問題提起レジュメ

2009年2月1日 第45回護憲大会
「歴史認識と戦後補償」
内海愛子
1.アジア太平洋戦争を考える視点
「宣戦の詔書」から落とされた国際法遵守の文言
日本軍は誰と戦ったのか:「敵国」および敵国の軍隊――ABDA軍との戦闘
P.O.W.――白人捕虜とアジア人捕虜・敵国民間人の存在
開戦直後のアメリカ・英連邦からの照会――「1929年7月27日ノ俘虜ノ待遇ニ関
スル条約」を「事実上適用する」用意のあることの宣言を求める。1942年1
月29日
東郷茂徳外務大臣
スイス公使宛回答――日本ノ権内ニアル「アメリ
カ」人タル俘虜ニ対シテハ同条約ノ規定ヲ準用スヘシ
2.爆撃機搭乗員――捕虜か戦争犯罪人か
1942年4月18日
J.ドゥーリットル陸軍中佐が率いる16機の爆撃機B25の
東京・横浜・名古屋の爆撃――爆撃機の1機 中国の日本軍支配地に不時着。
「空襲軍律」の制定――軍律は「軍隊指揮官により、軍の指揮・統率上に必要に応じて
任意に制定される」・事後法になるため軍律:「空襲時ノ敵航空機搭乗員ニ関スル件」
(1942年7月28日)。
搭乗員が無差別爆撃を行っていない場合は捕虜として収容所へ。無差別爆撃を行った
と認定された場合は死罰から監禁罰までの戦争犯罪人として扱われる。3人を死罪。
3.白人捕虜の活用
1942年5月
12万5309人の白人捕虜を活用・「一人トシテ無為徒食スルモノ
アルヲ許サナイ」との東条訓示。「大東亜戦争」の大義の宣伝に利用。企業や工場に派
遣して活用――監視に朝鮮人・台湾人軍属・傷痍軍人の活用。日本国内に収容所設置(善
通寺・大阪・東京・福岡・函館)(1942.11.27「華人労務者内地移入の件」閣議決定)
1944年1月末 ゴールデン・ハル=アメリカ、アンソニー・イーデン=イギリスが
日本軍の捕虜虐待に公開声明。
1944年2月5日 アメリカは18カ条の捕虜虐待にたいする抗議を外務省に伝達
1944年10月 連合国軍総司令官の抗議。捕虜の本国や中立国から抗議が相次ぐ。
日本
捕虜が敵に渡ることの防止と解放の二大方針
1944.9.11―陸次「情勢激変ノ際ニ於ケル俘虜及軍抑留者ノ取扱ニ関スル件」
1945.3.17――「情勢ノ推移ニ応スル俘虜ノ処理要領ニ関スル件」
敗戦時・国内の捕虜34152人・死者3415人:海上輸送中の遭難1834人
占領地をあわせた日本軍の捕獲捕虜 16万7930人・うち3万8135人死亡
東京裁判判決 米英連邦捕虜13万2134人うち3万5756人死亡(27%)
4.連合国が日本に課した戦後処理
①戦争裁判
②賠償
[ポツダム宣言]――(1945年7月26日・アメリカ、イギリス、中華民国)・
「我らの捕虜を虐待せるものを含む、あらゆる戦争犯罪はこれを厳しく裁く」
戦争裁判
日本が受けた戦争裁判は、極東国際軍事裁判(東京裁判)といわゆるBC級戦争裁判。
東京裁判――平和に対する罪、人道に対する罪、通例の戦争犯罪で裁く。
起訴状提出:46年4月29日):東条英機たち被告28人(大川周明は開廷直後に免
訴・永野修身ら2人死亡)25人に判決(7名絞首刑判決・有期刑18人スガモに収容)。
1948年(昭和23)12月23日刑の執行。翌日24日に岸信介たち第2次東京裁
判の被告として予定されていた19人全員無罪釈放。
GHQ裁判(資料参照)
BC級戦犯裁判:通例の戦争犯罪を裁く。(捕虜虐待、住民虐殺、細菌戦、憲兵による住
民虐待、戦時性暴力、民間人抑留など)起訴5700人(死刑984人、無期・有期3
419人、無罪1018人、その他279人)。
捕虜収容所関係者とBC級戦犯裁判
起訴された全件数の16%(憲兵27%)被起訴人員の17%(同37%)
全有罪者の27% (同36%)全死刑の(11%)(同30%)
捕虜の死亡率の高さ・捕虜収容所関係者への戦犯追及・大山文雄陸軍省法務局長の分析
例:アメリカ第8軍横浜裁判(1945.12.18-1949.10.19)
起訴件数331件(4件起訴猶予判決は327件)・1037人。
うち242件(74%)・528人(50.9%)が捕虜収容所関係者
POWとJSP(Japanese Surrender Soldiers)
降伏後の日本兵はPOWではなく、「非武装軍人」と扱うとの方針
すでに捕虜になっている日本兵は「隠密裡ニ之ヲ受領」
敵国民間人の収容
第二次世界大戦と民間人の犠牲。東南アジアにおける敵国民間人――9万6000人
フィリピンのアメリカ人、シンガポールのイギリス人、蘭領東印度のオランダ人など、
植民地宗主国の民間人の抑留:民間人抑留と国際法規
アメリカなどが「1929年7月27日の俘虜の待遇に関するジュネーブ条約」を民間
人にも適用するように求める。
日本は1942年2月13日
東郷茂徳外務大臣、在京スイス公使宛書簡、抑留非戦闘
員の待遇に関し1929年7月27日のジュネーブ条約の規定を「準用」と回答。
軍抑留所と民間人の犠牲:
日)
陸軍大臣「軍抑留者取扱規定」を通牒(1943年11月7
緩やかな隔離から軍抑留所への強制収容:軍抑留所の職員に朝鮮人捕虜監視員を兼
職させるーー戦犯問題へ。蘭領東印度バタビア法廷。抑留者虐待:スマラン慰安所事件
日本の動き
1945年12月1日、国会で戦争責任決議。12月8日東京での戦犯追及人民大会。
5.冷戦のなかの賠償
「ポ宣言」・アメリカの「初期対日方針」(1945.9.22 )(平和的日本経済、占領軍への
補給のために必要でない物資や資本設備・施設を引渡すよう指示)。
占領開始後、日本の戦争能力を将来にわたって徹底的に除去するためにも厳しい賠償の
取り立て。外務省いわく「制裁、復讐、懲罰の色合いの濃い、戦争中の反日感情を反
映した厳しいものであった」。
1945年11月13日、エドウィン・ポ-レ賠償調査団来日(日本の工業は、圧倒的に
軍事目的のものであり、戦争による破壊にもかかわらず、平時経済の需要の要をはるか
に超えるものが残っている、この過剰分を除去し、侵略を受けた諸国に引き渡すべしと
言及)。全面的に実施されていたら、日本の工業生産力は1928-33(昭和3ー8)
年程度の水準にまで引き下げられていたといわれる。
極東委員会(Far Eastern Commission FEC)も、中間賠償の計画案をまとめる。賠償
の前渡しとして、その産業施設の一部を戦災国に即時取立させるよう、マッカーサー
連合国軍最高司令官に指令。賠償用として日本の産業能力の30%の取立を予定。(中
華民国、オランダ(蘭領インド、現在のインドネシア向け)、フィリピン、イギリス(マレ-シア向
け))。
アジアの冷戦激化のなかで、アメリカの対日管理政策の変化――日本の非武装化から
経済の自立へ。アメリカ・1947年12月には、クリフォ-ド・ストライク調査団
を派遣。日本人の生活水準:1950年をめどに1935年ごろの水準にまで回復さ
せること。1948年3月、アメリカ陸軍省の調査団(経済復興を重視、賠償の見直
しを打ち出す)。
1949年5月、極東委員会は中間賠償の取り立中止声明。1950年6月、朝鮮戦争日
本の再軍備、経済復興へ。警察予備隊の発足、旧軍の軍人の追放解除。11月24日に
アメリカ国務省の「対日講和7原則」は、すべての交戦国に賠償請求権の放棄をうたう。
賠償――冷戦の中で「我国にとってかなり有利な形」と外務省。
1951年9月、サンフランシスコで講和条約会議。中国の二つの政府、朝鮮半島の二つ
の政府は招請されず。
6.サンフランシスコ講和条約と戦後処
サ条約:第11条と第14条・第16条――賠償の放棄と生産物と役務による賠償
残された植民地問題
捕虜へは1万6688円(第14条・在外資産の処分):1951年9月7日
吉田・
スティツカー会談・紳士協定による補償
1980年代90年代からの戦後補償裁判の意味するもの
講和条約と日米安保条約――沖縄の切り捨てとアジアへの賠償の切り捨て
賠償を担当した賠償庁――外務省の経済協力局へ。アジアの被害者への個人賠償がなし。
戦後、日本は侵略戦争、朝鮮に対する植民地支配、アジアに対する侵略をどの時点で清算
してきたのか。
歴史認識を問い直す-戦後補償運動の展開
アジア証言――アジアで日本が何をしたのか、証言者を通してアジアに向き合った。
戦後補償運動――市民が歴史と向き合い、アジアの人と向き合っていく。80件を超す
戦後補償裁判は膨大な証言と資料の蓄積。これによって過去と向き合い、歴史認識の問
いなおし。そして、日本人の戦争被害への視点。東京と重慶の大空襲訴訟。
資料:戦争犯罪裁判(War Crimes Tribunals )
極東国際軍事裁判(東京裁判)(International Military Tribunal for the Far East )
戦争犯罪とは, 戦争中の残虐行為を禁止したへーグ条約(陸戦の法規慣例に関する条約
Convention Relative to the Laws and Customs of War on Land、1907年10月18日署名))
やジュネーブ条約(Geneva Convention Relative to the Treatment of Prisoners of War, 1929 年 7
月 27日署名)などの国際条約に規定された行為をさす。戦争犯罪裁判は、これらの国際条
約にその根拠を求めることができる。第二次世界大戦後、ドイツのニュールンベルグで戦
争指導者を裁く国際軍事裁判所が開かれた。同条例は3種類の戦争犯罪を規定しでている。
「平和に対する罪」(A 級戦争犯罪――侵略戦争の計画・準備・開始)
「通例の戦争犯罪」(B 級戦争犯罪――攻撃や占領地域での捕虜や住民への虐待)
「人道に対する罪」(C 級戦争犯罪――戦前または戦時中に民衆に行った殺害虐待などの
非人道的な行為)
日本が受諾した「ポツダム宣言」(1945年8月14日、)の十項は、捕虜虐待をふ
くむ日本の戦争犯罪を厳しく裁くことを明記していた。
1946 年1月19日、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥は、極東国際軍事
裁判所の設置を命じた。
裁判所は、日本の戦争指導者を先の3種類の戦争犯罪で訴追された者を審理し、処罰
する権限を有した。裁判国は連合国11カ国(オーストラリア、カナダ、中国、フランス、
インド、オランダ、ニュージーランド、フィリピン、ソビエト、イギリス、アメリカ)で
ある。マッカーサーは裁判長にオーストラリアのウイリアム・フラッド・ウエッブ(Webb,
William Flood)を任命した。国際検察局は連合国11カ国から構成された。
マッカーサーは連合国最高司令官として、極東国際軍事裁判憲章(Charter)を公布し、
判事・検事の任命を行い、判決を審査し、刑の軽減を行うことができる。
東京裁判は、裁判準備から運営、終結の全課程を通じて、アメリカが決定的ともいえる
主導権を発揮し、裁判そのものが究極的にはアメリカの国家的利益に合うように組織、運
営されていたと指摘している。(粟屋憲太郎『東京裁判への道』講談社、2006)
アメリカの主導の下に、極東国際軍事裁判は進行していった。1946年4月29日、
アメリカのジョセフ・B・キーナン(Joseph Berry Keenan)を主席とする国際検察局
(International Prosecution Section)が起訴状を提出した。起訴の対象期間は1928年1月
1日から45年9月2日までの約17年8カ月、国家指導者個人28人が、連合国諸政府
の共同決定により処罰されるべき主要な戦争犯罪人として訴追された。
起訴状は1928年から45年の戦争犯罪を3つに分けている。
「第一類 平和に対する罪」(訴因1-36)では、1928年から45年までの侵略
戦争の共同謀議(Conspiracy)や中国、アメリカ、イギリス、オーストラリア、ニュージーラ
ンド、カナダ、インド、フィリピン、オランダ、フランス、タイ、ソビエットにたいする
侵略戦争の計画準備、開始、遂行を対象としている。検察局が最も重視していた罪である。
「第2類 殺人」(訴因37-43)は、宣戦布告前の攻撃、捕虜・一般人・軍隊の殺害
である。その内容は他の条例と重複しており、不明確な点が多い。
「第3類 通例の戦争犯罪および人道に対する罪」(訴因53-55)は、戦争法規違
反である。通例の戦争犯罪と人道に対する罪を一括している。
訴因55のうち、全被告に該当しているのは25訴因――(1-17の戦争に関する共
同謀議・計画・準備)・(27-32の戦争遂行)・(34のタイ国に対する戦争の遂行)・
(44の捕虜および一般人の殺害に関する共同謀議)――である。また、共同謀議罪
(Conspiracy)が3類すべてに適用されている。
起訴状は、天皇の戦争責任、関東軍防疫給水部隊(731部隊)による細菌実験・生体
解剖、毒ガス作戦、朝鮮・台湾植民地支配を取り上げていない。女性への戦時性暴力・強
制売春は、インドネシアのジャワ島スマランにおけるオランダ人民間抑留者への強制売春
の証拠は一部、法廷に提出されたが、被害者の証言はなかった。朝鮮人・台湾人女性によ
る戦時性奴隷制度はまったく取り上げられていない。連合国軍による原爆投下・都市無差
別爆撃なども審理の対象になっていない。
法廷の冒頭、弁護団長清瀬一郎(きよせいちろう)は、裁判長の忌避申し立てを行った。
ウエッブがニューギニアにおける日本軍の残虐行為を調査しているなどの理由である。動
議は却下された。裁判所の管轄権に関する動議もだされた。裁判所が「平和に対する罪」
や「人道に対する罪」を裁く権限がないこと、戦争は国家の行為であり国家の一員として
行動した者には国際法上、個人責任はないなどの7項目である。3日間にわたる論争のす
え、動議がすべて却下され、審議がはじまった。弁護団は反証段階でも、「平和に対する
罪」の中心的な罪状である侵略戦争の共同謀議は存在しなかったと主張した。
1948年4月16日の審理終了まで、6415通の証拠書類が提出され、3915通
が採用されている。
1948年11月12日、判決が言い渡された。判決は判事11人全員一致ではない。
イ ン ド の Pal,Radhabinod や オ ラ ン ダ の Roling,Bernard Victor Aloyisus や フ ラ ン ス の
Bernard,Henri が意見書を提出している。フィリピンのハラニーニャ,D 判事、ウエッブ裁判
長も別個意見を提出している。
被告人中、松岡洋右(まつおかようすけ)元外相と永野修身(ながのおさみ)元海軍軍
令部総長・海軍大将の2名が病死、大川周明(おおかわしゅうめい)元満鉄東亜経済局理
事長が精神障害により免訴になっていた。被告人25人に判決が下った。絞首刑7人(同
年12月23日、東京のスガモプリズンで死刑執行)、終身禁固刑16人、有期刑2人で
ある。終身禁固刑、有期刑の者は、スガモプリズンに収容されたが、1950年代にすべ
て仮釈放された。なお、岸信介(きししんすけ)ら未起訴の A 級戦犯容疑者19人は、
12月24日に不起訴となり、釈放された。
GHQ 裁判
1948年10月27日、連合国軍最高司令官総司令部は、東京に軍事裁判所を設置す
る命令をだした。連合国は第2次東京裁判を放棄する方針を決定、このため、GHQが通
例の戦争犯罪について責任があると考えられる2人を裁く法廷を開設した。これがGHQ
裁判(通称、丸の内裁判あるいは青山裁判)である。
豊田副武(とよだそえむ)は連合艦隊(Combined Fleet)司令長官、海軍軍令部総長を歴
任、在任中に無数の住民、非戦闘員等に対する虐待や拷問、暴行などの犯行を命令、追認
し、あるいは阻止しなかったこと、日本国内の大船およびその付近においてアメリカ人の
捕虜への不法な監禁、虐待、飢餓、拷問を命令許可したことなど、5項目の罪状で194
8年10月19日に起訴された。10カ月の審理の末、1949年9月6日、無罪の判決
がくだり、即日釈放された。
俘虜情報局長官兼俘虜管理部長だった田村浩(たむたひろし)は、部下に捕虜にたいする虐
待、拷問、殺害などを命令、指揮、予防制止しないで許容したことなど9項目で起訴され
た。1948年10月19日に起訴され、49年2月23日、「8年の重労働」が言いわ
たされた。1951年12月に仮釈放された。
BC 級戦犯裁判
BC 級戦犯とは、特定の地域で「通例の戦争犯罪」を行い、各国の軍事裁判で裁かれた「マ
イナーな戦争犯罪人」をさす。ニュールンベルグ裁判では B 級は「通例の戦争犯罪」、C
級は「人道に対する罪」と区別されているが、極東国際軍事裁判の起訴状では、訴因は「通
例の戦争犯罪および人道に対する罪」と一括されている。判決は「人道に対する罪」に触
れていない。日本ではB級は責任者、C級は犯罪の実行者と区分する説もあるが、日本の
軍隊の指揮・命令系統からその明確な区別は難しい。そのため、「通例の戦争犯罪」を行
った者を一括して、BC級戦争犯罪人として取り扱われている。
ポツダム宣言にもとづき、極東に戦争犯罪人処理の機関が設けられた。中国は中国内で
活動、中国以外の日本国内および日本軍が作戦をおこなった全地域において、連合国軍の
戦犯処理機関が活動した。西南太平洋地域全域はアメリカ、東南アジア全域はイギリスが、
それぞれ調査機関を設けた。その第一次的任務は、米英国民にたいする戦争犯罪を取り扱
うことであった。アメリカは犯罪調査および犯人の発見と逮捕と訴追のための機関―法務
局をもうけた。これは横浜とマニラに分局をもっていた。横浜ではアメリカ陸軍第8軍司
令部が日本本土にある戦犯のすべての裁判を行う任務を負っていた。マニラはフィリピン
におけるアメリカ人に対する犯罪を取り扱った。マニラ裁判では捕虜や住民への残虐行為
を問われた敗戦時の第14方面軍司令官山下奉文(やましたともゆき)陸軍大将、バター
ン死の行進の責任を問われた開戦時の第14方面軍司令官本間雅春中将(ほんままさはる)
が死刑になっている。アメリカは456件、1453人を裁き、死刑判決143人(後に
3人が減刑)、無期有期刑1033人、無罪188人となっている。
イギリスの東南アジア連合地上軍最高司令部が管轄する地域では、同司令部が起訴、裁
判についての責任を引き受けた。1945年10月31日、アメリカ・オーストラリア・
オランダ・フランスとの協議の結果、次のような決定が行われた。
予備的な取り調べや裁判の準備は東南アジア連合地上軍最高司令官の任務とし、同司令
官がすべての活動を調整する任務を担当する。事件は、同司令部に設置される戦争犯罪登
録部および戦争犯罪法律部の責任の下に、裁判所への提訴が準備された。各連合国は、そ
れぞれの国の法律に従って裁判所を設立する権限を保持する。戦争犯罪が一連合国の国民
にたいして犯された場合は、その国が「最も都合のよい所」で裁判をする権利を有するこ
となどが確認された。
イギリスは, 泰緬鉄道建設における捕虜虐待、シンガポールの華人粛正事件、マレーにお
ける住民虐殺などの戦争犯罪を、シンガポール、香港など11カ所で裁き、330件、9
78人を裁いた。死刑223人、無期有期刑610人、無罪116人である。
オーストラリアは、東南アジア軍司令部の直接干渉を受けることなく、オーストラリア
の裁判所によって行うことになった。Territories of Common wealth をふくむ”Australia” 9 カ
所で294件、949人を裁いた。北ボルネオの死の行進や泰緬鉄道建設における捕虜虐
待などが裁かれ、死刑153人、無期有期493人、無罪267人となった。
フランスは1945年3月9日の日本軍による仏印全土の武力占領以降、終戦までのフ
ランス人に対する戦争犯罪事件におおむね限定して、サイゴン1カ所に法廷を設けて裁判
を行った。39件、230人を裁いた。死刑63人(のちに37人が減刑)、無期有期1
35人、無罪31人である。
フィリピンは、1946年7月4日独立し、47年8月1日、日本人戦犯に対する軍事
裁判を開始した。アメリカのマニラ分局が閉鎖した後、非アメリカ国民にたいする事件が
フィリピンに移された。フィリピン裁判は72件、169人を裁いた。死刑17人、無期
有期104人、無罪11件。なお、第二次大戦後、アジアで独立した国で日本人にたいし
て戦争裁判を行った国はフィリピン一カ国である。
中華民国は北京など10カ所で605件883人を裁いた。死刑149人、無期有期3
55人、無罪350人である。
これら戦争裁判の処罰は、大陸法系(フランス・中国・蘭印)と英米法系(イギリス・
アメリカ・オーストラリア・フィリピン)によって行われたが、いずれの国も上訴権を認
めていない。しかし、認定あるいはいかなる刑も承認官(確認官)によって承認(確認)
されなければならない。
このほか、英米による戦争犯罪処理機関によらない2カ国の裁判がある。ソ連は約10
000人を戦犯裁判にかけ、約3000人が戦犯となったといわれる。中華人民共和国は
1108人の容疑者のうち、起訴された45人を除いて全員が免訴となった。