-1- ついに来た来た ホンジュラス!(8) 10月27日(日) 任期は、残り1年4ヶ月と22日になった。 ここにきてやっと、任務の全体像と計画がつかめてきた。一生に一度のこと。自分に負けないで、一生懸 命に任務を果たしたい。 虫の方は「どうして、ミヨだけそんなに刺されるの?」とここの人たちに言われるが、痒いのは薬を塗っ てじっと我慢。跡に残るのは最近あきらめがついてきた。 しかし最近は、水の出る音の幻聴が起こるようになった。部屋にいて、隣の部屋の水道から、水がチョロ チョロと出始めた音が聞こえる。「やった!出た!溜めなきゃ!」と思って行ってみると、そんな場合決まっ て水は出ていない。幻聴なのだ。これはもう末期症状か!?(^^) 〈何でも大音量のホンジュラス人〉 私の朝は、けたたましい「音」といっしょに始まる。 ホンジュラス人は夜が早い。うちの家族など、9時にはみんな寝ている。そして朝早く動き始める。まる で太陽の明かりに沿って生活しているようだ。何ともうらやましい感覚。日本でそれができれば、今の多く の社会問題や健康問題のどれかが解決しそうだ。 9時とはいかなくても、ここでは私も夜はできるだけ早く明かりを消したいと思う。それは夜明かりをつ けていると、町中の虫やら何らやが光に誘われてやってきて、部屋中を飛び回るからだ。隙間だらけが普通 の住宅なので、なんでも余裕で入ってくる。悪さをしない虫なら、飛び回るのはどうぞご自由にという感じ だが、蚊によって媒介されるマラリアやデング熱が怖い。ちなみに隙間といえば、私はベッドで横になって 上を見上げると、星空を見ることができる。窓からではなく、屋根にある隙間から見えるのだ。町は夜間は 危険といわれているので、私は日が暮れてからは家の外を歩いたことがない。そのため星を見る機会もない -2のだが、寝ながら見えるとは考えようによっては贅沢かな。 ちょっとここで虫といえば、この間また家にサソリが出た。サソリ君は水が好きなのか、水気のあるとこ ろに出没する。うちでも水浴び室(ちょっとシャワー室とは呼べない)に出た。そこでうちの息子に言った ら、彼はサソリをこてんぱんに叩きつぶしてしまった。しまった言うんじゃなかった。私は今度サソリを見 つけたら、生け捕りにして飼ってみようと思っている。そのためにペットボトルを細工して、生け捕りセッ トを作った。楽しみだ。 そこで朝、5時頃には空が明るくなり始めるので、それと共に人々の活動も始まる。まさに日の出と共に 活動し、日の入りと共に就寝している。 夜中は近くとどこか遠くの多くの犬が、ずっと呼びかけ合うように遠吠えをしている。そして明るくなり 始めるとソナゲラにいる何千羽というニワトリが、我先にと鳴き始める。この頃犬は遠吠えではなく、本格 的にほえ始める。私は知らなかったのだが、ニワトリは木の上で眠るらしい。ここのニワトリは、辺りが薄 暗くなると器用に木を登って、枝で丸くなっている。家族にその理由を聞くと、夜は獣が襲うので地上は危 険だから、ということだった。 そして5時半過ぎには近所の小さな子供達が、うちへ遊びにやってくる。5・6人も小さな子たちが集ま ったら、元気な声で走り回るしケンカは起こるし、そして誰かは泣き始めるし・・・。朝からとてもにぎや か極まりない。 また日常のこと。ホンジュラス人は車のステレオは、通る道沿いの家の人全てに、聞かせてあげているく らいの大音響だ。家の中でのラジオの音楽も、確実に両隣4・5軒先まで聞こえるくらいの大音響でかけて いる。(実際には家が近接していないので、4・5軒も先になると50㍍位先になってしまうので、聞こえな いだろうが。)うちの家族も、同じくラジオの音は大音響だ。いったいどれくらい大きいのかと思い、調べて みた。20㌢の糸をピーンと棒に張って、ラジオの近くに立つこと約30㎝。その地点ですでに、糸は細か く振動していた。ここでの常識の音量をもって日本で生活すると、確実に近所づきあいはできなくなるだろ う。 そして車は、やたらにクラクションを鳴らす。テグシやラ・セイバなどの信号のある大都市では、信号が 赤だと腹を立てて、すぐにクラクション。前の車が普通の速度で走っていて、少し遅いと思うとガンガンク -3ラクション。タクシーも歩行者を見つけると、「乗らないかぁ∼」と遠くからクラクションを鳴らしながら近 づいてくる。町中がクラクションの音だ。ここの人たちは、いつも自分の本能のままに感情を表現する。た まにはもう少し、落ち着きと静けさをくれぇ∼と思ってしまうこともある。 この間私が、部屋でCDをかけていた。そしたら、ちょうど入ってきたうちの家族が「ミヨ!どうしてそ んな小さな音で聞いているの!?どうして!?」と、とても驚いて聞いてきた。私は、別に普通の音で聞い ていたのに・・・。ホンジュラス人にとってラジオや音楽を聴くというのは、ガラスが震えるほどの大音響 でないと聞いたことにならないらしい。 〈アメーバー赤痢〉 同期の隊員が2人、アメーバー赤痢になって、テグシにあるホンジュラス一立派と言われる病院へ入院し た。ホンジュラスでは、公立病院は驚くほどとても安い。公立病院や、セントロ デ サルー と呼ばれる 町の中心部にある保健所は、どんな庶民も安心して行けるとても安い価格だ。しかも薬も処方してくれる。 公的な保険制度には一般庶民は加入していないのに、ここまでの社会保障にはとても感心してしまう。しか し「行くんだったら、私立病院の方が間違いない。」と、ホンジュラス人が言っている。 そのホンジュラス一という病院も私立病院だ。ちょうど、私もテグシ出張期間だったので、お見舞いに行 ってきた。一泊100$もかかる病院だけあって、来ているホンジュラス人はかなり上流階級そうな雰囲気 を漂わせている人ばかり。看護士さんたち病院職員は白衣を着ていないし、壁もベッドも白一色ではなくな く、家庭的な雰囲気の病院だった。衛星放送完備で、HNK番組も常時見ることができる。(ここにもそんな 夢のような世界があるんだ!)しかし、点滴掛けの足が折れて傾いていても使っていたり、窓と壁の間に隙 間があって外の景色が見えるところなど、どこか憎めないやっぱりホンジュラスらしさがあった。 幸い二人とも、2・3日で全快して退院した。よかったよかった。しかし、日本にアメーバーを持ち込む と、かなり大変なことになるらしいが・・・。 〈陽気?楽天的?〉 次のようなパターン。ここでは何回もある、ごく日常的な会話パターン。 パターン① ホンジュラス人の、ある子供連れのお母さんと話をしていて、 -4母:この子は、私の娘よ。9歳になるの。 私:へえ。とてもかわいいお子さんですね!(と、社交辞令) 母:ええ、そうよ。私もそう思うの!とてもかわいい子でしょ!美人だから、将来とてももて る女の子になると思うわ。 私:・・・・・。 パターン② 私がいつも、この日記をコピーしてもらっている、コピー屋さんで。お店のお姉さん。 私:やあ、こんにちは! またいつもの分で、よろしくね。 姉:やあ、ミヨ。チェケ!(オケー)そこに座って待ってて。 私:いつもありがとね。仕事を作っちゃってごめんね。 姉:そう。私、とてつもなくたくさん働いているわ。こんなに働いて、私、かわいそう。 今日一日で、ミヨ以外に4人もお客さんが来たの。全部で1時間も働いたわ。働き過ぎよ。 私:・・・。 (ホンジュラス人は、いつもやたら「よく働いた」「ものすごい仕事をした」と口にする。のんびりしてた じゃないかぁ。と思う仕事ぶりでも「大変だった!よく働いた!」と、とても大げさなので、聞いてい るとびっくりしてしまう。) パターン③ 会話の中のよくあるひとこま。 ホ人:ミヨ、英語は話せるの? 私 :うーん。話せないなぁ。 ホ人:え!ミヨ話せないの!? 私 僕は英語話せるよ。 :へぇ。よく勉強したんだね。例えば、どんなの知ってるの? ホ人:「りんご」はね、「apple」でしょ。「こんにちは」は「hello」でしょ。 他には知らない。でも、ほら僕は英語、話せるでしょ。 私 :・・・う、うん。そうだね・・・。話せるね。 (こんな感じで2・3の単語を知っていたら、もう「英語を話せるよ。」と明るい顔して言う。) 陽気というのか、楽天的というのか、人と話していてよくこのようなパターンになる。これも、なんだか 憎めない、ホンジュラス人らしいよさの一つだ。 しかし、楽天的なようで実はホンジュラス、自殺者がとても多い。新聞には『1時間に一人の自殺者』と 載っていた。しかも新聞には首つり自殺後の死体や、目を見開いたままの自殺死体などの写真も載っていた。 -5自殺した人の尊厳はどこにあるのだろうか、と思ってしまう。ちなみにホンジュラスの人口は600万人だ から年間0.1%の人々が自殺していることになる。 〈保身?〉 また、結構あっけにとられることの一つに彼らの「保身」がある。食堂やレストランで、オーダーをする とする。ここでは、結構な高い確率でウエイターはオーダーを聞き違える。また、運んできた飲み物を置く とき、手が滑ってひっくり返る。そんなとき、日本人ならまず「すみません。」「ごめんなさい。」と、思わず 言うのではないだろうか。しかし、ここではまずそれは聞かない。オーダーの覚え間違いは、「いや、あなた (客)が言い間違えたのです。お支払い下さい。」と、平気な顔で言うし、グラスがひっくり返ったときは「こ のグラスの形が悪いのです。」とグラスのせいにするのには驚いた。 バス停でバスを待っているとき、親子連れがいてその子供が食べ物のトレーを後ろにポンと投げ捨てた。 それがちょうど後ろにいた女性に当たって服が汚れた。でもその様子を見たその親は子供を叱ったが、その 女性の方には何も言わない。また普通、バスの中では人の足を踏んでも謝らない。 あるとき私の部屋に、家族の親戚とその子供達が来て話をしていた。灰が入っている蚊取り線香のお皿が、 足下にあった。蹴ってひっくり返さないかな。と心配したその直後、子供がそれをひっくり返し、床中に灰 が飛び散った。わたしは、「あ∼ぁ。思わんこっちゃない。」と思いながら、掃除道具を持ってきて掃き始め た。でも、誰も掃こうとしないし、親もひっくり返した子供を叱ることもしない。もちろん誰も、「すみませ ん。」は言わない。子供に対するしつけの感覚が、日本と違うのだろう、仕方ないよな。と思いながら片づけ ていた。しかし、彼女たちの、笑いながら言う台詞「Miyo ¡Que Lástima !(ミヨ 残念!)」には、国民性の 違いを越えて、そんなもんだろうか?と思ってしまった。 「謝らない」これは安易に自分に非があると認めることで、後で命取りになる厳しさを、歴史上の教訓か らここの人たちは知っているからだろうか。日本でも交通事故のとき、「事故をしても、すぐにすみませんを 言うな。」と最近は言われるが、それも「まずは自分の保身」という同じ考え方だろうか。それが現実かもし れないが、なんとなく寂しい気がした。 〈切っても切れない、深い関係〉 日本では「ホンジュラス?え?それ国の名前?」などど知名度が低いわりには、日本とホンジュラスの関 -6係は結構深い。 外交関係が開設されたのは1932年。大喪の礼・即位の礼のときには、世界で最初にホンジュラスの大 統領が参列を表明した。また、98年のハリケーン・ミッチの際には、国際緊急援助隊として日本初の自衛 隊が派遣され、テグシで2週間、医療・防疫活動を行っている。 またそれだけではなく、ホンジュラスとはこれからも深い関係にありそうだ。ホンジュラスは重債務国と してIMFから、対外債務免除国に指定されている。(正式にはまだだが、「健全なる国家財政」が認められ れば、来年にも指定。その見込みは確実。)そうなれば、ホンジュラスの対外債務の3分の1を担っている日 本は、それを年間40億円ずつ将来2・30年に渡って肩代わりし、払っていくことになる。(←出典:JI CA所長の話) ホンジュラスの税制で、一つの問題になっていること。例えば、法人税。国内企業の売り上げ上位30社 中、税金を納めているのはそのうちたった3社だけ。後の企業は、赤字経営のため免除対象になっている。 間接税としては消費税などが、食料品以外から12%∼15%の割合でかけられている。しかし、それも中 小の商店によって曖昧で、9月に政府がその徹底調査をしたら、多くの商店が摘発された。以前に、ここコ ロン県の県庁所在地トルフージョへ行ったとき、町の中の3割くらいの商店が、摘発された事を示す黄色い ポスターを貼られて、営業中止になっていた。それだけいい加減なことが、今までまかり通ってきたのだ。 この大きな貧富の格差の社会。そんな中小の商店を締め上げなくても、高所得者層から税徴収できれば効 率がいいのだろうが、国会を占めているのは高所得者層なので、そんな法案は通らない。自分の首を絞めて まで国を救おうとする政治家がなかなかいないのは、この国に限ったことではないとは思うが。しかし、そ の分、日本国民が肩代わりすることになるのだから、人ごとではない。 しかし、国内を走っている車の7・8割を日本車が占め、タクシーとなるとほぼ99%70年代の日本車 が使われている。(しかし大型トラックの類はほとんどがベンツ社。)テレビやオーディオ機器などの家電製 品も、車と同じく多くの日本製品が占めている。ゲーム関係は全て任天堂かSEGA。子供が夢中になって いる漫画も日本のポケモンの類。人々はみんな口をそろえて「日本製品は、とても品質がいい。」と言って買 ってくれている。それだけ、日本がこの国をこれだけ市場にさせてもらっておきながら、え?債務?知らな いよ。とも言えないだろうが・・・。 -7先日の新聞に、『マドゥーロ大統領。台湾政府へ4億$の援助を申し込む』という見出しの下、台湾を訪問 中の大統領の写真と、その記事が一面に出ていた。ホンジュラスは、台湾と国交のある数少ない国のうちの 一つでもある。 台湾はこの国に今までにも、いろいろ援助している。例えば、国内の警察パトカーがそうだ。援助を示す ように、パトカーには、ホンジュラスと台湾の両国旗が描かれている。まるで、走る援助宣伝カーだ。また 他の諸外国も援助すると、その町で一番よく見えるところに大きな看板を立てて、そこに援助内容と両国旗 を描いて掲げている。「ああ、○○国が援助してくれたんだな。」と、すぐ分かる。実にうまい宣伝効果だ。 日本はホンジュラス債務の3分の一も、たった一国で担っておきながら、国内では諸外国に比べると、ほ とんどその援助を示す看板や日本国旗を見かけない。立派と言われる橋も、近づいていって初めて日本の援 助だったと書いてあるのが分かる。 自己表現が大げさで上手い欧米各国と、遠慮深い日本との表現効果の格差を感じてしまう。遠慮は日本人 が生来持っているたぐいまれない美徳の一つだ。しかしこうして国際社会という同じステージでは、それを どこまで外国の人に理解してもらえるのか。デカデカした外国の援助看板を見ながら、何だか葛藤を感じた。 ちなみに。架橋工事の援助は、日本以外にも諸外国が行っている。しかし、先のハリケーン・ミッチで援 助によって造られたほとんどの橋が落ちた。しかし、いくつが残っている橋があった。そのほとんどが、日 本が造った橋だったのだ。「日本の橋はすばらしい。」と、ホンジュラス人からも好評た。 〈ノー・アイ・プログレーマ(問題ないよ)〉 ここでホンジュラス人の「問題ない」を、いくつか紹介したい。 ケース① 『ハエ入りスープ』 ある食堂で、具だくさんのスープを食べていた。半分くらい食べ終わったところで、何か黒いかたまりが 浮いてきた。何だろう?と思って、スプーンですくってみると、なんとそれは『大きなハエの死骸』だった。 「・・・」と思いながらも、もうすでに半分は食べてしまっている。店員を呼んでハエを見せると、彼女は うなずいて店の奥へ入っていった。そして彼女が持ってきたのは、大きなスプーン。どうするのかと思って いると、彼女はハエをそのスプーンですくい上げて、「問題ないです。どうぞ、お召し上がり下さい。」と言 -8って去って行った。 ホンジュラスでは、食事の時お米をおかず代わりに食べると前にも書かせてもらった。そのご飯を食べる とき、黒い点々や、茶色い小さなつぶつぶが入っているときがある。よく見るとそれは縮こまったアリたち の死骸だったり、小さな虫の卵たちだったりする。それでもここでは「問題ないよ」なのだ。 首都にある大きなスーパーでも、ソナゲラの小さな雑貨屋さんでも、買ったバンにカビがはえていること は、珍しくない。それでも食べれるから、問題ないらしい。買ってきたパンやケーキをよく見ずに食べて、 「ん!?味が変だ!」とパンを見ると、裏にカビが生えていたりする。(これを家族に言うと、「普通そんな もんだ。確かめないで食べる方が悪い。」と言われた。確かにそうかもしれない。)しかし最近では、私もカ ビパンを食べ慣れてきて、味によってカビの種類が分かるようになってきた。大きな体の異変は起こらない から、カビは食べても本当に「問題ない」ようだ。 ケース② 『ドアのないタクシー』 テグシを歩いているとき「乗らないかぁ∼」と、近づいてきたタクシー。見るとなんと、ドアがなかった。 運転手に聞くと、「走るから問題ない。」と。 タクシーやバスの9割8分は、前面ガラスのどこかに、必ずひび割れがある。銃跡のような跡から、普通 のひび割れまで様々だ。前面に大きく編み目のように走っているひび割れもあって、あれでよく前が見える もんだな、と思ってしまう物もある。先日乗ったタクシーは、ひび割れではなくて前面ガラスが全部無かっ た。どうしたんだと運転手に聞くと、「夜、家の外で銃声がした。朝、自分の車を見てみると、前面ガラスが 粉々になって落ちていた。まさか撃たれたのが自分の車だったとは思わなかった。でも今度修理に出すつも りだ。」と。 タクシーやバスが故障して、道の真ん中に止まっているのも珍しくない風景だ。それでも、「止まるまで問 題ない。」らしい。 バスに乗ると、床がさび落ちていて抜けていたり、窓が閉まらなかったりする。窓が閉まらないと、雨の 時大変だし、また天井から雨漏りのするバスもある。それでも、最大の目的「走る」ことを達成しているか ら問題ないらしい。 -9- ケース③ 『自分の着ている服を売る』 以前、道に出ている露店でTシャツを買った。気に入ったプリント柄があったので、さあ値段交渉して買 おうとした。しかし、よく見るとサイズがちょうど合う物がない。仕方ない、他の店をまわるかと思ってや めようとすると、そこで売っていた兄ちゃんが、いきなり着ていたTシャツを脱いだ。そのTシャツは、私 が買おうとしていた物と同じプリント柄。そして、私が欲しかったサイズだった。そして、「これを買え。」 とばかりに彼は差し出す。 しかし、いくらなんでも今まで自分が着ていた物を売ろうとは!?しかも何日も着ていたのだろう、白い ところが灰色になっている。私は最初冗談かと思ったが、彼は本気のようだった。しかし、Tシャツとは着 る物。目的を達成しているからこれも問題ないのか。 ケース④ ☆1☆ その他編 食堂やレストランのトイレは、男女に分かれていない所が多い。ホンジュラスはもちろん「洋式」 トイレ。そこで便座をよく見ると、座るU字型のふたの方がたくさんの黄色い水で濡れている。何だろう? まさかと思ってニオイをかいでみると・・・アンモニアだ!めんどくさいのか、男性はU字型のふたを上げ ずに「小」をしている。トイレが男女共同の場合、大抵はこのパターンだ。 しかも、うちの家のトイレでも同じ状態だ。いつもトイレでは、座っている女性のことも考えてくれぇ∼。 しかし、日本の男性トイレを私はよくは知らないのだが、多分日本の男性はU字ふたを上げて小をしている 思うのだけど・・・。 そして、そういったトイレではトイレットペーパーがない、手洗いの水がない。まあ、トレペは無いのが 普通だろうが・・・。しかし、トイレを利用した男性達、そして料理を作っている人たちもみんな手を洗っ ていないんだよな。と思うが、これも「問題ない」のだろう。 ☆2☆ ある日ケーキ屋さんに入った。おばちゃんが、スポンジにバタークリームをチューブからしぼり出 して、きれいにデコレーションしていた。「おいしそうだね。」と声を掛けると「ありがとー。」と、言いなが らおばちゃんは、チューブから出かかっているクリームをペロペロなめる。 「え・・・!?」と私は思ったが、 気さくなおばちゃんは作りながら次々と話をしてくれた。しかし、話の短い区切り毎におばちゃんは、何回 - 10 もチューブをペロペロ。そしてそのチューブでまたデコレーション。なめながら作ったデコレーションケー キは、ついに完成した。そして、そのままそのペロペロケーキは、お店のガラスケースの中に収まった・・ ・。 ☆3☆ 新聞が欲しくて、ちょっとお店に入った。おじさんに「新聞、売ってないですかぁ?」と聞くと、 彼はちょっと考えた後「ああ、あるよ。」と言って店の奥に入っていった。ずいぶん待った後、彼はボロボロ になって全ページ揃ってない新聞を持ってきて「4Lpsだよ。」と差し出した。日付を見てみると、半年く らい前の物だった。新聞には間違いないけど・・・。 お店で新聞が欲しいと言ったら、今日の新聞という意味なのは常識ではなかったのでした。(^^) ホンジュラス人の「問題ないよ」と、私の常識。違いがあるのが面白いと言えば、面白い。こういった考 え方の差がどこから来るのか、それを考えるのも面白い。 〈歌舞伎〉 10月上旬のテグシの出張の時に、ちょうど日本大使館主催で「歌舞伎」の上演会があり、私も観させて もらうことができた。市川カメジロウ氏と市川ダンサブロウ氏(パンフにはローマ字でしか書かれてないの で、正しい漢字が分かりません。失礼します。)による、途中のトークもはさみながら3時間くらいの上演会 だった。私は恥ずかしながら、今まで生の歌舞伎を観たことがなかった。「生まれて初めて観る生歌舞伎が、 ホンジュラスの地。」っていうのもなんともなぁ、と思いながらどこかしら心地のいい歌舞伎の音と雰囲気に、 懐かしさで目頭が熱くなってきた。やはり日本文化はいいなぁ。 この講演会には、各国大使館関係者が多く招待されていた。休憩時間に隣の医者だというホンジュラス人 と話をしている中で、 「実は私、歌舞伎を観るのは今回が初めてなんですよ。」と言った。すると彼に「え!? それはどうして?日本人は働き過ぎで、歌舞伎を観る時間がないから?」と言われた。 ここラテンの音楽・踊りは、官能的で激しく陽気だ。それもとてもすばらしい。しかし、この歌舞伎の凛 とした空気の中に、日本文化の良き価値の一つを感じた。 - 11 〈『別に気にしない』の感覚〉 最近「どうして?」と思うことがたくさんある。 まずソナゲラの人は、水がもったいないという感覚が ない。次いつ水が来るか分からないのに、大きなバケツ の水が残り少しになってもバサバサ使う。私が「無くな ったらどうするの?」と聞くと「無くなったときはあき らめる。知らない。」と言う。お金の場合でも、日本人は 将来の生活のために貯金しておこうという、貯蓄好きと 言われる。私はやはり日本人なのか、水も「安心な量を 溜めておいて、少しずつ大切に使いたい。」と思う。しかしここの人はある時にバンバン使い、無くなったと きは無くなったとき、と考えている。だから、水が水道から出始めたら溜めておくのだが、バケツから水が あふれてもずっと水は出しっぱなし。 ここソナゲラ一帯は昔から水不足のため、2000 年にスイスが貯水タンクをODAとして援助した。そのお かげで、たまに水道から水か出る生活ができるようになったのだ。援助のありがたさを、住民として感じる。 しかしその貯水タンク、見てきたがソナゲラ全体をまかなうというとそんなに大きな物ではない。やはり市 民が協力して節水の意識を持たないと、必要なときにはなくなる。 私が、家族に「水がもったいなくないの?」と聞くと「安いからいいの。全く問題ないわ。」と言う。いや、 お金の問題じゃなくて・・・。と思うのだが。ちなみに「どれだけ使っても、水道代は同じなの?」と聞い てみたら、彼女はなんとも不思議そうな顔をして「どうして使った量が分かるの?」と聞き返した。あ、そ れもそうだ。メーターなんて付いてないよな、と気付いた。 また、日常の生活を見ていてこんなことがある。例えばの一例を挙げてみたい。 ロープを切ってそれで荷物を縛るとき、普通は「これくらいの長さなら、とどくかな?」と、念のため荷 物にロープを回してみるだろう。でもここのおっちゃんたちは、適当に切ってから「あ、足りなかった。」と また別のロープを切る。でも、また足りなかった。とまた別のロープを切る。そしてついに切れるものがな くなって、彼は新しい長いロープを買いに行った。 - 12 ある日、私は家のお隣さんの作業を手伝っていた。大きな袋に荷物を入れるとき、私は「どうみても、こ の量はこの袋に入らないよなぁ。」と思う量なのに、彼らはどんどん入れてみる。そして袋が一杯になってか ら、まだ半分以上も残っているのを見て、やっと「あ、入らない。」と気付く。 また先生方対象の講習会で、計算カードを作ってもらった。厚紙の端からつめてカードをおいていけば十 分足りる大きさなのに、先生方を見ていると大きな厚紙の適当な所にバラバラにカードを作っていっている。 それでははしたの部分ができて、厚紙が足りなくなる。切る前に説明したが、私の説明がまずいのか分かっ てもらえない。結局、切ってしまってから何人もの先生が「厚紙が足りないよ。」と言いに来られた。 毎日こういった、何かのとても驚くことが起こる。しかし私も人様に物言うほどの先見性のある人間でも ないのだが、こういった計画性というか、全体を見る力はどうやったら育つのだろう?かと思ってしまう。 直接体験や体験活動は、日本の子供達よりもよっぽどたくさんしてきているはずなのに。 またホンジュラスの電気は、ほぼ100%が水力発電だ。この電気の使い方についても水と同じで、誰も いないのに昼間から部屋の電気がずっとつきっぱなしになっている。よく停電が起こるが、彼らは別にあわ てない。ある時には無駄だと思うくらい使って、無くなったときは仕方がない、と思う。こんな使い方の感 覚だから、土日などは計画停電をされるんだ、と思ってしまう。停電の復旧には時間がかかり、そして停電 によって冷蔵庫内の物が腐り、食中毒が起こる。 こういった信じられないような出来事を、理解したいと思ってよく考えてみた。そこでひとつ考えられる ことがある。 ここの人たちの『別に気にしない。』の価値観だ。「水が無くなっても別にいいじゃん。」「電気がないと困 るけど、そのときはろうそくがあるしそれでいいじゃん。」「ロープが無くなれば新しいロープを買えばいい じゃん。」 「袋に入れてみて入らなければ、また入れ替えればいいじゃん。」と。彼らは常に『別に気にしない』 のだ。水に関して言えば、ここの人たちは私ほど「水がないと困る!」とは思っていない。こんなに汗をか いても、一・二週間くらい手も洗わなくても平気だと言う人はたくさんいる。 「○○は無いと不便だから、あった方がいい。」「作業は、より効率よくした方がいい。」「物は、合理的に 無駄なく使う方がいい。」「時は金なり。大切に。」などと思ってしまう私の方が、より窮屈な生き方なのかも しれない。合理化と効率化は経済効果と利潤の追求のためには欠かせないことだと思うが、それは返って精 - 13 神的にはゆとりをなくすことなのか? しかし一方、ゴミの投げ捨ても「いらなくなった物を捨てるだけ。どこか間違ってる?」自分は身軽にな っても、町が汚れる。しかしこれも『別に気にしない』のだろうか。 約束の待ち合わせ時間に、平気で何時間も遅れる。商店は、その店のドアに張ってある閉店時間は守るが、 開店時間は守らない。バスの出発時間も適当。算数の講習会開始時間の定刻に来ている先生は、全体の3分 の1くらいだけ。そういった時間に対するルーズさも『別に気にしない』からなのだろうか。 私はいつもハラハラするバスの無謀運転とスピード狂。カーブの多い山間部の国道で、他のバスと並んで 走り抜くか抜かれるか競い合ったり、先がカーブで100㍍先も見えないというのに他のバスを追い越しに かかたったりする。だからあと数秒遅かったら、対向バスと正面衝突という場面が何度もある。それも「事 故ったって別にいいじゃん。人間は死んだっていくらでも赤ちゃんが生まれてくるんだし。」『別に気にしな い』のだろうか。まさかそれはないと思うが・・・。 停電してもすぐに復旧作業に取りかかれば、少しでも食中毒を防ぐこともできるし、水を大切にして水で 体の清潔を保つように心がければ病気やそれに伴う死亡例も減る。しかし電気も水に対しても、さほど必要 感を感じていないのだから、なくても『別に気にしない』のだろうか。実は「命」がかかっていることなに に。 自分だけに関わる『別に気にしない』のは自由だが、ゴミのポイ捨ては公共を汚すとか、時間に対しては そこに待っている人がいるとか、バスの運転は他人の命を預かっているとか、その辺りの考えはどうなんだ ろう?そんなことをあれこれ考えていたら「ミヨ、何そんなこと気にしてるんだ。気にするな気にするな。」 とホンジュラス人の声が聞こえてきそうだ。 11月10日(日) 〈どんな国よりも、まずはどんな人〉 『ハポン(日本)浸透大作戦』を決行中だ。もう、かなりの人と自己紹介をし合った。しかし第二期目標 の「国名よりも名前で呼び合える関係」に入る前に、考えさせられることがある。 - 14 ソナゲラの道を歩いていると、窓からのぞく小さな顔が「ミヨ!」と言っては隠れる。返事をしながら近 づいていくと、恥ずかしそうにかわいい小さな子が出てくる。彼らはミヨが日本から来たことは知らないと 思う。でも私のことを、誰から聞いたのか「ミヨ」と呼んでくれる。あの珍しい東洋人が日本から来ようが、 中国から来ようが彼らにとっては関係ない。あの人は「ミヨ」というらしい。と知っている。他にも、道で 多くの人が「ミヨ!」と言ってくれるようになった。とてもとても嬉しい。(^.^)しかし「ミヨー!チーノー!」 とも言われるときもある。でも嫌な気はしない。 国際化とか国際交流とかは、そもそもそういうものではないかと思った。まずは、人があってその次に、 その人がどこの国の人なのか。人と人との交流がまず先にある。「ハポン」にこだわった私は、間違っていた と思った。 これからは名称を変えて『ミヨのソナゲラ溶け込み大作戦』にしよう! 〈フジイダ感動の風景(お勧めの風景を改名)100選∼ホンジュラス編∼ NO.2〉 ここソナゲラは1週間に一回くらい、なんとも言いようのないほどの大量の雨が降る。それは決まって夕 方に、しかも30分ぐらいの間だけ降る。 その降り方がすざましいのだ!空が真っ黒になってきたかと思うとしばらくして、一気にザー!!雨が降 る、なんていう穏やかな感じではなくて、バケツをひっくり返したというか、まさに分厚い水のカーテンが 落ちてくるという感じ。こんなのは、私は日本では見たことなかった。大量の雨量のため風景が真っ白にな る。しかし雨があがった後は,埃っぽかったソナゲラの木々や家々が空気が、さっぱりしてキラキラ光って いる。とてもすがすがしい。ここの人々はこの雨が降っても、特にあわてないし洗濯物も取り込まない。そ のまま干してある。 私はこの水のカーテンを、眺めるのがとても好きだ。しかしこの間は道を歩いていて、ちょうど水のカー テンに出くわしてさんざんな目に遭った。雨傘を持っていたものの、ずぶぬれになり、叩きつけられる雨粒 で傘の骨が折れるかと思った。そのしぶきでも皮膚に当たると痛くて、叩かれたように赤くなった。だから、 安全なところから眺めるのが一番いい。 しかしどうしてこんなに一生懸命に降れるのだろう?力の限りっ!というくらい、雨が必死で降っている。 眺めていると言葉を失うくらい・・・その真剣さに見とれてしまう・・・。しかも、その往生際がなんとも - 15 潔い。必死で降った後は思い残すことなく、サッとあがる。あがった後は一滴も残さない。すぐに雲が切れ る。なんという壮絶な生き方か・・・。水のカーテンの男っぷりに惚れてしまう。 しかしこの雨、本当は何と呼ぶのだろう。聞いてみるが、みんな「強い雨」とか「たくさんの水」とかし か言わない。「スコールとは言わないの?」と聞くが「なんだそれは?」と言われるのでスコールではないら しい。この水のカーテン。フジイダ感動の風景∼ホンジュラス編∼の、堂々の仲間入りだ。 今夜も、部屋の壁には4匹ほどヤモリ君たちがいる。スペイン語でヤモリは「ケコ」という。かわいい名 前だ。その名の通り、ケコくんたちは「ケケケケケ・・・」と鳴く。部屋に飛び込んでくる虫を食べてくれ る以外、悪さをしないのでここにいてもらっている。しかし、朝になると隙間から外へ出ていて、また夜に なると決まってここへ戻ってくる。飼ってるみたいでかわいい。 11月に入っても毎日猛暑が続いている。しかし、ふと気付いたことがある。「こんなに暑いのに、セミの 鳴き声がしない・・・。」暑さとセミの鳴き声がいつもセットにあったのは、日本だけだったのか・・・。 「無 言の猛暑」も何か妙な気がする。(※ラジオと音楽以外の無言)四季がない熱帯気候ではセミは育たないのか なぁ。 私はホンジュラスに住んで、まだ4カ月ほどしか経っていない。従ってまだこの国のことがよく分かって いる段階ではない。一面的なホンジュラス観で、客観性を失いたくはないと常に心に釘を刺している。しか し、ゲーテも言っていたように「他国を知ることは、自国を知ること。」今、他国に住んでやっと自国の良さ を再認識している私だった・・・。しかし協力隊員として任務以外に私ができることは何か?今はまだ、こ の国に多くの考える機会を与えてもらっている事の方が多いような気がする。 - 16 - しかし日本から見ていて「オイ!フジイダ!こりゃ、ちっと 盲目になり過ぎだぞ。走りすぎてるぞ。」というご指摘があり ましたら、遠慮なくご指導下さいまし。m(・.・)mペコ
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