、新たにご即位なさ
る今上天皇の御世となるということで、この日に元号が昭和から平成に改元されたのであるが、あれか
ら二十年目の新年を迎えたのである。阿川弘之氏も言っているが、大正時代が十五年に満たなかったこ
とを思うと、平成になってすでに十九年を経て二十年目に入るという歳月は、決して短くはない。さら
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に平成の御世はこれからも当然のことながら続いてゆくのである。
振り返って、平成になってから今日までの日本の動静を想うと、内憂外患、憂慮すべきことが多かった。
このような世の中の流れは、どうしても変えなければならないと思う。
平成の御世を生きる私たちは、私たちなりに後の世の人びとに対しての責務を負うていると考える。
平成の世が素晴らしい時代であったと評価されるようにするためには、個々人は微力かもしれないが、
いささかでも世を正すために貢献しなければなるまいと想う年頭であった。
学園長佐々木周二先生は子年生まれ
今年平成二十年は、干支︵えと︶を言うと戊子︵つちのえ・ね︶年である。つまり、今年生まれる子
供は子年生まれということである。私たち日本人にはその年の干支に因んで、その年の努力目標を定め
る習慣もある。子はねずみ、鼠は子だくさんで子孫を増やし、休みなく動き回る習性をもつことから家
運隆昌が計られる、縁起の良い生まれ年と考えられている。
この前の子年は平成八年で丙子︵ひのえ・ね︶年であった。この年の出生者は十二歳になる。その
前は昭和五十九年で甲子︵きのえ・ね︶年生、二十四歳。このように数えていくと、本学園の学園長で
あり中高校名誉校長である佐々木周二先生のお生まれは明治四十五年六月二十四日で、この年の干支は
壬子︵みずのえ・ね︶の年だから、先生は今年九度目の年男ということで、九十六歳になられるのであ
る。ご高齢であるが極めてご壮健でいらっしゃることは、誠に目出度いかぎりである。特に六十年に近
治生まれの男の心意気を持ち、子年生まれのめでたさを活かして仕事をされた方である。
い歳月を先生の膝下に仕えてきた私にとっては、心強きことかぎりなく思えるのである。先生こそ、明
佐々木周二先生は中学生時代、当時の日本統治下の京城市︵現韓国ソウル市︶にあった京城中学校在
学中に、不治の病と言われた肺結核を患い、七年間の闘病生活をなさった。その間にご両親があいつい
で亡くなられるという、悲しく辛い思いをされたのである。先生ご自身は幸い健康を回復されたが、普
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通の者より七年も遅れて中学校を卒業し、東京高等師範学校に進学、東京教育大学教育学部から専攻科
を修了されたのである。先生は、大学在学中学業に精励なさるかたわら報徳思想、つまり二宮金次郎・
尊徳の生涯を研究され、論文ものこされている。さらに、報徳思想の実践にも励まれたこともあって、
教育への強い信念をお持ちになって今日まで生きてこられた。先生は、ご自身を律するに厳しく、周囲
佐々木先生は、昭和十九年に岩崎清一氏が起こされた岩崎学園が、旧制久我山中学校を創設された時
の者への心遣いは細やかで、温情溢れる方である。先生を崇敬する者は多い。
の大本柱の仕事をなさり、後に校長となって國學院大學と合併させ、國學院大學久我山中学高等学校の
隆昌を築かれて、現在は同校の名誉校長でもある。大学との合併以後は大学理事としても多大な業績を
積まれて、國學院大學理事長に就任され、職を全うされて現在は常任顧問でいらっしゃるのである。一
方で、國學院大學栃木学園が今日の発展を遂げていることも、佐々木先生の高校創立時の校長就任から
のたゆみないお働きによるのである。
○
本学園の歴史は、本校の創立に始まる。昭和三十五年四月十三日に第一期生の入学式を挙行し、これ
をもって開校したのであった。佐々木周二先生四十八歳の年であった。その時から数えて今年は四十八
年目となる。創立五十年という祝いの年を間もなく迎えることになる。学園長佐々木周二先生はその年
に九十九歳になられる。いわゆる白寿の賀の歳にあたられる。先生は日ごろ百歳までは生きたいものだ
とおっしゃっておられ、ごく最近も事務連絡で先生宅を訪れた小藤勝夫経理部長に、
﹁今年の八月に開
催される北京オリンピックはもちろんのこと、次のロンドン・オリンピックでの日本選手の活躍ぶりも
観たいものだ﹂
、とおっしゃられたという。
高校の四十九期生となる平成二十年度入学生の選抜試験が、一月六日︵日︶に単願者入試、十日︵木︶
に併願者入試が行われた。彼等が三年生になる二十二年の秋、十月九日が学園創立五十周年記念日であ
る。その日に挙行される学園五十周年記念式は、先生の白寿の賀を祝いながらということになると思う
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と、これもまた楽しいかぎりで、今から待ち望まれる栄えの記念日である。
近 年 の 本 学 園 中 学・ 高 校 教 育 の 充 実 ぶ り は 目 を 見 張 る も の が あ っ て、 平 成 十 九 年 春 の 進 学 実 績 が 国
公立大学合格者数で一三五名となっていることは周知のことであろう。県内外の人びとからも注目され
ているところである。その成果は平成二十年春の卒業生の進路・進学の実績にも引き継がれるであろう
が、このことも、佐々木先生が四十八年前に播かれた一粒の麦がもたらした結果である。佐々木周二先
生の長寿を言祝ぎ、ますますご健勝であられることを心からお祈り申し上げるものである。
嘉納治五郎先生の説く﹁精力善用﹂
今年も渋谷キャンパス神殿での歳旦祭に参列したが、これに先だって行われている國學院大學柔道部
の元旦稽古に臨むことも恒例となっている。
この日も、廣井武司総監督・坂本大記監督を初めとする先輩コーチ等と学生部員三十名ほどが参加し
ている柔道場に赴いた。稽古の後、柔道部の先輩・OB会顧問の立場で、年頭の挨拶と激励をかねての
所懐を述べた。
○
道場に二面の額が掲げられているが、一面は﹁精力善用﹂で、講道館柔道の創始者で初代館長である
嘉納治五郎先生の揮毫による書である。私の在学当時の部の師範であった田中徳正九段が、若き日に直
接嘉納師範に揮毫していただいた書を、この道場に寄贈されたものである。
﹁精力善用﹂と﹁自他共栄﹂は、講道館柔道を修行する者が目指
広く一般にも知られているように、
す究極の目的である。嘉納先生は、﹁柔道とは、心身の力を最も有効に活用する道である﹂と言い、こ
れが﹁精力最善活用﹂となり、さらに短縮して﹁精力善用﹂となったのである。
嘉納先生ご自身はこの言葉を次のように説明されている。
﹁どんなことでも人間のすることで、精神︵意思︶と身体︵動作︶を働かさないでできるものはない。
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本を風呂敷に包むことでも、文章を作ったり、文字を書いたりすることでもそのとおりで、
最も上手に本を包み文章を作り、文字を書こうと思えば、その目的に最もよく適するように
精神と身体を、最も巧みに働かさなければならない。この最も巧みに精神と身体を働かせる
方法を、﹃心身の最有効使用道﹄とも﹃使用法﹄ともいい、どんなことをするにも成功をお
さめるためには必要な大原則すなわち﹃大道﹄である。これを柔道と称する﹂と。
つまり、人間の全ての行為のうちで、最も巧みに目的を達しようという考えのもとに、そ
の目的に最も有効適切な、無駄のない動作が行われるならば、それが柔道なのだと説かれて
いる。この考えをもとにして嘉納先生は、さらに説明を加えて、
﹁この道を攻撃・防禦を目的として応用することを武術といい、身体を強健にして、実生
活に役立たせるように応用することを体育という。また知を磨き徳を養うためにこの道を応
用すると知徳の修養法となり、社会における全てのことに応用すると、社会生活の方法とな
る。このように、一度柔道の根本原理を明らかに知ることができれば、どんなことでもそれ
から割り出して判断できるのである。例えば、自分の生活の仕方でも、他人に対しまた社会に対してど
うしたらよいかというような時々刻々に起こってくる問題でも、この原理にもとずいて解決することが
できるのである。正しい方法で柔道を学んでいれば、おのずとそういう力が養われるはずである﹂と。
この説明で、私たちが考えなければならないことは、普通世間一般の人びとの考えている柔道と、嘉
納先生のいわれている柔道との相異である。すなわち普通一般の人びとが考える柔道は、相手を投げた
り、抑えつけたり、首を絞めたり、また間接を逆にしたりする徒手を主とする武術の一種であるとして
しか柔道を見ないのであるが、嘉納先生は、そのような武術としての技術ももちろん柔道であるが、柔
道を﹁心身の力を最も有効に使用する道﹂というからには、単に武術だけが柔道と呼ばれるものではな
い。それは、武術だけが精神と身体を有効に使用しなければならない人間の行為の全てではないからで
ある。だから、徒手を主とする武術としての柔道は、大道としての柔道の一つの面であって全てではな
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い、と説かれている。
従って、他の面、例えば身体を鍛えようという目的に対して、また知識や徳育の修養ということにも
同じように心身の力の最有効使用は考えなければならないし、まして、日々の生活においてはなおさら
にこのことが必要なのである。このように、どの面にも心身の力の最有効使用が行われるならば、それ
が柔道といわれるものの他の面、合理的な身体の鍛錬法であり知徳の修養法であり、処世法となって社
会生活の上に大きな効果をもたらすものとなる。このような柔道の理念が、日常の生活にも応用され、
それが形となって表れてくれば私たちの生活は、一層楽しく豊かなものになるのである。
このように、広く大きく柔道を考えての日々の稽古や学業への努力こそが、学生柔道の目標でなけれ
ばならない。人間の行動は、心と体の力が一つになって表れるものだから、行動の基になる心は﹁善﹂
でなければならず、力は﹁善から生ずる力﹂でなければならない。
○
﹁善から生まれる正しい心﹂が欠けているように思われる者が
この頃の世の中の動きを見ていると、
多い。日ごろの行動に、
﹁ 善 ﹂ に 基 づ く 行 動 を 考 え な い た め に、 自 分 本 位 で 身 勝 手 な 行 動 を す る の で あ
る。親が子を、子が親を殺めるということも、衝動的な欲情に踊らされての行動である。己の行動を抑
制できずに、不特定の人びとに危害を加えるなども、その表れである。
つい先頃のニュースにも、高校二年生が路上で人に斬りかかる事件があった。精神を病んでいたかも
知れない。しかし、その者が精神を病む以前の心のもち方・行動のあり方は、おそらく自分勝手で自分
本位な行動習慣であっただろう。自分の考えと世の中の動きが合わないから﹁切れる﹂などといって、
反社会的な行動をするなどはとんでもないことだ。
自分というものがまだ人間として完成されていない年代にあっては、常に世の中から種々のことを学
びながら人間性を磨くという謙虚さがなければならない。学びの心の根底には、常に﹁善﹂の心が必要
だと、嘉納先生は教えられているのである。
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○
もう一面の掲額﹁奥妙存錬心﹂は、大学柔道部の名誉師範であった三船久蔵十段の書で、私の在学中
の一日、柔道部の大先輩であり大学理事であった松尾三郎先生の要請で行われた、大講堂での三船先生
の全学対象の講演と実技披露の後に揮毫されたものである。
私が國學院大學柔道部で四年間の部活動をしたことでの幸せは、良き師、良き友に恵まれたことで
あった。一つは、松尾三郎先生の存在である。先生は大正十五年の大学卒業で、柔道部の創設が大正九
年であったから、部の草創期の先輩であった。先生在学当時の部の師範であった三船久蔵先生は講道館
の至宝と言われた最高実力者で、松尾先生は学生時代から三船先生をいたく尊敬しておられ、戦後の柔
道部員である私たち後輩のために、名誉師範として三船久蔵先生を招聘してくださったのである。三船
先生の謦咳に接し得たことは柔道修行者として最大の幸せであったと思う所以である。
﹁ 奥 妙 錬 心 に 存 す ﹂ は、 柔 道 の 道 の 奥 義 を 極 め る こ と も、 技 が 絶 妙 の 域 に 至 る こ と も、 稽 古
のひたすらな反復練習・鍛錬の行き着くところにあるのだから、大きな志を持って、倦まず弛
まず、稽古に励みなさいということである。柔道の道と術の神髄を究めるための全ては、一途
に勇猛心をもって精進すること、すなわち﹁勇猛精進﹂、ひたすら上を目指しての努力にある
という、三船十段の教えである。
この教えと全く一致することを、幕末の剣豪で北辰一刀流を編み出した千葉周作が、初心剣
術稽古心得に遺している。
﹃気は大納言のごとく、技は小者・仲間の如くせよ﹄、と言う言葉で
ある。つまり、修行は、志を高く持ち、技の習得は下働きの小者・仲間のように、まめに、忠
実に、こつこつと努力せよ、という教えである。
今年は、子年である。私たち日本人は、その年の干支に因んで、その年の努力目標を考え
る習慣がある。子はねずみ、鼠は休みなく動く習性をもつ。独楽鼠という言葉もあるが、弛
Ƚ
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みなく稽古に、学業に、懸命に精進・努力しなければなるまいと思うのである。
どこまで恵まれれば気が済む
﹁引き算﹂人生で落ち込む日本人
作家・曽野綾子さんが、平成二十年一月九日の産経新聞朝刊の正論欄に掲載したエッセイの見出しが、
﹃
﹁引き算﹂人生で落ち込む日本人﹄であった。日ごろ、曽野綾子さんの世の中を見る目の確かさと、簡
明な文章による説得力に敬服している私だが、この文章も私自身がこの頃の世の中の動きに不満を感じ
ていることを言挙げして、誤ったものの考え方を正しい方向に導こうとされる曽野さんの考えに賛同し
て、私の考えを加えながらここに全文を紹介することにした。
○
戦争もなく、食料危機もなく、学校へ行けない物理的な理由もないというのに、そして私流の判断
をつけ加えれば、今日食べるものがなく、動物のように雨に濡れて寝るという家に住んでいるのでもな
く、お風呂に入れず病気にかかってもお金がなければ完全に放置される途上国暮らしでもないのに、読
売新聞社が昨年十二月に行った全国世論調査では、三十、四十代では、自分の心の健康に不安がある、
と答えた人が四十%にも達していたという。
︻人間三十代・四十代は人生の花盛り、働き盛りである。その時を、まともに生きようとする意
欲をもたないでどうするのだろうか。恵まれた現状に感謝する心があれば、生き甲斐も、働く意
欲も、負けん気も、生まれる。何不自由なく生活できる日本に生きていて、今をもてあますとい
うことは、甘えきったもの言いだと言うほかに、言葉がない。
︼
しかも多くの人たちが、不安の原因を仕事上のストレスと感じているという。ストレスは自我が未完
成で、直ぐに単純に他人の生活と自分の生活を比べたり、深く影響されるところに起きるものと言われ
る。ストレスは文明の先端を行く国に多いと私は長い間思いこんでいたが、まだ残っている封建的社会
Ƚ
ȽȁIJķȁȽ
Ƚ
にも実はあるのだと或る時教えられた。社会の常識が許しているというので夫が複数の妻を持とうとし
たり、同族の絆の強い共同生活に耐えようとすると、それがやはりストレスになるという。
︻ストレスのない生活などあるわけがないだろう。ストレスをストレスと感じないような精神力
を養うために本を読んだり、しかるべき人の話を聞いたりして世の中のことを、勉強することで
ある。何もしないで、誰かに何とかして欲しいなどという甘え根性は捨てなさい。身も心も鍛え
れば強くなる。年相応に世の中のことを知るための努力・勉強をせよ。
︼
私は昔から、自分の弱さをカバーするために、いつも﹁足し算・引き算﹂の方式で自分の心を操って
きた。健康で、全てが十分に与えられて当然と思っている人は、少しでもそこに欠落した部分ができる
と、もう許せず耐えられなくなる。私が勝手に名付けたのだが、これを引き算型人生という。それに反
して、私は欠落と不遇を人生の出発点であり原型だと思っているから、何でもそれより善ければありが
たい。
︻と考えるのが足し算型の曽野さんの価値観だ。同感です。真似をしなさい。︼
食べるもの、寝るところ、水道、清潔なトイレ、安全正確な輸送機関、職業があること、困った時相
談する場所、ただで本が読める図書館、健康保険、重傷であれば意識がなくても手持ちの金が一円もな
くてもとにかく医療機関に運んでくれる救急車、電車やバスの高齢者パス。何よりも日常生活の中に爆
ぜいたく
発音がしない。それだけでも天国と感じる。それが足し算型人生の実感だ。これだけよくできた社会に
生まれた幸運を感謝しないのは不思議だと思う。
︻全くです。恵まれ過ぎていることに慣れきって、不満を感じることを贅沢というのです。︼
しかし人間は、教育し鍛えられなければ、このように思えない。子供は幼い時から悲しみと辛さに耐え
るしつけが必要だ。平等は願わしいものだが、現実として社会はまず平等であり得ない。しかし不平等な
才能があちこちで開花している。それなのに完全な平等しか評価しない人間の欲求は、深く心を蝕む。
︻努力した者と、努力しない者とが、平等では、おかしかろう。それを悪平等というのです。
︼
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叱る先生は父兄に文句を言われるから﹁生徒さま方をお預かりする営業的塾の教師﹂のようなことな
かれ主義になった。何か事件があると、マスコミは校長や教師を非難するが、子供の成長に誰よりも大
きな責任を有するのは、他ならぬ親と本人なのである。生活を別にしている教師など、子供の生活のほ
んの一部を見ているに過ぎない。
︻あなたの子供とあなたの人生はあなた方が主役です。あなたの子供とあなたは親子なのですか
ら一生行動を共にしなければならない不離一体の関係なのです。教師は、あなた方と何時までも
一緒には生きられない。教師は一時の助言者です。不可分な関係だなどと無理な要求はしないこ
とです。無理なことを言って、それが通れば道理が引っ込みますから、世の中がおかしくなるの
です。
︼
躾る親も少ない。子供たちは叱られたことも、家事を分担させられたこともない家庭が多いという。
親たちも享楽的になって、来る日も来る日も家庭で食事を用意するという人間生活の基本をみせてやる
親も減ったと言うから、人格を作る努力や忍耐の継続が生活の中で身につかない。だからいつまで経っ
ても、自分は一人前の生活をできる存在だという自信もつかない。この自信のなさが、荒れた性を生む
のである。
︻子を正しく導くには、親が正しい考え方ができなくてはなりません。ときには子を叱ることが
必要です。叱って正しく教え導くのです。これを叱正といいます。叱れる親になりなさい。叱り
上手な親になる。そして叱られ上手な素直な子を育てなさい。教師も勇気を持って叱りなさい。
教師と、親と、子の関係は、甘えない、甘やかさないことが大切。︼
何 よ り 怖 い の は、 子 供 た ち が 本 を 読 ま な い こ と だ。 つ ま り 自 分 以 外 の 人 生 を 考 え た こ と も な い 身 勝
手な意識のままの大人になる。本の知識はテレビやインターネットの知識とは違う。
︻考える力を養いなさい。愛にもいろいろあって、読書をすれば、自愛が他愛を生み他愛が博愛
に発展することが分かる。学びなさい。学べば、勇気・忍耐・勤勉、いろいろなことが分かる。
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﹁吾思う故に吾在り﹂、これが人間の考える力を生むのです。
︼
戦 後 教 育 は﹁ 皆 い い 子 ﹂ と 教 え た。 と こ ろ が 人 間 性 の 中 に は、 見 事 さ と 同 時 に 底 な し の 残 忍 さ も 共 存
し て い る。 こ の お ぞ ま し い 部 分 を 正 視 し て そ れ に 備 え て い な い か ら、 思 い つ き で 人 を 殺 す。 た ぶ ん 罪
を 犯 し た こ じ つ け の 言 い 訳 だ け は ち ゃ ん と 自 分 の 中 に 用 意 し て い る の だ。 今 は D N A 鑑 定 に も 何 故 か
黙 っ て い る が、 昔 は 指 紋 登 録 だ け で も 人 権 侵 害 だ と 言 っ て 大 騒 ぎ し た 人 た ち が い た。 言 う こ と の 筋 が
通らない。
人間は自分のためだけでなく、人のためにも生きるものだという考えは、すべて軍国主義や資本主
義の悪に利用されるだけだ、と言う人は今でもいる。人は自分独自の美学を選んで生きる勇気を持ち、
自分の意思で人に与える生活ができてこそ、初めてほんとうの自由人になる。
受けるだけを要求することが人権だなどと思わせたら、今後も不安と不幸に
苛 ま れ る 人 は 増 え 続 け る だ ろ う。 今 年 は 政 治 や 社 会 が そ の こ と に 気 づ く か ど
うか。
︻ 人 の た め に な る 生 き 方 こ そ が、 一 人 前 の 人 間 の 生 き 方 で す。 そ の た め に
は、まず、私欲から離れること。無欲になって人につくすことを考えなさい。
利 他 が 考 え ら れ れ ば、﹁ 自 他 共 栄 ﹂ が 人 の 道 だ と 分 る で し ょ う。 本 校 の 校 訓
︵理事長・学校長︶
た く ま し く、 直 く、 明 る く、 さ わ や か に、 を 正 し く 理 解 し、 素 晴 ら し い と
思 っ て く だ さ い。 そ し て 人 間 と し て 正 し く 生 き る た め に 校 訓 の 教 え を 実 践 し
なさい。︼
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ȽȁIJĺȁȽ
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私の育った小・中学校時代︵戦中・戦後︶その三
石
塚
透
めた気持ちは感じないままの移動であった。とはいえ三キロ
メートルの道を何回も休みながらの搬送である。現在と大き
昭和二十年八月十五日、国富の四分の一を失い太平洋戦争
は終わった。私は小学校の四年生であった。その時までの軍
子以外の校具は、当然のことだが生徒だけでは不可能で、荷
であったのだが、搬送が完了したのは夕方であった。机・椅
き来するわけでもなく交通事故の心配は全くないということ
中学校入学への準備
国日本の少年たちは、軍人になることだけを考えていて、私
馬車を使ったということも、時代を感じさせることだった。
く違うところは、道路が砂利道であること、更に自動車が行
も子供心に海軍兵学校に進むことを考えていたのだが、その
中学校生活のスタート
夢は消え去った。戦後社会の混乱の中、昭和二十三年三月、
に小学校の課程を修了した。卒業式を前にして、自分たちが
毎日使っていた机と椅子を半日かけて綺麗に雑巾をかけ、新
た中学校校舎だったので、山林の伐採から校舎の完成までの
とっては、六年間毎日通学していた小学校の途中につくられ
ト ル 離 れ た 地 に、 山 林 を 切 り 開 い て 新 築 さ れ て い た。 私 に
机と椅子の中学校への搬送は、卒業式の翌日に上級生たち
と一緒に行った。中学校の校舎は、小学校から約三キロメー
ていたが、川沿いに進めば遊水池には容易に行くことができ
学校の建設当時は葦が生い茂り、船での通行はできなくなっ
で、遊水池に船で乗り入れすることができたという。実際中
は、直接江戸から江戸川・利根川・渡良瀬川・巴波川と繋い
された当時の中学校は遊水池と地続きであった。江戸時代に
渡良瀬遊水池を中学校から見下ろすことはできないが、建設
築なった中学校に運ぶ準備をした。
工程を、自宅からの登下校の途中に寄り道しながら見知って
部屋村立部屋中学校は平地林を切り開き、神社に隣接した
高台の地に建設された。現在では南方に大きな堤防が造られ
いたから、中学校への机、椅子の運び込みには新鮮な張りつ
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た。遠い昔、神社付近は船着き場であって人の往来も盛んで
なる。生活困窮状態に追い込まれたどの家庭も、食料を確保
かとなると、飢えをいかにして解決して行くかということに
たいという言葉どおりの状態であった。
するための労働力の確保を図ることが先決で、猫の手も借り
あったという。
建設された中学校校舎は、中央に正面玄関があり、その両
隣に校長室・職員室、宿直室・事務室をおき、東西ともにそ
の先に五つの普通教室が配置されていた。また、校舎の北側
ス担任としてご指導いただいた。私は一組でS先生のクラス
三名の先生は、クラス替えが一度もなかったので三年間クラ
道の有段者で教職の経験を持つS先生の三名であった。この
学年の担任としてご指導いただいたのは、大学を卒業した
ばかりのC先生、学徒出陣で帰ってきたばかりのT先生、剣
が、鍬の持ち方、鎌の使い方等、何もかも未経験のものであ
作物の生育については爺やに教われば理解することはできる
は、主婦が片手間でできるほど生易しいものではなかった。
こ で 作 男 の 爺 や と 一 緒 に 農 業 を 始 め た の で あ る。 農 業 労 働
職にあった父の給料だけで生活することはできなかった。そ
許さなかった。農地改革と食糧難によって、新制中学校長の
そのため農繁期になるとクラスの半数の生徒が欠席するこ
ともあった。学校は数日間、農繁期の休みを取り、家庭の手
だったが、先生は何事にも熱心に取り組み、生徒と共に汗を
り、手に豆を作りながら土と戦っていた。しかも生まれなが
伝いをさせる措置も取っていた。私の家もまた他聞に漏れな
流してくれる先生であった。真新しい校舎は、何度か水没し
らの華奢な身体は、労働には不向きで、少し無理をするとす
には用務員さんの家族住宅と倉庫があった。一年生は東側の
てぎくしゃくした小学校の校舎に比べ、これが学校だという
ぐに床についてしまった。床につくと母の兄は医者を開業し
三教室、二年生は中央の教室、三年生は西側の教室に入り、
体裁を整えていたが、設備は何もなかった。またグランドも
ていたので大きな鞄を提げて、人力車に乗ってブドウ糖の注
いということであった。母は医者の家に生まれ、草取りひと
グランドとしての体裁を整えていなかった。ただ一つ、グラ
昇降口も東西別々に分けられていた。
ンドになる敷地の東端に、鉄棒だけがぽつんとあったが、な
射をしにくる。帰り際に必ず﹁無理するな﹂といって帰って
族の長としての覚悟を自覚させたかったのかも知れない。長
ばと思うようになっていた。母は私に長男としての自覚、一
よく分かり、床につく度に、少しでも母の手助けをしなけれ
行く。子どもの私にも、母が無理をして農作業している姿は
つせずに育ったというが、時代は何もせずに生活することを
んとも違和感のある光景であった。
厳しい食糧事情
戦後の食糧難は、学校で友と机を並べて学習活動をする余
裕を与えてはくれなかった。生きるためにまず何をなすべき
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守がちの夫を助けて立ち働く姿が私に母の手伝いをしなけれ
け頑張らなければと思うようにもなっていた。病弱な母が留
と思っていた。反面、長男であるがゆえに、すすんで母を助
ことで自覚させられた。私は長男とは何と損なものであるか
理をはじめ、分家の叔父と行う山林の巡回など、いろいろな
男 で あ る こ と の 覚 悟 は、 小 学 生 の 時 か ら の 墓 地 の 清 掃・ 管
て行くのである。
に 変 化 さ せ て く れ た が、 そ の 社 会 も し だ い に 溶 解 し は じ め
が 濃 厚 で あ っ た。 し か し 経 済 の 成 長 は、 住 民 の 生 活 を 豊 か
配 し て い た。 ま た 共 同 体 を 構 成 し て い る 住 民 に は 帰 属 意 識
あ る 種 の 豊 か さ が あ り、 ゲ マ イ ン シ ャ フ ト 的 な 雰 囲 気 が 支
て て く れ た の で あ る。 そ し て こ の 時 代 は、 貧 し さ の 中 に も
は、 家 族 の 繋 が り や 結 束 を 生 み、 い た わ り 慈 し み の 心 を 育
る。加えて当時の生活の苦しさは、村落共同体社会の人の繋
なりにも真直ぐな生活を送ることができたのかとも思ってい
することになったのか、私は横道にそれることなく、まがり
くれた。このような母の子どもへの思いが、私の行動を規制
れたし、子供達が寝るまで茶の間で針仕事をして待っていて
ると必ず十時頃には﹁お茶ですよ﹂と言って、茶を入れてく
クが取れたというグランドであった。そして運動場の南側に
て木の根につまずくこともあり、ただ二百メートルのトラッ
れた。トラックといってもただの平地で、体育活動をしてい
そのような中にも、二百メートルのトラックが翌年には造ら
で音楽室、家庭科室、美術室等はなく、体育館もなかった。
て進まなかった。教室は、ホームルームを行う普通教室だけ
中学校生活がスタートしても社会の混乱、経済の疲弊は依
然として続いていた。新制中学校の設備の充実は、遅々とし
楽しかった部活動
ばと感じさせたのだろうが、母はいつも凛としていた。いつ
床につき、いつ起きるのかも分からなかった。床についてい
るのは、病気で水枕をし、額に氷のうを乗せている姿しか見
がりが子どもたちを横道にそれることを許さなかったのかも
は、高低の異なる鉄棒が二つほど新しく追加された。
たことがなかった。貧しい生活の中でも、私が勉強をしてい
しれない。下校時に寄り道をして遊んでいると、誰というこ
ほ ど 農 村 で は 労 働 力 を 必 要 と し て い た の で あ る。 私 も、 母
る と 家 の 手 伝 い を す る こ と が 当 た り 前 に な っ て い た。 そ れ
え な か っ た。 当 時 の 遊 び は 小 学 校 の 時 ま で で、 中 学 生 に な
自 分 の 家 に も 状 況 報 告 的 な も の が あ っ た の で、 帰 ら ざ る を
ても、顧問の先生がいるわけでもなく、今行われているよう
真っ先に活動を開始したのは野球部であった。部活動といっ
ある。そして放課後には、部活動も行われるようになった。
でなく、級友と共に体育的な運動ができるようになったので
凹 凸 が あ り 貧 弱 で は あ る が、 ト ラ ッ ク の 完 成 に よ っ て 体
育活動がスタートした。ツルハシやシャベルを持っての授業
となく﹁早く帰りなさい﹂と叱責の声がかかってきた。また
の 手 伝 い を 良 く し た と 思 っ て い る。 生 活 す る た め の 苦 し さ
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種目の部活動も結成され愛好者によって練習が開始された。
参加してきていた。三年生になると野球以外にもいくつかの
バーは三年生が中心であるが、顧問の先生もときどき活動に
た同好会的な活動であった。私も早速活動に参加した。メン
な正式な部活動ではない。どちらかといえば先輩を中心とし
くるサーブは、驚異的なものであった。校長先生は、ラリー
練 習 を 見 て く れ て い た。 背 筋 を ぴ ん と 伸 ば し 打 ち 下 ろ し て
し く 練 習 に 励 ん だ。 校 長 先 生 は、 一 週 間 に 一 回 位 の 割 合 で
で き た も の だ と 思 う。 そ れ で も 生 徒 達 は 額 に 汗 し な が ら 楽
で あ る。 よ く ぞ 球 が 相 手 の コ ー ト に 飛 ん で い き、 プ レ ー が
卓球は、二年次の夏休み前に卓球台が一台購入された。練
習場所は生徒昇降口で、女子が主に練習をしていた。私は、
を 続 け な さ い、 サ ー ブ は 正 確 に 入 る よ う に と い う こ と を 繰
雨の日に友と遊びでゲームをしていて入部を勧められ試合の
り返し指導していた。
名前後なので、計算の上ではどの部活動も毎日の活動に支障
時だけ出場する部員となった。実にいい加減といえばいい加
私は母の手伝いをしなければならないので、毎日練習をする
はないはずだが、世の中の経済状態は依然として厳しく、ど
減な活動であった。もっとも、当時の部活動はそういうもの
野球部から、活動が他の部に比較して自由なテニス部と卓球
こ の 家 庭 で も 子 ど も の 労 働 力 を 必 要 と し て い た の で、 練 習
見えていた。母の話では、陸上競技で旧制の中学校時代、選
あった。校長先生は母の遠縁にあたる人で、私の家にもよく
つ は、 校 長 先 生 が テ ニ ス の 指 導 を し て く れ る と い う こ と で
私がテニス部に入部した理由は二つあった。一つは、父が
戦前に使っていたラケットが家にあったということ。もう一
くという本来の目的にはほど遠い部活動であったが、友との
とは中学校生活を楽しくしてくれた。活動を通して人間を磨
つの競技だけでなくいくつもの競技に参加して汗を流したこ
接の学校に出かけていったが観戦が主体であった。しかし一
る。テニス、卓球、陸上競技などは地区の大会が組まれ、隣
技に参加した。対等に戦うことのできたものは野球だけであ
部に入り身体を動かした。学年はどの学年も在籍者は一五〇
に必要な部員の確保ができず、活動も毎日行うことはできな
であった。だから他校との合同練習試合が組まれると急遽、
手として大活躍していたということであった。スポーツマン
友情は大きな宝となった。
選 手 の 選 考 が あ っ て 出 て 行 く の で あ る。 私 も い ろ い ろ な 競
かった。
らしくいつも颯爽としていた。先生は現在の美田中学校近く
昭和二十一年に郷土を襲った大洪水は、輪中に暮らす住民
学習の厳しさ
に家があって十キロメートルの道を自転車で学校に通って来
ていた。練習はユニークというか、プレーというにはお粗末
すぎるものであった。コートに白線を棒で引き、ネットは木
の枠を規定の高さに切ったものを一列に並べてプレーするの
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のである。
した。景気は確実に好転し村人の生活を豊かにしつつあった
ない進学状況であったが、私達の学年は一割五分の者が進学
一級上の先輩達は、定時制の高校をも含めても一割にも満た
高校へ進学する生徒の数からも理解することができた。私の
うには行かなかった。しかし確実に好況に転じていることは
もなう特需もあったが、生活が目に見えて一変したというよ
として生活は厳しかった。昭和二十五年朝鮮戦争の勃発にと
境の整備が行われ、徐々に回復の方向に進行していたが依然
に大きな被害を残した。時が経つと共に田畑の整理やや住環
も、二年次よりも活発に行われた。しかし、夏休みが終わり
少しずつ回復し、経済的にも安定してきたのである。部活動
が、三年になると欠席がぐんと少なくなった。社会の混乱も
年次までは、クラスで五名前後の者が長期の欠席をしていた
ら、欠席者が少なくなってきたのも大きな変化であった。二
たことを知り少なからず驚いた。授業の変化もさることなが
た こ と で あ る が、 ど こ の 中 学 校 で も 英 語 の 授 業 を 受 け て い
見識に敬意を表していた。しかし高校に入学してからわかっ
習が行われた。この措置に母などは大変喜び担任の先生達の
に は 必 ず 重 要 な 教 科 に な る と い う こ と で、 半 ば 強 制 的 に 補
とする私には大変嬉しいことであった。これまで音楽だけは
についての説明などが取り入れられた。歌うことを大の苦手
では、歌唱以外にモーツァルトや滝廉太郎等の作曲家や音符
その代表的なものが音楽と家庭の授業であった。音楽の授業
の入試に対応できる授業が展開されるようになっていった。
科、八科目で行われることになっていた。そのために高校へ
学 校 の 授 業 も、 一・二 年 の 時 と 少 し ず つ 変 わ っ て 行 っ た。
当時、高等学校の入学試験は中学校で履修している総ての教
いたと思う。指導は男女一緒の指導であったが、帰路はそれ
先 生 の 宿 直 当 番 は、 一 週 間 に 大 体 一 回 位 の 割 合 で 行 わ れ て
何回か取りながら十一時頃まで指導を受けることもあった。
希望者を抱えていた。一二名は、担任の先生を囲み、休憩も
した一組は、三クラスの中で一二名と一番多くの高校進学の
採ってから、先生が指示した時刻に集まるのである。私が属
外 は 担 任 の 先 生 が 主 に 宿 直 の 時、 夕 ご 飯 を そ れ ぞ れ 自 宅 で
望者に対する特訓課外が十一月の終わり頃から始まった。課
運動会や各種の行事が終わると、高校入試に向けての進学希
どうしても評価三以上をとることはできなかったが、ようや
ぞれの方向に一緒に自転車を併走して、女子生徒を自宅まで
り、二年次と三年次の教科書を中心に学習した。先生自身の
特 訓 課 外 は、 国 語・ 社 会・ 数 学・ 理 科 の 四 教 科 が 中 心 で
あった。先生の教卓を囲んで半円を描くような形に座席をと
送って行った。
く五の評価をとることができるようになった。
務づけられた。高校の入学試験科目は、音楽・家庭も加えた
もう一つ、六時間の授業が終わってから高校進学を希望す
る者には、英語の補習を週一時間の割で受けることが半ば義
八科目で、英語は入試科目ではないが高等学校に進んだとき
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席するようになっていた。高校への進学は私にとっては至極
の特訓課外に、最初こそ完璧に出席していたが、少しずつ欠
指導は親切で、とことん理解するまで教えてくれた。私はこ
顔ではずいぶん違っていた。特に間違いを多く持つ生徒への
えてくれた。先生の授業中に見せる顔と、特訓課外で見せる
ほやほやであったが、私達のために労を惜しまずとことん教
点で正解を出してゆくやり方を採った。担任のS先生は新婚
が受け取った問題を受講者が解答し、全員ができあがった時
教科の指導もあったが、前もって教科担当者から担任の先生
できないのは、実に寂しい限りである。
沼、菅沼に宿泊するが、奥日光に行かなければ眺めることが
当 時 の よ う に は 行 か な い。 中 学 校 の 体 験 学 習 で 奥 日 光 の 丸
のである。現在では、早朝にしか星座を見ることができず、
星等々を目印にして一・二等星を中心に頭にたたき込んだも
本を片手に天空を見上げると、オリオン座、双子座、北斗七
心に銀漢冴えて天空を照らし、星座の勉強にはこの上ない。
の勉強にはこの上ない状況を創り出してくれる。北極星を中
なかなか進まないのである。良いこともあった。西風は星座
られることは度々あったが、学習活動での注意はなかったの
あった。小学校の時から友達を殴ったり、いたずらなどで叱
を聞かれ、大変強く叱られた。私はただただ赤面するのみで
である。ある時、担任の先生から別室に呼ばれて欠席の理由
らといって特別なことをするという意識にはなれなかったの
あるという感じしかもっていなかった。その結果、受験だか
る者はいなかったのである。高等学校は中学校の延長線上に
どの叔父や叔母の家庭を見ても義務教育の課程だけで修了す
で農業を、それ以外は家を離れて外に出て行くというのはご
のである。当時の経済状態を考えれば、長男は親の跡を継い
れ育った郷里を離れていくのは見送る側にとっても寂しいも
胸をふくらましている様が多く見られるようになった。生ま
で、卒業と同時に行くであろう企業の資料などを友に見せ、
とになる。いよいよ別れの時期になると教室のあちらこちら
は半々であった。半数の者は生まれ育った村を離れていくこ
進学を希望する者と、家の手伝いのため村に残る者との比率
冬休みも終わり、三学期がスタートする。一番の話題は進
路の決定である。クラスメート五十名の進路は上級学校への
当然で、改めて意識するということもなかった。というのも
で深く反省させられた。そして注意を受けてからは休むこと
く自然ななりゆきで、村落共同体の色彩が色濃く残っていた
授業は、すでに進路先の決定などもあって実の入らないこ
ともあったが、大きな問題もなく進行した。特別課外も淡々
よ、錦を飾って故郷に戻れと祈るのみである。
当時にあっては致し方ないことであったのかもしれない。友
なく出席した。
その課外も冬になり木枯らしが吹き始めると大変である。
木枯らしの吹く中を自転車を走らせて行くのは、中学三年生
おろし
という若さでも一苦労である。特に私の家は中学校の西側に
あるので、まともに赤城・男体颪の風を受けると、自転車も
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と 行 わ れ た。 そ し て 卒 業 式、 高 校 入 試 へ と 進 行 し た。 入 試
の結果は、クラスメート全員が希望校に合格した。他クラス
では数名の不合格者が出たが、熱心に担任の先生方が指導さ
れたので前年度と比較してみると大変な好結果であった。こ
の学年は、中学校に入学してから卒業まで一度もクラス替え
もなく、さらに担任の先生も変わらないという珍しいクラス
編成であったので、どんな結果となるか不安に思われていた
が、有終の美を飾って終了した。
担任のS先生は、後で分かったことだが相当の不安を持っ
て学年リーダー、担任をしていたようである。三カ年同一ク
ラスの担任・リーダーとして持ち上がり、卒業生を出すとい
うことは、良くも悪くも力量を問われることであると認識し
ていたようである。重ねて、入試に望む姿勢としては、やり
過ぎるということはないのだと語っていた。努力に比例して
自信がつくものである。そして自信は、平常心となって落ち
着きを取り戻すという。S先生・剣道五段の言である。
人の出会いは、人の生き方を左右するといわれる。私はこ
の世に生を受けてから、たいへん人に恵まれてきたと思って
いる。小学校の時の担任の先生もさることながら、中学校の
長 と い う 立 場 で、 生 徒 募 集 等 で ご 指 導 ご 協 力 を い た だ い た 。
S先生には本校に勤務するようになってからも、公立中学校
︵中学校長︶
人に恵まれ、人の愛に支えられて現在まで来たことをしみじ
みと日々感謝している。
Ƚ
ȽȁijķȁȽ
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︵2︶
徹
登山隊を派遣したのは平成八年の第一次インドヒマラヤ・ヌ
集してカラコルムのマッシャーブル︵七八二一メートル︶に
第五次の派遣は平成十九年夏、本協議会が創立以来今日ま
で積み重ねてきた登山活動の実績を礎に本協議会の総力を結
リザードに襲われて登頂を断念、撤退を余儀なくされた。
︵3︶
向かった。しかしC2まで登ったとき天候が急変し猛烈なブ
に備えベースキャンプに戻り英気を養って、頂上アタックに
ル︶であった。極めて順調に最終キャンプC3を設営、登頂
︵1︶
八千米峰、ネパール・中国領のチョーオユ︵八二〇一メート
撤退。第四次の派遣は、平成十七年本協議会として二度目の
ク︵六四七三メートル︶は頂上直下に達しながら濃霧のため
赤
マッシャーブルム登山遠征について
海外登山遠征の経緯
私 の 所 属 し て い る 栃 木 県 南 地 区 山 岳 協 議 会︵ 以 下 本 協 議
会︶は、昭和五十年に県南地区に在って栃木県山岳連盟に加
盟している九団体をもって創立された協議会である。
海 外 登 山 に つ い て は、 平 成 七 年 頃 ま で は 個 人 の 立 場 で 他
の山岳団体組織の海外登山研究会あるいは遠征登山に参加
ン峰︵七一三七メートル︶であったが、頂稜七〇二〇メート
派遣することを決定したのである。
していた。時代が下って、本協議会が主催して最初に海外に
ルに到達しながら悪天候による時間切れのため撤退。第二次
た。第三次の派遣は、平成十五年ネパールヒマラヤのアイラ
あ っ た。 そ の 栄 誉 を 称 え ら れ 読 売 ス ポ ー ツ 奨 励 賞 を 受 賞 し
県内山岳団体としては八〇〇〇メートル峰初登頂の快挙で
〇三五メートル︶で、好天に恵まれ七人が登頂に成功、栃木
果医師から秘境の山岳へ行くのはいかがなものかと言われた。
ことでオーバーワークとなり、今年の春健康診断を受けた結
くりなどのトレーニングに励み遠征に備えた。ところがその
ることにした。従って二年前の計画発起から意欲的に体力づ
私は第二次と第五次の実行委員長を務めた。特に今回は隊
員の一人として参加する予定だったので総隊長をも引き受け
派遣は平成十三年のカラコルム・ガッシャーブルムⅡ峰︵八
ンドピーク︵六一八九メートル︶で、一人が登頂。メラピー
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夢にまで見、楽しみに心躍らせていたのに残念至極であった
が健康上の理由から参加を辞退した。
この稿はその遠征の活動状況をまとめたものである。
マッシャーブルムという山
マ ッ シ ャ ー ブ ル ム は パ キ ス タ ン 国 バ ル テ イ ス タ ン 地 方、
レッサーカラコルムの最高峰、マッシャーブルム山脈のマッ
シャーブルム山群。K2︵世界第二位の高峰︶の南西三十二
キロメートル。標高は北東峰七八二一メートル、南西峰七八
〇六メートル。バルトロ氷河左岸のマンドゥ氷河、イェルマ
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ネンド氷河とフーシェ谷源頭に聳える双頭の独立峰である。
一八九七年インド測量局によって測量され、カラカルムの頭
文字と測量番号の1をとってK1と命名された。山名はサン
スクリット語で最後の審判日の峰というが、黒い山の意とも
いわれる。またマッシャーを貴婦人または女王の意だという。
登 頂 記 録 に は 一 九 六 〇 年 ア メ リ カ・ パ キ ス タ ン 合 同 隊
の 初 登 頂 以 来、 日 本 人 と し て は 一 九 八 三 年 京 都 岳 人 ク ラ
ブ、一九八五年関西カラコルム登山隊のみである。
世界の山岳や登山技術について調査研究し本邦登山界に多
大な貢献をしている日本ヒマラヤ協会理事長山森欣一氏に本
︵4︶
協議会がマッシャーブルムに登山隊を派遣することになった
と話をした。氏は言下に赤塚さん高所遠足とは違う厳しい山
であるから心して取り組むようにとのアドバイスを受けた。
広義のヒマラヤ山脈のなかでもこのマッシャーブルムは標
マッシャーブルム附近概念図
高において八〇〇〇メートルに満たないが、多くの装備を担
ぎ上げ独自にルートを切り開き、雪崩などの危険と接しなが
ら頂上を目指すのである。それゆえにヒマラヤの高峰を目指
す登山家にとっては魅力に満ちた人跡の極めて少ない秀峰と
言える。世界各国の実力ある登山隊が挑戦し、なかなか登頂
させてもらえない登頂難度の高い山である。
計画の概要
トレッキング隊
田中孝介隊長以下十名
平成十九年六月八日∼八月三日
総 隊 長
赤 徹
登山隊長
粂川
章
登 山 隊
隊長以下四名
トル︶東南壁ルートからの登頂
マッシャーブルム北東峰︵七八二一メー
一、登山隊の名称
栃木県南地区山岳協議会
マッシャーブルム登山隊二〇〇七
栃木県南地区山岳協議会
二、主
催
三、目
的
四、隊の構成
五、期
間
登山隊日程
六月
八日 成田∼イスラマバード
︵5︶
九日
ブリーフィング
十一日
イスラマバード∼チラス
十二日
チラス∼スカルド
十四日
スカルド∼フーシェ
十八日
キャラバンスタート
十九日
ベースキャンプ地
二十日
ベースキャンプ設営
二十一日
登山活動開始・セラック氷河
ルート工作
七月
二日
ABCキャンプ設営
七日
C1設営
十一日
C2設営
十五日 アタック活動開始
二十四日 登山活動終了
二十六日
ベースキャンプ撤収∼フーシェ
二十八日
スカルド∼イスラマバード
トレックⅠ隊員六名
八月
三日
イスラマバード∼成田
トレッキング隊日程
六月
三日
成田∼イスラマバード
二十日
マッシャーブルムベースキャンプ
二十八日
ナンガパルバットベースキャンプ
三十日
ラカポシ・ディランベースキャンプ
七月
二日
カリマバード∼イスラマバード
六日
イスラマバード∼成田
トレックⅡ隊員四名
七月
十六日
成田∼イスラマバード
二十二日
マッシャーブルムベースャンプ
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二十八日
ナンガパルバットベースキャンプ
八月
一日
チラス∼イスラマバード
下野新聞社
株式会社とちぎテレビ
栃木ケーブルテレビ
三日
イスラマバード∼成田
六、後援団体
栃木県山岳連盟
栃木市体育協会
七、登山隊装備
共同装備
︵6︶
︵7︶
幕営用具
テント九張、コッヘル三台、ガスコン
ロ四台、他二一品目
登攀用具
フイックスロープ七〇
メインロープ三本、
︵8︶
本
︵長さ五〇メートル︶
、
スノーバー五〇
︵9︶
イル二本、
カラビナ二五個、
他一〇品目
本、
アイススクリュー一〇本、
アイスバ
通信機器
トランシーバー三台、衛星携帯電話一
台、充電用ソーラーパネル一台、携帯
ラジオ一台
食
糧
ベースキャンプの食事はすべてパキス
アミノバリュー、ポカリスエット、ゼ
リー、チーズ、ソーセージ、のど飴他
一二種類
医療薬品
携帯
医療機器 緊急用酸素ボンベ三本、
用 パ ル ス オ キ シ メ ー タ 三 台、体 温 計 等
剤、皮膚症状用剤、口内症状用剤、抗
薬 品 高 山 病 症 状 用 剤、 消 化 器 症 状 用
生剤、目薬、風邪薬等三二種類
個人装備は省略
総重量
一六〇〇キログラム
︵トレッキング隊は個人装備なので省略︶
八、登山隊員
隊長 粂川
章︵五五歳︶
渉外・会計担当
隊員 大内 一成︵六五歳︶
総務・食料担当
装備・梱包・輸送・医療担当
隊員
片柳
紀雄︵五八歳︶
記録・通信・気象担当
隊員
佐久間利美︵五三歳︶
隊員の構成は比較的高齢であるが国内の難度の高い山岳登
山は勿論バリエーションルートの登攀︵冬季初登攀の記録保
持者もいる︶そして全員が国外の八〇〇〇メートル峰あるい
タン人のコックが調理してくれる。
上部キャンプ食
︵ABCキャンプ・C1︶
主食
インスタントラーメン八〇食、ア
ルファー白米四〇食、アルファー五目
は七〇〇〇メートル峰登頂を経験している本協議会屈指の精
鋭である。
御飯四〇食、パスタ他六品目
行動食
カロリーメイト、ソイジョイ、
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登山活動の実際
粂川章登山隊長の記録をまとめたものである。
六月八日
晴
二時間遅れの午後四時、大勢の山仲間に見送られパキスタ
ン航空PIA八五三便、北京経由イスラマバード行きで成田
を 出 国。 機 内 荷 物 の 預 け 重 量 は 一 般 乗 客 が 二 十 キ ロ グ ラ ム
なのに登山隊は五十キログラムまで認められ得をした感じで
あった。インド上空を飛べばイスラマバードに早く着くのだ
が、インドとパキスタンはカシミール紛争で対峙している関
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係から殆ど中国上空をフライトした。イスラマバード空港に
は八日の午後十時過ぎに着いた。空港内は夜間ということも
あって人影はまばらで閑散としていた。ザックを受け取り宿
泊先のゲストハウスに直行した。
六月九日∼十二日
晴
パキスタンとりわけイスラマバードで一番暑い時期は五
月・六月で日中晴れると摂氏四五度くらいになるのが普通で
まさに炎熱地獄である。タクシーはエアコンが付いていない
のに日中でも窓を閉めて走る。空けておくと熱風で息がつけ
ないとのことである。走っている車のおよそ九十パーセント
は日本製の中古車だ。六年前に来たときよりも車の台数がふ
えていた。
ここイスラマバードの滞在は経費削減のためホテルに泊ま
らず廉価のゲストハウスにした。朝食は近くの売店でチャパ
マッシャーブルム山容
イスラム教のパキスタンでは男性の姿ばかりが目立ち女性は
ミネラルウォータ︵一・五リットル︶二十五ルピーであった。
チャパティは四枚で十八ルピー︵約二円︶
、
ジャム七十ルピー、
ティ・ジャム・ミネラルウォータなどを買ってきて済ませた。
現地の人に頼むとかあるいはポストに入れた場合、日本に届
るハガキは自分たちで郵便局に持って行き直接局員に手渡す。
間は晴れると暑いが夜は涼しく快適であった。日本に郵送す
テル・コンコルディアはインダス川を見渡せる地点にあり昼
を目指す登山隊の最終準備基地にもなっている。私たちのホ
マチュールに午前九時三十分着。この村で三時間ほどのんび
午前六時四十五分、最奥の村フーシェ︵三五〇〇メートル︶
を 目 指 し 出 発。 こ こ か ら は 道 路 が さ ら に 悪 く な る。 途 中 の
六月十五日∼十七日
雨時々曇り
かないこともあるから要注意である。
あまり見かけない。
滞在の二日間は登山装備の確認、特に医療用の酸素ボンベ、
マスク、付属部品を入念に点検した。十一日はレスキューヘ
リコプターの申請にパキスタン軍の事務所に行き事故、病気
など緊急のとき直ぐ出動してくれるよう依頼する。
操作が大変難しく気の休まる時がない。出発が遅れたことも
み舗装路面のあちこちに穴が開いていて、運転手もハンドル
中国の資金援助で整備されたものであるが、近年老朽化が進
ウエーを行く。川の流れは速く水は濁っていた。この道路は
を連ねて出発。道路はインダス川に沿って、カラコルムハイ
政府観光省とパキスタン山岳会でブリーフイングを受け、入
山準備が整い午前十時三十分、スカルドを目指しジープ三台
た。パキスタンの市街地ではほとんど男性の姿ばかりで女性
上が望めるはずだが、天気が下り坂になっていて見えなかっ
後一時三十分に着いた。晴れていればマッシャーブルムの頂
は仕事で不在のため会えなかった。フーシェは一時間後の午
学校を兼ねたゲストハウスを経営している。残念ながら本人
の時お世話になったハイポーター・オラム・フセインは登山
ルムⅡ峰登山遠征の帰途一泊した懐かしい場所でもある。そ
コットがたわわに実をつけていた。二〇〇一年のガッシャーブ
り休憩してその間昼食を摂る。麦畑が点在し収穫前のアプリ
あってスカルドまで行けず午後十時三十分、ダッソーに着く。
六月十二日∼十三日
晴
宿泊は地元の人が利用するインダス川沿いの安宿であった。
事をしている。男性は登山隊の使役︵ローポーター︶などで家
ド︵二五〇〇メートル︶でカシミール地方の中核都市である。
バコをふかして寛いでいる。ここから先の宿泊はすべてテン
を空けることが多い、家に居るときは仲間同士が集まってタ
性・子供が麦畑の草取りや用水路の水管理、薪集めなどの仕
を見かけることは稀であったが、フーシェなどの農村では女
六月十三日∼十五日 晴︵十四日午後雷雨︶
インダス川沿いの側壁に作られた道路を上り詰めると突
然草木のない荒涼とした広大な平地が広がる。そこがスカル
軍の基地、民間空港、大学、病院などもありカラコルム山脈
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ȽȁĴijȁȽ
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トを利用する。いよいよ山での生活が始まったなと実感する。
守などを指導するのである。
は富士山の頂上と同じ高度で生活しているので強靭な心肺機
ている一人当たり二十五キログラムの隊荷を背負うが、彼ら
ベースキャンプへはフーシェから二日間のキャラバンであ
る。ポーター六〇人を雇った。ポーター組合の協定で決まっ
めの充分な休養ができる場所でなければならない。またキャ
キャンプは高度の影響を受けず、厳しい登攀活動を行なうた
見据えて、その後の登山活動に最適な場所であった。ベース
ルムの頂上が見え、最初の難関であるセラック氷河を正面に
が見えない場所いわゆるモレーンに設営した。マッシャーブ
ベースキャンプは通常の地点より一〇〇メートル高い標高
四二〇〇メートルの氷河上に岩石砂などが堆積していて、氷
能と足腰をしている。高度順応の出来ていない私たち登山隊
ンプに居る隊員がいつもプリズム双眼鏡で仲間の動きを見守
六月十七日∼十八日
晴︵十八日晴のち雪︶
置いていかれて
りルートの偵察をすることができる位置でもなければならない。
は空身でも彼らの歩行にはついていけず
しまう。ベース
〇〇メートル以
パキスタンの
登山︵標高六〇
た。そのあと大内一成隊員が般若心経で登山活動中の隊員の
ム教方式の祈願をパキスタン人のキッチンボーイが執り行っ
本酒天鷹・心︶菓子など供えて祭壇を設えた。最初にイスラ
日本・パキスタン両国旗と登山隊旗を掲揚、正面に神酒︵日
ンプに駐在して
い。ベースキャ
肉はない。時々日本風料理、焼きそば、インスタントラーメ
ダルカレー、玉子焼き、チキンスープ、イスラム教なので豚
ベースキャンプの食事は現地で雇ったコック通称キッチン
ボーイの作ったパキスタン料理を食べる。主にチャパティ、
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ȽȁĴĴȁȽ
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キャンプからは
上の高山︶には
安全無事と登頂を祈願した。カラコルムの空は限りなく青く
六月十九日
晴
同国の法律に基
澄みへんぽんと翻る両国国旗は、これから展開する登山活動
ハイポーター二
づいてリエゾン
人を雇った。
オフィサー︵連
の前途を祝福するかのようであった。
午前八時、ベースキャンプ開きを兼ねた祈願祭を執り行っ
た。岩石を小高く積み上げ中央の高いところにポールを立て、
絡将校︶を同行
登山隊の法令遵
させねばならな
ベースキャンプ地
ンなども作ってくれる。我々日本人の好みに合った味付けで
午 前 四 時 デ ポ キ ャ ン プ を 出 発。 午 前 七 時 に ベ ー ス キ ャ ン
プの大内隊員と無線交信でABCキャンプ設営を誓ったがセ
七月五日
晴
とか乗り切ると目の前に深さ三〇メートル長さ五〇〇メート
ラックとクレバスの連続で複雑な地形に苦労する。そこを何
意外と旨かった
ベースキャンプから上は自分たちで日本か
ら持参した重量が軽く日持ちがして調理に手間がかからない
フリーズドライの米・野菜・ラーメン・餅などであった。
所では直接水は得られないから雪を溶かして水にする。テン
地となるABCキャンプ︵五二〇〇メートル︶設営が完了し
ることができた。午前十一時四十分、遂に頂上アタックの基
しかし必死の思いでルートファインディングを試み、なん
とかトラバースルートを見つけ出しスノープラトーの上に出
ルの大クレバスが行く手を阻む。
ト内ではコッヘルに雪を入れてガスコンロで加熱する。晴天
た。一〇日程度を予定していたが六月二十六日から雨と雪の
高所登山では何よりも先ず水を確保することである。炊事
は勿論のこと飲料水も多量に必要だ。水を作ることは登山活
の日には大きめのビニール袋に雪を詰めて太陽の熱で溶かす。
日が続き、結局十五日間かかってしまった。このことが後日
動の中で最も大切な仕事である。その方法を紹介しよう。高
ちなみに激しい登山活動を行なうために、一日の水の摂取量
ここの地形は三方向を雪壁に囲まれていて雪が降ると頻繁
に雪崩が発生していた。我々のテントは雪崩の通り路を避け
の登山活動に大きく影響することになる。
は一人およそ四リットルと言われている。
六月二十日
晴
本格的なルート工作に入る。今回ルート工作に用意した主
な装備は前述したようにテトロン製長さ五〇メートルのメイ
この南東壁の気温の特徴は、晴れた日中テントの中は摂氏
四〇度以上になるが夜中はマイナス摂氏一〇度まで下がると
て設営したため襲われることはなかった。
いう寒暖差の激しいところである。それゆえに健康管理も難
ン ロ ー プ 三 本、 同 フ イ ッ ク ス ロ ー プ 七 〇 本、 ス ノ ー バ ー 五
柔らかい雪壁はスノーバーを硬い氷壁にはアイススクリュー
〇本、アイススクリュー一〇本である。それらの用具を使い
を打ち込みロープを固定し安全を確保しながら、上へ上へと
七月九日
晴
しい。
しまうと展望がきかないためルート選定に苦労する。二ピッ
ルートを工作していくのである。大きな氷の壁の中に入って
チ位登っては行き止まり何度も引き返す。それにクレバスに
間から明け方にかけ雪面が凍結して堅くなる時間に合わせた。
ここからは地形が南東面のためルート工作は昼間雪面が解
けて柔らかくなり雪崩を誘発することから、気温が下がる夜
も注意しなければならない。特に表面が雪に覆われていて割
れ目が見えないヒドンクレバスには最も注意を要する。
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ȽȁĴĵȁȽ
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〇メートルのドームの雪稜に雪崩を避けられるルートを見つ
ち切ることにした。そのようなわけでC1までは標高差九〇
従って午前二時起床、三時頃から行動を開始し午前中には打
トル附近から表層雪崩が発生し粂川隊長の右横を落下して
く、さらに雪崩の危険も高く神経を使う。突然五八〇〇メー
掘り起こしに向かうがなかなかの大仕事で体力の消耗が激し
が降雪で五〇センチ位埋まってしまい粂川隊長、片柳隊員で
いった。一瞬ヒヤッとする。時計を見ると午前十時四十分で
けフイックスロープを張る。
を完成した。ドームを越えると再び三キロメートルくらいの
亡、一人行方不明、二人重傷を負うという遭難事故があった。
のC 2 ∼C3 間 で 雪 崩 が 発 生 し 国 際 隊 が 巻 き 込 ま れ 一 人 死
下 山 後 確 認 し た こ と だ が、 こ の 日 の 同 時 刻 に 六 年 前 に 県
南隊が登頂したガッシャーブルムⅡ 峰︵八〇三五メートル︶
あった。ここで作業を打ち切りC1に下る。
スノープラトー帯が続く。そこから約二キロメートル雪壁を
重傷者のうち一人は日本人で粂川隊長も会ったことのある登
氷河の中のセラックと違い見晴らしが良いので技術的には
かなり難しかったがルート選定に迷いはなかったので五日間
登った場所にC1を設営する。雪崩の危険もなく頂上も仰が
山家で世界八〇〇〇メートル峰十四座登頂を目指している竹
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の 予 定 が 三 日 間 で C 1︵ 六 一 〇 〇 メ ー ト ル ︶ ま で の ル ー ト
れる快適な場所である。四日間降り続いた雪も十八日には止
ぎる。しばらくの時が過ぎた。
来た。いずれの日にかかの絶巓に立ちたいとの感慨が胸をよ
K6、K7などカラコルムのあまたの名峰が目に飛び込んで
ガッシャーブルムⅠ峰∼Ⅳ峰、チョゴリザ、バルトロカンリ、
トロ氷河を隔てて、世界第二の高峰K2、ブロードピーク、
は じ め 明 日 か ら の 悪 天 候 が 予 想 さ れ た。 コ ル に 立 つ と バ ル
午前十一時、C2予定地︵六七〇〇メートル︶に登る。そ
こは北東稜コルの至近でもある。頂上を仰ぐと雪雲がかかり
七月二十日
晴のち曇り
C1、C2間はスノープラトーでは雪面が柔らかく登山靴
では膝まで潜ってしまうのでスノーシューを使うことにした。
内洋岳氏であった。
み久しぶりに快晴となる。ルートに張っておいた固定ロープ
セラック氷河内部ルート工作をする隊員
七月二十一日 雪
ター、キッチンスタッフなどにプレゼントして大変喜ばれた。
恵まれたとし
るには天候に
頂上に到達す
登ってみたが、
まま後世に残すことは我々人類の義務であると思う。登山で
缶は潰してスカルドの町まで下ろした。大自然を太古の姿の
持参した焼却炉で燃やし残った灰は穴を掘って埋めた。空き
で周りより一メートルほど高くなっていた。ゴミは日本から
の張ってあった場所は一度場所を移動したのに氷は溶けない
長い間世話になったベースキャンプの撤収準備作業をする。
ベースキャンプ地は氷が溶け二メートル以上沈んだがテント
七月二十四日
晴一時にわか雨
ても最低あと
大切なことは後始末であることは言をまたない。
東南壁に
戻り六七五〇
三日はかかる。
メートルまで
苦労してここ
開いたのに残
イスラマバード空港午後八時発パキスタン航空で帰国の途に
七月二十八日
スカルド∼チラス、二十九日
チラス∼イ
スラマバード、八月二日まで、イスラマバードに滞在。同日
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までルートを
念無念である
つく、八月三日
成田着
午後一時三十分。
今回はトレックⅠ隊とトッレクⅡ隊に分けて派遣した。い
ず れ も マ ッ シ ャ ー ブ ル ム ベ ー ス キ ャ ン プ︵ 四 二 〇 〇 メ ー ト
発前にやっておくべきであろう。
越えるベースキャンプもあるので高度順応トレーニングは出
は行動が全く異なる。しかし高い山では五〇〇〇メートルを
も行なえる。したがって山頂を目指し技術を駆使する登山と
トレッキングは英語で山麓周遊の意味。おおよそ生活道や
登山コースを歩くことが多く、専門的な技術や知識がなくて
トレッキング隊の行動
が、ここで頂
上アタックを
断念しなけれ
回収した日本製のロープは品質が良く貴重品として、ポー
ベースキャンプに下山したのは七月二十二日夕方であった。
悪 天 候 の 中、 C 1・ A B C キ ャ ン プ を 撤 収 し フ イ ッ ク ス
ロープを回収しながら一人約三十キログラムの重荷を背負い
C1には片柳・佐久間隊員と粂川隊長が前日からステイし
た。案の定翌日から二十六日まで雪が降り続いた。
ばならなかった。
北東稜コルに立つ隊員
ル︶に行って登山隊員を励まし登山活動に寄与するというも
の。そして他のベースキャンプをも訪ねコースの山岳景観を
楽しむことが目的である。入山届けやブリーフィングはする
が、標高︵六〇〇〇メートル以上︶の規定による登山料は支
払わなくてよい。
トレックⅠ隊六名︵隊員名省略︶は六月八日から七月六日
までの二十九日間、我が県南隊以外には誰も居ない。いわば
このトレッキングコースを貸し切った感じであった。天候に
も恵まれマッシャーブルムを始めナンガパルバット、ラカポ
シ・ディランの各ベースキャンプを巡りトレッキングを存分
に楽しみ七月六日全員無事帰国した。
した直後、一名の隊員が突然発症し一〇〇メートル下の国際
日 早 朝、 県 南 隊 の マ ッ シ ャ ー ブ ル ム ベ ー ス キ ャ ン プ を 出 発
日までは全員元気に楽しく行動していた。しかし七月二十三
や 雨 の 日 が 多 く 晴 天 を 寸 断 す る パ タ ー ン で あ っ た。 従 っ て
今年のカラコルム地方の天気は入山から六月下旬前半まで
は比較的安定して晴天が続いたが、それ以降は長続きせず雪
〇メートル地点に設営、事実上の頂上アタック基地とした。
トレックⅡ隊四名︵隊員名省略︶は七月十六日から八月三
日までの十九日間の予定であった。現地に着いて七月二十二
隊ベースキャンプにおいて急逝したため予定を繰り上げ七月
隊員が高度を上げるリズムが確立されないまま無為にABC
キャンプ地等に直接影響はなかったものの近くでは毎日のよ
キャンプやベースキャンプでの停滞を余儀なくされた。この
三十日帰国した。以上が各隊の活動概況である。
遠征を終えて
力を結集しC1︵六一〇〇メートル︶から、さらに北東稜コ
それでも隊員は雪が止むのを待って、雪に埋まったフイッ
クスロープを掘り出し、安全を確認しながら険峻な雪壁に総
うに大小の表層雪崩が頻発していた。
慮してそこより高い四二〇〇メートルに開設した。苦労して
マッシャーブルムのベースキャンプは通常四一〇〇メート
ルである。しかし最初の難関セラック氷河のルート工作を考
そのセラック氷河にルートを開き、ABCキャンプを五二〇
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ȽȁĴĸȁȽ
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登攀ルート図
ルの上部六七五〇メートルの地点まで到達したのである。
人智を超えた大自然の営みである天候は如何ともし難く、
天気が回復しないまま残りの日程を考えた時、残念ながらこ
余話
この南東壁には我が隊が撤退した後、アメリカ・ロシア・
カザフスタンの国際隊六人が登山活動を展開していたが登頂
Ⅱ峰遠征を参考に前回と同じエージェントを依頼した日パト
その一、苦労した事は登山隊の遠征費︵トレッキング隊費
を除く︶のことである。六年前の第二次のガッシャーブルム
今回の遠征登山で苦労した事と心配した事を紹介したいと
思う。
は確認されていない。また別の山域では雪崩に巻き込まれ死
ラベル社に見積ってもらった。
の地点で登頂活動終了を決断しなければならなかった。
傷者が出、あるいは悪天候に早々と見切りをつけて下山した
ステント・キッチンテント・キッチン用品・梱包資材等のレ
ター・コック・キッチンボーイ・連絡官等雇人の人件費、メ
それによるとこの六年間でイスラマバード市内でのホテ
ル の 宿 泊 費、 隊 員 の 移 動 及 び 隊 荷 運 搬 費 等 の 交 通 費、 ポ ー
翻って我が隊は頂上にこそ立てなかったものの登頂難度の
極めて高い絶巓を目指し、悪天候のなか登山活動の限られた
登山隊もいたと聞いている。
時間内︵職場での休暇の関係も︶で隊員が総力を尽くして、
ンタル装備品費等がすべて値上がりして総額で三八、五一七
現 地 雇 人 保 険 料、 申 請 手 数 料、 ベ ー ス キ ャ ン プ か ら 上 の 食
米ドル︵米ドル決済契約︶必要とのことであった。このほか
料費等は別料金となる。遠征実施の年の春頃から円安傾向で
標高六七五〇メートルの高さまで到達した。このことは次な
登山は登頂を果たしても無事に生きて帰ってこなければ成
功したことにはならない。有名な登山家が頂上を極めたあと
るステップ・アップへと一定の成果をあげた証左と言えよう。
下山途中で事故を惹き起こし帰らぬ人となり、また悪天候に
あったから登山活動終了後支払いの八月初旬は円の為替レー
トはどうなるのか気掛かりであった。
成田∼イスラマバード間の航空運賃、登山料、環境保護費、
逆らい無理な行動で遭難した例など数え切れない。
稿をむすぶに際し、この海外登山遠征に、後援を快諾して
くださった各団体・会社、物心両面に亘り協賛いただいた方
渉し出発前に了解を得た。
支払いを三万米ドル以内に押さえる倹約予算を立て同社と交
ではなく廉価なゲストハウスなどにして日パトラベル社への
そこで出発期日を遅らせ、ポーターの人数を登山活動に影
響を及ぼさない範囲に減らし、宿泊施設をできるだけホテル
方、本協議会実行委員会、同留守本部、隊員家族等関係者に
我が隊が登山の鉄則にしたがい撤退を決断して八月三日全
員無事に帰国したことを高く評価したい。
心の底から感謝申し上げる次第である。
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ȽȁĴĹȁȽ
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の支出が見込まれる。今までもそうであったがこれからの海
結果の中間決算である。この後は報告書作成等の事務的経費
費は四、三九〇千円余であった。苦心して経費を切り詰めた
四、六四八千円余であった。同じくトレッキング隊十名の経
が出た一方で、特殊部隊にも数人の死亡者を出したとのこと
特殊部隊などが建物内に突入鎮圧した。神学生に多くの死者
目の七月十日早朝パキスタン政府は制圧作戦に踏み切り陸軍
のではと⋮。その心配も杞憂に終わった。事件発生から八日
しかし次の瞬間また不安が脳裏をよぎる。立てこもりが未
解決のまま長引き登山隊やトレックⅡ隊に悪影響をおよぼす
が入った。ああよかったと安堵の胸を撫で下ろした。
外派遣はその国の経済状況あるいは為替レートの動向を一層
であった。現政権への宗教上の対立が原因と見られるが、国
登 山 終 了 後 実 際 に 日 パ ト ラ ベ ル 社 に は 二 七、 〇 五 九 米 ド
ル の 支 払 い で 済 ん だ。 因 み に 日 本 円 で 登 山 隊 四 名 の 経 費 は
よく見定めて予算を立てることが肝要である。
その二、心配した事は七月三日パキスタンの首都イスラマ
バード中心部の宗教施設﹁ラール・マスジード﹂に神学生ら
く見極めねばなるまい。
ろうか。海外に登山隊を派遣する時にはその国の政情をもよ
いの歴史を繰り返している。真の世界平和は構築出来るのだ
際テロ組織とのかかわりも指摘されているようだ。人類は争
多数が女性や子供を楯にして立てこもり銃撃戦が行なわれた
︵4︶高所遠足 近年ヒマラヤなどの高山︵たとえばエベレ
スト等︶に日本あるいは国際商業公募隊と称して多額の料金
︵3︶ブリザード 降り積もった雪が強風で吹き上げられ見
通しが悪くなった状態で地吹雪ともいう。
︵2 ︶ ベ ー ス キ ャ ン プ
極地法登山、放射状登山の際、登山
の基点となるキャンプ、あるいはキャンプサイトをいう。
註 登山用語等解説
︵1 ︶ C3 極 地 法 登 山 な ど で 山 頂 へ 至 る た め あ る 間 隔 ご と
に設営するキャンプ。山頂に向かってC1、C2、C3のように。
︵学園理事・幼稚園長︶
事件である。その施設の至近に日パトラベル社の事務所があ
り、登山隊やトレッキング隊が集結する所でもある。少し離
れているが大統領官邸や日本大使館もある。
丁 度 こ の 時 期 七 月 六 日 帰 国 の た め ト レ ッ クⅠ 隊 六 名 が イ
スラマバード入りする予定であった。しかし外国人の外出禁
止令と戒厳令が出てしまった。施設の近くでは銃撃音が鳴り
響いているとのこと。留守本部としては不安と緊張の極みで
あった。この情報がトレックⅠ隊に伝わらず、もしも銃撃戦
に巻き込まれるような事になったら大変なことになる。しか
を徴し、固定ルートをプロのガイドに案内してもらい登る方
しそのことを日パトラベル社は予測して郊外にホテルを用意
十時三十分、私の携帯電話に田中孝介トッレキング隊長から
してくれていた。そして気を揉んでいた翌日の七月五日午前
全員元気でイスラマバードの日パトラベル社に着いたと連絡
Ƚ
ȽȁĴĺȁȽ
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式、高度順応の自己責任を除けば、そのような安易な登山を
揶揄した言い方。
︵5 ︶ ブ リ ー フ ィ ン グ
国の所管省庁に登山隊長等の責任者
がリエゾンオフィサー︵連絡将校︶立会いで登山隊が正規の
手続きをしているか確認を受ける。
︵6 ︶ コ ッ ヘ ル
登 山、 キ ャ ン ピ ン グ 用 に 考 案 さ れ た 携 帯 用
の炊事用具セット。
︵ ︶セラック
氷河上にできる氷塔のことで、その成因は
氷河の崩壊による。このセラックが乱立する所をセラック帯
と呼ぶが、常に崩壊の危険のある不安定な所といえる。高所
にあるセラック帯よりも低い地点にあるセラックの方がより
圧力を受けて不安定となるため、セラック帯を登路とすると
︶デポキャンプ 登山するルートに荷物を置いておくテント。
︶ AB C キ ャ ン プ
頂上アタックのための基地となる前
きは日々変化する地形に特に注意を払わなければならない。
︵
︵
︵ ︶ルートファインデング
自分の進む方向を決めること。
登山技術のなかでも最も基本的で重要な技術の一つ。
進キャンプ。
︵8 ︶ ス ノ ー バ ー
アルミ製アングル型長さ六〇センチメー
トルのバー、柔らかい雪壁に差込みロープを固定させる用具。
︵7︶フイックスロープ
岩場や稜線あるいは雪壁・氷壁な
ど登攀や下降のため固定されたロープ。
︵9 ︶ ア イ ス ス ク リ ュ ー
アルミ製で先端部分にねじが切っ
てあり、堅い氷壁にねじ込みロープを固定させる用具。
︵ ︶トラバース
横切る。横断するといった意味を持つ。
︵ ︶スノープラトー 雪の台地をいう。
︵ ︶スノーシュー 雪上用歩行具でテニスのラケット柄の
部分を取ったような形をしている。
︵ ︶アイスバイル
主に氷壁登攀に用いるピッケルのブ
レード部分がハンマー状になっている登攀用具。
︶コル
山頂と山頂とを結ぶ稜線上で低くくぼんだ箇所
をいう。
︵
︶カラビナ
ハーケン、ボルトなどの支点にロープをセ
ットする際に、仲介役として用いる金属性の輪。
︵
︶携帯用パルスオキシメータ 動脈を流れる血液中の酸
素の量︵動脈血酸素飽和度︶を計測する携帯用医療機器。
︵
︶ポーター
荷物を運搬する人のことで、普通、ポーター
と呼ばれる場合は、ベースキャンプ地までのキャラバンで荷
︵
物を運ぶ者をロー・ポーターといい、ベースキャンプから上
の登山活動に従事するポーターをハイ・ポーターと呼び前進
キャンプへの荷揚げが主な仕事となる。
21
22
Ƚ
ȽȁĵıȁȽ
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14
16 15
17
20 19 18
︵ ︶ステイ キャンプに留まること。
※本文中︵ ︶内の数字は標高いわゆる平均海面から測った
高さである。
10
11
12
13
影
山
博
世
親 の 指 導 の 下 に 行 い、 常 に 高 校 生 で あ る 自 覚 を 失 わ な い こ
とする﹂
﹁男女間の交友は校内に限ることとし、先生又は両
版︶﹁生徒心得﹂の﹁5
﹁交友はなるべく本校
風紀﹂には、
の生徒を選ぶこと﹂﹁映画、演劇等の観賞は家族同伴を原則
公 に 発 表 し て い た ほ ど で あ る。
﹃ 生 徒 手 帳 ﹄︵ 昭 和 三 九 年 度
田治男君は正義感が強く、﹁証拠もないのに、疑うのは可笑
室であったので、かなり強い指導が入った。クラス委員の黒
れて厳重な注意があった。たまたま我がクラスが階段隣の教
という﹁生徒心得﹂に違反するというので、全校集会が開か
また、このようなこともあった。二年生の時であったと思
うが、本館の二階階段壁に悪戯書きをした生徒がいた時は、
けるしかなかった。
ていた。映画を見るには、教師の目が届かない東京まで出か
市内には四つの映画館があったが、出入りは事実上禁止され
驚いたほどである。当時映画鑑賞は数少ない娯楽の一つで、
内の映画館明治座で鑑賞できた時は今までにないことなので
紀フォックス配給︶の割引券が学校から配布され、友人と市
ンが主演した映画﹃クレオパトラ﹄︵一九六三年制作、
高等学校草創期の一齣 ⑵
二、昭和三九年度︵第一学年︶⑵
○生活指導
最近は生活指導が厳し過ぎると不満を言う生徒が少なくな
い。しかし、創立当初は生半可なものではなく、徹頭徹尾妥
協することのないほど厳しいものであった。
と﹂﹁頭髪は三分刈り以下とする﹂などとある。今の生徒に
しい﹂と言って、﹁君は代議員なのだから、職員室に一緒に
﹁我が校の生徒は全国でもっともきびしい規則を持つ学校
の生活にきたえられて生き抜いている﹂︵
﹃校報﹄三三号︶と
は死語に近いような文言も含まれているが、これが徹底して
抗議に行こう﹂と誘われて、何人かで若林六四先生︵教務主
任︶のところへ抗議に行ったこともあった。また本館生徒昇
生徒心得の﹁学校の建物、器具はていねいに取り扱うこと﹂
行われていたことも事実である。
二年生の時、エリザベス・テーラーとリチャード・バート
Ƚ
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20
学はやむなしというのが一般的な見方であったので、同情の
ない。しかし、当時は生徒も保護者も校則に違反した場合退
あれば人権侵害であるといって大問題になっていたかも知れ
ほどである。一罰百戒の意図もあったと思われるが、他校で
前日か前々日に問題を起こして退学となったケースがあった
どが退学であった。確か六期生であったと思うが、卒業式の
起きた違反については厳しく、校内喫煙、不正行為などは殆
暴力行為などの校則違反は原則退学であった。とくに校内で
ず﹂との貼り紙がなされることもあったように思う。喫煙や
降口の掲示板には、時々﹁学則第何条第何項により退学を命
長 不 在 の 際 は、 後 に 必 ず 若 林 教 務 主 任 の 報 告 を 受 け て 慎 重
とりに細心の注意を払って行うという姿勢を貫いており、校
とは異なる栃木という地域性も考慮して行うが、生徒一人ひ
であるということを繰り返し語っている。生徒の処分は東京
導に関する職員会議の席上、厳しさの裏には常に愛情が必要
佐々木周二校長の思いが伝わってくる。佐々木校長は生活指
て当時の職員会議録を読んでみると、生徒の処置についての
職員全員が心底考え、教育にあたっていたのである︵今改め
ではないかと思う。
﹁日本一躾の厳しい学校﹂にしようと教
にも、生活指導の厳しさを全面に出すという一面もあったの
を得、子弟を安心して任せられるという評価を勝ち取るため
に自ら決定していた。まさに﹁泣いて馬謖を斬る﹂の心境で
声を聞いたという記憶はない。
に﹁訓育指導係﹂が置かれていたほどで、個人・集団に対す
リング︶・環境整備係・生徒会係の各係を押しのけて、最初
徒 指 導 部 の 各 分 担 に、 生 活 指 導 係・ 指 導 相 談 係︵ カ ウ ン セ
に な っ た の は 昭 和 四 九 年 度 か ら で あ る。 昭 和 三 九 年 度 の 生
昭 和 三 八 年 度 か ら﹁ 生 徒 指 導 部 ﹂ に 変 更 さ れ、 現 在 の 名 称
の を 使 用 し た。 昭 和 六 一 年 度 ま で は 制 帽 も 着 用 し た︵ 徽 章
の文字の襟章を付けた︶、ボタンは﹁國﹂の文字を刻したも
色を使用した︶を付け︵商業科の生徒はさらに右側に﹁C ﹂
︵校章と同型で、一年生が黄色、二年生が臙脂、三年生が藍
市販の五つボタンの学生服で、詰め襟の左側には学年バッジ
度入学生から学年進行で着用された。それまでの男子冬服は
︹夏服着用︺現在の制服が制定されたのは平成五年で、六年
あったのではないだろうか︶
。
る躾が最重要視されていたことが判る。こうした名称の変遷
は帽子正面に校章を象ったバッチ、また顎紐を留める耳章は
草創期はさほどに厳しく生活指導が行われていたのであ
る。現在の校務分掌﹁生活指導部﹂は最初が﹁生徒補導部﹂、
に、学校の生活指導に対する考え方がよく現れていると言え
ツ型で、黒ストッキングを着用した。
両前、前四ッボタン。スカートは同色の四本ボックスプリー
﹁國學﹂のマークであった︶。また、女子は上着が紺色の剣衿
よう。
開校当初は公立志向の強い土地柄の故に、市民のなかには
私立学校に対する無理解から本校を評価する向きもあった。
そのような状況下、歴史の浅い本校が父母や地域社会の信頼
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三八年度より全校一斉にグレーの夏ズボン着用となった。女
夏 服 に つ い て は、 現 在 同 様 六 月 一 日 か ら 着 用 し た が、 当
初は男女とも上着を脱いだだけの略装であった。男子は昭和
できず冷房のない室内は蒸し風呂状態であったと、よく話さ
通っていたが、夏は油煙が入ってくるので窓を開けることが
語 の 島 田 良 一 先 生 は 結 城 か ら 水 戸 線・ 両 毛 線 を 乗 り 継 い で
みに、両毛線はまだ電化されておらず汽車が走っていた。英
武電車・国鉄両毛線の乗降客が行き交い、混雑していた。因
子も一年遅れの三九年度からグレーの夏スカートに変更され
バスはボンネットバス、何時もすし詰め状態で身動きもで
きないほどであった。途中の道路は旧市街を出ると舗装がさ
た。男子のワイシャツ、女子のブラウスは左胸に校章のマー
れてない箇所が多くあって、そのようなところは車の轍が出
れていた。
し、二、三年もたつと、生徒は当たり前に感じるようになっ
来ており、左右前後に揺れて決して乗り心地がよいとは言え
ク が 入 っ て い た。 こ の 夏 服 は 一 目 で 國 學 院 の 制 服 と 分 か っ
たので、外出時も普通に着用するようになった︵校則で私服
た の で、 生 徒 の 評 判 は 当 初 あ ま り 芳 し く は な か っ た。 し か
での外出が禁止されていたことも理由のひとつであったと思
なかった。
農家と林・畑になっていた︶に市内廻りバス︵倭町経由栃木
バスは学園坂を上り、本館前の広場に横付けされた。北側
︵広場の北は崖になっており、崖下、現在北館のある場所は
うが︶。
○通学
高校三年間、私の通学手段はバスであった。自宅近くから
関東バスに乗車し、栃木駅前で國學院行きの直通バスに乗り
駅行き︶が駐車し、本館側二列が駅直通バスの乗降場であっ
当時の栃木駅は、現在の近代的な駅舎と異なり昭和三年建
築の駅舎が使用されていた︵平成七年にJ R両毛線の高架で
で、自転車通学が二九四名であった。汽車・電車通学も栃木
が三五名、汽車・電車通学が九三八名、バス通学が三七八名
度版﹃学校要覧﹄によると、全校生一六四五名のうち、徒歩
換え、片道約四〇分ほどかかった。
役割を終え、現在の駅舎になった︶。駅前広場を挟んで北側
駅からはバスを利用したので、八〇㌫がバスを利用して通学
た。 な お、 当 時 は バ ス 通 学 が 圧 倒 的 で あ っ た︵ 昭 和 三 九 年
に関東バスの待合室があり、路線バスは待合室前から発車し
していたことになる︶。
自転車通学生は駐輪場が本館前にあったので、毎日学園坂
を登ることになっていた。学園坂は昭和四二年五月に舗装さ
ていた。また関東バス待合室の西側道路︵通称女子校通り︶
れるまでは砂利道であり、雨の日などは登るのがきつかった
を挟んでやや駅寄りに東武バスの待合室があった。國學院行
はなく、駅舎外の通路を後ろにして縦列に駐車していた。駅
きのバスは、市内廻り︵倭町経由︶も直通バスも待合室前で
舎に向かって左側二列が直通バスであった。通学時間帯は東
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のではないかと思う。男子生徒のなかには下校時、ブレーキ
週番と風紀委員会との役割分担が不明瞭になったので、週番
私が入学した昭和三九年は、バス乗車指導は主に風紀委員
が担当していた。生徒の乗車態度は真面目なもので、割り込
制度は四六年度を最後に廃止された。
みなどはほとんど見られず、整然とバスを待っていた。多く
も踏まずに駆け下りていった者もいた︵多分、乗車して下り
した行為をする生徒は意外と多かった︶。また太平街道も大
ることは禁止されていたと思うが、教師の目をかすめてそう
雨の時は泥水が川のように流れ、凸凹道に難儀したのではな
の 委 員 は 真 面 目 で 一 所 懸 命 に 活 動 し て い た が、 中 に は 立 場
を利用して権力を笠に威張り散らすものもおり、血の気の多
いだろうか。
最初の週目標は﹁服装の徹底﹂であった。週番は土曜日に引
われるが︵毎月曜日には週目標が発表された。昭和三九年度
生活指導の一翼を担わせようという発想で置かれたものと思
たっていた。三学期からは一年生も参加した。週番は生徒に
もと駅前と校内に分かれて、生徒の登下校や服装の指導にあ
一七クラスであったので、一班一七名編成︶、教師の指導の
二名、合計五名の週番が任命されて︵三九年度は二、三年が
担 当 し て い た。 二、三 年 生 の 各 ク ラ ス よ り 男 子 三 名、 女 子
後、上野・神田・九段を経て、最初の目的地である明治神宮
を出発した。一路国道四号線を南下し、幸手で小休止をした
車、六三四名が一一台に分乗して、午前七時三〇分栃木駅前
は週に一度程度の出勤であった︶も生徒と一緒にバスに乗
事・ 久 我 山 高 等 学 校 長 な ど を 兼 務 し て お り、 栃 木 高 校 に
た。 当 日 は 滅 多 に 出 勤 さ れ な い 佐 々 木 校 長︵ 國 學 院 大 學 理
日、 一 年 生 全 員 を 対 象 と し た 恒 例 の﹁ 國 大 見 学 ﹂ が 行 わ れ
︹國大見学︺入学して漸く学校生活にも慣れた五月三〇
○学校行事
六三年度をもって廃止された。
い男子生徒と一悶着を起こすこともあった。この制度は昭和
き継ぎを行い、一週間の反省と翌週の週目標を決めた︶
、そ
には一〇時三〇分に到着した。
なお、現在登下校の指導は教員の通学指導委員会が当たっ
ているが、当時は生徒の自治活動が盛んであり、
﹁週番﹂が
の役割は多岐にわたり、生徒には負担が重かった。そこで、
参拝後、神宮をあとに國學院大學に向かい、正午に到着、
大講堂において昼食をとった。食後、講堂においてギターア
の玉串奉奠にあわせ全員が参拝した。
本殿前で学校長の挨拶があった後、高沢禰宜より明治神宮
の由来、明治天皇の事績などの説明があった。続いて学校長
昭和三八年新たに﹁風紀委員会﹂が立ち上げられた。それに
より、週番が主にバス乗車指導を担当し、風紀委員は教室内
外の巡回や自転車通学生の通学指導を行うことになった︵風
紀委員は二、三年生の各クラスから二名ずつが任命され、五
班編制で、左腕に腕章を付けて活動した︶。そして翌年には
バス乗車指導も風紀委員会が当たるようになり、その結果、
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タワー、宮城前、上野を経て、再び国道四号線を南下し、午
り、歴史好きな私には思い出深い一日となった。帰路は東京
見学した。とくに考古学資料室では樋口清之教授の説明があ
が行われ、考古学資料室・神道資料室や新装なった体育館を
ンサンブル・詩吟部員などによる演奏があって後、学内見学
実力テストを行うというのである。
かも、一四日の全校出校日にはその努力の成果を見るために
の夏期講習︵勿論強制参加であった︶も予定されていた。し
ともに、八月三日から一二日まで日曜日なしの連続一〇日間
数学クラスに入ることが決まっており、二組の英語クラスと
入学後最初の夏休みということで色々計画を立てたが、予想
︹夏期休暇︺七月二五日からは待望の夏休みに入った。高校
意見を容れて中止の判断をしたと、当時の記録に残っている。
年数が経ち生徒の意識も変わってきたこともあって、教員の
用も考慮して何とか継続したかったようであるが、創立から
じ、実施することが困難になっていた。佐々木校長は列車利
ことも多く、加えて生徒数の増加でバスを増車する必要が生
く、都内の交通渋滞に巻き込まれて予定の到着時間に遅れる
施されたのである。しかし当時は交通網の整備が十分ではな
プライドを持ってもらいたいとの強い期待から國大見学は実
なかった。そこで、伝統ある國學院大學の附属校生としての
を失い、國學院生としての誇りに欠ける者がいないわけでも
補完校といった程度のものであったため、生徒の中には自信
る。 本 校 が 創 立 さ れ た 当 初 は、 地 域 社 会 の 評 価 が 県 立 高 の
当 時 の 職 員 会 議 録 な ど を 見 る と、 こ の 國 大 見 学 は 第 一 期
生 か ら 実 施 さ れ た が、 私 た ち 五 期 生 を 最 後 に 中 止 さ れ て い
に完成し、太平台には当時としては数少ない鉄筋コンクリー
初の発展期に入っていた。施設も東館と武道館が三九年五月
院大學栃木学園として経営が大学から独立するなど本校は最
高等学校経営は軌道に乗り、生徒数も増加し、学校法人國學
るが、二〇年目までは数え年で実施していた︶
。この頃には
記念すべき年であった︵現在は創立記念を満年齢で数えてい
︹創立五周年記念式︺昭和三九年は本校が創立して五周年の
退社して、現在は運送会社を経営し活躍している。
工場長などを歴任するなど出世コースを歩んだが、二年前に
クモバイルコミュニケーションズ株式会社︶に入社、各地の
大学に進学し、卒業後松下通信工業株式会社︵現パナソニッ
近くになっていた。コツコツ努力するタイプの彼は千葉工業
馳走になって、漸く宿題を終えることができた時には、夕方
彼も私の窮状を知って付き合ってくれた。その上に昼食まで
ねる羽目に陥った。勿論、彼が終えていることは承知の上、
の黒田君を頼って、
﹁一緒に宿題をやろう﹂と彼の自宅を訪
あって夏休みの後半は宿題に追われ、難渋した。最後は友人
そ れ で も、 合 間 を ぬ っ て 浅 草 に 映 画 を 見 に 行 き、 友 人 と
日光に遊びに行くなど、結構夏休みを満喫した。そのせいも
以上に宿題が多く、遊びどころではなかった。また二学期か
後六時栃木駅前に到着、解散した。
ら習熟度別クラス編成が実施されることになり、私は一組の
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五〇分に短縮し、午前中四時間授業で行われ、午後は大掃除
そうした中、記念式典は一〇月九日、多くの来賓を迎えて
華やかなうちにも厳粛に執り行われた。前日は六五分授業を
トの校舎が偉容を見せており、校内は活気をみせていた。
化人や学者、スポーツ関係者など多くの著名人が演壇に立っ
記 念 講 演 会 は、 毎 年 創 立 記 念 日 前 後 に 実 施 さ れ て お り、 文
︹創立記念講演会︺創立記念関係の恒例の行事である創立
いる。因みに音楽の古沢三夫教諭は三期生、五周年のこの時
は三年生であった。
および準備に当てられた。
た。クラス代表の一人として参列したが、初めて見る神道形
式典は一〇時三〇分より、東館四階ホールにおいて挙行され
思い出の品のひとつとなっている。なお来賓を招いての記念
この時の記念の文鎮は現在も手元に置いており、高校時代の
り、何となく高揚した気持ちで下校したことを覚えている。
から、誇りと自信を持って努力しなさいという趣旨の話があ
めの時期、本校の伝統は諸君たちによって築かれていくのだ
第 三 七 号 に 掲 載 さ れ て い る が、 放 送 で も 創 業 五 年 の 基 礎 固
生徒に手渡され、九時三〇分下校した。式辞要旨が﹃校報﹄
式辞があって、記念品として校章を象った文鎮と手拭いが全
ホームルームに変更され、放送を通じて行われた。学校長の
式 典 は、 先 ず 午 前 八 時 三 〇 分 よ り 全 校 生 徒 を 集 め て 執 行
された。当日はあいにく雨であったので、グラウンドから各
れたことを、私は今も昨日のように覚えている。國學院で学
の中病を得て亡くなられた思い出を声を詰まらせながら語ら
あった啄木の人となりやその作風を具体的に語られた。貧困
章者である。﹁苦難の詩人・石川啄木﹂と題し、生涯の友で
昭和三九年度の講演者は國學院大學教授金田一京助先生
であった。先生は国語学・アイヌ語学の泰斗で文化勲章の受
した大松博文氏も来校しており、まさに多士済々であった。
ピックでニチボウ貝塚女子バレーボール部を率いて見事優勝
ど学界を代表する著名教授が演壇に立っている。東京オリン
國 學 院 大 學 か ら も 樋 口 清 之・ 桑 田 忠 親・ 岡 野 弘 彦 の 各 氏 な
た。その他にも、マスコミ界から小林完吾氏や磯村尚徳氏、
マイケル・ジョンソン氏で、ヘリコプターを利用して来校し
ンピックのメダリスト有森裕子氏と陸上競技短距離界の王者
てきた。平成八年度の講師はバルセロナ、アトランタ両オリ
式の神前奉告祭の厳かな雰囲気には心底驚き、國學院の系列
ぶ喜びを感じた一日であった。
る体育祭であった。最初の体育祭は開校三周年を記念し昭和
︹学校祭︺一〇月四日は、一連の創立記念行事の幕開けを飾
校に学ぶ誇りを改めて感じた一日であった。
なお、このときに公募された五周年記念歌﹁若い誇り﹂が
初めて来賓に披露された。作詞者の青木秀子さんは一年一〇
る。今日のような組織立てられた体育祭と異なり、まだ競技
三七年に実施されていたので、今回が第三回ということにな
組︵商業科︶
。
﹁太平のふもとうるおす永野川 われら若人胸
深く﹂で始まるこの記念歌は今も音楽の時間などで歌われて
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あるほどである。
教務日誌にも若林教務主任の筆で﹁五周年記念大運動会﹂と
種目が中心で運動会的な要素が強かったように思う。当時の
報﹄四八号は﹁文化部展示会﹂と載せており、まだ名称すら
ので、あまり盛り上がらなかった。この第四回文化祭を﹃校
きな規模で実施されたが、翌年は規模を縮小して実施された
施された。男女がペアを組んでのダンスには多くの先生も参
た。三年生の恒例となるフォークダンスもこの年に初めて実
ファッションショーや通学地区別対抗リレーなども行われ
閉会式で終了した。種目は今日に比較して競技種目が多く、
進 行 は 現 在 と 同 様 に 全 校 生 に よ る 入 場 行 進、 開 会 式、 種
目、昼食を挟んで午後の部はクラブ活動行進、種目と続き、
中庭で行われ、先生方も参加し、また他校生も加わって男女
い出深いのは昼食時のフォークダンスである。本館と南館の
が数多く出店したのもこの時からである。文化祭でとくに思
られた。また従来のバザーに加え、模擬店︵食堂や喫茶店︶
ドボール・弓道・テニス・バレーボールなど熱戦が繰り広げ
高等学校のクラブを招いての親善試合が行われ、野球・ハン
統一されていなかったことが判る。三年次の文化祭は県内各
加 さ れ、 日 頃 の 厳 し い 生 活 指 導 と 打 っ て 変 わ っ て 和 や か で
共学の学校ならではの楽しい行事の一つであった。
んなの手で﹂というテーマも決められた。またこの年から、
このように、体育祭と文化祭は別々の行事として開催され
たが、四五年度より﹁國學院祭﹂として統一実施され、
﹁み
華やかな雰囲気を醸し出していた。また今も印象深く記憶に
残っているのは、何学年の時かは思い出せないが、クラス対
抗ファッションショーの山下宏先生の乞食姿である。体中を
真っ黒に塗って、本物の乞食のようで大変な評判となった。
全校生の参加を呼びかけ、初めてホームルームの参加が実現
分 の 時 差 登 校 で あ っ た。 会 場 は 東 館 の み で 一、二、三 階 が 展
は三日︶
。 一 ∼ 五 組 が 八 時 四 〇 分、 六 ∼ 一 〇 組 が 一 二 時 三 〇
三 一 日 の 土 曜 日 に 準 備、 二 日 は 一 年 生 が 全 員 登 校︵ 二 年 生
に出る英単語﹄
︵青春出版︶
、いわゆる﹁しけ単﹂が出るまで
トセラーとして受験生に愛された。四二年に森一郎の﹃試験
単﹂である。昭和二二年に初版が発行され、英単語の超ベス
尾好夫の﹃英語基本単語集﹄
︵旺文社︶、いわゆる﹁赤尾の豆
︹英単語コンクール︺当時の英単語のバイブルと言えば赤
した。現在の文化祭の形式はこの時以来のものである。
示、四階ホールが演技会場であった。また東館入り口に喫茶
記念行事の最後を飾る文化祭は、一一月二、三日の両日に
渡 り 実 施 さ れ た。 前 日 の 一 日 が 日 曜 日 だ っ た の で、 一 〇 月
室、南館二階には食堂が設営された。
当 時 の 文 化 祭 は 現 在 と 同 じ く 生 徒 会 の 主 催 で あ っ た が、
ホームルーム参加はなく、文化部の発表が中心で、生徒有志
た の で あ る︵ 現 在 の よ う に、 旺 文 社 の﹃ 英 単 語 タ ー ゲ ッ ト
集がなかったのだから、否でも応でも豆単を使うしかなかっ
は英単語集における独擅場であった。何しろそれ以外の単語
による参加も一部あった。この年は記念行事として比較的大
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ある︶。
り、自分に合った参考書が選べる便利な時代とは違ったので
1900﹄や増進会の﹃速読英単語﹄など多くの単語帳があ
一二名、C級合格者二名であった。一年次においてB級まで
F級合格者は五六八名、E級合格者が一三六名、D級合格者
度F級から試験が実施された。その結果、一学期とあわせた
施 し、 級 位 を 決 定 す る と い う の で あ る。 三 四 点 以 下 は 不 合
語 一 点 で 一 〇 〇 題、 一 〇 〇 点 満 点 の 試 験 を 各 級 位 ご と に 実
三年程度︶からF級︵中学校一年程度︶の六級位に分け、一
ら紙を一枚一枚飲み込め﹂と言われ、英語の得意なI君はそ
ていたが、使い勝手は決してよくはなかった。よく﹁覚えた
く、例文はなく単語と派生語、同義語、反意語などを押さえ
∼Zであるのは辞書と同じ。単語数は三八〇〇語とかなり多
ところで、この豆単は当時としては画期的な手のひらサイ
ズの大きさで、持ち運びには便利であった。単語の配列がA
進級した者は一人もいなかった。
格、三五点以上六四点までが合格、六五点以上は上位の級の
﹁英単語コンクー
この豆単をテキストに実施されたのが、
ル ﹂ で あ る。 掲 載 さ れ て い る 単 語 三 八 〇 〇 語 を A 級︵ 高 校
受験資格が与えられた。
手 と し た 者 に は、 最 初 の 単 語 が﹁ abandon
﹂︵ 断 念 す る ︶ で
は最初からあきらめたも同然であった。かくて、英単語コン
れをやっているとの噂であった。しかし私のように英語を苦
クールは高校三年間で最も辛い思い出の一つとなった。
最初の試験は五月一八日、一年生を対象にしてF級で行わ
れた。試験時間が三〇分で、放課後三時三〇分より実施され
た。記録では、受験者が六一七名で合格者は二七九名、四五
を遙かに超えていた。
﹃校報﹄三六号には、﹁文学史連講始ま
㌫ の 合 格 率 で あ っ た。 合 格 者 の 中、 九 一 名 が E 級 受 験 の 資
る﹂と題して次のような記事が載っている。
︹文学史連講︺昭和三九年度に実施された﹁文学史連講﹂は
試験には七名が受験資格を得た。結果は五名受験で全員合格
格を得ている。E級は六月一一日、二年生の進学クラス全員
したが、C級受験資格を得た者は一名であった。この一名は
九月一七日より一月二十二日までの長期にわたる文学史
連続講義が放課後三時三〇分より音楽室で行われる。この
今も心に強く残っている。当時本校には主に國學院大學で本
二九日実施のC級試験は合格したが、B級の受験資格は得る
講義は授業時に正科として文学史を取り扱っていないため
格 的 に 学 問 を 修 め て き た 教 員 が 多 数 い て、 高 等 学 校 の 水 準
ことは出来なかった。彼女は我がクラスのアイドルで、英語
に行われるもので、大学進学者はいうまでもなく、その他
験した。その結果、一年生は二八名が合格し、一九日のD級
は定期試験・校内実力試験で何時もトップであった。友人の
一・二・三年生でも希望者はどしどし受講されることを望ん
︵ 四 ク ラ ス ︶ と 希 望 者、 そ れ に 一 年 生 は 有 資 格 者 八 三 名 が 受
張ったが駄目だったと後に語っていた。なお、二学期には再
I君は彼女に好意を持っていたので、一度は負かしたいと頑
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でいる。
森 昇 一 先 生 は 二 年 生 の 時、 短 期 大 学 開 設 準 備︵ 図 書 館 担
当︶の片山先生に代わり、二学期から古文の担当になった。
先生の耳に届いてしまい、
﹁君、名前は何というの。ちょっ
片山先生に鍛えられて文法には絶対的な自信があった私は、
と説明するからね﹂と言うことになって、私の誤りについて
講師は片山喜八郎︵文学の発生、記紀、万葉集︶・森昇一
︵勅撰和歌集、王朝文学︶
・山隈惟實︵歴史物語︶
・豊田豊子
学︶・磯辺安蔵︵中国文学史︶・鷹巣滋︵中国文学史︶・岡野
長々と説明を始められた。生意気な生徒の鼻っ柱を折ってや
最初の授業中先生の説明に、つい﹁ちょっと違うのではない
徳寿︵漢文学史︶の一一名の先生が二八回にわたり、連続で
ろうとしたのであろうが、当時は六五分授業、残りの全てを
か﹂と独り言を言ってしまった。席が前であったのでそれが
講義を行うというものである。当時の教務日誌などの記録類
たった一語の説明に費やしたのだから、先生の古文知識には
葉直樹︵近世文学︶
・森下喜一︵近代文学︶
・岡本岱︵現代文
を見てみると、当初の予定日では実施されなかったが、講座
︵説話文学、軍記物、隠者文学︶・若林六四︵能・狂言︶・秋
のほとんどが開講されたことが判る。
どの読書好きであった︶。だからこの募集には喜んで飛びつ
た時も近所の小学校から母に頼んで本を借りてきてもらうほ
読んでいた︵確か六年生の時であったと思うが、麻疹に罹っ
の歴史や古典関係の本が数多くあって、小学生の時からよく
た武将。﹁我に七難八苦を与え給え﹂のセリフで有名︶など
記︶や﹃山中鹿之助﹄︵尼子の旧家臣で、主家再興に尽力し
当時、自宅には﹃プルターク英雄伝﹄︵アレクサンダーや
シ ー ザ ー な ど 古 代 ギ リ シ ャ・ ロ ー マ 時 代 の 英 雄 五 〇 人 の 伝
た︶、楽しい授業であった。先生からは学問の奥の深さを教
ていたように記憶しており︵勿論、文法については厳しかっ
授業だけではなく、古典を文学として扱うという姿勢も貫い
た様子が今も思い出される。また先生はそれまでの直訳型の
た。蝶ネクタイでダブルのスーツを着用して授業をされてい
期大学教務課長・教授となられたが、平成三年六月急逝され
とであった。國學院大學大学院文学研究科博士課程修了、短
される短期大学に勤められるという話を伺って、納得したこ
脱 帽 し た。 後 に な っ て、 片 山 先 生 か ら 森 先 生 が い ず れ 新 設
いた。とくに古い時代に興味があったので、片山・山隈両先
えて頂いたように思う。
茨城県結城市にお住まいで、三年生の時、先生からご自宅に
あったと思うが、科目を担当して頂いた記憶はない。先生は
岡 野 徳 寿 先 生 は 國 學 院 大 學 高 等 師 範 部 卒 で、 既 に 六 〇 代
後半になられていたのではないかと思う。授業は専ら漢文で
生の講義は欠かさずに出席した。この時に知った学問の面白
さが、それまで漠然としていた進路を決定したように思う。
将来大学で日本史を専攻したいと決めたのである。
さて、ここで講師として名前の出ていた森・岡野両先生に
ついて若干の思い出があるので書いておこう。
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遊 び に 来 る よ う に と お 誘 い を 受 け た こ と が あ っ た。 そ れ は、
山 根 一 郎・ 戸 田 正 勝 両 君 と 私 が、 山 隈 先 生 の 指 導 で﹃ 吾 妻
鏡﹄︵鎌倉幕府編纂の公的記録︶の輪読会︵勿論、輪読とは
名ばかりで、殆ど一方的に山隅先生が読み、解釈され、私た
ちはそれについて行くのが精一杯であった︶を行っていたこ
とを知って、結城朝光の墓のある称名寺に案内してくださる
というのであった。喜んで三人でお伺いしたところ、さらに
市内の旧家赤荻家︵茶問屋であったと記憶している︶に収蔵
されていた古文書︵結城家の相伝文書であった松平基則所蔵
文書が戦後散逸し、一部が赤荻家の所有になっていた︶を拝
見できるように、先方に話を通していただいており、ご自身
も同道してくださった。貴重な古文書をカメラに撮ることが
出来、この時写した古文書は今も大切に保管している。高校
︵未了︶
生にそこまでしてくださった先生には今も感謝の気持ちで一
杯である。
︵地歴公民科
副校長︶
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ଟ ே ⦥
佐賀インターハイ報告
君とともに開催地の佐賀県嬉野市に赴
いた。
萩 原 君 は 二 年 次 に 高 校 総 体 エ ペ 種 目・
準優勝という見事な活躍をして周囲を驚
かせた。さらに、今年の六月にはカザフ
スタンでのジュニア・カデ・アジア選手
権 大 会 に 日 本 代 表 と し て 出 場 す る な ど、
これからの努力次第では日本を背負う大
選 手 に 育 つ 可 能 性 を 秘 め た 選 手 で あ る。
と こ ろ が、 勝 負 の 世 界 は 厳 し い も の で、
さ て、 あ ま り 馴
染みのない競技な
の で、 俄 か 勉 強 の
私が簡単にルール
者が必要とのことであった。指導してい
事前に大会本部より連絡があり、大会
出場を認める条件として学校の引率責任
定 ﹂ で の 特 別 規 定 選 手 で の 出 場 に な る。
高体連推薦選手として﹁別途に定める規
本校では部が設置されてないので、県の
萩原宏樹君がこの夏、フェンシングで
全国高校総合体育大会の出場資格を得た。
エペを必死に練習することがお世話に
係者に助言・励ましを受けて、萩原君も
与えた試練だ﹂と父親やコーチ、競技関
が 抜 け た よ う で あ っ た。 そ の 後、﹁ 神 が
ただけに、試合後に報告に来た時には力
本人はエペ種目で全国優勝を目指してい
場 権 を 得 る と い う 皮 肉 な 結 果 と な っ た。
ないフルーレ種目の方で優勝を果たし出
得意のエペ種目で二位に沈み、出場権を
め、 そ の 練 習 と し て 十 七 世 紀 中 頃 か ら、
決闘にだけ使われていくようになったた
剣による戦いは男と男の戦い、すなわち
種 目 は、 火 薬 を 使 用 し た 武 器 の 出 現 後、
つき、得点になりません。ちなみにこの
ます。そこ以外を突くと、白いランプが
ランプ︵赤または緑︶がつき得点になり
山下
宏
る萩原君の父親が勤務先の高校でも出場
ルールを盛り込んだ﹁フルーレ﹂という
ます。
を解説しておき
権を得て、そちらの監督引率に登録され
なっている人への感謝と悟って、一段と
◆
◆
◆
②エペで得点になるのは、つま先から
失ったのである。そして、あまり得意で ① フ ル ー レ は 上 半 身 の 写 真 網 掛 け 部
分︵有効面・図A︶を突くと審判器の色
ているので掛け持ちは認められないとい
種類の剣術になったと言われています。
図B
練習に打ち込んだ。
その萩原君が七月の栃木県総体予選で
※■部分が有効面
うのである。驚いてすぐ学校長に事情説
明 引 率 許 可 を 得 た。 こ う し て 私 が 萩 原
Ƚ
ȽȁĶIJȁȽ
Ƚ
図A
図C
※■部分が有効面
※■部分が有効面
頭までの全身です。どこを突いても得点
立って紹介される素晴らしいものだった。
出場校の校名がアナウンスされて各々が
開会式は実に綿密に用意がなされ丁寧に
で は、 第 三 シ ー ド に 格 付 け さ れ て い た。
発表された決勝トーナメントの組合わせ
少ないということで、全ピット試合後に
これは三位内入賞の可能性が大であると
いうことである。
てしまい、席を立ち上がるなど傍若無人
追いかける。中には応援に熱が入り過ぎ
わっていたのである。
違って十五ポイント先取に競技方法が変
大差の十五対五で勝つ。予選リーグとは
駆けつけ、ビデオカメラを持って選手を
である。応援に全国から親族・応援者が 決勝トーナメントは午後三時に開始さ
れた。一回戦は青森北今別高の神選手に
次の日、試合が開始された。狭く蒸し
暑い会場は二階の応援席まで超満員状態
になります。
︵図B︶
③サーブルでは、頭と上半身を突くと
得 点 に な り ま す。︵ 図C ︶ 剣 は 手 を 囲 う
大きなガードの付いた平らな剣身を持つ
柔軟なものを用います。
の振る舞いをする者も居る。つくづく、日
◆
◆
◆
試合前日の練習場では萩原君は各県の
監督・選手からしきりに声をかけられて
のである。萩原君を見ると、その﹁らし
予選リーグ四戦全勝で、しかも失点が
に全て完勝という快進撃である。これで
後は入賞との期待が膨らんだ。
県の選手団も集まってきて二階応援席か
のような彼と違う戦法である。相手は下
が る と 見 せ か け て、 一 瞬 の 攻 め に 出 る。
Ƚ
ȽȁĶijȁȽ
Ƚ
いた。エペを得意とする萩原君がフルー
レでどんな試合をするのかということで
本は何かが変わってしまったと嘆息する。 二 回 戦 は 東 京 東 亜 学 園 の 山 田 選 手 に
十五対七で圧勝してベスト 入り。
注目されているようだ。練習場はレンタ
萩原君は予選リーグ十三プールに入っ
て五人による総当たり戦を行った。
いよいよベスト8戦である。ここまで
予選リーグ、決勝トーナメントの六試合
ルの小体育館で太い鉄骨の組み建てに競
技用の床が取り付けられている、まこと
私 自 身 も 武 道 の 経 験 が あ る の で、 試
合着の着こなし、立ち振る舞いなどであ
さ﹂が一級品と感じられた。
る程度は相手の強さを計れることを知っ
場 は 狭 く、 試 合 を す る ピ ッ ト が 真 っ 直
廊下が取り付けられていて会場の市民体
ぐに八ピット取れず斜めに無理やり押し
さを発揮して、実に堂々とした試合運び
育館に移動できるようになっていた。会
ではというのが第一印象であった。周囲
を見せてくれた。
場は覚えがないとの反応だった。しかし
ら大きな声援を送ってくれている。
込む苦肉の策を取っていた。各ピット間
試合が開始されると萩原君は、予想に
序盤に萩原君は勝ち急ぐように果敢に
は狭く、これでは選手が集中できないの
違わず、他の四人を全く問題にしない強
攻めたてる。これまでの冷静で精密機械
の方々も大きな大会で斜めに配置した会
ベスト8戦、和歌山北高の松尾選手と
ている。体全体から﹁らしさ﹂がでるも
の試合は午後五時半を過ぎていた。栃木
に簡単な施設であった。しかし、特設の
16
それがタイミング良く決まり、連続三ポ
分︶や電柱などの資材は自己負担であ
更に設置のための工事期間も長期に亘り
り、 そ の 準 備︵ 調 達 ︶ も 大 変 で あ っ た。
電話今昔
実際に電話が開通するまでには相当の時
間を要した。
場・駐在所・診療所などの公的機関が中
敗戦のショックを心配していたが、更 私が小学生の頃︵昭和三〇年代︶の地
衣 を 済 ま せ た 彼 は 悔 し さ を 胸 に し ま い、 域における固定電話の加入者は学校・役
相 手 の 電 話 番 号 を 伝 え て 接 続︵ 待 時 式 ︶
し て、 交 換 台︵ 交 換 手 ︶ を 呼 び 出 し、
合は電話機の右横にあるハンドルを回
話 番 号 は 二 桁 で あ っ た。 通 話 を す る 場
渡邉
勇
イント先取されてしまう。
中盤、戦法を修正してからは一進一退 を繰り返すものの、追撃及ばず、終いに
十対十五で敗れて夢は消えた。
昭和三十二年に待望の電話が我が家
に も 開 通 と な っ た が、 こ の 時 代 の 電 話
心で一般家庭は極めて少なかった。父は
機 は ダ イ ヤ ル 式 以 前 の も の で あ り、 電
本 来 の 爽 や か な 顔 に 戻 っ て い た。 私 は
当時、郵政省の公務員であり日本電信電
もかなり厄
自 動 即 時 通 話 と 違 い、 電 話 の 使 用 方 法
Ƚ
ȽȁĶĴȁȽ
Ƚ
私は不得意のフルーレでここまで勝ち
進んだ彼の戦いに心が熱くなっていた。
︻初期のころ︼
張って帰ろう﹂と声をかけるのが精一杯
﹁ 萩 原、 立 派 な 戦 い ぶ り だ っ た よ、 胸 を
とに奔走したが、その時点では実現しな
介なもので
し て も ら い、 初 め て 会 話 が で き る シ ス
かった。そこで仕方なく個人的に個定電
あ っ た。 特
テ ム で あ っ た。 現 在 の 国 内・ 国 際 間 の
徒歩で宿舎に戻る彼の背中を見守りな
がら、私は今後の彼の成長を願って無言
話︵ 単 独 電 話 ︶ を 設 置 す る こ と に し た。
に 市 外︵ 遠
話公社との関係も深く、山村における地
の エ ー ル を 贈 っ た。
︿ 萩 原 君、 君 こ そ 日
それは私的にも、祖父母と病人を抱え緊
域電話網︵農村集団電話︶を整備するこ
本男児だ。日本を背負う選手に必ず成長
急の場合に備える必要があったからでも
だった。
するんだ、君ならできる﹀と。
︵体育科 部活動委員長︶
合、 例 え ば
電話する場
東京へは地
隔地︶に
期間で設置・通話が可能となるが、その
元の交換局
ある。現在ではNTTに電話加入の申し
当時の新規設置者は自宅から基幹線︵本
込みをすれば特別の事情がない限り、短
線 ケ ー ブ ル ︶ ま で の 電 話 線︵ 銅 線 二 本
磁石式電話機
からないので電話機のそばを離れるこ
の 時 間 が か か り、 い つ 接 続 さ れ る か わ
し、 回 線 の 空 き を 待 っ て 接 続 す る た め
から東京まで何カ所もの電話局を中継
クでしばらくは電話恐怖症に陥ったこと
けですかと言われ冷や汗をかき、ショッ
﹁こちらは○○医院です﹂どちらにお掛
に伝え続けた。終わった途端、先方から
手に伝えたことも知らず、用件を一方的
焦っていたため間違った電話番号を交換
徒名簿の電話欄には﹁電話番号﹂、
﹁︵呼︶
宅 の 電 話 所 有 率 は 約 五 〇 % で あ り、 生
校 に 赴 任 し た 昭 和 四 十 三 年 当 時、 生 徒
代 に 一 般 家 庭 に 普 及 し 始 め た。 私 が 本
昭和四〇年代、日本は高度経済成長を
続 け、 電 話 も 一 九 七 〇︵ 昭 和 四 五 ︶ 年
マナー︵間違い電話︶を忘れて大失敗を
度や二度の経験があると思うが、電話の
た。 そ ん な 中、 電 話 の 使 用 で 誰 で も 一
すこと、そして長電話は厳禁などであっ
応対するように心掛け、用件を簡潔に話
手の顔が見えないからこそ丁寧な言葉で
しく躾けられた。特に、電話の場合は相
私の家では父の職業柄、電話使用のマ
ナーについては受話器の上げ下げから厳
肉を言われ、そばにいた父が苦笑してい
ではあるが﹁末が恐ろしい息子﹂だと皮
の技師は自分の仕事が奪われたため冗談
ず数日後に遠路修理に駆けつけた電話局
せ満足していた。しかし、それとは知ら
竿を担いで数カ所の絡みを解いて復旧さ
して設置されている電話線の下を長い竹
していた。私はそんな時、通学路に平行
が絡まることによって接触障害を起こ
は 強 風 に よ り 電 話 線︵ 二 本 線 の 裸 銅 線 ︶
話が不能となることが度々あった。原因
では数日かかった。特に台風の時期は通
電話の不通︵故障︶時の電電公社の対
きるまでには一時間ほど待つのが普通
応も現在と違って機動性に乏しく復旧ま
が 使 用 さ
シ︵ 電 文 ︶﹂
連絡は電報﹁シキュウ、ライコウサレタ
病気などが発生した場合の保護者への
ま た、 電 話 の な い 家 庭 に は 生 徒 に 事 故・
の 緊 急 連 絡 に 使 用 す る も の で あ っ た。
が、 近 所 の 電 話 所 有 者 を 介 し て 家 庭 へ
し電話とは生徒の自宅には電話はない
そ し て﹁ 空 欄 ﹂ が 並 ん で い た。 呼 び 出
︻一般の家庭に普及しはじめた頃︼
と が で き な か っ た。 特 に 急 用 の 場 合 は
があった。
高 料 金 と な り、﹁ 特 急 ﹂ ま た は﹁ 急 行 ﹂
したことがある。それは電話が開通して
︵特別料金︶で申し込みをしても通話で
間もない頃、近所に住む叔母に頼まれて
た。これも今となっては懐かしい思い出
︻私と電話︼
れ た。 こ れ
の つ い た 電 話 番 号︵ 呼 び 出 し 電 話 ︶﹂、
親戚に電話をかけることになった。叔母
である。
らもすでに
四十年前の
ことである
が昨日のこ
とのように
思える。
Ƚ
ȽȁĶĵȁȽ
Ƚ
であった。
の用件を忘れないうちに伝えなければな
ら な い と 無 我 夢 中 で 電 話 機 に む か っ た。
ダイヤル式電話機
ハ ム・ ベ ル が 電 話 機 を 発 明 し た の が
ア メ リ カ 人 の ア レ ク サ ン ダ ー・ グ ラ
的な発展を遂げ現在に至っている。
企業の参入を経て、国内外電話網が飛躍
民 営 化︵ 現N T T ︶
・電気通信サービス
本電信電話公社の設立、その後の公社の
が廃止され、一九五二年︵昭和二七︶日
一八七六︵明治九︶年。以後、日本で固
︻ 進化する電話 ︼
定電話︵単独電話︶による電話サービス
心にとめておきたい言葉
第十四集
にベルも電気通信技術がここまで進歩す
入者数を越えるまでに発展した。さすが
〇〇〇︵平成十二︶年には固定電話の加
電話サービスが開始されて十三年後の二
電話は、一九八七︵昭和六二︶年に携帯
紀後に登場した現在の移動体通信の携帯
も多く、悪質なWe bサイトやメールに
現代では通信や情報交換における問題点
ている。しかし、携帯電話が一般化した
り、現在では大人から子供にまで普及し
で、その効用は大いに認めるところであ
個人に連絡ができる手段として誠に便利
動中・在宅、更には国内外を問わず直接
に携帯電話の出現は固定電話と違って移
人の前でぶざまに
まける練習
受身とはころぶ練習
柔道の基本は受身
ます。
の参考になりそうなものを四つほど載せ
回はクラスの生徒が卒業なので、卒業後
早いもので十四集目になりました。も
う載せた言葉も軽く百を超えました。今
小塙
研一
ることを予想することはできなかったに
よ る ト ラ ブ ル、 更 に は 個 人 情 報 の 流 出、
︵ 東 京・ 横 浜 ︶ が 開 始 さ れ た の は 一 八 九 今日までの電信技術の飛躍的な発展は
日常生活に大きな変化をもたらした。特
〇︵明治二三︶年である。それから一世
違いない。
通信費用の高額化など様々な問題が多数
恥をさらす稽古
戦 後、 日 本 は 労 働 の 民 主 化 に よ る 所
得の増加と高度経済成長により、国民全
発生しているのも事実である。
受身が身につけば達人
体の生活水準が向上し、三種の神器︵洗
まけることの尊さがわかるから
相田みつをさんとか星野富弘さんの詩
は ほ ん と い い で す よ ね。 癒 し 系 で す ね。
相田みつを
前述の通り私と電話との係わりにおい
濯機・冷蔵庫・テレビ︶を中心に消費意
て、携帯電話を否定するわけではないが
当分の間は固定電話派でゆったりと生活
欲が高まっていた。この時点での電話に
ついては伝達手段としては重要であった
して行きたいと思うこの頃である。
︵情報処理科︶
が、直接生活に必要不可欠なものではな
かった。しかし、電信電話事業の改革が
スタートすると、それまでの電気通信省
Ƚ
ȽȁĶĶȁȽ
Ƚ
好 き な 人 が た く さ ん い る と 思 い ま す が、
間になってほしい。本校の校訓はとても
みましょう。
ば 天 国。﹂ 自 分 の 仕 事 を お も し ろ く し て
う。 忙 し い あ わ た だ し い 世 の 中 か も し
楽しけりゃいいってものじゃないでしょ
のが何かを。友達にしても、ただ遊んで
と考えてほしい。人間にとって大切なも
確かでしょう。卒業していく諸君にもっ
と呼ぶにはほど遠い人が増えているのは
的に恵まれて、物中心に考え、心が人間
よいと思われる生徒が多すぎます。物質
少し人間として大切なことを考えた方が
人がいるわけです。つまらないはあくま
とがわかります。必ずおもしろいという
まらない仕事というものはないというこ
ます。よくよく考えてみれば、万人につ
おもしろいと思ってやってる人は必ずい
事だけじゃなく、勉強でもスポーツでも
と先生にとってはとてもいやな生徒。仕
ることへ反対だけはする。はっきり言う
かと聞くと当然何もない。それでいてや
うになった私も年を取りましたが、もう 文化祭などで何をやってもつまらない
という生徒がいます。じゃあ何がいいの
ともしない。最近の若い人は、と言うよ
で主観なのです。迂闊につまらないと言
と119番したら、話し中なんです。結
う。 余 談 で す が、 火 事 の 連 絡 を し よ う
ますよ。落ち着けと言うのは無理でしょ
た こ と が あ り ま す が、 と に か く あ わ て
います。私ももらい火で家が火事になっ
対策を一度でもやっておけば、違うと思
になるとやっぱりパニックですよ。準備
ないという人もいるでしょうが、その時
高いのではないでしょうか。考えたくも
体験をしておいた方が、生き残る確率は
レーションというか、一度、対策の模擬
も ち ょ っ と 驚 き で す。 や っ ぱ り シ ュ ミ
言葉が寺田寅彦さんのものだというの
あまりにありふれているかもしれま
せ ん が、 そ の 通 り だ と 思 い ま す。 こ の
天災は忘れた頃にやってくる
いいよ。忘れないでね。
つまらない仕事というものはない。
ま っ た く 見 向 き も し な い 生 徒 も い ま す。
そういう生徒に限って自己中心的で他人
れない。時間がないのも確か。それでも
うのは危険ではないでしょうか。福沢諭
つまらないと思う心があるだけだ。
たまには、ちょっと立ち止まって、相田
吉の心訓の中にこういうのがあります。
のことはあまり考えない。また考えよう
みつをさんとか読んでみたらどうでしょ
ちょっとの時間でしょうが、無駄な時間
う。彼の詩がなんとなくでいいから、分
でした。消火作業にはいるのが遅れたよ
局 つ な が ら な か っ た。 ま わ り の 人 が み
ろくなければ、一生を貫くなんて無理で
うな気がします。人間は間接経験から学
んな電話していたからでしょう。ほんの
し ょ う。 こ う い う の も あ り ま す ね。
﹁仕
﹁世の中で一番楽しく立派なことは、一
人生の受け身ができる人って、意外に
少ないと思います。負けることはだれに
事がつまらなければ地獄、おもしろけれ
生 を 貫 く 仕 事 を 持 つ こ と で す。﹂ お も し
で も あ る。 そ の あ と 立 ち 上 が れ る か が、
かる人間になってほしいです。
人生の岐路なのでしょう。強く明るい人
Ƚ
ȽȁĶķȁȽ
Ƚ
べ ま す。﹁ 備 え あ れ ば 憂 い な し。
﹂
﹁ない
は
〝おっちゃん〟のいることを期待した。
言 う と こ ろ の チ ー マ ー︵ こ れ も 死 語?︶
し い。 母 に 言 わ せ れ ば﹁ 愚 連 隊 ﹂
︵今で
ぐ れん たい
と思うな運と災難﹂災難に遭った時生き
千葉の〝おっちゃん〟
そんな〝おっちゃん〟も中学・高校生の
ころは、とても荒れた生活をしていたら
延びる強さを持ちましょう。
自分流を作れ
か な?︶。 ケ ン カ や 酒・ タ バ コ は 当 た り
川市にある大手製鉄会社の工場を勤め
〝おっちゃん〟
。私の母と同じ年
千葉の
齢 だ か ら 六 十 五 才 に な っ た。 千 葉 県 市
ん 〟の 母 親 ︶ は よ く 捜 し 回 っ た︵ 片 道 一
遊 び ま わ っ て い た 彼 を 伯 母︵〝 お っ ち ゃ
学校にもほとんど通かず、あちらこちら
ていたそうだ。家にはたまに帰るだけで
坂本
一成
型を持っているということはよいこと
あげ、定年を迎えた。妻・娘二人の四人
時間かかる県内最大の街に行き、一日中
前。それこそやくざまがいのこともやっ
だと思います。オリジナルというのは自
家族。顔は、少し目の鋭くなった﹁前田
自分流の代表はイチロー選手でしょ
う。 天 才 の 彼 ほ ど で な く て も、 自 分 の
信につながると思います。ただ、忘れな
吟﹂。
い
いでほしいのは、あくまで基本は基本で
〝 お っ ち ゃ ん 〟に は、 小 学 生 の 夏 休 み、
両 親 の 故 郷 で あ る 秋 田 に 帰 省 し た と き、
は違い、家族を、そして多くの人を困ら
のこと。私の知っている
〝おっちゃん〟
と
ぎん
あるということです。基本というのは長
ので、上達進歩の一番の近道だと思いま
〝 お っ ち ゃ ん 〟が 帰 省 し て い れ ば、 よ く
駅前で待っていたこともよくあった︶と
す。ただ、自分の工夫というのは楽しい
遊 ん で も ら っ た。 一 番 よ く や っ た の は
い間多くの人が研究し作り上げてきたも
し、やる気もでるでしょう。基本の上に
たらよいのではないでしょうか。前に挙
省先で遊び相手がいないときに時間をも
時間でも付き合ってくれたのだから、帰
ほとんどなくなっていったが、もう十年
せ、傷つけていたようだ。
成り立つ自分流というのを作り上げられ
私が成長するにつれ、秋田への足も次
キャッチボール。それこそ一時間でも二
第に遠のくと〝おっちゃん〟に会う機会も
げ た 自 分 の 仕 事 を 楽 し く す る た め に も、
近く前になるだろうか、伯母の葬儀で久
白くなったが、その表情は昔と変わらな
しぶりに〝おっちゃん〟と再会した。髪は
か っ た。﹁ 一 成、 こ っ ち へ 来 い!﹂ と の
てあましていた小学生には、まさに神様
明るく朗らかだったので、
〝おっちゃん〟
誘いに二十年という時の隔たりはなくな
だった。気性はさっぱりしていて、尚且
︵外国語科︶
は親戚の子供一同に人気があった。もち
自分流を作ってみましょう。
ろん私も大好きだった。帰省するときに
Ƚ
ȽȁĶĸȁȽ
Ƚ
は 及 ん だ︵﹁ 愚 連 隊 ﹂ の 話 も、 そ の と き
後日、私と母の間で伯母の葬儀の話に
なったとき、
〝おっちゃん〟
のことへ話題
かった。
ても〝おっちゃん〟
の家族はとても仲が良
婚 は し て い な か っ た。 そ し て 端 か ら 見
かの〝べっぴんさん〟
になっていたが、結
た二人の娘も二十代半ばをこえ、なかな
ん 〟は 家 族 を 伴 っ て い た。 当 時 小 さ か っ
み 交 わ し ︶ を し た。 も ち ろ ん〝 お っ ち ゃ
り、年齢相応のキャッチボール︵酒の酌
切に思っているのだろう。だから、結婚
親を、そして家族を信頼し、何よりも大
〝おっちゃん〟
だからこそ、二人の娘は両
く 叱 責 し た と の こ と だ っ た。 そ ん な
かったとき
〝おっちゃん〟
は、家族を厳し
ないのが約束。これらのことが守られな
ていた。勿論、家族はそのことを口外し
て家族にだけ話を聞かせてもよいと教え
のならないときはだけは、家に帰ってき
してはならない。ただ、どうしても我慢
人も自分も貶める、そんな行為は絶対に
と を 強 く 意 識 し た の だ そ う だ。 だ か ら
い。何らかのかたちで逃げ出すかもしれ
かえるかと問われたら自分でも自信がな
わけではない。どこまでも苦痛に立ち向
を経験してきたゆえに私でもわからない
ちは、大人になるまでに多少は嫌な思い
神的苦痛から何とか逃れたいという気持
者の肉体的苦痛、あるいはそれ以上の精
に際立ってしまう。ただ、いじめられる
こそ、命の抹消という軽率な行為が余計
尊重〟が大きく叫ばれている現在だから
な っ た。 様 々 な メ デ ィ ア を 通 し て〝 命 の
逆に簡単に人の命を奪う若年層も多く
命 を 投 げ 出 し て し ま う 者 が 多 い。 ま た、
おとし
に 聞 い た ︶。 そ の 中 で 特 に 興 味 深 か っ た
もなかなか話題にならないのかもしれない。
ない。そんな精神的苦痛の原因の一つに
のは二人の娘が結婚しない理由と思われ
〝悪口や陰口〟が必ずある。〝悪口や陰口〟
るものだった。
〝いじめ〟
を原因とした就学生の
昨今、
〝自殺〟
が再びマスコミを賑わせるように
は人を殺す完全な〝いじめ〟、そして〝凶
れをおこなっている者も多い。人のマイ
器〟なのである。
て も 弱 く な っ て い る、 あ る い は マ ス コ
ナスを並べ立てることで自己を優位な立
な っ た。 私 が 子 供 の 頃、﹁ い じ め に よ る
ミの発達により﹁いじめによる自殺﹂に
場に置こうと〝悪口や陰口〟を必死に、あ
自殺﹂の報道はなかったことから考え
の 悪 口 や 陰 口 を 言 わ な い こ と。
﹂なのだ
ついて情報が、われわれの耳に届きやす
るいは嬉しそうに語っているその姿はと
は、家族に対し、あまり
〝おっちゃん〟
何かを言うことはないらしいのだが、一
そうだ。〝悪口や陰口〟
は人の心をを傷つ
くなり、それが引き金となって新たな自
ても醜い。⋮⋮と述べている私自身、口
つだけいつも厳しく言っていることがあ
け、その場の雰囲気を、そして人間関係
殺を誘発しているのかもしれないが、と
て み る と、 今 の 子 供 た ち は 精 神 的 に と 大人の世界でももちろんそれは存在す
る。普段、人格者然としていながら、そ
を悪くするのはもちろんのこと、自分を
にもかくにも
〝自殺〟
という手段で簡単に
るのだという。それは﹁外では決して人
賤しくする最悪の行為。仕事をしていく
いや
中で、幾度も見、自らも経験してそのこ
Ƚ
ȽȁĶĹȁȽ
Ƚ
だと自覚しているにもかかわらず、口を
つけているはずだ。それは恥ずべき行為
自分でも気付かないうちに多くの人を傷
に し て し ま う こ と も 多 い。 そ の 行 為 は、
よい場所を確保しようとする精神面での
作って自己満足を得、また自分に都合の
かりを取り上げ話題にし、小さな仲間を
徒の諸君。もうそろそろ人のマイナスば
だろう。中学一年二組の、そして全校生
たち
ついてでてしまうのだから尚更質が悪い。
﹁ 愚 連 隊 ﹂を や め て、 相 手 の プ ラ ス を 見
て評価できる、そんな自分になってみた
若い頃に家族を困らせ、多くの人を傷
つ け る﹁ 愚 連 隊 ﹂ だ っ た〝 お っ ち ゃ ん 〟。
今では自分の家族をひきつけてやまない
大人になった。あの暑い夏の日、キャッ
チボールした頃の
〝おっちゃん〟の年齢を
明日は新しい日
亀山
瞳
To m o r r o w i s a n e w d a y w i t h n o
らどうだろうか。そうすれば、どんな人
mistakes in it yet.
も受け入れることができるし、もちろん
こ れ は、﹁ 赤 毛 の ア ン ﹂ で 知 ら れ る、
﹁ 仲 間 ﹂ も 増 え る だ ろ う。 そ し て そ の 中
という物語に出
Anne of Green Gables
て く る 言 葉 の ひ と つ で あ る。 こ の 言 葉
きつけられる大人になっただろうか。問
ように家族を、そして周囲の人たちをひ
だ。
なれば間違いなく人生は楽しくなるはず
本当の友人もできるかもしれない。そう
と も な か っ た 私 が、 そ の 言 葉 を 聞 い て、
三ヶ月。それまでホームシックになるこ
ムステイ先でのことである。留学に来て
に出会ったのは、二年前、カナダのホー
から生涯に渡って付き合うことのできる
われれば、﹁否。
﹂と答えるほかない。外
〝おっちゃん〟は、いつも穏やかで、い
とうにこえた自分。私は
〝おっちゃん〟
の
見は年相応に〝おっちゃん〟になっても、
思わず泣いてしまったのを覚えている。
ルバータ州エドモントンに位置する、ア
き い き と し た 表 情 を し て い た。 そ し て、
い。そして、これからの人生もそうに違
中身は遠く及ばない。わかっていながら
いない。
も、いまだに多くの人を困らせ、傷つけ
ているかもしれない現在、私は精神面で
私は、大学三年生の九月から大学四年
老いを迎えた今もきっとそうに違いな
生の五月まで、約九ヶ月間、カナダのア
﹁愚連隊﹂なのかもしれない。
ルバータ大学に交換留学をしていた。高
学の講義についていくのは予想以上に大
待いっぱいでスタートしたが、現地の大
校生の頃から念願だった留学生活は、期
の〝悪口や陰口〟
に関係して起こるトラブ
変だった。
︵国語科︶
ルが私を悩ませることのひとつだ。今年
教 師 な っ て 十 年 以 上 経 つ。 久 し ぶ り
に中学校担当になり担任になったが、こ
一年、苦しんだ生徒もたくさんいること
Ƚ
ȽȁĶĺȁȽ
Ƚ
留学先では、主に教育や言語学の授業
を取っていたが、予習で読み込んで来な
位がもらえていた。レポートを評価して
年が明けて、成績が出た。教育の授業
授業に集中した方が良いのではないか。﹂
の結果は、良い成績ではなかったが、単
とさえ考えた。
も ら え た の だ。 も し 単 位 が 出 な く て も、
そ し て、 三 ヶ 月 程 経 ち 大 分 生 活 に も
慣れた頃、ある出来事があった。教育学
る毎日だった。
に、大学の図書館に通い、必死に勉強す
う 思 っ た。﹁ 教 育 の 授 業 に し て も、 受 講
つまでも抱えていても仕方ないんだ。そ
に取り組んでだめだったなら、それをい
とは大切である。けれども、本当に真剣
ん、今日の反省を明日に生かしていくこ
たり、失敗したりの連続だった。もちろ
ということを忘れずに、前に進んでいけ
りしながらでも、明日は新しい日がくる
う。それでも、立ち止まったり、転んだ
生でも、失敗は無くなることはないと思
なることもある。たぶん、これからの人
りの人に迷惑をかけて、自分が情けなく
がよくあった。今でも、そうである。周
授業を受け続けたことに後悔はなかった
そ ん な 時、 ふ と し た き っ か け か ら 見
ければならない教科書の量や、レポート
たビデオの中で、あの﹁赤毛のアン﹂の
の中間試験で、かなり悪い点数を取って
し 続 け る か、 止 め て し ま う か、 そ ん な
たら、と思う。
言 葉 に 出 会 っ た の だ。 こ の 言 葉 を 聞 い
やプレゼンテーションといった課題がか
しまったのだ。授業も、試験勉強も、一
こ と 考 え て い て 何 に な る ん だ ろ う。 私
なり多く、留学生だからといって特に考
生懸命やったつもりだった。でも、全然
は、良い成績を取りたくてカナダに来た
と思うが、それでも、自分の努力が認め
できなかったのだ。成績は期末のレポー
のではない。日本では学べないことを学
てもらえた気がして嬉しかった。
トで挽回できるのか、単位はもらえるの
びたくて、わざわざここまで来たんじゃ
た と き、 私 は ハ ッ と し た。 思 い 返 し て
か。不安になった私は、すぐに担当教授
な い か。
﹂ と 思 っ た。 そ し て、 私 は 悩 む
み れ ば、 留 学 に 来 て か ら、 日 本 で は 楽
の研究室へと足を運んだ。教授に相談す
のをやめて、最後までその教育の授業に
慮されることもなかった。
﹁英語を学ぶ﹂
る と、﹁ 期 末 の レ ポ ー ト で よ っ ぽ ど 良 い
出続けた。最終課題のレポートは苦労し
の で は な く、
﹁英語で学ぶ﹂という環境
成績を取らないと、単位をあげるのは難
たが、自分なりに満足のいく出来に仕上
の 中 で、 授 業 に 何 と か つ い て い く た め
し い。﹂ と 言 わ れ、 私 は と て も 悲 し い 気
がった。
そ の 後 の 留 学 生 活 で も、 日 本 に 帰 国
にできることができなかったり、戸惑っ
してからも、私は、失敗してしまうこと
持ちになってしまった。どうしたら良い
︵外国語科︶
か わ か ら ず、
﹁ こ の 授 業 は 諦 め て、 他 の
Ƚ
ȽȁķıȁȽ
Ƚ
一人暮しも楽しいもの
た。最近ワイシャツの襟元が少しだけ苦
ながらこの一年間で三キロ程オーバーし
心掛けてきたつもりである。しかし残念
ク﹄も同じだ。私の住まいの前にはマク
の朝と変わらない。月に一度の﹃朝マッ
はしていないのだが、どうも実家の休日
近は好んで飲むようになった。特別意識
ないけれども、一通りはこなしているつ
ないが、休日ぐらいは主婦とまではいか
一 昨 年 の 十 一 月 か ら、 一 人 暮 ら し を
始めた。出勤日はそうそう家事などでき
いいからだ。暑かろうが寒かろうがすべ
まう。その方が心地よい緊張感があって
外出してもいいような服装に着替えてし
ジャマやスウェットではない。そのまま
時 に は 寝 床 を 飛 び 出 し て 活 動 開 始。 パ
いのに、時間がもったいなく思えて、八
休日に話を戻そう。せっかくの休みな
のだから、もっとゆっくり寝ていればい
が 始 ま る の で あ る。 悪 い こ と で は な い。
う。そしてその常識から休日の私の一日
又家の﹁常識﹂の中で生きていくのだろ
育ってきたのだ。おそらくいつまでも菅
たからといっても、やはり私はあの家で
かしら似ているような気もする。家を出
グの造りや家具の配置なども実家とどこ
ド ナ ル ド が あ る。 そ う い え ば、 リ ビ ン
しい。
もりだ。普段の日だって少しだけ早起き
菅又
和彦
して弁当など作っているし、十時を過ぎ
こ れ も ま た、 ホ ー ム シ ッ ク と い う の か。
か﹁ ア ッ パ レ ﹂ と い っ た 人 生 の ベ テ ラ
妹のエプロンも黒だった。私の愛用も黒
る。 塩 コ シ ョ ウ の 効 い た ソ ー セ ー ジ と
ンたちの気合を横目に見ながらトースト
ての窓は全開、網戸は忘れない。洗濯機
ふんわりトロトロのオムレツをこしらえ
をかじると、さっさと洗いものをして次
を回すが、その間に朝飯の準備。休日の
昨夜は厚揚げと葱を出汁醤油で煮て玉子
る。一年間の自炊で一番上達したのがオ
はクリーナーをかける。英国製というこ
た帰宅なら外食も考えるが、夕飯だって
ひとつでとじてみた。味噌汁の具はキャ
ム レ ツ で あ る。 コ ー ヒ ー、 ポ タ ー ジ ュ、
のダイソンのクリーナーはすこぶる快調
一汁一菜を心掛けて手早くパッパと準備
ベツとスライスされている干し椎茸であ
ヨ ー グ ル ト ド リ ン ク の 中 か ら 二 品。 当
だ。強烈な吸気音は当分の時間、私の耳
である。
る。椎茸の香りがよろしい。さえない食
然、 生 野 菜 は 欠 か し て は い け な い。 朝
を無感覚にするが、平日は掃除などする
朝はバタートーストと決まっていて、ブ
事ではあるけれども、台所に立つことが
からたいそうなご馳走がならぶ。実家に
している。理由は簡単だ。野暮なことだ
気分転換になっているらしく、これはこ
いる時にはあまり飲まなかった牛乳を最
ル ー ベ リ ー の ジ ャ ム を た っ ぷ り と 乗 せ TBS﹃サンデーモーニング﹄でのO
沢親分と三千本安打のH本氏の﹁喝﹂と
れ で 結 構 楽 し い。 お 味 は と も か く だ が。
が、楽とはいえない家計ゆえ。ちなみに
油や肉類などはできるだけ控え、薄味を
Ƚ
ȽȁķIJȁȽ
Ƚ
これから一人暮らしを始める方々にはこ ルーティーン作業が終わればちょうど
シ ョ ナ ル の V R シ リ ー ズ を 使 っ て い る。
となった。その一つが洗濯機であり、ナ
しているいくつかの家電製品は他社製
が、東芝製品がすべてではなく、今使用
エ さ ん ﹄ は 日 曜 の 夕 方 に は 欠 か せ な い。
生とともに放映が開始されたフジ﹃サザ
東芝製品は私の誇りでもあるし、私の誕
たし、東芝があって私は育った。今でも
実家の家電製品は東芝製と決まってい
が東芝に勤めていたので、小さい頃から
女 性 の 声 で﹁ 運 転 が 終 わ り ま し た ﹂
。父
ともに洗濯機から我が家には大変貴重な
と モ ッ プ が 役 目 を 終 え る 頃、 電 子 音 と
しまうのはどうしてだろう。クリーナー
リで真っ黒である。思わずニンマリして
具の隙間などの後、モップを見るとホコ
て紙モップがあって、テレビや書棚、家
さえ覚えてしまう。最近は便利な使い捨
クモクと増殖するホコリの塊には嘔吐感
除をしている実感は迫るが、あれほどモ
塊。透明のカプセルに見えているので掃
に時間をかける。溜まる溜まるホコリの
余裕はないので、休日はここぞとばかり
運動である。
を磨き上げる。汗をかくほどの結構いい
と﹁バスマジックリン﹂を使って浴室内
一時間の入浴となる。その湯船の残り湯
いて、半身浴も可。読書などもするので
むことにしている。浴槽が二段になって
張ってどっぷりとゆっくりと入浴を楽し
るが、でも土曜の夜だけは湯船にお湯を
のためほとんど毎日、シャワーにしてい
度、土曜の夜のみ。ガス代・水道代節約
い ろ い ろ と 忙 し い。 風 呂 掃 除 は 週 に 一
戸 拭 き、 床 の ワ ッ ク ス 掛 け な ど、 実 は
除、レンジ換気扇周りの油掃除、窓・網
があるので、さらに流しなどのパイプ掃
午前中のルーティーン作業である。時間
な 音 を 立 て る 必 要 は な い。 こ こ ま で が
ら ず、
﹁ パ ン ッ、 パ ン ッ!﹂ な ど と 大 き
機が良いので洗濯物にはあまりしわが寄
語り口には説得力があふれている。洗濯
の雨宮良子さんからにじみ出る刺激的な
乱万丈﹄が始まっている。ナレーション
干し始めるころ、日テレ﹃いつみても波
れをお薦めしよう。ベランダで洗濯物を
りは全くない。自然がなくなった、カブ
頃はよかったなどと思い出にひたるつも
りも、すべてが変わってしまった。あの
わった。今の住まいの周りも、実家の周
かし、この三十四年間で鹿沼も大きく変
あり、土地勘に間違いはないと思う。し
る街は私が鹿沼に来て最初に住んだ所で
自転車というのがいい。今の住まいがあ
転車を使ってお買い物に出かける。この
ンにむかうが、特になければ徒歩なり自
大丈夫だ。仕事があればそれからパソコ
芝 製 ︶ に か け て お く と、 就 寝 間 際 に は
ボックスへ。生乾きなら室内除湿器︵東
るので、取り込むとすぐにたたんで収納
干しておいた洗濯物が乾き頃になってい
る。 目 が 覚 め る の が 三 時 か ら 四 時 の 間。
ぷりと。その後は二時間ほどお昼寝であ
ジャーマンブレンドを少し濃い目にたっ
大量に買ってきた京都イノダコーヒー製
の優雅な時間なので、昨年の修学旅行で
杯頂戴してゴロンと横になる。せっかく
ようになった。レギュラーコーヒーを一
イエットをしていた頃の名残で食べない
お昼時。しかし、昼食はない。これはダ
Ƚ
ȽȁķijȁȽ
Ƚ
ソースの味付けに使ってみよう。コリア
の岩塩なるものを入手したのでホワイト
らのハーブと最近知り合いからモンゴル
染みの﹁シチュースパ﹂にでもしてみよ
ようか、となる。我が校の購買でもお馴
なかったら、今宵のメニューはいかがし
直前となっている。でもお米を研いでい
小気味よく蒸気を上げ、米が炊き上がる
戻ってくると、いつもなら電子ジャーが
てはいまい。お散歩・サイクリングから
できるなら、古くても良いものは壊され
はもう少し後の話だ。そんなに早く評価
か。古いものが良いとは限らない。評価
は新しくなったものを楽しもうではない
築されて新しいものが沢山できた。まず
くなったと悲観もしない。が、街が再構
いたスイカやトマト、キュウリの畑がな
の木がなくなった、美味しそうになって
トムシやオニムシをとった大きなクヌギ
入れてもらったが、やはりいざ使うとな
器は良く、設計段階でオプションとして
スポンジを使うことが多い。確かに食洗
ンダーはベランダで栽培中なので、いつ 夕 飯 が 終 わ れ ば 後 片 付 け。 食 洗 器 は
乾 燥 器 代 わ り に 使 っ て、 洗 い は 自 分 で
う。バジルとイタリアンパセリ、コリア
ると、気持ちの問題で結局は自分の手洗
愛し合っていたのだと気付かされた。
での二人の在りようを見て、間違いなく
で、五年前から一昨年に父が亡くなるま
もしれない。でもそんな私の思いは杞憂
が強かった。ドラマの見すぎだったのか
はどうなってしまうのだろうという思い
することもあったが、何より、この夫婦
口論がすぐ始まった。嫌な思いで食事を
もあったのだろう。父の支度をめぐって
時期で、父も母も感情がよろしくない時
婦喧嘩である。当時は経済的にも苦しい
もないおかずが増えることになった。夫
に立つことが多くなった。そこでとんで
な り 母 が 体 調 を 崩 し て 以 降、 父 が 台 所
に よ る も の で あ る。 特 に 私 が 高 校 生 に
き と い う 家 で、 こ れ は そ れ ぞ れ の 育 ち
台 所 が、 母 は 台 所 よ り も 土 い じ り が 好
明日の弁当は何にしよう。
休 日 は 終 わ り で あ る。 就 寝 前 に 考 え る。
い。﹃ 情 熱 大 陸 ﹄ が 終 わ れ ば 私 の 日 曜 の
るかを知るバロメーターなのかもしれな
れに感じるのかは、今の自分が幸せであ
ようには感じられない人も多くなったら
が素直な感情である。しかし最近、その
ま し、 祈 る の で あ る。 理 屈 抜 き に そ れ
日はいい日でありますようにと自分を励
の思いが強いから、自分も頑張ろう、明
い て 気 が つ か な い。 そ し て 憧 れ と 応 援
援の思いに、嫉妬と羨みの思いが隠れて
差しているとも言える。大抵は憧れと応
応援する思いと、どこかで羨む思いが交
の 混 ざ っ た 感 情 で あ る こ と も 否 め な い。
いる人々への美しい憧れと、そして嫉妬
それは夢をかなえるために必死になって
のは実に良い。純粋に感心できる。でも
ある。一生懸命生きている人を観察する
はTBS﹃情熱大陸﹄を見るのが恒例で
ワーを浴び、日曜日であれば十一時から
に座ってしばしお休み。十時過ぎにシャ
しい。それは虚無でしかないのに。いず
ンダーとプチトマトのオニオンスープも
いになる。リクライニング付きの座椅子 私の休日はこのように流れていく。で
でもフレッシュな風味を楽しめる。これ
添えて。菅又家では父は土いじりよりも
Ƚ
ȽȁķĴȁȽ
Ƚ
らしは失敗ではない。こんな一日が送れ
り﹂があって頑張れるなら、この一人暮
れる前に宿探しをする。たった数ドルの
替 え だ け を 詰 め て。 着 い た ら、 日 が 暮
クにトイレットペーパーと数日分の着
た。格安航空券と三十リットルのリュッ
言葉に、とても感動した。
も こ の 流 れ が あ っ て、 翌 日 か ら 仕 事 に
取りかかれる。だから家事ができない時 アルバイトで、お金が貯まった頃、同
じ専攻の友人達と東南アジアに出かけ
会えるかわからない可能性にドキドキす
りたいという欲求があるだけだ。何に出
いうものである。その場所に行って、知
の目的は、その国の雰囲気を感じたいと
るというのもよくある。しかし、私の旅
一流ホテルに泊まって、豪華な料理を食
なくなる日がいつか来るのだろうか。そ
る。そうすると、一人という自由が必要
べるのもよいだろう。自分探しの旅に出
の時はまた、人生の在りようを考えれば
違いに、何件も回り、トイレとシャワー
となる。
は仕事も不調である。家事という﹁ゆと
よい。でも、もう少しだけ長くこの﹁ゆ
共 同、 ク ー ラ ー 無 し の 安 宿 に 泊 ま っ た。
︵地歴公民科︶
とり﹂を味わえますように。
台湾の旅は、三泊四日と短かかったた
シャワーは、最初の一人分しかお湯がで
め、航空券とホテルが付いているだけの
着陸の時には、搭乗者から拍手が上がっ
へ行くための航空券も現地で取った。離
を乗り継いで、世界遺産も観た。次の国
地 の 人 に 混 ざ っ て 屋 台 で 取 っ た。 電 車
を浴びたくて本気になった。食事は、現
だるような暑さなのに、お湯のシャワー
微笑んでいた。ニュージーランド人の一
かけられた。振り返ると、綺麗な女性が
図をぐるぐる回していると、英語で声を
車を乗り継いで目的地へ向かい、駅で地
へ行った時のことである。ホテルから電
し た が、 一 番 心 に 残 っ た の は、 新 北 投
宮 博 物 院 や、 孔 子 廊 な ど 名 所 め ぐ り も
フリーのツアーに入った。台湾では、故
ず、毎日ジャンケンで順番を決めた。茹
た。知ることへの欲求が高まるのを感じ
心理学の先生の言葉
た。旅が好きになった。
海
﹂今でも忘れ
「 外 へ 旅 に 出 な さ い。
ら れ な い 一 言 で あ る。 大 学 一 年 生 の 春、
田口
幸子
なんとなく受けることにした心理学講義
と、 彼 女。
﹁公園の中の公共温泉に行く
気込んでいた私にとって、心理学の講義
は、 人 そ れ ぞ れ 色 々 あ っ て よ い と 思 う。
とよく疑問を投げかけられる。旅の理由
言 葉 が 通 じ な い の で は な い の か、 な ど
ブックを見せられた。﹁一緒に行こうよ。
﹂
﹁私も同じところへ行くの。﹂と、ガイド
の。
﹂ と、 た ど た ど し い 英 語 で 答 え た。
人旅観光客であった。﹁どこに行くの?﹂
での先生からの一言。大学へ入学し、こ 今年の夏は、台湾へ一人旅に出た。何
故 に 一 人 で 行 く の か、 怖 く は な い の か、
は、一般教養の単位の一つぐらいにしか
れから生物学に染まる人生を歩むぞと意
考えていなかった。偶然に出会ったその
Ƚ
ȽȁķĵȁȽ
Ƚ
仕事、今まで何カ国行ったことがあるか
になった。目的地まで行く途中、年齢や
と、彼女。この瞬間から一人旅が二人旅
彼 女。 高 校 の 生 物 の 教 員 だ と 言 っ た 自
ス ト ラ リ ア に し か い な い で し ょ。
﹂ と、
と あ る?﹂ だ っ た。﹁ え っ、 そ れ は オ ー
て 聞 い た こ と が、
﹁ウォンバッド観たこ
違いに季節を感じることもある。普通の
一言でも、感動することがある。空気の
て存在するのかなと思う。誰かのたった
がある。何も変わらない普通の一日なん
の一日で何もなかった、と言われること
つかせる意図があったのではないかと思
分が恥ずかしくなった。確かに、オース
数がすごく少ないから動物園でしかな
う。人間だからこそ感じる言葉の魅力が
などと、話をした。私は、簡単な単語を
いわ。
﹂と、彼女。
﹁確かに、その通りで
並 べ る だ け な の に 上 手 に 話 せ な か っ た。
す。﹂ と 心 の 中 で 呟 い た。 再 び 微 妙 な 空
ある。これからもたくさんの出会いで心
一日になるか、ちょっとした感動を味わ
た。 道 に 迷 い な が ら も、 よ う や く 目 的
気が流れてしまった。生態学が専門だな
える一日になるかは、物事への視点の持
地まで着くと、開放時間まで一時間あっ
んて、言わなくて良かった。一時間過ご
を満たしていきたい。
︵理科︶
トラリアにしか生息しない。気を入れ直
た。﹁ ど う す る?﹂ と、 彼 女 に 聞 く と、
した後、再び、温泉へ出かけた。四十元
して、
﹁キーウィは観たことある?﹂と、
きた。今来た道を引き返し、駅まで戻っ
﹁お茶して待っていようよ。
﹂と、返って
を払って、二人で露天風呂に入った。二
彼女に、
﹁日本人って、英語嫌いだよね。
﹂
た。喫茶店を探しに探して、結局入った
時 間 ほ ど 過 ご し た 後、 駅 ま で 戻 り、 彼
と、 言 わ れ、 シ ョ ッ ク を 受 け た。 英 語
の が ス タ ー バ ッ ク ス コ ー ヒ ー。 ニ ュ ー
女と別れた。思いもしなかった出会いで
ち方しだいではないだろうか。
ジーランド人と日本人が、台湾でスター
あった。この数時間が、今回の旅での貴
聞いた。
﹁あるよ。
﹂と、彼女。興奮しな
バ ッ ク ス に 入 る と は、 な ん と も 不 思 議
重な経験の一つとなった。人生の中にあ
は、 嫌 い じ ゃ な い の だ け れ ど、 確 か に、
な 感 じ が し た。 ぼ ん や り、 コ ー ヒ ー を
る偶然って素敵だなと思った。
﹁旅に出なさい。﹂といった先
がら、
﹁どこで?﹂と、たずねた。
﹁個体 あの時、
生の言葉の内には、知への好奇心に気が
飲んでいると、沈黙の空気が耐えられな
学 生 以 来、 努 力 は し て い な い な と 思 っ
い の か、 い ろ い ろ と 質 問 さ れ た。
﹁出身
らもったいない。生徒から、今日は普通
出会いとは、人生の宝物のような気が
は、 ど こ?﹂﹁ 福 島 は ど ん な 場 所?﹂ な
する。そんな出会いを、見過ごしていた
ど。私も、ニュージーランドならではの
質問をしなければならないと、考えぬい
Ƚ
ȽȁķĶȁȽ
Ƚ
アメリカ
を夢みながら雑踏の一隅に身を縮めて運命の汽車に身を委ね
ビバ
ていたのである。
古
口
敏
夫
一九六〇年︵昭和三五年︶春。
げ自慢の漬物を交換しあいながら一足早い花見のような朝食
アメリカかぶれの果てに
東京、我が憧れの東京にむかって汽車が走る。まわ
花のや都
み ごめ
りは闇米を東京に運ぶおばちゃん達が陣取る。土方弁当を広
が始まった。男まさりの旺盛な食欲と肺活量。蛮声が車内に
ス・プレスリーの兵役があけ、ロック歌手に復帰したのもこ
私が大学に入学した一九六〇年にケネディが四三歳の若
さで第三五代のアメリカ大統領に就任した。くしくもエルビ
すべての分野で世界の中心はまぎれもなくアメリカであった。
六〇年代は経済的華やかさと政治的混乱をあわせ持った激
動の十年であった。そして文化・芸術・政治・経済・軍事・
響く。
士が親類縁者に見送られて戦地に赴いた。かつて親類の青年
私を運ぶ烏山発、上野行きの一番列車には、その時代を映
す光と影が重なりあっていた。戦時中は、この列車で出征兵
が窓から顔を出し涙を流しながら﹁敬礼﹂した光景が記憶に
の年であった。
the torch has been passed to a new
"Let the word go forth"..........
なり読みつがれていった。
ニューフロンティアスピリットをかかげさっそうと政界に
登場したケネディに世界中が興奮した。彼の演説が教科書に
残っている。目をつぶると二度とまみえることの出来ない青
年の顔がおぼろげに脳裏に浮ぶのである。
十数年たって、今度は出征兵士になりかわり企業戦士とし
て中学卒業生が集団就職でこの一番列車に乗り込んでくる。
肉 親 に 見 送 ら れ、 窓 越 に 涙 す る 光 景 に 胸 う た れ る の で あ る 。
一方、私は、これからの大学生としての﹁バラ色の人生﹂
それはかつて母の背から見た光景そのものであった。
Ƚ
ȽȁķķȁȽ
Ƚ
generation of America.
︵この言葉を伝えよう。たいまつはアメリカの若い世
代に渡った。と⋮⋮︶
この言葉に奮い立ったのはアメリカの若者ばかりではな
かった。日本の若者もまた大きな影響を受けたのであった。
私もまた影響を受けた若者の一人であった。しかしこの頃
の私はまだアメリカの音楽や映画やスポーツから見える華や
かな光の部分にただ憧れていただけのことであった。人種問
題という過去の歴史の影の部分に苦しむアメリカの真の姿に
関心をもつようになるのはまだ先のことであった。
ひと度、目を外に向ければ、社会状況はそんなに甘いもの
ではなかった。六〇年の安保改正に伴って、政界は大荒れに
荒れていた。国会議事堂を労働組合、大学生が十重、二十重
に取りかこんでいる。各大学にはセクトが乱立し、そこかし
こで集会を開いては気勢をあげていた。テレビも新聞も安保
一色。やがて樺美智子さんの死によって反対運動はピークを
迎える。
︶ を 決 め 込 ん で い る。 あ き 時
私 は ノ ン ポ リ︵ nonpolitical
間は研究室で先輩の卒論実験の手伝い。ひまが出来ると下北
沢の洋画専門館 オデオン座で三本で一五〇円の映画鑑賞。
それが終るとアメリカ音楽にうつつを抜かす日々であった。
そんな私に友人は
﹁国家存亡の時にお前のようにアメリカかぶれでいいのか﹂
と忠告し、アメリカ批判を始めるのである。
そういわれても、幼児体験としてアメリカは別格なのであ
る。戦後まもない頃、進駐軍のアメリカ兵がよく来た。教わ
と言ったら本当にチョコレ ー
"Give me a chocolate."
トをもらえた。それ以来アメリカの物質文明に憧がれてきた
るまま
のである。
さらにソ連のフルシチョフ首相とケネディ大統領を比べる
とはるかにケネディ大統領が魅力的なのである。そればかり
でなく学生運動家のいう﹁反米親ソ﹂のラジカル︵ radical
︶
なところに同意出来ないだけのことであった。
﹁ミネソタの卵売り﹂
あれほどアメリカ文化に憧がれていたはずなのにケネディ
が射殺された瞬間、心の糸がぷっつんと切れた感じがした。
あのアメリカ熱はどこに行ってしまったのだろう。そして
十数年が飛ぶように過ぎていった。プレスリーも夭折した。
四三歳であった。
ところが昭和四八年ロータリークラブの交換留学生がアメ
リカのミネソタ州からやって来た。栃木市でははじめての留
学生であった。
その話を聞いて職員室が色めき立った。
﹁ミネソタの卵売り﹂か。そうだ﹁ミネソタの卵売り﹂だ。
全校朝礼で彼が挨拶した。
全員が納得した。
Ƚ
ȽȁķĸȁȽ
Ƚ
My name is Mark Fitz patric.
I am from Minesota.
.......
彼が何を言ったかよくわからなくとも、ミネソタから来た
というのはよくわかった。教員は﹁ウムなるほど﹂と感心し
た。生徒はあっけにとられているだけであった。
なぜか知らないが﹁私の心の灯明﹂に火がついたような気
がした。本来の﹁アメリカかぶれ﹂が頭をもたげたというの
が正しかったのかもしれない。
アメリカ、アメリカ、アメリカ、ビバ
アメリカ⋮⋮。
頭の中はアメリカでいっぱいになっていた。
﹁ マ ー ク に 日 本 語 を 教 え、
す ぐ マ ー ク と 仲 良 し に な っ た。
マークから英語を教わる﹂という取り決めが成立した。
しばらくするとマークが怪訝な顔をしてやって来た。
﹁日本に来ると逢う人、逢う人一様に、あなたはミネソタの
卵売りかと聞くのだが、その真意がわからない﹂
というのである。中には怪しい英語で
Are you a Minesota's egg salesman?
ぜ自分が﹁ミネソタの卵売り﹂といわれなければならないの
か、納得出来ないでいる。
ミネソタの卵売り
佐伯
孝夫詞
利根
一郎曲
一、コッコッコッコッ
コケッコ
コッコッコッコッ
コケッコ
私はミネソタの
卵売り
町中で一番の
人気者
つやつや生みたて
買わないか
卵に黄身と白味がなけりゃ
お代はいらない
コッコッコッコッ
コケッコ
二、コッコッコッコッ コケッコ
コケッコ
卵売り
のど自慢
素敵です
お歌のけいこ
と本気で質問するのだそうだ。
ドレミファソラシド
コッコッコッコッ
コケッコ
コッコッコッコッ
私はミネソタの
町中で一番の
私のにわとり
卵を生んだり
仲 間 の 英 語 の 先 生 は、 流 行 歌 に﹁ ミ ネ ソ タ の 卵 売 り ﹂ と
いうのがあるということを一生懸命説明するのだが、彼はな
Ƚ
ȽȁķĹȁȽ
Ƚ
いち わか
ところは、駅前の焼き鳥屋﹁一若﹂。
も ち ろ ん 未 成 年 の マ ー ク は ジ ュ ー ス。 仲 間 は ビ ー ル、 中
には一口飲むと急に太腹になる者がいる。気前が良い。塩焼
き、タレ焼きが山のようになっている。
人柄の良いインテリのおかみさんが駅前の三叉路の小さな
土地で焼き鳥屋を営んでいた。大きい良質の鶏肉に秘伝のタ
レ。木炭をうちわでパタ
パタ⋮⋮。
焼き鳥のあの香わしいにおいが道路にあふれ出てくる。わ
きの道を通る高校生は生つばを飲み込みながら、横目で店内
をのぞき込む。
店 は 十 人 も 入 れ ば 満 員 に な る。 お 客 さ ん は 顔 見 知 り ば か
り。おかみさんは本校の初代副校長の教え子のことだけあっ
いち げん
てきわめて厳格。一方で常連さんを大切にする。座席があい
ていても一見さんお断り。品格を大切にし学究的な会話が出
来ないとお客として合格しない。
そこにアメリカの若者を連れて入り込むからみんな目を白
黒させている。
若﹂にとってはまさに名誉なことなのであった。
おかみさんはマークにだけジュースをサービスした。
﹁ところでマークさんはアメリカのどこなの﹂
﹁ミネソタです﹂
マークが言うと、間髪を容れず、
﹁それじゃ卵売りなのね﹂
おかみさん、言ってはいけないことを言ってしまった。
すると、なにか機会があれば話したくてしょうがないまわ
りの客が一斉に顔をあげ異口同音に
﹁そうかミネソタの卵売りか﹂
と言って自分達だけで満足している。納得していないのは
マークだけで﹁またか﹂といった顔をしている。
好き嫌いのないマークは塩焼き、タレ焼きをパクパクたべ
ている。大人の方はビールが進む。いつしか話題は、
﹁ミネ
おかみさんにしてアメリカ人は食事の時はいつも正装でフラ
わかったが出あう日本人は﹁あなたのお父さんはミネソタで
﹁ミネソタの卵売り﹂という名の音楽が日本にあるのはよく
仲間の英語の先生は﹁ミネソタの卵売り﹂を説明し、我々
も 単 語 を 並 べ て 理 解 さ せ よ う と し て い る。 し か し マ ー ク は
ソタの卵売り﹂に戻ってしまった。
ンス料理を食べていると信じている。たしかに映画ではそん
卵を売っているのか﹂と真顔で聞く。
昭和四〇年代は栃木に外国人が来ることはめったになかっ
た。しかもマークは頭のよい前途を嘱望された青年なのであ
な場面が多い。よりによってアメリカ人が焼き鳥を食べに来
る。喜んだのはインテリのおかみさんである。しかし、その
てくれるなどと夢にも思ったことはなかったのである。
﹁一
Ƚ
ȽȁķĺȁȽ
Ƚ
﹂と答えると不思議そ
﹁父は学校の先生で母は看護婦です。
う な 顔 を す る と い う。 す る と マ ー ク が ﹁ ミ ネ ソ タ の 卵 売 り ﹂
を歌ってくれといいだした。
コッコッコッコッ
コケッコ
コッコッコッコッ
コケッコ
小さな焼き鳥屋さんから﹁コケッコ
コケッコ﹂と鶏のな
き声が聞こえる。道行く人達は鶏をしめ殺しているのではな
いかと店内をのぞき込む始末である。
我々の仲間もビールがまわり絶好調になっている。
マークは今度は日本語ではわからないから英語に訳してく
れという。
﹁コッコッコッコッ
コケッコ﹂
﹁これは鶏のなき声だから英語に訳しても﹂
﹁コッコッコッコッ
コケッコ
だよ﹂
﹁まって下さい。アメリカの鶏はコケッコとはなきません﹂
驚いたのは周りのお客さん達である。
﹁それじゃアメリカのにわとりは何となくんけ!﹂
クックーアードードルードー︵ Cock-a-doodle-doo
︶です。
﹁⋮て、いうことは日本のにわとりとアメリカのにわとり
はちがうんけ!﹂
﹁ダチョウみたいにでかいんけ!﹂
⋮ほのぼのとした古き良き時代であったのである⋮
やっとのことで一番だけ英語に訳した。ところがマークは
ますます疑心暗鬼になる。だいいちミネソタに卵売りなどい
ない。なぜ卵売りが人気者なのかも理解出来ない。黄身と白
味のない卵などあるわけないだろう。
あれから三〇年たった現在でもマークは﹁ミネソタの卵売
り﹂がわからないのである。
そのマークがニュースをもってきた。
マ ー ク の お 姉 さ ん が 日 本 に 来 る と い う の で あ る。 宇 都 宮
の英会話学校で休暇を利用して英語を教えることになったら
しい。そこまでは別に驚いたことではないが、美人でファッ
ションモデルをしているという話に一同色めきたった。
誰れ言うともなく表敬訪問に宇都宮に行くことになった。
お姉さんも逢いたいといっているらしい。
﹁日米同盟を堅持するには我々国民がかたい絆で結ばれな
ければならない﹂
﹁とりあえず日本の食文化を理解してもらうことが国際交
Ƚ
ȽȁĸıȁȽ
Ƚ
流の手始めである﹂
次つぎ景気の良い演説をはじめた。
マークの時は焼き鳥屋なのにお姉さんのときはレストラン
んを予約しようというのである。雲泥の差である。美人を前
にして下手な英語を話して盛り上れば満足するやからの作戦
なのである。
お姉さんは聞きしにまさる美人である。仲間はただウット
リ。誰れも﹁ミネソタの卵売り﹂なんて失敬な話をする人は
いない。
レストランのお客さんもじっと見ている。
マークのお姉さんは実に気立てが良い。愛敬もある。予定
の時間があっという間にすぎてしまった。
するとマークのお姉さん、にっこり笑って
﹁皆さん入学試験に合格しました﹂
なんてことはないマークのお姉さん、英会話学校の生徒募集
に協力していたのであった。
しい。特にスポーツ欄はむずかしいけれどタイトルがおもし
ろい。
かつて﹁アメリカかぶれ﹂といわれたころはアメリカの一
面しか見ることが出来なかった。だけど今、英字新聞を通し
て見るアメリカは味わいが違う。国民と国家の苦悩が行間か
らにじみ出てくる。
人種差別から出発した公民権運動にも正面から取り組める
ようになった。そうした目線で見ると自国と他国を区別する
というダブルスタンダードを排除しようとするアメリカの熱
意が見て取れる。それがアメリカなのである。
かつて第二次世界大戦中、アメリカは日系アメリカ人を差
別し抑留した。これに対してアメリカの小学校の社会の教科
書には次のように記してある。
アメリカ西海岸には多数の日系アメリカ人が住んでい
ました。真珠湾攻撃の後、アメリカ人は日本人に激怒し
ましたが、その怒りは不当にも日系アメリカ人にも向け
私 の 英 会 話 の 勉 強 は、 マ ー ク の お 姉 さ ん の 推 薦 で 始 ま っ
た。週二回の英会話を五年間続けた。宇都宮から栃木までの
日系アメリカ人の排斥を命じていませんでしたが、結果
ル ー ズ ベ ル ト 大 統 領 が 署 名 し た﹁ 臨 時 命 令 ﹂ は と く に
は日本のためにスパイ活動をしていると主張しました。
メリカに対してよりも日本に対する忠誠心のほうが強い
られました。日系アメリカ人は信頼できない。そしてア
通勤時間を英語に使うことにした。以来ジャパンタイムズを
的には多くの人が抑留されることになりました。
﹁スパ
反省をいかすアメリカ
読み出して二〇年になる。毎日の紙面には必ず新らしい発見
と非難しました。政府の役人でさえも、日系アメリカ人
がある。タイトルの斬新さに感心しながら新聞を読むのは楽
Ƚ
ȽȁĸIJȁȽ
Ƚ
マークと親しかった人達の会 平成 19 年9月 29 日久し振りの来日を記念して
前列左より 木村理事長、永田永太郎氏夫人、恭子さん、マークさん
後列左より 佐山さん、永田さん、永井先生、荒井先生夫人、
佐山さん夫人、著者(古口)
、村上さん
イ行為や妨害行為﹂を防ぐために、軍の司令官は危険と
思われる人間を捕らえ、何の裁判もなしに、強制収容所
に入れることができると、その命令書は規定していまし
た。アメリカに住む約二〇〇〇人のドイツ人とイタリア
人が危険であり、収容所に抑留されるべきであるとされ
ました。そして、その家族たちは、望むのであれば、彼
らと一緒に行ってもよかったのです。しかし日系アメリ
カ人には何の選択権も与えられませんでした。十一万人
以上の日系アメリカ人の男性、女性、子供が、西海岸の
家を追い立てられました。
政府がこの日系アメリカ人を抑留する命令を取り下げ
たのは、一九四四年の終わりのことでした。今日では、
ほ と ん ど の ア メ リ カ 人 が こ の 命 令 は、 人 種 差 別 に 起 因
するとんでもない不公正なものであったと認識していま
す。ドイツ系アメリカ人とイタリア系アメリカ人は、こ
んな極端な扱いは受けませんでした。白人のアメリカ人
とは容姿の違う、アジア系の人だけが忠誠心がないとい
う疑いだけで隔離されました。アメリカは海外で人権の
ために戦っていましたが、本国では多くの罪なき人の人
出てほしい第二・第三のマーク
権を奪っていたのでした。
マークの言動の原点は日本人との交流の中で生まれたと思
うのです。彼は本校を終了した後ハーバード大学に入学しま
Ƚ
ȽȁĸijȁȽ
Ƚ
の勧めで外交官になりました。特に彼は本校在学時代に広島
す。そこで日本大使であったライシャワー博士に学び、先生
て第二、第三のマークがたくさん出ることを願っています。
ストなどで生の英語に触れる機会を多く作っています。やが
追
記
の原爆記念館を訪ね、その惨状を目の当りにします。それを
○マーク・フィツ・パトリック︵
ている。
第二のふるさとと呼び、現在も栃木市の人々と交流を続け
を卒業。日本人より日本人らしいといわれた彼は栃木市を
昭和四八年栃木市のロータリークラブの交換留学生とし
て本校に学ぶ。ロータリーの人達のあたたかい援助で本校
︶氏
Mark Fitz Patrick
それが二度と出征兵士を戦場に送り出さない最善の方法だ
と信じているからなのです。
もとにしてNHK主催の外国人日本語スピーチコンテストに
参加し三位に入賞しました。これが彼の将来に大きな影響を
与えました。
やがて彼はIAEA︵国際原子力機関︶のアメリカ代表と
してイランと北朝鮮の核問題に取り組みます。そして外交で
この問題を解決しようとしますがブッシュ大統領の強行政策
と衝突してアメリカ政府の要職から去ります。
彼には武力で解決することがどれだけむごい結果になるか
がわかっているからです。私もこの問題については彼に何度
の強さは、間違いを国全体で反省し、その反省にのって人材
感情的に走るのは個人ばかりでなく、日系アメリカ人への
差別のように国家も同じことをするのです。しかしアメリカ
ばテレビに出演。コソボ問題では中心人物として解決に尽
カ、ワシントンの国務省にもどり、政府代表としてしばし
じめ韓国、ニュージーランドなどの大使館に勤務。アメリ
ラ イ シ ャ ワ ー 博 士 の 勧 め に よ り 外 交 官 に な る。 日 本 を は
京都生れの恭子さんと結婚。媒酌人は元栃木市長の永田
永太郎︵市長退任後本学園理事を勤められた︶氏御夫妻。
を育てるのです。マークはその代表的な人物なのです。私が
力。本文にあるように、IAEA時代はアメリカ代表とし
か手紙を書きました。
アメリカに魅力を感じるのはその点です。英字新聞を見てい
躍することが期待されている。
日本のテレビ、新聞にも核問題のスペシャリストとして
しばしば登場。民主党政権になると政権の中枢に入って活
の部長として世界各国を飛びまわり講演活動をしている。
て活躍。国務省をやめたあとIISS︵国際戦略研究所︶
るとそういう姿勢が目に付きます。
我々が高校生の英語に力を入れているのは、単に入試で高
得点をとるということだけでなく、国際語となった英語を活
用して日本の文化や学術や思想を出来るだけ多く海外に発信
するための基本的な力をつけるためなのです。
本校は、修学旅行やホームスティや英語のスピーチコンテ
Ƚ
ȽȁĸĴȁȽ
Ƚ
なお村上さん、退職した荒井先生が窓口になってマーク
と連絡を取りあっている。今度の訪問は村上さんの尽力に
よるものである。
○ビバ
アメリカ
著者の最も好きな歌手エルビス・プレスリーのビバ・ラ
スベガス Viva Las Vegas
︵ラスベガス万歳︶より引用
はイタリー語で万歳を意味する。
Viva
︵フランス語︶
︶
○バラ色の人生︵ ラ・ヴィ・アン・ローズ : La vie en rose
一九四六年のエディット・ピアフの代表曲
一九九八年、グラミー栄誉賞を受賞。
私の好きな曲でよく口ずさんでいた。高校時代、会話の中
でよく﹁バラ色の人生﹂という言葉を使っていた。
︵理科
教頭︶
Ƚ
ȽȁĸĵȁȽ
Ƚ
国際情報科 オーストラリア修学旅行
須
藤
光
三
く天候にも恵まれ楽しく有意義な修学旅行だった。オースト
八月二十三日午前六時三十五分、Q F○二一が成田空港に
着陸し、修学旅行が無事終了した。病人・事故者は一人もな
前 で バ ス を 降 り た。 州
街 を 通 り、 州 議 事 堂 の
い 煉 瓦 造 り、 石 造 り の 家 並 み や 新 し い 高 層 ビ ル の オ フ ィ ス
港 か ら バ ス で 約 三 十 分 走 る と メ ル ボ ル ン 市 街 に 入 っ た。 古
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ȽȁĸĶȁȽ
Ƚ
ルボルン空港到着後、バスでメルボルン市街を見学した。空
ラリア修学旅行は今回で十五回目になる。今回の旅行の目的
れ食べ切れない女子生
テトフライなどが出さ
バ ー ガ ー、 山 盛 り の ポ
では特大といえるハン
で 昼 食 を と っ た。 日 本
のハードロックカフェ
通りを横断したところ
議事堂からスプリング
の 神 殿 を 思 わ せ る。 州
の列柱がありギリシア
の建物で正面には九本
議事堂はコリント様式
はファームステイ、学校訪問、メルボルン・シドニーでの自
主研修などを体験してオーストラリアの文化に接し、直接現
地の人たちと英語で会話をして交流することにあった。生徒
たちはこれらのことを体験して、旅行前と比べて確かに成長
メルボルン市内見学
したように思われる。
八月十七日の午後八時二十分、定刻通りQ F一三六機が出
発した。機内での生徒たちの行動・態度は整然としており、
アテンダントから﹁規律正しい良い生徒たちですね﹂と褒め
られた。翌日の朝、シドニー空港に到着し、さらに国内線に
乗り換えてメルボルンに向かった。メルボルンはオーストラ
リア第二の都市でビクトリア州の州都として栄えている。メ
最初の見学地 セント・パトリック大聖堂
はどんな人なのだろうか﹄﹃自分の英語は通じるのだろうか﹄
には菓子や飲物が用意されていたが、それに手をつける生徒
徒 が 多 か っ た。 昼 食 後、 オ ー ス ト ラ リ ア 最 大 の カ ト リ ッ ク
はあまりいなかった。これから始まるホストとの対面に緊張
バスが競馬場に着き、生徒たちはホールに集合した。ホール
ある。一八六三年に着工し、完成までに七十六年の歳月が費
していたのであった。生徒たちが整列している前にホストと
﹃ファームでの生活は⋮⋮﹄などの不安があったようである。
やされたという。最初の見学地で生徒たちは記念写真を撮り
なる方々が入ってきた。ファームステイ運営の中心となって
寺 院 で あ る セ ン ト・ パ ト リ ッ ク 大 聖 堂 に 向 か っ た。 荘 厳 な
あっていた。﹃ガーデン・シティ﹄といわれるメルボルンの
ゴシック建築で大聖堂の尖塔までの高さは一○三メートル
中で最も象徴的な庭園であるフィッツロイ庭園では、キャプ
た内容の挨拶をした。そのあとスティーブさんからホストと
いるスティーブさんの挨拶が終わり、本校代表の吉田拓馬君
生徒の名前が読み上げられることになり生徒の緊張感は頂点
テン・クックの家を背景にクラスごとに記念写真を撮った。
クックの両親が住んでいたといわれる石造りの家は意外なほ
に達していたようであった。ホストと生徒たちの名前が読み
がありますが、迷惑をかけないように努力します。
﹂といっ
ど小さく、当時の慎ましやかな生活を再現している。その他
上げられると、それぞれのホストと生徒たちはお互いに名前
︵ K 1 ︶ が﹁ 初 め て の フ ァ ー ム ス テ イ で い ろ い ろ 心 配 な こ と
にイギリスの田舎の村を一六世紀のチューダー様式の建物で
キャプテン・クックの家は一九三四年のビクトリア州百年祭
ミニュチュア再現したチューダー・ビレッジ、ユーカリの木
や簡単な挨拶をして競馬場の脇に行き、それぞれのホストと
に際してイギリスのグレート・エイトン村から移築された。
におとぎ話の妖精や動物を彫刻したファアリー・ツリーや季
生徒たちが隣合わせとなり全員の記念写真を撮影した。多く
の生徒は英語で簡単な挨拶をしていたが、気恥ずかしげな様
節の花が咲き乱れる温室などを見学した。
子であった。中には下をむいて押黙ったままの生徒もいた。
ファームステイ体験
き、二泊三日のファームステイが始まった。
でファームステイインスペクションが行なわれた。途中のバ
くのホストたちは自分が世話をした生徒を指して﹁グッドス
て 表 情 は 明 る く 和 気 藹 藹 と 大 き な 声 で 話 し 合 っ て い た。 多
二日後、同じ競馬場にホストと生徒たちがファームステイ
を終えて戻ってきた。初対面の時のぎこちない様子とは違っ
記念写真撮影の後、生徒はホストの車でそれぞれの家庭に行
午 後 二 時 頃、 バ ス は メ ル ボ ル ン 市 街 を 離 れ 一 路 カ イ ン ト
ン へ と 向 か っ た。 カ イ ン ト ン は メ ル ボ ル ン の 北 西 約 一 五 ○
スの中の生徒たちは静かだった。これから始まるファームス
キロメートルのところにある小さな町である。そこの競馬場
テイへの不安で緊張していたのであろう。
﹃ホストとなるの
Ƚ
ȽȁĸķȁȽ
Ƚ
チューデント、ナンバーワン﹂と大声で連呼していた。生徒
たちはファームで親切にされたこと、満足な食事であったこ
と、野生動物や満天の星空が観られたこと、家畜への餌やり
が楽しかったこと、ファミリーと英語で会話できたことなど
を得意満面に我々に話してくれた。この旅行に来る前から引
率教員は﹃会話が出来るのか﹄﹃迷惑をかけずにきちんとし
た 生 活 が 出 来 る の か ﹄ と 心 配 し て い た が、 生 徒 た ち の 明 る
い 晴 れ や か な 表 情 を 見 て 安 心 し た。 全 員 が 各 フ ァ ー ム か ら
戻りホールに集合した。インスペクションの時にはクラスご
んだ。生徒代表の大野
明 日 香 さ ん︵ E 1 ︶ が
お礼の言葉を述べた
子生徒もいた。
二泊三日の短い
ファームステイであっ
たが、ホストの優しさ
を 肌 で 感 じ、 い ろ い ろ
な体験をした生徒たち
は、多くのことを学び、
大きな感動を得た。生
徒の修学旅行感想文の
中からファームステイ
に関する部分を要約し
て紹介する。
⑴
初めて会ったとき
は緊張していたが、家
解 散 式 が 終 了 し、 い
でバーベキューをした。特大のソーセージがうまかった。夜
食事をとり、近くの山にハイキングに行った。帰る途中公園
フレイク、トースト、スクランブルエッグ、ベーコンなどの
までの車の中でホストファザーと英語での会話が弾んだ。途
よいよ別れの時となっ
には、家の回りを散歩した。空が澄んでいて星がきれいだっ
から各クラスの代表に
た。生徒たちは最後の
た。帰り際には何となく寂しかったが、お礼や別れの言葉を
中 ス ー パ ー マ ー ケ ッ ト で 食 料 を 買 っ て 行 っ た。 一 日 目 の 夜
別れを惜しみなかなか
英語できちんと言えたので、悔いはなく楽しいファームステ
は、家族とカードゲームをして遊んだ。二日目の朝、コーン
バ ス に 乗 ら な か っ た。
イだった。
証 書 ﹄ が 授 与 さ れ た。
中にはホストと泣きな
﹃ファームステイ修了
後、 ス テ ィ ー ブ さ ん
ファームスティ修了証書を授与される山根千佳さん
がら抱き合っている女
Ƚ
ȽȁĸĸȁȽ
Ƚ
とに整列したが、解散式ではホストと生徒が隣り合わせに並
ファームステイ ホスト
(Townsend)とともに
⑵
初 め て ホ ス ト の マ デ ラ ン さ ん に 会 っ た と き の 会 話 は、
知っている単語を並べただけでしたが
﹁オー、グッド﹂と
褒めてくれたので、緊張と不安は一気になくなりました。最
初の日の夜の団欒の時、日本地図を広げると興味をもって質
問してきました。辞書を見ながらゆっくりだったけれど説明
できたことで自信になりました。私たちの下手な英語を真剣
に 聞 い て く れ、 ゼ ス チ ャ ー を 交 え て 理 解 で き る よ う に 話 し
てくれました。その優しさを私はうれしく感じました。そし
て、もっと英語を勉強しようと思いました。⋮⋮⋮
に、 そ れ ぞ れ の ク ラ ス
がバスに乗りホテルを
出発した。
E1 組が訪問したギ
スボーン校はカイント
ンへの行程の約半分の
距 離 に あ る。 午 前 九 時
頃にギスボーン校に到
着。 我 々 は 講 堂 に 案
内 さ れ た。 約 五 十 名 ほ
どの生徒が待ち受けて
お り、 間 も 無 く 歓 迎 の
ルへ向かった。その途中、メルボルン郊外のレストラン︵ス
クールで優秀な成績を納めている。十三名の女子生徒による
た。ギスボーン校のダンス部は、毎年メルボルン地区のコン
生 徒 の 挨 拶 後、 ま ず、 ギ ス ボ ー ン 校 か ら ダ ン ス が 披 露 さ れ
居合道の演技が行なわれた。西山菫さんが英語で演技の解説
人に送られた。その後、女子生徒全員が浴衣に着替え、本校
Ƚ
ȽȁĸĹȁȽ
Ƚ
別れの時、マデランさんが﹁私はあなた達のオーストラリ
アのお母さんよ。
﹂と言ってくれたとき、私はマデランさん
の胸の中で泣いてしまいました。
セレモニーが行なわれ
モーギーズ︶で夕食をとった。ホテルに到着すると、生徒た
た。 両 校 代 表 の 教 員 と
ちは各部屋でくつろぎ、翌日の学校訪問の準備をして眠りに
華麗な舞いにE1組の生徒は息を飲んで見入っていた。次に
会 場 は 静 ま り 返 っ た。 演 技 終 了 後 は 温 か い 大 き な 拍 手 が 三
E1組の男子三名︵櫻井龍明、前田海人、栃木健一︶による
五日目の日程は学校訪問とメルボルン市街での班別自主研
修であった。
名物﹃ 太 平 台 音 頭 ﹄ を 踊 る と、 会 場 は、 一 転 し て 華 や か に
を行なう中、三人の演技は寸分の乱れもなく整然と進んだ。
訪問校は、E1組がギスボーン校、K1組がセント・オル
バンス校、K2組がバックレイパーク校であった。午前八時
学校訪問
ついた。
ホ ス ト の 方 々 と 別 れ、 カ イ ン ト ン を 出 発 し て バ ス は 本 日
から二泊するメルボルンのヒルトン・オン・ザ・パークホテ
学校訪問 居合道(櫻井龍明くん)
な っ た。
は、お互いにすっかり打ち解けて、あちらこちらで談笑して
流の後、中庭でハンバーカーと飲物が振舞われた。その頃に
業 の 休 み 時 間 に 見 に 来 る 教 師、 生 徒 も い た。 な ご や か な 交
しているバディもいた。居合刀にはバディだけではなく、授
のバディ、中には浴衣をプレゼントされて顔を赤らめて感激
あった。浴衣を着せてもらってはしゃいでいるギスボーン校
の中で人気があったのは、浴衣着付けと居合刀︵模擬刀︶で
ま り、 中 に は 辞 書 を 引 き な が ら 会 話 を す る 者 も い た。 交 流
た。次第に気心が知れるとゼスチャーを交えながら会話が始
とになったが、最初はお互いにしどろもどろした様子であっ
行 な わ れ る 図 書 室 に 移 動 し た。 い よ い よ 個 別 に 交 流 す る こ
をホテルで食べ、明朝はホテルを出発するのが午前四時三十
予定した午後五時三十分には全員ホテルに帰ってきた。夕食
﹃ 事 故 が な い か ﹄ な ど と 心 配 し な が ら 生 徒 の 帰 り を 待 っ た。
私は少し早目にホテルに帰り、
﹃時間通りに各班が帰れるか﹄
ホ テ ル ま で 帰 る の が 研 修 だ。
﹂ と 言 っ て 取 り 合 わ な か っ た。
行ってください﹂という班もあったが、私は、﹁自分たちで
ホテルまでの帰り道がわからず、私に、
﹁ホテルまで一緒に
いた。スワンストン通りの繁華街で幾つかの班と会ったが、
行程である。私も生徒の様子を見ながらメルボルン市街を歩
お土産を買いながらメルボルン市街を散策してホテルへ帰る
ルボルン監獄、州議事堂、メルボルン展望台などを見学し、
まる。班別に三々五々、それぞれの目的地に向かった。旧メ
バスは、午後二時三十分頃、各クラスの集合場所である図
書館前に到着。ここからメルボルン市街の班別自主研修が始
メルボルン自主研修
いた。いよいよ別れの時が来て、全員で記念写真を撮った。
分なので午後九時に消灯した。
我々は帰りのバスに乗り込んだが、別れを惜しんでなかなか
両 校 の 演 技 が 終 了 し た 後、 E 1 組 の 生 徒 一 人 ひ と り に ギ
ス ボ ー ン 校 か ら バ デ ィ が 一 人 ず つ 紹 介 さ れ、 班 別 の 交 流 が
バスに乗らない生徒もいた。学校訪問で生徒たちは、片言の
シドニーの光景
英語に身振り手振りを交えながら何とかコミュニケーション
をとろうとしていた。自分の意志が伝わったときの喜び、逆
六日目は、メルボルン空港から午前六時発のQ F四○○機
でシドニー空港に飛び、終日シドニー市内を見学して、午後
午前三時三十分の起床、午前四時三十分の出発に生徒が遅
刻しないか心配であったが、予定通りホテルを出発すること
九時四十分のQ F○二一機で帰路につく日程であった。
に言いたいことが言えなかったことへのもどかしさが、生徒
たちにはあった。メルボルンへの帰りのバスの中で、多くの
生徒たちが口にしたことは、﹁もっと英語を勉強しておけば
よかった。﹂ということだった。
Ƚ
ȽȁĸĺȁȽ
Ƚ
た生徒たちは、シドニー湾の眺望の広大な美しさに心が癒さ
テイや学校訪問で現地の人たちと交流し、精神的に疲れてい
ニー湾岸を走りシドニー市内に入る。二泊三日のファームス
が出来た。シドニー空港からバスで世界三大美港の一つシド
シドニー空港に向かった。
Sを経由してダーリングハーバーに。そこで軽い夕食をとり
ある十一万人収容のオリンピックスタジアムを見学し、DF
主研修を行なった。さらにシドニーオリンピックの主会場で
街の全景を見た。シドニーのシンボルといわれるオペラ・ハ
修学旅行を終えて
ウスと世界最大幅のハーバーブリッジが一度に眺められるミ
修学旅行中の生徒の感想を聞いたり、修学旅行後の生徒の
作文を読むと、﹃オーストラリアは素晴らしい、もっと長く
撮 影。 シ ド ニ ー 湾 岸 を 見 学
三クラス全員で記念写真を
から入り、広く世界を展望できるようになるには、これから
は海外に視野を広げる入口を見つけたに過ぎない。その入口
これからの時代は否応なしに国際化の波が押し寄せてく
る。国際交流は加速度を加え、増大して行く。今回の旅行で
Ƚ
ȽȁĹıȁȽ
Ƚ
れた。ダドリーペイジではシドニー湾の向こうにシドニー市
セス・マッコリーズ・ポイントでは、生徒たちはお互いに記
いたかった。
﹄﹃ファームステイや学校訪問ではうまく話せな
シドニー・メルボルンの町並など、修学旅行は生徒たち一人
かった。もっと英語を勉強しておけば良かった。﹄﹃オースト
ひとりに深い感銘を与えたことだろう。しかし、五日間の滞
念写真を撮りあっていた。いろいろな見学地の中で生徒たち
ン で あ っ た。 し か し、 彼 は
在でオーストラリアを理解することは難しい。修学旅行の体
に 最 も 人 気 が あ っ た の が オ ペ ラ・ ハ ウ ス で あ っ た と 思 わ れ
予 算 の ト ラ ブ ル で 帰 国。 そ
験で一時的にオーストラリアに憧れることはあるだろう。今
ラリアに留学したくなった。﹄
﹃オーストラリアに住みたい。
﹄
の後オーストラリア人建築
回の修学旅行をオーストラリアへの憧れだけで終わらせては
などという声がある。ファームステイや学校訪問での体験、
家 ピ ー タ ー・ ホ ー ル が 工 事
る。 真 っ 白 な 帆 船 を イ メ ー ジ し た デ ザ イ ン。 設 計 し た の は
を引き継ぎ一九五九年から
いけないと思う。
し た 後、 市 内 の 中 心 地 に あ
︵地歴公民科︶
の勉強、体験が大切になると思う。
各自が昼食をとりながら自
るココスを集合場所として
の オ ペ ラ・ ハ ウ ス を 背 景 に
十 四 年 を 経 て 完 成 し た。 そ
一 般 公 募 で 選 ば れ た デ ン マ ー ク 人 の 建 築 家 ヨ ル ン・ ウ ツ ォ
オペラハウス見学
第九回 中学校ニュージーランド語学研修
筒
井
健
介
あるいは空港に見送りに来られた保護者の方と会話を交わし
ずは上々のスタートを切ることができた。生徒は友人同士、
識が強かったのだろう、集合時間の二十分前には全員集合し
していなかったが、特にこの日は遅れてはいけないという意
平 成 十 九 年 二 月 二 十 五 日︵ 日 ︶ か ら 三 月 十 二 日︵ 月 ︶ ま
で、 十 四 泊 十 五 日 の 日 程 で ニ ュ ー ジ ー ラ ン ド 語 学 研 修 が 実
はじめに
施された。今回で九回目を数えるこの行事は、昨年度から二
ながら、出国準備までの時間を過ごした。
れた生徒もいたが、大きな問題もなく無事に手続きを終える
る。不注意にもペンケースの中に入れていたはさみを没収さ
出 国 手 続 き や 搭 乗 準 備 は 手 間 取 っ た。 テ ロ 対 策 だ と い う
ので、機内の持ち込み品のチェックが強化されていたのであ
点呼も完了した。パスポートを忘れた生徒もなく、取り敢え
泊三日のオーストラリア観光も加わり、より一層充実したも
のとなった。ここではその語学研修についての概略を粗々記
出
発
し、その責を塞ぐことにしたい。
機は予定時間より三十分ほど遅れて離陸した。飛行機の中で
ことができた。二十時出発予定のカンタス航空に搭乗、飛行
、この日はニュージーラン
平成十九年二月二十五日︵日︶
ド語学研修の出発日である。
りについた。
へ と 向 か っ た。 予 定 通 り 十 四 時 過 ぎ に ク ラ イ ス ト チ ャ ー チ
翌朝、シドニー空港に到着、そこからまた飛行機を乗り継
いで、目的地であるニュージーランド・クライストチャーチ
一泊するのであるが、生徒たちは特に緊張した様子もなく眠
正 午 過 ぎ に 成 田 空 港 に 到 着 し た 私 は、 空 港 内 で 昼 食 を す
まし、しばらく休んでから十五時過ぎに集合場所の第二ター
あったが、行ってみると生徒は既に集まりはじめていた。今
ミナルIカウンターへと向かった。集合時間まではまだ大分
までの校外学習でも時間に遅れたことはなかったので心配は
Ƚ
ȽȁĹIJȁȽ
Ƚ
の方に聞いてみたらこの日はクライストチャーチでこの年一
め、外に出たのだが、何しろ暑い。それもそのはずで、現地
点 呼 の あ と、 語 学 学 校 へ 向 け て 出 発 す る バ ス に 乗 車 す る た
着、空港では語学学校の職員の方が出迎えてくれた。集合・
換の場ともなってい
らでは重要な情報交
も の で は な く、 こ ち
る休憩を目的とする
ら れ る も の で、 単 な
どのティータイムを
あ る。 こ の 二 十 分 ほ
のがこの国の特徴で
文化が根付いている
にこうした英国流の
し い 文 化 で、 至 る 所
のは如何にも英国ら
と言えばお茶という
る も の で あ る。 何 か
番の暑さだったそうである。翌日の新聞で確認したら気温は
℃、これだけの気温がでるのは珍しいそうで、その暑さに
思わず辟易してしまった。真冬の日本から真夏のニュージー
ランドということで、体調がおかしくなりそうだったが、体
調不良者がでなかったことはもっけの幸いであった。語学学
校に到着後、職員の方によるオリエンテーションがあり一通
り学校の説明を受けた後、生徒は各ホストファミリーと対面
しホームステイ先へと向かった。これからいよいよ昼は語学
学校、夜はホストファミリーでの生活という、文字通り英語
漬けの日々の始まりである。
終 え る と、 生 徒 は 教
室へ戻りまた授業が再開される。一時まで授業を行ったら、
語学学校での生活
今度は昼食となる。この昼食も購買で買う生徒もいれば、ホ
ス ト フ ァ ミ リ ー の 方 が 作 っ た 弁 当 を 持 参 す る 生 徒 も お り、
午後はアクティビティー︵それについては次節参照︶を行
い、それが終了すると、生徒はバスに乗って︵あるいは車で
銘々が自由な時間を過ごすことになる。
は日本で言う購買のような場所があり、そこでそれぞれパン
迎えに来るホストの方もいたが︶
、各ステイ先へと戻るので
校の丁度中央部に位置するラウンジへと向かう。ラウンジに
や ジ ュ ー ス を 買 っ て、 そ れ ら を 食 し 乍 ら し ば し 談 笑 し た り 、
ある。
が、十時になると授業は一旦中断され、生徒は教室を出て学
語学学校では午前中、生徒は約十人ずつ、六つのグループ
に分かれて学習を行う。ここでは通常の授業を行うのである
ティータイム
くつろいだりするのである。これが所謂ティータイムという
習慣で、勿論これは学校だけではなく一般のオフィスでも見
Ƚ
ȽȁĹijȁȽ
Ƚ
36
外国の文化に触れる
語学研修では語学力を磨
く こ と も 大 切 だ が、 や は り
彼の地の文化を知ることも
大 切 で あ る。 そ こ で 生 徒 は
学習の時間と同じグループ
に 分 か れ て、 各 担 当 者 引 率
のもとにここでしか見られ
な い も の、 出 来 な い こ と を
Ƚ
ȽȁĹĴȁȽ
Ƚ
存 分 に 体 験 す る。 こ れ が 所
謂アクティビティーという
も の で、 こ の 国 の 文 化 を 肌 で 感 じ る 上 で 大 変 貴 重 な 経 験 に
な っ た。 ニ ュ ー ジ ー ラ ン ド の 歴 史 や 文 化・ 自 然 環 境 な ど を
展示した博物館で彼の地の先史から現代までが通観できるナ
ショナルミュージアムの見学、クライストチャーチ中心街の
散策、この街の象徴とも言えるエイボン河でのカヌー体験、
あるいはまた南極センターの見学など、盛りだくさんの内容
で様々な体験ができた。特に南極センターは、リニューアル
されたばかりで、大勢の観光客が見学に訪れていた。ここに
は南極を疑似体験できるコーナーや、南極で使われているバ
スに試乗できるコーナー、はたまた今年からここに仲間入り
一方、アクティビティーで行うスポーツもニュージーラン
したペンギンコーナーなどがあり大変な人気を集めていた。
語 学 学 校 に て
バースデーパーティーの様子
ディアには不向きなスポーツなのである。それなのに、何故
ダイジェストばかりが流されるという、実にテレビというメ
リアルタイムでは放送しきれずに、自然ニュースなどでその
気の遠くなるような競技であるから、勿論テレビではこれを
ム が 終 了 す る ま で に 三 日 も 四 日 も か か る と い う、 ま こ と に
であるが、大変なのはその時間の長さで、通常の場合、ゲー
許かの点数が入り、その合計点で勝敗を決するというゲーム
ピッチャー︵らしき人物︶との間を行ったり来たりして、幾
きたボールをたたき、そしてホームベース︵のような所︶と
球で言うピッチャーのような人物がぎこちない格好で投げて
リケットである。クリケットと言えば、平べったい棒で、野
ルを簡単に説明するのだが、このうち特に心配だったのがク
した。競技を始める前に、各担当者がそれぞれの競技のルー
で、二時間ほどの時間で全グループがこの三つの競技を体験
ほど行い、それが終了するとまた次の競技を行うという按配
つのグループに分かれ各グループごとに一つの競技を四十分
リケット、タッチラグビー、サッカーに挑戦した。生徒は三
ド流である。三月一日には、語学学校の広い敷地の中で、ク
語学力が着実に成長している場面を垣間見た瞬間だった。
でくると英語慣れしたようで、外国文化に親しむ中で生徒の
ていたのである。英語が苦手だという生徒も、流石にここま
をきちんと心得たようで、それはそれは見事に競技をこなし
の英語による説明
そに生徒は担当者
こちらの心配をよ
ところが、である。
配だったのである。
のではないかと心
徒に過ぎてしまう
ま ま、 時 間 だ け が
てんでわからない
の説明を聞いても
だ っ た か ら、 英 語
半がそういう状況
ろ う か。 生 徒 も 大
めるのではないだ
トランスアルパインツアー
して大変な人気を博しており、不可思議な事に多くの国民が
かニュージーランドではラグビーと並ぶメジャースポーツと
競技者としてもこのスポーツに親しんでいるのである。しか
しどうであろう、このクリケットというもの、われわれ日本
ま
人 に と っ て は 馴 染 み が 薄 く、 名 前 く ら い は 知 っ て は い て も、
や っ た こ と も、 況 し て 見 た こ と も な い と い う 人 が 大 半 を 占
クライストチャーチの語学学校からバスに乗ってしばらく
走ると、辺り一面、見渡す限り草だらけの地域が広がってく
三月六日、この日は語学学校での学習はなく、トランスア
ルパインツアーが実施された。
クリケットに挑戦
Ƚ
ȽȁĹĵȁȽ
Ƚ
の 草 ば か り が 生 い 茂 っ て い る と い う 状 況 な の で あ る。 尤 も、
く牧草地帯の直中にあった。とにかく広く、どこを見ても緑
カリリ渓谷へ向か
地であるワイマ
れ は、 次 の 目 的
再びバスに乗
り込んだわれわ
る。われわれが訪れたディーンズ牧場は、そうした延々と続
ニュージーランドは牧羊国家であるからこうした景色はさ
く、 大 自 然 と 一 体
きが何とも心地よ
にぶつかる水しぶ
ト を 楽 し ん だ。 顔
い、 ジ ェ ッ ト ボ ー
して珍しいものではないのだろうが、しかし日本の牧場、就
中、観光用の牧場しか見たことのない者は、その規模の大き
さに衝撃を受けるに違いない。何しろ、車でしばらく走って
いてもずっとずっとひたすらずっと牧草地帯なのだから、そ
の広さはわれわれの感覚からすれば尋常ではない。当然、そ
こで飼育されている羊の数も尋常なものではなく、近年減少
となったような錯
覚 さ え す る。 二 十
分ほどの体験だっ
た が、 生 徒 全 員 時
の新米犬ということであったが、それでも自在に羊を追いか
いた。この時に実演して見せてくれたのはまだまだ駆け出し
場もご多分に漏れずシープドッグが多くの羊をまとめあげて
いかけていくのである。われわれが訪れたこのディーンズ牧
従って犬が走り出し、群れになった羊を主人の指示通りに追
になった方も多いと思うが、主人が口笛を吹くとその指示に
で、前日もやはり一時間ほど遅れて列車がやってきたそうで
が根付いているらしく、三十分や一時間の遅れは日常茶飯事
帰りはバスではなくカンタベリー大平原を走る列車を利用
した。しかしこの列車がなかなかの曲者で、欧米特有の文化
をしばらく散歩し、クライストチャーチへの帰路に就く。
らい料理を山盛りにし、それを平らげていた。昼食後、庭園
た。バイキング形式で、特に男子生徒はこれでもかというく
いた。昼食はアーサーズ峠の庭園の美しいレストランでとっ
Ƚ
ȽȁĹĶȁȽ
Ƚ
しつつあるということではあるが、それでも人口の十三倍も
の頭数を数えるというのだから牧羊国家の面目躍如たるもの
がある。しかしこれだけ大量の羊がいるわけだから、どうし
たって人間だけの力ではこれを管理しきれない。そこで活躍
け見事に自分の仕事を果たしていた。羊追いの後は、羊毛刈
ある。ところが、この日はめずらしく定刻通りに列車が到着
間を忘れ楽しんで
りの実演を見学し、その後、牧歌的な環境の中でモーニング
するのがシープドッグ︵牧羊犬︶である。テレビなどでご覧
ティーを楽しんだ。
ジェットボート
フェアウェルパーティー
にしても、列車か
あ る。 た だ そ れ
にルーズなので
はそれほど時間
か べ て い た。 要
奇異な表情を浮
ダクターの方も
し、 ツ ア ー コ ン
うことを予め語学学校の方に伝えておいたら、柔道用の畳が
立派な演技ができた。しかも、出し物として柔道の演技を行
に綾川教諭の協力を得て、練習を重ねた結果、本番では大変
であった。下準備の時間はあまりなかったけれども、出発前
く、柔道部の生徒による投げ技の演技と乱取りは大変に盛況
の演技を行うことになった。柔道は流石世界のスポーツらし
至り、柔道部の生徒による演技となぎなた部の生徒による型
在り来たりではあるがやはり日本的なものを、という結論に
では全く知られてお
用意されており、より本格的な演技と乱取りとを行うことが
ら ず、 そ れ 故 に 皆 興
出来た。一方、なぎなたの方は柔道と違いニュージーランド
山あり谷あり平
味深く型の演技に見
らの景色は見事
原 あ り。 見 渡 す
入 っ て い た。 日 本 の
Ƚ
ȽȁĹķȁȽ
Ƚ
な も の で あ っ た。
限りの自然の中
た。 そ の 後、 ラ ウ ン
謝の気持ちを表現し
員 で 合 唱 を 行 い、 感
徒 の 演 技 の あ と、 全
道・ な ぎ な た 両 部 生
に 確 信 し て い る。 柔
で は な い か と、 秘 か
することができたの
現地の方々にお見せ
武道の素晴らしさを
を 列 車 は 優 雅 に、
しかしそれでい
て力強く走って
のだが、向こうの人間に何が喜ばれるかを考え抜いた結果、
ニ ュ ー ジ ー ラ ン ド 最 後 の 夜、 語 学 学 校 に て フ ェ ア ウ ェ ル
パーティーが行われた。事前にここでの出し物を決めておく
にも予定通りの時間に語学学校に到着することができた。
雰囲気である。この列車が予定通りに到着したため、予想外
いくのである。言うなればわが道を行く王者の列車といった
アーサーズ・パス駅
フェアウェルパーティー
ジへ行き立食のパーティーを行った。
がいる空間は常時暗くしてあり、よく見えないのであるが、
持ってもらいたいし、ここでの経験をこれからの人生におい
に語学研修という貴重な経験ができたことに感謝の気持ちを
深いものになったに違いない。中学生という多感なこの時期
ても覚めても英語漬けという生活は生徒たちにとって意義
ホームステイという経験は滅多に出来るものではないし、寝
ニュージーランド最終日、語学学校には多くのホストファ
ミリーが訪れて、生徒との別れを惜しんでいた。この年齢で
ちには好評であった。国鳥と国民食でニュージーランドを満
れそうな料理なのだが、食べてみると結構美味しく、生徒た
る。揚げ物だけが山盛りになっていて、見るからに胃がもた
を得ていき、今では最もポピュラーな食事の一つとなってい
して食されていたようであるが、時代とともに次第に市民権
る。本来は宗教上、肉が食べられない金曜日にその代用品と
わせたもので、ニュージーランドを代表する料理の一つであ
の白身を揚げたものと日本でいうフライドポテトとを盛り合
食を食するため、この動物園に付設されているレストランへ
何となくその雰囲気だけは感得できた。国鳥を見た後は国民
てもしっかりと役立
ニュージーランド最終日
てていってもらいた
喫した後、空港へ行き、次の目的地であるオーストラリア・
オーストラリア・シドニー観光
シドニーへと向かった。
三月九日夕方、シドニー空港着、バスに乗って宿泊先のブ
ルーバードホテルへと向かった。その途中、ハードロックカ
フェというレストランで夕食をとった。ホテル到着後、生徒
は各部屋へ行き荷物の整理と翌日の準備を行った。
翌三月十日、世界遺産に指定されているブルーマウンテン
ズ国立公園へと向かった。ここはシドニーからバスで約二時
間 の 所 に あ り、 そ こ に は 世 界 遺 産 の 名 を 辱 め な い よ う な 雄
大な景色が広がっている。因みにブルーマウンテンズという
Ƚ
ȽȁĹĸȁȽ
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向かい、ここでフィシュアンドチップスを食した。これは魚
い。
さて、ホストファ
ミリーとの別れを惜
し み つ つ、 後 ろ 髪 を
引かれる思いで語学
学校を後にしたわれ
わ れ は、 ウ ィ ロ ビ ー
動 物 園 へ と 向 か い、
ニュージーランドの
国鳥であるキウイを
観 察 し た。 夜 行 性 だ
と い う の で、 キ ウ イ
ホストファミリーとの別れ
クライスト・チャーチ大聖堂にて
名称の由来は、ユーカリの葉が太陽光線に反射して、青くか
すんで見えるからであるという。言い得て妙な表現をするも
のだと思わず感心してしまったが、最近では、火災の発生に
よってそのユーカリの森が減少し、それを食料としているコ
アラの数も激減しているという。山火事になっても慢性的な
水不足故に、消火活動もままならないようである。自然環境
の変化はこうした大自然において顕著に顕れるものだと、わ
れわれは確と心すべきである。
さて、このブルーマウンテンズの目玉は、青々とした木々
の間に聳え立つスリーシスターズという岩石で、その名の通
り、この地に住んでいた三姉妹が魔術師の父親に誤って魔法
をかけられ、石になってしまったという伝説から名付けられ
たものである。人力では決して造ることの出来ない自然の造
形美とでも言おうか、曰く言い難い美しさと迫力とがある。
そのスリーシスターズを背景に記念撮影。その後はシーニッ
ク・ レ イ ル ウ ェ イ と い う、 世 界 一 の 急 勾 配 を 降 っ て い く ト
ロッコに乗車した。このトロッコは下が見えない状態のまま
で真下に落下する。下が見えず、それでいて確かに落ちてい
るという感覚はあるのだから、そのスリルはお察しいただけ
よう。滞在時間は短かったが、自然の偉大さをまざまざと見
せつけられた。
国立公園見学後、ルーラという町を訪れた。山々の佇まい
といい、木々の枝振りといい、まことに鄙びたという表現が
しっくりくる町で、ここで一時間あまりの散策を行った。こ
Ƚ
ȽȁĹĹȁȽ
Ƚ
こには昔の駄菓子屋を思わせるような店があり、多くの生徒
はここでキャンディーを購入していた。その後、シドニーへ
戻り、生徒が一番楽しみにしていたディナークルーズを行っ
た。世界三大夜景の一つに数えられるシドニー湾の景色は実
に見事なもので、眼前に広がるその景色は﹁筆舌に尽くし難
い﹂という以外に形容し難いものである。実に得難い贅沢な
経験をすることが出来た。その後、ホテルへ戻り最終日に備
えて荷物の整理などを行った。
最終日は各班に分かれて、シドニー観光。生徒は予め思い
思いのプランを立て、それに基づいて班別研修を行った。生
Ƚ
ȽȁĹĺȁȽ
Ƚ
徒の訪問先で一番多かったのが、シドニー水族館である。何
で も 最 近 完 成 し た ば か り だ と い う の で、 中 は 観 光 客 で ご っ
た返していたが、充実した施設にカモノハシなどの珍しい生
物も多く、新たな発見も多かったようである。その他、シド
ニ ー タ ワ ー や シ ド ニ ー 博 物 館 な ど を 訪 れ る 生 徒 が 多 か っ た。
班別研修の時間はそれほど長くはなかったけれども、自分た
ちの見たい場所、行きたい場所を訪れることができたので生
徒 た ち は 満 足 し た 様 子 で あ っ た。 市 内 観 光 を 終 え た 後、 生
徒 は 集 合 場 所 の デ ュ ー テ ィ ー フ リ ー に 集 ま っ た。 時 間 が 心
配だったらしく集合時間よりもかなり前に集合・点呼が終わっ
た。その後、バスに乗って市内の名所を見学し、シドニー湾
を望むチャイニーズレストランで夕食をとり、空港へ向かった。
帰 り の 空 港 で も や は り 厳 し い 体 制 の 中 で 出 国・ 搭 乗 の 手
続 き が 行 わ れ た。 私 な ど は 何 故 か 特 別 に 呼 び 出 さ れ て 爆 発
スリーシスターズ
物の検査を受け
いて、どの生徒も安堵の表情を浮かべていた。
終わりに
ることになって
し ま っ た。 係 官
せこの報告の閉めとしたい。
ニー経由でニュージーランドに行き、その後バスで移動して
中学校での最大の行事でもあった今回のニュージーラン
ド 語 学 研 修 は 長 い よ う で 短 か っ た で す。 成 田 空 港 か ら シ ド
語学研修の感想
豊嶋
由佳
有意義な研修になったことと思う。最後に生徒の感想文を載
に止まらず得難い様々な体験が出来た。生徒にとっては大変
以 上、 平 成 十 八 年 度 語 学 研 修 に つ い て の 概 略 を 記 し て き
た。はじめて異国の文化に触れた生徒も多く、語学学習だけ
何と言葉を発し
ていたのかよく
理解できなかっ
た が、 と に か く
規則だからこの
台の上に乗れと
いうことであっ
た。 そ ん な 規 則
は聞いたことが
ないと思いなが
に使う針金の親玉のような器具でもって全身を調べられ、そ
た。 粗 末 な 台 に 乗 せ ら れ、 そ の 上 に 水 脈 を 見 つ け 出 す と き
に乗ることにし
声も飛び交う明るい雰囲気になりました。本当に毎日が幸せ
た。その甲斐もあって、家の中ではちょっとした冗談や笑い
な 事 に 気 を 遣 い、 お 互 い に 良 い 雰 囲 気 に な る よ う に し ま し
ザー、十三歳のラナが私を温かく歓迎してくれました。色々
緊張で小刻みに震えていました。家に着くと、ホストファー
ホストマザーと対面しました。家までの移動の間、私の体は
れ は も う 不 愉 快 な 思 い を し た の だ が、 要 は 安 全 対 策 の た め
で楽しかったです。
らも仕方なく台
にそれくらい厳しいチェック体制が敷かれていたということ
ながらバスに乗っていました。道に迷ってしまった日もあり
ステイ先から学校へはバスの一回乗り換えての通学で、結
構遠かったです。人もほとんどいなくて、友達と不安を抱え
である。致し方ない。兎にも角にもこれ以降は順調に事が運
び、二二
〇五発のカンタス QF021
に無事に搭乗すること
一〇に成田空港に大きな事故もな
ができ、翌三月十二日六
く到着した。空港には迎えの保護者の方がたくさん来られて
Ƚ
ȽȁĺıȁȽ
Ƚ
の英語が下品で
ディナークルーズ
ましたが、無事に通学できました。語学学校での授業は予想
以上に充実していました。語学研修中に誕生日を迎えた人の
お祝いをしたり、ゲームをしたり⋮。休憩時間にはお菓子を
食べたりもしました。向こうの生活に慣れれば慣れるほど、
もっときちんとした文章で自分の気持ちを伝えたいという気
持ちになっていきました。辞書や会話帳にぴったりだと思う
表現が出てこなかった時は、心の中にもやもやを感じました。
語学研修も終わり、帰りの飛行機に乗るのはとても辛かっ
たです。歩こうとすると、ホストファミリーと過ごしてきた
中での様々な出来事が鮮明に思い出され、涙をこらえる事が
出来ませんでした。その時、私は﹁日本に帰りたくない﹂と
思いました。そんなふうに思えたという事は、ニュージーラ
ンドでの生活が、それだけ充実していたのだと改めて感じま
した。早めに手紙を出してみようと思っています。このよう
な機会を与えてくれた家族、英語力やたくさんの知識を与え
て下さった先生方、そして私を支えてくれた友達に感謝した
︵地歴公民科︶
いです。そして残りの三年間の高校生活も思う存分楽しみた
いと思います。
Ƚ
ȽȁĺIJȁȽ
Ƚ
﹃江戸時代女性文庫﹄を読む
特にイチョウの雌雄と変体仮名﹁つ﹂について
水
代
勲
成等への下地は寺子屋︵関東では手習所という︶教育とあい
期における西洋文化の理解・学校教育の発展・産業革命の達
︵ 父 ︶
思
︵理︶
︵
︶
︵
迷
︶
Ƚ
ȽȁĺijȁȽ
Ƚ
戸時代の民衆の知的水準は高かったことを示している。明治
現 在 は あ と 三 冊 を 残 す の み と な っ た。 ま ず 同 文 庫 は 全 て 影
も う 十 数 年 前 に な ろ う か、 本 学 園 図 書 館 が 架 蔵 し て い る
﹃ 江 戸 時 代 女 性 文 庫 ﹄ 全 百 冊︵ 大 空 社 ︶ を 読 む 決 意 を し た。
俟って江戸期に形成されていた。
マサ ツラ
︶の﹁楠帯刀母﹂に帯刀︵正行︶が
タテ ワキ
色々勉強になったが、その中特に私が感じたことを紹介し
たい。
印本︵写真に撮り複写印刷した本︶で、漢字は御家流の草書
体、仮名は変体仮名で気軽に読めるものではない、しかもそ
れが百冊もある。また私は史学研究誌を五種購読し内容を理
解するのは容易でないが、その合間に同文庫を読んでいる。
﹃本朝女鑑﹄︵同文庫
マサ シゲ
しかし読むといっても一日の疲れと酒の酔とあい俟って自
父正成の首をみて自害しようとした所。
︵走︶
母 は し り よ り て 正 行 に と り つ き、 淚 と と も に 申 け る ハ
︶
ニス部の顧問になったことである。そんなことで十数年もか
汝
さなくともちちが子ならバこれほどりにはまよふべし
︵
や。 御 心 に も よ く よ く 事 の や う を お も ふ て み よ か し。
ビン ガ
栴 檀 ハ 二 葉 よ り 芳 バ し く 頻 迦 の 鳥︵ 頻 伽 は 極 楽 浄 土 に
同文庫の内容は教訓・消息・産育・伝記・暦占・家政・養
生・化粧・衣装・女筆・婚礼・遊戯・艶書・教養・礼法・神
住 む 鳥 ︶ ハ 卵 よ り 諸 鳥 に す ぐ る る と い へ り。 な ん ぢ お
道・ 救 荒・ 防 災・ 和 歌・ 食 生 活・ 本 草 と 多 岐 に わ た り、 江
マゝ
かってしまった。
高の眠り薬となった。その疲れの最大の理由は七年前よりテ
然と眠り込んでしまうことが多々あり、私にとって読書は最
11
︵
御
判
官
︵
桜
殿
井
︶
︶
︵
兵
庫
︶
︵ 腹 ︶
ごはんぐハんどの︵正成︶ひやうごへむかハれし時に、
︶
﹃本朝地震記
︵同文庫 ︶
全﹄
此書ハ始に地震の諸説を挙げ次に、神武天皇より以来文
弔
政まで凡二千五百年余の間大地震の年月を記し且文政寅
︵
︶
なんぢをさくらゐよりかへしとどめられたる事ハあとを
命
︶
とふらハれんためにもあらず、はらをきれといふ事にも
運
敵
年七月の地震の始末を記たれバ後世に残しおきて子孫の
︵
朝
心得にもなるべき書也
︵扶持︶
︵
たにもおはしますとうけたまハらバ死のこりたらん一族
党
︶
あらず。正成うんめいつきてうち死にすとも主上いづか
郎
本 書 に は 文 政 十 三 年︵ 一 八 三 〇 ︶ ま で の 記 事 が 載 せ ら れ て
︵
い る。 文 政 十 三 年 は 日 本 紀 元 で は 二 四 九 〇 年︵ 西 暦 に 六 六
︶
︶
︵ 父 ︶
らうどうどもをふちしをき、いくさをおこしててうてき
言
行
をほろぼして二たび主上を御代にもたちまいらせよと
遺
正
〇をたせば日本紀元になるので計算は簡単︶になるので﹁凡
︵
︵ 用 ︶
︵
ゆ い ご ん せ し を き き て、 ミ づ か ら に も か た り し も の が
︶
二千五百年余﹂は厳密にいうと間違いである。ともあれ日本
刀
紀元が伝えられてきたことが大切である。
︵
いつのほどにわすれて侍るへぞ。さやうならバちちが名
︵
朝
倒
︶
敵
︶
︶
計
策
︵ 母 ︶
︵
︶
︵
正
遺
行
言
︶
︶
︵
教
訓
︶
︵ 童 子 ︶
正
若
行
党
︶
︶
︶この中になる﹁童子教訓五拾
をうしなひ君︵御醍醐天皇︶の御ようにもたつべからず
行
﹃理斎翁子弟戒﹄
︵同文庫
︵
と、いさめとどめかたなをうバひとれバまさつらハ礼盤
正
のうへよりなきたをれ、ははともにぞなげきける。その
︵
言﹂の一部を紹介しよう。
︶
︵扶持︶
︵
にもねんごろにふちし、まさつらつゐにうつて出つつ、
︵
一
人の善事を誉んと思はば其人の影にていふべき事
一
人の悪事を諌んとならば其人の前にていふべき事
一
われに利あれバ人にハ害ありとしるべき事
一 かろかろしく事を許諾すまじき事
一
人の悪事をバいささか語るまじき事
のちより、まさつらちちがゆいごんははのけうくんここ
戯
ろに染、きもにめいじ、はかなき手ずさび、わらハべの
︵
︵
たハふれにもてうてきをせめふせ、うちとるまねよりほ
︵ 母 ︶
かハせず。ははかいがいしくそだてあげ、一族わかたう
︵ 父 ︶
︵ 才 智 ︶
ちちにかハらぬ武略をなし、名を天下にしてまさつらを
うみ守んさいち、けいさくのたくましき事、世もつてま
れなる女性かなと時の人ハ申けるとなり。
三十箇所の書物取次所を載せてある。その内、下野では﹁佐
耳の痛い教訓である。更に興味あることは附録として、全国
一
つとむれバ福来りおこたれバ禍をまねくと知るべき事
一
誉れはそしりの基ひ楽ミハかなしミの始としるべき事
一
酒は腸を焼くの薪としるべき事
えられたことは意義深い。幕藩体制下にあっても民衆は皇室
﹃太平記﹄を下敷にした記述だが、天皇への忠節が民衆へ伝
という日本国の本質を忘れることはなかった。
Ƚ
ȽȁĺĴȁȽ
Ƚ
49
51
野天明
堀 越 常 三 郎 ﹂ と﹁ 栃 木 仲 町
舛屋浅吉﹂の二店が
あり、幕末期にもなると下野南部でも文化を享受する富裕層
二荒山神社境内に﹁精子の動きの撮影に成功したイチョウ﹂
、
的に雌雄の発見と誤認したものと思われる。なお宇都宮市の
平瀬助手による精子確認が生物学に無知な私を含めて一般
が出現してきたことを示している。この舛屋は明治初期頃と
樹齢三百年の雌株がある。その説明文に曰く
究の末、そのギンナンによって動く精子の姿を世界ではじ
の木は一九七二年、高校教師松本正臣、斎藤長重両氏が研
精子の姿は映画には勿論、写真にすら撮られていない。こ
思われる﹁栃之花見立三幅対﹂︵
﹃栃木市史
通史編﹄九一〇
頁︶に﹁舛屋万寿堂・万屋泰栄堂・釜屋泰民堂﹂とあり、明
治期も営業していたと思われる。
めて映画にとらえることに成功したイチョウである
﹃唐錦﹄元禄七年︵一六九四 ︶ 著者は松山藩儒者の妻大高
さ て、 小 論 の 課 題 で あ る 現 在 の 通 説 を 打 破 す る 事 項 を 二
つ紹介しよう。まず﹃鄙事記﹄宝永二年︵一七〇五 同文庫
︶
︶の記事である。
ぎん なん
坂維佐子︵同文庫
つの字ハ鬥の字のくづしなり門の字にあらず
変体仮名について例えば﹁あ﹂は安・阿・悪・愛、
﹁い﹂で
とう
銀杏の実ハ三角あるを植べからず。男木にて実のらず。男
木ハその葉の中に岐ありてきれたるがごとし。男木ハ大木
つぐ
が知られていたことを示す資料である。そしてこれを生物学
これは少なくとも宝永二年以前にイチョウには雌雄あること
現代送り仮名はドウだが歴史的仮名遣いはダウなので﹁た﹂
変体仮名は漢字の音読みが当てられた。堂は﹁た﹂と読む、
三三年の小学校令により一字に決められた。このようにして
は 以・ 伊・ 意・ 移 の く ず し 字 が 使 わ れ て い た。 そ れ が 明 治
的に明治二九年に証明したのが東京帝国大学理科大学助手平
と読める。同様に王︵オウ︶はワウなので﹁わ﹂と読む。し
紀要〟に仏文で図入の詳報として発表した︵﹃生物学辞典﹄
年〝 植 物 学 雑 誌 〟に 短 報 を 載 せ、 一 八 九 八 年〝 帝 大 理 学 部
游ぐことを確認して東京植物学会に発表︵一八九六︶
、同
イ チ ョ ウ の 花 粉 管 内 に 精 子 ら し い も の を 発 見 し、 こ れ が
ながらない。このことが私の長年の疑問になっていたのであ
ずれも音は川はセン、門はモン・ボンであって﹁つ﹂にはつ
館︶は逆に﹁門﹂として二案に﹁川﹂としている。しかしい
し、二案として﹁門﹂をあげている。
﹃歴史手帳﹄
︵吉川弘文
字 で あ る 。 古 文 書 辞 典 の 大 部 分 は﹁ つ ﹂ の 元 字 を ﹁ 川 ﹂ と
か し 私 が 今 迄 ど う し て も 理 解 で き な か っ た の は﹁ つ ﹂ の 元
瀬作五郎である。
に成ても実のらず、切て接べし
38
岩波書店
一九八九︶
Ƚ
ȽȁĺĵȁȽ
Ƚ
25
る。それが﹃唐錦﹄の﹁つの字ハ鬥の字のくづしなり門の字
にあらず﹂にたどりついてようやく胸のつかえが取れた。即
ち﹁鬥﹂のトウ︵漢音︶・ツ︵呉音︶のうち呉音で﹁つ﹂に
なったのである。ここで古文書辞典の川説・門説を訂正する
ことを要求したい。それにしても江戸前期に大高坂維佐子と
いう岐穎な女性の存在を今日に伝えてくれた﹃江戸時代女性
文庫﹄︵大空社︶に感謝してやまない。
平成十九年七月十一日 雨天でテニス部活がなくて擱筆
︵地歴公民科︶
Ƚ
ȽȁĺĶȁȽ
Ƚ
業等に紹介したり生徒と共に観測することは有意義なことで
ある。平成十八年十月から十九年十月までに起きた水星と彗
星がもたらした天体現象を挙げてみる。
当日の予報
(アストロアーツホームぺージより)
西
沢
敏
秒︶や第四接触︵九時一〇分二七秒︶の瞬間を手に取るよう
水 星 が 太 陽 か ら 離 れ る 瞬 間 で あ る 第 三 接 触︵ 九 時 八 分 三 六
にはすでに水星がほくろのように見えていた。ドームでは、
当日は朝から快晴であった。前の日から屋上に設置してお
いた望遠鏡に早朝から集まった天文部員が太陽を入れたとき
め太陽面を黒い点が移動していくように見える。
だ。水星は、その直径が太陽のおよそ三〇〇分の一であるた
すいせいがもたらした天文現象
4
太陽系や銀河系で起きている天文現象は常に天体観測を
行っている者の心を離さない。またこうした現象を理科の授
4
︵1︶水星の日面通過
にビデオでも捉えることができ
た。これらの時刻は本校が存在
する栃木市平井町でのみ観測で
きた時刻である。早速﹁全国高
校生天体観測ネットワーク﹂と
いう組織に報告した。
観測された時刻と予報との違
いや、観測場所の違いから生じ
る水星のずれから生じた視差を
もとにして、生徒に水星までの
Ƚ
ȽȁĺķȁȽ
Ƚ
4
平成十八年十一月九日の早朝、太陽面上を水星が通過する
という珍しい現象が
起 き た。 水 星 は 太 陽
系で最も内側にある
惑 星 で あ る が、 常 に
太陽に近いためその
姿を見ることはめっ
た に な い。 し か し、
今回見かけ上ではあ
る が、 そ の 水 星 と 太
陽が同一方向に並ん
第三接触の水星(上部の黒い点)
本校ドームにて撮影
06 年 11/9 9:08 分 36 秒
4
離がおよそ六〇〇〇万㎞となり、ほぼ理論通り計算できた。
正確な距離を計算させてみた。その結果、水星と地球との距
で晴れることはなく見ることは難しそうである。しかし一月
の樋の口というところで、日没後まもない午後五時ごろから、
山の影でみえない。そこで学校から車を西に走らせ、栃木市
十一日、ついに地平線を下に、くっきりと彗星の尾と核を確
地平線付近を双眼鏡で連日捜索してみた。なかなか地平線ま
次回この現象が観測できるのは、二四年後の二〇三二年とい
うことで今回観測できたのはきわめて幸運であったといえる。
︵2︶真昼の彗星とバーストした彗星
からなるイオンテイルと、ちりや岩石がもととなってできる
認できた。彗星の尾は水の分子から出た水素や酸素のイオン
平 成 十 八 年 八 月、 オ ー ス ト ラ リ ア の マ ッ ク ノ ー ト と い う
人が発見した彗星は、発見された当時は暗く話題にもならな
ダストテイルがあるが両方ともはっきりと観測できたのであ
る。大彗星の風格だ。
かった。ところが、太陽や地球に近づいてくるにしたがって
光 し て き た。 彗 星 は も と
︵近日点接近︶しだいに増
平成一九年一月
十 四 日、 日 曜 日 の 朝
だったがメーリング
リストを見てびっく
り し た。 な ん と 真 昼
するうちに急に明るくなり、突然人目につくということはあ
ま﹂である。太陽風といわれる太陽のエネルギーを受け蒸発
ば﹁ 巨 大 な 汚 れ た 雪 だ る
えると言うことは、少なくとも金星より明るく、マイナス五
くっきり彗星の核が光っているではないか。確かに彗星がい
に 望 遠 鏡 を 向 け て み た。 口 径 十 五㎝ の 屈 折 望 遠 鏡 に な ん と
さま本校のドームに直行した。急いで軌道を計算しその位置
いるそうなのだ。秋田県の理科の先生のメールもある。すぐ
Ƚ
ȽȁĺĸȁȽ
Ƚ
も と 太 陽 系 の 果 て、 お よ
そ太陽から六〇億㎞かな
たからやってきた天体で
あ る。 ほ と ん ど は ダ ス ト
りうる。この現象はバーストというがめったには起こらない。
等級はある。早速シャッターを切り、何とか映像に残した。
の空に彗星が見えて
平成一九年が開けた正月の五日頃は、天文現象を伝えてく
れる国立天文台等は休みである。しかしプライベートで天体
翌日の一五日月曜日、偶然二年生と三年生で地学の授業があ
と氷からできているいわ
観測をしているグループのメーリングリストには続々と日没
り、屋上で真昼の彗星の様子を約七〇名に観測させることが
る。真昼に彗星がみえる。前代未聞のできごとである。昼見
の頃、マックノート彗星を見たという報告が入ってきた。太
オーストラリアで見えた
マックノート彗星
07 年 1/23
アストロアーツホームページより
陽が沈んだ後の地平線からわずか五度。学校の屋上では太平
真昼のマックノート彗星
本校ドームにて
07 年 1/14 13:30
できた。一六日火曜日も晴れたがこの時点では既に太陽に近
測 し た。 ペ ル セ ウ ス 座 流 星
流星を日光の戦場ヶ原で観
4
が、スイフト・タットル彗星という彗星が地球の通る軌道上
にたくさんのダストを残してくれている。毎年八月の十三日
の夜、この軌道上に地球が突入するためたくさんの流星が見
られる。平成十九年も本校の天文部が一晩で三〇〇個程度の
戦場ヶ原での
ペルセウス座流星群
07 年 8/13 午前1時頃
うすれば守れるか考えるきっかけになると思う。
︵理科︶
えていくことであろう。そうすれば地球という星の環境をど
みがえるはずである。そして宇宙に関心を持った人たちが増
ネルギーや温暖化防止が進んでいけばいずれ綺麗な星空がよ
具合が少しずつ良くなってきたことを付け加えておく。省エ
原や本校屋上での星の見え
が あ る こ と と、 最 近 戦 場 ヶ
う定期的にみられる流星群
月 に は、 ふ た ご 座 流 星 と い
名 な し し 座 流 星 群、 冬 十 二
群 で あ る。 十 一 月 に は、 有
すぎ観測は無理であった。
その後この彗星は南半球でしか観測ができなくなったが
一九六五年の池谷・関彗星以来の大彗星になった。もし日本
でも見えていれば豪華な天文ショーになったであろう。
平 成 一 九 年 十 月 二 六 日、
別の彗星の核がバーストを
起 こ し た。 ホ ー ム ズ 彗 星 と
いうほとんど知られていな
い 彗 星 が あ る。 明 る さ も せ
4
Ƚ
ȽȁĺĹȁȽ
Ƚ
いぜい十六等星で昨年まで
惑星として知られていた冥
王 星 よ り 暗 い。 そ の 彗 星 が
突然四十万倍も明るくなっ
て肉眼でもはっきり見える
部主催のドーム公開もおかげで盛況になった。
ようになった。夕方六時半位から観測が可能になった。天文
バーストをおこしたホームズ彗星
本校ドームにて
07 年 10/29 19:17
同じすいせいという名の二種類の天体、どちらも太陽系の
一員なのだが見え方は全く異なる。しかしどちらも大変すば
4
らしいドラマをもたらしてくれた。最後に、別の彗星の話だ
4
いざな
﹁ 香 り ﹂へ の 誘 い
前 書 き
水
野
正
第一章
香道の歴史
き や ら
くことが私に
た
香道に欠かせない香木が日本にいつ頃伝わったのかという
と、仏教伝来の西暦五三八年頃といわれる。仏教とともに香
ある。
﹁究極のオタク﹂の世界で光源氏よろしく満足しているので
最近は手軽な線香タイプのものがあって部屋で楽しんでい
ると、家族からの評判が悪いのには少々困っているが、私は
とっての秘かな楽しみである。
の 香 木 と 道 具 を 購 入 し、 現 在 も 時 折、 香 を
を い た だ い た そ の 足 で 渋 谷 駅 前 の デ パ ー ト に 走 り、
﹁伽羅﹂
│﹁香道﹂の入門編 │
おい かぜ
平 安 時 代 の 文 学 作 品 に は﹁ 追 風 ﹂ と い う 言 葉 が 見 ら れ る 。
﹃源氏物語﹄についていえば、十一回登場し、
﹁空蝉﹂の巻で
はこの追風が効果的に使われている。
空 蝉 は 光 源 氏 の 二 度 目 の 訪 れ を、 こ の 追 風 に よ っ て 知 り 、
部屋からそっと逃げ去る。そして、逃げ去ったあとには空蝉
が夜具として使っていた薄衣だけが残されている⋮⋮。
とを香りが追いかけるようにたなびくという様子である。
、この﹁空蝉﹂の巻の由来でもあるが、この追風と
これたが
き もの
た
は、薫物を き染めた衣服をまとった人物が動くと、そのあ
く習慣も伝えられ、この当時は仏前を清めるという宗教
た
的な意味で使われたと考えられる。今でも仏壇に線香を供え
香 木 の 伝 来 は 西 暦 五 三 八 年 頃 と 書 い た が、 文 献 に よ る 記
述では﹃日本書紀﹄に推古三年︵西暦五九五年︶淡路島に漂
るのは、この習慣の名残りということができる。
を
高校時代、図書室で手にした﹃宇治拾遺物語﹄のおもしろ
さが古典の世界に入るきっかけとなり、民俗学的解釈、文法
的解釈という両面からの講義を通して、王朝文学のすばらし
さが少しだけ実感できたのかもしれない。
﹁ 香 ﹂ に 対 し て 強 い 憧 れ が あ り、 大 学 の 奨 学 金
この当時、
Ƚ
ȽȁĺĺȁȽ
Ƚ
着した流木を島民が火に投じたところ、大変良い香りがした
を表現する﹁組香﹂であり、考え出されたのは十四世紀後半
の結果、生まれたのが香の組み合わせで和歌や物語のテーマ
になって、香は文学の世界に少しずつ近づくことになる。こ
くみ こう
とある。驚いた島民が朝廷に献上すると、当時推古天皇の摂
まつ
政であった聖徳太子は大変喜び、これで仏像を刻み、法隆寺
︵鎌倉時代︶といわれ、これがやがて香道への流れとなるの
いう説もある。また、残りの部分を香木としたのが現存する
ゆう えん こ たん
どを作る時間的なゆとりがなくなったことが挙げられる。
頭により戦さに対する備えが急務となって薫物に使う練香な
楽しむ方向に変化したといえる。このことは、まず武士の台
好んだ複雑で雅びな香りではなく、香木の持つ本来の香りを
そ れ で は、 鎌 倉 か ら 江 戸 時 代 ま で の 武 士 の 時 代 は ど う で
あったのだろうか。まず、鎌倉・室町時代になると、貴族の
貴族の教養とみなされるまでになった。
香が、仏教の宗教的意味で使われた飛鳥・奈良時代に対し
て、平安時代は生活の中に取り入れる習慣が確立し、一つの
である。
に祀ったといわれる。これが今も伝わる夢殿の救世観音像と
十一種名香の一つ﹁太子﹂、あるいは﹁法隆寺﹂と呼ばれる
ものである。
注目すべきことは流木を見た聖徳太子が即座に﹁こ
ただじ、
ん すい
れは沈水︵沈香︶である。﹂といったことで、太子は仏教に
精通しておりお経にも詳しく、また中国の知識人との交流が
あったればこその発言であろうか。
がん
田信長、明治天皇が切り取ったと
その後は、足利義政、ら織
ん じゃ たい
される正倉院御物の﹁蘭奢待﹂が渡来した。これは沈香の中
でも特に最良の﹁伽羅﹂と呼ばれるものである。
ら
どう よ
さらには、禅宗の影響で武士の尊ぶ﹁幽遠枯淡﹂の精神性
を強調する風潮が起こったことも大きい。このことは絵画に
さ
た、天平勝宝六年︵西暦七五四年︶に唐から来朝した鑑
じま
ん わ じょう
真和上の渡航時の目録によると、仏典とともに数種の香料を
ば
おいて、水墨画の出現にもあらわれている。鎌倉時代には香
芸術的センスの優れた武将といえる︶の出現や香木の繊細な
しゅうしゅう
もたらしたことがわかり、中でも白檀と沈香をベースにして
名で、
﹃太平記﹄では悪名高いが、当時一流の教養人であり、
木の蒐集に情熱を傾けた婆娑羅大名︵中でも佐々木道誉は有
ねり こう
他の香料を蜂蜜で混ぜて作る﹁練香﹂の技術が伝えられ、こ
たき もの
れ が 平 安 時 代 に は﹁ 薫 物 ﹂ と し て、 実 用 的 な 用 法 と し て は
衣服や室内に漂わせ、さらには趣味の世界に取り入れられて
香りを聞き取るのに欠かせない、火の温度調節をする雲母で
できた﹁銀葉﹂の発明を含めて香をより繊細に聞き分ける道
ぎん よう
具の発明、改良が香の普及に一役買って、香の組み合わせで
たき もの あわせ
﹁薫物合﹂となった。
和歌や物語のテーマを表現する﹁組香﹂が生まれ、香は〝香
かい あわせ
これは、当時流行した﹁歌合﹂や﹁貝合﹂と同様に香の優
劣を競い合うものである。ところが、優劣を競い合うだけで
うた あわせ
は満足できなくなり、薫物に和歌にちなんだ銘をつけるよう
Ƚ
ȽȁIJııȁȽ
Ƚ
りを聞く〟という下地ができた時代といえる。
室 町 時 代 に 入 る と、 足 利 義 政 が 中 心 と な り、 後 の 慈 照 寺
︵ 銀 閣 寺 ︶ を 舞 台 と し た い わ ゆ る 東 山 文 化 の 中 で、 茶 道 や 華
道、能とともに香道が一定の作法や遊びのルールを集大成し
さね たか
て、現在の香道の基礎が確立したといわれる。この時、尽力
お いえ りゅう
し
の りゅう
派、﹁御家流﹂﹁志野流﹂の祖である。
した三条西実隆、志野宗信は現在主流となっている二つの流
よね かわ りゅう
﹁御家流﹂は公家風であり、
﹁志野流﹂は武家風
ちなみに、
さん じょう にし きん よし
で あ る。 御 家 流 家 元 の 三 條 西 公 彦 氏 は 学 習 院 女 子 大 学 で 香
道の授業を担当している。
江戸時代には、加えて﹁米川流﹂が盛んであったが、明治
以降絶えて現在は﹁安藤家御家流﹂として復活している。
江戸時代には、従来男性の芸道であった香道が将軍・大名
の奥方や経済力に恵まれた町人層の女性の間にも広がり、い
よいよ完成をみることになった。第二章で触れる﹁組香﹂の
多くがこの時期の作である。
ところが、次の明治時代は西洋文化の流入によって、伝統
文化の排斥が起こり、香道は衰退の一途をたどった。
こ の 結 果、 香 道 は 再 び 一 部 階 級 の 高 貴 な た し な み に 戻 っ
たのである。それが、一般の人々に門戸を開くようになった
のは第二次世界大戦後、国民の生活が安定して茶道や華道に
人々の気持ちが向くようになってからであった。
た だ、 茶 道 や 華 道 の 人 口 が 約 一 千 万 人 と い わ れ る の に 対
して、香道人口はわずか五千人とも。香木が熱帯の一部地域
で、しかも数量に限りがある以上はブームになるのも困るこ
とかもしれないが、香道の愛好家が少ないのは残念である。
しかし、気をつけなければいけないことは、自分に心地よ
い香りが他人には不快な場合もあるということ。これは実体
第二章
香道とは
験を通して学んだことである。
⑴香を聞く
香道で使う香木は、原則として﹁沈水香木﹂、つまり﹁沈
香﹂に限られる。そして、この沈香の香りの微妙な違いを問
み
りっ こく
いかけて、その答えを﹁聞く﹂ところから、﹁嗅ぐ﹂といわ
ご
ず﹁聞く﹂と表現する。香道において、香りはすべて﹁六国
五味﹂
︵後述︶で分類される。
ま
な ばん
六国とは香木の産地、あるいは積み出し港の地名で、
﹁伽
ら こく
ま な か
羅 ﹂ は ベ ト ナ ム 産、﹁ 羅 国 ﹂ は タ イ 産、
﹁真那伽﹂はマラッ
さ
そ
ら
カ︵ マ レ ー シ ア ︶ 産、
﹁真南蛮﹂はタイ・マレーシア・ボル
︵ん︶ た
す も
ら
ネオ産、
﹁ 佐 曽 羅 ﹂ は チ モ ー ル 島︵ イ ン ド ネ シ ア ︶ 又 は サ ス
バール︵インドカルカッタ周辺︶産、﹁寸 聞 多羅﹂はスマト
ラ︵インドネシア︶産のことである。
かん
また、﹁五味﹂とは匂いの特色を五つの味覚にたとえたも
ので、甘︵あまい︶・苦︵にがい︶・辛︵からい︶
・酸︵すっ
ぱい︶
・鹹︵しおからい︶の五つである。
香道とは、これら香木の違いを一定の作法に従って聞くこ
もん こう
と、これを﹁聞香﹂といい、さらに二種類以上の香を使って
Ƚ
ȽȁIJıIJȁȽ
Ƚ
和歌や物語を表現するという、いわばゲーム仕立てで聞き分
現がふさわしい。
大きさからは可憐という表
くみ こう
ける﹁組香﹂を体系化したものである。
②仏像の左手のような形に広げた左手の上に、取り上げ
①先客から送られてきた聞香炉を右手で取り上げる。
に使う﹁火取り香炉﹂があ
時に、炭団を入れて運ぶの
の﹁聞香炉﹂と手前をする
炉、これには香を聞くため
それでは、まず香を く
ために使う道具としては香
た香炉をのせ、正面を反時計に回して、聞筋︵香炉の
る。次に、火道具としての
ひ ばし
合﹂がある。
ごう
りゃく て まえ
の他には、香道具一式を納める﹁乱箱﹂、略手前に使う
こ
し ほう ぼん
なが ぼん
じゅう こう
﹁ 四 方 盆 ﹂ と﹁ 長 盆 ﹂、 香 包 な ど を 入 れ る 三 段 重 ね の﹁ 重 香
みだれ ばこ
⑦灰押⋮香炉の中の灰を、押して整えるのに使う。
はい おさえ
⑥羽箒⋮羽で作られ、香炉の中の灰を落とすのに使う。
は ぼうき
に使う。
⑤木香箸⋮上質の香を扱う時や落とした香を拾う時など
き こう ばし
の串のこと。
④香串⋮香を いた後の香包みを刺し止めておく金属製
こう ぐし
③銀葉鋏⋮銀葉と呼ばれる雲母の板をつかむもの。
ぎん よう ばさみ
②香匙⋮
﹁こうすくい﹂ともいい、香木をすくう時に使う。
こう さじ
けるために使う。
①火箸⋮灰に箸目をつ
ると、
︵写真参照︶
ひ
た どん
もん こう ろ
灰山につけた線の中で、香炉の正面を表わす他より若
七つ道具について触れてみ
いっ そく
と
干太めの灰筋のこと︶を自分と反対の側に向け、左手
⑶香道具
間の畳に置く。
⑦聞き終わった後は、時計回りに香炉を戻し、次客との
⑥吸引した息は両手の内側に静かに吐き出す。
吸引することを、一息という。
⑤三度ないしは五度、香を吸って香りを記憶する。一度
差し指に触れるぐらい近づける。
た親指と人差し指の間から香を聞く。この時、鼻は人
④背筋を伸ばし、体を香炉の方に近づけて、筒をつくっ
③右手を筒のように丸めて、香炉に被せる。
きき すじ
の親指で香炉の縁を抑える。
もん こう ろ
⑵香の作法
香の聞き方の例として、香炉の扱い方をまとめると、
香木の香りを鑑賞するために欠かせないのが香道具。美し
さもさることながら、ままごとの道具を思わせる可愛らしさ
ぎん よう
に、その大きな特徴があると思われる。香炉の灰の上に乗せ
る、銀葉と呼ばれる雲母の板は周りが錫で縁取られており、
Ƚ
ȽȁIJıijȁȽ
Ƚ
⑷組香の例
﹁ 組 香 ﹂ と は 香 道 の 感 覚 を 養 う た め に 考 え ら れ た、 二 種 類
以上の香を使ってゲーム感覚で香を聞き分け、和歌や物語を
<
三 種 香 の﹁ 記 録 ﹂
>
<
>
緑 樹 の 林 ﹂、 最
隣家
<
>
の梅﹂
、すべて同じ香
だ と 思 え ば、﹁
初と二番目が同じ香り
ば、﹁
かれた香がす
三回
べて違う香りだと思え
く。
︵図参照︶
と﹁ 名 目 ﹂ を 記 紙 に 書
き がみ
各自が答える場合
は、 上 記 の﹁ 香 の 図 ﹂
について
さん しゅ こう
表現する、﹁香り当て競技﹂ということができる。それでは
﹁三種香﹂という組香を例にして説明すると、
三種香の概略
三種香で用いる香は、名前通りの三種類で前もって、一、
二、三と番号をつけておく。試し聞きは行なわず、いきなり
くことで、
﹁試み﹂ともいう。
競技を始める。試し聞きとは、客に香木の特徴を覚えてもら
うために名前を明かして香を
組香に参加する人数と役割分担
尾花の露﹂というように答えを出す。つ
き換えて楽しむところに﹁三種香﹂のおもしろさがある。
まり、香の図から想像できるイメージを、視覚的な情景に置
り だ と 思 え ば、
﹁
る﹁執筆﹂の二人で進める。三種香のような初心者向けの組
例 え ば、 最 初 と 二 度 目 の 香 り が 同 じ 場 合 の 図 が﹁ 隣 家 の
梅﹂というのは、香りの図から右隣りの家から塀越しに梅の
く﹁香元﹂と参加者の答えを記録す
こう もと
組香を行なう場合の人数は、原則十人以内で行なう。これ
は一つの香炉を回して充分に香を判別できる人数ということ
香では、お盆を用いた略手前で行なうことができる。参加者
香りが漂よう情景を想像したわけである。この情景を皆さん
である。お手前は香を
はお手前も含めて四、五名で、この時は記録係は正客︵香元
はイメージできるだろうか。
①三種類の香木を用意し、それをさらに小さく刻んで、
それでは、三種香の手前の流れをまとめてみると、
の左隣に座る一番目の客のことで、メインゲストである︶が
りゅう
務めるのが慣わしである。長方形のお盆に香包などを入れた
礼 卓 と い う 専 用 の 机 と 椅 子 を 使 っ て 行 な う。 初 心 者 向 け の
れい じょく
三段重ねの﹁重香合﹂と火道具、聞香炉をのせる。これを立
予め内側の右隅に﹁一﹂
﹁二﹂﹁三﹂の番号を記入した
れん じゅう
組香以外では、香元と執筆が正面に座り、参加者︵連衆と呼
香包に配分する。
②香包の中央に香木をのせて、四つに折りたたむ。
ぶ︶は香元の左前方に着席し、連衆には答えを書くための硯
が予め配られている。また、通常は香元、執筆も競技に加わる。
Ƚ
ȽȁIJıĴȁȽ
Ƚ
③右隅の番号の部分を内側に折って隠す。
出す。
④手前が始まると、香元は重香合から九つの香包を取り
して交ぜる。
⑤左手の平にのせた香包を、下から左に引き抜くように
炉の上で く。
⑥香包から香匙で香木をすくい取り、銀葉をのせた聞香
⑦香元は一息だけ香を聞いて、香りが出ているかどうか
を確かめる。
⑧正客から順に、三息ないしは五息で香を聞く。香元は
き終わった香包を、長盆の右側に伏せて重ねて置く。
な のり
記入する。全問正解なら﹁叶﹂と書く。
た三種の香木の﹁銘﹂を記入する。
⑮最後に、記録用紙の題号の右側に、本日の組香で用い
第三章
香木とは
﹁ 白 檀 ﹂ と﹁ 沈 香 ﹂ で あ
香木は大きく分けて二種類ある。
る。白檀は生木であるが、自然の状態ではほとんど香りはな
く、香りのある芯の部分を取り出して乾燥させると木材その
ものが香るため、香料の他に仏像彫刻や扇子などにも使われ
る。対して﹁沈香﹂は水に浮かべようとすると、比重が重い
ため沈んでしまうところから、﹁沈水香木﹂が正式名で、こ
じん ちょう げ
う呼ばれる。沈香は香木の一つであるが、木そのものが香り
き がみ
を 放 つ わ け で は な く、 沈 丁 花 科 の 樹 木 が、 長 年 地 中 や 水 中
がみ
⑨ 三 種 の 香 を 聞 き 終 わ っ た あ と、
﹁ 記 紙︵ ま た は 名 乗
に埋もれている間にアスペルギルスという黴の作用で木の持
る優雅な感じは香りの王者といえる。
また、沈香の中でもベトナムの限られた場所から産出する
ものを、特に﹁伽羅﹂と呼び、甘味が強く、すっと鼻に抜け
れる。
つ樹脂の部分が凝結し、木質に付着して香りを発するといわ
かび
と﹁名目﹂で答える。
紙︶
﹂ に 答 え を 書 く。﹁ 三 種 香 ﹂ の 場 合 は、﹁ 香 の 図 ﹂
⑩ 連 衆 の 記 紙 を 回 収 し て、 香 元 が 片 付 け を し て い る 間
に、執筆が記録を認める。
⑪まず、各自の答えを写し換える。
受け取り、右隅を開いて正解を読み上げる。
⑫全員の答えを写し終わると、香元から渡された香包を
第四章
香の効用
に 正 解 を 記 入 す る。 題 号 は 奇 数 に な る よ う に、﹁ 之 ﹂
⑬記録用紙の題号︵この場合は﹁三種香之記﹂︶の左側
が てん
の字を加える。
⑴香りの効能
まず初めに匂いのメカニズムについて触れると、人間は他
の哺乳類に比べて嗅覚はそれほど発達していないといわれる。
ら右斜め下にかけて引いた線︶を掛け、下段に得点を
⑭各自の答えに合点︵正解の印で、﹁香の図﹂の左上か
Ƚ
ȽȁIJıĵȁȽ
Ƚ
さ ら に、 人 間 の 五 感 の 中 で、 現 代 人 は 特 に 嗅 覚 が 退 化 し
て い る と の 指 摘 も あ る。 と こ ろ が、 嗅 覚 は 他 の 感 覚 と 比 べ
て情動に強く結びついている。視覚や触覚、聴覚が大脳皮質
へん えん
を経由して、情動に深く結びついている大脳辺縁系に伝えら
れるのに対して、嗅覚は直接大脳辺縁系に達する。このこと
は、五感の中で嗅覚が最も本能に根ざしたものといえる。
さらに、匂いに関する情報は、記憶に関係する部分や自律
神経、ホルモンの分泌、免疫といった生命維持のシステムに
も大きな影響を与える。匂いには免疫力を高めたり、自律神
経のバランスを回復させる効果があるというわけである。
つまり、匂いは、人の健康な生活に大きな影響力を持つの
である。それでは、具体的にどのような効果かというと、心
理的には気持ちが楽になり、ゆったりと落ち着いてくつろい
だ気分になる。
また、生理的にはよい匂いを嗅ぐと呼吸が深く遅くなり、
この結果、血圧が下がり、過度の緊張もほぐれるというわけ
である。
このように、良い匂い︵香り︶は、リラックス効果抜群と
いうわけである。ただ、リラックスには集中力を高めるもの
もあれば、心地よさからまどろんでしまうものもあるので、
その時々の自分の状況に応じた香り、最適な方法の選択は必
要である。
森林浴から、アロマテラピー、香水、お香、身近なもので
は入浴剤やハーブティーとあるが、一番大切なことは、これ
らの香りを楽しむ時間を持つということをお忘れなく。
そ の 意 味 で も、 日 本 の 精 神 文 化 と 深 く 結 び つ い た お 香 に
触れることは、心のゆとりという﹁非日常の世界﹂へのパス
ポートを手に入れることだと思う。
それでは、次に香の長所を説いた﹁香十徳﹂に触れてみたい。
⑵﹁香十徳﹂
おしえ
いた
一休禅師が、古くからの香に関する訓や効用を記した十の
心得であり、その内容としては、
①﹁感格鬼神﹂︵感は鬼神に格る。
︶
感覚が鬼や神のように研ぎ澄まされる。
②﹁清淨心身﹂︵心身を清浄にす。
︶
けが
する。
心身を清く浄化
よ
お わい
③﹁能除汚穢﹂︵能く汚穢を除く。
︶
穢れを取り除く。
よ
④﹁能覚睡眠﹂︵能く睡眠を覚ます。
︶
む。
︶
ぬす
眠気を覚ます。
⑤﹁静中成友﹂︵静中に友と成る。
︶
孤独感を拭う。
じん り
ひま
⑥﹁塵裏 閑﹂︵塵裏に閑を
忙しい時も和ませる。
⑦﹁多而不厭﹂︵多くして厭はず。
︶
魔にならない。
多くあってもす邪
くな
た
︶
⑧﹁寡而為足﹂︵寡くて足れりと為す。
少なくても充分香りを放つ。
Ƚ
ȽȁIJıĶȁȽ
Ƚ
たくわ
⑨﹁久蔵不朽﹂
︵久しく蔵えて朽ちず。
︶
。
長い間保存しても朽ちなさい
わり
⑩﹁常用無障﹂
︵常に用ゐて障無し。
︶
常用しても無害である。
なしにも使われる。
②長い線香
座禅香ともいわれ、禅堂で用いるものには センチ
以上の長さのものもあり、大型の香炉に立てて使われる。
また、法要において導師用としても使われる。
③短い線香
ず こう
この訓の中で、香りは量ではなく質が重要であると述べて
いる。
花や果物の香りなどを部屋で楽しむお香として、
センチ前後の長さのものやコイルタイプ、コーンタイ
各種の香木や香料を細かく刻んで調合したもので、
使 用 さ れ る 材 料 の 数 に よ っ て 三 種 香、 五 種 香、 七 種
④焼香
しょう こう
できるのはうれしい。
可能であるし、またインテリアとしても楽しむことが
たくさんの種類があるので、好みのものを選ぶことが
プのものもある。線香を楽しむための香炉や香立には
香﹂について
⑶﹁塗
最 も 粒 子 の 細 か い パ ウ ダ ー 状 の お 香 で、 一 般 に﹁ 清 め 香 ﹂
ともいわれる。主に密教寺院等で、僧侶が読経や写経を行な
う際に手や身体に塗り、心身を清めるために用いる。
け ごん きょう
﹁香り
仏 教 の 代 表 的 経 典﹃ 華 厳 経 ﹄ に 塗 香 の 功 徳 と し て、
を塗ると精気を増進し、寿命を延ばす。体を強壮にして顔色
第五章
現代生活とお香
を良くする。心を楽しくさせる。
﹂等のことが書かれている。
香、九種香などと呼ばれる。これは仏前で、直接炭火
<
>
⑤ 抹香
まっ こう
の上に薫じて使う。
①一般の線香
直接火をつけるもの
⑴お香の種類
非 常 に 細 か い 粉 末 の 香 で あ り、 古 く は 仏 塔 や 仏 像
などに散布していたといわれる。用途としては、仏前
<
>
① 練香
ねり こう
間接的に熱を加えるもの
﹁時香盤﹂などに使われる。
じ こう ばん
主に家庭で仏事に使われる ∼ センチ程度の長さ
の線香は、宗派によって き方が異なるが、一般的に
ずつ三方に立てることが多い。
また、原料に沈香や伽羅などを多く用いた高級線香
は、仏事に限らず、老舗の高級料亭などでは客のもて
Ƚ
ȽȁIJıķȁȽ
Ƚ
10
70
で焼香の時に用いたり、香の燃えた長さで時間を測る
30
は﹁仏・法・僧﹂の原理に基づいて、香炉の中で一本
10
この衣被香が活躍している。末摘花︵紅花の別称であ
り、腸詰めのような赤い鼻の持ち主であった︶は美し
けい ひ
い女性ではなかったと思われるが、古びた織物からは
ちょう じ
沈 香・ 白 檀 を は じ め 丁 子︵ 字 ︶・ 桂 皮︵ シ ナ モ ン ︶
などの天然香料を粉末状にしたものと炭粉を蜂蜜や梅
<
>
び こう
それでは、お香と日常生活の融合ということで、お香の使
い方を考えてみよう。
何とすばらしいことではないだろうか。
⑵お香の活用法
作家の立原正秋氏は自宅の玄関に必ずお香を かせたこと
で有名であったが、移り香を通して客と主人との心の交流、
れ。
﹂ということを忘れてはいけない。
ければいけないことは﹁香りに対する感覚は人それぞ
車の中での利用が考えられるが、ここでも注意をしな
りとして、また名刺などの香りづけとして、さらには
匂い袋は、古来より衣服の防虫剤として使われてい
たわけであるが、現代的な使い方としては、室内の香
の使用法が香木よりも早かったのかもしれない。
さらには、古墳の副葬品の中からも、この香袋が発
見されていることから考えると、我が国において香袋
比重を占めている。
また、この衣被香は東大寺正倉院の香薬にまでさか
のぼることが可能であり、ここでは香袋として大きな
被香であった。
思わせる場面がある。ここで活躍したのが、まさに衣
肉で練り合わせた丸薬状の香をいう。﹃源氏物語﹄な
ろ
とても奥ゆかしい香りがして、光源氏に﹁をかし﹂と
ふ
どに登場する薫物を今に伝えるお香である。
いん こう
茶道では、初冬から春の香りとして風炉の熱灰のそ
ばに二粒ほど置いて使う。
②印 香
粉末にした香料を梅花形など、さまざまな形に押し
固めたお香で、練香と同様に熱灰の上にのせて薫じさ
せる。
ず こう
浅く軽い香りで、茶道では夏の風炉で使われる。
その他のお香
①塗 香
最 も 粒 子 の 細 か な お 香 で あ り、 俗 に 清 め 香 と い わ
れ、主に密教寺院で読経や写経を行なう際に、手や身
体に塗って心身を清めるために使う。
②匂い袋
だい うい きょう
匂い袋は熱を加えるものではないため、常温でも香
り、さらに防虫効果の高い香材料を用いる。代表的な
え
れらを調合することで、おだやかな香りをつくること
ものは、白檀・丁子︵字︶・桂皮・大茴香などで、こ
ができる。
被 香︵ 裛
こ の 匂 い 袋 の ル ー ツ は、 平 成 時 代 の﹁ 衣
衣香︶に求められる。
﹃源氏物語﹄の﹁末摘花﹂では、
Ƚ
ȽȁIJıĸȁȽ
Ƚ
玄関まわりには
<
>
お 客 さ ま の 第 一 印 象 は 扉 を 開 け た 瞬 間 で 決 ま る。 こ の 時、
やわらかく香るのがお香。ポプリのように、鼻につくという
心配もないので、清々しい香木を選んでお客さまをお迎えし
たいものである。この時、季節の文様入りの置き香炉を選べ
リビングには
ば、もてなし度は満点である。
<
>
で、ぜひ勧めたい。
お 客 様 が い ら っ し ゃ っ た 時 は も ち ろ ん、 自 分 の た め に も
お香を いてリラックスすることは理に適ったことであるの
こ の 場 合 は、 む し ろ 線 香 タ イ プ の 簡 便 な も の が ふ さ わ し
く、香立に絵柄の小皿があれば充分である。
あり、これらは防虫効果のほかに、移り香も楽しむことがで
きて一石二鳥、さらにはこの趣味の良さが、現代の光源氏の
心を惹きつけるかもしれない。
お香の活用法を述べてきたが、これらは我が家では実現不
可能なことばかりで、夢を書いてしまったことはお詫びしな
第六章
お香の豆知識
ければならない。
⑴﹁お香の日﹂
現在は、毎日が﹁何らかの記念日﹂、あるいは﹁○○の日﹂
となっているが、実は﹁四月十八日﹂は﹁お香の日﹂なので
ある。
由来については、推古三年︵西暦五九五年︶の四月、淡路
島に一抱えもある香木が流れ着き、これを朝廷に献上したと
<
>
いう﹃日本書記﹄の記述をふまえて四月を、また、
﹁香﹂の
トイレまわりには
オルに香りを移すというのはどうであろう。
トイレで使うタ
ふせ ご
この場合、
﹁伏籠﹂
︵平安時代、宮廷女房たちが衣服に香り
字を分解して﹁一十八﹂で﹁十八﹂と読み、合わせて﹁四月
や らい
十八日﹂としたわけである。
き染めるために使った道具で、丸棒を組み合わせた矢来
の上に衣服をかける︶を用いてタオルをかけ、籠の下の香炉
を
床の間には
からゆったりと香りが漂うという演出である。
<
>
は、移り香、残り香を楽しむものであり、かすかな香りを嗅
⑵お香を くマナー
来客に備えて玄関などでお香を く場合は、お客さまがお
見えになる少し前に き終えるのがポイントである。お香と
掛け軸がかかる床の間は、どっしりとした香炉がふさわし
い場所ということで、重厚な香炉を置いてお客さまを迎えた
覚を集中させて感じとることに奥ゆかしい風情があるからで
ある。
い。また、この場合は香りを消してしまうために花は生けない。
収納物には
<
>
タンスや下駄箱に入れるものとしては、匂い袋や防虫香が
Ƚ
ȽȁIJıĹȁȽ
Ƚ
⑶匂い袋・防虫香の扱いについて
タンスに入れる場合は、通常のタンス一段の左右に一つず
つ入れると効果的である。
ただ、衣類の場合は年に二回、衣替えの時に新しいものと
取り替えることと、衣類に直接触れないようにすることが求
められる。もちろん、湿気を含んだ衣類には使ってはならない。
⑷沈香の保管について
香木としての沈香や数珠は手の脂や洗剤などがつかないよ
うに、ビニール袋に入れるか、布で包んで清浄な状態を保つ
て今日まで伝統文化という地位を保つことはできなかったと
思う。それでは、時代を溯って理由を考えてみたい。
歴史的にみても、交易を通してもたらされた﹁香木﹂の香
りを鑑賞する香道は、茶道や華道が茶を飲み花を生けるとい
う日常生活の一部を拡げて芸術化したのに対して、非日常の
要素の高いものといえる。
さらに、高価なものであったために誰もが鑑賞できたわけ
ではなく、香りに魅せられた一部の愛好家によって伝えられ
たわけである。
沈香は常温では香りを発せず︵百五十度以上の熱で樹脂の
部分が蒸発し、香りを感じるようになる︶という性質、また
味覚などに対して、嗅覚に感覚を集中する機会はあまりない。
る。現代人は、人間のもつ五感の中でよく使う視覚や聴覚、
ように心がける。
色が黒いために紫外線の影響を受けにくいという理由によっ
この、香道のもつ非日常性こそが、嗅覚を媒介として我々
の生活を切り換えるという点で、大きな意味があると思われ
て、長い年月を経ても変質せずに人を酔わせる香味を保つの
NHK趣味悠々 香りを楽しもう
日本放送出版協会
対校
平凡社
源氏物語新釈用語索引上・下
参考及び引用文献
道人口がさらに増えることを願いつつ稿を終える。
香道が癒しや趣味という枠を越えて、普遍的な文化として香
香道には、人のもつ五感のすべてを活性化させるという品
性の高さがあるはずだから。五感をバランスよく発達させる
術を求めているのかもしれない。
このため、現代人は嗅覚が最も退化しているという指摘も
ある。もしかしたら、五感の叫びとして本能的に嗅覚刺激芸
ま と め
である。
現代社会において、香道はもちろんのこと、香りの持つ意
味あいはとても大きなものと思われる。
今まで物の豊かさを追い求めた日本人が、ハーブのポプリ
や香りの入ったキャンドル、アロマテラピーなどに関心を持
ち、香りを楽しむ人が増えているのは、なぜだろうか。
香りの持つ﹁癒し﹂を望んでのことだろうか。しかし、単
に﹁癒し﹂だけであるなら、香道に限らず茶道や華道も含め
Ƚ
ȽȁIJıĺȁȽ
Ƚ
古典対照語い表
日本全史
婦人画報
一九九九年三月号
笠間索引叢刊4
講談社
︵国語科︶
婦人画報社
共済ニュース
一九九九年十一月号
読売新聞
一九八五年五月八日、六月三十日
七月七日、七月十四日
読売新聞
一九九九年二月二十二日
朝日新聞
一九八八年十二月二十五日
一九八九年六月十八日
フリー百科事典﹁ウィキペディア﹂
その他︵インターネットの記事︶
Ƚ
ȽȁIJIJıȁȽ
Ƚ
ଟ ே ⦦
り、時の流れが一瞬止まってしまったよ
あったが、父が癌で亡くなったこともあ
なっていた。暫くして、カーテンを開け
た。たった一日で私はこの部屋の住人に
傍観者でなく、明日の自分の姿を見てい
は既に穏やかな表情で静かに寝ていた。
て医師と看護士は出て行った。その患者
うな感覚に陥った。
その日以来、授業に支障のないように
予約をお願いして毎週頭の天辺から爪先
までのような精密検査が続いた。体の中 明 く る 朝、 不 思 議 に も 昨 晩 の こ と は
本人もだれも口にしない。だが、自分の
に 腫 瘍 ら し い 陰 が 見 え る と い う こ と で、
違い意外に元気な人が多い病室である
た。 た だ の 病 室 で は な か っ た。 内 科 と
まり、胸部外科の六人部屋の病室に入っ
と考えるようにした。
今から二十年前の夏、私は風邪を引い
たと思って市内の病院で診察してもらっ 私 の 検 査 は 胸 部 外 科 に 移 さ れ る こ と
に な っ た。 一 年 後 の 夏 休 み に 入 院 が 決
もいるだろうと思い、検査は生活の一部
見て、もっとつらい検査に耐えている人
ることとなった。待合室の患者達の姿を
ントゲンやCT検査のベッドに何度も寝
鳴らす姿がこの部屋ではあった。
人もいた。毎日のようにナースコールを
に入って姿を二度と見ることがなかった
元気でみんなと話していたのに突然個室
た。病室で歩いていて急に倒れたり、夜
で、二人の患者が同室で戻らぬ人となっ
に病状の情報交換が頻繁に行われた。心
いに来る家族同士では、患者本人をよそ
よく話す。病室にしては賑やかだ。見舞
趣味のこと、家族のこと、仕事のことは
にさまざまな液体を管から入れられてレ
自治医科大学病院の胸部内科で精密検査
と 思 っ た の も、 つ か の 間。 夜 中 の 二 時
痛
み
を受けることとなった。大学病院の大き
頃だったか、誰かがごそごそベッドで動
佐々木和俊
な建物を初めて目の前にして、とてつも
ぬ 妄 想 が 私 の 心 と 体 の 中 を 走 り 回 っ た。
二度と開かないのではないか。言いしれ
テン越しにじっとうかがっていた。みな
まった。同室の患者達はその様子をカー
すぐに来た。当直の医師も来て処置が始
スコール︶を鳴らしたようで、看護士が
た。やるべき検査は全て終えた。交感神
うな不安は、不思議にもほとんどなかっ
めてこの病院に検査をしに来た日のよ
存在であった。約一か月の入院生活の中
臓 疾 患 の 人 が ほ と ん ど で、 私 は 特 別 な
ない不安が私を襲った。病院が私を吸い
いているうちに、緊急のベル︵通称ナー 検査の内容がいつもと違うと思ってか
ら間もなく、手術の日程が決まった。初
全校マラソン大会では毎年生徒と走る
たところ、レントゲン写真に背骨の近く
込もうとしている。車の料金所のバーが
など、健康には少し自身があった私では
Ƚ
ȽȁIJIJIJȁȽ
Ƚ
トレッチャーが動き出してガタンと頭に
患 者 が﹁ 頑 張 っ て。
﹂ と 手 を 振 っ た。 ス
で行った。部屋を出る時、隣のベッドの
暫くして看護士さんが手術室に私を運ん
の 話 を し な が ら 手 術 前 の 私 に 処 置 を し、
手術の当日、以前健康状態を聞き取り
に来た麻酔科の先生が来て、冗談交じり
思った。私はその主治医に全てを任せた。
ることのできる人でなければならないと
かりと受け止め、その心の痛みを感じ取
者は体以上に心が弱っていることをしっ
術面での高いレベルを要求されるが、患
た。医療に携わる人は、もちろん医療技
の重みをこんなにも感じたことはなかっ
から信頼していた。人が人を信じること
ないと言われた。私は主治医の先生を心
た、 悪 性 の 可 能 性 も 完 全 に は 捨 て き れ
が壊れる可能性があると告げられた。ま
経の一部が腫瘍化して、放置すると組織
が 降 り る よ う に 目 の 前 が 真 っ 暗 に な り、
を聞いて間もなく、カメラのシャッター
ん、
︵麻酔が︶入りますよ。
﹂という言葉
うちに麻酔科の先生の﹁さあ、佐々木さ
をするだけであった。世間話をしている
素マスクを顔に掛けている私はただ返事
想以上のことが私を待っていた。既に酸
れるかは説明を受けていたが、術後に予
かった。これからどのような手術が行わ
しかし、私はそれほど寒さを感じていな
い け ど 暫 く 我 慢 し て ほ し い と 言 わ れ た。
酔科の先生と看護士さんがいて、少し寒
先生の姿はまだ手術室にはなく、あの麻
じっと見つめている気がした。主治医の
つひとつ頭脳を持っていて、私の存在を
ライトであった。たくさんのライトが一
な器具である天井に設置された手術用の
に飛び込んできたのは、手術室の象徴的
えなくなり、手術台に載せられた私の目
いが、そのような非日常性こそが、この
骨 に ワ イ ヤ ー を 付 け て 固 定 す る と い う。
の打ち合わせをしていた。折れている肋
いたが、その中で医師達が手術をする前
ドに寝かされた。カーテンは閉められて
若い男性が運ばれてきて、私の隣のベッ
二日目、私が点滴を受けながら静かに
寝ていると、交通事故で肋骨を損傷した
と致命傷になるということであった。
たが、少しずつ成長しており、破裂する
活をすることになった。悪性ではなかっ
だけとなり、術後すぐに集中治療室で生
ことになる。手術は成功し、快復を待つ
り、真夜中何度もその痛みで目を覚ます
い痛みがその日から半年も続くことにな
ための措置なのであろうが、耐えきれな
であった。仰向けに寝るのは癒着を防ぐ
中の方から切開したので傷口が痛むの
じで、痛みがだんだんと増してきた。背
に何か堅い棒切れが入っているような感
はっきりとしてくると、今度は背中の下
と い う 誰 か の 声 が し た。 次 第 に 意 識 が
あり、自分はまさにその中に生きている
集中治療室という空間と時間の日常性で
葉になっていなかった。慣れた訳ではな
その男性はうめき声を上げていたが、言
意識が無くなってしまった ・・・・・・
振動が伝わった時、この部屋に戻れるか
。
なという思いが一瞬脳裏をよぎった。テ
う っ す ら と 光 が 感 じ ら れ る 中、﹁ 佐 々
木 さ ん、 佐 々 木 さ ん、 分 か り ま す か。﹂
載せられた患者の視点で、私は病院の天
レビドラマでよく見るストレッチャーに
井を眺めていた。扉の所で家族の姿も見
Ƚ
ȽȁIJIJijȁȽ
Ƚ
久しぶりに頭の髪の毛を洗った。背中
ことを実感していた。また、水を通して
の三十センチ以上の切開の傷痕にまだ痛
た。痛みで寝られないことが多く、看護
ていたが、別の部屋に移ってしまってい
に、帰ってきましたよと言おう、と思っ
言って私を送り出してくれた隣の患者
棟に戻ることができた。
﹁頑張って。
﹂と
漸くしてチューブ以外の様々な機械の
コードが私の体から外され、元の外科病
滴の針とが私の五感を占領していた。
つながっている機械のコード、そして点
かあった。傷の痛みと、泡の音と、体に
でいくような錯覚に襲われることが何度
こえ、寝ていると真っ青な海の中に沈ん
た。まるでドラマを見ているような偶然
みは、その卒業生の言葉で薄らいでいっ
た。 手 術 の 痛 み は 消 え な い が、 心 の 痛
が、私の事を覚えていてくれて嬉しかっ
前に病気で亡くなった長浜先生であった
あ っ た。 担 任 は 私 の 同 期 で、 五 年 ほ ど
た。 何 と、 私 の 授 業 を 受 け た 卒 業 生 で
い。
﹂という看護士さんの言葉が聞こえ
院でお世話になりました。頑張って下さ
﹁ 先 生、 私 の こ と が 分 か り ま す か。 國 學
を 看 護 士 さ ん に し て も ら っ て い た と き、
ろなことを考えて一週間が経った。洗髪
るほどに洗髪が気持ちよかった。いろい
みが走っていたが、その痛みを忘れさせ
いている。
らぬままに、とにかくモーツァルトを聴
なことではあるが、その理由もよくわか
たくなった時期は今までにない。不思議
のである。こんなにモーツァルトが聴き
かくモーツァルトが無性に聴きたくなる
作曲したが、どんなものでもいい、とに
ツァルトはいろいろなジャンルの音楽を
重奏曲・ヴァイオリン協奏曲など、モー
最近、モーツァルトの音楽から離れら
れないでいる。交響曲・オペラ・弦楽四
モーツァルト偏愛
士さんに頼んで、ベッドの足側の手摺り
であった。
酸素を供給する機械の音が二十四時間聞
に紐を結びつけ引っ張って起き上がるこ
中島
亨
と が で き る よ う に し て も ら っ た。 ま だ、
自 力 で は 普 通 に 起 き 上 が る こ と が で き 二学期になる前に、私は病院を出ること
クラシック音楽を聴きはじめたのは小
ができた。病院の玄関を出ると日差しがま
学生の頃からである。いわゆる洋楽や日
ようにした。退院してからの生活を考え
うにしたかったので、極力薬は使わない
もらうと楽になったが、痛みに慣れるよ
︵国語科︶
見えた病院に、私は心の中で頭を下げた。
に外の世界に車は走り出した。車の窓から
のバーがすっと開いて、押し出されるよう
ぶしくてしかたなかった。駐車場の料金所
の時音楽の授業で聴いたビゼーの﹁カル
いる。最初のきっかけは、小学校五年生
に至るまで途絶えることなく聴き続けて
いしながらも、クラシック音楽だけは今
本のポップスなどちょこちょこつまみ食
ないのだ。痛み止めの薬を注射で打って
たからである。抜糸を終え、点滴の量も
減って快復が目に見えてきた。
Ƚ
ȽȁIJIJĴȁȽ
Ƚ
ま た、 と て も 力 の あ る 先 生 で、 一 流 の
の頃教えて下さっていた音楽の先生が
ものに傾倒するようになっていった。そ
了された。以来、クラシック音楽という
しい音楽が世の中にあるのだと思い、魅
メン組曲﹂であった。こんなに美しく楽
である。
心の中へ⋮⋮。そんな感じがしていたの
レートに耳から入り、頭をひと回りして
たのである。ごく当たり前の音楽がスト
引っかかりもないように聞こえてきてい
何か物足りない感じすらしていた。何の
の で あ っ た。 あ ま り に も 心 地 よ す ぎ て、
思うのである。
るからなのかもしれない。そんなふうに
と頷いてくれているような感じがしてい
私の心のどこかの部分に、﹁うん、うん﹂
な い で い る の は、 聴 く 度 に こ の 音 楽 が、
︵国語科︶
作曲家の音楽を、毎時間のように一流の
演奏家によるレコードで聴かせてくれて
私の二つの同窓会
ツァルトの音楽である。もちろん聴く価
はなかった。夭折の天才といわれるモー
ツァルトだけはさほど好んで聴くこと
びちょび聴いてきた。なのになぜかモー
ベ ン は よ く 聴 い た し、 ハ イ ド ン も ち ょ
ンサートにも出かけていった。ベートー
四 十 に 近 い 今 に い た る ま で、 そ れ な
りにいろいろな作曲家の音楽を聴き、コ
み込んだ上の、やわらかくも力強い﹁共
なものだろうと思う。喜びも悲しみも呑
すれば﹁他者への共感﹂とでもいうよう
確実にあるもの、それは私なりの表現を
も観念もない。しかし、彼の音楽の中に
楽には感傷はもちろん、大仰さも奇抜さ
楽はたくさんあるが、モーツァルトの音
いだろうか。感傷を誘う音楽、大仰な音
になっているのかもしれない。
ことが教師をやっていく上での一つの糧
子に嬉しく思ったものである。こうした
え子たちの近況を聞いて頑張っている様
え方をしていたのかと懐かしんだり、教
活のことを語り合い、あの頃はそんな教
同窓会と言えば、時折教え子たちから
招かれ、ホームルームや授業など学校生
青木
一男
値は大いにあるのだが、私は聴かないで
がモーツァルトの音楽だという気がす
た時のものであった。また、それぞれの
はなく、どちらも自分自身が学生であっ
きた。大作曲家であるが故に、私のよう
な凡人には理解できず、取り付きにくい
私がモーツァルトの音楽から離れられ
るのである。
感﹂というものを持つ希有な音楽。それ
ところで、今年は二つの同窓会に出席
した。それも自分が担任としてのもので
の偉大さ、とでもいうようなものではな
多くの人がモーツァルトに惹かれる
理由、それは恐らく、何の引っかかりも
4
感じさせずに自然に体の中に入ってき
4
いた。大人のちゃんとした音楽をたくさ
4
ん聴かせてもらって、私はますますクラ
4
ながら、実はいつまでも響き続ける音楽
4
シック音楽に魅せられていった。
4
音楽でだったのだろうか。否、むしろ反
対である。聴いていてとても心地いいも
Ƚ
ȽȁIJIJĵȁȽ
Ƚ
4
先生は共にお元気で、先生を招いて会は
き合ってくれたのである。私たちの新聞
番まとまりがあり印象深かったという
先 生 の お 言 葉 に よ れ ば、 こ の 年 代 の
メンバーはそれぞれ個性的であるが、一
て活動していたように思う。
は日本一のものというような自負を持っ
分たちも学生の手による英字新聞として
となどを楽しく語り合った。
こ と で あ る。 そ の 後 は 英 語 が か な り 出
は、留学生たちの間でも評判がよく、自
まず一つ目は、大学時代の英字新聞部
のものであった。これは顧問の先生を囲
行われたのである。
む会として行われ、ちょうど私が一年生
来る後輩はたくさん入部してきたが、昔 そのような話をしているうちに時間は
瞬く間に過ぎていった。会は東京の新宿
風のバンカラな雰囲気はなくなっていっ
の時の四年生から一年生が集まった。こ
の中には昨年、本校の﹁教養講座﹂で講
となった節目として行われたものであっ
で行われ、私は次の日出勤であったため
けられた。例えば、さっきまで日本とア
た。本当にこのクラスはよくいたずらを
た と、 や や 寂 し そ う に お っ し ゃ っ て い
メ リ カ の 関 係 に つ い て と 思 っ て い た ら、
して多くの先生を困らせ、私が代表して
演 し て く れ た 国 際 交 流 基 金 の 小 川 氏 や、
く、卒業以来二十数年ぶりに会う先輩も
いつの間にかアイドルグループの引退の
謝りに行ったこともあった。しかし、一
に最終電車に間に合うよう途中退席せざ
いたが、予想に反してほとんど姿・形は
話になったりする。何より印象的だった
人ひとりとのつながりが強く、授業を抜
るを得なかったが、聞くところによると
変わらず、すぐに見分けがついた。その
の は、 長 野 県 の 野 尻 湖 で 行 わ れ る 五 日
け出したり、学校に来ない生徒を数名で
た。確かに夕方部室にいれば、先輩たち
ようなことも手伝ってか、二十数年会っ
間の合宿。そこで先輩たちは、私たち後
探しに出掛けたり、毎朝迎えに行ったり
に飲みに連れ出され、世界の情勢から書
ていなくてもタイムスリップしたかのよ
輩にタイプライターの打ち方から、記事
したこともあった。また、何か競技大会
いる佐久間氏も含まれている。集まった
うに過去にさかのぼり、昔の思い出がす
の書き方まで厳しく指導してくれ、そう
があったりすると誰からともなく練習し
﹁出張講義﹂で講師として来てもらって
ぐに蘇った。これが同窓会の不思議なと
して初めて何とか皆一人前になっていっ
ようという声が上がる。ある時は近くの
深夜まで宴は続いたという。
ころであるとつくづく感じる。最初はや
た。また、普段でも新聞の発行に当たっ
田んぼでソフトボールを泥だらけになっ
物・映画はもちろんのこと、漫画や芸能
や言葉使いも丁寧であり、堅い感じで近
て原稿も駄目出しを何回もして、私たち
人々の職業はやはり新聞社や出版社、そ
況を語り合っていたが、時間が経つにつ
の原稿が良いものになるまで徹底的に付
してテレビ局といったマスコミ関係が多
れて徐々に昔の感覚が戻り、新聞作りで
もう一つの秋に行われた同窓会は中学
界のことまで幅広い領域で議論をふっか
時代のもので、私たちが誕生して半世紀
苦労したことや皆で馬鹿なことをやったこ
Ƚ
ȽȁIJIJĶȁȽ
Ƚ
て練習していた記憶がある。
た。その会の時も宴に最後まで付き合っ
てくださったらしい。
そ の 絆 は 今 で も 強 く、 実 際 に 地 元 に
ま た、 中 学 時 代 の 先 生 は ま さ に 熱 血
残っている人間は少ないのであるが、連
漢。生徒が悪いことをするとゲンコツを
いた皆も同じであったと思う。今は町の
教育委員会で社会教育に携わり、ゲート
ボールの会の会長で様々な全国の大会に
出掛けて行き、栃木の名を広く知らしめ
たいとおっしゃっていた。
お人柄によるところが大きい。偶然にも
それぞれ本当に仲間に恵まれたので
あるが、絆が強かったのもやはり先生の
らっている友人がいる。
年に二回、正月とお盆にお邪魔させても
として、朝の練習にグラウンドへ、放課
トを作成、それが終わると野球部の監督
科の教師として小テストや授業用プリン
熱血そのもので、朝一番に出勤し、社会
人気を博していたのである。仕事ぶりも
で、特にやんちゃな生徒たちから絶大な
ンコツ。こうした竹を割ったような性格
め、悪いことはああだこうだ言わず、ゲ
な る の で あ っ た。 良 い こ と は 心 か ら 誉
喰らって生徒は心から﹁すいません﹂と
ためにもこれからの生き方がとても大事
のような生き方を見せられるのか。その
に会った時に、何を語れるか、そしてど
た。もし私が八十歳を迎えられ、教え子
んな人生の生き方をあらためて教えられ
常に熱い思いを持って挑戦し続ける、そ
てしまったような気がする。何かに対し
た が、 反 っ て 圧 倒 さ れ、 元 気 づ け ら れ
らが元気づけるつもりで催した会であっ
若造であることを思い知らされた。こち
のの、この先生方から比べればまだまだ
喰らわせるのであるが、不思議とそれが
絡を取り合って年に数回はクラスのメン
両方の先生が傘寿を迎えられたのである
後も自らバットを握ってノック、問題を
になってくる。また、気を引き締め直し
バーで集まって食事会を開いたり、誘い
が、本当にお二人とも今でもお元気でい
起こした生徒がいれば責任者として夜遅
て、 一 日 ま た 一 日 と 日 々 を 重 ね て い き
一種の儀式のようになっていて、それを 自 分 も い い 年 に な り、 何 か 世 の 中 や
人生が分かったような気がしてはいたも
らしたことが、この会を開いて一番嬉し
くに家庭訪問と、本当にお忙しい毎日で
たいと思う。
ら気に掛け、何かあったら相談に乗って
る。学生時代、私たち一人ひとりを心か
て行った者たちに激励の言葉を送ってい
通信﹂に新聞部の歴史を連載し、巣立っ
いことであった。大学の先生は今も﹁
あった。
︵外国語科︶
くださり、私も就職の心配をしてもらっ
なかったのには驚いた。それはその場に
された姿が、三十五年前と少しも変わら
そ の 先 生 が 同 窓 会 の 時、 背 筋 を す っ
たことがあった。さらに商学部の教授で
と 伸 ば し、 大 き く 張 り の あ る 声 で 挨 拶
い ら し た が、 文 学 や 映 画 そ し て お 酒 を
こよなく愛し、飲んで天下国家を論じる
姿は大学生の私たちにとって憧れであっ
Ƚ
ȽȁIJIJķȁȽ
Ƚ
合ってゴルフに行ったりしている。私も
OB
今年もデパートでランドセルが並ぶの
を見た。最近のランドセルは赤や黒など
るか、もはや本人が帰りのホームルーム
してさえいた。鞄の中からなにが出てく
鞄に品物を入れられたりと罪の温床と化
でなく、おやつを隠し持ってきた男子に
公式認定された。はやし立てられるだけ
の隠し場所になり、集団登校では目印と
けられた。宝探しになれば私の鞄は格好
な目が生徒だけでなく先生がたからも向
ことの厳しさを味わうこととなる。好奇
る事も寧ろ面白いと感じるようになった。
セル同盟と言われて三人で何かさせられ
その頃からだろうか。先生から、ランド
ね、それ﹂と言われるようになったのも
といわれた日々から﹁なんかカッコいい
れていった気がする。
﹁変なランドセル﹂
の中からいじけていた心が少しだけほぐ
えた。お互いに助け合っていく中で、私
びとやろうとする友達に尊敬の念すら覚
ランドセル同盟
の他に青やピンク、黄色などの色とりど
買ったのだろうか。背負う孫の心情まで
かくいう私のランドセルは桃色であっ
た。赤にごく近い、いわゆるロゼとでも
被せタイプの縦型や横型のものがある。
﹁学習院タイプ﹂の形のほかに、上蓋の半
色のランドセルを持った女の子が転校し
祖母は最近はいろいろな色を背負われま 五年生になったある日、一学年上に橙
色のランドセルの女の子、一学年下に水
い う の だ ろ う か、 濃 い 桃 色 を し て い た。
て来た。私たち三人はすぐに仲良くなっ
になる。
ら目立たないことを生活信条とするよう
セルにあり、とすら考えていた。ひたす
動も学校生活も今ひとつの原因はランド
けるという状態にさえなった。勉強も運
下ろせていないのだと、感じた。
たのだった。まだ、桃色のランドセルは
ような果たし状のようなものが入ってい
が生意気だから制裁をくわえる﹂という
だ が そ れ 以 外 の 言 葉 が 当 て は ま ら な い。
頃、決闘を申し込まれた。古風な言い方
しくなっていった。そんな中学二年生の
お互いに昔のように遊ぶことも気恥ずか
菅
麻衣子
りの物が揃えられている。形もいわゆる
中学に入ってランドセルを背負うこと
で見当がつかずひやひやしながら鞄を開
もなくなった。学年が違うこともあって
考えずに購入してしまい、私も心細さか
た。橙色は成績がよかった。水色は体も
さがあった。好奇の視線に負けず、自分
大会に出場していた。彼女たちに助けて
と生徒会長を、水色は剣道をして、全国
とにかく鞄のなかにいつの間にか﹁お前
ら大泣きをして対抗したのだが、誰も家
すから、という鞄屋の口車に乗せられて
刀自たる祖母に逆らえずその呪わしき鞄
のやりたいこと、やるべきことをのびの
違って違う色のランドセルに負けない強
困ってしまって、昼休みに水色と橙色
大きく運動ができた。みそっかすの私と
に相談に行った。橙色は吹奏楽部の部長
で登校することになった。
案の定、田舎の小学校で、規格外の鞄
を持つこと、つまり過剰な﹁個﹂を担う
Ƚ
ȽȁIJIJĸȁȽ
Ƚ
もらえないか、ついていってもらえない
のない日は仕事のある母に代わって付き
もすっかり弱ってしまった祖母を見るの
添っていたのだが、肉体的にも精神的に
祖母の味
は本当につらかった。ある時病室に入っ
て 行 く と、 看 護 師 の 方 が﹁ あ の ⋮ こ れ、
今 日 汚 し て し ま っ て ⋮。
﹂と丸めた祖母
のパジャマを差し出してくれた。祖母は
﹁お漏らししちゃって⋮孫にこんなもの
田原
千晶
かと考えていた。二人はじっと私の顔を
見 た。﹁ 逃 げ ち ゃ だ め。 も う 二 度 と 桃 色
のランドセルで泣いていた頃に戻っちゃ
だ め。﹂ そ し て 水 色 は 言 っ た﹁ 普 通、 一
番怖い相手は冷静で理性的な相手。どん
私は﹁おふくろの味﹂を知らない。母
はずっと仕事を持っており、私と二つ上
な人間でも一対一になって理性的に立ち
向 か え ば 勝 て る。
﹂ と。 私 は そ の 日、 一
が あ た る も の。﹂ と 祖 母 に は 笑 顔 を 見 せ
を洗濯させるなんて自分でも情けなくっ
たものの、涙をこらえきれなくなり、非
てしかたがない。﹂と涙を流した。
﹁私が
その祖母が九月に癌で亡くなった。癌
常階段に出てこっそり泣いた。私にとっ
の姉の面倒はすべて一緒に住んでいた母
だと判ったのはだいぶ前であった。また
て 祖 母 は﹁ 頼 る べ き 存 在 ﹂ で あ っ た の
方の祖母が見ていてくれた。だから私に
一昨年からはずっと入院していて、ある
に、すっかり立場が逆転してしまったこ
人 で 呼 び 出 し の 相 手 に 向 か っ て い っ た。
話し合うつもりだ、と述べた。しばらく
程度覚悟ができていたため、知らせを受
とがせつなくてしかたなかった。今考え
相手は数人いたが一対一での面談を求
相手はこちらをみていたが黙って去って
けた時も案外悲しまなかった。通夜に向
てみると、祖母が亡くなるよりもずっと
赤ん坊の時はおばあちゃんがおむつを替
いった。後ろを振り向くと、橙色がユー
か っ た 時 に、
﹁家に行く前におばあちゃ
前のこの時に、私は祖母を失ってしまっ
えてくれたんだから、恩返ししないと罰
フォニュームを、水色は竹刀をもって隠
ん の 病 室 に 寄 っ て 行 こ う か な。﹂ な ど と
ていたのだと思う。
とって懐かしむべきものは﹁おばあちゃ
れていた。
考えてしまうほど、実感がなかったせい
んの味﹂だ。
以 来、 私 は 全 て の 困 難 に 立 ち 向 か う
ことを覚えた。二人とは今でも交流があ
もあるかもしれない。
め、今回の事態がどのようにして発生し
る。あの時の事を話しても全く覚えてい
たのか、いかなる結論を求めているのか
ないと笑う。だが桃色のランドセルはわ
入院した時であった。夏休み、課外など
書くと、さも孝行な孫に思われるかもし
それから二年間、自分としてはできる
が人生での途方もない友情の証なのだ。
私 に と っ て 最 も つ ら か っ た の は、 亡 限りのことを祖母にはしたと思う。こう
くなった知らせを聞いた時よりもむしろ
︵国語科︶
Ƚ
ȽȁIJIJĹȁȽ
Ƚ
だから祖母から感謝の言葉をかけられ
れないが、実はそうではないことを自分
るたびに、喜びを感じつつもその一方で
が 一 番 よ く 知 っ て い る。
﹁自分のために
した﹂ということを、私ははっきり自覚
罪悪感を感じるようになるかもしれない
と思ったからだ。
ただ、その時から少し楽になった。案
罪悪感を覚えてもいた。利己的な動機で
外 世 の 中 の 人 も、 そ う い う 気 持 ち で 家
おじいちゃんに優しくしてあげなかった
は 激 し い 後 悔 だ っ た。﹁ ど う し て も っ と
た時、私の心の中に一番に湧いてきたの
祖父が他界した。祖父の臨終に立ち会っ
する二十年前、私が小学校六年生の時に
それは﹁後悔したくない﹂という気持
ちからの行動であったのだ。祖母が入院
気持ちが信用できないところもあった。
とがあるのではないかと、自分で自分の
の根底にも﹁後悔したくない﹂というこ
かったわけではないが、結局その気持ち
かに祖母を喜ばせたいという気持ちがな
答えている自分がいやらしく思えた。確
だ か ら 当 た り 前 だ よ。
﹂などと偉そうに
う顔をし、感謝の言葉に対して﹁孫なん
を考えて行動できる人間は、そうはいな
はないではないか。純粋に人のことだけ
んでもらえ、自分も後悔することなく終
よかったのだと思っている。祖母には喜
母が亡くなった今、やはりそれはそれで
孝行しているのかもしれない。そして祖
から、おそらくみんな後悔しないために
に親はなし﹂という言葉があるくらいだ
い、 と 思 い 始 め た の だ。﹁ 孝 行 し た い 時
族の介護に当たっているのかもしれな
あったくせに、さも﹁祖母のため﹂とい
んが楽しく過ごせるように、もっといろ しかしある時、母を車に乗せて祖母の
病院へ向かう途中、母がこんなことを口
のか。﹂﹁半分寝たきりだったおじいちゃ
に し た の だ。﹁ お 母 さ ん ね、 お じ い ち ゃ
いだろう。
している。
い う 思 い が、 医 師 の 臨 終 を 告 げ る 声 を
んには何もしてあげられなくて後悔し
あんな思いはしたくない。祖母にはでき
た。 だ か ら 祖 母 が 入 院 し た と き、
﹁もう
の後悔は私の中から消えることがなかっ
あった。そしてその時から二十年間、そ
ともできない後悔に身悶えせんばかりで
罪悪感のことを話すと、母も同じように
ら な い が 涙 が 出 て し ま い そ う だ っ た し、
うかと思ったが、やめた。なぜだか分か
に尽くしているのだ、ということを話そ
の。
﹂自分も祖父に対する後悔から祖母
を辞めてずっと付き添うことも考えてる
あげようと思って。場合によっては仕事
し て お け ば よ か っ た か な。﹂ と、 や は り
ら な い の だ。﹁ も う 少 し 祖 母 の 手 伝 い を
り方をしていたのか、詳しいことが分か
も成功したことはない。祖母がどんなや
うと試みることもある。しかしまだ一度
分に気づく。あるいは意識的に再現しよ
わったのだ。それならばなにも悩む必要
聞いた瞬間からわーっと湧き起こって頭
る 限 り の こ と を し よ う。
﹂と決心したの
い ろ し て あ げ ら れ た の で は な い か。﹂ と
の中を駆け廻り、しかしもうどうするこ
料理をしている時、祖母の味を思い出
たから、おばあちゃんにはいろいろして
しながらそれに近づけようとしている自
だ。
Ƚ
ȽȁIJIJĺȁȽ
Ƚ
小さな後悔が残るのである。
︵国語科︶
親友から教わったこと
島田
秋
先 日、 高 校 時 代 の 友 人 か ら 同 窓 会
開 催 の メ ー ル が 届 い た。 高 校 の 同 窓 会
な話をしながら、私は高校時代の自分達
勉強からは解放されるかもしれないけ
意 外 な 言 葉 が 返 っ て き た。﹁ 確 か に 受 験
の英語でM君に勝ったことは結局一度も
い、英語の勉強を頑張ったが、模擬試験
であった。私は﹁M君に勝ちたい﹂と思
あった。ただし、英語はM君の方が得意
系の同じクラスで、成績も同じくらいで
私 とM 君 は、 親 友 と い う だ け で な く、
良 き ラ イ バ ル で も あ っ た。 二 人 と も 理
を﹁ 大 学 受 験 の た め ﹂ と 考 え て お ら ず、
うのが普通である。しかし、M君は勉強
た鳥のように、勉強をやめて遊んでしま
が決まってしまえば鳥カゴから逃げ出し
いでしょ?﹂私は衝撃を受けた。合格校
チューも俺と争っていた方が勉強しやす
に 負 け た く な い か ら ね。 そ れ に、 シ マ
ど、俺は勉強をやめないよ。シマチュー
のことを思い出していた。
なかった。
どうかが気になり、数名の友人に電話を
このような解答になるのかを三人で議論
合っていた。難しい問題があると、なぜ
は、二十歳の春以来なので三年半ぶりで 放 課 後 に な る と、 よ く 私 と M 君 と 別
の友人の三人で数学や物理の問題を解き
言えなかっただろう。
し、私が逆の立場だったら、こんな事は
私の事も考えていてくれたのである。も
る。しかも、大学受験が終わっていない
将来のために勉強を続けるというのであ
かけた。その中の一人にM君がいた。M
した。今考えると、この﹁議論﹂があっ
ある。私は、他の同級生が参加するのか
君 は、 高 校 時 代 の 一 番 の 親 友 で、 今 は
たからこそ、数学や物理の力がついたの 十 二 月 に 実 施 さ れ た、 代 ゼ ミ の セ ン
タープレテストも一緒に足利工業大学で
かを考えることの方が大切である。
法を覚えることよりも、なぜそうなるの
勉強をした。M君は英語の苦手な私に文
受け、年が替わってからも一緒に学校で
かもしれない。特に数学では、解答の方
栃木県内のOA機器メーカーでSE︵シ
ステムエンジニア ――
企業の業務のコン
ピュータ化にあたって、システムの設計
法の覚え方や長文読解のコツなどを教え
てくれた。そのお陰もあり、私も志望校
に合格することができた。
おめでとう! これでやっと受験勉強か 皆さんも毎日勉学に励んでいると思う
が、良きライバルとなる友人をつくって
ら 解 放 さ れ る ね。﹂ と 言 う と、M 君 か ら
私がM君に、
﹁モリタク︵M君のあだ名︶
そんな中M君は、十一月の推薦入試で
早 々 と 某 国 立 大 学 の 工 学 部 に 合 格 し た。
と運用を行う技術者︶として働いてい
る。
久しぶりにM君に電話をかけると、高
校時代と変わらない﹁シマチュー︵私の
高校時代のあだ名︶
、 久 し ぶ り ぃ!﹂ と
いう声が返ってきた。そんなM君と色々
Ƚ
ȽȁIJijıȁȽ
Ƚ
ほしい。特に、受験勉強は辛く苦しいも
治家・田中角栄の通称﹁目白御殿﹂の設
タリウム美術館は、ちょうど國學院高校
ニチュアだった。機能美の追求に代表さ
の裏手に位置している。会場は結構にぎ
り、不眠不休で三日間は出てこなかった
れる、﹁近代人のライフスタイルにかなっ
わっていた。
という。アタマの中ですべてのイメージ
た 住 み や す い 家 屋 ﹂ を 提 案 し た も の だ。
計 を し た と 聞 い て い る。 祖 母 に よ る と、
が出来上がったら、ノソノソと地下室か
シンプルでいて細部や色遣いに工夫を凝
祖父はひとたび﹁仕事モード﹂に入った
う。私も、友人に何度も助けられた。
ら出てきて図面を引き始めたらしい。今
らした作品群だ。
のだ。苦しいときに相談に乗ってくれる
そ し て、 何 の た め に 今 勉 強 を し て い
るのかをじっくり考えてみてほしい。こ
年は祖父が私淑したというタウトとコル
友人や、互いに触発し合える友人が居る
れは人から教わるのではなく、一人一人
ビジェの回顧展が東京で開かれたので出
ら、やおら毛布をかぶって地下室にこも まず目に止まったのは、タウトが生涯
に渡って追求した﹁モダン建築﹂群のミ
が自分で答えを出すものだと思う。なの
のと居ないのでは、雲泥の差があると思
で、答えは一つではなく、一人一人違っ
かけてみたが、本稿ではタウト展の印象 次 に 目 を 引 い た の が﹁ ア ル プ ス 建 築 ﹂
と名付けられた一連のスケッチ群であ
新の西欧建築を日本に伝える一方、日本
旅の途中に来日、三年間の滞在の間、最
ウトは昭和八年にナチス政権から逃れる
を見る。ドイツ人建築家・ブルーノ・タ
五月の連休に、東京・青山にあるワタ
リ ウ ム 美 術 館 で﹃ ブ ル ー ノ・ タ ウ ト 展 ﹄
したのか。
なぜそんな無邪気で途方もない習作を残
難 の 声 が あ が る だ ろ う。 で は タ ウ ト は、
建築なんて、環境破壊じゃないか﹂と非
メージ画だ。今ならば﹁アルプスに巨大
なガラスのモニュメントが施されたイ
を書こうと思う。
の伊勢神宮・桂離宮の構成美、空間感覚
る。雄大なアルプス山脈の頂上に、巨大
ていいと思う。ただ、共通して言えるこ
︵数学科︶
とは、それが﹁大学に合格するため﹂だ
けではないということだ。
﹁ブルーノ・タウト展﹂の
印象
しいマテリアル︵素材︶が豊富に生み出
を 高 く 評 価 し、 著 書﹃ 日 本 美 の 再 発 見 ﹄ 工業化が進む当時のヨーロッパでは新
によって西欧に日本の建築文化を紹介し
大月
一男
登場は、建造物の可能性を飛躍的に拡大
をかき立てていた。特に、強化ガラスの
され、西欧の若き建築家たちの創作意欲
た功労者である。
私の祖父は建築家で、物心ついた時に
は既に引退していたが、若い頃はパリ万 新 緑 の 神 宮 外 苑 を 歩 い て 行 く と、 静
かな佇まいのオフィスビルが見える。ワ
国博の建築コンペで一等をとったり、政
Ƚ
ȽȁIJijIJȁȽ
Ƚ
夢 中 に な っ て 取 り 組 ん だ。 そ の 結 実 が、
内 空 間 と の 調 和 と い う テ ー マ を 見 出 し、
に、さらに一歩前進して外界の自然と室
いう新しい空間感覚を追求していくうち
ドア、天井から大量の光が室内に入ると
させるものだった。若きタウトは、窓や
伝わってくるようだった。
宮と初めて出会った時の、驚きと興奮が
この画を見ると、来日したタウトが桂離
う と す る タ ウ ト の 鋭 い 目 が 感 じ ら れ る。
意匠の細部に着目し、その意図をさぐろ
しりとメモが書き込まれていて、建物の
が あ っ た こ と に、 タ ウ ト は 興 味 を 覚 え、
に よ っ て プ ラ イ バ シ ー が 守 ら れ て い る。
諾を得ないと開かれない日本のしきたり
屋へ行く者が声をかけ、それに対する承
屋と部屋との仕切りも、襖をあけ隣の部
シーがないかのように映る襖による部
だ す。 外 国 人 の 眼 に は 一 見、 プ ラ イ バ
出した。おそらくタウトは若き日に果た
わり、人工と自然が調和する空間を創り
の生駒山山頂に遊園地を建てる計画に携
たのである。
﹁アルプス建築﹂は実際に建造される
ことはなかったが、後年、タウトは関西
を見せ﹂
、 そ の 上 に﹁ 自 然 と 建 物 と の 調
だ か ら、 桂 離 宮 が﹁ シ ン プ ル な 佇 ま い
マ テ リ ア ル と の 調 和 を 模 索 し て も い た。
タウトは﹁アルプス建築﹂で自然と人工
ン プ ル な 機 能 美 を 目 指 し て い た。 ま た、
で貴族的な建築の伝統を脱ぎ捨てて、シ
くに至ったのである。
滞在を引き延ばし、ついには研究書を書
二六〇年も前の日本に、このような文化
タウトらが推進していたヨーロッパの
奇想とも言える﹁アルプス建築﹂になっ
モダン建築運動は、それまでの絢爛豪華
せなかった夢を実現させた気持ちを持っ
和が高い次元で表現されている﹂のを見
際に描いた二四枚の彩色スケッチ画であ
回顧展の目玉として注目された展示
は、 タ ウ ト が 京 都・ 桂 離 宮 を 見 学 し た
奇な骨董品だ﹂と評したのは、当時タウ
れ、その﹁貴族的な豪華さ﹂を見て﹁珍
る。
︵同時期にタウトが日光東照宮を訪
︵国語科︶
たことだろう。
る。そこのフロアでは、大勢の人が集ま
トの思想的な傾向がそう言わしめたのだ
て、特別強い関心を持ったものと思われ
り、一枚一枚を熱心に見入っていた。
み、床の間の一輪挿しが季節感をかもし
と理解できる。
︶
二四枚のスケッチ画には、門を入った
桂離宮では、強化ガラスの窓は無くと
ときの景観、庭をめぐるにつれて万華鏡
も、白い障子紙が外の光を室内に採りこ
のように変化する印象などが、場面ごと
に描き込まれていた。画の周囲にはびっ
Ƚ
ȽȁIJijijȁȽ
Ƚ
デンマーク往復書簡
瀬
賀
正
博
があってのデンマーク行きなのだろう。私にも責任の一端が
の手紙を読み進めていけば明らかになるが、さまざまな思い
の彼女が、この時期になぜデンマークか、一応の理由は以下
一昨年︵二〇〇六︶の夏、私が中学校教員だった時に二年
間担任した女子生徒が、デンマークに留学した。高校一年生
は、本人の承諾を得た上、その校閲を経ている。
基 本 的 に も と の 文 書 の ま ま で あ る。 な お、 起 稿 に あ た っ て
ん本人同士は分かっている︶、多少の表現を変更した以外は、
るから、話の通じないところがあるかも知れないが︵もちろ
から、ここにあえて紹介することにした。あくまで私信であ
が感じ、考えた異文化理解について示唆に富む内容でもある
ありそうなのであるが、それにしてもあまり一般的な留学先
ではない。
本が出版された。著者が高校二年生の時に一年間のデンマー
ちなみに、最近、笠間幸恵﹃ユッケ 一七歳のデンマーク﹄
︵サンパティック・カフェ、二〇〇七年八月︶という小さな
ク留学を体験した、その記録であるが、奇しくも同世代の青
という小さ
彼女が一年間を過ごしたのはトレーゼ Tølløse
な 田 舎 町 。 デ ン マ ー ク DANMARK
の首都コペンハーゲン
か ら 西 へ お よ そ 五 〇 キ ロ メ ー ト ル の、 田 園 地 帯
København
の 海 原 に ポ ツ ン と 浮 か ぶ 小 島 の よ う な 町 だ。 こ の 町︵ デ ン
のもよいかも知れない。
[略号]女子生徒ヒロ︵仮名︶=H
瀬賀=S
年が同じ国で感じ、考えたことである。あわせて一読される
マークでは自治体のことをコムーン/コムーネ kommune
と
いう︶にある学校が、彼女の留学生活の主な舞台となる。
彼 女 は 折 に 触 れ て 自 分 の 概 況 報 告 を し て く れ た。 そ の 内
容 は、 苦 労 や 困 難 よ り も む し ろ 楽 し さ や 嬉 し さ に 満 ち て い
て、読後に爽快感すら感じさせるものだった。一六歳の青年
Ƚ
ȽȁIJijĴȁȽ
Ƚ
︻デンマーク発︼
2006.10.12
H↓S
デンマーク人は北欧一陽気な人々といわれる。ど
んな人にも気軽に声をかけてくる、気さくな人が多
2006.8.3
H↓S
いと言う。国民のほぼ全員が﹁自分の国に満足して
Hej ! Hvordan går det? Jet har det godt!
てくれるのだろう。
でもらいたくて、これでもかというくらいに歓迎し
いる﹂と答える国だ。自慢の国を外国人にも楽しん
デンマークの学校年度は九月始まりが一般的。夏
から一年が始まるという感覚だ。デンマーク語は文
法が英語に極めて似ており、語彙も少ないので、学
︻日本発︼
びやすい言語とされているが、日本人にとっては発
音するのが至難の業だ。
瀬賀先生へ
こんにちは。お元気ですか。私は元気です。それから少し
おそくなってしまいましたが
Ƚ
ȽȁIJijĵȁȽ
Ƚ
こんにちは。お元気ですか。私はいよいよ明日の朝、出発
です。すごくドキドキしてます⋮⋮。自己紹介とあいさつく
らいしかデンマーク語話せませんが、これから一年でベラベ
Tillyke med fødselsdogen!!
お誕生日おめでとうございま
しい気持ちになることはあり
を伝えるのは難しく、もどか
も、やっぱり思っていること
と な く 分 か っ て き ま し た。 で
相手の言っていることはなん
す。 こ と ば も だ い ぶ 上 達 し、
タ ー、 コ ー ト を 着 て の 生 活 で
こっちに来て二か月がた
ち、デンマークではもうセー
す!
ラになって帰ってきたいですね!
言葉だけじゃなくて、デ
ンマークの町︵いなかだけど⋮⋮︶でデンマークの人と生活
して、デンマーク人になって帰ってきます。なんか、夢みた
いです。大変なこともたくさんあるかも知れませんが、負け
ずに、自分の決めたことだから最後までやるつもりです。
それでは、先生もお元気で 行ってきます。
!!
ですが、ホストファミリーも学校のみんなも、私にそこまで
倍 も エ ネ ル ギ ー を 使 わ な い と で き な か っ た り、 大 変 な 毎 日
ますが、いかがですか。
ではなく、霧に包まれるようなシットリとした寒さだと思い
ぶんと寒いのでしょうね。もっともカチンとした堅い冷たさ
Hej ! Hvordan har du det
?こちらは元気ですよ。日本
もそろそろ栗ご飯の季節になってきましたが、そちらはずい
ま す ⋮⋮。 日 本 で は 当 た り 前 に で き た こ と が こ っ ち で は 何
優しくできるのかってくらい優しい人々なので、助けてもら
さ て、 そ ち ら は 順 調 の よ う で 何 よ り で す。 元 気 で い れ ば
何でもできます。いろいろなことを考えて、体験してきてく
からそちらの天候も何となくわかります。 Tølløse
コムーネ
︵だと思う︶やあなたの学校のホームページも見ました。
見られるのです。ライブカメラですよ、リアルタイムで。だ
ン空港︶や Københavns Rådhus
︵コペンハーゲン市庁舎︶広
場やデンマーク全土の主要道路の様子がインターネットで
そちらの天気を毎日確認していますよ。世の中便利になっ
た も の で、 た と え ば Københavns Lufthavne
︵コペンハーゲ
いながら充実した日々を送っています。感謝しないとダメで
すね。ほんとにこの二か月間で、ここに書ききれないほどの
体験をし、今まで感じたことのなかった気持ちにもなりまし
た。まだまだまだまだ書き足りないですが、今回はこの辺で
⋮⋮。
PS.このハガキの写真は私が通ってる学校です。すてき
な学校です。
2006.11.3
S↓H
ださい。ま、とりあえず北欧の冬の過ごし方をしっかりとレ
ターネットでわかるのだ。こんな時代になったにも
ですが、機会があればそれを見たいと思っています。見まし
のモニュメント︵ブロンズだと思いますが︶があるはずなの
︵オーデンセ︶には行きまし
話 は 変 わ り ま す が、 Odense
たか。アンデルセンの故郷ですね。町の一角に﹁裸の王様﹂
ポートしてください。クリスマスは一大イベントですから。
かかわらず﹁手紙﹂とは、いかにも古風で手数のか
たか。ぜひ探してみてください。どこにあるのかわかりませ
紙の中にもあるように、まさに今現在の様子がイン
かることではあるが、しかし返事を待つ期待感も悪
世の中便利になったもので、日本に居ながらにし
てデンマークの様子がわかる時代になった。この手
︻日本発︼
くはない。
んが⋮⋮。わかったら教えてください。
この手紙、本当は絵ハガキにでも直接書きたかったのです
が、内容が多すぎます。ハガキ二枚も三枚も送るわけにはい
Ƚ
ȽȁIJijĶȁȽ
Ƚ
きませんので、こんな色気のない手紙です︵航空書簡にワー
プロ打ち出し︶
。ごめんなさい。
Pas på og blive ikke forkølet. Pas på dig selv! Hav det
それでは引き続き充実した生活を送ってください。お土産
は結構です。
godt!
︻デンマーク発︼
インターネットで私のコムーネや学校が見られるので
す か。 コ ン ピ ュ ー タ、 あ ん ま り 上 手 く 使 え な い ん で、 ど う
やったら見られるのか分かりませんが、世界はせまいですね
⋮⋮。十月の終わりから一一月にかけて学校のクラスで大き
なテーマ新聞をつくりました。そのときのテーマは﹁自然災
害﹂で、地震の国からやってきた私は友達にインタビューさ
れて、新聞に写真と共にインタビュー内容がのりました。イ
ンターネットで見られると思うので暇があれば見てくださ
さ て、 今 回 は ク リ ス マ ス と 言 う こ と で、 こ の カ ー ド︵ ス
ノーマン・カード︶に書きましたが、デンマークのクリスマ
い。見方は別紙に書きました。
本場のクリスマスは、日本人の想像を超えるほど
盛大である。十二月はほぼクリスマスのために費や
リ ス マ ス 一 色 ま た 教 会 へ 行 っ て 歌 っ た り、 毎 週 日 曜 日
に一本ずつ四本のロウソクを灯したり、日本とはまたちょっ
と違ったクリスマスを楽しんでいます。でも、ひとつ残念な
のが、今年は雪の中のクリスマスじゃないのです。今年は暖
オーデンセには十月の秋休みに行きました。
﹁裸の王様﹂に
と前からここに住んでいるような気分です。
不思議ですねー。
で詳しく分からないので、きっと先生のいう通り、浦島太郎
きます。いいニュースも悲しいニュースも⋮⋮。でもそこま
で、地元の人も﹁雪∼﹂ "She
∼ と
" 言ってます。日本はどう
ですか。ときどき日本のニュースがデンマークにも伝わって
かいようで、十一月初めに一回降ったきり、晴れや雨ばかり
は残念ながら会えませんでしたが、親指姫、鉛の兵隊は見ま
Har god jul og nytår!!
です。それでは今回はこの辺で⋮⋮。
いでした。
Ƚ
ȽȁIJijķȁȽ
Ƚ
2006.12.19
S↓H
され、大晦日までは街からツリーや飾りが取り除か
スはすごいです
最近は日本も盛大にお祝いしています
が、さらにレベルが上です。家も学校も町も人もすべてがク
れることはない。そのかわり正月はきわめて質素に
家庭で過ごす。
⋮
Tak for brevet, Men Undskyld jeg kun ikke svar snart
Til 瀬賀先生
!!
した。オーデンセは町全体がアンデルセンって感じで夢みた
こっちに来てあっという間に夏も秋も過ぎて、もうクリス
マスです。ついこの前、ここに来たと思ったら、いまはうん
!!
2007.4.1H↓S
は PRAKTIK UGE
︵体験学習︶があり、小学 一年生のクラス
で先生のお手伝いをしたり⋮⋮いろいろしました。昼休みは
一年生のみんなにデンマークの遊びを教えてもらったり。最
終日にはパワーポイントを使って日本紹介もしました。帰る
してくれて、とにかくかわいかったです。
hug
生 活 も あ と 三 か 月 に な っ て し ま い ま し た。 も
DANMARK
う、日本と離れた生活をしてて、帰るのが少し怖いです。ど
とき一人一人
日の後の最初の満月の次の日曜日﹂に祝われる。
お 元 気 で す か。 私 は
元 気 で す。 冬 の 長 か っ た
に も 、ちょっと
DANMARK
ず つ 春 が や っ て き ま し た。
四月の初めには春のお祭り
︵ポスケ︶がありま
PÅSKE
す♪
このカードも PÅSKE
のカードです。このかわい
の春を感じてください。
DANMARK
2007.4.7
S↓H
前述の通り、私発の手紙は航空書簡にワープロで
打ち出している。従って、書いた内容、しかも清書
が手元のパソコンの中に残っているわけだが、よく
整理しておかないと、果たして投函した手紙だった
がどうか、わからなくなる。
ハガキありがとうございました。あの
カードはイー
PÅSKE
新緑の候、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
Hej
! Hvordan har du det
?お元気ですか。風邪は引い
ていませんか。
拝啓
︻日本発︼
をむかえてください。
うしましょう⋮⋮。とにかく残りの日々を精一杯、出会った
人々に感謝しつつ楽しみたいと思います。先生も良い新年度
カードで先生も
PÅSKE
かたどったチョコレートが広く用いられている。
したゆで卵を出す習慣である。子ども向けには卵を
祭りにかかわる習俗としてイースター・エッグが
ある。殻に鮮やかな彩色を施したり、美しい包装を
念する。イースターとも言われ、基本的に﹁春分の
イエス・キリストが三日目によみがえったことを記
ポスケは復活祭のこと。キリスト教の典礼暦にお
ける最も重要な祝日で、十字架にかけられて死んだ
︻デンマーク発︼
い
︵調べ学習︶というのがあ
学 校 で は 最 近 PROJEKT UGE
り、一週間友達と社会問題について調べ発表し合いました。
友達と課題をやるのは、とても楽しいです。それから先週に
Ƚ
ȽȁIJijĸȁȽ
Ƚ
したが、語学以外の教科も勉強するのでしょうか。数学や物
話 は 変 わ り ま す が、
私はお正月にフィンラ
理、なんていうのもあるようですけど。
ンドに行ったというこ
スター エ
= ッグの卵でしょうか。
じつは最近、物忘れが激しくて、送った手紙がわからない
のです。書きかけの手紙がパソコンに残っていたのですが、
それを郵送したのかどうか忘れてしまって⋮⋮。内容からす
本当はデンマーク
にしようと思っていた
ると二月頃に書いたもののようです⋮⋮。で、念のため、そ
のですが、飛行機のチ
とは言いましたっけ?
二月、こちらは暖かかったり寒かったり、どうも安定しま
せん。どちらかといえば非常に暖かいです。体調も悪い感じ
ケットがとれなかった
の書きかけの手紙を含めて書きます。
がします。気のせいでしょうが⋮⋮。日本ではインフルエン
かった⋮⋮。
なのですね。でも少し残念です。本当の北欧の冬を経験した
日もマイナス三℃くらいでした。今年はほんとうに異常気象
す。 ほ と ん ど 雨 で し た。 一 日 だ け 雪 が 降 り ま し た が、 そ の
ので、って話。で、行ってきました。あちらも暖かかったで
ザが流行し始めました。
そちらも相変わらず暖かいようですね。インターネットで
見る
はいつも雨でシットリ濡れているようです。
København
もっとも Tølløse
はやや内陸ですから少しは雪が積もるので
し ょ う か。 と こ ろ で そ ち ら の St.Valentine's Day
はいかがで
したか。まさかチョコレートを贈るような行事はないでしょ
任です。そろそろ忙しくなってきますが、そちらはまだのん
は満開ではないですね。こちらは持ち上がりの高校二年生担
さ て、 も う 四 月 で す。 新 年 度 で す。 入 学 式 も 終 わ り ま し
た。入学式の日の学校の中庭の桜です。︵写真省略︶ことし
そうそう、あなたの学校の新聞、見ましたよ。そちらから
指定された方法では開けなかったので二日ほどかけて、いろ
うね。
いろと試しました⋮⋮。で、見ました。写真で見る限りずい
つけて。
敬具
節が来ます。時間を惜しんで生活してください。お体に気を
は早いものです。あっという間に帰国しなければならない季
びりしているのでしょうね。とはいうものの、月日が経つの
と出てくるのは、
Hiro
ぶんと元気そうですね。良いことです。内容は全然わかりま
せんが、あなたの紹介に関する部分で
そう呼ばれているからでしょうか。
ところで、あなたのクラスは何年何組なのでしょう?
学
校のホームページに時間割表みたいなものが掲載されていま
Ƚ
ȽȁIJijĹȁȽ
Ƚ
2007.6.12
H↓S
うところから始まった祭りがファステラウン。今日
復活祭にあたり四〇日間の断食をするので、その
断食がはじまる直前の金曜日に大いに楽しむ、とい
︻デンマーク発︼
では断食をする習慣もなくなり、子どものいる家庭
てください。すてきな国です݊
そう、思い出しました。私
が初めてデンマークに興味を持ったのは中一か中二のときの
授業で先生がデンマーク旅話をしてくださったときなんです
よ。そのときに北欧行ってみたいなぁと思っていました。
あ の あ と、 学 校 じ ゃ な く、 普 通 の 新 聞 に も 載 り ま し た。
いろんなチャンスを与えてもらってラッキーだったなと思
って呼ばれています。でも 少し発音が
みんなには "HIRO"
難しいみたいで﹁ヒド﹂﹁フィド﹂ときには﹁シゴップ﹂
︵シ
います。
この手紙が投函されたのは初夏。あっという間の
一年が経とうとしてる。夏の匂いで、はじめてデン
の団欒の祭りとなっている。春を待つ祭りだ。
マークの土を踏んだ時の感覚が蘇る。デンマークに
ちろん大事だけど、やっぱりデンマーク人とできるだけ同じ
生活がしてみたいので⋮⋮。でも今はもう終了式が終わって
テスト期間です。私も生物、数学、英語、デンマーク語のテ
ストを受けます。どんな風にテストするのか、ちょっとわく
わくしてます。
させて頂いたなって思うし、デンマーク人の陽気な生活を見
思 い 出 し ま す。 あ れ か ら 何 か 成 長 で き た か な?
とにかく
この一年で本当にたくさんの人に出会って、いろんな経験を
Ƚ
ȽȁIJijĺȁȽ
Ƚ
ロップ︶って呼ぶ子もいます♪
学校は9Aのクラスで語学
以外も全部、みんなと一緒に授業をうけています。語学はも
興味を持った理由は⋮⋮。
瀬賀先生へ
お 手 紙 ど う も あ り が と う ご ざ い ま し た。 そ し て 返 事 が 遅
く な っ て し ま っ て ご め ん な さ い。 ま ず は 先 生 か ら の お 手 紙
にちょっと答えます♪
は全く何
そ う、 ST.Valentine's day
もしませんでしたから、日本のバレンタインが恋しかったで
知らないお祭りがあって、それもまたおもしろいです。ちょ
それにしても、もう帰国まで一か月もありません。季節も
夏だし、色とか匂いとかで、こっちに来た頃のことを自然に
うどその頃︵二月︶デンマークに大雪が来ました。二月頃な
て、私もそんな風に人生送りたいなと感じたり⋮⋮。学んだ
︵ファステラウン︶というハロ
Fastelavn
ウィンに似たお祭りがありました。ヨーロッパにはいろいろ
す。 そ の 代 わ り に
らきっとフィンランドにも雪が降ってたと思います。⋮⋮っ
いっぱい感謝して過ごします。それから五日間ほど老人ホー
こともたくさんです。残りの日々はお世話になった人たちに
て い う か、 フ ィ ン ラ ン ド に 行 か れ た ん で す か チ ケ ッ ト
が取れなかったのは残念でした⋮⋮。次回はデンマークにし
?!
て、知らないところを訪れるのはおもしろいです♪
それで
は、先生もお体に気をつけてください。帰国したらお会いし
マークの全てじゃないけど、やっぱりまだ知らない人に会っ
生 活 も 見 て み た い な、 と 思 い ま し た。 私 の 出 会 う 人 が デ ン
事体験して幼児から若者までを見たので、最後にお年寄りの
ムにお仕事体験に行ってきます。前に幼稚園と小学校でお仕
です。その他にも、絵本や幼児教育に興味があったので、童
ていました。なぜなら未知の言語の習得に関心があったから
きりと決めていなくて、なんとなくヨーロッパがいいかなと
いよいよその気になりました。ただ、留学先についてははっ
宣言したときに、あまりにもあっさり承諾が得られたので、
に魅力的であることがわかりました。思い切って家族に留学
いうくらいでした。言葉は英語じゃないところがいいと考え
ましょう。
話作家アンデルセンの国、社会福祉の国、陽気な人たちが暮
らす国というイメージのデンマークを第一希望にし、幸運な
彼女の帰国後、長文のレポートが送られてきた。
﹁デンマーク留学を終えて﹂と題されたレポートに
もできる日本人好きなお父さん、二〇年前にブラジル留学を
ことでした。そしてホストファミリーは強くて面白い、空手
︿ホストファミリー ﹀ デンマークに着いて、初めて感じた
ことは町並みがとても美しく、ドールハウスのようだという
ことにそこへ留学できることになりました。
は現地での意欲的な生活の様子が綴られていた。数
2007.7.15
H↓S
枚の写真も掲載されていて、その楽しげな様子がよ
︻日本発︼
していて、私のことをよく理解してくれるお母さん、恥ずか
、しゃべるのと歌うのが大好きで甘え
LOUISE
ん坊の七歳 JULIE
。本当に温かい素晴らしい家族のもとにス
家庭内のことで
テイさせて頂くことができ幸せでした。
きた一二歳の
一四歳の KATRINE
、彼女とは一年間ずっと一緒に部屋を共
有しました。それからスポーツが大好きで、何でも質問して
しがりやで大人しいけれど、いつも私のことを考えてくれた
く分かる。以下はその抜粋である。
デンマーク留学を終えて︵抜粋︶
︿留学動機 ﹀ 留 学 と い う も の を 初 め て 知 っ た の は、 私 が 小
学 五 年 生 の 時。 そ の 際 の 留 学 体 験 者 の ス ピ ー チ に と て も 感
理のこと、学校のこと、どれひとつ取っても大きな試練に思
驚いたのは、両親が子ども達の活動に積極的に関わっている
│
えました。でも、中学三年になって、自分の進路を考えたと
こと。何よりも家庭にいる時間が長い!
四時頃にはお父さ
んもお母さんも帰ってきていて子どもと遊んだり、宿題を手
動し、憧れました。しかし、一年という期間のことや体調管
き、やはり留学のことが気になってあれこれ調べてみたので
す。そのうちに、現地校での体験や人々との生活が想像以上
Ƚ
ȽȁIJĴıȁȽ
Ƚ
九月から三月までの半年間、地
み心地がよかったです。
│
伝ったりしていました。そして、もうひとつ驚いたのが、と
たことも交流のチャンスとなりました。そこでのたくさんの
が、初日にクラスで自己紹介の場を作っていただいたので、
でやってきているので、その中に入るのはとても不安でした
︿ 学 校 ﹀ 日 本 で 言 う 中 三 か ら 高 一 の ク ラ ス に 入 り ま し た。
ク ラ ス メ イ ト は 短 く て も 二 年、 長 い 子 は 十 年 間 同 じ ク ラ ス
語を混ぜて話す感じでした。デンマーク人は自分たちの言語
めのうちは英語の文章の中に、知っているデンマーク語の単
地 域 の 人 々 の 支 え も あ っ て と て も 上 達 し た と 思 い ま す。 初
︿言葉 ﹀ 行 く 前 は あ い さ つ と 自 己 紹 介、 そ れ か ら 曜 日 や 数
字くらいしか言えませんでしたが、一一ヶ月、家族や友達、
人との交流によって、コミュニティーの一員になれたかなぁ
域の小さい子達の体操クラブのお手伝いを週二回させて頂け
て も 頻 繁 に 家 族 同 士 で Hug
を す る こ と。 朝 起 き た と き、学
校や仕事に行くとき、家に帰ってきたとき、夜寝るとき、そ
と誇らしく思いました。
そこで話したことがきっかけとなり、すんなり仲間にはいる
をとても難しいと感じているようで、少しでもしゃべれると
│
れから Jeg elsker dig!
好きだよ、って言いたくなったと き。
愛情表現がストレートなのだなと思いました。
ことが出来ました。自分のことを知ってもらうのはとても大
のは行って二ヵ月半がたった頃。私はデンマーク語で読んで
│
事なことだと思いました。またデンマークの子はみんな陽気
とても喜んでくれました。
ちゃんはいつも寝る前
JULIE
にお父さんやお母さんに本を読んでもらっていて、私も何度
学校は日本と違うところがたくさんありました。社会問題
や環境問題についての調べ学習をすることも多く、授業中は
いたのに﹁デンマーク語で読んでよ∼﹂と言われ、このとき
か本を読んであげたことがありました。初めて読んであげた
みんな積極的に質問や発言をしていました。先生が黒板に何
で外国人に対しても寛容でした。
かを書いて授業をすすめていくのではなく、時間のほとんど
に﹁私のデンマーク語って分かりづらいのかな? もっと誰
とでも理解し合えるようなデンマーク語を話したいな﹂と思
いました。言葉は﹁この人としゃべりたい、この人のことを
︿アンデルセンについて ﹀ デンマークといえば童話作家ア
ンデルセンの国です。私もそのイメージが強くて派遣先国を
First
が生徒と先生の対話でした。その際、先生とはお互いに
もっと知りたい。﹂という気持ちがあって学べるものだと思
デンマークに希望しました。滞在中、コペンハーゲンやオー
いました。
︿ 地 域 の 人 々﹀ 駅 の ホ ー ム や 信 号、 踏 み 切 り 待 ち の と き、
知らない人でも目が合えば笑顔で "Hej"
と挨拶するし、お店
でものを買うときも後ろにお客さんがいなくて時間があれ
│
で呼び合い、気軽に話したり質問したりする関係がわ
name
たしにとっては新鮮でした。
ば、レジで話がはずみました。街の人たちはとても温かく住
Ƚ
ȽȁIJĴIJȁȽ
Ƚ
のように、アンデルセンの生き方は現在のデンマーク人の生
と、お母さんが﹁旅は人生! 旅をすることは生きること!
アンデルセンがそう言っていたわ。
﹂と言ったことです。こ
ク人は休暇になるたび家族と旅行に行くの?﹂と私が尋ねる
と旅行について話していたときのこと。
﹁どうしてデンマー
話を読み聞かせるのです。印象的だったのが、私がお母さん
が置いてありました。そして寝る前に大人が子どもにそのお
ました。そして訪れたどの家にも分厚いアンデルセン童話集
ものがあり、図工では彼をテーマに絵を描いたクラスもあり
た。学校ではデンマーク語のテストに彼の童話について書く
あちらこちらにアンデルセンが活躍していることに驚きまし
できました。アンデルセンは人々に愛されていて、生活の中
きていた頃の生活や、物語の題材となったものを知ることが
デンセのアンデルセン博物館を訪れることができて、彼が生
なされるものだなと感じました。この体験をもとに、これか
いたのです。本当の幼児教育とは、このような環境のなかで
関わり、子ども達の育ちをみんなで見守っていることに気づ
ドを取り入れているわけではありませんでした。しかし、自
︿これからの自分、目標 ﹀
私は幼児教育に関心があり
ます。デンマークの幼稚園は、期待したような特別なメソッ
本当に素晴らしいことだなぁと感じました。
伝いしますよ。﹂という精神があるのだと思います。それは
いっきり楽しんでいってくださいね。そのために僕達もお手
し、彼らの中には﹁ようこそ僕らの素敵な国へ、この国で思
いました。きっと彼らは自分たちのデンマークという国を愛
て く れ る の だ ろ う ⋮⋮ と 思 っ て は、 私 も そ う あ り た い と 思
てきた私にここまで優しくしてくれたり、とことん付き合っ
て、同年代の子を見て、どうして遠い日本からいきなりやっ
らは私はもっと視野を広げ、子どもの成長と人や地域との関
分が中に入ってみると、地域の大人がいろいろな形でそこに
│
き方にも影響を与えていると言うことに私は感動しました。
わりということを学んでいきたいと思っています。
│
︿これから留学を考える人へ ﹀ 今自分の住んでいる場所や
環境を一人で出て、他の世界を見てみることは、めったにで
きない、とても価値のあることだと思います。家族のありが
たさを実感するのはもちろん、現地の人たちの温かさに触れ
て 優 し さ を 感 じ る こ と、 言 葉 の 壁 を 乗 り 越 え た と き の 感 動、
自分と違った生き方をしている人たちからの刺激、など日本
にいては体験できないことばかりです。私自身はデンマーク
の人たちの陽気な性格、嫌なことがあってもすぐに立ち直っ
てにこにこしている明るさに大きな影響を受けました。そし
Ƚ
ȽȁIJĴijȁȽ
Ƚ
しょう。
りにも窮屈な制度や発想に嫌気がさすと言われてい
既述レポートに対する私の返答。デンマークに長
く住んだ日本人は、日本に戻ってくると、そのあま
でください。もしも、本当に異文化についての理解を深めよ
ングで話をすることが最良と思いましたので、悪く思わない
ちょっと耳に触ることを言うかも知れませんが、このタイミ
て、今後の﹁日本﹂での生活に示唆を与えようと思います。
2007.9.1
S↓H
る。主体性がなく、﹁自主自由の精神﹂を持ち合わ
まだ、デンマークの余韻が残るなか、日本での生活に復帰
しているわけでしょうが、この際ですから、二、三お話をし
せていない日本および日本人を嘆くのだ。しかし、
うと思うのであれば、少しの間、おつきあい下さい。
︻日本発︼
ここで足下を見つめる必要がある。その戒めとして
ま ず、 あ な た は 一 年 間、 外 国 で 充 実 し た 生 活 を 送 り、 日
本に戻ってきました。あなたは今までのあなたではありませ
一 週 間 や 二 週 間 と い っ た 短 期 の 旅 行 と 違 い、 一 年 間 の 外
国生活は、その国の文化を知るためには最低限の期間でしょ
義な時間を過ごしたようですね。うらやましい限りです。
接触した感動がよく伝わり、楽しく拝読いたしました。有意
さて、このたびはデンマーク留学のレポートのご恵投にあ
ずかり、ありがとうございました。現地での様子や異文化に
ザリしていることでしょう。まずは無事の帰国、なによりです。
鬱 陶 し い 季 節 で す が、 ご 清 祥 の こ と と お 慶 び 申 し 上 げ ま
す。一年ぶりの日本の夏はいかがでしょうか。おそらくウン
言っていいのかも知れません。そうすると、デンマークでの
見ています。その意味では、もはや純粋な日本人ではないと
人︶にはこんな良いものがあるのになぁ、という比較の目で
ところがイヤだな﹂
﹁なんで日本人はこうなんだ﹂とあなた
化︶して考えるようになっているはずです。
﹁日本のこんな
す。良い所も悪い所も、きれいな所も汚い所も相対化︵客観
ろが今は違いますね。
﹁日本﹂を相対化して、見て、考えて
がはじめから与えられていた、絶対的な日本人でした。とこ
したためた手紙である。
ん。今までは日本の中で生活し、
﹁日本﹂という枠組みの中
う。もっとも、一年間の生活ぐらいでは、おそらく興味本位
経験がすばらしいものであればあるほど、日本に帰ってきた
でものを考えていた日本人で、つまりは﹁日本﹂という存在
の好奇心から日本との相違点ばかりに目が向き、その国の負
時には、日本に対する失望が大きいものです。もちろん、デ
拝啓
の側面にまでは意識が及ばないかも知れません。それでも現
が 感 じ る と き、 そ れ は 単 な る 感 情 で は な く て、 他 の 国︵ の
いると思います。日本の外から日本を見るようになったので
地で﹁生活した﹂という事実はあなたを大きく変えたことで
Ƚ
ȽȁIJĴĴȁȽ
Ƚ
あなたのことですから、もうお分かりのことと思いますが、
的﹂に思えてくる、いわば﹁幻想﹂を抱くものです。聡明な
思えるでしょう。しかし、一年間の留学では、すべて﹁理想
も問題を抱えていて、どこの国の人にも悩みはあるのだ﹂と
ンマークの﹁負の側面﹂まで知っているならば、
﹁どこの国
になったっけ?︶の多感な少女︵あなたのことですよ!︶に
齢を重ねれば、頭で理解できることですが、一六歳︵一七歳
〇 〇 年 と い っ た 町 並 み と 風 情 が 違 う の も 当 然 な ん で す。 年
える、これが木造建築の文化です。石造りの築二〇〇年、三
プ=アンド=ビルド方式、古くなれば壊してどんどん建て替
﹂そう思うかも知れません
は、もしかしたら納得できないかも知れません。
﹁やっぱり
ね。それでも﹁だから日本は劣っている﹂と短絡的に価値判
ヨーロッパの方が町がきれい
ど う ぞ デ ン マ ー ク と 日 本 を 単 純 に 比 較 し て﹁ ど ち ら が 良 い
択一的な思考にならないでほしいのです。ある程度の年齢を
断してほしくありません。
︵正しい︶﹂﹁どちらが劣っている︵悪い︶
﹂というような二者
重ねた人間であれば、現実を受け止める力もあるし、あるい
スファルト舗装が進んでいますが、まだまだ石畳も多いです
ど、 本 当 に 童 話 の 世 界 の 町 並 み で す。 い ま で こ そ 道 路 も ア
レ ポ ー ト に は 町 並 み の 美 し さ に つ い て 書 い て あ り ま し た。
石造りのアパート、タイル貼りの赤い屋根、白い木枠の窓な
が、デンマークの義務教育は、その期間は日本とほとんど変
任﹂を徹底的に求めます。たとえば、ご存じだとは思います
育システムは﹁自主自由﹂が基調ですが、それは﹁自律と責
行錯誤の努力があったのかを知る必要があります。北欧の教
ンマーク モ
= デルといい、フィンランド メ
= ソッドと呼ばれ
ているものも、それぞれの国で、どれほどの意識改革と、試
は現実に対する﹁諦め﹂もあるので問題はありませんが、あ
ね。少し郊外に出れば広がる平原︵パンケーキの国とよばれ
わりませんが︵七歳からの九年間︶
、それは親が子どもを﹁学
将来、幼児教育の分野で活動したいといっていたあなたで
すが、教育システムについても同じ事がいえます。概して北
るくらい平らな国です︶、散在する防風林、牛、ブタ︵さす
校に行かせる義務﹂を負うのではありません。あくまでも、
欧の教育システムは高い評価を受けています。最近では日本
が酪農国、ベーコンは本当にうまい!︶⋮⋮。それに引き替
子 ど も に 対 し て﹁ 必 要 な 教 育 を 授 け る ﹂ 義 務 で す の で、 家
なたのように好奇心旺盛で、理想に燃えて、若者特有の潔癖
え日本は⋮⋮。と思ってはいけませんよ。今まではそんなこ
庭で教育ができるのであれば、学校に行かせなくてもいいの
さと正義感を持った多感な青年には、陥りやすい落とし穴で
と 感 じ も し な か っ た、 と い う こ と が 急 に 不 快 感 を 伴 っ て 現
です。
︵現行デンマーク憲法第七六条﹁学齢期の全ての子ども
でもそのメソッドの導入を盛んに検討しています。ただ、デ
れ る 場 合 が あ り ま す。 し か し、 日 本 に は 日 本 の 風 土 が あ っ
すので老婆心ながら申し上げています。
て、それにかなった生活様式がある。家の建て方もスクラッ
Ƚ
ȽȁIJĴĵȁȽ
Ƚ
!!
いますから、親子で過ごす時間をすごく大切にするのです。
育を受けさせる義務を負わない。
﹂
︶こういう考えに基づいて
ることのできる両親または親権者は、子どもに公立学校の教
で通常おこなわれる教育に見合った教育を子どもに受けさせ
は、公立学校で無料の教育を受ける権利を有する。公立学校
低下をすごく心配しています。
自由もあるということなのでしょうね。国全体の教育レベル
の割合が大きいのです。学校に行く自由もあれば、行かない
クでもフィンランドでも日本に匹敵するくらい、不登校生徒
ている問題も大きいものがあります。不登校です。デンマー
相当な努力の上に成り立っているものなのです。しかも抱え
にあたって、国民全体の意識を徹底的に改変したようです。
いずれにせよ、親の子どもに対する責任や負担は非常に大
きいものです。国民全体がそういう意識を持っているからこ
でも考えてみれば親の負担は相当なものですよ。よっぽど家
そ、うまくいっている。大学に行かなくても社会的に認めて
庭に力がなければ、学校に行かせないでまともな人間が育つ
に進学します。自分の進むべき道が大学になければ、自分の
ことは難しいですから。そして本当に志望する者だけが大学
責任において別の道を進むのです。デンマーク特有の学校制
もらえる、そういう風土ができなければ、いくら日本でマネ
デ ン マ ー ク で は、 自 分 が 外 国 人 で あ る こ と を 忘 れ る く ら
い親しく接してもらったと思います。すごく気さくで陽気な
をしようと思っても無理でしょう。日本は日本なりの教育シ
人々です。すぐに話しかけてきますよね。私も駅のホームで
度であるフォルケホイスコーレは日本で言えば専門学校にも
し、このような学校が社会から高い評価と位置づけを与えら
たたずんでいると、道を聞いてくる人が何人もいました。こ
相当しますが、日本の専門学校のレベルではありません。多
れるためには、大学に行くことだけがその人の価値を高める
ちらは明らかに外国人なのに、道を知っているとでも思って
ステムを作り上げていくべきだと思います。
ことではないという思想が普及していることが条件です。日
いるのでしょうか。あちらの人は、相手が外国人であるとか
様 な 種 類 の 高 度 な 教 育 を 人 々 に 提 供 す る 教 育 機 関 で す か ら、
本 の よ う に、
﹁とりあえず大学ぐらいは出てないと﹂一人前
こ れ も デ ン マ ー ク の 教 育 レ ベ ル を 強 く 支 え て い ま す。 た だ
とは見なされない社会では成り立たないことはお分かりですね。
障害者であるとか、どんな職業であるかとか、そんなことに
ノーマライゼイションという言葉があります。﹁すべての
人はノーマル、つまり普通・正常であるから、みな同じよう
あまりこだわりを持たないように見えますね。
に暮らすべきなのだ﹂という考え方です。この言葉は、今日
フィンランドは二〇〇三年の国際調査で学力世界一になり
ました。国民一人あたりの図書館利用率もダントツで一位で
をモデルにしてつくられているといいます。ただ、その運用
す。フィンランドの教育の基本は、じつは日本の教育基本法
が違うのです。フィンランドでは現在の教育システムを作る
Ƚ
ȽȁIJĴĶȁȽ
Ƚ
すので、そのあたりのことは勉強してきたと思います。あな
かりました。あちらの学校では、調べ学習が多かったようで
浸透するまでには、大変な意識改革が必要であり、時間もか
が、オリジナルはデンマークです。もちろん、この考え方が
ではどこの福祉国家でも実践目標として掲げているものです
い役割を果たすことになるのだと思います。言いたいことは
ばあなたの留学は、あなたの人生にとって、もっとすばらし
しんでいるのだと言うことを忘れないでください。そうすれ
ぞれの人が、それぞれの文化の中で喜び、楽しみ、悩み、悲
下を見つめることも大切なことです。それぞれの国で、それ
がちになります。しかし、ここで一歩立ち止まって自分の足
はずです。この高負担の上に成り立っている福祉国家ですか
前後、自動車に至っては一〇〇%くらいの税がかかっている
変わっていませんでしたね。身長も伸びなかったようですし
気な顔を見て安心しました。はっきり言って、外見はあまり
いますよ。先日、学校に訪ねてきてくれたとき、あなたの元
お 土 産 あ り が と う ご ざ い ま し た。 モ ビ ー ル も デ ン マ ー ク
で は 好 ま れ る イ ン テ リ ア で す ね。 た し か 特 産 品 だ っ た と 思
以上です。
たの方がよく知っているかも知れませんね。それから間接税
ら、日本ですぐにマネしたら、破産する家庭続出ですよ。国
が高い!
買いものをして分かったと思いますが、文房具な
どもやけに高い。付加価値税︵日本で言う消費税︶は二五%
会議員の選挙でも﹁福祉のためですから税金たくさん払って
⋮⋮。ではいずれ、また。
︵地歴公民科︶
ください﹂といって当選するのですからすごいものです。今
の日本で、堂々と﹁税金たくさん払え﹂などといって選挙を
戦う立候補者がいるのならば見てみたいものです。そのくら
い﹁高負担、高受益﹂の考えが普及して、はじめてデンマー
ク モ
﹁おとぎの国﹂は黙って
= デルの福祉が可能なのです。
待ち望んでいるだけでは出現しないし、維持することもでき
ないのです。
﹁必要な負担には耐えねばならぬ﹂のです。
以上、くだくだしく書き連ねましたが、要するに言いたい
ことはこうです。
異文化接触によるショックは、良くも悪くもその人を変え
ます。その際、どうしても人間は快適であった方、おもしろ
かった方、心弾んだ方を理想的な正しい絶対的なものと考え
Ƚ
ȽȁIJĴķȁȽ
Ƚ
た先生方を思い出してみると、その数のとてつもなく多いこ
小学校から大学まで、そして教師になってから今日までの
生活を振り返り、受け持っていただいた恩師、ご指導を受け
も、わが敬愛する顧問のN先生は、自由奔放さを身につけた
性を尊ぶ、根っからの子供好きの先生であった。それにして
N 先 生 は 当 時 の 中 学 校 教 師 と し て は 珍 し く、 自 主 性・ 主 体
私にとって最も忘れられない先生、それは栃木市立皆川中
学校の必修油絵クラブを担当していただいたN 先生である。
思い出に残る教師像
とに驚かされる。それらの方々との邂逅には、強弱の度合い
大
島
秀
郎
はあっても、すべてが今でも懐かしい思い出となって心によ
先生だった。今にして思えば、先生が美術の教員であり、芸
て写生をさせてくれた。それに放課後になると、先生は私た
N先生は必修クラブの時間になると、雨の日は美術室で静
物を、お天気のときは決まって裏の城山︵皆川城址︶に登っ
術家肌だったことによるのかもしれない。
みがえってくる。
人 と 邂 逅 す る け れ ど も、 す ば ら し い 人 と つ き あ っ て い る と、
ちに声をかけ、﹁さあ、これから永野川の土手に写生に行く
﹂という言
地蔵本願経に﹁多逢聖因︵たほうしょういん︶
葉があるそうだ。それによると、人は人生の中でいろいろな
自 然 と よ い 結 果 に 恵 ま れ る と の こ と で あ る。 私 に と っ て は、
ぞ。描きたい者はついてこい。
﹂と言いながら先頭に立って
満 々 と 水 を た た え た 永 野 川 の 春 と 夏、 水 を 落 と し た 秋 と
冬、川面を吹き過ぎる風と水に映る雲の姿、四季の変化に伴
もあり、五、
六人が行くこともあった。
ケツを手にぞろぞろとついていく。時には部員全員が行く時
歩き出す。私たちは画板を肩にゆらしながら、絵の具箱とバ
自分以外は皆すばらしい師であるが、本稿ではその中から幾
第一校時
自由の師N先生
人かをご紹介したいと思う。
今も変わらぬ永野川
不肖、私が生まれ育った故郷・皆川 ―
の満々と水をたたえた五月の風景は、﹁白き流れ﹂の名に恥
じぬ風情がある。秋、朝霧の立ち渡る頃もまた趣がある。
Ƚ
ȽȁIJĴĸȁȽ
Ƚ
う永野川の表情は、興趣つきるところがなかった。川辺に腰
いが︶
た い と 思 う。
︵こんなことも本当はよけいなことかもしれな
第二校時
沈着冷静な判断力
き方、人間としてのあり方を教えられた気がする。
先生との心の結びつきが、この放課後の写生行にあったこ
とは言うまでもない。今静かに振り返ってみると、人間の生
―
を下ろし黙々と描き続ける先生を見ては、同じように構図を
とる者、半分描いては遊びに興じる者。先生は一切小言を言
わず、自分の絵筆を動かすのみ。私たちは、教えられるので
はなく、先生の描く様を見ては、真似をして描くだけだった。
﹂と
時間がくると先生は﹁今日はこれまで⋮さあ帰るぞ。
言ってスタスタ歩き出す。私たちは、あわててバケツの水を
土手に捨て、後を追うのが日課であった。
あれは教職︵いわゆる、寒冷へき地の公立中学校勤務︶に
ついて一年目の冬であったから、もう二十七年も昔のことで
して自分自身の気持ちをいらだたせるだけ損なのだ。それで
しまう。つまり、むだなことばを言っていることになる。そ
てくるだろうなどと少しも期待していないのに、つい言って
聞かないのだから、そんな生徒にかぎって素直に明日はやっ
ん と 反 省 し て い る は ず だ。 今 ま で に 何 度 と な く 言 う こ と を
ます。﹂と素直に反省するような生徒なら言わなくてもちゃ
言ってはみたが、どうも後味が悪い。
﹁明日は必ずやってき
う こ と が ず い ぶ ん と あ る。
﹁なぜ宿題をやらなかった⋮﹂と
がる。後になってからあんなこと言わなければよかったと思
が多い。教師などしているとどうしてもよけいにしゃべりた
ならずかえって反感を招いたり悪い結果になったりすること
なって、生徒の肩と肘のあたりをつかむと、ぐいぐいと保健
いてきた生徒の様子をひと目見たY先生は、急に厳しい顔に
た?﹂と聞かれたが、何と答えたか覚えていない。後からつ
先 生 は い な か っ た。 た ま た ま そ こ に い た Y 先 生 に﹁ ど う し
頭 の 中 に は、 と に か く 養 護 教 諭 に 頼 ま な け れ ば、 と い う
こ と し か 思 い 浮 か ば な か っ た。 し か し、 職 員 室 に は 養 護 の
と言いながら自分だけが先に駆け出していたようである。
何をしてよいか、
とっさの判断ができなかった。﹁早く来い。
﹂
と、指先のない血だらけの手を見た途端、私は気が動転して
たよー。
﹂とわめきながら飛び出してきた生徒の真っ青な顔
かと廊下に飛び出した私の目の前に、﹁手がなくなっちゃっ
して、同時にワーッという生徒のどよめきが起こった。何事
第五校時の英語の時間だった。授業が始まった直後、突然
向かいの技術家庭科室︵金工室︶でドカンという大きな音が
ある。
も言わなければ気が済まないというのはどういうことなのか
学 校 へ 戻 る 途 中 で、 先 生 か ら こ ん な 話 を 聞 い た こ と が あ
る。 ―
よけいなことは言わないようにしたいと思う。言っ
てよくなることは大いに言うべきだが、言っても少しもよく
⋮。教師としての権威がそうさせるのかもしれない。反省し
Ƚ
ȽȁIJĴĹȁȽ
Ƚ
て輸血を拒否しているので、救急車はだめだ。ハイヤーを一
かりつけの医者に電話を。それから、この生徒は事情があっ
た私に、先生は﹁すぐ養護の○○先生に話して、こいつのか
ぐると包帯を巻きつけ始めた。ボーッとしてあとについてい
室に引っ張っていった。そして、手早く血だらけの手にぐる
材は、生徒たちが興味を持続させながら、自主的に読み取る
徒が教科書を読んだとしても、それは二番煎じです。この題
す。教育は生徒たちが中心でなければなりません。後で、生
もらいました。しかし、あなたは進むべき道を誤ったようで
﹁実に立派な独演会でした。ほれぼれストーリーを聴かせて
わり方をした。それは、こうだ。
ズバリ言われたショックは大きかった。酷評はそれで終わ
りではなかった。
べきものです。
﹂
﹁配布プリントにこんな字を書いていて、よく言葉の教師と
台至急頼んでくれ。そして校長先生と教頭先生に報告するん
言える。語学の教師が字を間違ってどうする。生徒は、一生
だ。親にも電話入れとけ。
﹂と言いつけながらも両の手は休
がっていく真っ白い包帯を目に焼きつけたまま、私は横っ飛
﹁がまんしろ。
﹂という励ましの声を耳に、生徒の手に盛り上
こうした間違い字を書いてしまうんだぞ。﹂
み な く 生 徒 の 手 に 包 帯 を 巻 き つ け て い た。
﹁しっかりしろ。
﹂
びに職員室に戻ってきた。ハイヤーが来て、養護の先生とY
摘されたのだった。当時、印刷は、謄写印刷で、ろう原紙を
それは、
﹁道具﹂の 具
「 の
」 字が、ヤスリ板の上での鉄筆の
使い方が不慣れのために﹁貝﹂になってしまっていたのを指
先生が同乗し、自動車が校門から消えた時、初めて我に返っ
第三校時
心に生きる、師表F先生
た私は、何もできなかった自分がとても恥ずかしかった。
ヤスリ板にのせ、鉄筆で書くといった方法であった。
﹁原紙
学習を発展させるという、きおい立った授業であった。それ
度も開かずに机間指導、助言、支援を繰り返しながら生徒の
︵オー・ヘンリー作︶をそらんじて語り、英語の教科書を一
言う。ある日、まさに目からうろこが落ちたように、私自身
先生を恨み強く反発した。しかし、先生の講評は日増しに
私の心をとらえ、重くのしかかった。﹁良薬は口に苦し﹂と
のときに、というのが教育評価の鉄則ではなかったのか。
何も大勢の参観者の面前でこれほど言わなくてもいいので
はないか。ほめるときはみんなの前で、しかるときには一人
切り﹂と言われたその方法は、私の苦手とするところであった。
が学習指導案通り成功し有頂天になった。ところが、この授
の眼が生徒中心の学習に向き、主体性を育てる教育活動に興
敬慕するF先生に最初にお目にかかったのは、三年次研修
の指導に来られたときであった。この日は、私にとって初の
業に対する先生の講評は非常に厳しく、今も私の脳裏に鮮明
公 開 研 究 授 業 で、 レ ッ ス ン 一 つ 分 の 物 語 文 ﹃ 賢 者 の 贈 り 物 ﹄
である。オー・ヘンリーの短編小説の筋と同様に意想外な終
Ƚ
ȽȁIJĴĺȁȽ
Ƚ
味を持つようになった。
時折、文房具入れの底に眠っている鉄筆やアジア修正液を
ながめては、記憶をよみがえらせ、戒めとしている私である。
第四校時
千金の一刻
たり、県教育センターにおける研究協力、英語検定試験の面
小学生時代の離任式でのことである。
この研究授業が取り持つ縁で先生の知遇を得、その後、内
地留学教員︵宇都宮大学教育学部︶として推薦していただい
接委員委嘱、ビデオ教材への出演、さらには教育書の翻訳や
K 先 生 の 離 任 の あ い さ つ は、 マ イ ク ロ フ ォ ン を 通 し て も
あまりよくは聞き取れなかった。児童の中には私語する者も
先生は楽譜を見ながら演奏を続けられた。会場のすべての
者が、美しい音色と、懸命な演奏に魅了されるうちに演奏は
囲気に変わった。
きほどまでのざわめきは、水を打ったような静寂と感動の雰
色は、マイクロフォンを通して会場いっぱいに広がった。さ
月﹂の哀愁を帯びたメロディーが流れ出した。その澄んだ音
そ の と き、 先 生 は 小 声 で﹁ 私 の 最 後 の 演 奏 を 聞 い て く だ
さい。
﹂と言って、二本のハーモニカを唇に当てた。
﹁荒城の
るのか見当もつかなかった。
児童たちは、先生が何をされようとするのかわからずに、
ざわめきは更に広がっていった。もちろん私にも何がはじま
て、次に別のポケットから小さい細長い箱を取り出された。
て演台の上でそれを開き、手でしわを伸ばしはじめた。そし
の時間をおいて、上着の内ポケットから小さな紙片を出され
先生のあいさつは短くして終わった。しかし、先生はその
まま壇上にとどまっておられる。どうしたのかなと思うほど
あって、ざわついてきた。
執筆を勧められたりした。
また、教師の惰性を戒めて、本来あるべき姿に立ち返るよ
すがにと、F 先生監修のもとで、
﹃教師の十戒﹄というリー
フレット作成のお手伝いをしたことがある。へたな説明より
実例を示そう。
︽教師の十戒︾
一
理解の遅い生徒を見捨てるように授業を進める教師
二
理解しにくい授業をしておきながら生徒をけなす教師
三
自分のミスを正当化し弁解をする教師
四
生徒に背を向けてひたすら板書して授業を終わる教師
五
重要なことを明記せずに説明のみで終わる教師
六
生徒に読めない文字を書く教師
七
授業時間に遅れて来て当然のように思っている教師
八
テストの採点にミスの多い教師
九 生徒があいさつしても知らぬ顔の教師
十 学校のきまりを守らない教師
編集会議において六十項目ほど集められたものを十個に
絞 っ た。 そ の 多 く は、 障 害 を 持 つ 生 徒 の 口 か ら 出 た も の で
あったことを付記しておく。
Ƚ
ȽȁIJĵıȁȽ
Ƚ
時、﹁医﹂という漢字の書き順を間違えて、この先生に﹁土
私 が 栃 木 市 郊 外 の 小 学 校 に 在 学 し て い た こ ろ、 教 育 熱 心
なM先生に担任され、楽しい学校生活を送っていたが、ある
感した心に残る出来事であった。
先生は、ゆっくりとハーモニカを箱におさめ、楽譜の紙片
をまた小さく折りたたんでポケットにしまうと、
﹁みなさん、
建 屋 の せ が れ だ か ら な。
﹂と言われ、私は大きなショックを
終わった。
お元気で、さようなら。
﹂とこともなげに言って壇を降りら
している担任の先生の口から出るとは、夢にも思わなかった。
は、そう言われたこともたびたびあった。しかし、一番尊敬
豊かではない生活には慣れていた。同級生とけんかした時に
受けた。確かに父はブルー・カラー︵筋肉労働者︶であり、
れた。
児童たちは、あっけにとられた風で、ただ先生の動作を見
つめていた。号令係である児童会の役員も﹁礼﹂の号令をか
けることを忘れた。
そして、ややしばらくあって、会場は割れるような拍手で
充満した。
おわびを言いにきたというのである。K 先生の授業のとき、
はないかと思う。教師自身が無意識に言ってしまった場合も
長い教師生活の中では、だれでも一度はこのM先生のよう
な言葉を言ってしまって、自責の念にかられる時があるので
この反面教師的一言によって、私の人生の方向は決定づけ
られたと言える。
先生を小馬鹿にしてふまじめな態度をとったり、手こずらせ
あるだろう。しかし、意識しようとしまいと、言われた子ど
離任式が終わって、控室に戻られてしばらくすると、K先
生に会いたいと言う児童が何人か訪ねてきたそうだ。先生に
たりした児童である。K先生のすばらしい実力の一面に触れ
もは忘れるものではない。
二 十 二 歳 の と き 埼 玉 県 内 で 英 語 を 教 え 始 め て か ら、 中 途
元宇都宮大学教育学部教授、塩澤利雄先生
第六校時
自らの研修が重要になってくると思うのである。
てみる必要があるし、どのように人間関係を醸成していくか
ことである。教職に携わる者は、教師のあり方について考え
M先生には、失礼な点はお許し願いたい。はしなくも、M
先生に教えられたことは、人が人によって育てられるという
て感動し、反省しての謝罪である。彼らなりに開眼させられ
ての謝罪であったと、後に担任の先生から説明があった。
離任式のシーズンがめぐってくるたびにこのシーンを思い
出す。たった一日の、しかも一刻の出来事が、人の心の奥深
くに生き続けることはありがたいことである。
第五校時
その一言
これもまた少年時代、遠い日の思い出である。だれにでも
苦難の人生があるものだが、それは教師の感化の大きさを痛
Ƚ
ȽȁIJĵIJȁȽ
Ƚ
たので、一所懸命勉強はしたと思う。高校に入るとさすがに
もので二十七年が経った。中学生のときから英語が好きだっ
退職して私立学校に移る等々と、紆余曲折はあったが、早い
とおもんばかって、私は何とも答えられなかった。
なものはないが︶くらい持っていないと話にならないだろう
の、飛ぶ鳥も落とす大学教授の前では英検﹁超弩﹂級︵そん
な顔﹂というのだろう。すでに英検一級は取得していたもの
だきたい。
先生は何気なく口にした言葉だと、ある著書の中で述懐し
ておられる。少し長くなるが、先生の記事を引用させていた
英語は難しく、これしか得意と呼べるものがなかったので頑
張ったが、何度となく挫折しそうになったことを思い出す。
そんな思いをしながらやっと滑り込むことができたのが、東
京 は 港 区 に あ る 私 立 K 大 学 文 学 部 で あ っ た。 定 員 六 〇 〇 人
のところ、その年は六一二人が合格していた。当時は、嘘か
先 日、 埼 玉 県 の 中 学 校 で 英 語 教 師 を し て い る O 君 が
研究室を訪ねてきた。しばらく話しているうちに、私は
誠か、入試の個人成績が出身高校に返ってきていたらしいの
だが、担任から茶飲み話に暴露された私の結果は正規合格者
怪訝な顔をして、何とも答えなかった。英語教師に、唐
突に﹁英語ができるか。﹂と聞いたのだから、何のこと
﹁君は英語ができるのですか。
﹂と聞いてしまった。彼は
だかわからず、何も言えなかったのは無理もない。ずい
六一二人中六〇二位だったということを、そのときの衝撃と
文優の諸君、安心したまえ。たとえそうであったとしても、
ともに今でも忘れることができない。現在私のクラスにいる
私は君たちには正直に大学入試の順位など耳打ちしたりなど
ぶん失礼なことをしたものだ。私は、彼が学生時代優秀
この記事は、コミュニケーション能力についての導入とし
て書かれたものである。専門的には、﹁談話における背景的
であった。
は、あまりにも簡単で、私の真意をつかめなかったよう
言うつもりで聞いたのであるが、
﹁英語ができるか。
﹂で
て、ALT と話し合えるだけの運用力をつけたか。
﹂と
か 勉 強 す る 時 間 が な い だ ろ う が、 卒 業 後 も 勉 強 を 続 け
であったようなので、﹁中学校の教育現場では、なかな
しませんから。
大学で四年間、徹底的に英語を鍛え直された後、青年教師
として埼玉県内の公立中学校に赴任することになった。そし
て、十年目に転機を迎えた。
私は、平成五年度の一年間、宇都宮大学の塩澤先生の研究
室で内地留学生︵長期研修教員︶として英語教育に関する勉
強をさせていただいた。
初めてお会いしたときの私に対する言葉を、今でも忘れら
れずにいる。それは、﹁大島君、君は英語はできるのかい。
﹂
というものだった。おそらく、そのときの私の表情を﹁怪訝
Ƚ
ȽȁIJĵijȁȽ
Ƚ
*﹁きのうは五時まで論文を書いていました。
﹂
*﹁英語教師はすらすら書物が読めなければならない。日
知識の欠如﹂という。
この貴重な一年間に、先生のおかげで大学時代の四年間よ
り勉強することができたうえに、それまでやったことのない
*︵財団法人語学教育研究所、俗に言う語研の理事長に就
*﹁欠点もあるが受験英語は立派な文化遺産だ。
﹂
任して︶﹁実をいうと僕は偉いんだ。﹂
常会話ぐらいで満足していてはいけない。﹂
ことにも挑戦できた。出版物への初めての執筆や翻訳、全国
英語教育学会へのパネリストとしての参加、国連英検やTO
てできないことに主体的にチャレンジすることができた。
EICの受験など、教育現場にいては毎日の仕事に忙殺され
これらの言葉が塩澤先生の本意ではないこともあると思う
が、どんなに私の気持ちをなごませ、励まし、勇気づけてく
る。一年間の内地留学という機会を与えられ、恩師と呼べる
れたことか。先生の一言ひと言が新鮮に感じられたものであ
*﹁もう大学には慣れたか。こちらの部屋は寒くないか。
﹂
先生が当時よくおっしゃっていた言葉に次のようなものが
ある。
すばらしい先生に出会うことができ幸せである。
に、勉強したことをまとめるようにしなさい。
﹂
テ ー マ は﹁ 世 界 に 届 け / 二 十 五 億 の 友 達 へ / 心 の 贈 り 物 ﹂
と決まった。
うことで、本の出版をすることになったのだという。
制七十周年を迎えるのを記念して、何か形に残るものをとい
七月上旬に、同会が市内に伝わる三つの民話を英語と中国
語に翻訳し、自費出版する計画がもちあがった。栃木市が市
市民のメンバー五十五人よりなる。
は、栃木市制五十五年の際に同市主催の海外研修に参加した
55
光栄にもその英訳を私が担当することになり、約一か月を
Ƚ
ȽȁIJĵĴȁȽ
Ƚ
*﹁ 読 ん で み た い 本 が あ っ た ら 言 い な さ い。 無 理 を せ ず
*﹁まず、英語そのものができなきゃなあ。
﹂
放課後の課外活動 海の向こうのパートナー
*﹁ふだん文章を書いていないんだから、まとまったもの
二〇〇六年、夏。栃木市には﹁スタディーツアー ︵ゴー
ゴ ー︶ 会 ﹂ と い う 名 称 の 民 間 国 際 交 流 団 体 が あ る。
﹁ 会﹂
を書くのはたいへんだろうな。
﹂
期間にできることは何でもやってみたほうがいい。
﹂
*﹁学校に勤めていると忙しくて暇がないんだから、この
苦労さま。
﹂
*︵研究授業の後で︶﹁どうだ、よくできたと思うか。ご
究を続けたり、この集まりも長く続けるには、気長にや
*﹁ゆっくりやりなさい。慌てることはなかろう。長く研
ることだね。
﹂
*﹁まあ、君ねえ。そういうのを誤訳というんだよ。
﹂
*﹁文化とは生まれてから身につけるものすべてをいう。
﹂
55
総合学習などでも
し た。 小 中 学 校 の
かけて三編を翻訳
救ったという話で、市内では広く語り継がれている。
けたところ、数年後に起きた大洪水でおぼれた人をナマズが
鯰 ﹂ は、 川 が 干 上 が っ て 泳 げ な く な っ た ナ マ ズ を 少 年 が 助
横 綱 に ち な む﹁ 綾 川 五 郎 次 の 力 石 ﹂ の 三 話。 特 に﹁ 巴 波 の
横綱の民話﹁綾川五郎次の力石﹂は﹁われに大力を与えたま
挿 絵 は ボ ラ ン テ ィ ア で 絵 心 の あ る 市 民 が 描 い た。 三 編 と
も時代背景や当時の着物、色などにも配慮。市出身の第二代
活用してもらえる
ように比較的平易
な訳をつけたつも
二〇〇六年、秋。
十 月 末、 地 域 の 民
標準図書コード︶を取得するとともに、東京都千代田区にあ
足を運んだりして描いた労作。この絵本は、ISBN︵国際
神社に午前二時ごろ出向いたり、人相なども東京・両国まで
りである。
話の二か国語訳が
る国立国会図書館に収集・保存されている。
今回は、市の﹁まちづくりファンド助成事業︵はじめの一
歩︶﹂の支援を受け、米・中の両市民に栃木市の民話を紹介
マさん、やってくれないか、という内容であった。自分が創
現在、動物を題材とした童話あるいは絵本のようなものを
構想中だが、日本語に訳してくれる人を探している。オーシ
Ƚ
ȽȁIJĵĵȁȽ
Ƚ
え﹂と五郎次が丑︵うし︶の刻まいりをしたとされる太平山
完 成 し、 三 編 を 収
ジーランドなどに住む友人たちにクリスマスの贈り物とし
二〇〇六年、冬。努力の結晶とも言える﹃栃木の民話﹄を
私はイギリス、カナダ、アメリカ、オーストラリア、ニュー
市内外の外国人
に、栃木市をもっとよく知ってもらおうという狙いで、翻訳
しようと、翻訳本の出版に取り組んだ。本では、日本語を合
う願いを持っているそうだ。すでにスペイン語では本が出て
作した物語をできるだけ多くの言語で読んでもらいたいとい
﹁巴波の鯰﹂﹁和光院の狐﹂と、第二代
取り上げた民話は、
わせた三か国語でストーリーがつづられている。
い。詩人本人からメールが届いた。
そのうちの一冊が偶然にも米国在住の小学校教師であり、
詩 人 で も あ る マ ー テ ィ・J ・ リ ー プ 氏 の 目 に と ま っ た ら し
て、延べ十冊ほど送付した。
﹁ 会﹂は、市国際交流協会の海外研修団員らが主要メン
バーで、定期的に、市の友好都市である米・エバンズビル市
や挿絵、印刷などはすべて市民有志が担った。
された。
録した絵本が出版
詩人マーティ・J・リープ氏と
や中国・金華市を訪問して、交流を続けている。
55
いるという。
勉強になるうえに、またとない機会なので、私はふたつ返
事で引き受けた。間もなく英文草稿と挿絵の一部が添付ファ
イルで送られてきた。
早 速 翻 訳 作 業 に 取 り か か っ た。 初 め て 訳 し た 二 十 ペ ー ジ
ほどのその文学作品に、私は半年近い日数を費やすこととな
る。大げさな表現だが生命を注ぎ込んでいた。
二〇〇七年、春。しかし、初体験の児童文学の翻訳は難航
を極めた。投げ出してしまいたくなったことは二度や三度で
はない。
そんなとき原作者のマーティ先生は﹁ルソーは税関吏だっ
た。ゴッホは牧師だった。ゴーギャンは株屋だった。みんな
はじめは素人だったのさ。
﹂と激励してくれるのであった。
コンピュータを通して一つ一つ確認しながらの作業なの
で、どうしても意思が伝わりにくいところが出てくる。しか
も、マーティ先生自身は日本語をほとんど理解しない。
どうせ作るならいいものを作りたいと考えた私は、三月末
に思い切ってアメリカへ飛んだ。西海岸ロサンゼルス近郊の
ロンポックという町で一週間を過ごし、マーティ先生と面会
し絵本の内容をとことん煮詰めた。
私が和訳した文章を、マーティ先生の目の前で再度英語に
訳し直して、微に入り細にわたって検討を加えつつ最終ペー
ジまでたどりつくことができた。
あとは挿絵がすべて完成するのを待つばかりとなった。帰
りの飛行機︵大韓航空︶では大好物のビビンバをうっかり食
べそこなうほどぐっすり眠りこけてしまった。
二 〇 〇 七 年、 夏。 八 月 十 四 日、 マ ー テ ィ 先 生 か ら 待 望 の
メールが届いた。内容は次のようなものである。
﹁ オ ー シ マ さ ん、 う れ し い お 知 ら せ で す。﹃ ウ ィ ン ス ト ン ﹄
がついにできあがったのです。こちらロンポックに在住で、
日本語と英語のバイリンガルの友人がいます。彼女はボラン
ティアで子どもたちに絵本の読み聞かせをしています。絵本
や童話について経験と知識が豊富な彼女に﹃私たちの﹄原稿
を見てもらったところ、いくつかサジェスチョンをくれたの
で、その点を修正してみました。日本での印刷および出版は
オーシマさんに一任します。辛抱強く待ってくれてありがと
う。マーティより。﹂
︵文と絵
本 邦 初 訳﹃ ウ ィ ン ス ト ン・ T・ マ ウ ス ﹄
マー
ティ・J ・リープ/翻訳
大島秀郎/編集
薫ノアー︶が日
の目を見るのも近いと思われる。乞う、御期待。
本稿は、教師生活の中で折りに触れて書きためてきた、私
自身の反省を含めた﹁メモ帳﹂をまとめたものである。
種々の理由から初めは躊躇したが、意を決して書かせてい
ただくことにした。先輩諸氏や友人の方々から、いろいろと
ご示唆をいただいたことに改めて感謝申し上げる。
︵外国語科︶
Ƚ
ȽȁIJĵĶȁȽ
Ƚ
架空授業
私の漢文講座︵冬期課外編︶
安
くち ま
ね
孝
昭
教師
それでは今日から、冬休みの課外を始めます。今日は
十二月二十五日。昨夜はクリスマス・イブということで、皆
てきますから、安心してください。みんなが持っているテキ
い。口真似をして音で覚えてください。意味はその後で付い
か い い で す ね。 訓 読 の 学 習 は ま ず 口 真 似 か ら 入 っ て く だ さ
さんはケーキを食べたわけでしょうから、景気よく漢文の課
ス ト で は、 漢 字 だ け の 白 文 の 左 脇 に、 書 き 下 し 文 が 印 刷 さ
この課外は四日間行なわれます。漢文の授業は毎日一コマ
ずつあります。予定を言っておけば、第一日目の今日は訓読
さい。つっかえたら、書き下し文をチラッと見てもいいです
み方が分かったら、白文を見て声に出して訓読してみてくだ
れていますね。最初はそれを見て読んで大いにけっこう。読
外を始めることにしましょう。
の練習を行ないます。二日目は漢文の書物のこと。三日目は
生徒A君
﹁ え え? ど こ の 国 の 言 葉 か っ て、 こ れ は 日 本 語
じゃないのですか。﹂
きんぶん
よ。読めるようになればいいのですから。スラスラ読めるよ
こうこつ
うになるまで、書き下し文を何度見てもいいです。
中央アジア探検のこと。そして四日目は甲骨・金文文字のこ
と。それでは、第一日目を始めます。
みんなに配布してある﹁国語の力を付ける本﹂の九○ペー
ジを開いてください。
﹁
﹃論語﹄を読む﹂というページになっ
教師
ご 名 答。 ま さ に 日 本 語 で す ね。 た だ、 現 在 の 言 葉 で
はなく、平安時代あたりの文語文法にのっとった古文の文章
ところでA君、この書き下し文そのものは、言葉としては
どこの国の言葉ですか。
て い ま す ね。 さ あ、 読 み ま し ょ う。 私 の 真 似 を し て く だ さ
ですけれどもね。れっきとした日本語です。古文の文章なの
第一日目
漢文の訓読について
い。﹁子曰く﹂ハイ!︵生徒たち︶﹁シ、イワク﹂。
﹁学びて時
だから、
﹁テニヲハ﹂や﹁ぞ・なむ・や・か・こそ﹂の助詞、
ね
に之を習ふ﹂
、
﹁マナビテトキニ、コレヲナロー﹂。
﹁亦た説ば
ま
しからずや﹂、﹁マタ、ヨロコバシカラズヤ﹂。おお、なかな
Ƚ
ȽȁIJĵķȁȽ
Ƚ
ろはありません。対句や四字・六字の文字構成の関係もあっ
ていけば、十分に中身も分かってくるはず。何ら難しいとこ
そ れ に﹁ べ か ら ず・ な り・ た り・ む ﹂ な ど の 助 動 詞 を 覚 え
こ に は﹁ 論 語 ﹂ の
い て く だ さ い。 こ
三十二ページを開
さ い。 こ ち ら の
み方なのですから。この訓読法をみんなは、大いに自分のも
中国の書き言葉の文章を、一気に日本語に翻訳してしまう読
れた読み方なのです。大変すごい発明でした。外国語である
こ の 訓 読 法 は、 我 々 の 先 輩 に 当 た る 奈 良・ 平 安 時 代 や 鎌
倉・室町時代頃の学者やお坊さん達などが工夫し発明してく
のような本で読ん
た。 昔 の 人 は、 こ
を載せておきまし
まコピーしたもの
ページをそのま
もともとの本の
て、とても調子よく読んでいけるようになっています。
のとしてマスターしていきたいものです。
ち な み に、 日 本 以 外 の 外 国 の 人 達 は ど の よ う に 中 国 の 古
典を読んでいるのかというと、漢字の中国音で読んでいるの
の切れ目のところに句点の﹁。
﹂が付いていますね。これが
文 で は な く て、 文
は全くの白文の漢
Ƚ
ȽȁIJĵĸȁȽ
Ƚ
だ の で す。 こ の 本
です。同時に、古代中国語としての文法も覚えながら意味を
生徒B君
﹁ 先 生、 大 き い 字 と 小 さ い 字 と が 混 ざ っ て 書 い て
ありますが、これは何なのですか﹂
あるだけでぐっと読みやすくなっています。
取っていっているのです。この﹁論語﹂の冒頭ならば、子曰
︵ズー・ユエー︶、学而時習之︵シュエ・アル・シー・シー・
ジー︶、不亦説乎︵プー・イ・ユエ・フー︶となります。実
際は日本語のカタカナの音とは微妙に違い、また四声として
の声調が付随して発音されます。それが一種独特の節回しに
ろ ん ご
教師
おお、いい質問だね。大きい字が﹁論語﹂のもともと
の本文、小さい字はその本文に対する注釈としての文です。
か あ ん
なり、中国語としての味わいになっているのですが、活字で
現にあるのだから、みんなもこういうもので一度は漢文を読
ですが、それを複製したもののコピーです。こういうものが
並びでしょう。原本は台湾の故宮博物院に所蔵されているの
集解﹂という注釈書です。しっかりした字体で、きれいな字
しつかい
こ の 本 は 魏 と い う 時 代 の 何 晏 と い う 人 が 注 を 施 し た﹁ 論 語
さ て、﹁ 使 う と 役 立 つ 漢 文 の 資 料 集 ﹂ を 出 し て み て く だ
エー﹂、﹁シュエ・アル・シー・シー・ジー﹂⋮⋮⋮。
み ん な も 真 似 を し て 読 ん で み ま し ょ う。 私 の 後 に 付 い て
声を出してみてください。﹁ズー・ユエー﹂生徒﹁ズー・ユ
はうまく表現できないのが残念ですね。
自主教材「漢文の資料集」と「国語の力を付ける本」
んでみましょう。これも漢文を読む時の味わいの一つです。
ああ、もうチャイムが鳴ってしまいましたね。それでは今日
はこの辺で終わりとしましょう。明日は、漢文の本について
勉強しましょう。
第二日目
中国の書物について
教師
では始めましょう。最初は調子を出すために声を出し
てみましょう。以前、授業でやった﹁春暁﹂を暗唱してみま
しょう。﹁春眠暁を覚えず﹂ハイ!
Ƚ
ȽȁIJĵĹȁȽ
Ƚ
生徒達﹁シュンミン、暁ヲオボエズ ﹂ 教師﹁処処
啼鳥を
聞く﹂ 生徒達﹁ショショ テイチョウヲ聞ク ﹂ 教師﹁夜来
風雨の声﹂ 生徒達﹁ヤライフウウノコエ﹂ 教師﹁花落つ
ること知る 多少﹂ 生徒達﹁花オツルコトシル タショウ﹂。
教師
いいですね。それでは自分でもう一度声を出してごら
ん。 ハ イ ッ!
生 徒 達﹁ 春 眠 暁 ヲ ⋮⋮⋮、 処 処 ⋮⋮⋮ 聞 ク、
⋮⋮⋮風雨ノ⋮⋮⋮、花⋮⋮⋮多少﹂。
教 師 さ て 今 日 は こ れ を 回 し て あ げ ま す。︵ と 言 い な が ら、
何 や ら 箱 の よ う な も の を 取 り 出 す ︶ さ あ 何 で し ょ う。 こ れ
が和綴じの本です。昨日見た﹃論語﹄の影印本のもとの本で
す。と言っても、もちろん複製本ですけれども。このように
チツ
皮のようなものにくるまれて入っているのですが、この皮の
センソウボン
ようなものを﹁帙﹂といいます。カバーです。本そのものは
セイソウボン
糸 で 綴 じ ら れ て い ま す。 そ の こ と か ら﹁ 線 装 本 ﹂ と 呼 び ま
す。反対にハードカバーの本のことを﹁精装本﹂、薄い表紙
本の装丁あれこれ(橋口侯之介『和本入門』
[平凡社]より)
の本は﹁平装本﹂と呼んでいます。
﹁資料集﹂を出してみて
まうでしょう。
に 彫 ら な け れ ば つ い 力 が 入 り す ぎ て、 彫 り 誤 っ た り し て し
ヘイソウボン
ください。十六ページを開きます。
﹁本の装丁あれこれ﹂と
版木を彫るのには専門の職人さん達がたくさんいたらし
い の で す。 皆 さ ん 相 当 に 腕 が よ か っ た ら し い で す。 画 家 な
し て、 い ろ い ろ 載 っ て い ま す ね。 古 い 時 代 に あ っ て 本 は ど
ど の 芸 術 家 と は 違 っ て、 歴 史 上 に 名 前 を 残 し て い る よ う な
ショウホン
うやって作られたかというと、手書きで写すか印刷するかで
シャホン
す。手書きの本のことを﹁写本﹂、または﹁鈔本﹂といいま
有名な彫り師こそいませんが、それでも版面の中に、自分の
コクホン
す。印刷したものを﹁刻本﹂といいます。刻本は二種類あっ
名 前 を 残 し て い る 職 人 さ ん 達 も い た よ う で す。 版 面 中 心 の
ハイジボン
たことの手間賃を請求する際の証拠にしたらしいのです。
ハンシン
て、版画のように版木に文字を刻んで印刷したものと、活字
﹁版心﹂と呼ばれている細い縦型の部分の下の方に、その名
ハ ン ギ
を組んで印刷したものとがあります。版木に刻して刷ったも
前がちょこっと彫られてあったりします。これは後で、彫っ
いは﹁排印本﹂といいます。
ハイインボン
モクハンボン
のを﹁木版本﹂
、活字を組んで刷ったものを﹁排字本﹂、ある
味わいあるものです。
い漢籍は、一つの文化遺産と呼んでもいいかもしれません。
それにしてもこの版面の美しさ、字の形の美しさ、バラン
ス。見事ではありませんか。このように美しい版面を持つ古
わけですね。ところで想像してみてください。版画の場合、
木版本の場合は、誰か字の上手な人に本文をきれいに書い
てもらい、それを版木に裏返しに貼り、版画の要領で彫った
彫刻刀で彫った部分は、黒と白、どちらになるのでしたか?。
Cさん、どちらでしたっけ。
生徒D君
﹁ええ!三大発明ですか。ええと、⋮⋮分かりま
せん﹂
。
と こ ろ で D 君、 中 国 史 に お け る﹁ 三 大 発 明 ﹂ と は 何 で し
たっけ。
教師
そうですね、インクや墨が付かないのですから、白く
な り ま す ね。 で は、 漢 文 の 本 の 場 合、 文 字 の 形 が 黒 く 刷 ら
生徒Cさん
﹂
﹁はい、彫った部分は白くなります。
れ る と い う こ と は、 何 を 意 味 し て い る の で し ょ う か。 文 字
教師
もう一つは、何でしたっけ。
生徒E君 ﹁えーと、えーと、⋮⋮﹂。
生徒F君 ﹁先生、それは印刷術じゃありませんか!﹂
。
教師
E君、どうですか?。
生徒E君
﹁ た し か、 羅 針 盤 と 火 薬 の 発 明 と、 そ れ か ら
⋮⋮﹂
。
の 輪 郭 が 現 れ る よ う に、 周 り の 部 分 を す べ て 彫 っ て し ま う
わ け で す よ ね。 漢 字 と し て の 文 字 の 形 を 残 し て、 周 り を す
べ て 彫 っ て し ま う わ け な の で す。 広 い 部 分 な ら ば 彫 る の は
楽 で し ょ う が、 漢 字 の 画 数 が 込 み 入 っ て い る 部 分 な ど は ど
う し た の で し ょ う か。 彫 刻 刀 の 先 端 に 神 経 を 集 中 し、 慎 重
Ƚ
ȽȁIJĵĺȁȽ
Ƚ
教師
そうです。三つ目の発明が印刷術なのです。活版印刷
術としての発明なのです。活版印刷術の発明というと、みな
さんは誰を思い浮かべますか。Hさん、どうですか?
か ら、 見 て く だ さ い。 こ の 本 そ の も の は 清 の 時 代 の も の で
こうしょ
す。 北 宋 時 代 の も の だ っ た ら す ご い で す け れ ど も ね。 扉 の
十 二 年 後、 日 露 戦 争 か ら 二 年 後 の こ と で す。 清 国 は 五 年 後
裏に﹁光緒三十二年丙午
夏四月﹂と書いてあります。光緒
三 十 二 年 は 西 暦 一 九 ○ 六 年 に あ た り、 日 本 で は 明 治 三 十 九
の 一 九 一 一 年、 辛 亥 革 命 で 滅 び て し ま い ま す。 清 の 時 代 の
む けい
しんがいかくめい
も、 そ の 最 後
本だと言って
年 に あ た り ま す。 今 か ら 百 二 年 前 で す ね。 日 清 戦 争 か ら
教師
お お、 さ す が は H さ ん、 い い 記 憶 力 で す ね。 そ う で
し ょ う ね、 グ ー テ ン ベ ル グ で し ょ う。 で す が、 グ ー テ ン ベ
生徒Hさん
﹁グーテンベルグですか﹂。
ルグが世界で最初に活版印刷を発明した人物ではないのです
よ。グーテンベルグが活版印刷術を発明して﹁四十二行聖書﹂
などを印刷した年は、西暦一四四五年とされています。とこ
シンカツ
ろがそれよりも三九五年も前に、中国で活版印刷術が始めら
ひつだん
筆 談 ﹄ と い う 書 物 が あ り ま す。 こ の 本 に よ る と、 同 じ 北 宋
の頃の本なの
で す。 百 年 前
の本ですから
国宝級のよう
な値打ちはあ
り ま せ ん。 値
本 は、 先 ほ ど
打ちのある
ちょっと言い
ました宋の時
代 の 本 で す。
﹁宋本 ソ( ウホ
ン ﹂と
) かいっ
て、 も て は や
さ れ ま す。 な
Ƚ
ȽȁIJĶıȁȽ
Ƚ
れていたのですよ。北宋時代の沈括という人が著した﹃夢溪
カショウ
が、粘土で漢字をかたどった活字を拵え、それを用いて印刷
こしら
時代に畢昇という者がいて、この男は版刻職人だったのです
けいれき
したというのです。年代でいうと西暦一○四一年∼一○四八
年の慶暦年間とのことです。
字 が 登 場 し た と い う の で す。 す ご い こ と で は あ り ま せ ん か。
材料にし
その後、印刷術は発展し、続く南宋時代には木すを
ず
た活字が作られ、なんと南宋の末期には金属の錫で作った活
ヨーロッパよりずっと進んでいたのです。ちなみに、グーテ
ンベルグが活版印刷を始めた一四四五年は、中国ではもう明
の時代になっているのです。
かしょう
ここでみなさんに﹃夢溪筆談﹄の本を回しましょう。畢昇
の活版印刷のことが書かれているページを開いておきました
「史記」の影印版 百納本二十四史「史記」廉頗藺相如列傳
ぜかというと、印刷がきれいなのです。ここにその複写版で
すっぽり入るぐらいの長さがありますよ。試しにタクラマカ
てタリム盆地のタクラマカン砂漠。広いですね。日本列島が
始まります。敦煌の隣に玉門関、更に西へ進めば楼蘭、そし
ろうらん
すが﹃史記﹄の本を回しましょう。
﹁百納本二十四史﹂とい
ン砂漠の西の端、カシュガルという町に鉛筆の端を当て、敦
ぎょくもんかん
うものの中の一つです。もともとは﹁宋慶元黄善夫刊本﹂と
煌までの長さを取ってみてください。その長さをそのまま日
ソウケイゲンコウゼンフカンポン
ヒャクノウホン ニ ジ ュ ウ シ シ
呼ばれているものです。南宋の慶元という年号の時代に、福
本地図に当てはめてみてください。北海道を除いた本州・四
けいげん
建 の 黄 善 夫 と い う 人 物 が、 自 分 の 家 で 開 い て い た 塾 で 使 う
国・九州がすっぽり入っちゃいますよ。その広さが何となく
こ う ぜ ん ふ
教科書として印刷したものなのです。とにかく、風格がある
てんしゃん
堂々としたきれいな書体です。見てみなさい。
実感できますね。
アジアの草原で﹂という曲を思い起こします。行ったことも
授業の時にレコードで聞かせてくれた、ボロディンの﹁中央
中 央 ア ジ ア と 聞 く と、 皆 さ ん は ど ん な こ と を 連 想 し ま す
か。私の場合は小学校の高学年の時に、担任の先生が音楽の
もない、内陸の湖として孤立します。そしてその湖の周囲に
地面が隆起しヒマラヤ山脈やチベット高原が生まれたのにと
昔はここは海で、インド大陸がユーラシア大陸にぶつかり、
地です。ここが﹁中央アジア﹂と呼ばれる地域なのです。大
三日目
中央アジアの探検について
ない中央アジアなど、地図の上でどこにあるのかさえも分か
人間が定住するようになり、文明が開けていったらしいので
カン砂漠、もしくはタリム盆地は、北は天山
このタクラくマ
んるん
山脈、南は崑崙山脈、西はパミール高原に囲まれた広大な盆
らず、﹁草原﹂とあるから、ただただ広い緑の草原が広がっ
す。ところが、内陸ですのでだんだんと乾燥化が進み、とう
ない場所でもないのです。ヒマラヤや天山山脈の頂上付近に
とう干涸らびてしまい、人間が住むのが難しくなり、打ち棄
つもった万年雪が地下水としてしみ込み、それがオアシスと
ているところなのだろうな、というぐらいのことしか想像で
﹁漢文﹂と﹁中央アジア﹂とが何の関係があるのか、と質
問があるかもしれません。中央アジアというのが、どの辺に
して湧きだし、そこに人間の生存が可能なのです。
きませんでした。
あるか分かりますか。﹁国語便覧﹂の唐代地図を開いてくだ
てられてしまった地域らしいのです。でも、全く人間が住め
さ い。 唐 の 都 で あ っ た 長 安 を 見 つ け て く だ さ い。 見 つ か り
ま し た か?。 そ こ か ら 北 西 の 方 へ 斜 め に 進 ん で み て く だ さ
古来この地域は、﹁文明の十字路﹂と呼ばれるぐらいに民
族 や 文 化 や 宗 教 が 行 き 交 っ た 地 域 な の で す。 漢 文 で 扱 っ て
かくよくかん
いる地理的範囲は、ユーラシア大陸の東の端に位置している
とんこう
らんしゅう
て﹁ 敦 煌 ﹂ が あ り ま せ ん か。 こ こ ら 辺 り か ら 中 央 ア ジ ア が
い。 蘭 州 と い う 町 が あ り ま す ね。 更 に 進 ん で 嘉 峪 関、 そ し
Ƚ
ȽȁIJĶIJȁȽ
Ƚ
﹁東アジア﹂と呼ばれる地域です。現在の国の名前でいえば
み、康煕・雍正・乾隆などの名君が登場し、領土は拡大しま
長城を越え、中国を占領したのです。占領はまたたく間に進
した。それが十七世紀の中頃、明末の混乱に乗じて、万里の
けんりゅう
中華人民共和国が位置している地域です。ですが、普通言う
した。北のモンゴル、西のチベット、そしてずっと西のジュ
ようせい
ところの﹁漢文﹂の舞台は、その中華人民共和国の国土のさ
ンガルなどの地域も、藩部ということで領土に組み入れまし
などは、異民族の地域として﹁漢文﹂の世界からははずされ
事実も知っておくとよいでしょう。なぜなら、それも中国の
このように﹁漢文﹂とは言いますが、中国本土で国を建て
た人々は漢民族だけとは限らないのです。このような歴史的
ますが、漢民族ではなく女真族、あるいは満州族が建てた国
た。現在の中華人民共和国の領土とだいたい同じくらいの広
こ う き
らに東半分くらいの地域、古来﹁中原﹂と呼ばれていた地域
ちゅうげん
なのです。
さを獲得したのです。ですから清という国は、もう一度言い
は ん ぶ
生徒T君
﹁先生、質問があります。現在の中国の全部が漢
文の教科書で扱っている範囲とは違うのですか。
﹂
なのです。漢民族から見れば、異民族が建てた国なのです。
しんきょうういぐる
教師
そこなのです。なぜ現在の中国が﹁漢文﹂の世界その
ものでないのかというと、中国の北の内モンゴル自治区や西
ていた地域なのです。ところが、この異民族の地域が中国の
姿の一つだったからなのですから。
南のチベット自治区、そして西に位置する新疆維吾爾自治区
歴史と大きな関わりを持っている地域なのです。この周辺地
域の動向が、中国本土の歴史の流れを変えてしまうぐらいに
﹁漢文﹂という言葉を聞いて、あるいは﹁漢文﹂を通して
中国という姿を思い描いた時、皆さんはどのようなことを想
約百年に近い期間、中国は﹁元﹂ということでモンゴル民族
は日本に入って来ない。入ってくるのは漢文の本を通したも
れは江戸幕府の鎖国政策の影響もあって、中国の情報が多く
な人がたくさん住んでいると思ったようです。ところが、そ
てい
の国だったのです。決して漢民族が治めていた国だったので
のぐらい。その漢文の本は、中国において正統的な物の考え
けつ
はありません。
﹁清﹂もそうです。日清戦争ということで日本
方であった儒教思想にもとづいた内容であるので、おのずと
きょうど
像しますか。江戸時代の儒学者達は、聖人君子の国というよ
が戦った清という国ですが、清も漢民族が治めていた国では
理想化された中国の姿が描かれています。儒教の物の考え方
せ ん ぴ
大きな力を持っていたのです。鮮卑や匈奴、そして羯・氐・
うに思い描いたようです。立派な皇帝がいて、人格的に高潔
なかったのです。清は、もともと万里の長城の北側に住んで
の中には、時代が古い時代に遡れば遡るほど、立派な国が存
きょう
時代。モンゴルも然り。西暦一二七一年∼一三六八年までの
羌などと呼ばれる異民族の侵入により分裂した五胡十六国の
いた女真族が建てた国で、十二世紀に存在していた﹁金﹂と
じょしんぞく
いう国の後を継ぐ者としての意味で﹁後金﹂と名乗っていま
Ƚ
ȽȁIJĶijȁȽ
Ƚ
在 し て い た と い う も の が あ る の で、 古 い 時 代 に こ そ 理 想 的
な素晴らしい社会があったのだと思いこまれていました。そ
のような傾向を持った儒教の本を読めば、日本の儒学者たち
が、中国は﹁聖人君子の国﹂だと思い込んでしまったのも、
ことに着目し、﹁絹の道 ド
( イツ語ではザイデン・シュトラー
セン ﹂)と名付けたのです。シルクロードとはザイデン・シュ
トラーセンの英語訳なわけです。
シルクロードは三つあったと言ったら、皆さんは驚きます
か。これは世界史の授業を受けている人にとっては﹁常識﹂
史に目を向けた時、中国の周辺部に位置していた異民族が重
的な思想ばかりでなく、歴史にも目を向けましょう。その歴
﹁ 漢 文 ﹂ は 奥 が 深 い、 漢 文 を 生 ん だ 中 国 は 素 晴
無条件に、
らしい、などと感激していても始まりません。文学や人生訓
は な ぜ シ ル ク ロ ー ド は 重 要 な の で し ょ う か。 そ の 事 を 説 明
上ルート﹂です。よくいう﹁海のシルクロード﹂ですね。で
インド・東南アジアを経て中国の華南地方にたどり着く﹁海
たどる﹁オアシスルート﹂、そして三つめがペルシア湾から
テップロード﹂
、二つめが内陸の砂漠に点在したオアシスを
無理からぬことだったでしょう。
要な役割を演じているのです。その一つが、
﹁シルクロード﹂
ですよね。それで、その一つめは北の草原地帯をたどる﹁ス
と呼ばれる中央アジアを舞台にした交易と民族興亡の姿なの
したプリントを用意しました。長年シルクロードの研究に携
﹁第一にシルクロードはユーラシア大陸の動脈であり、い
わゆる世界史の展開の主軸であったことである。ユーラシア
わってこられている長澤和俊氏 現
( 、早稲田大学文学部教授 )
の著書﹃シルクロード﹄ 講
( 談社学術文庫 か
) らの一節です。
ちょっと長いですが、読んでみます。
ながさわかずとし
です。
ード﹂といってもその歴史は古いようで
一口に﹁シルクさロ
いもん
で ん ぱ
す。色の付いた彩文土器の伝播やコータンというところで採
れる玉 ぎ
( ょく を
) 中原地域の古代中国が輸入していたこと
などから、紀元前の太古の昔から交流は行なわれていたと言
地理学者、リヒトホーフェンという人によって名付けられま
﹁シルクロード﹂という名前がどのようにして
と こ ろ で、
付けられたかは、地理の授業で習っていますよね。ドイツの
てきた。この動脈上でダレイオス大王、アレクサンドロス大
り立っている。それらを結びつけ、互いに関連させながら発
イラン、イラク、シリア、トルコなどいくつかの地域から成
ト、パミール高原、ロシアトルキスタン、アフガニスタン、
大 陸 は、 モ ン ゴ リ ア、 タ リ ム 盆 地、 ジ ュ ン ガ リ ア、 チ ベ ッ
した。この人は十九世紀の後半に中国各地を歩き回って調査
王、漢の武帝、唐の太宗、ササン朝の諸王、イスラムのカリ
われます。
し、
﹃ヒナ チ
( ャイナ ﹄)という報告書を著します。その中で、
東西交通の歴史を眺めた時に、中国と西トルキスタン、及び
展するものとして、シルクロードは動脈のような働きを示し
北西インドとの貿易が、
﹁絹﹂を媒介にして行なわれている
Ƚ
ȽȁIJĶĴȁȽ
Ƚ
周辺地域からユーラシア大陸各地の歴史を大きく動かしたの
を ま き 起 こ し た。 彼 ら の 活 躍 は 内 陸 ア ジ ア の 歴 史 を 形 成 し 、
フ、チンギス・ハンとその子孫、チムールらが、幾多の事件
が人類史上もっとも重要視されているのはこの点であり、こ
けながらも、各地の文化を向上・発展させた。シルクロード
によって東西南北各地に伝えられ、さまざまな文化変容を受
あった。シルクロード上の各地に現れた文化は、キャラバン
河 文 明 な ど、 多 く
生徒Sさん﹁えぇ!?、私がですか?﹂
教師
次はみんなに読んでもらいましょう。Sさん、読んで
ください。
の架橋であったためである。﹂
の道が多くの人に注目されているのは、これが東西文化交流
である。
第 二 に シ ル ク ロ ー ド は、 世 界 の 主 要 な 文 化 の 母 胎 で あ っ
た。とくにその末端部には、メソポタミア文明、エジプト文
明、ホラズム文明、
の古代文明が開花
教師 あ な た の 読 み は、 落 ち 着 い て い ま す か ら。 ハ イ、 ど
うぞ。
[人と物の交流]
生徒Sさんの朗読
れ、 こ れ ら は 各 地
トラス教などが現
いうと狭義にはオアシス路をさす場合が多い。とくにふつう
中央アジアを横断するオアシス路で、一般にシルクロードと
前述した三つの道は、シルクロードの幹線としてそれぞれ
重要だが、その中でも世界の文化史上、もっとも重要なのは
おうかん
Ƚ
ȽȁIJĶĵȁȽ
Ƚ
イ ン ダ ス 文 明、 黄
し、 そ の 後 の 世 界
文明の母胎となっ
キ リ ス ト 教、 ゾ ロ
た。 ま た 宗 教 で は
アスター教、仏教、
の人類文化に大き
シルクロードというと、中央アジアを中心に中継貿易を行っ
イ ス ラ ム 教、 ミ
な影響を与えたの
て い た 隊 商 た ち の 交 易 路 を さ す。 シ ル ク ロ ー ド の 主 要 な 機
交易に付随して起こった現象である。またその隊商も長安か
能は、
﹁交易﹂であって、いわゆる文化交流や宗教の伝来は、
らローマまで一つの隊が往還したのでなく、一隊商の交易範
である。
そ し て 第 三 に、
シルクロードは
かけはし
東西文化の架橋で
シルクロード図(
「新詳世界史図説」
[浜島書店]より)
囲は多くは自分たちの言語の通じうる地域内に限られ、いく
つかの中継交易をへて、絹や宝石、金属器などの交易品が東
西に流伝したのであった。
こ う し て 東 西 文 化 の 架 橋 と し て の シ ル ク ロ ー ド を、 太 古
以 来、 多 く の 人 と 物 が、 あ る い は 東 西 に、 あ る い は 南 北 に
移動した。その歴史はまことに複雑であり、かつ雄大で、人
教師
はい、どうもありがとう。
分かりやすくまとめられている文章です。シルクロードを
知ることの意義が何となく分かってきたでしょう。長澤氏の
文章の最後にありましたが、﹁われわれに無限の興味をもた
せる﹂からでしょうか、シルクロードに関心を持っている人
ラ ク ダ が 東 西 に 運 び、 各 地 の 遺 跡 か ら 出 土 し た 遺 物 は、 ふ
してナレーターは若き日の石坂浩二氏。最近再放送したのを
き起こったのです。テーマソングは喜多郎氏のオカリナ、そ
も う 二 十 七、八 年 も 前 に な り ま す が、 N H K が 西 安 か ら
ローマまでのシルクロードを自動車で踏査する番組を放映し
が日本には相当多くいらっしゃるようです。
しぎに可憐で美しいものが多い。ローラン 楼
や
(蘭
) ノイン・
かんきん
ぎょく
ウ ラ、 パ ル ミ ラ 出 土 の 漢 錦、 中 国 各 地 出 土 の 玉 製 品、 そ の
DVDに録画しました。それを見返してみると、一つ一つの
類 史 の す み ず み に ま で 行 き わ た っ て い る。 こ の 道 を 通 っ て
ほかローマン・グラス、イランの銀器やガラス器、ガンダー
場面がとても貴重な映像であることが分かります。オープニ
そううん
げんじょう
ご く う
のも、シルクロードというと砂漠のイメージがありますが、
が横切っていくシーンですが、これは衝撃的でした。という
ました。これが火付け役となり、シルクロード・ブームが巻
ラ 美 術、 中 国 の 鏡 や 陶 器、 イ ス ラ ム 陶 器、 ペ ル シ ア の 絨 毯
ングは、白く輝く銀嶺を背景に、雪の中をヤクのキャラバン
か れ ん
な ど、 そ れ ら の 多 く は、 は か な く も 繊 細 華 麗 な 歴 史 と 文 化
じゅうたん
の残照である。
ほっけん
が 往 還 し た。 古 来、 シ
そ し て ま た こ の 道 は、 多 く の 旅ぐ人
ほ う そ う
ル ク ロ ー ド 上 を 往 来 し た 官 吏、 求 法 僧、 商 人 な ど は き わ め
かんえい
雪を戴くパミール高原などの六千∼七千メートル級の山が
ちょうけん
て多いが、今日では張騫、甘英、法顕、宋雲、玄奘、悟空、
連なった、世界の屋根と呼ばれたりしている難所もまた﹁シ
て い る 姿 な ど に は、 思 わ ず 遠 い 昔 の 懐 か し さ を 感 じ て し ま
とった若い女性達が、高原の澄んだ空気の中で軽やかに舞っ
ちょうしゅん し ん じ ん
かに旅行記を残した人々の名が残っているにすぎない。しか
や り つ そ ざ い
し実際には、このほか多くの商人、遊牧民、工匠、兵士、宗
います。
﹁ああ、こういう所にも人々の生活の営みがあるの
えちょう
ル ク ロ ー ド ﹂ な の で す。 さ ら に、 色 鮮 や か な 民 族 衣 装 を ま
教家、難民、捕虜らが往来し、それらの人々にはそれぞれ多
だなあ﹂と。この人達がどのような生活をし、どんなことを
ちんせい
ポーロ、オドリコ、イブン・バットゥータ、陳誠など、わず
慧 超、耶 律 楚 材 、 長 春 真 人 、 カ ル ピ ニ 、 ル ブ ル ク 、 マ ル コ ・
様なドラマがあり、われわれに無限の興味をもたせるのであ
考え、何に価値をおいて生きているのか。何に幸せを見いだ
ほ り ょ
る。﹂
Ƚ
ȽȁIJĶĶȁȽ
Ƚ
いって、彼らの生活が自動車を利用している我々よりも劣っ
いてきます。彼らが馬やラクダに乗って生活しているからと
し、どんな一生を送るのか。知ってみたいものだと興味が湧
その事はとりもなおさず、シルクロードが中国を通り、東の
方、ペルシャ方面の文物が数多く収められているからです。
端の宝物庫﹂などと言われたりします。それは、遠く西の彼
寺にある正倉院です。この正倉院は、﹁シルクロードの最東
跡やそこで暮らす人々の生活ぶりを紹介しています。これも
放送されました。タクラマカン砂漠に点在するオアシスの遺
N H K の﹁ シ ル ク ロ ー ド ﹂ が 出 た つ い で に 言 え ば、﹁ 新・
シルクロード﹂として最近のシルクロードを紹介する番組が
なのです。
ようなこともあって、シルクロードに目を向けて欲しいわけ
ドはけっこう大事な領域を占めていると言えそうです。その
ます。ですから日本の文化や歴史を考える上で、シルクロー
海に浮かぶ島国の日本にまで繋がっていたことを証明してい
ているとは決して言えないでしようから。
よい内容です。楼蘭、敦煌、トルファン、青海、カラホト、
さて、中央アジアを通るシルクロードは、だいたい紀元前
二世紀頃から十二世紀頃まで栄えていました。その後、気候
カ シ ュ ガ ル な ど が 登 場 し ま す。 そ し て さ ら に 第 三 集 と し て 、
い、住む人もなくなり、とうとう砂漠の砂に呑み込まれてし
に大いに貢献したのが、探検家達の活躍だったのです。
光を浴び、世界の注目を集めるようになりました。そのこと
変動か何かの原因で、オアシスの町々が打ち棄てられてしま
シルクロードに点在する各民族に焦点を当てた番組が﹁新・
まい、埋もれてしまいました。それが十九世紀の末頃から脚
]
シルクロード
激動の大地を行く﹂として昨年は放送されて
いました。これもいろいろ考えさせられることの多い番組で
キ
[ ーンコーン・カーンコーン
す。見た人もいるのではないでしょうか。
あれ、もう時間ですか?。もっと話したいことがあるのだ
がなあー。
十 九 世 紀 の 末 頃、 世 界 で は﹁ グ レ ー ト・ ゲ ー ム ﹂ と い う
競争が行なわれていました。どのようなゲームだか説明でき
ますか。世界史の授業で教わってはいませんか。これは国同
をとり、イギリスも植民地にしていたインドを足がかりにし
大英帝国です。ロシアは中央アジア方面へ積極的に南下政策
四日目
中央アジアの探検について
その二
皆さんこんにちは。さて、予定では今日は甲骨文字や金文
のことを学習するわけですが、中央アジアのことで話してお
士の勢力圏拡大競争です。争ったのはロシア帝国とイギリス
きたいことがもうちょっとありますので、今日もその話をす
て、北への領土拡大を狙っていたのです。
ヨ ー ロ ッ パ か ら す る と こ の 地 域 は、 そ れ ま で 未 知 の 内 陸
ることにします。
さて、﹁正倉院﹂を皆さんは知っていますね。奈良の東大
Ƚ
ȽȁIJĶķȁȽ
Ƚ
くんるん
にわたって中央アジアを踏破した彼の調査︵一八九四∼一九
に西北科学考察団︵一九二七∼三五︶を組織する以前、三次
五八︶した。そしてスウェーデンのヘディンが登場する。後
ゲームが追い風となり、露・英両国が探検隊を派遣します。
○ 八 ︶ は、 タ ク ラ マ カ ン 砂 漠 横 断 や チ ベ ッ ト 北 域 調 査 を 試
ム・崑崙山脈、ネパール、チベット西部を調査︵一八五四∼
この辺の事情と経緯については、要領よくまとめた文章のコ
地域として強い関心が持たれてきました。学術の面で調査・
ピ ー を 用 意 し ま し た の で、 配 布 し ま し ょ う。
﹃中央ユーラシ
たプルジェヴァリスキーの淡水湖報告によってドイツの地理
探検をしたいという機運があったのに加え、このグレート・
アを知る事典﹄ 平
( 凡社 の
) [中央アジア探検]という項目
の一節です。少々長いですから、分けて読んでもらいましょ
学者リヒトホーフェンと論争を引き起こしていた﹁さまよえ
も訪れる湖畔の楼蘭も彼の発見である。
ろうらん
る湖﹂
︵ロプノール︶調査も名高い。スタインや大谷探検隊
み、トランス・ヒマラヤやインダス川源流も見いだした。ま
う。まずはT君、第一段を読んでください。
生徒T君の朗読
[組織的な学術調査] こうしたなか、イギリスのバワーが
せいいきほくどう
西域北道の一拠点クチャからブラーフミー文字で書かれた仏
生徒Kさんの朗読
典を将来していた。それが一五○○年を超える驚くべき古い
大航海時代以降も続くヨーロッパの東方への強い関心
は、十九世紀中頃を過ぎると未知の内陸の一つ中央アジアへ
く、インド・ヨーロッパ語、ヘレニズム、シルクロードを見
ものと判明すると、この極乾の収蔵庫が一挙に開かれること
と集中していく。それは地理学的な関心に限られたのではな
いだしたヨーロッパ世界の学問的欲求、ロシア帝国とイギリ
となった。組織的学術調査の始まりである。その最初が北道
ほくどう
スの対立に代表される現実の国際情勢までもが累加相乗する
の調査︵一八九八︶である。それに続くのが三次にわたるこ
東方の拠点トゥルファンに焦点を当てたロシアのクレメンツ
きょくかん
複雑なものであった。
てんしゃん
シベリアに進出し早くから中央アジアに関心を寄せてい
たロシアは、セミョーノフ・チャンシャンスキーを送り込ん
せいいきなんどう
とになるイギリスのスタインの調査︵一九○○∼一六︶であ
にトゥルファンも加え、ヘレニズムとブッディズムの混在す
ン、ニヤ、エンデレ、チェルチェン、ミーランを調査、これ
る。彼はタクラマカン砂漠の南縁、西域南道に沿ってホータ
リスキーを四次にわたって派遣 一
( 八七○∼八五 、
) モンゴ
リ ア、 青 海、 北 チ ベ ッ ト、 ロ プ ノ ー ル、 ホ ー タ ン な ど を 調
る中央アジア古代文化の様相を明らかにした。また敦煌千仏
で 一
( 八五六∼五七 天
) 山山脈西部を、次いでプルジェヴァ
査 し た。 こ の と き イ ギ リ ス も 行 動 を 開 始、 シ ュ ラ ー ギ ン ト
とんこう
ワイト三兄弟 ヘ
( ルマン、アドルフ、ロベルト が
) カラコル
Ƚ
ȽȁIJĶĸȁȽ
Ƚ
とんこうもんじょ
洞の調査と敦煌文書の将来も彼に始まる。
九∼一○︶した。
たのはドイツであり、北道に沿って四次の調査︵一九○二∼
大きかったか想像できよう。その会議後、まず行動を開始し
あった。大谷隊がヨーロッパ諸国のそれと相違するのは、中
であったように、ヨーロッパ学界の動向を熟知してのことで
遣となる︵一九○二∼一四︶この隊の出発がドイツ隊の直前
] こうした活動にヨーロッパ以外から独自に
[大谷探検隊 おおたに たんけんたい
参 画 し た の は、 日 本 の 大 谷 探 検 隊 で あ る。 四 次 に わ た る 派
生徒U君の朗読
一四︶を展開した。グリュンヴェーデル、ル・コックを中心
央アジア調査が東アジア世界への仏教伝来のルート把握の一
この間のことであるが、ハンブルクで開かれた国際東洋学
者会議︵一九○二︶は、中央アジア学術調査のため異例の国
とし、トゥルファンの高昌故城とベゼクリク千仏堂、クチャ
環 で あ り、 イ ン ド、 中 国 調 査 と 並 行 し て い た こ と、 ま た 植
際共同研究体制をとった。ヨーロッパの学界の衝撃がいかに
のクムトラ・キジル両千仏堂とスバシ故城などを調査、一七
こうしょう
ほくどう
の言語が二四の異なった文字で書かれたとする言語資料や多
民地化するアジアの中で仏教徒としての自覚から出た行動で
わたなべ てっしん
様な宗教文献、千仏堂の仏教壁画を見いだした。
たちばなずいちょう
よしかわ こ い ち ろ う
堀賢雄、野村栄三郎、橘瑞超、吉川小一郎であり、キジル・
しんがい
の む ら えいざぶろう
クムトラ千仏洞などを調査し、スバシでは精巧な舎利容器を
ほり け ん ゆ う
。彼も北道
フランスはペリオを派遣した︵一九○六∼○九︶
に沿いトグズサライの寺院跡、クチャのドルドル・アクル寺
あったことである。中央アジアに活動したのは、渡邊哲信、
院跡などを調査して敦煌に向かった。後年シルヴァン・レヴィ
入手、北道や敦煌からも仏典を将来した。
し ゃ り
が解読するトカラB語はクチャ入手の文書群によったもので
ある。敦煌では千仏堂を調査するとともに、敦煌文書の全容
っ
中国の辛亥革命︵一九一一∼一二︶後、調査は困難とこな
うぶんひつ
た。しかしヘディンは中国との共同調査を受け入れ、黄文弼
せいほく か が く こ う さ だ ん
を一覧して選別、漢文以外の文字で書かれた経典や紀年のあ
日 本 で よ く 話 題 に な る 探 検 家 は、 ス ウ ェ ン・ ヘ デ ィ ン、
が、よく分かると思います。
教師
はい、T君、Kさん、U君、ありがとう。この文章を
読んでおくと、中央アジア探検の背景や動きやその功績など
はんちゅう
範疇に入る中央アジア調査はこれをもって終わった。
ら の 加 わ る 西 北 科 学 考 査 団 を 組 織 し た。 し か し 探 検 と い う
らしんぎょく
る漢文写本など、スタインが獲得できなかった重要資料を入
とんこうがく
手した。かれはその一部を北京で羅振玉など中国の学者に見
せた。それが敦煌学という新領域を拓くきっかけである。
ロシアはすでに開始していたコズロフによる調査を継続
せ い か
︵ 一 八 九 九 ∼ 一 九 ○ 九 ︶ し、 西 夏 の 遺 都 カ ラ ホ ト で 、 死 語 と
なっていた西夏語文献をはじめ膨大な文書を得た。さらにド
イツの成果に対抗してオルデンブルグを北道に派遣︵一九○
Ƚ
ȽȁIJĶĹȁȽ
Ƚ
オーレル・スタイン、そして大谷探検隊です。
この航路を開拓しようと、ノルデンショルドという探検家が
海 岸 に 沿 っ て さ ら に 北 の 北 極 海 を 通 る 航 路 の こ と で す。
ス ウ ェ ン・ ヘ デ ィ ン で 感 心 さ せ ら れ る エ ピ ソ ー ド が 一 つ
あります。彼は何と十五歳の時、探検家を志したというので
いました。ヴェーガ号を救助しようとアメリカは救援の船を
ベリア沖で氷に閉じこめられ、十ヶ月も動けなくなってしま
ヴェーガ号に乗って出航したのです。ところが、不運にもシ
スウェン・ヘディンについて
す。ここにヘディンの自叙伝としての﹃探検家としての我が
員全員が亡くなるという悲劇が襲います。ところがその後、
派遣したのですが、これまた不運にも遭難してしまい、乗組
生涯﹄︵山口四郎氏訳
白水社︶という本を持って来ました。
その巻頭に﹁発端﹂としてこう書いてあります。
天の恵みか、氷がゆるみ、ヴェーガ号は自力でべーリング海
峡を抜け、太平洋へと脱出することが出来たのです。ここに
た。﹂と。
こう言うのも、彼には次のような体験があったのです。
ら、国民の歓喜の気持ちはいや増しに高まったことだったで
られたと言います。こういうヴェーガ号が帰還したのですか
牲者も出さずに成功を収めることが出来たのです。ヴェーガ
北東航路は開通し、スウェーデンの立場としては、一人の犠
ヘ デ ィ ン が 十 五 歳 で あ っ た 一 八 八 ○ 年 四 月 二 十 四 日、 ス
ウェーデンの首都ストックホルムは、町を挙げて興奮に沸き
た北東航路
うな光の中に、ヴェーガ号が静かに入港してきたのでした。
にはヴェーガ号の星章がガス灯に照り映えています。そのよ
ョンが飾られ、港の近くは数え切
町を上げてイルミネーたシ
いまつ
れないほどの明かりと松明で照らされていました。王宮の上
忘 れ る こ と は あ る ま い。 こ の 日 こ そ、 私 の 将 来 の 道 を
﹁ 異 常 な ま で の 興 奮 が 私 を 襲 っ た。 私 は こ の 日 を 生 涯
Ƚ
ȽȁIJĶĺȁȽ
Ƚ
﹁ 将 来 進 む べ き 天 職 を 、 学 童 時 代 に 早 く も 見 い 出 す 少 年
は幸福である。私はそういう幸運に恵まれた少年であっ
返っていました。二年前、北東航路の突破を目指して出航し
しょう。
を見事に突
号生還の無電の第一報は、日本の横浜からスウェーデンに送
たヴェーガ号という船が、当時、人類史上とうてい不可能と
破して帰還
そ の 夜、 ヘ デ ィ ン は 家 族 と 共 に、 丘 の 上 か ら こ の 光 景 を
見 下 ろ し て い ま し た。 そ し て 次 の よ う な 思 い に 打 た れ た の
思われてい
したからな
北東航路
というのは、
でした。
シベリアの
のでした。
スウェン・ヘディン
つの日か、自分もまたこのようにして故郷へ錦を飾るの
から、屋根から、雷鳴のような歓声がどよめいた。﹃い
決定した日であったからだ。波止場から、街路から、窓
そのいずれの本にも、自分の肖像写真を載せることなどはし
も分厚い本で三冊から五冊のセットで出版しているのです。
検が終わった後に学術的な調査報告書を著しています。それ
は中央アジアの探検は三回実施しました。その三回とも、探
間、サンスクリットと東洋の言語学に対する興味を示し、将
十五歳から十七歳までは故郷のブタペスト︵正確にはペス
ト地区︶の両親の許でルター派のギムナジウムに通学。この
東洋学を専攻する道へと進みます。
キサンダー大王の東方遠征の足跡をたどってみたいと願い、
ンの人生の進路を大きく決定づけました。スタインは、アレ
レクサンドロス大王遠征史﹄
︵二世紀ギリシアの歴史家
ア
リアノスの著︶という本を貸してもらいます。これがスタイ
らの五年間、ドイツに留学します。その時ある先生から﹃ア
スタインはハンガリー生まれのユダヤ人でした。両親は彼
の将来を思ってキリスト教の洗礼を受けさせました。十歳か
も知れません。
しょうが、スタインのストイックな生き方が現れているのか
関への学術報告書という性格の本だからということもあるで
ませんでした。それは、探検の資金援助をしてくれた政府機
だ。﹄私は心密かにそう思った。
﹂
︵山口四郎氏の訳︶
自伝にはそう記されています。このようなことがきっかけ
で、ヘディンは探検家を志したというのです。ヘディンが初
め志していたのは北極の探検だったのですが、後にそれは大
陸の中の中央アジアの探検家として花開きます。ヘディンが
成し遂げたことはたくさんあります。その記録は邦訳として
は﹃ ヘ デ ィ ン 中 央 ア ジ ア 探 検 紀 行 全 集 ﹄ 白
( 水社 と
) してま
と め ら れ て い ま す。 図 書 館 か ら 借 り て 読 ん で み る と よ い で
しょう。
単行本でも邦訳が何冊か出ています。それらをパラパラめ
くってみると面白いことに気付きます。本の巻頭に、ヘディ
る﹂ものだったわけですから、その記録の本にも﹁この私が
来、研究者になって、どこかの大学で東洋学を教えるポスト
ンの肖像画や自分が写っている写真が多く掲載されているの
ヘディンだ!﹂とこれ見よがしに掲げているのでしょうか。
に就きたい、という望みを持つようになっていた。
です。ヘディンにとって探検という行為は、
﹁故郷に錦を飾
ヘディンという人は探検家として数々の偉業を成し遂げま
あ る 教 授 や、 イ ン ド・ ヨ ー ロ ッ パ 語 と 宗 教 の 歴 史 の 専 門 家
ギムナジウム卒業後、ウィーン大学、ライプツィヒ大学、
チ ュ ー ビ ン ゲ ン 大 学 な ど で、 古 代 イ ン ド の 言 語 学 の 大 家 で
したが、性格的にはスタンドプレーが好きな﹁カッコつけマ
ン﹂だったのかも知れませんね。
オーレル・スタインについて
そのヘディンと対照的なのがオーレル・スタインです。彼
Ƚ
ȽȁIJķıȁȽ
Ƚ
み ま し た。 そ
て研鑽を積
の探検の中で大いに役立つことになります。
地図作成学校で、地図作りの勉強をします。この技能が、後
さて、勉学の途中ですが徴兵訓練のため一年間、故国ハン
ガリーに帰ることになります。この一年間、スタインは軍の
などについ
の甲斐あっ
から当時までのインドに関する資料がたくさんあったのでし
中心地でした。オックスフォードやケンブリッチには、古代
した。当時のイギリスは、ヨーロッパにおけるインド研究の
科学アカデミーというところから奨学金を得ることができま
だ っ た の で す が、 叔 父 さ ん が 奔 走 し て く れ て、 ハ ン ガ リ ー
た。 こ れ は イ グ ナ ツ と い う 叔 父 さ ん の 支 援 が あ っ て の こ と
に留学しまし
二十二歳の
時、 イギリス
得しました。
で博士号を取
道士自身、玄奘を篤く尊敬する念を持っていました。そこへ
理人であった王円籙という道士と仲良くなれたからです。王
このことは後にスタインにとって幸運をもたらします。そ
れは敦煌において、たくさんの古文書を秘蔵していた寺の管
の中央アジア探検における座右の書としたともいうのです。
﹃大唐西域記﹄のフランス語訳を何度も何度も読み、その後
学者として世に認められるようになります。その際に玄奘の
本を出版します。これによって、スタインはサンスクリット
からです。そして三十歳の時、﹃カシミール王統史﹄という
ストを得て、インドに赴任して来ます。それは、イギリス留
二十五歳の時、インドのパンジャブ大学の記録事務官と、
新設されたラホールと言うところの東洋学校の校長というポ
て、 二十一歳
た。スタインは二人の著名人と昵懇になります。ヘンリー・
スタインが﹁自分は玄奘を守護神にしている﹂と語ることに
だいとうさいいき き
ど う し
げんじょう
よって王道士はスタインに対し心を開き、そのことでたくさ
あつ
おう え ん ろ く
学中何かと世話をしてくれたローリンソン卿の推輓があった
すいばん
ローリンソン卿とヘンリー・ユール卿という人です。
んの古文書を譲ってもらうことが出来たからです。
スタインは書いています。
﹁道士は、わたしが、おぼつかない中国語をあやつりな
その解読によって有名な人です。またユール卿は、マルコ・
ルシアにあるダリウ
ローリンソン卿は元軍人でしたが、くペ
さびがた
ス大王のベヒストゥン碑文、これは楔形文字の碑文ですが、
ポーロの﹁東方見聞録﹂を研究した人で、その本は後にスタ
がら、この偉大な巡礼僧に対する傾倒の念を述べ、その
足跡を慕いながら、インドからはるばる山岳と砂漠の難
インが中央アジアを探検するときの案内書の役割を果たすこ
とになります。
Ƚ
ȽȁIJķIJȁȽ
Ƚ
オーレル・スタイン
また、
﹁敦煌文書﹂は我が日本の大谷探検隊やロシアの探検
おおたに たんけんたい
路を越えて来た事情を伝えると、明らかに、強い感動を
隊も手に入れています。中国本土にも残っています。
﹁敦煌
語とかウイグル語、トカラ語など、中央アジアのいろいろな
で、文書の大部分を占めているのですが、これ以外にソグド
い発見だったのです。使われている言葉は漢文とチベット語
さ れ る こ と に な っ て い っ た の で す。 世 界 的 に 見 て も、 す ご
目漱石の弟子だった人で、漱石の長女筆子さんをお嫁にもら
いでくださいね。ちなみに松岡譲という人は、明治の文豪夏
ま で 小 説 で す の で、
﹁事実はそうだったのだ﹂と信じ込まな
かれています。一読を勧めます。もっとも、この作品はあく
物語﹄という小説に、まるでその場で見ていたかのように描
のようにし
スタインやペリオ、そして我が大谷探検隊がまど
つ お か ゆずる
て﹁敦煌文書﹂を手に入れたかについては、松岡譲の﹃敦煌
いったのです。
敦煌のことを研究する﹁敦煌学﹂というものがわき起こって
文 書 ﹂ は 世 界 各 地 に 散 ら ば っ て お り、 そ の こ と で 世 界 的 に
受けたようだった。
﹂
﹃中央アジア踏査記﹄莫高窟千仏洞の章︶
︵
とんこうもんじょ
言葉の文書が含まれているというのです。中身としては、漢
この古文書は﹁敦煌文書﹂と呼ばれています。この文書の
おかげで、シルクロードの姿や中国の歴史の姿がぐっと解明
文の文書の場合は仏教のお経を書写したものが大半ですが、
﹃論語﹄を書写したものとか、土地や戸籍についての記録な
どもあり、歴史的資料としてとても価値あるものなのです。
います。どうりで、文章がうまいわけです。
したのです。スタインもそうだったのです。そのようなこと
ろん王道士にお代は払いましたが、ごくごく安い金額で購入
た漢文の文書を、ごっそり持ち去ってしまったのです。もち
オは、漢文に明るかったのです。スタインが取り残していっ
勉強していなかったので漢文は読めませんでした。一方ペリ
ます。スタインはサンスクリット語などには達者でしたが、
クなどがある時代ではありません。普通の容器では干上がっ
て 運 ん だ の で し ょ う か。 現 代 の よ う に 密 閉 で き る ポ リ タ ン
る 上 で、 水 は 必 要 不 可 欠 で し ょ う。 そ の 水 を ど の よ う に し
思 い ま す か。 飲 み 水 の 関 係 な の で す。 砂 漠 で 生 命 を 維 持 す
実 は 違 う の で す。 砂 漠 の 探 検 は 冬 が い い の で す。 な ぜ だ と
う な 春 や 秋 が い い の で し ょ う か。 ど う で し ょ う か。 こ れ が
い だ ろ う と 予 想 で き ま す ね。 そ れ で は、 あ ま り 暑 く な さ そ
と こ ろ で 皆 さ ん、 砂 漠 の 探 検 は い つ の 季 節 に 行 な う の が
ふ さ わ し い と 思 い ま す か? 夏 は 暑 す ぎ る か ら 避 け た 方 が い
砂漠の探検
で、後になってからですがスタインやペリオは、中国からは
もっともこの﹁敦煌文書﹂の入手は、スタインだけではな
く、その後にフランスの探検家ポール・ペリオも行なってい
4
﹁大泥棒﹂と呼ばれ、評判が良く無かったときがありました。
Ƚ
ȽȁIJķijȁȽ
Ƚ
4
ラ マ カ ン 砂 漠 や ゴ ビ 砂 漠 の 探 検 は、 気 温 が 氷 点 下 に 維 持 さ
い つ で す か? そ う で す、 冬 と い う こ と に な り ま す ね。 タ ク
で 持 ち 運 ぶ と い う こ と な の で す。 氷 で 運 べ る 季 節 と い う と、
長期間水を確保する方法は何でしょうか。それは、氷の状態
て し ま う で し ょ う。 こ ぼ れ る こ と な く、 蒸 発 す る こ と な く、
れ た り し た な ら ば、 こ ぼ れ て 空 し く 砂 漠 の 砂 に 吸 い 取 ら れ
て 無 く な っ て し ま う で し ょ う。 あ る い は 容 器 が 破 れ た り 壊
りつめて飲んだが、とうとう七日目にしてすっかり無くなっ
た。四日たっても川にはたどり着かなかった。水は極度に切
四日分の水しか用意しなかった。そこから悲劇は始まりまし
が起こるか分からないからです。にも拘わらず、従者たちは
分の水を用意せよ命じた。砂漠ではどんな思いがけない事故
ン川にたどり着くといいます。ヘディンは用心のために十日
中、とある泉に到着しました。案内人達はあと四日でコータ
デ ィ ン の 二 回 目 の 探 検 の 時 の ア ク シ デ ン ト で す。 探 検 の 途
水は人間の命の源です。その水が無くなってしまうと、ど
う な る の で し ょ う か。 水 の な い 極 限 状 況 に 追 い 込 ま れ た ヘ
れ る 冬 の 季 節 が い い の で す。 炊 事 な ど で 水 を 必 要 と す る 時
ディンたちの姿が、それを教えてくれます。ヘディンの﹃探
てしまった。前途に見えるのは砂また砂の砂漠。翌日、水の
皆さんは砂漠と聞くと、﹁灼熱の砂漠﹂という言葉もあり
ますから、一年中暑い所なのだろうと思っていませんか。実
検家としてのわが生涯﹄﹁キャラバン壊滅﹂の章より、次の
無くなったキャラバン隊は壊滅します。
際 は そ う で は あ り ま せ ん。 一 日 の 気 温 差 が 大 き く、 夏 場 で
は、 そ の 氷 を 砕 い て 鍋 な ど の 容 器 に 入 れ て 火 で 溶 か し て 水
も 夜 明 け 前 は 氷 点 下 に な る と き が あ る そ う で す。 ま し て 冬
一節を紹介しましょう。
き返した。彼はこぶしを握りしめて私の所に這い寄ると、
﹁従者の一人には既に断末魔のあがきが始まり、彼は二
度と意識を回復しなかった。ヨルチは夕方の涼気で息を吹
Ƚ
ȽȁIJķĴȁȽ
Ƚ
を入手するわけなのです。
は、一日中氷点下であることが多いのです。氷点下での生活
か っ た の で す。 寒 い ば か り で は あ り ま せ ん。 砂 嵐、 そ し て
というものを想像することができますか。ヘディンやスタイ
みぞれや雪。中央アジアの砂漠は、
﹁シルクロード﹂などと
﹃水! 旦那、水をくれ! ――
一滴でもいいから!﹄と泣
きじゃくるように叫び、また這い去っていった。
4
ン た ち の 移 動 や 発 掘 作 業 な ど は、 氷 点 下 の 中 で の こ と が 多
いう言葉が醸し出すロマンチックな場所などではないようで
4
4
す。過酷な場所なのです。
﹃水気のあるものはもう何もないのか?﹄
﹃はい、にわとりがいます﹄
4
みんなはにわとりの首を切り落とし、その血を飲んだ。
4
4
命を救う水
水 に 関 す る エ ピ ソ ー ド と し て 記 憶 し て お き た い の は、 ヘ
4
4
ス ラ ム が 脇 へ 引 っ 張 っ て い き、 羊 の 頭 を メ ッ カ の 方 に 向
ために、この獣をほふることは殺人に近かったからだ。イ
羊にだ。誰もが逡巡した。自分たちの命を一日だけ延ばす
がれた。犬のように忠実に、文句一つ言わずに付いてきた
だが、たいした量にはならなかった。みんなの目は羊に注
した。
のはいいとして、次の砂丘の頂を目指して上るのは、困難で
ます。数歩歩いては休み、また数歩進む。砂丘の斜面を下る
大海の大波にも似た砂の山、また山。二人は這うように進み
埋め、涼しくなる夜を待って前進します。前方にあるのは、
す。昼は暑いので、北向きの斜面に穴を掘り、砂の中に体を
しゅんじゅん
け、その頸動脈を断ち切った。赤黒い、いやな臭いのする
太陽が昇り明るくなった頃、タマリスクの樹影を見つけま
す。彼らは、生きる希望を取り戻します。なぜだか分かりま
血がどろどろと流れ出た。血はたちまち凝固したが、彼ら
はそれを飲み下した。私も口を付けてみたが、胸がむかつ
すね。水があるかも知れないからです。タマリスクというの
もだ
けいれん
は、ハッとします。近くに川があるはずだ!
なぜなら、川
意 識 は も う ろ う 状 態。 這 っ て は 休 み、 休 ん で は ま た 這 っ
て進む。途中、くっきりとした人間の足跡を見つける。二人
すり込ませることをしました。
ました。そのかわりに、新鮮なポプラの葉を揉んで、皮膚に
で掻いて掘り続けます。ですが、それもすぐ力尽きてしまい
ます。もう、力が湧かないのです。地面に腹ばいになり、爪
二人は穴を掘り始めます。だが、スコップは手から滑り落ち
す。この根の先には、地下水があるに違いない。そう思った
出し、夜の暗闇の中にポプラの樹影を
日が暮れ、また歩こき
んぱい
見つけます。疲労困憊、その根元にくずおれるように座りま
さをこらえて僅かでも水分を得ようとします。
いと言うことになります。二人はタマリスクの葉を噛み、苦
が生えているということは、その近くに水があるかも知れな
は水辺の湿ったところに生えます。そういうタマリスクの木
お う と
は拒んだ。飲んだ二人は完全に変調を来した。激しい痙攣
せい
ふさ
性の嘔吐を催し、砂上に倒れて悶えわめいた。
﹂
むご
いからといって耳を塞がないでくださいよ。これは、人
酷
間の命を長らえさせるための、命の事実の話です。自然界の
生き物は、食物連鎖という生命のシステムでお互いに繋がっ
ていますね。ですから、このニワトリや羊の命は、ヘディン
達の命を支えるために厳粛に役だったわけです。ヘディン達
は、心の奥ではニワトリや羊に感謝したことでしょう。
その後ヘディンはカシムと二人して、水を探しに先行しま
Ƚ
ȽȁIJķĵȁȽ
Ƚ
き、おまけに喉の粘膜がまるでからからで、飲み下しもな
4
らず、あわててまた吐き出さなければならなかった。
喉の渇きに半ば気が狂って、イスラムとヨルチは、ラク
ダの小便を容器に受け、それに砂糖と酢を混ぜ、鼻をつま
4
んで飲んだ。カシムも私も、この酒宴を共にすることだけ
4
たのかも知れない。ほんのちょっと前、この砂の上を歩いて
の近くで放牧している羊飼いが、砂漠に迷った羊を探しに来
ぬだろうと呟きます。
カシムは手を振り、自分はもうじきこのポプラの木の下で死
分たちの足跡であったのです。寝ぼけて歩いているので、い
進 め ま せ ん。 手 は す り 切 れ、 着 物 は ぼ ろ ぼ ろ。 辺 り は 暗 く
ヘディンは水を求め、四つん這いになって森の中を進みま
す。いばらの茂みや地に落ちた枯れ枝に妨げられ、なかなか
行ったに違いない。だが、よくよく調べてみると、なんと自
つの間にか円を描いて歩いてしまったようなのです。がっく
なってきます。とうとう人生最後の夜がやってきたか。自分
突然、森が尽きました。高さ二メートルほどの崖の上に出
は、もう一日は持たないだろうと、覚悟を決めるのでした。
りとくずおれ、そのまま眠り込んでしまいました。
翌日、日付は五月五日。カシムの形相はすさまじい。舌は
白く腫れ上がり、唇は紫色、頬は落ちくぼみ、目はとろんと
たのです。コータン川です! ですが、河床は一木一草もな
ひ か
く、乾涸らびていました。ヘディンは探検家としての勘と粘
した光をたたえたガラス玉のよう。死期を知らせるしゃっく
が、どういうわけだか南東にずれてしまいます。コータン川
りに苦しめられ、全身を震わせている。体中の関節が軋むほ
の河床は広く、平坦で浅い。荒涼たる一帯には、靄がうっす
り強さで考えました。ホータン川は真北に向かって流れてい
その日、東の地平線の景色が昨日とは変わっていました。
黄色い鋸の歯のような砂丘の連続ではなく、濃い緑色の一線
らとかかっていた。およそ二キロ半も行ったとき、東岸の森
る。川を渡って右岸に行くのには、真東に進むことだと。空
を描いているのです。森です。そして川です。二人は最後の
の輪郭が月光に現れてきました。この場面を﹃探検家として
どに干涸らびた体では、ちょっと動くのにも大変な精神力が
力を振り絞って、東に向かいます。緑色の線がだんだん太く
必要でした。
なっていきます。砂丘は反対に小さくなっていきます。そし
のわが生涯﹄から引用しましょう。
と思っていたその右岸も、もう遠くはなかった。私の生命
ままだ。もしこのままなら、そこで身を投げ出して死のう
て、それがワニの体のように見えた。河床は依然乾らびた
かんぼく
あし
﹁岸の斜面は、灌木や葦の茂みでぎっしりうまっている。
倒 れ た ポ プ ラ が 一 本、 そ の 黒 い 幹 を 下 の 河 床 ま で 伸 ば し
もや
には弦月が懸かっている。コンパスを頼りに東を目指します
てとうとう、砂漠から抜け出したのです。ポプラの森へとた
どり着きます。疲れ切って、どっと倒れます。森の匂いに元
気を回復し、また前進します。川は、目と鼻の先にあるに違
いありません。しかし、あまりの暑さに、動けません。早く
しないと、このまま死んでしまいます。
夕方になり、ヘディンはやっとの思いで立ち上がります。
同 行 の カ シ ム を 促 し、 川 ま で 行 っ て 水 を 飲 も う と 誘 い ま す。
Ƚ
ȽȁIJķĶȁȽ
Ƚ
は、まさに危機一髪の状態にあった。
の が も
がん
突然、私ははっとして立ち止まった。野鴨か雁か、水鳥
が一羽羽音高く飛びたち、ピシャリという水音が聞こえた
けたヘディンはその後どうしたでしょうか。続けて引用いた
します。
﹁ 私 は 水 溜 ま り の 縁 に 静 か に 座 り、 脈 拍 を 数 え て み た。
脈 は ほ と ん ど 分 か ら な い ほ ど 弱 く、 わ ず か 四 十 九 し か な
かった。それから私はその水を、飲んで飲んで飲みまくっ
落としていたのだ。いや、ほんの一○○メートルでも北ま
夜 の 静 寂 の 中 で、 私 は こ の 奇 蹟 的 な 救 い を 神 に 感 謝 し
た。もし私が真東に進み続けていたら私は助からず、命を
あがって、血が血管をなめらかに流れ出した。私は生気と
りとしてきた。脈搏も強さを増し、数分後には五十六まで
ようにこわばっていた皮膚が柔らかくなって、額がしっと
水分を吸収した。関節という関節が柔軟になり、羊皮紙の
うまかった。乾ききった私の肉体は、まるで海綿のように
せいれつ
のだ!
次の瞬間、私はひとつの水たまりの縁に立ってい
た。水は月光下、インクのように黒ぐろと見え、倒れたポ
た。水は冷たく水晶のように清冽で、名泉の水さながらに
たは南に逸れていたら、河床はどこもカラカラだと考えざ
生命力とのよみがえるのを感じた。それからもう一度私は
し じ ま
プラの幹が影を映していた。
るを得なかっただろう。北部チベットの雪原や氷河が融け
水を飲み、この祝福すべき水溜まりの水を愛撫し、ホダ・
そ
て 溢 流 す る 水 は、 七 月 初 旬 に 初 め て コ ー タ ン・ ダ リ ヤ の
ヴェルディ・ケル、すなわち︽神より恵まれし湖︾と命名
ど う 感 じ ま す か?
も し、 ヘ デ ィ ン が こ の 水 溜 ま り に 辿
り着けなかったら、ヘディンは死んでしまったでしょう。そ
あ い ぶ
河床を流れ、夏の終わりから秋になると涸れてしまい、冬
した。﹂
いつりゅう
から春にかけては、河床は乾いていることを私は知ってい
かりゅう
か
た。さらに私は、この川は往々にして一日行程、ないしは
う し た ら、
﹁ 偉 大 な る 探 検 家 ス ェ ン・ ヘ デ ィ ン ﹂ は 存 在 し な
それ以上の距離をおいた若干の箇所で渦流をなし、そこで
にあるこういう深みには、一年を通じて、水が溜まってい
させようとしたのかも知れません。それはヘディンの次のよ
ンに、大きな探検の仕事をさせるために、なんとか生き延び
は川底が深くえぐられているということ、また岸の崖近く
る こ と も あ る の を か ね て 聞 い て い た。 今 私 は 極 め て 稀 な、
かったでしょう。﹁砂漠で遭難した哀れな青年探検家﹂とし
て歴史の舞台から消えることになったでしょう。運命の支配
こういう水溜まりの一つに行き当たったわけだ。
﹂
どうですか?
奇蹟的な話しですね。偶然といえば偶然。
あるいは映画のラストシーンみたいに話が上手く出来すぎて
者は、あるいはヘディンの守護神・守護霊様は、将来ヘディ
いるようにも感じてしまいますね。さて、水溜まりに辿り着
Ƚ
ȽȁIJķķȁȽ
Ƚ
真東に渡ろうとしていた場面のことです。
うな述懐から感じ取れます。コンパスを頼りにコータン川を
み干します。
た。歩きにくかったので、何度か捨てようと思っていた長靴
たのでした。ヘディンは膝まで届く固い長靴を履いていまし
こうして二人は助かりました。まさに、九死に一生を得た
というところでした。
ですが、捨てなくて幸運でした。カシムはたちまちの内に飲
﹁私はコンパスを見ながら進んだ。だが偶然とでも言う
のか、私は絶えず南東に進んでいた。それに抗しようとし
て も、 し ょ せ ん は 無 益 だ っ た。 あ た か も 目 に 見 え ぬ 手 に
導かれるように、私は進むだけだった。ついには、もうそ
れに抵抗しようともせず、私はただ南東に向かい、月に向
スタインの功績
オーレル・スタインのことに話を移しましょう。スタイン
は中央アジアの探検は三回行ったというのは先ほども触れま
かって進んだ。どっと倒れたり、休息したり、そんなこと
ずと地に垂れ、眠り込むまいと、全意志力を奮い起こさな
したね。そしてその探検の報告を、三回とも分厚い報告書と
を何度も繰り返した。恐ろしい睡魔にも襲われた。頭が自
ければならなかった。この疲労困憊の極致に、もし私が睡
睡 魔 に 襲 わ れ 朦 朧 と し た 状 態 で す。 そ の よ う な 時 の 行 動
というのは、後で振り返っても﹁自分でもなぜあんなことを
れていたり、その出土品の一つひとつに細かい注釈が付けら
実にしっかりしたものです。出土品の写真がたくさん掲載さ
︵ 五 冊 ︶、 三 回 目 は﹁ Innermost Asia
︵ 内 奥 ア ジ ア ︶﹂
︵四冊︶
と し て ま と め ら れ て い ま す。 こ れ ら の 報 告 書 は 学 術 的 に は
こんぱい
魔に負けていたならば、私はきっと、二度と再び目覚める
して発行したのでした。一回目のが﹁
︵古代
Ancient
Khotan
ホータン︶
﹂︵ 二 冊 ︶、 二 回 目 が﹁ Serindia
︵セリンディア︶
﹂
やったのか、見当も付きません。
﹂という行動があったりす
れていたり、測量にもとずいて作られた正確な地図が付けら
もうろう
ことはなかったろう。
﹂と。
るものです。皆さんも何か経験があるのではないですか。そ
れたりしています。スタインの報告書は、出版と同時に絶版
い本です。日本に輸入され、東京神保町の洋書専門店などで
れ が ヘ デ ィ ン も 言 っ て い る﹁ あ た か も 目 に 見 え ぬ 手 に 導 か
扱われているものは、セットで何十万円から百万円ほどの値
れる﹂行動なのかも知れません。とにかくヘディンにとって
ところで、ヘディンの偉いところは、近くで倒れているカ
段が付けられています。骨董品みたいな扱いです。とても手
になると言われたぐらいに、一般の人が目にすることが難し
シムのために、水を運んであげたことです。運ぶといっても
に取ることの出来る本ではありません。このようなことでは
は、奇蹟的な体験でした。
これといった容器もありません。自分が履いていた長靴に水
ちょうか
を 入 れ、 棒 の 両 端 に ぶ ら 下 げ て カ シ ム の 所 ま で 運 ん で あ げ
Ƚ
ȽȁIJķĸȁȽ
Ƚ
と、私などは心配するのです。もっと安く誰でも手に取れる
いし、学問の発展にも滞りをもたらしてしまうのではないか
スタインが苦労して調査・研究したことが世の中に広まらな
くことにその人物の背には鳥の翼のようなものが描かれてい
の中から、人物が描かれている壁画を発掘したのですが、驚
いう遺跡では驚くべき壁画を発掘します。崩壊した古い仏塔
ンのダンダン・ウィリクの発掘がその一つです。ミーランと
です。スタインの本ばかりではありません。ヘディンの﹃さ
影し、パソコンの画面上で見られるようにしてくれているの
ているスタインの著書を、一ページごとデジタルカメラで撮
のです。東京の駒込にある東洋文庫という図書館が、所蔵し
うとは、どうして予想できたであろう!﹂
階級に位する天使。翼を持ち、童顔で表す︶の絵に出会お
ようなギリシア・ローマ風のケルビム︵九階級のうち第二
アジアの奥地にあるロプ・ノールの荒涼たる岸辺で、この
には、さすがに不意を打たれて茫然としてしまった。内陸
﹁ 発 掘 が 床 面 お よ そ 一、二 メ ー ト ル の と こ ろ に 達 し て、
翼のある天使を繊細に描いた腰羽目が壁面に現れてきた時
るのです。スタインは書いています。
ようになっていなければいけないでしょうね。
まよえる湖﹄やペリオの敦煌での写真集、その他ロシアやイ
ところがです、ここに実にうれしい話があるのです。その
貴重なスタインの本が、インターネットで読むことが出来る
タリアやアメリカの探検家による著書や報告書も原書で読め
るのです。大谷探検隊の﹃西域考古図譜﹄もあります。︵ヘ
山脈の雪を戴いた険しい峰々の様子、キャラバン隊員として
越えなければならなかったパミール高原やヒンドゥークシュ
時 の 砂 漠 で の 探 検 の 様 子、 タ ク ラ マ カ ン 砂 漠 へ 入 る た め に
文章ばかりではありません。書物に掲載されている写真や
地図も見られるのです。これらは一見の価値があります。当
遠征と、それに伴うギリシア人の東方への進出がもたらした
事です。紀元前四世紀に始まるアレクサンドロス大王の東方
わって来ていたということです。スタインの驚きはこういう
ム文化がユーラシア大陸の奥深く、中央アジアの地にまで伝
何を物語っているのでしょうか。言うまでもなく、ヘレニズ
ト教の図像を借用して描かれているのです。ということは、
﹃中央アジア踏査記﹄沢崎順之助訳より︶
︵
翼 の あ る 人 物 像 は、 明 ら か に ギ リ シ ア や ロ ー マ の 様 式 で
す。つまりはヘレニズム様式です。そしてこの絵は、キリス
雇った現地の人々の様子、また訪ねた町のバザールの様子、
ヘレニズムの現象が、最初に移り住んだ西北インドを根拠地
ディンの﹃さまよえる湖﹄はスウェーデン語ですよ︶
。
そして遺跡の発掘の様子などなど、興味尽きないものばかり
いう事実の発見にあったのです。アレクサンドロス大王の足
として、パミール高原の東側の地域にまで入り込んでいたと
です。
スタインはヘディンに劣らず、さまざまな遺跡の発見や発
掘を行い、成果を収めました。砂に埋もれていた古代ホータ
Ƚ
ȽȁIJķĹȁȽ
Ƚ
でしたから、スタインは激しい興奮を覚えながら、素手で一
跡を訪ねてみたいというのが、スタインの少年の時からの夢
す か。 ヒ ン ト は、
﹁注文の多い料理店﹂
。さあ、誰でしょう。
くも美しい童話を作らせます。その詩人とは、誰だと思いま
ある詩人にインスピレーションを与えます。そして一つの短
⋮⋮そうです、宮澤賢治なのです。書かれた作品は﹃雁の童
点一点掘り進めました。その発見したという絵が、これです
︵と言いながら、写真を示す︶
。スタインは書いています。
子﹄といいます。
スタインが有翼天使像の絵を発見したのは一九○七年︵明
治四○年︶、賢治十一歳、小学五年生の時です。﹃雁の童子﹄
﹁大きくたっぷり見開いた目の生き生きした色、小さく
波 打 っ た 唇 の 感 じ な ど は、 エ ジ プ ト で 発 見 さ れ た プ ト レ
ミ ー 王 朝 時 代・ ロ ー マ 時 代 の ミ イ ラ の 中 に 納 め ら れ て い
が書かれたのがいつなのだかははっきり分からないようで
ど と 言 っ て、 こ の 中 央 ア ジ ア を 舞 台 に し た 作 品 が い く つ か
た、ギリシアの青年男女のみごとなパネルの肖像画を見た
﹃中央アジア踏査記﹄沢崎順之助訳より︶
︵
そのアレクサンドロ
あ り ま す。 な ぜ 西 域、 つ ま り は 中 央 ア ジ ア に 関 心 を 持 っ た
てみたいと思っていたのでしょう。賢治には[西域異聞]な
せいいき い ぶ ん
ス大王がもたらした
のかというと、この地がその昔、仏教が栄えていた地域だっ
す が、 賢 治 は ど こ か で こ の 絵 を 目 に し、 物 語 の 素 材 に 使 っ
影響の一つに触れら
たからです。
西からのインパクト
対 照 妙 法 蓮 華 経 ﹄ と い う も の を 読 み、 震 え る ほ ど の 感 動 を
織して活動していたと言います。賢治は十八歳の時、
﹃漢和
賢治の父親が信仰心の篤い人で、花巻仏教界というものを組
Ƚ
ȽȁIJķĺȁȽ
Ƚ
ときのことをしきりに思い起こさせるのだった。
﹂と。
れ て、 ス タ イ ン の 心
は愉快だったに違い
宮澤賢治は実は、熱心な仏教徒でした。明治から大正、そ
して昭和の戦前までですが、日蓮宗の一派で国柱会というも
と こ ろ で、 こ の
ゆうよく て ん し ぞ う
﹁ 有 翼 天 使 像 ﹂ は、
覚 え、 生 涯 の 信 仰 の 書 と し た と い い ま す。 そ れ で そ の﹁ 妙
ありません。
やがてキリスト教の
法蓮華経﹂というお経ですが、もともとはインドのサンスク
のがありました。賢治はその会の熱心な会員だったのです。
天使像を生み出して
リット語です。誰が漢文に翻訳したか知っていますか。この
か ん わ
い く の で す が、 こ と
西 域 出 身 の 仏 教 僧 た ち だ っ た の で す。 そ の 中 で も 特 に、 ク
たいしょう みょうほうれんげいきょう
も あ ろ う に、 日 本 の
ミーラン遺跡で発掘された有翼天使像
The British Library のホームページより
く
ま らじゅう
チ ャ の 王 族 出 身 の 鳩 摩 羅 什︵ ク マ ラ ジ ー ヴ ァ︶ が 漢 訳 し た
ます。このような縁もあって、賢治は中央アジアに対する関
﹁ 妙 法 蓮 華 経 ﹂ は 名 訳 と さ れ、 圧 倒 的 に 使 わ れ る よ う に な り
心を深めたのかもしれません。
宮澤賢治に触れたついでに、もう一つ話しておきましょう。
賢 治 の 代 表 的 な 詩 と い う と、 ど ん な 一 節 を 思 い 起 こ し ま す
か?
O君、どうですか?。
O君
﹁[雨ニモマケズ]かな﹂
教 師 そ う で す ね、 有 名 で す も の ね。 で す が こ れ は、 も と
もと詩ではなかったのです。詩という作品ではなかったので
す。詩じゃなかったというならば、いったい何だったのかと
言いますと、賢治が自分の心に言い聞かせるために書き留め
ます。
︵といって、黒板に書き始まる。
︶
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフ
モノニ
ワタシハ
ナリタイ
南無無邊行菩薩
南無上行菩薩
南無多寶如来
れています。通称﹁雨ニモマケズ手帳﹂と呼ばれています。
南無釈迦牟尼佛
南無妙法蓮華経
この手帳はたまたま発見されました。賢治が亡くなった後、
た、自戒のメモなのです。この言葉は黒い小さな手帳に書か
全集が刊行されました。その御礼の会が東京で催され、親族
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩
が賢治の遺品の入った大きなトランクを披露しました。その
手帳は詩や小説の創作ノートであろうと解釈されてきました
は、 日 蓮 宗 の 信 者 に と っ て は ご 本 尊 に 当 た り ま す。 こ う 見
は、 漢 字 に よ る 曼 荼 羅 な の だ そ う で す。 曼 荼 羅 と い う も の
こ の よ う に 書 い て あ る の で す。 左 の ペ ー ジ が 意 味 す る も の
際、 ト ラ ン ク の ポ ケ ッ ト か ら 出 て き た も の な の で す。 こ の
が、どうもそうではなさそうです。仏教信者、あるいは仏教
ト﹂ということが見えてきませんか。みんなもこのようなこ
聞 か せ、 納 得 さ せ る た め の 言 葉 を 書 き 連 ね た﹁ 自 戒 の ノ ー
てくると、﹁雨ニモマケズ﹂手帳は、賢治が自分の心に言い
ま ん だ ら
修行者の賢治が、自分の心を戒めるための備忘録として、い
ろいろなことを書き留めた手帳であったようです。
﹁雨ニモマケズ﹂の最後の一節に続いて、
﹁南
というのも、
無妙法蓮華経﹂と大きく書かれています。正確にはこうなり
Ƚ
ȽȁIJĸıȁȽ
Ƚ
とをすることはありませんか。スポーツをやっているような
人が、自分の心を鼓舞するために短い言葉をノートに書き留
め、取り出しては自分に言い聞かせるように呟いたりするこ
とをやったりしますね。それです。
将来大学で宮澤賢治を卒論で扱ってみたいと思っている人
もいるでしょう。その時は、仏教的観点を持って賢治の作品
を読んでみるといいでしょう。﹁銀河鉄道の夜﹂などもファ
ンタジーなどではもちろんなく、宇宙をも包含した自然界の
大きな生命の営み、その中での生物の輪廻転生、そして人間
を始め生き物がいのちを持って生きていることの意味、その
ようなものを賢治は読者に示したかったのではないでしょう
かね。﹃銀河鉄道の夜﹄は何度も書き直されています。思っ
ていることをまとめるのに、賢治は苦労したのでしょうね。
さて、話が中央アジアのことからだいぶ飛んでしまいまし
た。このようにいろいろな面で影響力のある中央アジア、あ
るいはシルクロード。
﹁漢文﹂ということで中国本土だけに
意識を狭く固定してしまわずに、広い視野で眺めていきたい
ものです。今回の講座を通して、少しでも興味が高まってく
れたならば、嬉しく思います。
︵国語科︶
ちょうど時間も来ました。それではこれで終わりと致しま
しょう。どうもありがとうございました。
Ƚ
ȽȁIJĸIJȁȽ
Ƚ
漢字と仮名作品を書く
―
―
加
藤
敏
明
︵書号
創歩︶
Ƚ
ȽȁIJĸijȁȽ
Ƚ
書 に 親 し む
年8月︵近作︶
︵紙︶四尺棉料単宣紅星牌
︵長鋒 ︶︵墨︶和墨
︵筆︶羊毛
︹形式︺半切
︵縦︶ ㎝ × ㎝
限りがないことをいう。
︹釈文︺
﹁無
量
寿﹂
︹意味︺阿弥陀の衆生に与える利益が三世︵過去・現在・未来︶にわたって
漢字作品︵創作︶
▽平成
19
︵解説︶
切に三文字、長鋒︵羊毛筆︶で濃墨を使用し、書体は、
て半
ん
篆書にしてみた。
﹁無﹂は、秦代の﹁泰山刻石﹂と漢代の﹁説文篆文﹂より、
﹁量﹂は、漢代の﹁説文篆文﹂と中国近代の鄧石如より、
﹁寿﹂
は、中国近代の呉昌碩の文字より、それぞれ集字し、創作を
試みた。
基本的に、書体は、秦代の篆書体であるから、起筆は、蔵
鋒︵起筆のとき、穂先を逆から入れ、内側に包み込むように
すること︶で始筆し、字形は、縦長で篆書特有の、横画は水
平、縦画は垂直、左右相称を原則とし、潤筆と渇筆、俯仰法
ロ﹁量﹂ 解字︵形声︶
ます
が 古 い 字 形 で、 桝 を 示 す 意 符
と音符重の省略とから
ちょう
べる意の語源からきている。つまり、ますではかる意。
成る。重の音がリョウに変わった。重の音はもちあげてくら
ハ﹁寿﹂ 解字︵形声︶
︵ ち ゅ う ︶ と か ら 成 り、
チウ︵チュウ︶は受ける意からきている。つまり、壽は、老
が 古 い 字 形 で、 意 符 老 と 音 符
引用した。
イ ロ ハ の 解字 に つ い て は、 漢 和 中 辞 典︵ 角 川 書 店 ︶ よ り
いるまでに受ける久しい年を意味する。
や直筆、側筆を交え、三文字に重厚感が書表現できればとの
の用筆も内包させながら、筆圧を加え、さらに、筆の上下動
思いと、一字一字の墨量の変化、太細や線質の強弱、文字造
こ の イ ロ ハ の 解字 は 、 書 表 現 す る 前 に 基 礎 と な る の で 参
考に明記した。
形などにも工夫し、筆を運ばせた。
︵鑑賞︶
ちゅう
と金文︵鐘鼎文︶殷∼周代のものと、大篆︵籀文︶春秋戦国
しょう てい
解 説 ︶ の 頁 で 述 べ た よ う に、 こ の 作 品 の 書 体 は、
な お、︵
てん しょ
秦代の篆書であるが、この篆書には、古文︵甲骨文字︶殷代
時代﹁石鼓文﹂などと小篆︵秦書︶秦代﹁泰山刻石﹂などが
イ﹁無﹂ 解字︵仮借︶
が古い字形。人がたもとに飾りをつけて、まいをしているさ
あり、小篆は、秦の始皇帝が天下統一︵紀元前二二一年︶し
し
まを表わし、舞の原字。古くからその音を借りて、ないの意
て、 宰 相・ 李 斯 に 献 策 さ せ て 大 篆 を 簡 略 化 し 字 体 を 統 一 し
り
に用いた。
た。この新字体を小篆という。
Ƚ
ȽȁIJĸĴȁȽ
Ƚ
こ の 作 品 を 発 表 す る に あ た っ て、 次 の A ∼ D の 各 字 典 の
※①∼⑧を参考にして創作を試みたので、紹介しておく。
イ
※①
※②
二玄社﹁書源﹂藤原鶴来編﹁無﹂より
A
※③
※④
角川﹁書道字典﹂伏見冲敬編﹁無﹂より
B
※⑤
ロ
※⑥
角川﹁書道字典﹂伏見冲敬編﹁量﹂より
C
※⑦
ハ
角川﹁書道字典﹂伏見冲敬編﹁寿﹂より
D
※⑧
Ƚ
ȽȁIJĸĵȁȽ
Ƚ
年第
︹釈文︺
回書教展出品作
︹形式︺半切
︵縦︶ ㎝ × ㎝
旅歌406︶
安 倍 仲 麿
に、春日の三笠山に出たあの月であるよ。
︹歌意︺空遠く仰ぎ見ると、月が照っているが、あれは昔、日本にいたとき
月 か も 春 日 な る 三 笠 の 山 に 出 で し
天 の 原 ふ り さ け 見 れ ば
︹出典︺
﹃古今和歌集﹄
︵巻第九
仮名作品︵創作︶
︹会場︺上野・東京都美術館
92
︵紙︶手漉和紙 ︵筆︶羊毛︵中鋒︶︵墨︶和墨
Ƚ
ȽȁIJĸĶȁȽ
Ƚ
▽平成
19
(連)
(ハ)
(ニ)
(い)
(て)
とあり、このように、筋切本および元永本には、左注の内容
が詞書となっていることから、それが、最初の形式と思われ
る。左注の存する場合は、普通は題しらずとなっているが、
この詞書は特別である。
︵解説︶この歌は、題意によれば﹁中国で月をながめて詠ん
となり、翌年渡唐し、唐朝に仕え、玄宗皇帝の寵を得た。ま
月 か も
︶留学生
た、李白・王維らの詩人と交際した。天平勝宝四年︵
だ 歌 ﹂ と あ る。 作 者、 安 倍 仲 麿 は、 霊 亀 二 年︵
︵ 語 釈 ︶ こ の 歌 の 部 類 に よ れ ば、 筋 切 本、 元 永 本 に は、﹁ 旅
航したが、暴風雨で安南に漂着、再び、唐朝に仕え、神護景
︶唐朝で客死した。古来、名高い歌として﹃百人
752
一首﹄にも選ばれている。
この歌は、むかしなかまろをもろこしにものならはしに
つかはしたりけるに、あまたのとしをへて、えかへりまう
︵芸術科︶
二行目は、一行目と対比がつくように、渇筆の大きい文字
で放ち書きにし、下部は、一行目とは逆に、重くし、筆圧を
けり。よるになりて月のいとおもしろくさしいでたりける
うといふ所のうみべにて、かのくにの人むまのはなむけし
つけながら、右下への流れを出して、左右の行を調和させた。
て、一行目上部をやや重く、下部を軽くした。
し て 流 れ を 出 し、
﹁見れ﹂
﹁春日﹂﹁なる﹂は、二字連綿にし
筆にし、﹁の﹂
﹁原﹂は二字連綿、
﹁ふりさけ﹂で長い連綿に
半切二行書きにし、墨つぎは、冒頭﹁天﹂と二行目﹁い﹂
の 二 箇 所。 一 行 目 の 冒 頭 は、 弱 々 し く な ら な い よ う に、 潤
︵鑑賞︶
︶出
心﹂とあるが、その他の諸本には﹁羇旅﹂または﹁羇旅歌﹂
雲四年︵
あまの原ふりさけ見ればかすがなる
みかさの山にいでし月かも
770
でこざりけるを、このくにより又つかひまかりいたりける
もろこしにて月を見てよみける
ば、
と あ る。 ま た、 筋 切 本 お よ び 元 永 本 に は、 左 注 の 内 容 が 詞
︹読み︺
天の原ふりさけ見れば
(介)
春日なる 三 笠 の山 に 出で し
(利)
書となっている。
﹃古今和歌集㈡﹄︵講談社学術文庫︶によれ
716
(婦)
(那)
(毛)
を見て、よめるとなむかたりつたふる。
Ƚ
ȽȁIJĸķȁȽ
Ƚ
(可)
にたぐひて、まうできなむとて、いでたちけるに、めいし
406
ଟ ே ⦧
君に伝えたいことがある
いるのである。真面目な勉強家といわれ
実は一種のウォーミングアップになって
が少なくないが、
これは
﹁逃避﹂
ではなく、
作家の中には、忙しいときほど、好き
な翻訳小説などを読んでしまうという人
居をしないことである。
る。横道は準備運動と考えて、そこに長
が小説に移って、勉強する気が失せてく
ページも読んでいたのでは、完全に興味
それすぎるのは禁物である。小説を数十
強 に と り か か る。 も ち ろ ん、 こ の 横 道、
る人の中には、机の前に座った以上、何
二、ゴールを設定すれば、脳は全開モ
がなんでもすぐに勉強を始めなければ
ー ド に な る。 机 に 向 か っ て み た も の の、
にとりかかろうとしても、能率は上がる
だが、気分がのらないときに無理に勉強
め切り﹂をつくるのも、
一つの方法である。
ることがある。こんなときは、自分で
﹁締
ダラとしていて効率が上がらないと思え
まったくやる気が起きず、自分でもダラ
ならないと思い込んでいる人もいるよう
ものではない。すぐに勉強にとりかかる
あ な た た ち で は な く、 君 に 伝 え た い。
君は誰なのか?
理に本を開いて集中するよりも、結果的
き、スッと集中できる。そのほうが、無
めておくと、実際に勉強にとりかかると
しだけ集中し、精神的なエネルギーを高
うな納期でも、それに間に合わせようと
に必死になって働く。無理と思われるよ
先の納期があるときは、納期を守るため
本を開いても、今度はそれを読む気がし
い。こうして軽く集中したら、すぐに勉
をだし日程などをサッと書くのだってい
ムを読むのもいい。あるいは、連絡手帳
いことには、よほどの作家でないかぎり
を書けるとよくいわれる。締め切りがな
Ƚ
ȽȁIJĸĸȁȽ
Ƚ
自学自習の記録から
気分になれないときは、ちょっと横道に
一、 や る 気 が 起 き な い と き は﹁ 横 道 ﹂
にそれてみる。学校での勉強なら、授業
思ったら、自分でも信じられないほどの
そ れ る の も い い の で あ る。
﹁ 横 道 ﹂ で 少 人間、締め切りがないと、ついダラけ
てしまいがちだが、会社の仕事でも取引
開始のベルが鳴って、教師が教壇にのぼ
にずっと効率のいい勉強ができる。
集中力を発揮する。その結果、無理に思
れ ば、 す ぐ さ ま 勉 強 が 始 ま る。 し か し、
ないということもあるだろう。こんなと
ベ ス ト セ ラ ー 作 家 と い わ れ る 人 で も、
を数ページ読んでもいいし、雑誌のコラ
じつは締め切りがあるから、見事な作品
きは、あえて﹁横道﹂にそれるのもいい。
に は 本 を 開 く 気 に な ら な い と き も あ る。
かない。机の前に座ったはいいが、とき
えた納期もクリアできる。
島田
利文
−
横 道 に そ れ る 対 象 は、 頭 を 刺 激 し て
自分の部屋で勉強する場合は、そうはい
くれるものなら何でもいいだろう。小説
−
が、自ら締め切りを設定することによっ
家のように締め切りがあるわけではない
も ち ろ ん、 自 分 で コ ツ コ ツ す る 勉 強
には、仕事のように納期があったり、作
上げることができるというわけである。
揮でき、結果としてすぐれたものを書き
そ、これに間に合わせるべく集中力が発
本気になれない。締め切りがあるからこ
らなくなってくる。
か起きないし、まして勉強する気にもな
曜日を迎えれば、仕事をする気もなかな
気分はブルーになる。ブルーな気分で月
くる。起きる時間がたいてい前倒しとな
をすると、睡眠の時間がふだんとズレて
頭がボンヤリしてしまう。また、寝ダメ
は浅いものとなり、
これでは月曜日の朝、
るのだが、睡眠が前倒しになると人間の
て、それに似た状況をつくることはでき
というわけで、どんなに疲れていたと
る。 た と え ば、
﹁ 今 週 い っ ぱ い で、 こ の
しても、週末に寝ダメはしないほうがい
︵数学科︶
元気に生きいきと頑張っていこう。
私の幸
佐山
洋
昨年は﹁平和・幸﹂という題で書きま
したが、今年は﹁幸﹂についてもう少し
この単元を片づける﹂のような締め切り
ばいい。それだけのことで、睡眠不足は
ふつうに起きて、それから昼寝でもすれ
い。それでも眠りたかったら、一度、朝
は至極当然なことであります。私は私の
各人各様の﹁幸﹂観を持っており、それ
﹁幸﹂の質については人それぞれであり、
別な面から書き進めてみます。もちろん
をつくると、自然に集中力がアップして
本をマスターする﹂とか﹁今週のうちに
くるのだ。
うな気がしない。この
﹁ブルーマンデー﹂
感じられ、とても日曜日いっぱい寝たよ
みればわかるように、月曜日がけだるく
三、週末の﹁朝寝坊﹂は勉強には大敵
である。実際に週末の﹁寝ダメ﹂をして
勉強をするのが、実は疲れない方法でも
ま で 寝 な い こ と だ。 い つ も 通 り 起 き て、 ﹁ 憎 し み ﹂ や﹁ 面 当 て ﹂ や﹁ 皮 肉 ﹂ は 悪
も同じで、日曜日だからといって昼過ぎ
るだろう。もちろん、このことは受験生
をはかる。これによって疲れもとれてく
軽くスポーツをするなどして、気分転換
を 言 わ な い ﹂ よ う に 私 は 努 め て い ま す。
ない﹂﹁人に面当てをしない﹂﹁人に皮肉
いうものです。先ずひとつは﹁人を憎ま
ずるものがあればさらに﹁幸﹂が増すと
解消されるはずだ。
あとは散歩をしたり、 ﹁ 幸 ﹂ 観 を 述 べ て、 皆 さ ん と ど こ か で 通
状態、生理学的にみれば﹁寝ダメ﹂が招
て き ま す。 直 接 相 手 に 言 動 で 示 さ な い
も傷つけまして、その反応が自分に返っ
いると自分が不快になりますし、相手を
い感情です。このような気持ちを抱いて
いた当然の結果なのである。
あるのだ。
寝ダメをすると、日曜日の夜には目が
冴えて眠れなくなることが多い。本人は 高 校 時 代、 そ ん な に 長 く は な い か ら、
このちょっとした習慣術をもち、毎日を
眠っているつもりでも、日曜の夜の睡眠
Ƚ
ȽȁIJĸĹȁȽ
Ƚ
ていると自分の心が汚れますし、以心伝
状態においても、このような想念を抱い
ていたほうが生活に張りが出ます。
たいのであります。頭も体もフル回転し
なもの、たとえば鳥の声を理解しなさい
でも、デュフィの絵を見ても同様のこと
はゲーテやドストエフスキーの本を読ん
とも言っています。
であります。また芸術は現実のいろいろ
三 つ 目 は で き る だ け﹁ 芸 術 ﹂ を 理 解
心で相手にも感染します。なによりもエ
したいと思っています。芸術といっても
音楽、絵画、彫刻、陶芸、舞台芸術、書
ネルギーの無駄使いです。そしてこのよ
うな想念は自分の品格を下げてしまいま
道、 文 学 等 い ろ い ろ あ り ま す が、 創 作 四 つ 目 は 一 日 の 生 活 の 中 で た く さ ん
の 人 々 と 会 話 を し た い と 思 っ て い ま す。
関係にあり、心身一如であります。規則
の面にもあるし、この両者は不離密接な
二つ目には﹁健康﹂に気をつけていま
す。健康とは体だけのことではなくて心
の生を限りなく拡げてくれるものと思っ
でして、芸術を理解することは、私たち
生の真実に相まみえることが出来るわけ
です。芸術を理解することによって、人
センスから生まれてくるものであるから
豊かにしてくれます。以上四項目挙げま
直接お話しできる縁は大切であり、私を
す。同時代に生きる者同志の縁、まして
更に人間がますます好きになっていきま
してコミュニケーションを深めていくと
それらのものを知りたいと思います。そ
楽しみ方は私とは違っており、私に無い
の能力のない私としては各種の芸術ど
す。下品になるということです。私たち
正しい生活をし、体重を一定にして、よ
ています。逆説的に言いますと芸術に触
したが、これらはいずれも私の﹁幸﹂に
は心を常にきれいにしておかないと幸せ
く動くようにしています。怪我や交通事
れることによって現実から最も遠く離れ
直接繋がっているものであります。
個々の行動範囲は狭いものです。他の人
故に気をつけ、どちらかというと粗食で
るとともに、現実に最も近い関係がとれ
れでもその美を貪欲に吸収したいと意気
腹は八分目位にしておきます。食事は量
るものであります。人間を、宇宙を、神
の青い鳥はすぐどこかへ飛んで行ってし
的に足りない位が免疫力も高まり、不足
を、知る手立てであります。私は音楽で
は 自 分 と 違 っ た 生 活 圏 を 持 っ て い ま す。
に対しては体は適切に対応します。腹を
いえばモーツァルトの曲を聴くと天国に
そ の よ う な 中 で の 物 の 感 じ 方、 考 え 方、
十二分目にすると体は弱まります。病気
いるような気分になり、夢から醒めて現
込んでいます。なぜかというと芸術とい
をして何かを得るということもあります
実に戻ると人により優しくなれる自分を
うものは私たちの生、真剣な生活のエッ
が、敢えて病気になる必要はありません
思い出すのであります。このような作用
まいます。
し、通常健康でないと行動の量と質が限
︵保健体育科︶
定されます。私としてはたくさん行動し
Ƚ
ȽȁIJĸĺȁȽ
Ƚ
﹁高校教師﹂になりたくて
野村
拓矢
私は物心ついたときから、どういうわ
ようになる。
いろいろな角度から捉えることができる
深めることで新たな世界を知り、物事を
身にとってよい刺激となり、教材研究を
い。ひとつひとつの教材との邂逅は私自
れるため、生半可な知識では歯が立たな
員側︶にも相当な知識と勉強量が要求さ
日などにあたり休講ともなれば半月以上
講義は週1回単位であるため、翌週が祝
り貴重な時間に思えたが、なにせ大学の
したりできるゼミ︵演習︶の授業はかな
数でプレゼンテーションをしたり、議論
く心理的距離も強く感じた。よって少人
れ、教授や准教授とは物理的にだけでな
要性も理解できる。それではなぜ当時私
とにそれなりの魅力を感じるし、その重
中学校時代の子供たちの教育に携わるこ
学校時代や、大人への第一歩を踏み出す
ちろん今では社会生活全般の礎を築く小
く、あくまで﹁高校教師﹂であった。も
小学校教師でもなく、中学校教師でもな
たことは否めないが、私が目指したのは
よ う に 思 え た か ら だ。
︵これは一般論で
素よりも﹁研究者﹂としての要素が強い
うと、大学の教員は﹁教師﹂としての要
とは難しいと感じた。それはなぜかとい
ば私の思い描く﹁教師像﹂を実現するこ
考えた末、やはり﹁高校教師﹂でなけれ
に考えた時期もあった。しかしいろいろ
の 道 も 視 野 に 入 れ、 大 学 院 進 学 を 真 剣
のがベストなのかもしれない。実際、そ
者として研鑽を積み、大学の教員になる
さて高度な学問や専門的知識にだけ
け か﹁ 教 師 ﹂ と い う 職 業 に 憧 れ て い た。
こだわるのであれば、大学に残って研究
で﹁高校教師﹂にこだわる第二の理由で
はなく、塾の講師でもなく、私があくま
要なものだった。これが、大学の教員で
ムルーム﹂の存在は自分にとって絶対必
磨 し て 協 調 性 を 身 に つ け る 場 所、
﹁ホー
とした変化に気付いたり、仲間と切磋琢
うな意味で毎日顔を突き合わせてちょっ
延長にあり、社会の縮図である。そのよ
ても切れない関係である。学校は家庭の
て﹁ 教 師 ﹂ と﹁ ホ ー ム ル ー ム ﹂ は 切 っ
呼べるものは存在しなかった。私にとっ
したクラスはあったが、ホームルームと
当然のことではあるが、大学には形骸化
顔 を 合 わ せ な い こ と な ど ざ ら に あ っ た。
があくまでも﹁高校教師﹂になることに
あって大学にも教育熱心な教員がたくさ
小学校教師をしている両親の影響があっ
こだわったのかというと、その理由は三
ん い る の で 誤 解 し な い で ほ し い。
︶それ
あった。
講座が学生でごった返す大教室で実施さ
モス校であったため、ほとんどすべての ﹁ ホ ー ム ル ー ム ﹂ な ら 小 学 校 に も 中 学
校にもある。それではなぜ高校教師を望
に、私の通っていた大学はいわゆるマン
つあった。
第 一 に、 自 分 自 身 が で き る だ け 高 度
な学問に触れていたいという願望があっ
た。どの教科でもそうであろうが、高校
レベルともなると、こちら側︵つまり教
Ƚ
ȽȁIJĹıȁȽ
Ƚ
に さ え 思 え て く る の で あ る。 つ く づ く
んな折、生徒はとても頼もしく、
﹁同志﹂
事においても躍起になって探究する。そ
ると、こちらも負けてはいられないと何
もいる。そのような生徒たちと接してい
時には大人顔負けの発想を思いつく生徒
し っ か り し た 考 え を 持 っ た 生 徒 が 多 い。
ティがほぼ確立され、自分なりの意見や
高校生ともなれば自己のアイデンティ
し て は﹁ 感 化 さ れ る 度 合 い ﹂ に あ っ た。
的な深さが挙げられるが、第三の理由と
んだのか。もちろん前述したように学問
りと呟いた。彼の瞳には未来ではなく明
追うかのごとく遠くを見つめながらぽつ
代もあったんだけれど⋮﹂と昔の幻影を
うなれると信じて疑わなかった無垢な時
な野球選手に憧れていたんだ。純粋にそ
供たちに夢を与えることのできる、そん
プロ野球の選手になるのを夢見てた。子
していると、彼曰く﹁俺、小さい頃から
とのこと。あるとき中庭のベンチで話を
続け、現在も野球部のコーチをしている
ているという。幼い頃からずっと野球を
になった。聞けば彼もまた﹁教師﹂をし
た。そこで同年代のある男kと知り合い
し、十日間ほど地元の病院に入院してい
医師や弁護士は最難関の国家試験を突破
﹃先生﹄と呼ばれる仕事がいくつかある。
た。世の中には教師、医師、弁護士など
のかということにも気付くことができ
師という仕事がどれほど恵まれた職業な
ができたんだ。それからもうひとつ、教
とがどれだけ幸せなことかに気付くこと
どありがたいことか、食にありつけるこ
況にあって自由に歩き回ることがどれほ
をすることも許されなかった。そんな状
がることすらできなかった。当然、食事
受けていたから歩くことはおろか起き上
て 四、五 日 間 は 二 十 四 時 間 ず っ と 点 滴 を
り前にできることのありがたさ。入院し
教壇に立てていることをとても嬉しく思
そして現に今、こうして高校教師として
夢 は 学 校 の 先 生 ﹂ と 書 い た 記 憶 が あ る。
いる。思えば小学校の文集にも﹁将来の
とを夢見て早十数年が経過しようとして
以上の条件をすべて満たしているの
が﹁高校教師﹂であった。教師になるこ
と思うよ。入院して学んだことが二つあ
れはそれですごくやりがいのある仕事だ
追い求める夢を支えることができる。そ
でもないと思う。でも教師は生徒自身が
きないだろうし、それほど華やかなもの
野球選手のようには夢を与えることがで
開 い た。
﹁確かに教師という仕事はプロ
もの寂しげなkの表情を見て思わず口を
ら か に 過 去 が 映 し 出 さ れ て い た。 私 は、
力する医師たちを目の当たりにして心か
中で瀕死の重傷患者を必死で救おうと尽
たずに運ばれてくるのが分かる。そんな
サイレンが鳴り響き、救急患者が後を絶
い。今は病室にいるから深夜も救急車の
し、生まれ変わってもまた教師になりた
でも自分は教師こそ天職だと思っている
か ら 地 位 的 に は 低 い と 考 え る 人 も い る。
れらに比べると比較的なりやすい職業だ
しなければなれないのに対し、教師はそ
う思いに至るのだった。
﹁ 教 育 ﹂ と は﹁ 共 育 ﹂ に 他 な ら な い と い
う。私を受け入れ、夢を叶えてくれた母
るんだ。ひとつは当たり前のことを当た
余 談 に な る が、 昨 夏 私 は 体 調 を 崩
校にも心から感謝している。
Ƚ
ȽȁIJĹIJȁȽ
Ƚ
生徒たちを前にして仕事をすることがで
の可能性を秘めたダイヤの原石のような
しいんじゃないかな。教師だけが、多く
のいく形で決着のつくことはなかなか難
ずの憎しみや衝突が生まれ、万人が納得
訴訟にしても刑事訴訟にしても少なから
で欠かせない職業だと思う。でも、民事
れから﹁弁護士﹂も社会的弱者を守る上
ではとても神経が持たないと思った。そ
る、まさに命がけの﹁医師﹂という職業
る思いでいる。ただ自分は生死にかかわ
ら尊敬の念を抱くし、ただただ頭の下が
ち﹂があるのだと信じてやまない。
うか。そこにこそ、教師としての﹁値打
りのよい影響を与えることではないだろ
今後長い人生を歩んでいく上でできる限
とりをプラスの方向に導くこと、生徒が
の最大の務めとは、関わった生徒一人ひ
信念を見出すことができた。思うに教師
してのあるべき姿﹂に関して自分なりの
て 職 務 に 励 ん で い る。 同 時 に、
﹁教師と
がらも自戒の念を忘れないように心がけ
だ﹁大切なこと﹂を見失いそうになりな
わらず忙しさにかまけて入院生活で学ん
るとのことである。私はというと、相変
とを夢見て部員たちと日々汗を流してい
う? と 困 っ て い た。
﹁趣味﹂を辞書で引
して、そのたびに、私の趣味って何だろ
接などで、度々聞かれた質問である。そ
あ る だ ろ う。 私 も 入 試 や 就 職 活 動 の 面
。誰でも
﹁あなたの趣味は何ですか?﹂
このような質問をされたことは何度も
金子
茜
あなたの趣味は何ですか?
である。
きる。やっぱりこれほど恵まれた職業は
︵外国語科︶
ないよ。﹂
いてみると、
﹁仕事や職業としてでなく、
く感慨にふけっていた。しかしその視線
終わるとまた視線を遠くに戻し、しばら
け、時折頷いてくれた。そして私の話が
ができているだろうか。
君たちに少しでもよい影響を与えること
受け持つことになった二年生諸君、私は
グレード数の関係で昨春から突如授業を
向に導くことができたであろうか。また
読んでいるぐらいのこと。決して、それ
のだった。
楽しくて、続けていることなんて ・・・
と
考えれば考えるほどわからなくなったも
個 人 が 楽 し み と し て い る 事 柄 ﹂ と あ る。
は そ れ ま で と は 違 っ て ど こ と な く 強 く、
を楽しんで続けていたとは言えない。そ
さて、今春本校を巣立っていく三年生
私は思いの丈をぶちまけた。その間k 諸君、私は君たちを少しでもプラスの方
は何も言わずにじっと私の言葉に耳を傾
未来のベクトルを見据えているような気
﹁ YES
﹂という返答が多ければ多いほ
ど、 君 ら の 笑 顔 が 増 え れ ば 増 え る ほ ど、
流行の曲を聴いているとか、たまに本を
学生の時は、趣味は﹁音楽鑑賞﹂とか
﹁読書﹂と言っていた。そうは言っても、
がしてならなかった。
私の信念はより揺るぎないものになるの
あ れ か ら 半 年 が 過 ぎ た 今、 k は 勤 務
校に戻り野球部を甲子園に連れて行くこ
Ƚ
ȽȁIJĹijȁȽ
Ƚ
で見ている。本校の卒業生が、宝塚歌劇
が、 最 近 で は 二、三 ヶ 月 に 一 度 の ペ ー ス
である。しかし、それだけでなく、何か
部活動の学校生活ももちろん大切な時間
信を持って答えられるだろうか。勉強や
れ に、 時 間 が な い と か、 余 裕 が な い と
言って、ほとんどその時間を作っていな
団で活躍されていると聞き、興味があっ
生 徒 諸 君 は ど う だ ろ う? 今、﹁ あ な た
学生の頃から年に一度ぐらいは見ていた
の 趣 味 は 何 で す か?﹂ と 聞 か れ て、 自
かったのだから、時間を無理にも作らな
た宝塚歌劇も見るようになった。ミュー
それが楽しいと感じるものであり、それ
ければ出来ないこと、それが趣味という
から何か得られるようなものであって欲
ものだったら、趣味はないということだ
したり、笑ったり、多くの事を考えさせ
しいと思う。きっと、その中から、新た
一つでも趣味を持って欲しいと思う。読
られたり、必ず感動がある。そして、そ
書、 音 楽 鑑 賞 で も 良 い だ ろ う。 た だ し、
でも、今の私は違う。自分に必要のな
い と 思 っ て い た 趣 味 を 今 は 持 っ て い る。
の場に行かないとわからない空気を感じ
ジカルを見ている二∼三時間は本当に
質 問 に は﹁ 趣 味 は 観 戦 や 鑑 賞 で す ﹂ と
な考え、発見があるだろう。そして、気
アッと言う間である。その中で、涙を流
答えるだろう。スポーツ観戦。今年、初
ることが出来る。
ろうと考えていた。
めて相撲を見に行った。テレビで見たこ
るだろう。
持ちをリフレッシュしてくれるものがあ
では、なぜ今、趣味を持ったのか。忙
とはあったが、ほとんど興味がなく、四
しい毎日で、出来れば休日は休みたいと
股名もわからない状態。ただ、見てみた
合 う 音、 息 遣 い、 相 手 を 見 る 目 の 動 き、
迫力に圧倒された。肌がバチバチと触れ
だ。行ってみると、目の前で見る相撲の
チャンスをいただき、国技館へ足を運ん
して、新鮮な気持ちや新たな考えが生ま
かを趣味は与えてくれる。その時間を通
仕事や日々の生活だけでは味わえない何
ら に、 そ の 時 間 で 得 る 物 が 多 い か ら だ。
なぜなら、その時間がすごく楽しく、さ
も 趣 味 の 時 間 を 作 り た い と 感 じ て い る。
ち、楽しみたいものである。
ともたくさんある。できる限り趣味をも
ようだ。まだまだ、これからやりたいこ
ことは自分の考え方一つでできることの
楽しく続けること、そういう時間を作る
い と い う 気 持 ち は 強 か っ た。 ち ょ う ど、
こんなにも面白いものだとは思わなかっ
れ て く る よ う に 思 う。 忙 し い か ら こ そ、
私 は、 趣 味 を 難 し く 考 え す ぎ て い た
考えることもある。でも、今はそれより
ようだ。でも、実は、興味のあることを
た。そして、若手の行司や呼び出しの人
︵数学科︶
達が緊張しながら、頑張っている姿を間
必要な時間なのだと考えるようになっ
して作られた時間ではないのだ。
た。特別な時間であっても、それは無理
近で見られたことも新たな発見だった。
ミュージカル鑑賞。ミュージカルは友
人が劇団に所属していたこともあって大
Ƚ
ȽȁIJĹĴȁȽ
Ƚ
私の好きなことわざ
先 生 と も 積 極 的 に 話 を し た。
﹁もっと英
紙に書いて覚えたりして、ネイティブの
生 の 発 音 を 忠 実 に 守 る よ う 口 真 似 を し、
自分の中で確実に定着させるために、先
かった。その楽しみのために、英単語は
とコミュニケーションをとることは楽し
英語の教師になろうと決心した。
2つをあわせた職業ということで、私は
会を支えるであろう子どもたちに。この
たいとも思った。特にこれからの国際社
が感じた面白さを他の人にも伝えていき
きたいと考えた。それと同時にこの自分
私には好きなことわざがある。それは
﹁
︵意
Where
there's
a
will,
there's a way.
志ある所には道がある︶
﹂というものだ。
しくなった英語の授業に追いつくのは大
なかった。中学生のときと比べ格段に難
た。それは高校生になってからも変わら
その分昼休みは図書室で勉強した。放課
し、 授 業 の 間 の 休 み 時 間 に 早 弁 を し て、
した。朝七時に学校へ行き授業まで勉強
ために、高校三年生のときは夢中で勉強
田中
千鶴
このことわざに出会ったのは高校生の
変であったが、予習・復習は欠かさずに
教師になるためには大学に行かなく
語が上手になりたい、もっと英語という
てはならない。自分の志望の大学に行く
に﹁意志﹂という意味のもの
will
が あ る と 習 っ た と き だ。 高 校 生 な が ら
言語を知りたい﹂と心から常に思ってい
とき、
い た。 休 日 に は 家 で 十 時 間 以 上 勉 強 し
後もぎりぎりまで学校に残って先生に質
た。どうしても大学に行って、教師にな
問し、家に帰ってからもずっと勉強して
紙の辞書は卒業までには手垢で黒くなっ
りたい、この思いだけが自分の背中を押
行い、分からない単語は辞書で必ず引い
ていた。また三年間担任をしてくださっ
た。そのせいか、一年生で新しく買った
らことあるごとにこれを引用した。受験
た英語の先生のところへは、疑問が出て
た。このことわざを知った私は、それか
をがんばる後輩へのメッセージ、留学す
﹁何て深いことわざなのだろう﹂と感じ
る友人のカードなど、人生の岐路に立つ
し続けてくれた。
ができた。
きたらすぐに駆けつけた。とにかく全て
ちろん勉強したが、英語だけは特別多く
人たちにこのことわざをぜひとも覚えて
勉強したように思う。英語の勉強は他と
もらいたかったのだ。だが、誰よりも私
自身の今までの人生そのものがこのこと
高校を卒業した私は、ありがたいこと
の英語を吸収したかった。他の教科もも
に志望した大学のキャンパスに立つこと
わざに支えられてきている、と思う。
今、 私 は 國 學 院 栃 木 中 学 校 の 英 語 科
違い、飽きずにできた。
私 は、 中 学 生 の と き か ら 英 語 が 好 き
の講師として働いている。持ち続けた夢
で あ っ た。 初 め て 習 う 単 語 を 覚 え る こ 中 学・ 高 校 を 通 し、 英 語 の 面 白 さ を
が実現している、ということになる。学
知った私は、将来英語が使える職業に就
と、 そ し て そ の 単 語 を 使 っ て 外 国 の 人
Ƚ
ȽȁIJĹĵȁȽ
Ƚ
習に前向きな生徒たちに刺激を受けなが
ら、勉強を教え、時には彼らから勉強以
外のことを私が教えられる。日々私は教
師であることを感謝している。
こうして長年の夢をかなえることが
で き た の は、 こ と わ ざ に あ る﹁ will
︵意
志︶﹂が大切な鍵となっていると考える。
私が目標とする
先生たち
道の先生を紹介する。
︵一︶南條和恵先生︵宮城県
仙台大学
女子柔道部監督︶
教 員 二 年 目、 と あ る 大 学 で の 合 宿 で
初めて南條先生とお会いした。先生の事
㎏級
は先生が現役選手時代︵元全日本強化選
手・ 一 九 九 七 年 パ リ 世 界 選 手 権
きっと自身が思う以上に重要である。な
い た く な っ て し ま う。﹁ 自 分 の 意 志 ﹂ は
自分の﹁意志﹂はあるのだろうか、と問
徒 た ち か ら 聞 く こ と が あ る が、 そ こ に
友達がそう言うから﹂という言葉を、生
き に よ く﹁ 周 り に 言 わ れ た か ら ﹂
﹁親や
てくれたと思っている。何かを決めると
い﹂という意志は私の今の道を作り上げ
わり続ける生徒たちを相手にする教育
う。日々変化し続ける社会と同様に、変
いえるまで極めることが大切なのだと思
のでなく、あくまでもその職業が天職と
か し、 私 は 職 業 に 就 く こ と が ゴ ー ル な
た﹁教員になる﹂という夢は叶った。し
日々である。高校時代からの目標であっ
の指導方法について自問自答を繰り返す
変わらず教科、クラス、部活とそれぞれ
教員になって六年が経った。早いもの
でもう六年、いやまだまだ所詮六年。相
切な柔道理論︵この文章だけではふざけ
ん ね ん。﹂ そ の ユ ニ ー ク な 表 現 方 法 と 適
﹃ シ ェ ー﹄ っ て ハ ン ド ル 回 す み た い に す
て 相 手 を 崩 す ん や。 そ し た ら な、 次 は
を上げえ。そうそう、そうや。そうやっ
始めは﹃ウキーッ﹄って猿みたいに両手
た﹁巴投げ﹂の指導法だった。﹁ええか、
えているのは、他校の高校生に教えてい
を引きつけられた。今でもはっきりと覚
たが、私はそれ以上にその指導方法に心
名選手とお会いできた感動も確かにあっ
綾川
浩史
ぜならその意志こそがこれからの自分
に、ゴールは無いのかもしれない。しか
代表選手︶からよく存じ上げていた。有
の道を作り出すものであるからだ。この
﹁ 英 語 を 知 っ て い き た い、 教 師 に な り た
文章を読んでくれている中学生・高校生
ているようにしか思えないだろうが︶に
も大切な事は﹃表現力﹄だ。難しいこと
道部監督の岩渕先生に﹁指導において最
感動してしまった。以前、国士舘高校柔
その先生方をこの機会をお借りして紹介
をいかに簡単に、分かりやすく選手たち
﹂ と、 目 標
Where there's a し、 私 に は﹁ こ う な り た い。
と し て い る 魅 力 的 な 先 生 方 が 沢 山 い る。
することによって、自分自身の目標を再
の 皆 さ ん に 送 り た い。﹁
will, there's a way﹂
!!自分を信じて生き
てもらいたい。そうすればあなたたちが
確認したいと思う。ここではお二人の柔
︵外国語科︶
これから作り上げる道は輝きに満ちたも
のになるに違いない。
Ƚ
ȽȁIJĹĶȁȽ
Ƚ
52
さにその通りであった。
とがあった。南條先生の技術指導は、ま
に 伝 え る か だ。
﹂と教えていただいたこ
先 生 に 以 前﹁ 指 導 で 一 番 大 切 な こ と
接し方もそこで教えていらっしゃるそう
は 何 で す か。﹂ と 言 う 質 問 を さ せ て い た
前にできるように、礼儀や人に喜ばれる
社会に出た時に当たり前のことが当たり
たチームだ。
まさに一から先生と部員たちで作り上げ
こ と は﹁ 苦 し い と き こ そ 笑 え ﹂ だ。
﹁日
において先生が最も大切になさっている
ま た、 練 習 中 の 選 手 に 対 す る 声 か け
も、厳しくも温かい言葉だった。精神面
て﹁自分たちが誇りに思えるチーム﹂作
﹁みんなが応援したくなるチーム﹂そし
実 に チ ー ム 力 向 上 に も つ な が っ て い る。
に謙虚さ、先生との信頼関係を生み、確
い。
﹂とおっしゃっていた。
しょ。それがなかったら厳しくもできな
ん だ か ん だ 言 っ て も や っ ぱ り﹃ 愛 ﹄ で
だ い た こ と が あ る。 そ の 時 先 生 は、
﹁な
だ。頻繁に行われる食事会は、選手たち
本 一、 世 界 一 を 狙 う に は、 辛 い、 苦 し
りに一切の妥協はない。
上﹂と掲げたこの逞しいチームは、昨年
選 手 全 員 が﹁ オ リ ン ピ ッ ク 金 メ ダ リ
んぼ。そしてもっと大切なのは、そこで
から
スト﹂を目指し、チームの目標を﹁下克
格はない。妥協のない練習への取り組み
者は厳しいだけでは﹁鬼﹂と呼ばれる資
自分のことをそうおしゃっている。指導
﹁鬼﹂という
指 導 者 を 形 容 す る 際 に、
言 葉 が よ く 使 わ れ る。 南 條 先 生 も、 ご
い な ん て 当 た り 前。 そ れ 以 上 や っ て な
のまま顔にだすのは牛丼でいったら﹃並
と、その厳しさを包み込むほどの細やか
その姿勢は、選手たちにも浸透し、いつで
しゃっている。何事に対しても前向きな
﹃ 特 盛 り ﹄ に な れ る ん や。﹂ と よ く お っ
た選手たちである︵ ㎏ 級田中美衣選手
はなく、仙台大学でその才能を開花させ
人とも高校時代に全国大会で勝ったこと
者を二名︵ ㎏ 級・ ㎏ 級︶出した。二
愛﹂を先生からいつも学ばせていただい
甘やかしではない本当の意味での﹁教育
だ。 現 代 の 日 本 教 育 が 忘 れ か け て い る、
られた者たちも﹁鬼﹂と呼んで愛するの
で優しい視線を併せ持つからこそ、教え
ている。
﹁いつか仙台大学に行ってみたい。
﹂そう
︵二︶真田州次郎先生︵神奈川県 平塚
思って以来、年に一度は合宿に参加させ
はま たけ
て い た だ い て い る。 私 が 初 め て 伺 っ た
市立浜岳中学校柔道部監督︶
五 年 前︵ 二 〇 〇 三 年 ︶、 新 潟 県 で 行 わ
れ た 全 日 本 ジ ュ ニ ア 合 宿 に お い て、 真
創部当初は部員も少なく、反復練習、研
究、 出 稽 古 が 練 習 の 中 心 だ っ た そ う だ。
Ƚ
ȽȁIJĹķȁȽ
Ƚ
空元気でも笑わないと。しんどいのをそ
において、男女を通じて東北勢初の優勝
盛り﹄。そこで笑ってこそ﹃つゆだく﹄
・ ︵二〇〇七年︶全日本学生体重別選手権
もどこでも密度の濃い稽古を行っている。
はその後の講道館杯においても準優勝︶。
また、先生は﹁社会貢献できる人材の
育成﹂も指導の大きな目標にしていらっ
しゃる。先生はよくご自宅で選手たちと
食事会を開かれており、私も何度か参加
させていただいたことがある。そこでは
選手が料理を作ったり、後片付けをした
り、 き め 細 や か な 気 配 り を し て く れ た。
63
63
57
田 先 生 と 初 め て お 会 い し た。 神 奈 川 県
で あ れ だ け の 稽 古 が で き る の だ か ら、
稽古に行かせていただいた。
﹁アウェイ﹂
学校に中学三年生の女子四人を連れて出
い る も の は こ れ だ。﹂ 乱 取 り 中 に 思 わ ず
全 員 が つ っ 走 っ て い た。
﹁自分の求めて
けている。稽古中の三時間、まさに部員
よくて、輝いていた。
涙が出た。先生も、選手も本当にかっこ
選手の高校生引率として私の友人が来て
古をしているのかをどうしても見たかっ
﹁ホーム﹂ではどれ位の意識の高さで稽
おり、その関係で中学生引率の真田先生
ともお話をする機会があった。その時は
い 全 力 で 走 っ て﹁ お 願 い し ま す。
﹂と稽
か っ た。 乱 取 り に お い て も、 私 に 向 か
る﹂という消極的な態度の選手はいな
員 の 中 で、 一 人 と し て﹁ や ら さ れ て い
んでいるものであり、三十名以上いる部
うであってほしいと本校の選手たちに望
ひたむきさ、前向きさはまさに、私がこ
選手たちの稽古、トレーニングに対する
化合宿﹂にも来ていただいた。その際の
て行われている﹁下都賀地区中学柔道強
てみたいと考え、毎年年末に本校におい
に出し切っている。先生自身も選手以上
体﹂すべてを一本一本、いや、一瞬一瞬
で全員が、自分の持っている﹁心・技・
選手から、受け身を覚えたての初心者ま
岳中で流すことになる。チームの主力の
ことを覚えている。私は二度目の涙を浜
巻き込みに入るその姿に思わず涙が出た
以上体重のある私を必死で倒そうと小内
ら自分自身を追い込んでいた。そして倍
何がなんでも全国に出たいと泣きなが
全 国 大 会 予 選 前、 私 と 稽 古 を し た 関 は、
十 六 年 卒 ︶ と の 乱 取 り 中 の こ と で あ る。
化三年目に主将をしていた関芳恵︵平成
私は練習中に選手のひたむきさから
ど、年々交流は多くなっていった。先生
涙が出た経験が一度だけあった。女子強
を呼び、自らの闘う姿を見せたり︵全国
めたそうだ。また、教員大会に生徒たち
徒たちにとって憧れの存在になるよう努
るで体操選手のように何度も見せて、生
数をやってみせたり、鮮やかな前転をま
う。﹂と腕立て伏せを選手の三・四倍の回
たちのために﹁自分が最初の目標になろ
うだ。初心者ばかりの目標のない子ども
ていた先生にとってご苦労も多かったよ
海大と柔道界のトップレベルに身を置い
野 中 就 任 当 初 は、 東 海 大 相 模 高 校、 東
入し、一からチームを作られている。大
から始め、トレーニング機材もすべて購
初は、ご自分で畳を一枚一枚集めること
中学校︶でも現在の浜岳中でも、創部当
生 徒 に 指 導 で き る の だ。 前 任 校︵ 大 野
せたかったからである。
たし、質の高い練習を選手たちに体感さ 真 田 先 生 も 生 徒 に 対 し て に 非 常 に 厳
し い。 そ れ は 自 分 自 身 が 何 に お い て も
あまり深くはお話することができなかっ
たが、それを機に、本校主催の中学生の
柔道大会﹁梅津杯﹂にもお招きをするな
古をお願いしに来る選手たちの目の真剣
に汗を流し、大声で生徒を盛り上げなが
妥 協 を し な い か ら こ そ、 自 信 を 持 っ て
さ、輝きからは、
﹁もっと強くなりたい。
﹂
ら全力で一人一人に向き合って稽古をつ
の指導する選手たちとの交流をもっとし
という気迫が満ちていた。
昨 年︵ 二 〇 〇 七 年 ︶ の 夏 に、 浜 岳 中
Ƚ
ȽȁIJĹĸȁȽ
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教員大会準優勝︶
、総合格闘技の大会に
い う こ と だ ろ う か。 こ の 言 葉 は 坂 本 大
た。しかし今現在は練習予定、練習内容
葉先生の後を、ただついていけばよかっ
前は、総監督の服部先生、男子監督の葭
と思っている。試行錯誤をしながら色々
記 先 生︵ 國 學 院 大 學 柔 道 部 監 督 ︶ の 言
試してはみるものの、勝負の世界は厳し
葉 だ。 先 生 が 大 学 三 年 の 時 に 講 道 館 杯
うだ。自分とまっすぐ向き合い、自分を
く、 女 子 に 関 し て は な か な か 結 果 が 出
も参戦し、アマレスの日本王者や、米軍
まっすぐ見つめ、自分でまっすぐ努力す
ていないのが現状だ。そんな折、南條先
海 兵 隊 員 を 打 ち 負 か し 優 勝 し、
﹁柔道こ
生徒と共に闘うその姿勢に一切の妥協
はない。だからこそ、選手たちも甘えを
る。この姿勢をもつためには、やはりそ
生 か ら メ ー ル を い た だ い た。﹁ う ま く い
も 自 分 が 決 め る よ う に な っ た。 だ か ら、
出 す こ と は な く、 先 生 へ の 信 頼 も 厚 い。
の内面をまっすぐにすることだ。その指
かないときに頑張ることで、本当の強さ
出てきた結果の責任はすべて自分にある
公立中学校ながら、今までに全国大会上
導が部員全員に行き渡り、全員が自分で
が身に付くのだと思います。焦らず慌て
で優勝した後、気持ちを引き締めるため
位者を多く育て上げており、その選手た
人間力の向上を目指した時、そのチーム
に自分で紙に書き、部屋の扉に張ったそ
ちの多くが高校・大学でも全日本強化選
力は何倍にも増す。
そが最強﹂を身をもって示した。
手へと成長している。
ず、 足 下 を 固 め て い っ て く だ さ い。
﹂な
手たちを追い込んでいけば、チームは一
り上げていこうと思った。
ず、決して諦めずに、本物のチームを作
かなか結果が出ないからといって腐ら
時的に強くなるだろう。しかし、最後の
二 つ 目 は﹁ 自 主 性 を 引 き 出 し て い る ﹂
お二人の先生方の共通する素晴らしい ということだ。スパルタ式で指導者が選
点は大きく分けて二つある。
一 つ 目 は﹁ 人 間 教 育 ﹂ を 第 一 に さ れ
ている点だ。他競技、他分野のリーダー
かりにくいかもしれないが、柔道の稽古
ないだろうか。とても抽象的な表現で分
なのは﹁まっすぐ﹂になることなのでは
る。人が物事を成し遂げる際、一番大切
功の秘訣に﹁人間性の向上﹂を挙げてい
変貌を遂げたのだろう。
を持つようになり、意識の高い集団へと
さを教えていく中で、選手自身が向上心
う。しかし、柔道の魅力、強くなる楽し
全員が元々そうであったのではないと思
い う 集 団 だ。 仙 台 大 学 も 浜 岳 中 も 部 員
二〇〇二年、前人未踏の八度目の全国制
ど多く入っているのか。また渡辺先生は
田んぼ、生徒の心という田んぼにどれほ
た 足 跡 の 数 で 決 ま る。
﹂私は柔道という
し た そ う だ。﹁ 米 の 出 来 は 田 ん ぼ に つ け
かなか出ない時、父のある言葉を思い出
と呼ばれる方たちの多くの著書でも、成
に つ い て 言 え ば、
﹁自分の弱点を素直に
高校駅伝の名門校兵庫県立西脇工業高
最後に勝つのは﹁何でも自分でやる﹂と
校の渡辺光二先生は就任当初、結果がな
認 め、 謙 虚 な 気 持 ち で 練 習 に 励 む。
﹂と 本 校 の 柔 道 部 が 男 女 別 の 道 場 に な る
Ƚ
ȽȁIJĹĹȁȽ
Ƚ
えてあげたい。そのためには自分自身も
生活の中で何とかして選手たちの夢を叶
もなく大きい。一度しかない中学、高校
わ り ま せ ん。
﹂指導者の影響力はとてつ
の責任。これだけは駅伝をやめるまで変
たときは選手の努力、負けたときは監督
る。﹁ 指 導 者 は 三 流、 選 手 は 一 流。 勝 っ
覇の祝賀会でこのようにおっしゃってい
に袖を通そう。
い。今日もその大きな夢を抱いて柔道着
ら生まれる事を信じて指導をしていきた
合わせた金メダリストが、本校柔道部か
にか、立派な柔道家としての精神を持ち
多くの全日本強化選手を育て、いつの日
きたい。そして、やるからには一人でも
導方法をこれからも模索し、確立してい
環境にいることに感謝し、自分なりの指
亡き祖父に想う
西
克幸
この文章を書く三日前に母方の祖父は
亡くなった。もうすぐ米寿であった。私
の名前の﹁幸﹂は祖父から頂いた。孫六
つも同じ場所に座り、煙草を吹かし、レ
人の中で私だけが祖父の名前をもらっ
コードを聴き、物静かな祖父だった。そ
︵国語科︶
渡辺先生のような謙虚さを忘れずに、学
浜岳中学校で真田先生が生徒たちにこ
ん な 事 を お っ し ゃ っ て い た。
﹁人並みの
んな祖父幸雄の話をしてみたい。
び続けなくてはいけない。
努力で、人並み以上の結果を求めるな。
﹂
いるのかを自問自答した。きっと他校の
ある。そして子どもだった私は、必ずお
に 行 っ た。 広 い 百 貨 店 を た だ 歩 く の で
私 は 小 さ い 頃、 祖 父 に 連 れ ら れ、 よ
く鹿児島で一番大きな百貨店の山形屋
たのだ。たまに祖父の家を訪れると、い
そ れ を 聞 い た 時、 自 分 自 身 が、 現 在 負
先生の方がもっと努力をしているに違い
昼にお子さまランチを食べた。そのため
けているチームの先生方より努力をして
ない。まだまだ自分にはできること、や
戦地から復員し、その後三十数年間勤務
らなくてはいけないことが沢山あるはず
した場所である。当然、いろいろなこと
私は、いまでもデパートを歩くのが好き
南 條 先 生、 真 田 先 生 を 始 め と す る 多
くの素晴らしい諸先生方と同じ指導は
を知っていて、百貨店のしくみを良く聞
だ。実はこの百貨店の山形屋は、祖父が
できないかもしれない。しかし、今目の
だ。
前にいる生徒たちと一緒に夢に向かえる
Ƚ
ȽȁIJĹĺȁȽ
Ƚ
北半球のエクメーネ︵人類が住んでいる
る。そして、なぜか嬉しい。
いた。会社や社会の仕組みを学習する小
る。 地 図 帳 で 確 認 す れ ば、
月の平均
地域︶のなかで最も寒い場所の一つであ
学校の社会科が得意だったのは祖父のお 祖父と戦争の話をしたのは、私が教員
になってからであった。今回は具体的な
かげだっただろう。
祖父は、旅行が大好きであった。国内
はもとより、ヨーロッパ・北アメリカ・
ア ジ ア な ど 各 国 に 行 っ て い た。 と く に、
い話があったかもしれない。以下に戦時
話は避けるが、まだまだ聞かねばならな
が下がる。祖父は戦後にハイラルを訪れ
の難儀であったかと容易に想像ができ頭
気温は
たようである。その場所で何を思ったの
京に到着し、
て行っただけなのだが、祖父も訪れたと
の干拓地を高い場所から眺めようと思っ
の中国内モンゴル自治区にあり、ケッペ
かぶ習性がある。ハイラルといえば現在
︵亜寒帯冬季少雨︶気候である。
Dw
年に生まれた私に
学習院女子中等科高等科で宮様に地理を
あげたという記憶はない。しかし、私が
てあげられただろうか。とくに何かして
さて、そんな祖父に対して私はなにかし
変 な 時 期 で あ っ た の は 想 像 に 難 く な い。
はその苦労は理解できない。しかし、大
きてきた祖父。昭和
そうだが、戦後の厳しい時期も必死で生
祖先を敬うべきであると思う。戦争中も
の一点だけにおいても、私たちはもっと
はこの世に生きていないからである。こ
祖父がそこで最期を向かえていれば、私
戦争を経験した祖父には、感謝しても
感謝しきれない。なぜか?それは、もし
る。
つか私も同じ場所を訪れたいと思ってい
日佐賀西部第七十八部
前線に向け行動開始。昭和
日、 鹿 児 島 港 に 入 港 し、
日に復
た写真があった。実はまったく同じ場所 地理の教員である私は、地名を聞くと
その場所のケッペンの気候区分が頭に浮
月
℃以下の場所である。どれだけ
中の祖父の足跡を記す。
1
か今となっては聞くこともできない。い
五五九部隊に配属され、海拉爾︵ハイラ
ら、北京の話は二人でよくした。他にも
中 支 武 昌 と 公 陽 の 中 間 点 に お い て 終 戦。
15
月上海より鹿児島港に向け出
20
ンの
を、私は今年の夏に訪れていた。八郎潟
-20
月に満州国境守備隊第
ル︶において北方警備にあたる。昭和
昭和 年 月
戦 時 中 過 ご し た 中 国 は 忘 れ 難 く、 何 度
隊に入隊、同年
らのアルバムがあり、私はよくその写真
長 江 の 話 や 上 海 の 話 な ど 興 味 深 か っ た。
昭和
号作戦参加のため
最も熱が入っていたのは、祖父が戦中滞
港。 同 年
日
在していた中国東北部の話であった。間
天保山にあった鹿児島商業高校︵私の兄
月
違いなく私を地理の道に導いたのは、こ
の母校である︶に一泊し、翌日
年
の 祖 父 の 影 響 で あ ろ う。 葬 儀 の 後、 ま
員帰宅。
8
17
年
た 祖 父 の ア ル バ ム を 私 は 開 い た。 そ の
日後
日南京に向け海拉爾を離れ、南
を見ながら祖父の説明を聞いていた。私
となく訪れている。祖父の家には、それ
19
中で、秋田県男鹿市の寒風山で撮影され
2
月
年
4 10
も北京師範大学で短期間過ごした経験か
1
3
16
Ƚ
ȽȁIJĺıȁȽ
Ƚ
17
15
6 6
思 う と 感 慨 深 く、 不 思 議 な 気 持 ち に な
50
3
21
教えていたことは、祖父にとっては誇り
そ ん な 中 で 唯 一、 サ ッ カ ー だ け は 違 っ
も の だ っ た。 サ ッ カ ー も 好 き だ っ た が、
た。生まれて初めて、自分が没頭できた
自分を振り返って
友達と同じ時間を共有できたことも楽し
かった。コーチは鬼のように厳しかった
し、監督は、できもしないことばかり要
そんなに勉強したかったの?﹂と聞かれ
先日、実家に帰った時に、高校二年生
に な る 弟 か ら、
﹁ 何 で、 大 学 い っ た の?
ことだった。
小学校の時の夢は、サッカー選手になる
け て い る の が 楽 し く て 仕 方 が な か っ た。
求してくる。それでも、ボールを追いか
か?どのような考えを持っているのか?
た。自分には、大学三年生になる弟と高
新井
聖貴
だったようだ。
本校の校歌には﹁祖先の道は見よここ にあり﹂という詩がある。日本人がどの
ような歴史を編んできたか知ることは大
切である。そして、皆さんの祖父や祖母
ということを知ることも、同じように私
など身近な人がどのように生きてきたの
たちにとっては重要であろう。私が祖父
そ ん な こ と を 聞 か れ た の か も し れ な い。
ちょうど、高校二年生というと、自分
の こ れ か ら に つ い て 考 え る 時 期 だ か ら、
ではサッカーで高校に進学しようとして
もせず、毎日、部活に明け暮れた。自分
中学生になると、友達はみんな、塾に
通い始めた。自分と数人の友達が、勉強
校二年生の弟がいる。
うことである。ぜひ、皆さんも話を聞け
いた。中学一年生まではそれでも良かっ
人中
た。 あ ま り に ひ ど か っ た た め か、 親 が、
で、恥ずかしかった。母親は激怒し、か
は自分でも、かなりショックで、衝撃的
なんと、
番まで落ちてしまった。これ
公文式やらそろばんやら習字やら、とに
な り 叱 ら れ た の を 覚 え て い る。 そ れ で
Ƚ
ȽȁIJĺIJȁȽ
Ƚ
の葬儀で思ったことは、祖父ともっとい
るうちに身近な人と多くの話しをしてほ
しかし、突然の質問だったので、自分は
ろいろな話しをしておけば良かったとい
しいと思う。
た が、 中 学 二 年 生 に な る と、 状 況 は 一
られて愕然とした。それまでは
時、担任から、期末テストの結果を見せ
変した。中二の十二月の三者面談。この
答えに詰まってしまった。
︵地歴公民科︶
少し、自分の過去を振り返りながら考
えてみよう。
90
番 位 を 行 っ た り 来 た り し て い た の だ が、
かく自分にいろいろなことをやらせた。
自分は、小学校の頃から成績はかなり
悪く、勉強が大嫌いで、遊んでばかりい
105
結 局、 何 一 つ 身 に な る こ と は な か っ た。
102
れ た の が き っ か け で、 塾 に 通 う こ と に
達 に、﹁ 一 緒 に 塾 に 行 か な い?﹂ と 誘 わ
からなかった。それから少し経って、友
も 言 わ な か っ た の か は、 そ の と き は わ
も、父親は何も言わなかった。なぜ、何
印していたサッカーができると思うと
し、晴れて高校生になれた。そして、封
ごく悔しかった。そして志望高校に合格
変わらず、何も言わなかった。それがす
なっていた。母親は喜んだが、父親は相
いしていた人が勉強を聞きに来るように
つの間にか、今まで自分のことをバカ扱
人を治すのではなく、人を育てることを
身 に な っ て 励 ま し て く れ た 先 生 を 見 て、
絶たれた瞬間だった。が、そのとき、親
か考えていなかった自分にとっては夢を
けば良かったのかもしれないが、私立し
理。﹂ と 言 わ れ、 却 下 さ れ た。 国 立 に 行
してる。﹂と打ち明けると、﹁金銭的に無
ての物ばかりだった。いなかものの自分
な っ た。 父 親 に、
﹁塾に行かせてくださ
にとっては、衝撃が大きかった。そんな
い。﹂ と 頭 を 下 げ た。 そ の と き、 父 親 に
いなか者でも、すぐになれるもので、大
考え、
﹁教師になろう。﹂と思い、大学に
さ れ て し ま い、 思 う よ う に プ レ イ で き
バイトをした。当然、単位はしっかり取
うれしくてたまらなかった。高校に入学
なくなってしまった。そのときの絶望感
りつつ。自分は、なんと、二年生終了時
﹁何しに行くんだ?﹂と聞かれ、
﹁勉強を
は絶対にしない。男だったら結果を見せ
と、相手に対する憎しみは今でもはっき
には、卒業単位数を取り終えていた。教
進学した。自分の高校時代の中心は勉強
ろ。﹂ と 言 わ れ た。 そ の 一 言 は、 自 分 に
り覚えている。
職 科 目 と 専 門 科 目 を 除 い て。 教 職 科 目
と友達の二本柱だった。
火をつけた。
﹁絶対に見返してやる。
﹂と
車 に の め り 込 ん で い く 毎 日 が 続 い た。
父親に乗せられていたのかもしれない。 そ れ か ら し ば ら く は 何 も 手 に つ か な
かったが、以前から好きだったバイク・
いう気持ちになった。今思えば、すべて
十六歳になってすぐに中型の免許を取
は 思 っ た 以 上 に つ ら く 苦 し か っ た。 だ
して、サッカー部に入り毎日が楽しかっ
ま ず、 家 で も 塾 で も 授 業 に 集 中 し た。
勉強は家ではできなかったので、勉強で
り、毎日のように友達とバイクに向かい
が、自分の夢のためだから楽しくもあっ
た。高一の六月。これが運命の試合だっ
きる環境が整っているところでがんばっ
合った。そんな中でも、自分の夢は医者
た。専門科目は実験が多かった。とにか
し に・
・
・﹂ と 答 え る と、﹁ ほ ぉ、 勉 強 す
た。 六 月 に 部 活 が 終 わ り、 そ こ か ら は、
になることだったので、勉強は続けてい
く、理科系だったから実験だらけ。泊ま
るのか?﹂と言われ、
﹁はい。
﹂と答える
月 曜 か ら 土 曜 ま で は 勉 強。 日 曜 は サ ッ
た。自分でもそこそこがんばっていたと
た。試合中、相手チームの選手に膝を壊 大 学 に 入 学 す る と、 自 分 は 東 京 の 大
学に進学したので、見る物すべてが初め
カ ー な ど、 体 を 動 か し た。 み る み る 成
思う。高一の冬、父親に﹁医学部を目指
と、﹁ 俺 は 金 を ド ブ に 捨 て る よ う な 真 似
績が上がり、とった事のない点数のオン
学時代は楽しかった。来る日も来る日も
パレード。順位もどんどん上がった。い
Ƚ
ȽȁIJĺijȁȽ
Ƚ
いろいろやった。高校の時からやろうと
にとっては結構、楽しかった。バイトも
代、あまり実験をやっていなかった自分
非常勤ということもあったのだが、学校
いるのか。
﹂と思い始め、悩んだあげく、
が、 だ ん だ ん、
﹁ ま だ、 生 徒 扱 い さ れ て ︵理科︶
る先生方も多く、初めはやりやすかった
た。 母 校 と い う こ と も あ り、 知 っ て い
り込みなんて日はざらにあった。高校時
決めていた塾の講師のアルバイトは四年
を変えようと決心した。
大学に進学した理由・
・・それは教師に
迷ったが、母校でお世話になることにし
なるため。自分の夢を叶えるため。今な
間続けた。いろいろな話を聞き、いろい
感じる。もっと、いろいろな勉強をした
型やいろいろなことで注意されたことも
なりうれしかった。赴任してすぐに、髪
んて夢にも思わなかった。それだけにか
手本にしながら、少しでも早く、先生方
に安心してもらえるように最高出力でが
んばっていきたい。
会 人 だ な。 が ん ば れ よ。﹂ と 言 っ て く れ
た。直接、そんなことを言われたのは初
が同時にうれしかった。まだまだ、父親
ら、こう答えるだろう。
ろな人の考えに触れ、いろいろな物を見
そ ん な 中、 國 學 院 栃 木 の 募 集 を 見 て、
ることができた。大学時代は時間がたっ
試験を受けに来た。まさか、合格するな
り、ためになる資格なんかを取得してお
定をもらっても、教育関係に進みたかっ
た 自 分 は、﹁ 教 師 ﹂ と い う 夢 を 追 い か け
た。卒業間近の二月二十五日、福島にあ
にはかなわないと思った瞬間だった。
めてだったので、かなり照れてしまった
まり、そのあと、自分の母校である高校
る日大の附属高校の非常勤での採用が決
に 非 常 勤 で の 採 用 が 決 ま っ た。 卒 業 後、
Ƚ
ȽȁIJĺĴȁȽ
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ぷりあったのに、今思うと、すごく短く
けばよかったのかなぁなんて思う。就職
あった。今でも、かなり迷惑を毎日かけ
社。 内 定 も
た。バイトはしていたものの、実際に働
12
く興味があったからだ。でも、やはり内 父親は、國學院栃木に決まったときに
初 め て、﹁ お め で と う。 こ れ で や っ と 社
くということはどういうものなのかすご
てしまっている。いろいろな先生方をお
活動もやった。エントリー数 以上。面
接・ 試 験 を 受 け た の は
50
社決まった。自分は早く働いてみたかっ
25
れたのである。
峰
茂
樹
したらしい。このオペラの出演依頼を受けた時、未だかつて
手田谷力三の歌う
〝ディアヴォロの歌〟
は空前のヒットを飛ば
ブームを巻き起こした。当時の浅草オペラの人気テノール歌
国のオペラを日本に紹介し、オペラが大衆の娯楽として一大
正 六 年 ︶ か ら 一 九 二 三 年︵ 大 正 十 二 年 ︶ に か け て 数 々 の 外
ラで日本初演がなされている。浅草オペラは一九一七年︵大
一九一九年︵大正八年︶に、その頃一世を風靡した浅草オペ
今の日本ではまったく上演される機会がない。ところが何と
息づかいが感じられないので極めて歌い辛い。また、立ち稽
演もあるが、モニターではテンポを確認できても、指揮者の
は舞台上のあちこちに指揮者のモニターを設置して行なう公
から見えない位置でペンライトを片手に指揮している。最近
が、このような時も左右の舞台袖や客席最上階奥など、観客
て い る 場 面 で、 指 揮 者 の 棒 が 位 置 的 に 見 え な い 場 合 が あ る
払わなければならない。また、舞台上で多くの出演者が歌っ
で振っている指揮者のテンポとずれないように細心の注意を
ど的確な指示を出す重要な役目である。オーケストラピット
副指揮者は舞台袖で歌うソリストやコーラスの陰歌がある
時、正指揮者のモニターを見ながら、歌い出しのきっかけな
ならない存在であるので簡単に説明したいと思う。
三つの役割は実際の舞台には登場しないが劇場にはなくては
指揮及び訳詞は城谷正博氏で、新国立劇場の副指揮者、プ
ロンプター、コレペティトアとして活躍している。これらの
私 の オ ペ ラ 人 生 Ⅴ
浅草オペラ復活﹃フラ・ディアヴォロ﹄
二〇〇七年︵平成十九年︶二月、新国立劇場小劇場におい
て、フランスの喜歌劇﹃フラ・ディアヴォロ﹄が上演された。
聞いたことのないオペラに戸惑ってしまったが、七十歳前後
古の段階では指揮者のアシスタントとしてオペラ全体を把握
この作品は十九世紀前半に活躍したフランスの作曲家オベー
の音楽ファンのほとんどがこの曲を知っているのには驚かさ
ルの作品で、オペラ・コミックの代表作であるらしいが、昨
れた。そしてこのオペラが八十八年振りに日本で取り上げら
Ƚ
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して成功していく人も少なくない。
指揮者として劇場で多くの研鑚を積んで、オペラの指揮者と
して、いざと言う時に備えなければならない。このように副
もので指揮者には悪いが、プロンプターを見ていた方がはる
はプロンプターが振ってくれることもしばしばある。皮肉な
のである。さらに独特の振り方をする癖のある指揮者の場合
形の出っ張りがあるが、これが所謂プロンプターボックスと
思うが、オーケストラピットとの境目、舞台中央前に黒い箱
プロンプターは簡単に言えば本番の最中に歌詞を教えてく
れる貴重な方である。オペラをご覧になった方は気がつくと
に公演を陰で支える
〝舞台の下の力持ち〟なのである。最近の
私などは三十分も耐えられないだろう。プロンプターはまさ
手を相手に格闘し続けている。おそらく大柄で閉所恐怖症の
狭い部屋に隔離され、舞台上のホコリをもろに浴びながら歌
かに歌いやすい。プロンプターは全幕通して身動き取れない
言われるものである。
公演では終演後の緞帳前のカーテンコールで、主役の歌手達
プロンプターボックスである。顔だけ出して様子を窺うヘッ
かける緊迫した場面がある。その時彼女が身を隠すのがこの
時に歌っていくアンサンブルが多く書かれているが、これだ
かい合い、音程、リズム、原語などを徹底的にチェックして
てくれる人である。それぞれのキャストとマンツーマンで向
コレペティトアは本番まで、音楽稽古、立ち稽古、舞台稽
古と一連の稽古の流れの中で、それ以前に個人稽古を行なっ
が、感謝をこめてボックスに手を差し伸べプロンターと握手
プバーンの恐怖に満ちた表情も何か愛らしくて美しかった。
けは相手なしで練習してもなかなかうまく行かない。コレペ
今は亡き大女優オードリー・ヘップバーンのファンなら話
が分かりやすい。彼女の主演映画
﹁シャレード﹂のラストシー
プロンプターはその狭いスペースの中にスコア︵楽譜︶を
片手に入り、舞台上の歌手が歌い出す直前の素早いタイミン
ティトアはピアノを弾きながら、登場するすべての役のパー
をかわすシーンも多く、客席から笑いが巻き起こることもし
グで歌詞の頭出をしてくれるのである。もちろん箱でカバー
ト を 歌 っ て ア ン サ ン ブ ル に 絡 ん で く れ る の で あ る。 ま っ た
ばしばである。
した形になるので、客席からはまったく見えないし、囁くよ
く凄い才能である。ある意味では指揮者より完璧にスコアを
ン を 思 い 出 し て い た だ き た い。 ヘ ッ プ バ ー ン が 悪 役 に 扮 す
うな声で言葉を出すので客席に聞こえる心配はない。歌手は
把握しているかもしれない。歌手が暗譜できる状態になるま
るウォルター・マッソーから逃れるために劇場の中に入り込
完璧に暗譜したつもりでも、本番はどんなハプニングがある
で稽古に付き合ってくれるのだから、これまたオペラ歌手に
み、その後をケーリー・グラントが彼女を助けるために追い
とも限らない。不意に歌詞が出てこなくなる場合もしばしば
指導してくれる。オペラのスコアには、複数のキャストが同
で、こんな時にこれほどたより甲斐のある強い味方はいない
Ƚ
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「フラ・ディアヴォロ」の舞台
とっては必要不可欠の最強のアシスタントである。
このように新国立劇場の音楽スタッフとして、多面に渡っ
て才能を発揮する城谷氏には、これまで﹃ジークフリートの
冒険﹄﹃ニュールンベルクのマイスタージンガー﹄、﹃愛怨﹄
、﹃イ
ドメネオ﹄などのオペラでお世話になってきた。そして、今
回の﹃フラ・ディアヴォロ﹄で、彼は正指揮者としてオーケ
ストラピットに入ったのである。
﹃フラ・ディアヴォロ﹄の演出と日本語台詞を担当
一方、
するのは、同じく新国で演出助手として活躍する田尾下哲氏
である。通称、演助︵エンジョ︶と呼ばれるこの存在も劇場
では大きい。言うまでもなく演出家のサポートが仕事である
が、新国のようにインターナショナルな劇場では、世界で活
躍する外国人の歌手と共に演出家も招聘される。語学力も要
求されるし、外国人演出家のプランニングを正確に把握して
演出の補佐役を務めなければならない。また、日本人と外国
人混合の稽古に支障のないようにスケジュールの調整をする
のも重要な役目である。さらに新国でプレミエ公演を再演す
る場合、演出家が来日しないことがあるが、その時は演助が
代役を務め、新キャストを相手に忠実に同じ舞台を再現せね
ばならない。まさに演助の腕の見せどころとなるのだ。これ
まで数本の再演演出を手がけてきた田尾下氏は、新国の演助
としてその手腕を発揮し大きな存在となってきた。
今回、新国で取り上げるオペラ作品の中では異例とも思わ
れる喜劇オペラ﹃フラ・ディアヴォロ﹄を、新国の若手実力
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込んでくる。そこへ、侯爵に変装したフラ・ディアヴォロと
われて、資産家夫婦のコックバーン卿とパメラが旅館に駆け
で会議中のところへ、強盗団フラ・ディアヴォロの一味に追
と恋仲になっている。ある朝警官達が三億円事件の対策本部
に嫁がせることを計画しているが、彼女は警官のロレンツォ
不振のため旅館の存続をかけて娘のツェルリーナを大手旅館
に注目された。舞台はとある温泉旅館。主人マッテオは経営
尾下演出は物語の場所を昭和四十年代の日本に置き換えた点
である警官などが登場しコメディーを繰り広げる。今回の田
る貴族夫婦、彼らが宿泊する宿屋の主人と娘、その娘の恋人
ロとその子分達、ディアヴォロの強盗計画のターゲットとな
本来のオペラ﹃フラ・ディアヴォロ﹄の舞台はイタリアの
ナポリで、その周辺を荒らし回る山賊の首領フラ・ディアヴォ
目指す立派な体格の学生であり、衣装を着るのに大変苦労し
加したものである。また、合唱団のほとんどがオペラ歌手を
のアルバイトで、お呼びがかかった時は万障繰り合わせて参
ことができたのだ。私のようなミーハーにとっては文句なし
ズ、ピンクレディー、郷ひろみなどの人気歌手を間近で見る
ンルン気分で帰ったことを思い出す。その上、キャンディー
らしながら、ちゃっかりあの当時一万円のギャラを頂いてル
三十分前に全員集合。ほとんど何もすることがなくてぶらぶ
ル。 そ れ か ら 長 い 休 憩 時 間 で、 夕 食 の お 弁 当 を 食 べ て 本 番
のお弁当の支給。そして、三時頃から合唱シーンのリハーサ
の生放送本番に向けてお昼の一時頃楽屋入りし、まずはお昼
の短パン姿と言ったらご記憶の方もいらっしゃると思う。夜
かある。白いベレー帽に白の可愛らしいスモック、そして白
余 談 で は あ る が、 私 は 学 生 時 代 に 少 年 少 女 合 唱 団 の メ ン
バーとしてこの〝八時だヨ!全員集合〟
に参加したことが何度
やっているような演出仕立てとなった。まさに昭和四十年代
宿泊客を装った三人組の手下ベッポ、ジャコモ、ドロンヌが
たことも懐かしい思い出である。出演するたびにドリフのコ
派コンビ城谷氏と田尾下氏が、一体どう上演するのかが楽し
登場して、あの手この手を使って金庫強奪計画を開始する。
ントの厳しいリハーサルを見学しながら、芸人のプロ根性魂
の超人気番組〝八時だヨ!全員集合〟
をイメージしている。
その他仲居さん達も登場して、七転八倒のドタバタ騒動を繰
みで期待が寄せられたのである。
り広げる。
オの部屋など、階段を上がって二階正面には宴会場、そして
なったのである。
てお笑いキャラに徹することができるかが大きなポイントと
この公演では日頃まじめな役に取り組んでいるオペラ歌手
が、ドリフまでとはいかなくとも、どの程度まで自分を捨て
の凄さを痛切に感じた。
資産家夫婦の部屋、警官の溜まり部屋などがあり、すべて客
二階建ての旅館の内部を再現した舞台はすべてがオープン
スペースで、正面は旅館の前庭、帳場、風呂場、主人マッテ
席から丸見えの状態で、常にそれぞれの部屋で誰かが何かを
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ȽȁIJĺĸȁȽ
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昭 和 四 十 年 代 を 意 識 し た 田 尾 下 演 出 は、 舞 台 セ ッ ト ば か
りでなくその当時のものが盛り沢山に組み込まれた。たとえ
ン﹂が二〇〇八年に三十年振りに日本テレビ系で復活するそ
と思わず興奮してしまった。この伝説のアニメ﹁ヤッターマ
いて、
﹁あっ!〝ぶらり途中下車の旅〟
のナレーターの声だ!﹂
ば、フラ・ディアヴォロの手下であるドロンヌ、ベッポ、ジャ
フ ラ・ デ ィ ア ヴ ォ ロ は ド 派 手 な や く ざ の 親 分 風 で、 ロ ン
グコートにパナマハット、ゴッドファーザーもどきのスタイ
うだから今から楽しみだ。
ルで登場したかと思えば、旅館では浴衣姿、入浴シーンはサ
コモの三人は一九七五年︵昭和五十年︶から始まったテレビ
出てくるドロンジョ、ボヤッキー、トンズラーの泥棒三人組
アニメ﹁タイムボカンシリーズ﹂の第二作
〝ヤッターマン〟
に
が原型らしい。私は三人組の一人ジャコモを演じたが、残念
シーに登場。今風のお笑いタレント、にしおかすみこもびっ
ラシで身体を巻いて、腕には龍の入れ墨、なかなか凝った演
くりと言ったところだ。また、警官達の名前も傑作で、課長
ながらこのアニメが放映された頃は一度も見たことがなかっ
ベエ様なるもの
出である。資産家の奥さんパメラは銀座のママさん風な派手
も登場して、慌て
掻きながら登場するきんたいち、バズーカ砲を抱えて登場す
は花札大好きのイノシ課長、その他、袴と下駄をはいて髪を
な和服で登場。ドロンヌは皮の短パンに黒の網タイツでセク
ふためいた芝居
と言ってドクロ
を演じたが、さっ
ぱりこれがどう
が稽古場に顔を
の滝口順平さん
演となった声優
エの声だけの出
か し、 ド ク ロ ベ
からなかった。し
熱が入ってドリフ顔負けの迫真の演技であった。その他、旅
女風呂を覗くシーンである。覗く人も覗かれる人もみなさん
ころへ、 ど
「 らえもん の
」〝地球破壊爆弾〟まで登場する始末
だ。きわめつけはフラ・ディアヴォロとベッポとジャコモが
どきのドタバタで、天井裏からネズミが出てきて大騒ぎのと
と分かり、泥棒三人組が忍び込むシーンは昔の吉本新喜劇も
大騒動となる。金庫の隠し場所が資産家夫婦の部屋の天井裏
私が演じたジャコモは仲間二人と共に登場して、記念撮影
顔出しパネルを発見して盛り上がるが、顔が抜けなくなって
るランボーなど、ほとんどギャグオンパレードである。
0
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見 せ た 時、 彼 の
いうものかも分
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独特の一声を聞
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ȽȁIJĺĹȁȽ
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た。おまけに客席上のモニターに
〝お仕置きだべえ∼!〟
など
泥棒三人組 左からベッポ、ドロンヌ、ジャコモ(筆者)
何と中身はオイルショックで高騰した貴重なトイレットペー
トシーンでは、
みんなが期待して探し当てた金庫を開けるが、
て、昔の刑事ドラマお馴染みのシーンである。そして、ラス
ポが捕まって警官に尋問されるシーンはカツ丼まで登場し
館前の池でツチノコが釣れて大はしゃぎするシーンや、ベッ
場の大きな成果である。
ディアヴォロ﹄をあえて取り上げて紹介したことは新国立劇
今回、滅多に日本では上演されないコミックオペラ﹃フラ・
かし、
新しいことにチャレンジすることに批判はつきもので、
の程度の笑いはナンセンスと受け取られたかもしれない。し
ワーグナー、プッチーニばかりがオペラではない。国の運営
上げていくことも有意義な企画であると思う。ヴェルディ、
今後、若い指揮者や演出家、新進歌手を育てていくために
も、このような小劇場空間から小作品のオペラを数多く取り
このように、普通のオペラのイメージからすれば随分かけ
離れてしまったバカバカしい内容で、さぞお客さんも呆気に
でまかなわれる唯一の劇場こそ、興業収益だけを考えざるを
パーだったというオチがついて幕となる。
とられたのではないかと思う。私なんか宴会芸でヒゲダンス
めて大きい気がする。
る。日本でオペラを育てる立場にある新国立劇場の役割は極
えない公演団体とは一味違った路線を打ち出すべきなのであ
もやらされたくらいである。
公演を振り返って、よくぞここまで出演者全員が夢中で取
り組んだものだと感心している。しかし、これだけビショビ
ショに汗をかいて駆けずり回って頑張った舞台であったが、
が際だってオペラとして十分楽しめたのではないかと思う。
な気がする。もっと歌を中心に、動きを半分に抑えれば音楽
を走り回りながらアンサンブルを歌うのは無理があったよう
立ての芝居と違って常に音楽が絡むので、激しい動きで舞台
りすぎたきらいがある。また、オペラの場合は普通の喜劇仕
はいろいろな当時の流行を再現しようとしてあまりにも欲張
く間に一般の人達にも知れ渡るようになった。人気を集めた
ダルという偉業を成し遂げたニュースが全国に放送され、瞬
た。本来、オペラファンしか知らないような曲が、この金メ
た荒川静香さんが演技した時に使われた曲として有名になっ
〝トゥーランドット〟と言えば、二〇〇六年︵平成十八年︶
のトリノオリンピックのフィギアスケートで金メダルに輝い
子供オペラ﹃スペース・トゥーランドット﹄
やはりオペラ歌手は喜劇役者のようにはうまくいかない。笑
この曲が着メロダウンロード件数上位に躍り出たというから
残念ながら評判ははっきり言ってよくなかった。田尾下演出
いでウケを取る場面でもすべってしまって、客席がしらける
驚きである。
このオペラはイタリアのオペラ作曲家ジャコモ・プッ
本来、
様子も感じ取られた。
このご時世、
浅草オペラ風の笑いはまっ
たく通用しないのである。まあ新国の上品なお客様方にはこ
Ƚ
ȽȁIJĺĺȁȽ
Ƚ
「スペース・トゥーランドット」の舞台
チーニの代表作である。私も二〇〇一年︵平成十三年︶の新
国で行なわれた﹃トゥーランドット﹄に出演して、その作品
の素晴らしさを身を以って体験した
︵本誌第十号に記載︶
。物
語 の 舞 台 は 中 国。 絶 世 の 美 女 と 讃 え ら れ て い る ト ゥ ー ラ ン
ドットと結ばれるためには、三つの謎を解くことが条件とさ
れる。一問でも解けなかった場合は即刻、処刑されるという
厳しい掟がある。ダッタンの王子カラフはその氷のような冷
たい性格である姫の美貌に魅せられて、盲目の父親ティムー
ルとカラフに密かに思いを寄せるリューの制止を振り切り謎
解きに挑戦することを決意する。これまで多くの王子が処刑
され若い命を落としてきたが、カラフは見事に三つの謎を解
き明かし結婚の権利を獲得するが、トゥーランドットは動揺
して彼との結婚を拒む。寛大な心のカラフは﹁もし夜明けま
でに私の名前を言い当てることができたら自ら命を絶つ﹂と
約束する。トゥーランドットは﹁王子の名前を探し当てるま
では誰も寝てはならぬ﹂と命令を下す。これに対してカラフ
はトゥーランドットへの愛、そして自分の勝利を確信して声
高らかに歌い上げる。このカラフのアリア〝誰も寝てはなら
ぬ〟こそが荒川さんが使った曲なのである。トゥーランドッ
トはリューを締め上げて、彼の名前を聞きだそうとするが、
﹁王子の名前を知っているのは私だけ﹂と言い残して自害し
て 果 て る。 自 分 を 犠 牲 に し て ま で カ ラ フ の 愛 を 貫 き 通 し た
リューに感動したトゥーランドットは、これまで固く閉ざさ
れた心を開き、カラフと永遠の愛を固く結び民衆から讃えら
Ƚ
ȽȁijııȁȽ
Ƚ
ラベンダー姫を誘拐するペペ、ロン、チーノ(右端 筆者)
れて幕となる。
そして、この壮大なスケールで描かれた〝愛〟の物語が子供
達のために分かりやすく改作されて、ファンタジーオペラと
して二〇〇七年︵平成十九年︶七月に上演されたのである。
原作のオペラの重苦しい人間関係は排除され、舞台も中国か
ら宇宙空間に移しヒーローの姫救出作戦として,子供達が楽
しめるような内容に大きく変更された。
氷の惑星ジェラート星に住むトゥーランドットは自分より
美しいと言われるフローラ星に住むラベンダー姫に嫉妬し、
ペペ・ロン・チーノの三人のギャングに彼女を誘拐させ檻の
中に閉じこめてしまう。娘を連れ去られて悲しむ王様のため
に、宇宙警備隊のキャプテン・レオはサイボーグのタムタム
を連れて、姫を救出するためにジェラード星へ向かう。キャ
プ テ ン・ レ オ は ラ ベ ン ダ ー 姫 を 助 け る た め に、 ト ゥ ー ラ ン
ドットから出題された三つの謎を見事に解き明かし、ラベン
ダー姫を救い出し二人はめでたく結ばれてハッピーエンドと
なる。
このように原作のオペラの内容とはほど遠いものとなった
が、まあそれはそれとして、出演者は現在オペラの舞台で活
躍するバリバリのオペラ歌手である。子供達にオペラの楽し
さを存分に味わってもらえるように、いろいろな工夫が施さ
れ面白い舞台となった。
この公演では舞台中央奥に大きなスクリーンが設置されて
これが大活躍する。オペラが開始される前から遠近感のある
Ƚ
ȽȁijıIJȁȽ
Ƚ
ムタムが楽しい会話と歌を繰り広げながら進行していく。映
ケストラと舞台上では宇宙船に乗ったキャプテン・レオとタ
でも見ているような感覚だが、
映画と違うのは、
生演奏のオー
子がスクリーンに映し出される。まるで﹁スターウォーズ﹂
隕石をすり抜けて時空を超えながらワープして進んでいく様
ダー姫を救出に向かうシーンは、宇宙船が惑星や降ってくる
画像が投影され宇宙空間を演出するのである。特に、ラベン
込んだのである。
歌い切るところが、いかにも大袈裟で客席を笑いの渦に巻き
などと、原作のオペラさながらに声高らかに真面目に正解を
この問題に真剣な表情で挑戦し、﹁風邪だ!﹂、﹁信号無視!﹂
と非難の声が飛んできそうであるが、キャプンテン・レオが
なぞなぞで、
子供達からは﹁子供だと思って馬鹿にするな!﹂
のは黄色虫、では赤信号で渡る虫は?﹂、このような単純な
う?﹂、二問目は﹁青信号で渡るのは青虫、黄色信号で渡る
また、トゥーランドットは〝イナバウアー〟という新兵器の
冷凍銃を片手にみんなを威嚇するが、これに撃たれると身体
像と実際の舞台を一体化した演出が効果的で音楽と共に臨場
感に溢れ、子供達の目を釘付けにしていく。
さらに、トゥーランドットの冷酷な性格のイメージを強調
するために、別のスクリーンを使用して、彼女の険しくて冷
たい顔の表情をアップにして映し出した。トゥーランドット
の不気味な台詞回しや怒りに燃える高音の響きに怖がって身
を引いた小さな子供達も多かったのではないか。
キャプテン・レオが檻に閉じ込められているラベンダー姫
に会い、一目惚れして歌うシーンはもちろん名曲﹁誰も寝て
はならぬ﹂。ここではラベンダー姫との愛の二重唱として挿
入された。よく知られた美しい旋律に聴衆も陶酔した様子で、
0
0
0
気になる謎解きのシーンだが、死と向かい合わせの緊迫し
た雰囲気はまったく排除され、子供達も喜ぶなぞなぞに大き
は、葉っぱと風船で飾り付けられた重い竿を手にして客席後
のジェラート星がトロピカル星として生まれ変わるシーンで
姫の誘拐シーンでは宇宙警備隊と激しく戦い、ラストシーン
で、舞台の隅々から客席に至るまで走り回った。ラベンダー
く変更された。一問目は
﹁太郎君が学校を風邪で休みました。
ろから登場しサンバを踊りながら歌うのである。とにかく苦
﹃ フ ラ・
私 の 今 回 の 役 が こ の 三 人 組 の 一 人 チ ー ノ で あ る。
ディアヴォロ﹄のジャコモに負けず劣らず運動量の激しい役
子供達にも一番ウケたような気がする。
した。
名前からしてもズッコケトリオと言った印象であるが、
は、ぺぺ、ロン、チーノと言う三人組のギャングとして登場
原作のオペラで登場する女王に仕えるピン、パン、ポンと
いう三人の大臣は、この﹃スペース・トゥーランドット﹄で
ウケだった。
は大きく反り返り瞬間的に凍りついてしまうというのもバカ
0
そ こ で 花 子 さ ん が お 見 舞 い に 行 こ う と す る と、 途 中 に 牛 が
客席からは大きな拍手が巻き起こった。
0
いて蝶々が飛んできました。さて、太郎君は何の病気でしょ
Ƚ
ȽȁijıijȁȽ
Ƚ
0
しくて息が上がってしまい歌うどころではなかった。ペペは
に放映されたばかりだったので、この訃報に驚いている。イ
ご当地イタリアで、パバロッティを知らない人は一人もい
な い ほ ど の 人 気 ス タ ー だ っ た。 一 九 九 七 年︵ 平 成 九 年 ︶
、私
タ リ ア の テ ノ ー ル 歌 手 パ バ ロ ッ テ ィ と 言 え ば、 ス ー パ ー ス
されていた時も、パバロッティが出演するオペラのチケット
ターとして世界のオペラ界に君臨していた。
い時と違って体力ダウンをまざまざと感じた公演だった。
は即日完売で、現地の人でさえも手に入れるのが困難な様子
三十代、ロンは四十代のオペラ歌手が演じたが、私はすでに
しかし、盛り上がるカーテンコールで、握手を求める子供
達の満足感に満ちた生き生きとした表情を目にした時、披露
だった。テレビのバラエティ番組にはパバロッティのそっく
五十代である。やはりこれだけの年齢の差は大きく、二人に
困憊もぶっ飛んで達成感に満ちた最高の気分となった。これ
りさんまで登場して笑いを取っていたくらいだ。また、イタ
負けないように必死で頑張ったが所詮無理。悲しいかな、若
だけ楽しんでもらえれば老体に鞭打ちながら頑張った甲斐が
がイタリアのミラノに文化庁芸術家在外研修員として派遣
あったというものである。
すと、
﹁おお!パバロッティ
ジャッポネーゼ!﹂︵日本のパ
バロッティだ!︶と答えが返ってくることもあった。イタリ
リア人に日本からオペラを勉強するためにミラノに来たと話
アの英雄というよりも、みんなに親しまれている国民的アイ
﹃ ス ペ ー ス・ ト ゥ ー ラ ン ド ッ ト ﹄ は す べ て 原 作 の オ ペ ラ
﹃ ト ゥ ー ラ ン ド ッ ト ﹄ の 音 楽 を 編 曲 し て 使 用 し て い る。 物 語
の要所要所にうまく挿入され日本語もとても分かりやすく、
特に彼が全世界の人々に愛され、オペラファンばかりでな
く一般の人達にも広く知られるようになったのは、スペイン
子供達にも素直に受け入れられた点においては成功したと
出身の二人のテノール歌手プラシド・ドミンゴとホセ・カレ
ドルに近い存在であった。
た意義は大きい。子供時代に観たオペラが印象に残りこれを
ラスとユニットを組み、
〝三大テナー〟として各国でコンサー
言 え る だ ろ う。 こ の オ ペ ラ を 原 作 と 比 較 し て 云 々 す る 必 要
きっかけに、今度は本物の﹃トゥーランドット﹄を観たいと
カップなどのビッグイベントでは、前夜祭、開会式などで素
はまったくなく、子供の視線に立ったオペラとして改作され
いう気持ちになることを期待したい。
ところで、テノールの名アリア
〝誰も寝てはならぬ〟
を一番
得 意 と し た ル チ ア ー ノ・ パ バ ロ ッ テ ィ が 二 〇 〇 七 年︵ 平 成
晴らしい歌声を聞かせて世界に生中継された。一九九六年
︵平
ト活動を行ない始めてからである。オリンピックやワールド
十九年︶九月六日に膵臓ガンで死去したという悲しい出来事
成 八 年 ︶ 国 立 競 技 場 で 行 な わ れ た〝 三 大 テ ナ ー 日 本 公 演 〟は
六万人の聴衆を集め、最高席七万五千円ということでも話題
が起こった。
二〇〇六年のトリノオリンピックの開会式でも、
〝誰も寝てはならぬ〟
を熱唱して大喝采を浴びた様子が全世界
Ƚ
ȽȁijıĴȁȽ
Ƚ
になったが、美声の競演に魅了された聴衆の熱狂と興奮は異
ピットの脇から舞台に上がりパバロッティに抱きついたので
のである。観客の一人であった私の同級生が、オーケストラ
二千円だった。現在のオペラのチケットと比べると信じられ
二 泊 三 日 も し て 並 び、 手 に 入 れ た チ ケ ッ ト は 一 番 安 い 席 で
たく運が良かった。渋谷のNHK放送センターに寝袋持参で
場イタリアの最高レベルの歌手を生で聞けたのだから、まっ
スタートを切ったばかりだった。上京して早々、オペラの本
前、私は長崎から親元を離れ上京して、音大生として新しい
のメンバーとして彼が初来日した時である。今から三十六年
私 が 初 め て パ バ ロ ッ テ ィ を 聞 い た の は 一 九 七 一 年︵ 昭 和
四十六年︶で、その頃NHKが招聘していたイタリア歌劇団
の﹁二十世紀の名演奏﹂という番組で、一九五〇年代から来
きすぎて自分の手が回らなかったらしい。NHK教育テレビ
想が聞き伝えに耳に入ってきたが、パバロッティの身体が大
から大目玉を食ったらしい。その後、抱きついた時の彼の感
レビ収録が行われていたため、大変な事態となり彼は関係者
に違いない。後日談であるが、当日は公演初日でNHKのテ
であろうが、前代未聞のハプニングに関係者もかなり慌てた
いた彼自身もテノールでパバロッティの歌に余程興奮したの
しまったが、本番中の舞台は信じられぬ光景だった。抱きつ
ある。私も拍手をしながら一瞬何が起こったかと呆然として
常なほどであった。
ない値段である。
演目はヴェルディの傑作﹃リゴレット﹄だった。まだ、勉
強を始めたばかりでオペラの知識もほとんどない私だった
は途中で中断され、静止画像となり音声のみで放送された。
るが、この時のパバロッティが歌った
〝女心の歌〟
の舞台映像
日したオペラ歌手達の貴重な昔の映像が放送されたことがあ
が、あのパバロッティ扮するマントヴァ侯爵の歌声は決して
今思えば、あの偉大なパバロッティの初来日の舞台を観る
ことができたのは本当に幸せだった。今後あの美声を聴くこ
最近はオペラ関係者も世代交代を迎え、パバロッティ初来日
とができないと思うととても残念であるが、私のオペラ人生
のこのハプニングを知る人も少なくなっている。
が走ったような雰囲気だった。そして聴衆の興奮は、第四幕
の中で貴重な財産として今でもはっきりと耳に残っている。
忘れることができない。あの大きな身体から劇場の隅々にま
で歌われる名曲
〝女心の歌〟
で最高潮に達した。パバロッティ
で響き渡る声量豊かな声、そしてあの高音域の張りと艶のあ
がこの歌の最高音を朗々と伸ばして歌い終えた瞬間、劇場は
二十世紀後半を代表する偉大な名歌手の死に謹んで哀悼の意
る官能的な美声には圧倒された。あの時の劇場はまさに衝撃
ブラボーが飛び交い、熱狂的な聴衆の拍手が数分も続いたの
を表したい。
︵芸術科︶
だ。パバロッティ自身もストップモーションでこの聴衆の鳴
り止まない拍手に答えていた。その時ハプニングが起こった
Ƚ
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Ƚ
三
好
一
郎
二︵後の関口フランスパン
き、彼らの偉業や名作を知る。理系の私にとっては、とても
い。森鷗外・夏目漱石・芥川龍之介など様々な文豪の話を聞
教会︶製パン部として創
教会︵現カトリック関口
場を建て関口フランスパンは、明治二十一年六月小石川関口
を、勉強させた。そして彼の帰国後、教会敷地内に製パン工
職工長︶を選び仏印に送り出し本格的にフランスパンの製法
思いつき、子供達の中から長尾
化的な職業を身につけさせようと考えた結果、パンの製造を
新米教師の文学散歩
日頃から校内でお世話になっている国語科の御代田先生と
地歴科の筒井先生には、食事に誘われることが多い。そこで
勉強になる食事会だ。そんな会のなかである時、
﹁都内で散
Ƚ
ȽȁijıĶȁȽ
Ƚ
の話題は多岐にわたるが、文学の話を聞かせて頂くことが多
歩をしながら偉人の勉強をしてみよう﹂という話になり、休
業 し た。﹂ こ の よ う に 日
噛むほどに外側の歯ごた
の 風 味 が つ ま っ て い る。
いて中はしっとりと小麦
ような歯ごたえ、それで
のバケットを彷彿させる
表面は堅く本場フランス
は、 当 然 フ ラ ン ス パ ン。
をもつ店内で食べたもの
本のフランスパンの歴史
日の一日を使ってその勉強会は実行された。
小雨が降る栃木駅を東武線の特急車スペーシアで出発し、
私たちは東京に向かった。まず、一日の原動力になる朝食を
文京区に店をかまえる﹁関口フランスパン﹂で済ませた。こ
の店はただのパン屋ではなく日本で初めてフランスパンを
売 り 出 し た と い う 歴 史 の あ る パ ン 屋 だ。 こ こ で そ の 歴 史 を
簡 単 に 説 明 し た い。
﹁明治六年キリスト教の解禁後、近代日
本 が 迎 え た 初 の ロ ー マ 法 王 の 使 者、 オ ゾ ー フ 司 教 と 神 父 の
ペトロ・レイ師は共に明治二十年頃、山の手の関口町へ赴い
た。ペトロ・レイ師は、教会経営の孤児院の子供達に何か文
フランスパンと私
詰まっていた。
めれば、ここはフランスなのかと錯覚するほどのおいしさが
た。お土産に買って帰ったが、自宅でも目をつぶって噛みし
ふれ出す、そんなすばらしい体験をさせてくれるパンであっ
えと中の柔らかさが見事に調和し、口の中からフランスがあ
大学教授を歴任,埋もれていたアイヌ叙事詩の存在を明らか
人々と交流しながら研究を続け,國學院大学教授,東京帝国
伝わる叙事詩ユーカラの存在に注目する。卒業後もアイヌの
イヌ語に興味を持ち北海道へ行き現地を調査、アイヌ民族に
る、日本の学者の責任ではないか。﹂という事を言われ、ア
にした人物である。
﹁耽美派﹂の永井荷風、
﹁高野聖﹂の泉鏡花、
﹁日
続いて、
本最初の女医﹂荻野吟子、
﹁アメリカ文化紹介者﹂ジョン万
腹ごしらえをした後、
﹁ 我 々 は 大 人 だ。 タ ク
シ ー に 乗 る ぞ。
﹂と御代
え て く だ さ っ た。
の歴史を丁寧に教
私に偉人一人一人
所で二人の先生は、
の墓所はとても存在感のあるすばらしいものであった。各墓
である﹂
﹁坊ちゃん﹂
﹁こころ﹂などの名作を生んだ夏目漱石
次郎、など様々な偉人の墓所をめぐった。中でも﹁吾輩は猫
を言い出した。私はもっ
たいないなと思いなが
らも先生の意見に従い、
タクシーに乗って雑
司ヶ谷霊園に向かった。
豊島区にあるこの霊園
これはとても勉強
に な り、 そ れ ぞ れ
は池袋副都心の近くと
い う 立 地 条 件 な が ら、
の人物に大変興味
最初に向かった場所は國學院にゆかりの深い金田一京助先
生 の 墓 所 で あ る。 ご 存 じ の 方 も 多 い と 思 う が 金 田 一 先 生 は 、
るこの天ぷらも大変美味しくいただくことができた。
﹁天ぷ
食 の フ ラ ン ス パ ン も 美 味 し か っ た が、 目 の 前 で 揚 げ て く れ
次に、水道橋に移動した我々は御代田先生・筒井先生が学
生時代に通ったという、天ぷら﹁いもや﹂で食事をした。朝
が湧いたものだ。
緑豊かな環境をもっている。そして多数の文化人が眠る墓所
ア イ ヌ 語 研 究 で 知 ら れ る 日 本 の 言 語 学 者、 民 俗 学 者 で あ る 。
らは出されたらすぐに食べろ。﹂これが池波正太郎流である。
があるため散策にくる人がとても多い場所である。
言語学科の主任教授の上田万年博士に講義のとき、
﹁アイヌ
漱石墓所前にて
は 日 本 に し か 住 ん で い な い。 ア イ ヌ 語 研 究 は、 世 界 に 対 す
Ƚ
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Ƚ
田先生がわがままな事
大人タクシー
な親父だ。
店したということで黙ってサービスしてくれたのである。粋
数が多い。実は店主が学生時代からの常連、御代田先生が来
込む。サクサク、ホクホク。サクサク、プリプリ。天ぷらの
盛りのご飯で流し込む。そしてまた熱々の天ぷらを口に放り
ク。揚げたすぐそばから食べるから、こういくのである。大
が 確 か に う ま い。 サ ク サ ク、 ホ ク ホ ク。 サ ク サ ク、 ホ ク ホ
猫舌だけれど、思い切って熱々を口に放り込む。
﹁熱い。
﹂だ
昔のような面影が
訪れた商店街には
が、 十 数 年 後 再 び
で い た﹁ わ た し ﹂
時、 商 店 街 に 住 ん
ク の1 9 6 4 年 当
東京オリンピッ
た。﹁ ナ イ ン ﹂ は
い。そんな街の中でも、そこに残ったナインたちの心の中に
た、少年野球団の仲間は今はバラバラになり通りに活気はな
ないことを感じる。
﹁わたし﹂も応援していた商店街にあっ
天ぷらで空腹を満た
し た 私 た ち は、
﹁さぼ
はかつて抱いた、チームメイトを信頼する気持ちが残ってい
時間歩いた疲労感に負け、次回の散歩コースにとっておくこ
予定では文京区本郷にあった森鷗外の自宅﹁観潮楼﹂跡に
建つ鷗外記念館を訪れるはずであったが、朝からの雨や長い
町も住む人も大きく移り変わっていくのだろう。
人々の生活の匂いが感じられない場所であった。時代と共に
みち通りも、今は本の中にあるように、飲み屋が並ぶ通りで
む 者 の 心 を あ た た か く し て く れ る 作 品 で あ る。 実 際 の し ん
る。十数年経っても残っている仲間への信頼の気持ちが、読
うる﹂という怪しげな
は 店 の 名 の と お り、 休
憩しているサラリーマ
ンが多かったかは覚え
て い な い が、 ク ー ラ ー
の効き過ぎた寒い空間
だったことは覚えてい
とにして、我々は東京を後にした。
る。夏なのにホットコー
ヒ ー が、 や け に 旨 か っ
︵理科︶
この散歩では沢山の経験をした。もう少し名作といわれる
本を、手にとってみようと考えた一日であった。
た。ちなみに二人の先生は寒い中でアイスコーヒーを飲んで
いた。
次に我々は中学三年生がこれから勉強するという井上ひ
さしの﹁ナイン﹂の舞台、しんみち通りがある四谷に向かっ
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閑散とした通り
喫 茶 店 に 入 っ た。 店 内
「さぼうる」二人
ボランティア
︶は障害者も健常
ノ ー マ ラ イ ゼ ー シ ョ ン︵ Normalization
者も、高齢者も若者も、普通に︵ノーマルに︶暮らせる社会
こそ、ノーマル︵正常︶であるという考え方を基底としてい
久保田
千
秋
としたいということであった。
養成講座の最初の二回目までは座学で、法規から車椅子の
構造、食事の介助まで、実に多くのことを二十余名の受講生
は学んだ。特別支援︵養護教育︶を目指す学生、介護士、介
サポーターの養成の必要も、今春の教基法の改変に伴う法的
育てを終えた主婦など、職業も年齢も多岐に亘った。私たち
護車の運転手、障害児の母親、OL、近隣の町会の役員、子
講 師 に な っ て 時 間 的 に も 体 力 的 に も 余 裕 が で き た の で、
足 立 区 内 の 都 立 の 養 護 学 校 で ボ ラ テ ィ ア を は じ め た。 養 護
もこの理念に基づいている。
Barrier free
学 校 を 選 ん だ の は、 私 自 身 が 障 害 者 と 認 定 さ れ た の で、 そ
根拠を持つものであることも学んだ。不慮の事故に備えて保
る。
の立場からノーマライゼーションを考えてみたいと思った
険にも加入した。
童生徒一人ひとりの障害の特殊性をよく理解して、﹁不自由
第 一 回 の 講 義 の 後 で 校 長 は﹁ 障 害 は 不 自 由 で あ っ て も 不
幸ではない。﹂というヘレンケラー女史の言葉を引いて、児
か ら で あ る。 障 害 を 持 つ 側 か ら、 で き る こ と は 何 か と い う
問 題 意 識 が あ っ た。 ま た、 養 護 学 校 は 医 療 設 備 や 環 境 が あ
る 程 度 整 備 さ れ て お り、 私 の 腹 膜 透 析 の 場 も 容 易 に 確 保 さ
能 力 に 応 じ て 与 え る 給 食 が す べ て 異 な る こ と、 使 え る 身 体
れるからであった。
東京都は地域住民と公的機関が提携して児童生徒の教育に
当たることに意欲的であり、私の場合は区立図書館でサポー
機能に応じて教材や車椅子の構造が異なっていることなど
の 克 服 ﹂ に も 助 力 を と 要 請 し た。 後 に、 個 々 の 生 徒 の 咀 嚼
ター養成の情報を得た。三月下旬に学校を訪ねて担当の教頭
を学んだ。
初 日 の 講 習 会 の 後、 自 由 に 校 内 を 見 学 し た。 寮 に 続 く 廊
に面会した。私たちが一期生で、将来はNPO組織として地
域と学校との連携を強化し、教育を厚みと広がりを持つもの
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童の姿は感慨深いものがあった。
﹁遊びの悦び﹂という姿は、
トランポリンで夢中で遊んでいた。楽しそうに跳び、弾む児
下で、両肩の付け根から手のない子供さんが、二人の級友と
いる﹂と自覚することで、結果に左右されない主体性をもっ
あ ろ う。 他 に 対 す る 働 き か け の 一 切 を﹁ 私 の た め に や っ て
あっても、それを引き受けた、﹁自らの意志﹂を顧るべきで
す る こ と は で き な い。 ま た、 他 か ら の 要 請 に 基 づ く 行 為 で
た行動がとれる。ボランティアは﹁奉仕﹂ではなく、
﹁意志﹂
生命にとっての本質的な相だと思う。
も、聴覚的な刺激を楽しむ人であるという情報を父兄から得
初 夏 と は い え 汗 ば む よ う な 日 差 し の 中 を、 長 身 の 生 徒 の
手を引いて、会話の成立しないまま半日街を歩いた。それで
なのだ。
精神的交流﹂というのが、三十年に亘って、私の教師という
ていたので、歌いながら話しかけると楽しそうに何度も大き
教頭先生の﹁こちらが誰かを理解できず、全く反応を示さ
ない生徒もおります。挨拶も返ってきませんが、気にしない
仕事を支えてきたファクターであったからだ。精神的な交流
で下さい。﹂という言葉にも少し驚いた。
﹁生徒との共感性と
の途絶した、そして期待できない地点からの﹁介護支援﹂の
な声を発した。学校に戻っておやつの時間になり、冷えたゼ
リーをスプーンで一口ずつ口に運ぶと嬉しそうに食べてくれ
意味について、考えなければならなくなった。
ためなのかと自問する。鷗外は問い自体が不毛であるとして
森 鷗 外 に﹁ サ フ ラ ン ﹂ と 題 す る 小 品 が あ り、 主 人 公 は サ
フランに水をやるのは、花のためなのか、花を見たい自分の
という父親の組織もあり、行事のたびに模擬店を出して、子
なって様々な行事を企画運営しておられた。
﹁おやじ元気会﹂
せず、ボランティアに託して下さった。また、学校と一体と
母 親 た ち も﹁ な る べ く 多 く の 人 と 接 す る 機 会 を 持 た せ た
い。
﹂ と い う 考 え で、 子 供 を 自 身 の 庇 護 下 に 囲 い 込 む こ と を
た。言葉を媒介にしない、直接的な意思の疎通があった。子
やめてしまう。しかし、ボランティアのすべての行為は﹁自
供さんを楽しませていた。生徒の介助だけではなく、模擬店
供を持たない私に、久しく忘れていた、懐かしさを伴う感情
分のため﹂と位置づけて出発しなければならない。相手への
や、文化祭の設営、寮祭の舞台、クリスマス会などを手伝う
第 三 回 目 の 講 習 で は、 生 徒 を 引 率 し て 校 外 に 出 て 街 を 歩
い て く る と い う 実 習 プ ロ グ ラ ム が 組 ま れ て い た。 私 が 担 当
﹁ 思 い や り ﹂ の 中 に、 相 手 の ニ ー ズ で は な く ︵ あ る い は そ れ
中で父兄の気持ちにも想いを巡らすようになった。数時間の
し た の は、 前 年 一 年 間 の 担 任 を 識 別 す る こ と も 難 し い 生 徒
を汲まず︶、﹁他人に尽くしたい﹂という自分のニーズのみを
ボランティアでは、終生続くご父兄や、先生方のご苦労は量
をもたらした。
満たしている場合がある。たとえ、教育的配慮に基づいてい
であった。
たり、相手に利をもたらすとしても、これを﹁他のため﹂と
Ƚ
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り知る由もないが、子弟を大切に養育されている想いには触
とは、
﹁大切にされた﹂
﹁楽しかった﹂という記憶を、生徒の
を前にして、この疑問は意味をもたない。そして、重要なこ
の行事に参加したり、座ることの困難なお子さんを抱きかか
る。とすれば、あらゆる機会に、少年期の柔軟な魂に繰り返
矜持も失地回復への意欲もこれらの記憶の有無に懸かってい
﹁大切にされた﹂という記憶は自尊心を産むし、﹁楽しかっ
た﹂という記憶は、苦境にいる人間を内から支えるからだ。
心に深く刻み込むことではないかと今は考えている。
れることができた。
えてレクリェーションをやったり、腹ばいになって幼児たち
その後の回から、就学前の児童から高校生までの障害を持
つ子供さんの介助をすることとなった。車椅子を押して他校
と遊んだり、トイレや食事の介助に至るまで多くのことを実
し、繰り返し、幾度でもこの記憶を植え付けなければならな
に﹁品格﹂がある。﹁品格﹂とは﹁自尊﹂と﹁自信﹂に裏付
きたのだということに思い至った。本校が生徒に求めるもの
果を出すことで自信をつけさせて、生涯を支える力を与えて
そのように考えてみると、本校︵国学院栃木︶の教育も、
進路指導と部活と行事において生徒の可能性を引き出し、結
ることであろう。
﹁学校教育﹂という限定された擬似的な空間と時
そして、
間の中で、人間に対して施すべき基本は、この記憶を持たせ
いと思う。
地に学んだ。
自身の病いのため参加できなかったが、宿泊を伴う校外学
習では、入浴の介助も勉強したということであった。
ほ ぼ、 一 人 の 生 徒 に 一 人 付 い て い る 先 生 方 も、 お そ ら く
自分の子供よりも受け持ちの生徒に心を遣っておられたと思
う。それゆえ、父兄も普段は子供に付き添うこともなく、重
度の障害を持つ子弟を安心して学校や寮に託すことができる
のである。
ボランティアを始めて一、二ケ月経つ頃、私はひとつの疑
問を抱き始めていた。生徒たちは非常に大切に育てられてい
聞で読んだ。前後の事情や言説の文脈の捨象された報道に基
数年前、養護施設を見学したある自治体の長が、生徒の人
格を否定する言辞を不用意に述べてしまったという記事を新
けられた立ち振る舞いに表われるものであろう。
ば、卒業によって守りのない環境に身を晒すことが予想され
る。教師たちも空き時間などない激務を厭わず、生徒を守っ
る。そうした職場や地域社会で生きていくために、学校が生
づ い て の 批 判 は 避 け た い。 し か し、 も し、 人 種、 国 家、 性
ている。だが、規定の時間︵高三までの修業年限︶が過ぎれ
徒に施すべき﹁学習﹂は現在の形で十全であろうか。そのよ
取れないものを、蔑視する人があれば、その人自身がそのレ
別、障害、貧困、出自など本人が選択不可能なものや責任を
だが、﹁今すぐ手を貸さなければならない﹂という緊急性
うな疑問を当初は抱いていた。
Ƚ
ȽȁijIJıȁȽ
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ベルゆえに不幸な人であろう。
だ が、 現 実 社 会 の 至 る 所 で、 選 択 の 余 地 の な い ハ ン デ
キ ャ ッ プ を 負 っ た 人 々 へ の 誤 解 や 差 別 は 存 在 し て い る。 私
が 養 護 学 校 で 出 会 っ た 生 徒 た ち は、 こ う し た 偏 見 を 跳 ね 返
す︵ あ る い は 意 に 介 さ な い ︶ 強 さ と 明 朗 さ を 必 要 と し て い
る。 そ の た め に も、 自 己 の 尊 厳 を 自 覚 で き る 人 格 を 育 て た
い。 そ れ は﹁ 大 切 に さ れ た ﹂ と い う 確 固 と し た 記 憶 に 支 え
ら れ て 可 能 に な る の で は な い か と 考 え て い る。 そ し て、 こ
の よ う な ボ ラ ン テ ィ ア を 通 し て、 私 自 身 も 回 復 へ と 向 か っ
て行くのである。
︵国語科︶
Ƚ
ȽȁijIJIJȁȽ
Ƚ
創立四十七周年記念講演
ね
ぎ
日光東照宮禰宜
高藤
晴俊
世界文化遺産
日光東照宮について
世界文化遺産の日光東照宮
みなさんおはようございます。日光東照宮禰宜の高藤です。私は教学室長といって、東照宮の良さを
色々な形で宣伝する仕事をしています。今日はスライド上映を交えてみなさんに世界文化遺産に選ばれ
た東照宮についてお話していきたいと思っています。
﹁人の
みなさんは徳川家康をご存じですね。徳川幕府をひらいて、三百年の太平の世の基盤を作り、
一生は重荷を負て遠き道をゆくが如し﹂という言葉を残した偉人です。元和二年、駿府城において徳川
家康が没した時に、遺体を久能山東照宮に埋葬し、一周忌には日光東照宮へ遷せ、という遺言が残され
ていました。駿府とは今の静岡県です。今でも久能山から日光へ遷座する行列を再現した﹁千人武者行
列﹂という祭りが五月と十月に盛大に行われています。ところでなぜ遷座が必要だったのかと言います
と、スライドで関東地方の地図を見ていただきますが、このように富士山を挟んで南に久能山、北に日
Ƚ
ȽȁijIJijȁȽ
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光のラインが出来ます。富士山は、かぐや姫で知られる﹃竹取物語﹄のラストに記されているように、
昔から富士は、
﹁不死﹂に通ずる霊山であるというところから、そこを通って日光に至ることで、家康
公を不死の神として祀ることができた、と考えられるのです。
徳川家康と天道思想
こ こ で 私 の ジ マ ン の 写 真﹁ 北 辰 の 門 ﹂ を 御 覧 に 入 れ ま す。 ア マ チ ュ ア カ メ ラ マ ン と し て 長 年 東 照
宮を被写体に撮影して参りましたが、陽明門をバックに、北極星を中心にして星座が回っている作品
で、二十年ほど前に、小学生の娘の理科の教科書に掲載されていた写真を参考に撮影した一枚です。
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この写真を眺めてみますと、北極星を中心に星座群がまわっているのですが、東照宮が宇宙の中心で
あるようにも見えてきます。日光は江戸からみて北に位置しますが、当時の人々にとって、北極星のあ
る北は字宙の中心であると思われていました。江戸時代の人々は、夜には星座を見上げて時刻を知るく
ら い に、 星 の 世 界 に 親 し ん で い た と 言 わ れ て い ま す。 だ か ら、 北
極 星 を 中 心 に 星 座 が 動 く と い う こ と を 見 て、 北 が 尊 い 方 角 だ と い
う 思 い が 生 じ た の だ と 思 わ れ ま す。 そ う い う こ と で 日 光 東 照 宮 を
江 戸 の 北 に 置 く と い う 発 想 に な っ た の で し ょ う。 日 光 東 照 宮 が 江
戸 の 北 に 位 置 す る の は、 尊 い 方 角 で あ る 北 に 徳 川 家 康 公 を 祀 る と
いう意図があったのです。
徳 川 家 康 は 遺 言 の 中 に﹁ 天 道 思 想 ﹂ に 適 う 為 政 者 が 理 想 だ と 言
い 残 し て い ま す。 中 国 の 故 事 に よ る と、 為 政 者 は 宇 宙 の 神 で あ る
﹁ 天 帝 ﹂ に 選 ば れ る﹁ 徳 ﹂ を 持 た な く て は な ら な い、 と あ り ま す。
そ こ で 家 康 公 は、 天 帝 の 望 む﹁ 人 間、 生 き 物、 宇 宙 の 平 和 ﹂ を 実
現 す る た め に、 単 に 家 の 安 泰 を 願 う だ け で は な く、 武 器 を 用 い な
天の中心に位置する北極星と陽明門
い社会を築くことに腐心しました。あらゆる生きとし生けるものが平和に生きる世の中を作ることに力
を尽くしてはじめて、天帝の意にかなう、と考えたのです。そのように﹁天道思想﹂を信じて徳を積ん
だ家康公は、死後も天帝の住む北の方角から江戸の平和を護るつもりだったのではないでしょうか。
三ザルの教え
ここで世界遺産に選ばれた日光東照宮の謎や秘密について、ご案内していきたいと思います。
江戸から東照宮をめざして歩いてきて、いよいよ日光に近づくと立派な杉並木が立ち並んでいます。
昔の人は、この並木に通りかかると、﹁ああ、ありがたい。ようやく東照宮に着いた﹂と手を合わせた
ばく
といいます。石鳥居をくぐると、表門にさしかかります。ここには神聖な場所を護るガードマンとして
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仁王様がおります。門の側面には唐獅子=ライオンや、夢を食べるという動物=獏の彫刻があります。
獏は、人間の悪い夢が好物なので、悪い夢を見たくないときには獏の絵を枕の下に入れるという風習が
あ っ た そ う で す。 そ う し た 言 い 伝 え か ら、 獏 は 良 い 夢 を も た ら す 縁 起 の 良
い 動 物 と さ れ ま し た。 表 門 の 左 手 に は 高 さ 三 十 六 ㍍ の 五 重 塔 が そ び え て 威
容 を 誇 っ て お り ま す。 こ の 五 重 塔 は、 建 築 の 様 式 か ら み て 興 味 深 い 点 が 見
ら れ ま す。1 層 か ら4 層 ま で は 鎌 倉 時 代 の 禅 宗 様 式 で 造 ら れ て い る の に 対
し て、 最 上 階 の み 唐 様 式 な の で す。 こ の 謎 に つ い て は、 後 で お 話 し た い と
しんきゅう
思います。
続 い て 神 厩 と 呼 ば れ る 馬 屋 が あ り、 猿 が 各 壁 面 に ぐ る り と 彫 刻 さ れ て い
ま す。 こ こ で は8 つ の 場 面 が 一 連 の 物 語 を 形 成 し て お り、 生 ま れ た 猿 が 成
長 を し、 生 涯 の 岐 路 に 立 っ た り 結 婚 を し た り す る う ち に、 や っ と 親 の 苦 労
が 分 か る、 と い う 趣 向 で す。1 場 面 目 は、 母 ザ ル が 子 ザ ル に 未 来 を 指 し 示
し て い る 場 面 で す。 続 い て は、 有 名 に な っ た2 場 面 目 の、 い わ ゆ る 三 ザ ル
見ザル聞かザル言わザル
です。白い布のように何でも吸収する子ザルには、悪いモノを﹁見ざる聞かざる言わざる﹂の配慮をし
ようという、一種の子育て教育訓になっています。皆さんの年頃に相当するサルは、4場面目の右手の
空を仰ぐ二匹のサルです。この連作では左手が過去、右が未来を表しているので、ここでは若い二匹が
未来への夢をふくらませているところだと思われます。6場面目は恋愛中、8場面目は妊娠したところ
社会的に成熟してから、子育てに責任が持てるようになった上で子供を作る方が、後々、親にとっても
です。最近は﹁出来ちゃった結婚﹂といって、この二つが逆になるカップルも居るようですが、やはり
子にとっても幸せになれると私は思います。子ザルが生まれたら、母子ザルの居た1場面目にもどります。
Ƚ
ȽȁijIJĶȁȽ
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彫刻に込められた願い
ここ日光東照宮には中国の故事に基づく彫刻や、霊獣、霊鳥、唐子、植物類など、実に五千七百もの
彫刻があります。そのうち陽明門には五百八の彫刻が空間を埋め尽くすように施されています。この彫
ひぐらし
刻 を じ っ く り と 見 て 回 る だ け で 一 日 が 過 ぎ て し ま う と こ ろ か ら、 陽 明
門 は﹁ 日 暮 門 ﹂ と も 呼 ば れ て い ま す。 と こ ろ で、 中 段 中 央 に は、 様 々
な 遊 び に 興 じ て い る 子 供 達 が 彫 ら れ て い ま す。 ジ ャ ン ケ ン を し た り、
お ん ぶ や 竹 馬 を し た り と、 無 邪 気 に 遊 ぶ 子 供 の 彫 刻 が 三 十 も あ り ま す。
なぜ遊ぶ子供ばかりを陽明門の正面で強調しているのかと申しますと、
実は徳川家康公が太平の世を求めるメッセージを伝えているのです。日
本では、応仁の乱以来、長く戦乱の世が続きました。こうした時代には
子 供 達 は 安 心 し て 遊 ぶ こ と が 出 来 ま せ ん で し た。 家 康 公 も 幼 年 時 代 に
は 政 略 的 に 他 家 に や ら れ、 人 質 と し て 苦 労 し て い ま す。 し か し 関 ヶ 原
の合戦以降、徳川陣営が主導権を握り、世の中に平和が訪れると、よう
や く 子 供 が 遊 べ る 時 代 が や っ て き ま し た。 こ の 笑 顔 を ず っ と 護 り た い、
左甚五郎の眠り猫
それこそ家康公のめざす太平の世の姿だったのです。陽明門の子供の彫刻は、平和のシンボルと言って
もいいでしょう。さらに東回廊の奥社参道入口の唐門には、名人・左甚五郎の作品﹁眠り猫﹂がありま
す。これは東照宮の彫刻のなかでも有名なものです。この眠り猫は、眠っているところがいいんです。
なぜかと申しますと、裏手に雀の彫刻がありますが、もし猫が起きたら雀を食べようと争いが起こりま
す。でも天下太平の世には、猫は眠り続け、争いは起きません。ここでは雀と猫はいつまでも共存共栄
です。このように東照宮の彫刻には、陽明門の子供の彫刻と同じく、平和を末永く続けてもらいたいと
いう家康公の願いが込められているものが多いということがお分かりいただけたかと思います。
ところで、建物は完成した瞬間から崩壊が始まると言われていますが、ここ日光東照宮では、崩壊を
防ぐために、いくつか工夫したところがあるんです。その一つが、陽明門をくぐり終えた左にある﹁魔
Ƚ
ȽȁijIJķȁȽ
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よけの逆柱﹂です。陽明門には十二本の柱があるのですが、その柱だけが逆さまになっているのです。
つまり、完成した瞬間から崩壊が始まるならば、未完成でとどめておけば長持ちするだろうという願い
でそうした工夫をしたのです。さきほどの五重塔の最上階だけが唐様になっている話も、この発想にな
らい、わざと完成を避ける配慮だったと言えるでしょう。
ご紹介したいところはまだ沢山ありますが、ぜひご自分の目で確かめにいらして下さい。
講演する高藤氏
áîä É ãáîîïô ôèéîë ïæ áîù âåôôåò ðìáãå ôï äï ôèáô ôèáî ôèå ðìáãå ÷èåòå É áí îï÷® Ãèáîçåó ÷ïõìä âå öåòù èáòä ôï íáëå®
Õîìéëå Ãèõòãèéìì É ãáîîïô ìïïë ô÷åîôù ùåáòó áèåáä® É ðòïâáâìù ìáãë ôèáô ÷éóäïí áîä É áãôõáììù äï îïô ÷áîô ôèáô® Ìéæå ôáëåó éôó ï÷î ãïõòóå äåðåîäéîç ïî ôèå äáéìù ãèïéãåó ÷å íáëå¬ âõô É èïðå ôèáô É ÷éìì âå áâìå ôï åîêïù éô ÷éôè íù ãïììåáçõåó¬ óôõäåîôó¬ æòéåîäó¬ ÷éæå áîä ãèéìäòåî áîä áìì ôèå ïôèåò ðåïðìå áòïõîä õó®
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åøðåòéåîãå® ×èåî É çïô èéòåä ôèå ñõåóôéïî ÷áó èï÷ ìïîç É ÷áîôåä ôï ÷ïòë áô ôèéó óãèïïì® É èáä áîó÷åòåä ôèòåå ùåáòó¬ âõô ÷èåî É óôáòôåä ôåáãèéîç É äéóãïöåòåä óïïî ôèáô É ÷áó áî áâóïìõôå òïïëéå® Íù ìéíéôåä ëîï÷ìåäçå ïæ ôèå ãõìôõòå áîä ôèå ìáîçõáçå ÷áó íù âéççåóô ðåòóïîáì èõòäìå éî ôèå æéòóô ùåáò¬ âõô ôèåòå ÷áó áìóï çòåáô óõððïòô æòïí ôåáãèåòó éî óãèïïì¬ ÷èï èåìðåä íå ÷éôè íù óôòõççìå® Áæôåò É íáäå éô ôèòïõçè ôèå óåãïîä ùåáò É áãôõáììù åîêïùåä ôåáãèéîç óï íõãè ôèáô É ãáîîïô ôèéîë ïæ á âåôôåò êïâ éî ÷ïòìä® ×å ìéöåä éî Õôóõîïíéùá æïò áâïõô åéçèô áîä ôòáöåìåä ïæôåî áâòïáä äõòéîç öáãáôéïîó® ×èéìå ïî öáãáôéïî éî ôèå Ðèéìéððéîåó ïîå ôéíå ÷å äåãéäåä ôï âõù á ðéåãå ïæ ìáîä áô ôèå âåáãè éî Ðõåòôï Çáìåòá ïî ôèå éóìáîä ïæ Íéîäïòï® ×å ôèïõçèô ÷å ÷ïõìä âå áâìå ôï òåôéòå ôèåòå éî ôèå æõôõòå¬ âõô áçáéî ôèòïõçè ïõò ï÷î ãèïéãåó ìéæå íáäå áî õîåøðåãôåä ô÷éóô® ×å èáä ô÷ï òïïíó âõéìô áîä òáî ïõô ïæ óðáãå óïïî® ×å âïõçèô íïòå ìáîä áîä âõéìô áçáéî ô÷ï íïòå òïïíó® ×èåî á ôòáöåì áçåîãù óôáòôåä óåîäéîç çõåóôó ÷å óá÷ á óíáìì âõóéîåóó äåöåìïð ôèáô ÷å äåãéäåä ôï îáíå Âìõå Ãòùóôáì Âåáãè Òåóïòô® Ïöåò ôèå ìáóô ùåáòó ÷å âõéìô á òåóôáõòáîô¬ á óãõâá äéöéîç ãåîôåò áîä èáöå âõéìô óéøôååî óõéôå òïïíó® Óïíåôéíåó É áí áóëåä ÷èù ÷å áòå óôéìì éî Êáðáî® Ôèåòå áòå óåöåòáì òåáóïîó ôï íåîôéïî® ×å ãïõìä îïô èáöå èïðåä æïò á âåôôåò çéæô ôèáî ïõò ô÷ï ãèéìäòåî¬ Êïèìåîå áîä Óèáõî¬ ÷èï ÷åòå âïòî èåòå® Ôïçåôèåò ÷å áòå ìåáäéîç á èáððù ìéæå èåòå éî Ôïãèéçé® Áîïôèåò áîä öåòù óåìæéóè òåáóïî éó èï÷åöåò ôèáô íù êïâ áó á ôåáãèåò éó òåáììù öåòù åîêïùáâìå áîä òå÷áòäéîç éî éôóåìæ® Éô éó îéãå ôï âå áâìå ôï íáëå á óíáìì äéææåòåîãå éî óïíåïîå åìóå§ó ìéæå Ƚ
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éíðõìóéöå ᴪ ãèïéãå ôï çï ôï Êáðáî éîóôåáä® Õðïî áòòéöáì éî Îáòéôá É ÷ïîäåòåä ÷èåôèåò ôèéó ãèïéãå ÷áó á çïïä ïîå® Æïò á ÷èéìå É âåìéåöåä éô ðòïâáâìù ÷áó ôèå ÷ïòóô äåãéóéïî É èáä åöåò íáäå® É äéä îïô ëîï÷ áîùïîå éî Êáðáî¬ äéä îïô óðåáë ôèå ìáîçõáçå¬ ëîå÷ öåòù ìéôôìå áâïõô ôèå ãõìôõòå¬ èáä îï êïâ ïò ðìáãå ôï óôáù áîä óá÷ ôèå ìéôôìå íïîåù É èáä ìåæô äéóáððåáò öåòù æáóô¬ âåãáõóå Êáðáî ÷áó íõãè íïòå åøðåîóéöå ôèáî É ãïõìä èáöå éíáçéîåä® ×èéìå ìéöéîç ïî ôèå ãèåáð É ìïïëåä æïò á êïâ áó á ðáòô­ôéíå ôåáãèåò® Ïæôåî É ôèïõçèô áâïõô æáôå éî ôèïóå äáùó® Áòå ãåòôáéî ôèéîçó êõóô ðòå­äåôåòíéîåä¿ Éó ôèåòå á äåãéäåä ðáôè ÷å áìì èáöå ôï æïììï÷¿ Éæ óï¬ íù ðáôè ÷áó öåòù ãòïïëåä® ×èåî É ìåæô õîéöåòóéôù É äéä îïô ÷áîô ôï âåãïíå á ôåáãèåò áîä óôáòôåä ÷ïòëéîç æïò á ãïíðáîù¬ îï÷ éî Êáðáî ãéòãõíóôáîãåó äéãôáôåä ôèáô É èáä ôï âåãïíå á ôåáãèåò áæôåò áìì® Óõòðòéóéîçìù åîïõçè É óôáòôåä ôï ìéëå ôåáãèéîç áîä éô óååíåä óôòáîçå ôèáô É äéä îïô ÷áîô ôï äï ôèéó áô áìì êõóô á æå÷ ùåáòó áçï® Èï÷åöåò É õîäåòóôïïä öåòù ÷åìì ôèáô ôèéó ÷áó îïô êõóô á ãïéîãéäåîãå ôèáô âòïõçèô íå ÷èåòå É áí îï÷® Éô ÷áó áìì ôèå òåóõìô ïæ ôèå ãèïéãåó¬ âéççåò áîä óíáììåò¬ ôèáô É èáöå âååî íáëéîç áìïîç ôèå ÷áù®
Áæôåò ôåáãèéîç ðáòô­ôéíå æïò ãïîöåòóáôéïî óãèïïìó æïò óïíå ôéíå¬ É äåãéäåä ôï áððòïáãè ãïíðáîéåó ìéëå ÍáôóõóèéôᬠÓèáòð áîä Èïîäá ÷èåòå É ïææåòåä íù óåòöéãåó áó áî Åîçìéóè áîä Çåòíáî ôåáãèåò® Ãïíðáîù ãìáóóåó ÷åòå á äéææåòåîô¬ âõô öåòù åîêïùáâìå ãèáììåîçå® Ôèåù óåô ôèå âáóå æïò ÷èáô É èáöå âååî äïéîç óéîãå ôèåî® Ôèå âéççåóô ôõòî ãáíå éî ±¹¸· ÷èåî É óôáòôåä áô Ëïëõçáëõéî áîä Åìåîá áîä É çïô íáòòéåä éî ôèå óáíå íïîôè®
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îïô ôèå ÷áù ôèå áöåòáçå ðåòóïî ðìáîó èéó ìéæå® Áâïõô á ùåáò âåæïòå É áòòéöåä éî Êáðáî¬ É èáä ôòáöåìåä áòïõîä éî Áóéá® Éæ É èáöå ìåáòîåä áîùôèéîç áô áìì äõòéîç ôèéó êïõòîåù éô éó ôèå õîäåòóôáîäéîç ôèáô áìì åöåòù äáù ãèïéãåó ãáî èáöå á öåòù äååð éíðáãô ïî ôèå òåóô ïæ ïõò ìéöåó® Âåãáõóå ïæ ïõò ãèïéãåó ÷å ãòåáôå åøðåòéåîãåó ôèáô ÷å íáù êõäçå áó çïïä ïò âáä áô ôèå íïíåîô¬ âõô íáù ᴪ ÷èåî ÷å ìïïë âáãë á æå÷ ùåáòó ìáôåò ᴪ èáöå ôèå åøáãô ïððïóéôå åææåãô ïî ïõò ìéöåó® É ãïíðáòå ìéæå ôï ïîå âéç ÃįÒÏÍ éî á öåòù âéç ãïíðõôåò ôèáô ãïîôáéîó áìì äáôá áöáéìáâìå® Ïî ôèéó äéóë ÷å óëéð æòïí ãèïéãå ôï ãèïéãå®
×èåî É ÷áó éî Íáìáùóéá É çïô òïââåä áîä ÷áó ìåæô ÷éôè ìéôôìå íïîåù áîä ïæ ãïõòóå ôèå ãèïéãå ôï ãáìì íù ðáòåîôó æïò á ôéãëåô èïíå® É íáäå ôèå öåòù ãïîóãéïõó ãèïéãå ôï ÷áéô áîä óåå ÷èåòå ìéæå ÷ïõìä ôáëå íå® Á ãïììåãô ãáìì ãïõìä âå íáäå áîù ôéíå áîä É èáä ôïï íõãè ðòéäå ôï êõóô çéöå õð® Æòïí ôèáô ôéíå á óåòéåó ïæ òåíáòëáâìå áîä õîåøðåãôåä åöåîôó äåöåìïðåä® É òåáìéúå ôèáô éæ ôèå óï­ãáììåä Žâáäž
åøðåòéåîãå ïæ ìïóéîç íù íïîåù èáä îïô ôáëåî ðìáãå¬ íù ìéæå ÷ïõìä èáöå âååî ãïíðìåôåìù äéææåòåîô® Âåãáõóå ôèå åöåîôó ôèáô äåöåìïðåä¬ É ÷áó áâìå ôï íååô íù óïõì íáôå Åìåîᬠ÷èï âåãáíå ìáôåò íù ÷éæå®
É ÷áó áâìå ôï ÷ïòë íù ÷áù ôï Âáîçëïë éî Ôèáéìáîä áîä èáä êõóô åîïõçè íïîåù ìåæô æïò á ôéãëåô ôï Áõóôòáìéᬠ÷èåòå É âåìéåöåä É ÷ïõìä âå áâìå ôï æéîä á êïâ® ×èéìå á ôòáöåì áçåîô ÷áó ìïïëéîç æïò ôèå ãèåáðåóô ðïóóéâìå ôéãëåô¬ É èáä á ôáìë ÷éôè ô÷ï Áíåòéãáî ôòáöåìåòó ÷èï ÷åòå ôèåòå ôï ðéãë õð ôèåéò ôéãëåôó® Ôèåù ôïìä íå ôèáô ôèåù èáä ìéöåä éî Êáðáî æïò ôèòåå ùåáòó® Ôèåéò óôïòéåó áîä ôèå æáãô ôèáô á ôéãëåô ôï Êáðáî ÷áó ãèåáðåò¬ íáäå íå ãèáîçå íù íéîä® É íáäå ôèå ᴪ íáùâå Ƚ
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×èåòå èõíáîó áòå áææåãôåä ôèå äéóãõóóéïî âåãïíåó ñõéãëìù ÷èåôèåò ôèéó éó á òåóõìô ïæ çìïâáì ÷áòíéîç áîä éæ óï ÷èåôèåò çìïâáì ÷áòíéîç éó íáîíáäå ïò êõóô á îáôõòáì åöåîô® Èáòäìù åöåò äï ÷å èåáò ôèáô ÷å áòå áãôõáììù ëéììéîç ïõòóåìöåó áîä ôèáô ÷å áòå ðõôôéîç ôèå èõíáî òáãå éî á öåòù äáîçåòïõó óéôõáôéïî® Ôèå ôòõôè áîä ôòùéîç ôï íáëå óïíå öåòù éíðïòôáîô ãèáîçåó éó ãáììåä Žâáä æïò êïâó áîä ôèå åãïîïíùž
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Ô÷åîôù­ôèòåå ùåáòó áçï ôèå Óïöéåô Õîéïî ÷áó æéçèôéîç ôèåéò ï÷î öåòóéïî ïæ á Öéåôîáí ÷áò éî Áæçèáîéóôáî® Ôèå Óïöéåô åãïîïíù ÷áó ÷åáë áîä ôèéó ÷áò ÷áó òåáììù ôáëéîç éôó ôïìì® Ôï èåìð íáôôåòó áìïîç ôèå Õîéôåä Óôáôåó ÷áó óõððïòôéîç Áæçèáîéóôáî éî áìì ÷áùó ôèåù ãïõìä® Á ðòïíéóå ÷áó íáäå ôèáô ôèå Áæçèáî ðåïðìå ÷ïõìä çåô áìì óõððïòô òåâõéìäéîç ôèåéò ãïõîôòù éæ ôèåù èåìðåä âòéîç ôèå Óïöéåôó ôï ôèåéò ëîååó® Áó ôèå óáùéîç çïåó Žðòïíéóåó áòå íáäå ôï âå âòïëåîž
® Á æéçèôåò éî ôèå ÷áò æïò ôèå Áæçèáî ðåïðìå ÷áó á íáî æòïí Óáõäé Áòáâéá ãáììåä Ïóáíá Âéî Ìáäåî® ×èåî ôèå Óïöéåô Õîéïî ãïììáðóåä áîä ôèå ÕÓÁ äéä îïô ëååð éôó ðòïíéóå èå ôõòîåä áçáéîóô ôèåí® Ôèå òåóõìô ÷áó Áì Ñáåäᬠôèå âïíâéîç ïæ ôèå ×ïòìä Ôòáäå Ãåîôåò¬ ìáôåò ãáììåä Ž¹¯±±ž
¬ áîä ôèå áôôáãë âù Áíåòéãá áîä ôèåéò ãïáìéôéïî ðáòôîåòó ïî ôèå Ôáìéâáî éî Áæçèáîéóôáî® Áíåòéãá ÷áó éî ôèå áòåá áîù÷áù áîä äåãéäåä ôï áôôáãë Éòáñ áó ÷åìì õîäåò ôèå ðòåôåøô ôèáô ôèåéò ìåáäåò Óáääáí Èõóóåéî ÷áó èéçèìù òåóðïîóéâìå æïò ôèå ¹¯±± áôôáãëó® ×èåî ôèå ôòõôè ¨ïò ôèå ìéå© ãáíå ïõô èõîäòåä ôèïõóáîäó ïæ éîîïãåîô ðåïðìå èáä âååî ëéììåä áîä ôèå ÷ïòìä ÷áó îåöåò ôèå óáíå áçáéî® Éô óååíåä ôï èáöå âåãïíå á æéçèô âåô÷ååî Éóìáí áîä ôèå óï­
ãáììåä æòåå ÷ïòìä® Åîåòçù ðòéãåó óôáòôåä òéóéîç ôï ìåöåìó îïâïäù ãïõìä èáöå éíáçéîåä êõóô á æå÷ ùåáòó áçï áîä Áíåòéãá áó ôèå ìåáäåò ïæ ôèå ÷ïòìä éó æéîäéîç éôóåìæ éîãòåáóéîçìù éî ôèå óáíå ðïóéôéïî áó ôèå æïòíåò Óïöéåô Õîéïî ôèáô ÷áó äåóôòïùåä âåãáõóå éôó åãïîïíù ãïììáðóåä äõå ôï á ÷áò ôèåù ãïõìä îïô òåáììù Ƚ
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-GNUQ *GCTVNCPF *QOGUVC[ 2TQITCO 地元新聞に紹介された参加者とホストファミリー
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詩の中に出てくるアイオワ州一古い学校
ホームステイプログラムに関する地元新聞記事
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地元新聞に掲載されたホームステイプログラムに関するデビン先生の詩
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市シカゴようなところへ行きました。生徒は皆とても楽しんだようです。
最後の観光場所は、トムソーヤの著者であるマークトウェインの町ハンニバル
を訪れました。西部劇のような建物を見ました。ここでは、ミシシッピ川でのボー
トクルーズを体験できました。トムソーヤとハックルベリーフィンが住んでいた
島を見ました。そこには高い灯台があり崖の上を鷲が飛び交っていました。
その後、妻の姉が住むセントルイスに行き、私たちは、ジャグジー付きのプー
ルやゲームセンターのある美しいホテルに滞在しました。次の日セントルイスの
名物である巨大アーチに行きました。頂上からは、ミシシッピ川や都市を一望で
きました。そこでは、ワイルドウェスト(西部歴史博物館)も見学しました。
その後、私たちは、壮厳な教会や興味深い科学博物館を訪れました。多くの教
育的な体験や実験をしました。
アイオワ州に戻り、最後の週末は、それぞれがホストファミリーと過ごしまし
た。そして、日本へ帰国の日、別れを惜しんでいた生徒たちの目には涙が見られ
ました。知り合えて良かったとお互いに思えたことでしょう。
日本に戻ってからは、8月にありました國學院栃木高等学校「カモン・イン」
(入学志願者の校内見学と体験授業)と9月に行われました文化祭で、このプログ
ラムについて展示しました。
生徒たちは、今でも手紙や E メールのやり取りをしています。数名の生徒は、
来年もまた参加したい、また多くの生徒は、将来またアイオワ州にいるホストファ
ミリーに会いに行きたいと言っています。アメリカのホストファミリーは、日本
への訪問も考えている人々もいます。
終わりに、私たちも皆と共にすばらしい二週間を過ごせました。私は、このエッ
セイをマーク・トウェインがした生徒のための助言の「探検しなさい。夢を持ち
なさい。発見しなさい。
」で始めました。彼はこうも書きました、
「私たちが子供
たちに与えられる2つの最も素敵な贈り物は、巣と翼である。
」ですから、私は國
學院大學栃木高等学校と中学校は、生徒の巣であり、このホームステイ・プログ
ラムは生徒が飛べる空であって欲しいと願っています。
ケルソー・デヴィン
参加者の感想文より
住みたくなったこと。
(E1−1 高橋 彩香)
世界観が広がったし。日本ではできない体験をすることができた。
(B2−5 竹原 ひろき)
異文化を深く知る事。又将来の参考になった。
(α1-3 小田 桃子)
とにかく英語が好きになった。 (E1−1 慶野 桃子)
聞く力や口頭で喋る力がついた。 (E1−1 加藤 かれん)
初めての海外旅行だったが周りの人がみんな親切でとても良い経験ができた !!
また行きたい。 (中3−2 白石 健太)
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て、教育者として親身にご指導いただいたことは何より大切なことです。
これは、家族プログラムであり、安全第一をモットーに企画しました。現地で
のホストファミリーは、親戚や友人または、職場仲間と信頼のできる方々です。
マウントバーノンは、人口僅か 3,000 人であり、ディズニーランドにある U.S.A.
Main Street のような可愛い小さな村です。スタッフは、下野市の英会話スクール
マネージャー及び講師である私の妻や中学校校長である母そして、小学校教師の
弟です。
出発前には、参加する生徒たちとホストファミリーのどちらからもアンケート
のやり取りをし、情報交換をしました。また、生徒たちは、アメリカの文化や習
慣について学び、研修中に訪問するトムソーヤの話などにも触れました。
出発日には、成田空港で日本の家族が集まって見送り、アイオワでは、ホスト
ファミリーが集まり初めての対面をしました。生徒たちの情報及び日本の文化な
ど前もって連絡していたため、新しいアメリカの家族ともすぐに溶け込めました。
月曜日から金曜日の午前中には、高校の教室でアメリカの習慣や文化について
学習し、ホストファミリーとの生活について相談を受けました。午後には、買い
物やレストランまたは、観光へ行ったりしました。
「大草原の小さな家」を思い出
すような 160 年前に建てられたアイオワでは最古の一部屋だけの昔の学校へも訪
れました。その他にも、教会やピクニック、ハイキング大きなショッピング・モー
ルや、中でも地元の農場見学では、牛、馬、山羊、ガチョウ、ダチョウ、鹿、孔
雀、バッファローなど様々な動物たちを観察しました。毎年訪れる農場では、豚
が何と 500 匹もいましたが、今年はいませんでした。それは、私たちにとって、
幸運だったことでしょう。言葉では言い表せないひどい臭いです!
初めの月曜日には、日本食、アメリカの食べ物など色々な食べ物を準備し、バー
ベキュー・パーティーをしました。数々の楽しいゲームをし、その中でも水風船
を破らないようにキャッチボールしながら距離の一番長い人が勝つといったゲー
ムは、皆ずぶ濡れになっても、もう一度トライしたがるなどとても盛り上がりま
した。全員で撮った集合写真が地元の新聞に載りました。これは、日本への良い
お土産となりました。今年は、地元新聞の記事のうち4紙でこのホームステイが
取り上げられました。
最初の観光地は、ケビン・コスナーが主演した野球の映画で、「フィールド・オ
ブ・ドリーム」のロケ地となった所でした。そこでは、実際にとうもろこし畑の
中に作られた巨大な野球場がありました。その後、私たちは世界で一番急斜面に
ある路面電車に乗り岩壁の頂上から美しい景色を目にしました。それから、ミシ
シッピ川水族館へ行き様々な野生生物たち、ワニやカワウソ、青ガエル、巨大鯰
などを見学しました。そこには、インディアンの家や昔のボートなども展示され
ていました。
週末は、ホームステイの家庭と過ごし、ある家族は湖へ行きボート乗りを楽
しんだり、釣りに行ったり、乗馬に出かけたり買い物に行ったりと各々満喫しま
した。ある家族は、遊園地やウォーター・パーク(巨大プール)又は、他の大都
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×èåî éô ÷áó ôéíå ôï óáù çïïäâùå áô ôèå áéòðïòô¬ íáîù óôõäåîôó áîä èïóô æáíéìù íåíâåòó ÷åòå ãòùéîç® Âõô É ôèéîë ôèåù ÷åòå áìì öåòù èáððù ôï çåô ôï ëîï÷ åáãè ïôèåò®
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「20 年後あなたは、した事よりしなかった事を悔やむでしょう。船のはらみ綱
をはずし、安全な港から航海に出て、帆に追い風を捕らえて。探検しなさい。夢
を持ちなさい。発見しなさい。
」 マーク・トウェイン (生徒への助言)
私は、今までに多くの国々に行きました。ここ日本には 14 年間となりますので、
日本語及び日本の文化は特別ではありますが、多くの異なる国々そして、言語や
文化について学びました。それと同時に、私の母国、母国語についても 更に深
く学びました。なぜなら、私は自分自身の経験を基に、何が異なるのか比較する
ことができるからです。
勿論、生徒たちにも同様な経験ができる機会を持ってほしいと願います。今年
もこの語学研修に参加したことにより、生徒が、生きた英語を学び、実際にアメ
リカの文化及び習慣が日本とどう違うかという経験ができたのは、すばらしいこ
とでした。
今夏は、7月 25 日から8月8日の2週間私の故郷であるアメリカのアイオワ州、
マウントバーノンにて、第四回目ケルソー・ハートランド・ホームステイ・プロ
グラムを行いました。今年の 11 名を含め、これまでの4年間に 54 名の生徒が日
本とアメリカの橋渡しとなるために参加してくれました。
私たちのプログラムを支え、ご協力いただいた國學院大學栃木高等学校及び中
学校の先生方には、心より感謝しています。この研修参加希望者の生徒たちにとっ
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ôåáãèåò éî Ìéóâïî¬ Éï÷á®
Óôõäåîôó áîä ôèåéò èïóô æáíéìéåó åøãèáîçåä á ìïô ïæ éîæïòíáôéïî âåæïòå ÷å ìåæô ôèéó ùåáò¬ éîãìõäéîç å­íáéìó¬ ñõåóôéïîîáéòåó¬ áîä ðéãôõòåó® Óôõäåîôó ðòåðáòåä âù óôõäùéîç Åîçìéóè áîä òåáäéîç áâïõô Õ®Ó® ãõóôïíó áîä ãõìôõòå¬ áó ÷åìì áó òåáäéîç Ôïí Óá÷ùåò ïò ïôèåò âïïëó òåìáôåä ôï ïõò ôòéð®
Áô Îáòéôᬠôèå Êáðáîåóå æáíéìéåó áóóåíâìåä ôï óáù çïïäâùå® Éî Éï÷ᬠôèå Áíåòéãáî æáíéìéåó áóóåíâìåä ôï óáù èåììï® Ôèå ãèáîçå ôï á îå÷ èïíå ÷áó çåîåòáììù óíïïôè âåãáõóå ÷å èáä ðòåðáòåä ôèå èïóô æáíéìéåó ÷éôè éîæïòíáôéïî áâïõô óôõäåîôó áîä áâïõô Êáðáîåóå ãõìôõòå®
Æòïí Íïîäáù ôï Æòéäáù íïòîéîçó¬ ÷å íåô éî á èéçè óãèïïì ãìáóóòïïí áîä äéóãõóóåä ãõóôïíó áîä ãõìôõòå¬ áîä óôõäéåä Åîçìéóè ôï âå õóåä ÷éôè èïóô æáíéìéåó áîä éî åöåòùäáù ìéæå¬ óõãè áó óèïððéîç¬ òåóôáõòáîôó¬ åôã® ×å áìóï öéóéôåä ôèå óôáôå ïæ Éï÷áż
ó ïìäåóô óãèïïì¬ á ±¶°­ùåáò­ïìä ïîå­òïïí âõéìäéîç ÷èéãè åöïëåó íåíïòéåó ïæ ŽÌéôôìå Èïõóå ïî ôèå Ðòáéòé实
Æòïí Íïîäáù ôï Æòéäáù áæôåòîïïîó¬ ÷å äéä íáîù áãôéöéôéåó¬ éîãìõäéîç á ôïõò ïæ ìïãáì ãèõòãèåó¬ óèïðó¬ áîä ðáòëó¬ ðéãîéãó¬ èéëéîç¬ á ôòéð ôï á öåòù ìáòçå óèïððéîç ãåîôåò¬ á öéóéô ôï ìïãáì æáòíó ÷èéãè ÷áó èéçèìéçèôåä âù á èõçå ôòáãôïò òéäå áîä óååéîç íáîù áîéíáìó¬ éîãìõäéîç ãï÷ó¬ èïòóåó¬ çïáôó¬ çååóå¬ åíõ¬ äååò¬ ðåáãïãëó¬ áîä âõææáìï® Åöåòù ùåáò ÷å çï ôï á æáòí ÷éôè µ°° ðéçó¬ âõô ôèéó ùåáò ôèåù ÷åòåîż
ô ôèåòå® Íáùâå ÷å ÷åòå ìõãëù® Ôèå óíåìì éó ôåòòéâìå¡
Ïî ôèå æéòóô Íïîäáù¬ ÷å åîêïùåä á âáòâåãõå ðáòôù ÷éôè áìì ïæ ôèå óôõäåîôó¬ óôáææ¬ èïóô æáíéìéåó¬ áîä íáîù æòéåîäó® ×å èáä íáîù ëéîäó ïæ ôòáäéôéïîáì Êáðáîåóå áîä Áíåòéãáî æïïäó¬ áîä ðìáùåä íáîù çáíåó ôïçåôèåò¬ éîãìõäéîç á ÷áôåò âáììïïî ôïóó ôèáô ìåæô åöåòùïîå ÷åô áîä ìáõçèéîç® Áìóï¬ ÷å èáä á ðéãôõòå ôáëåî ïæ åöåòùïîå ôèáô ÷áó ìáôåò õóåä éî ìïãáì îå÷óðáðåòó áîä ÷èéãè âåãáíå á çòåáô Žïíéùáçåž ¨óïõöåîéò© ôï ôáëå èïíå ôï Êáðáî® Áìì éî áìì¬ ôèåòå ÷åòå æïõò áòôéãìåó áîä ôèòåå ðéãôõòåó ðõâìéóèåä ôèéó ùåáò®
Ïõò æéòóô âéç ôòéð ôïïë õó ôï ôèå ðìáãå ÷èåòå Ëåöéî Ãïóôîåò æéìíåä ôèå íïöéå ŽÆéåìä ïæ Äòåáíó¬ž
á ÷ïîäåòæõì óãåîå éî ÷èéãè á âáóåâáìì æéåìä óõääåîìù áððåáòó éî ôèå íéääìå ïæ áî éííåîóå ãïòîæéåìä® Ôèåî ÷å ÷åîô ïî ôèå ÷ïòìäż
ó óôååðåóô òáéìòïáä ôï ôèå ôïð ïæ á ãìéææ áîä óá÷ âåáõôéæõì öéå÷ó¬ áîä ïî ôï ôèå Íéóóéóóéððé Òéöåò Íõóåõí ÷éôè áî áñõáòéõí áîä Éîäéáî èïõóåó áîä ïìä âïáôó áîä íáîù ëéîäó ïæ ÷éìäìéæå¬ éîãìõäéîç áììéçáôïòó¬ ôõòôìåó¬ ïôôåòó¬ âìõå æòïçó¬ áîä á ãáôæéóè ôèáô éó âéççåò ôèáî ùïõ áòå¡
Ïî ÷ååëåîäó¬ èïóô æáíéìéåó ôïïë ôèåéò óôõäåîôó âïáôéîç ïî ìáëåó¬ æéóèéîç¬ èïòóåâáãë òéäéîç¬ óèïððéîç¬ åôã® Óïíå ÷åîô ôï áíõóåíåîô ðáòëó ïò ÷áôåò ðáòëó¬ ïôèåòó ôï âéç ãéôéåó ìéëå Ãèéãáçï® Ïõò óôõäåîôó ÷åòå öåòù èáððù áîä åøãéôåä®
Ïõò ìáóô âéç ôòéð ÷áó ôï Íáòë Ô÷áéîż
ó èïíåôï÷î¬ Èáîîéâáì¬ áîä ïî ôï Óô® Ìïõéó¬ Íéóóïõòé® ×å öéóéôåä Ôïí Óá÷ùåòż
ó èïõóå áîä óá÷ íáîù âõéìäéîçó ôèáô ìïïë ìéëå áî ïìä ×éìä ×åóô íïöéå® Ôèå âåóô ðáòô ÷áó ôáëéîç á Íéóóéóóéððé Òéöåò Âïáô Ãòõéóå® ×å óá÷ ôèå éóìáîä ÷èåòå Ôïí Óá÷ùåò áîä Èõãëìåâåòòù Æéîî ìéöåä» ôèåòå ÷áó á öåòù ôáìì ìéçèôèïõóå¬ áîä åáçìåó æìùéîç áâïöå ôèå ãìéææó® Éî Óô® Ìïõéó ÷å íåô íù ÷éæåż
ó óéóôåò áîä èåò æáíéìù áîä óôáùåä áô á âåáõôéæõì èïôåì ÷èåòå óôõäåîôó åîêïùåä ôèå ðïïì¬ Êáãõúúé¬ áîä çáíå ãåîôåò® Ôèå îåøô äáù ÷å ÷åîô ôï ôèå ôïð ïæ ôèå çéáîô áòãè éî öåòù óíáìì åìåöáôïòó¬ áîä ôïïë íáîù ðéãôõòåó æòïí èéçè áâïöå ôèå Íéóóéóóéððé áîä äï÷îôï÷î® ×å ôèåî ÷åîô ôï á ×éìä ×åóô èéóôïòù íõóåõí¬ á èõçå¬ íáçîéæéãåîô ãáôèåäòáì¬ áîä ôï ôèå åøãéôéîç Óãéåîãå Ãåîôåò ÷éôè íáîù åäõãáôéïîáì çáíåó áîä åøðåòéíåîôó® ×å ÷åîô âáãë ôï Éï÷á áîä óôõäåîôó åîêïùåä áîïôèåò ÷ååëåîä ÷éôè ôèåéò èïóô æáíéìéåó® Ƚ
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Åøðìïòå¬ Äòåáí¬ Äéóãïöåò 探検、夢、発見
Äåöéî Ëåìóï
ŽÔ÷åîôù ùåáòó æòïí îï÷ ùïõ ÷éìì âå íïòå äéóáððïéîôåä âù ôèå ôèéîçó ùïõ äéäîż
ô äï ôèáî âù ôèå ïîåó ùïõ äéä äï® Óï ôèòï÷ ïææ ôèå âï÷ìéîåó® Óáéì á÷áù æòïí ôèå óáæå èáòâïò® Ãáôãè ôèå ôòáäå ÷éîäó éî ùïõò óáéìó® Åøðìïòå® Äòåáí® Äéóãïöåò®ž
Íáòë Ô÷áéî¬ óðåáëéîç ôï óôõäåîôó
É èáöå âååî ôï íáîù ãïõîôòéåó áîä Éż
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öå ìåáòîåä á ìïô áâïõô íáîù ìáîçõáçåó áîä ãõìôõòåó¬ åóðåãéáììù Êáðáîåóå® Âõô Éż
öå áìóï ìåáòîåä á ìïô áâïõô íù ï÷î ìáîçõáçå¬ Åîçìéóè¬ áîä íù ï÷î ãïõîôòù¬ ôèå Õîéôåä Óôáôåó ïæ Áíåòéãá® Ôèáô éó âåãáõóå É ãáî îï÷ ãïíðáòå ôèåí ôï ïôèåò ìáîçõáçåó áîä ãïõîôòéåó áîä óåå ÷èáô éó äéóôéîãô áîä ÷èáô éó îïô®
Ïæ ãïõòóå¬ É ÷áîô íù óôõäåîôó ôï èáöå ôèå óáíå ëéîäó ïæ ïððïòôõîéôéåó ôèáô É èáöå èáä® Ôèáô éó ÷èù É áí óï èáððù ôèáô¬ ïîãå áçáéî ôèéó ùåáò¬ óôõäåîôó æòïí Ëïëõçáëõéî Õîéöåòóéôù Ôïãèéçé Èéçè Óãèïïì áîä¬ æïò ôèå æéòóô ôéíå¬ Êõîéïò Èéçè Óãèïïì¬ êïéîåä íù ÷éæå áîä É ïî á êïõòîåù ôï íù èïíåôï÷î¬ ìåáòîéîç áâïõô ôèå Åîçìéóè ìáîçõáçå áîä Áíåòéãáî ãõìôõòå¬ áîä âù óï äïéîç¬ ìåáòîéîç áâïõô ôèå äéóôéîãôéöåîåóó ïæ ôèå Êáðáîåóå ìáîçõáçå áîä Êáðáîåóå ãõìôõòå®
Äõòéîç ôèå óõííåò ïæ ²°°·¬ ôèå ´ôè áîîõáì Ëåìóï Èåáòôìáîä Èïíåóôáù Ðòïçòáí ÷áó èåìä æòïí Êõìù ²µôè ôï Áõçõóô ¸ôè® Ïöåò ôèåóå æïõò ùåáòó¬ µ´ óôõäåîôó èáöå ðáòôéãéðáôåä¬ éîãìõäéîç ±± ôèéó ùåáò ÷èï èåìðåä õó ãïîôéîõå ôï âõéìä á âòéäçå âåô÷ååî Êáðáî áîä Áíåòéãá®
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Ôèéó éó á æáíéìù ðòïçòáí áîä á óáæå ðòïçòáí® Íù ÷éæå áîä É íååô áîä ôòù ôï çåô ôï ëîï÷ ôèå Ëïëõçáëõéî óôõäåîôó áîä ôèåéò æáíéìéåó âåæïòå ÷å çï® Áìì ïæ ôèå Áíåòéãáî èïóô æáíéìéåó áòå æòéåîäó¬ òåìáôéöåó¬ ãï­÷ïòëåòó¬ ïò ïôèåò÷éóå ÷åìì­ëîï÷î ôï åéôèåò íå ïò íù æáíéìù® Íù èïíåôï÷î ïæ Íïõîô Öåòîïî¬ Éï÷ᬠèáó ïîìù ³°°° ðåïðìå áîä äï÷îôï÷î ìïïëó ìéëå Íáéî Óôòååô¬ Õ®Ó®Á®¬ áô Äéóîåùìáîä® Ôèå óôáææ éó áìóï æáíéìù¬ éîãìõäéîç íù ÷éæå¬ Èéòïå Ëåìóï¬ á îáôéöå óðåáëåò ïæ Êáðáîåóå¬ áî Åîçìéóè ôåáãèåò¬ áîä ãï­ï÷îåò ïæ ×éóè Åîçìéóè Áãáäåíù éî Óèéíïôóõëå­óèé¬ íù íïôèåò¬ Êáîå Ëåìóï¬ ôèå ðòéîãéðáì ïæ Ôáæô Íéääìå Óãèïïì éî Ãåäáò Òáðéäó¬ Éï÷ᬠáîä íù âòïôèåò¬ Îéãë Ëåìóï¬ áî åìåíåîôáòù óãèïïì Ƚ
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Ãáî ùïõ ãõô ðï÷åò ãïîóõíðôéïî âù ±°¥¿
今年度の國學院祭文化祭テー
マは、地球温暖化に対して「ア
ナタノデキルコト」は何か、と
いうものであったが、この夏は
猛暑でこの問題について誰もが
深く考えたのではないか。35
度というのはまだましな方で、
埼玉と岐阜では 40.9 度という
観測史上最高の気温を記録し
た。本当にこの美しい水の惑星
はどうなってしまうのであろう
か。
そんな中で「あなたは消費電
力を 10%カットできますか。
」
というテーマが出された訳であ
る。これは我々日本人だけでな
く、全世界の人々が力を合わせ
て取り組まなければならない、
実に大きなテーマである。
まずは、ふだん使っていない家庭電化製品や充電器のコンセントを抜くこと
を提案した。ちょっとしたことではあるが、これでかなり節電になるらしい。
次に作家谷崎潤一郎が昭和8年に発表したエッセー「陰翳礼讃」を紹介し、
日本人が日常生活において電気を節約しながら、いかに光と陰のコントラス
トを活かしているかを説いてみた。日本のほの暗い部屋の中で、金襖や金屏風
がぼうっと夢のように照り返している。電灯を消すことによってそのような効
果を生み出すことができるということを、昔の日本人はよく知っていたのであ
る。谷崎は、「欧州にくらべると日本の方が電灯を惜しげもなく使っている。
」
と嘆いている。もっと日本人は昔のように陰翳の価値を理解しなければならな
い、というのが彼の願いであった。
諸君もためしに明かりを消してみるとよい。節電をしながら、しかも日本人
が愛してきた陰翳の美しさに気がつくかもしれない。
(2007 年8月 25 日付)
(外国語科)
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ここでは、やや短めの記事を
2題とりあげてみた。
初めの記事は銃の規制に賛成
か、あるいは銃を持つ権利を認
めるか、というテーマに対する
私の答えである。私を含めて日
本人ならば当然、一般の市民が
銃を持つということは考えられ
ないであろうが、アメリカでは
状況が違う。世界は広い。いろ
いろな考えがある。世界平和を
実現させるためには、様々な考えを受け入れた上で話し合う必要がある。私が
英語の勉強を継続しているのは、英語を読み、聞き、話すことによっていろい
ろな価値観を学ぶことができるからである。そういった意味では、私は英字新
聞からは多くのことを得ることができていると思う。
生徒諸君ならば、このテーマにどう答えるであろうか。
(2007 年5月 26 日付)
Äï ùïõ áçòåå ÷éôè çõî ãïîôòïì ïò ôèå òéçèô ôï âåáò áòíó¿
×èéãè ðìáãåó ÷ïõìä ùïõ òåãïííåîä éî Êáðáî ôèáô ôïõòéóôó öéóéô¿ Áîä ÷èù¿
ふ た つ め の 記 事 は、 外 国 か
ら来た方々に観光地として日本
のどこを紹介するかというもの
である。このテーマは実に楽し
かった。東京にしようか北海道
にしようかと私もいろいろと考
えてはみたが、結局京都に落ち
着いた。京都は日本人にとって
は心のふるさとである。本校が
修学旅行に京都を選んでいるの
も、そうした理由からである。
京都は訪れるたびに私たちに
新たな発見をさせてくれる古都
である。この記事を書くのにい
ろいろと下調べをしていくうち
に、また京都の素晴らしさをあらためて認識できた気がする。
京都の方にうかがったところ、海外からの観光客の数が伸びているというこ
とである。諸君も京都に行ったら、海外からいらした方々に積極的に英語で話
しかけ、この美しい心のふるさとを紹介してもらいたい。
(2006 年9月 30 日付)
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このページからは、毎月 The Daily
Yomiuri が定めているテーマに沿って
投稿したものを掲載する。
このコーナーは Readers Forum とい
い、あるテーマに対する意見を読者が
発表できる場である。投稿なさる方々
の国籍も様々で実に興味深い。最初の
頃はただ読んでいただけだったが、こ
の程度のものならば自分でも書けるか
な、と思って投稿してみたら採用され
たので、おもしろくなって結局しばら
くの間書き続けている。
最初のこの文は、1998 年にサッカー
の日本代表が初めてワールドカップに
出場したときのことを書いたものであ
る。中田が絶好調のときで、日本代表
チームに対する期待を素直に表現して
みた。
最終予選で日本チームがフランス・
ワールドカップの出場を決めたとき
は、本当にうれしくて夜中であるにも
かかわらず大きな声で叫んでしまった。
あの叫び声は、やはり母国に対する愛
から来たものだと今にして思う。サッ
カーは、そんな熱狂的な思いを引き出
してくれるスポーツなのだ。
高校時代はサッカー部に所属し、弱
小チームではあったが一所懸命に練習
した。まだその頃の友人とは付き合いもあり、やはり自分の人生においてサッ
カーは大きな位置を占めている。諸君も手始めに新聞の中から興味があるト
ピックを探し出して、読んでみて欲しい。それを継続して習慣にすれば英語の
力はかなりつくはずである。
楽しみながら英語を学ぶことが何よりも大切なことであると私は思う。
(1998 年5月 30 日付)
×èéãè ôåáí äï ùïõ ôèéîë ÷éìì ÷éî ôèå ×ïòìä Ãõð éî Æòáîãå¿
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タイトルになっている Letters To The Editor をどう訳すかは、少し諸君
に調べてもらうことにしたい。ここは読者が自分の意見を、テーマにこだわら
ず自由に表現できるコーナーである。 The Daily Yomiuri を読んでいて、気
になった記事を取り上げて主張する読者が多い。
私の場合は2人の娘を持つ身なので、日本では青少年に有害なサイトに対す
る規制が甘い、ということを報告する記事が目についてこの文章を投稿した。
いつの世でも大人は子どもの鏡とならなければいけない。自分の生き方を示し
子供に徳とは何かを教えていくべき立場の大人が、少年や少女をだましてお金
儲けをしているという話を聞くと腹が立つ。概して、日本は犯罪につながるよ
うな事項に対する規制に厳しさが足りないような気がしてならない。
最近は、インターネットの悪質なサイトがきっかけとなり事件や事故が起き
たというニュースが後を絶たない。子供たちが自分で悪質なサイトを設けると
いうことは考えられない。こういったサイトを始め世の悪は、すべて大人に責
任がある。このような質の悪いサイトの管理も含めて我々大人が子供たちを守
るために、できるだけのことはしてあげたいものである。
(1999 年2月 16 日付)
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英字新聞に挑戦しよう
村 田 真 一
英字新聞 The Daily Yomiuri を読み始めてかれこれ 15 年になる。初めの
頃は趣味として読んでいたが、最近では大学入試の長文読解問題に多く出題さ
れてきているので、分析をしようと少し読み方も変わってきている。
2007 年のセンター試験は形式に変化が見られたが、第6問の長文読解問題
では相変わらず相当な量の英文を読ませている。また、国公立大二次試験や、
私立大の入試においても長文の量はかなり増えてきている。英文をただ漫然と
読んでいたのでは、試験で高得点は取れるものではない。内容を正確に把握で
きているかどうかが細かく問われるからである。英単語や熟語、英文法の基礎
力は絶対に必要であるが、それに加えて文章のテーマやポイントをつかむとい
う論理的な思考力も養うことが大切である。そういった意味では、ふだんから
英文はもちろんのこと日本語で書かれてある文章もしっかり読んで、内容を素
早く理解し自分の意見を持ち、主張できるようにしておくとよい。
英字新聞をいきなり読むということは、高校生にとっては少し抵抗があるか
もしれない。そこで、日本語で書かれている新聞と併読していけば、英語との
表現や組み立ての違いも学ぶことができて速読の訓練になる。難しい単語を見
つけたら、アンダーラインを引いて欄外に意味やその単語を用いた例文を書い
ておくとボキャブラリーを増やすことができる。新聞は様々なジャンルの話題
が掲載されていて、語彙も豊富なので大学入試には出題されやすいのだ。ふだ
んから読み込んでおけば、かなりスピードがついてくる。この「速読・速解」
の力が今、大学入試で問われているのである。
手始めに興味がある記事から読んでみよう。社会問題から音楽、スポーツ、
ファッション、イベント情報や映画の解説など、話題は豊富である。慣れてく
れば社説も読めるようになる。そうなれば、もうかなりの英語力がついている
と言ってよい。
さて、 The Daily Yomiuri には読者の意見を発表できるコーナーがある。
ここに今までに私が書いて採用されたものを載せておく。日本語で解説も加え
ておいたので、気楽に読んでみて欲しい。そして、これらの記事をきっかけに
して1人でも多くの諸君が英字新聞に挑戦することを期待する。
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平成十九年度
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歳時記
なわれた第二十九回全国高等学校柔道
▽ 三 月 二 十 一 日︵ 水 ︶
、日本武道館で行
太平台
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選手権大会にて、本校柔道男子は二年
連続団体8強入りを果たした。
の間徳島市立体育館ほかで行なわれた
▽ 三 月 二 十 四 日︵ 土 ︶ ∼ 二 十 八 日︵ 水 ︶
第三十回全国高等学校ハンドボール選
抜大会に本校男子ハンドボール部は一
回戦で敗退した。
ーツセンターで行なわれた第二回全国
▽ 三 月 二 十 六 日︵ 月 ︶
、兵庫県伊丹スポ
高校なぎなた選手権大会に本校なぎな
た部は個人戦は三回戦に進出、団体戦
は惜しくも一回戦で敗退した。
全国高等学校柔道選手権大会
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▽ 四 月 六 日︵ 金 ︶、 午 前 九 時 三 十 分 よ り
四十周年記念館にて平成十九年度第
四十八回高等学校入学式が、五七一名
の新入生を迎えて挙行された。また午
後一時より大ホールにて第十二回中学
校入学式が八七名の新入生を迎えて新
しい学園生活のスタートを切った。
▽ 四 月 七 日︵ 土 ︶、 全 校︵ 中 学・ 高 校 ︶
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生徒が集合し第二グラウンドにて対
面式が行なわれた。初めに木村好成学
校長が全校生徒に、この学園に集うこ
とになった縁を大切にし、美しい人間
関係を作り、学生の本分である勉学に
打ちこむことを諭された。その後、生
徒会長の斎藤陵爾君︵B三の二︶が新
入生に対して歓迎の言葉を述べ、それ
に応えて高校の新入生代表橋本帆菜さ
ん︵E一組︶また中学校の新入生代表
五十嵐充貴君︵中一の一︶が、それぞ
れ抱負を述べた。
ー シ ョ ン が 行 な わ れ た。 ま ず、 本 校
▽ 四 月 十 一 日︵ 水 ︶
、新入生オリエンテ
中学校入学式 石塚校長式辞
の教育・大学入試や進路・高校生活の
あり方と校則・制服着用に関して・図
書館利用について等を中心に説明があ
り、午後には、太平山神社参拝が行な
われ神前において入学の奉告をした。
二 日 間、 群 馬 県 の﹁ ホ テ ル ふ せ じ ま ﹂
▽ 四 月 二 十 日︵ 金 ︶
・ 二 十 一 日︵ 土 ︶ の
において普通科特別選抜コースの生徒
研修が実施された。
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▽四月二十一日︵土︶より、高大連携授
一年生徒研修
業がスタートした。
▽四月二十一日︵土︶∼二十三日︵月︶
、
四月二十九日︵日︶∼五月一日︵火︶の
間国立磐梯青少年交流の家においてそ
れぞれ二泊三日で、選抜α ・β コース・
国 際 情 報 科 の 生 徒 研 修 が 実 施 さ れ た。
▽ 四 月 二 十 八 日︵ 土 ︶
、中学校授業参観
が行なわれ、各学年多数のご父母が熱
心に参観した。
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▽ 五 月 十 九 日︵ 土 ︶、 父 母 会 関 連 行 事
総会︶が実施され、ご父母が熱心に参
︵ 高 校 進 学 講 演 会・ 授 業 参 観・ 父 母 会
太平山神社参拝
観した。
ムルーム委員会研修が開かれ、ホーム
ホームルーム委員会研修
▽ 五 月 十 九 日︵ 土 ︶
、高等学校春期ホー
ルーム委員の役割について多くのこと
を学び、國學祭を中心に熱心に話し合
いがなされた。
▽五月二十五日︵金︶より、中学校自然
体験学習が、一年生は群馬県の赤城に
て、 二 年 生 は 福 島 県 の 那 須 甲 子 に て、
ま た 三 年 生 は 二 泊 三 日 の 日 程 で、 湯
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本・尾瀬沼で行なわれた。
▽五月二十八日︵月︶∼六月十六日︵土︶
にかけて平成十九年度教育実習が実施
さ れ た。 高 等 学 校 で は、 国 語 科 五 名、
地歴公民科五名、外国語科三名、数学
科 一 名、 理 科 四 名、 保 健 体 育 科 三 名、
芸術科︵書道・音楽︶三名、養護一名
の 二 十 五 名。 中 学 校 で、 国 語 科 二 名、
社会科一名、家庭科二名、養護教諭二
名の七名が実習した。
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生徒総会が、四十周年記念館にて行な
▽六月一日︵金︶二限、平成十九年度の
中学 自然体験学習
われた。
合学習の一環として行なわれた。中学
▽ 六 月 二 日︵ 土 ︶、 中 学 校 稲 作 実 習 が 総
生は平井町・小藤栄さん宅の水田を借
りて、田植え指導を受けた後、生徒た
ちは﹃アサヒノユメ﹄の苗を植えてい
った。
▽ 六 月 十 三 日︵ 水 ︶
、学年別弁論大会が
五・六 限 目 に 第 三 学 年 が 四 十 周 年 記 念
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館、第二学年が第二アリーナ、第一学
インターハイ出場の垂幕
年が第一アリーナにて実施された。今
年も各ホームルームの代表の中から国
語 科 の 原 稿 審 査 を 通 っ た 弁 士 た ち が、
熱弁をふるった。
▽六月十六日︵土︶∼十七日︵日︶の間
に高校総体県予選が各地で行なわれ
た。 本 校 か ら は 柔 道、 バ レ ー ボ ー ル、
ハンドボール、なぎなた、剣道、陸上
競技、フェンシングが八月のインター
ハイに出場することとなった。
▽ 六 月 十 六 日︵ 土 ︶
、中学校前期スポー
ツフェスティバルが行なわれ、男子は
サッカー、女子はバスケットボールを
実施し、熱戦が繰り広げられた。
中学 稲作実習
▽ 六 月 二 十 一 日︵ 木 ︶
、本校四十周年記
念館において三年に一度の生徒会主催
の芸術鑑賞会が行なわれ、
﹁あゝ無情﹂
芸術鑑賞会
の舞台を鑑賞した。
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▽ 七 月 十 日︵ 火 ︶
・ 十 一 日︵ 水 ︶ の 二 日
間高校の校内競技大会が行なわれ、各
競技の熱戦が繰り広げられた。
▽七月十四日︵土︶∼十八日︵水︶の間
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父 母 懇 談 会 が 行 な わ れ た。 生 活・ 学
習・進路について、二者および三者面
談の形で実施された。
▽七月二十五日︵水︶から八月八日︵水︶
の二週間、アメリカ語学研修がアメリ
カ合衆国アイオワ州マウントバーノン
にて実施された。参加は希望制で、今
年は十一名の本校生徒が参加した。
▽七月二十六日︵木︶∼八月十三日︵月︶
の間佐賀県で行なわれたインターハイ
に本校から柔道、剣道、なぎなた、フ
ェンシング、陸上競技、女子バレーボ
ール、男子ハンドボールの七部九チー
ムが県代表として出場した。
校内競技大会
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▽八月一日︵水︶∼三日︵金︶の間生徒
会研修が栃木県日光市東照宮晃陽苑に
おいて行なわれた。
二 日、
﹁ カ ム・ オ ン・ イ ン 國 學 院 ﹂ が
▽ 八 月 五 日︵ 日 ︶
、 八 月 十 九 日︵ 日 ︶ の
行なわれた。この催しは、本校の生活
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を受験希望者や保護者に体験してもら
國學院祭 文化祭
うため、数多くの部活動や講座に参加
できる構成になっている。
▽八月十七日︵金︶∼二十三日︵木︶の
間国際情報科二年生のオーストラリア
修学旅行が行なわれた。
▽ 八 月 二 十 九 日︵ 水 ︶
、四十周年記念館
において全校弁論大会が行なわれ、池田
沙織さん︵T二の一︶が優勝を飾った。
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第四十六回國學院祭文化祭が二日間に
▽ 九 月 八 日︵ 土 ︶
・ 九 日︵ 日 ︶ の 二 日 間
亘 っ て、﹁ ア ナ タ ノ デ キ ル コ ト │ ゴ ア
前大統領インタビューより│﹂のテー
マの下に実施された。中学校・高校の
国際情報科 オーストラリア修学旅行
各ホームルームと部活動が入念な準備
をして展示と公演に臨んだ。これまで
の伝統を受け継ぎ質の高い舞台や作品
國學院祭体育祭
を披露して、今年も大盛況であった。
▽ 九 月 十 五 日︵ 土 ︶
、第四十六回國學院
祭体育祭が第二グラウンドで実施され
た。中学校・高校の全校生が各学年種
目や集団演技に全力で取り組み、秋空
のもとさわやかな汗を流した。
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▽ 十 月 五 日︵ 金 ︶
、中学校では総合学習
の一環として稲刈りが行なわれた。
▽ 十 月 五 日︵ 金 ︶
、四十周年記念館にて
創立四十七周年記念講演会が行なわれ
た。今年は日光東照宮禰宜高藤晴彦氏
が﹁ 世 界 遺 産・ 日 光 東 照 宮 に つ い て ﹂
の演題の下、九十分間講演を行なった。
▽ 十 月 六 日︵ 土 ︶
、四十周年記念館にお
い て 学 園 創 立 四 十 七 周 年 記 念 式 典 が、
多数のご来賓の列席の下、厳かに挙行
された。
類・二類理系︶の生徒約六百名を対象
▽十月二十七日︵土︶、第二・三学年︵一
創立記念講演会
としての﹁大学出張講義︵大学入門│
生徒会 立ち会い演説会
学問研究│︶
﹂が行なわれた。
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▽ 十 一 月 一 日︵ 木 ︶
、四十周年記念館に
て、平成二十年度生徒会本部役員選挙
立ち会い演説会ならびに選挙が実施さ
れた。
おいて人権教育が実施された。
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▽ 十 一 月 七 日︵ 水 ︶
、各ホームルームに
校ラグビー大会栃木県予選決勝が、栃
中学 校外学習
▽ 十 一 月 十 日︵ 土 ︶
、第八十七回全国高
対 5 で 佐 野 高 校 を 下 し、 本 校
木市総合運動公園陸上競技場で行なわ
れ、
を、十六日︵金︶には一年生は日帰り
︵ 金 ︶ ∼ 十 七 日︵ 土 ︶ の 二 日 間 で 鎌 倉
生は三日間で奈良を、二年生は十六日
間中学校校外学習が実施された。三年
▽十一月十五日︵木︶∼十七日︵土︶の
者激励会が行なわれた。
において、第三学年を対象に大学受験
▽ 十 一 月 十 四 日︵ 水 ︶
、四十周年記念館
十三度目の花園出場を決めた。
ラグビー部が優勝を果たし、八年連続
22
で日光・足尾を訪れた。
にて第十五回国際情報科教養講座が開
▽ 十 一 月 十 五 日︵ 木 ︶
、四十周年記念館
かれた。今年は本校中学校のニュージ
ーランド語学研修を以前担当していた
だいた梅村知代氏を招き﹁英語道│英
語がもたらした広い世界﹂という演題
で貴重な体験をもとに講演が行なわ
れた。
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▽ 十 一 月 二 十 日︵ 火 ︶
、平成十九年度第
マラソン大会
四十八回全校マラソン大会が開催さ
れた。本校の伝統行事であるこの大会
は、毎年男女とも太平山を一周するコ
ースを力走する。また中学校では九日
︵金︶に第十二回マラソン大会が行な
われた。
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▽ 十 二 月 一 日︵ 土 ︶
、平成二十年度募集
中学校第一回入学試験が実施された。
▽ 十 二 月 八 日︵ 土 ︶
、平成二十年度募集
中学校第二回入学試験が実施された。
サイエンス・パートナーシッププロジ
▽十二月八日︵土︶∼十五日︵土︶の間
国際情報科教養講座
ェクトが実施され普通科第二学年の理
系コースの生徒を中心に約二百名が受
講した。
の間父母懇談会が実施された。
▽ 十 二 月 二 十 日︵ 木 ︶ ∼ 二 十 二 日︵ 土 ︶
国高校ラグビーフットボール大会が
▽ 十 二 月 二 十 八 日︵ 金 ︶、 第 八 十 七 回 全
大 阪・ 近 鉄 花 園 ラ グ ビ ー 場 で 開 催 さ
で雪辱を果たし、三十日
れ、本校チームは熊本・荒尾高校と対
戦し、
でベスト十六入りを逸した。
︵ 日 ︶ B シ ー ド 佐 賀 工 と 対 戦 し8
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等学校第二回入学試験が実施された。
▽ 一 月 十 日︵ 木 ︶
、平成二十年度募集高
タ大会が、薙刀場において行なわれた。
▽ 一 月 七 日︵ 月 ︶
、中学校百人一首カル
年頭の挨拶を述べた。
行なわれ、理事長木村好成高校校長が
▽ 一 月 七 日︵ 月 ︶
、第三学期の始業式が
等学校第一回入学試験が実施された。
▽ 一 月 六 日︵ 日 ︶
、平成二十年度募集高
−
35
▽ 一 月 十 九 日︵ 土 ︶
・ 二 十 日︵ 日 ︶ の 二
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−
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中学 百人一首カルタ大会
サイエンスパートナーシッププロジェクト
中学 イングリッシュスピーチコンテスト
日間大学入試センター試験が行なわれ
た。本校生からは二九五名が受験した。
▽ 一 月 十 九 日︵ 土 ︶
、第十二回イングリ
ッシュ・スピーチコンテストが、中学
校 一・二 学 年 に よ っ て 大 ホ ー ル に て 実
施された。
▽ 一 月 二 十 三 日︵ 水 ︶
、高等学校百人一
首カルタ大会が、四十周年記念館にお
いて行なわれた。
▽一月二十五日︵金︶
、平成二十年度募集
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高等学校第三回入学試験が実施された。
▽ 一 月 二 十 六 日︵ 土 ︶ ∼ 二 月 二 十 六 日
習会が、国語・英語の基礎学力養成の
︵ 火 ︶ の 間 國 大・ 指 定 校 推 薦 合 格 者 学
ために國大・指定校に推薦合格した三
年生を対象に実施された。
▽一月二十七日︵日︶
、平成二十年度募集
中学校第三回入学試験が実施された。
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▽ 二 月 二 日︵ 土 ︶
、図書館大会議室にて
中 学 校 二 年 生 の 立 志 式 が 行 な わ れ た。
こ の 式 は 古 来 の 元 服 の 儀 式 に 由 来 し、
中堅学年である二年生が、自己の﹁こ
入学試験(高校)
ころざし﹂を立てる機会として、行な
われている。
▽ 二 月 十 三 日︵ 水 ︶
、第十六回国際情報
科イングリッシュ・スピーチコンテス
トが大ホールにて行なわれた。
の間平成十九年度中学校ニュージーラ
▽二月二十五日︵月︶∼三月十一日︵火︶
ンド語学研修が実施され、第三学年の
生徒と教員五名が出発した。今回で十
回目を迎え、現地の家庭に入り、ホス
トファミリーとの生活を通しての貴重
な体験から多くのことを学ぶことに
なる。
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編 集 後 記
れ故今こそ、何事においても﹁真﹂を問
に成り立っていなければなりません。そ
常に﹁真﹂を根底にした共通理解のうえ
委員長
菅原
紀浩
太平台春秋編集委員会
ら れ て お り ま す。 佐 々 木 周 二 学 園 長 は、
を引き、本校のあるべき教育精神を述べ
触れ、さらに作家曾野綾子氏のエッセイ
示唆を得る生徒諸君も多いことと、編集
れたさまざまな人生の軌跡から、貴重な
した。寄稿された作品の一つ一つに描か
語り尽くせない魅力的な話が寄せられま
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URL :http://www.kokugakuintochigi.ac.jp/koukou/
e-mail:[email protected]
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伊藤
健一
天野寿々子
大月
一男
瀬賀
正博
坂本
一成
天野寿々子
宇賀神
正
示す必要がありましょう。この校誌﹃太
い、その重要さを確認し、具体的に表し
校誌﹃太平台春秋﹄が、第十五号︵平
成十九年度版︶の発行となりました。
野を問わず、
まさしく誠実な内なる﹁真﹂
があふれておりました。
平台春秋﹄に寄せられた文には、その分
理事長木村好成高等学校長は、学園が
平成二十年度を迎えるにあたっての抱負
と 佐 々 木 周 二 学 園 長 の 長 寿 を 寿 ぎ、
﹁世
の中の流れを正したい﹂と題し、学園長 ベテランから新人教員まで様々な青春
時代、趣味、研究など、日頃の授業では
本誌の創刊を提案されるにあたり﹁教育
に携われたことを光栄に存じます。
佐々木周二先生及び先人の真なる精神に
は心の交わりであり、気迫、感動、意気
同を代表し、心から御礼申しあげる次第
の織りなす教育愛の中にこそ、本物は生 今号も、たくさんの方々のご協力を賜
り、無事発刊となりました。編集委員一
であります。
まれてくる。
﹂と﹃
﹁太平台春秋﹂の創刊
に寄せて﹄にて述べられ、人と人の心の
︵紀︶
交わりの中にこそ生み出される本物を育
む教育愛を、日々維持し続ける学園の成
長を願われます。
昨年の世相は﹁偽﹂の文字でまとめら
れ た 世 の 中 と い う こ と で あ り ま し た が、
本物を育むために教職に従事するものは
Ƚ
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國學院大學栃木
中 学 高 等 学 校