ベトナム北部の少数民族ザオ・ティエンの衣装文化

民族藝 術学会編 『民族 藝術 Vol.20』2004nen
pp.97-106 元原稿
20150114 配布 資料
ベトナム北部の少数民族ザオ・ティエンの衣装文化
Clothing culture of the Dao Tien people in northern Vietnam.
内海涼子
抄録:
ベトナム北部に居住するザオ・ティエンは、東南アジアのヤオ民族のサブグループのなかでは唯
一、独自の手法で蝋けつ染めをおこない、また、女性が巻きスカートを着用する。これらは、かれ
らの祖先がおそらく明代に華南を離れる以前に形成された伝統であろう。ザオ・ティエンの衣装、
とくに女性の巻きスカートは、その模様も構成の細部も、個人の身分や集落による違いがなく、一
世紀以上にわたり変容していない。このような衣装の画一性や不変性は、多様な民族が交錯する華
南から東南アジア北部において、移住を常とする民族集団が存続してゆくために衣装が担う機能に
結びついている。
Summary : Among the Yao subgroups living in Southeast Asia, only the Dao [ zao ] Tien people in the northern Vietnam has
their own batik technique, and the women wear gathered wrap-round skirts. These must have been the traditon which had been
formed before their ancestors left southern China possibly in the age of Ming Dynasty. The clothing of the Dao Tien, especially
women's skirts, shows little difference of design details irrespective of wearer's status or villages, and that has not been changed
more than one century.
Such uniformity and changelessness for the clothing should be an important part of the functiion of
clothing for this ever-immigrating ethnic group to exit in an area of southern China to northern part of Southeast Asia, where
many different ethnic groups are living side by side as a mosaic.
ベ ト ナ ム に は 、 人 口 の 86 % を 占 め る キ ン Kinh 民 族 の ほ か に 多 様 な 少 数 民 族 が 中 国 や ラ オ ス 、 カ
ン ボ ジ ア と の 国 境 に 近 い 内 陸 部 を 中 心 に 居 住 し て い る 。 ベ ト ナ ム 政 府 は そ れ ら の 少 数 民 族 を 53 民
族 に 分 類 し て い る 。 そ の う ち ザ オ ( ベ ト ナ ム で は Dao と 表 記 ) と よ ば れ て い る 民 族 は 、 中 国 で は 瑤
族 に 分 類 さ れ 、日 本 で は 一 般 に ヤ オ の 名 で 知 ら れ る 民 族 に 包 括 さ れ る 民 族 集 団 で あ る 。( 本 稿 で は 、
ベ ト ナ ム に 居 住 す る ヤ オ に つ い て は 「 ザ オ 」、 そ れ 以 外 に つ い て は 「 ヤ オ 」 と 記 す 。)
現在、広西、広東、貴州、雲南など中国南部からベトナム・ラオス・タイ・ミャンマーの北部に
いたる広範な地域にヤオの多様なサブ・グループが居住している。ヤオの祖先は紀元以前に中国南
部 の 湖 南 省 北 部 あ た り に 居 住 し て い た と わ れ 、『 後 漢 書 』 に は 「 槃 瓠 」 と よ ば れ る 霊 犬 を そ の 始 祖
にもつという起源伝説が記されている。ヤオは、おそらく宋代における少数民族に対する圧政や迫
害 の た め に 、 12-13 世 紀 頃 か ら 徐 々 に 南 あ る い は 東 へ と 分 散 移 動 し *1 、 遅 く と も 15 世 紀 頃 に は ベ ト ナ
ム 北 部 に ヤ オ の 集 団 が 居 住 し て い た と 推 測 さ れ て い る *2 。 そ の 後 も 中 国 に お け る 政 治 的 な 混 乱 や 旱
魃などによる生活環境の悪化を逃れ、また生業である焼き畑耕作のための新たな耕地を求めて、ベ
ト ナ ム 北 部 へ の ヤ オ 民 族 の 流 入 は 20 世 紀 中 頃 ま で 続 い て い た 。 1999 年 の 政 府 統 計 で は ベ ト ナ ム に
お け る ザ オ の 総 人 口 は 62100 人 で あ る *3 。
*1 竹 村
1981:6 。
*2 Purret 2002:26.
*3
http://www.vietnamembassy-usa.org/learn/Composition%20and%20Distribution.htm
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ヤオはその分散移動の過程で多様なサブグループを形成してきたが、ベトナムには、タイやラオ
スに比べ、はるかに多様なヤオのサブグループが居住している。言語のうえでは、べトナムのザオ
は ミ エ ン ( Mien ) 方 言 、
ム ン ( Mun ) 方 言 、 メ ウ
ン ( Meun ) 方 言 を 話 す グ
*4
ループに大別される 。し
かし、おなじ方言グルー
プにあっても、移動して
きた時期や経路によって、
また現在の居住地によっ
て、さらに異なるサブグ
ループを形成している。
このようなサブグルー
プの違いは衣装文化にも
反映している。ベトナム北部におけるザオの女性の衣装は一見近似していても、装飾の細部の違い
などから住んでいる集落までわかる場合が多い。本稿ではベトナムに住む多様なザオ民族のうち、
ザ オ ・ テ ィ エ ン ( Dao Tien ) と よ ば れ て い る サ ブ グ ル ー プ の 衣 装 に つ い て 報 告 す る 。
ザオ・ティエンは、ミエン方言を話すヤオのサブグループのひとつで、ベトナムにおける総人口
は 35000 ∼ 50000 人 程 度 と 推 定 さ れ て い る *5 。 ザ オ ・ テ ィ エ ン と い う 呼 称 は 、 衣 装 に 穴 の あ い た 中
国銭または安南銭が付いているこ
とから、キン語で「銭」を意味す
る 語 が 付 さ れ た 他 称 で あ る *6 。 自
称はミエンである場合が多い。ザ
オ・ティエンは女性が蝋けつ染め
の巻きスカートを着用している点
が、他のザオとの外見上の顕著な
違いである。ベトナムのザオ民族
のなかでは、女性が巻きスカート
を着用するのも、蝋けつ染めを行
うのも、ザオ・ティエンだけであ
る。
ザオ・ティエンはベトナム北東
部 の カ オ バ ン Cao Bang 省 、 バ ッ カ
ン Bac Kan 省 、ト ゥ ェ ン ク ア ン Tuyen
*4
Pourret 2000:11,
15-27.
*5
Pourret 2002:39
*6
それぞれのサブグループの名称は他称も自称も数多く、また時代にともなう変化もあり複雑である。ザオの
サ ブ グ ル ー プ に 対 す る 他 称 は 、「 赤 ザ オ 」「 細 い ズ ボ ン の ザ オ 」「 剃 り 上 げ 頭 の ザ オ 」 な ど 、 主 に 女 性 の 衣 装 の
形や色などを指標としたものが多い。同じグループに対して、複数の呼称が用いられている例も珍しくない。
現 在 、 ベ ト ナ ム 北 部 の ザ オ の 諸 集 団 は 自 分 た ち を Mien あ る い は Man と 称 し て い る こ と が 多 い 。
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Quang 省 な ど に 居 住 す る 東 部 グ ル ー プ ( 以 下 東 部 ザ オ ・ テ ィ エ ン と す る ) と 、 ベ ト ナ ム 北 部 の 中
央 を 流 れ る 紅 河 よ り 西 の ホ ア ビ ン Hoa Binh 省 、 フ ト Phu Tho 省 、 ソ ン ラ Son La 省 な ど に 居 住 す る 西
部 グ ル ー プ ( 以 下 西 部 ザ オ ・ テ ィ エ ン と す る ) の 二 つ に 分 け ら れ る (図 1)。 両 グ ル ー プ の 女 性 の 衣
装は近似しているが、女性の頭巾が東部グループでは白、西部グループでは濃紺である点で見分け
ら れ る( 図 2 、図 3 )。人 び と の 記 憶 の 限 り に お い て は 、二 つ の グ ル ー プ の 間 に は 交 流 は な い 。ま た 、
ザオ・ティエンと近似したグループは現在ではベトナム以外には見いだされない。
ザオ・ティエンは、ベトナムに住むザオ民族のなかでは、比較的古い時代に移住してきたサブグ
ループであると推測できるが、いつ頃、中国のどの方面からベトナムにやってきたかは明らかでは
な い 。 19 世 紀 末 の フ ラ ン ス 人 に よ る 記 録 で は 、 当 時 ホ ア ビ ン 省 に す ん で い た 西 部 ザ オ ・ テ ィ エ ン
は 、 明 代 に 広 西 を 発 ち 、 16 世 紀 末 に ベ ト ナ ム に 住 む よ う に な っ た と 伝 え て い る *7 。 ま た 、 東 部 グ ル
ー プ に は 、 明 代 に 中 国 か ら ベ ト ナ ム 東 北 端 の カ オ バ ン 省 に 入 っ て き た と 伝 え る グ ル ー プ も あ る *8 。
ザオ・ティエンの染織
ザオ・ティエンの衣装に用いられる主要な繊維
素材は木綿である。バッカン省バベ県に住む東部
ザオ・ティエンは、現在も綿花から糸を紡ぎ、高
機 で 綿 布 を 織 っ て い る ( 図 4 )。 高 機 の 構 造 や 整 経
方 法 は 隣 接 し て 居 住 し て い る タ イ Tay 民 族 の も の
と 同 様 で あ る 。 20 世 紀 に は 東 部 ザ オ ・ テ ィ エ ン の
一 部 で は 、 現 在 も モ ン Hmong ( ミ ヤ オ 、 苗 ) 民 族
が使用している腰機と同様の織機を使用していた
ということであるが、現在はみられない。
他 方 、 ホ ア ビ ン 省 ダ バ ッ ク Da Bac 県 の 西 部 ザ オ
・ティエンの村々では、
広 幅 の 布 の 製 織 は 30 年 以
上前から行われないよう
に な り 、綿 布 は ム オ ン Muon
民 族 や タ ー イ Thai 民 族 な
どから買ってきた。ただ
し、経糸紋織りの細幅の
帯は、筬のない腰機で現
在 も 織 っ て い る ( 図 5 )。
ま た 、 衣 装 な ど に 用 い る 細 い 組 紐 も 手 作 業 で 作 っ て い る ( 図 6 )。
染色は、リュウキュウアイやインドアイを用いた藍染めが現在も行われている。濃紺以外の色の
染色は行っていない。
織りによる装飾技法としては、経糸紋織が帯にほどこされるだけである。装飾技法としては刺繍
*7
Pourret 2002:
*8
Pourret 2002:38-39
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が主要であり、木綿糸や絹糸による精緻な模様がどの衣装要素にも表されている。さらに、蝋けつ
染めが、ザオ・ティエンを特徴づける染織技術としてあげられる。
ザオ・ティエンの蝋けつ染め
東部ザオ・ティエンと西部ザオ・ティエンの蝋けつ染めの手順や道具は、ほぼ共通している。
①まず綿布の毛羽をおさえるために、布を平らな石の上にひろげ、イノシシの牙の側面で布の表面
を強くこする。ホアビン省の西部ザオ・ティエンでは手でこするが、バッカン省バベ県の東部ザオ
・ テ ィ エ ン は 足 で こ の 作 業 を す る ( 図 7 )。
②竹製の籠にバナナなどの葉を敷き、灰を入れて、五徳または土製の小さな竈をセットし、陶器の
皿に蜜蝋を入れて溶かす。
③ 蝋 置 き は 膝 に の せ た 竹 製 の 丸 い 盆 の 裏 に 布 を 広 げ て 行 う ( 図 8 )。 主 要 な 蝋 置 き 具 は 、 竹 を 細 く
割 っ た ヒ ゴ を 、竹 の 表 皮 を 外 に 向 け て 三 角 に 曲 げ 、蝋 を つ け る 部 分 を 細 く 削 っ た 単 純 な 道 具 で あ る 。
こ の 蝋 置 き 具 で は 一 定 の 長 さ の 線 し か 描 く こ と が で き な い の で 、 図 柄 に 応 じ て 、 phong cao と よ ば れ
る 葉 を 短 冊 型 に し た も の で マ ス キ ン グ し な が ら 蝋 置 き を す る ( 図 9 )。
④丸い図柄は、円の大きさに合う太さの竹筒で蝋置きをする。
⑤ さ ら に 細 か い 部 分 を 描 く た め に 、西 部 グ ル ー プ で は 、
金 属 製 の 小 さ な T 字 型 の 蝋 置 き 具 を 用 い る ( 図 10 )。
こ の 金 属 の 蝋 置 き 具 は 先 が 3 ∼ 12mm ほ ど の 異 な る サ
イズのものが用意されている。このような金属の道具
は東部グループにはなく、代わりに、竹べらの先を二
本の短い線が描けるように削ったものを使用する
( 図 11 )。 こ の 竹 べ ら
は、丸紋の内部を描くときのみに用いられる。
⑥蝋置きのあと、藍染めをし、熱湯で脱蝋する。
ザオ・ティエンの衣装で蝋けつ染めが行われるのは女性の巻きス
カートのみである。
女性の衣装
ザ オ ・ テ ィ エ ン の 女 性 の 衣 装 は 、蝋 け つ 染 め の 膝 丈 巻 き ス カ ー ト 、
胸エプロン、前あき長袖上衣、帯、脚絆、頭布で構成される(図
② 、 ③ )。
女 性 の 巻 き ス カ ー ト は 、 チ ュ ー ン chuun
とよばれ、濃紺地に蝋け
つ 染 め で 白 く 模 様 を 表 し た 織 巾 約 30cm の 綿 布 を 六 枚 は ぎ あ わ せ 、 ウ
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エ ス ト 部 分 に ギ ャ ザ ー を と っ て 、仕 立 て ら れ て い る 。ウ エ ス ト 部 分 の 端 に 付 い て い る 紐 で 固 定 す る 。
スカートの蝋けつ染めの模様は、東部グループも西部グループもジグザグと丸紋で構成され、作
者や、着用者の身分、あるいは集落によるデザインの違いはほとんどなく、基本的に一種類である
と い っ て よ い ( 図 12 )。 東 部 グ ル ー プ と 西 部 グ ル ー プ は 、 現 在 で は 遠 く 離 れ て 居 住 し 、 少 な く と も
一 世 紀 以 上 交 流 は な い 。 し か し 、 布 に 蝋 置 き を す る 際 に 、 約 30cm の
織 巾 の な か に 、 五 つ の 頂 の あ る 大 き な ジ グ ザ グ は 2 段 、 丸 紋 は 18 個
の列を2段描くという配置も、模様のサイズも同じである。細部の
違いとしては、西部グループではジグザグの上下にある水平な八本
の線の間に、金属の小さな蝋置き具で斜めの格子を描いた部分が挿
入されているが、東部グループにはこれがないことなどがあげられ
る。
女性の蝋けつ染め巻きスカートは、通常は一枚着用するが、寒い
ときや外出時には2枚重ねて着用する。
上 半 身 に は 上 着 の 内 側 に ま ず 、「 金 太 郎 腹 巻 き 」 に 似 た 胸 エ プ ロ ン
を着用する。これは、現在では東部グループの盛装にのみ残存して
い る ( 図 13 )。 長 方 形 の 布 の 上 に 台 形 の 布 を 縫 い つ け 、 胸 元 に 刺 繍 を
ほどこしたもので、首と背中で紐を結んで固定する。盛装時に銀の
首 輪 を 着 用 し た と き に は 、 胸 エ プ ロ ン の 上 部 を 首 輪 に 固 定 す る こ と も あ る *9 。
女性の長袖上着は、前の中央が開き、衽はなく、左右の脇に腰までのスリットがある。前は左右
の 見 頃 を 重 ね 合 わ せ て 、 細 い 組 紐 か 経 糸 紋 織 の 帯 を 腰 に 巻 い て 閉 じ る ( 図 2 , 図 3 )。
上着には、裾、袖口に線状の刺繍と別布の縁取り
がついている。西部グループでは裾に白で斜めの
井桁型モチーフそして、背中の中央に二つの菱形
の 卍 の 刺 繍 が あ る ( 図 14 )。 東 部 グ ル ー プ で は 、
背 中 の 中 央 に 菱 型 と 犬 の モ チ ー フ ( 図 15 )、 脇 の
スリットの背中の上部と両肩にも卍紋や犬の刺繍がある。
上着の首の後には、ザオ・ティエンという呼
称の由来となった、安南あるいは中国の古銭が
布製のループで取り付けられている。その個数
は東部グループでは7個、西部グループでは6
個 で あ る ( 図 16 )。 ホ ア ビ ン 省 の 西 部 グ ル ー プ
では、これらの古銭は心臓、肺、肝臓、脾臓な
どを表すといい、上着の背中の二つの菱形の刺
繍 ( 図 14 ) は 腎 臓 を 表 し て い る と い う 。 上 着 は
市場に出かけるときや、寒いときには同じもの
*9 女 性 の 胸 エ プ ロ ン は 、 20 世 紀 に お い て ベ ト ナ ム 北 部 の ザ オ 、 モ ン 、 タ ー イ 、 タ イ 、 ム オ ン な ど 多 く の 民 族 集
団にみられた衣装要素である。現在は民族衣装として脇開きのアオザイが一般的になっているキン民族の女性
も 、 20 世 紀 初 頭 ま で 一 般 的 だ っ た 上 着 の 中 央 が 開 く 様 式 の 衣 装 で は 、 内 側 に イ ェ ム yem と よ ば れ る 胸 エ プ ロ ン
を着用していた。かつては、暑い労働時などには、上衣を脱いで、胸エプロンとスカートだけで過ごす事もあ
った。
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を二枚重ねて着用する。
脚絆は、白地に濃紺の糸で、鳥のモチーフや井桁型などを細かく刺繍した長方
形 の 布 で あ る ( 図 17 )。 東 部 グ ル ー プ で は 赤 や 黄 色 の 糸 に よ る 縁 取 り 刺 繍 も ほ ど
こされている。
女性の頭布は、西部グループでは濃紺
地に二重の卍模様や鳥などを刺繍があ
り、ビーズと赤い絹の房飾りが付いてい
る ( 図 18 )。 東 部 グ ル ー プ の 頭 巾 は 白 地
に、濃紺と赤で幾何学的モチーフを正方
形に配した図柄を両端に刺繍した布であ
る ( 図 19 )。
ザ オ ・ テ ィ エ ン の 女 性 は 、 20 世 紀 の 後 半 ま で 、 蝋 け つ 染 め に 用 い た あ と の 濃 紺 に な っ た 蝋 を 暖
め て 頭 髪 全 体 に 塗 り 、 髪 を 結 っ て い た ( 図 20 )。 東 部 グ ル ー プ で は 現 在 も 希 に 髪 に 濃 紺 の 蝋 を 塗 っ
た年配の女性がいる。蝋を塗った髪はそのまま頭頂で髷に固める場合もあったが、木製の円錐また
は 四 角 い 木 型 を 髪 に 取 り 付 け 、 そ の 上 に 頭 布 を か け る ス タ イ ル が 盛 装 で あ っ た ( 図 21 、 図 22 ) 。 こ
の 慣 習 の た め 、 ザ オ ・ テ ィ エ ン 民 族 は 「 頭 を 染 め る ヤ オ 」 を 意 味 す る 「 マ ン サ ン ド ウ Man San Dau 」
と も 呼 ば れ る こ と も あ っ た *10 。
装身具として、東部グループの女性はビーズをいつも首に巻いていた。また盛装のときは銀の首
輪、耳飾りのほか、上着の前あき部分を円形の銀板で飾り、さらに、キンマを入れる、銀板で装飾
さ れ た 巾 着 も 背 に 掛 け る ( 図 13 、 図 16 )。 西 部 グ ル ー プ で は 耳 飾 り 、 細 い 銀 の 首 輪 の ほ か 、 腰 帯 に
銀 細 工 の 装 飾 セ ッ ト ( 図 23 ) を 下 げ た 。
男性の衣装
現在、ザオ・ティエンの男性は日常には民族衣装を着用していない。バッカン省での調査ではザ
オ・ティエンの男性の衣装はすでになく、洋装になる前はタイ民族の男性と同様の衣装を着用して
*10
た だ し 、 ザ オ ・ テ ィ エ ン の ほ か 、 ハ ー タ イ Ha Tay 省 に 住 む ザ オ ・ ク ア ン ・ チ ェ ッ ト Dao
Quang Chet の 集 落
で も 女 性 は か つ て 髪 に 塗 っ て い た 。 ま た 、 Pourret [ 2002 : 36 ] に よ る と 、 1 9 世 紀 ま で は ザ オ の ほ と ん ど の サ ブ グ
ループの女性がロウを髪に塗っていたという。
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いたという。
ホアビン省のザオ・ティエンでは男性の衣装は、女性と同様の長袖上衣、経糸紋織の帯、藍染め
無地のズボン、濃紺の頭巾で構成される。かつては男性も長髪で、首の後あたりで曲げに結ってい
たという。
儀礼の衣装
儀 礼 に 際 し て は 、女 性 も 男 性 も 日 常 と 同 様 の 上 着 を 二 枚 、四 枚 、
あるいは六枚重ねて着用する。女性はスカートも2枚以上重ねて
着用する。
ホアビン省に住むザオ・ティエンには、男性の婚礼用上着があ
る。婚礼用上衣の背中の中央には赤と白で犬のモチーフを並べた
刺繍があり、これは背骨を表す。背中の腰あたりには、腎臓を表
す大きな星形の刺繍が左右にある。さらに、肩胛骨の高さに正方
形 の 別 布 が 5 ∼ 6 枚 下 が っ て い る 。こ れ ら の う ち 赤 い 布 は 心 臓 を 、
白地に紺で二重卍と鳥を刺繍した布は肺を、赤と白と黄で三角形
を刺繍した布は肝臓を表すという。
また、西部ザオ・ティエンでは、男児の少年期におこなわれる
命名儀礼において、儀礼を受ける男児は濃紺の膝丈巻きスカート
を ズ ボ ン に 重 ね て 着 用 す る ( 図 24 )。 男 性 用 の 巻 き ス カ ー ト も 女
性のものと同様にチューンと呼ばれているが、男性の巻きスカー
トには蝋けつ染めが行われることは決してなく、裾に二重卍など
の刺繍がされているだけである。
同様の巻きスカートは、儀礼を執り行う司祭も着用する。司祭は女性
と同様の脚絆も着用し、さらに、丈の長い上着や特別な帽子も着用する。
ザオ・ティエン以外のヤオにおいても、司祭が巻きスカート状の衣装を
着用する慣習があり、ベトナムでは、トゥェンクアン省からホアビン省
に い た る 地 域 な ど に 居 住 す る ザ オ ・ ク ア ン ・ チ ェ ッ ト Dao Quang Chet や 、
バ ッ ク ザ ン Bac Gian 省 や ク ア ン ニ ン Quang Ninh 省 に 居 住 す る ザ オ ・ タ イ ン
・ フ ァ ン Dao Thanh Phan な ど に お い て 、 司 祭 が 、 ザ オ ・ テ ィ エ ン も の と 類
似 し た 、 濃 紺 地 で 裾 に 刺 繍 の あ る 巻 き ス カ ー ト や 脚 絆 を 着 用 す る *11 。
ホアビン省のザオ・ティエンでは男性の屍衣としても同様の巻きスカ
ー ト を 着 用 さ せ る か 、 あ る い は 少 な く と も 棺 の な か に 入 れ る *12 。
*11 Diep 1997:102,130.
*12
ラ オ カ イ 省 サ パ 県 の Hmong 民 族 の 一 部 の 氏 族 で も 、 男 性 の 屍 衣 と し て ス カ ー ト を 着 用 さ せ る 慣 習 が あ っ た
と 伝 え ら れ て い る 。 た だ し 、 Hmong の 場 合 、 女 性 と 同 様 の 大 麻 製 蝋 け つ 染 め の ス カ ー ト で あ る と い う 。
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ザオ・ティエンの移動の歴史と衣装
先に述べたように、ベトナムに居住するザオ民族のサブグル
ープのなかで、蝋けつ染めスカートを着用するのは、本稿でと
りあげたザオ・ティエンのみである。ザオ・ティエンの蝋けつ
染めの技法や、蝋けつ染めスカートを着用する慣習は、どのよ
うな歴史的な系譜にあるのだろうか。
ベトナム北部および中国南部、ラオス・タイ北部に居住する
モ ン Hmong ( ミ ヤ オ 、 苗 ) 民 族 で は 、 多 く の サ ブ グ ル ー プ が 女
性の膝丈巻きスカートや上着を蝋けつ染めによって装飾している。モ
ン 民 族 と ヤ オ 民 族 は と も に ミ ャ オ -ヤ オ 語 族 を 形 成 し て お り 、 中 国 や ベ
トナムでの居住地域も重なる部分が多い。ただし、中国や東南アジア
のモン民族が蝋けつ染めに用いる主要な蝋置き具は二枚の金属片をカ
ラ ス グ チ 状 に セ ッ ト し た 道 具 で ( 図 25 )、 ザ オ ・ テ ィ エ ン の 竹 ペ ン と は
異なっている。
ベトナムでは、ザオ・ティエンとモンのほかに、中国との国境近い
ハ ザ ン Ha Gian 省 ク ア ン バ ー Quang Ba 県 に 居 住 す る ボ イ Bo Y 民 族 の サ ブ
グループに、女性の民族衣装として木綿の蝋けつ染の長い巻きスカー
ト が み ら れ る ( 図 26 )。 し か し な が ら 、 こ の サ ブ グ ル ー プ の 人 口 は 極 め
て少なく、蝋けつ染めの技術も道具も残っていない。現存するわずか
な蝋けつ染めスカートも中国から購入したものだという。ベトナムの
ボ イ 民 族 は 中 国 の 布 依 族 で あ り 、 150 年 ほ ど 前 に ベ ト ナ ム に 移 住 し て き
たと伝えられている。
中国では、苗族以外に貴州省南部や広西壯族自治区に居住している
布依族の一部が蝋けつ染めを行い、女性は蝋けつ染めの長い巻きスカ
ートを着用する。布依族が用いる主要な蝋置き具も金属製のカラスグ
チ状のものである。
また、広西壯族自治区に居住する「白褲瑶」や「紅瑤」とよばれて
いるヤオのサブグループでも女性が蝋けつ染め膝丈巻きスカートを着
用 す る が *13 、 蝋 け つ 技 法 に つ い て の 詳 細 な 資 料 は な い 。
蝋けつ染めの巻きスカートを着用する民族集団の分布状況や、それらの民族の移動の歴史を考え
ると、ザオ・ティエンの蝋けつ染め巻きスカートはヤオ、モン、布依などのものと同じ系譜にある
と考えてよい。ザオ・ティエンの祖先が中国南部で、蝋けつ染めをする布依族などと隣接して居住
していた可能性は高く、ベトナムへの移住よりも古い時代に蝋けつ染めのスカート着用の慣習がす
でにあったと考えられる。蝋けつ染めの道具はザオ・ティエンが独自に考案したもと推測できる。
ザオ・ティエンの衣装と移住
ザオ・ティエンの人びとに、ベトナムに移住してくる前は、中国のどこに住んでいたのかと尋ね
ると、中国から海を渡って移住してきたという話が語られる。この移住に関する話は、ザオの他の
サブグループのあいだでも聞かれ、途中で船が転覆するエピソードや、旅の途中でイヌやトリに助
*13
張 1993 : fig.302 、 fig.301 。
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けられるといった点も共通している。ザオ・ティエンの衣装もこの「移住の旅」に関連づけられて
いる。
女性のスカートについて、フト県からホアビン省に嫁いできた女性は、現在は膝丈である巻きス
カートは、中国に住んでいた頃はもっと長かったが、ベトナムに移住してきたのち、気候がより暑
かったので、短くしたという。そして、
スカートの蝋けつ染めの模様は、もとは
水平線だけの単純なものだったが、中国
からの移動の途中で、超えてきた山々を
表すジグザグ模様やそれらの山々に咲い
ていた花をあらわす丸紋が創られたとい
う。
また、この女性はザオ・ティエンが中
国からの移住の旅を子孫に語り継ぐため
に作ったという上着を母親から譲り受けて
所持している。その上衣は藍染めの木綿製
で、背中にはザオ・ティエンが中国からベ
トナムへ移住するときに苦難を助けたとさ
れるイヌのモチーフが全面に刺繍され、さ
らに、菱形に配された二つの大きなモチー
フが、白い綿糸と黄色い絹糸で表されてい
る ( 図 27 )。 こ の 藍 染 め の 上 着 は 、「 海 を
渡るための上着」を意味する「クェ・コィ
・ルィ」とよばれ、中国を出発する数ヶ月
前から糸を染めるなどして準備し、移住の
旅の間に刺繍をしたのだと伝えられている。同様の上着が、彼女の出身村ではいくつかの家庭に保
存されているというが、残念ながらその地域へは、外国人の立入りは制限されており、詳細につい
ては未調査である。この上着は女性用であると言われているが、彼女の知る限りではこの上着が着
用されることはなく、大切に保存されてきたという。
こ の 祖 先 伝 来 の 上 着 に は 背 中 と 前 身 頃 に あ わ せ て 20 個 の 古 銭 が 付 い て い る ( 図 28 )。 ザ オ ・ テ
ィ エ ン の 通 常 の 上 着 に 付 い て い る 古 銭 は 、 18 ∼ 19 世 紀 に 鋳 造 さ れ た と 推 測 さ れ て い る も の で あ る
が *14 、「 海 を 渡 る た め の 上 着 」に 付 い て い る 古 銭 は 11 ∼ 14 世 紀 に 鋳 造 さ れ た 可 能 性 を 示 し て い る *15 。
一部のザオ・ティエンは、明代にベトナムへ移住してきたと言い伝えているが、この古銭が示して
いる年代はそれよりも古い。上着の古銭以外の部分は、実用に供されることはなかったとしても、
一見数百年を経たようには見えない。作り直されることがあったかもしれないが、オリジナルを正
確に複製し、古銭も移しかえてきたのであろう。
*14
通 常 の 上 着 に 付 い て い る 古 銭 は 、 乾 隆 通 寶 ( 1736 年
安 南 )、 嘉 隆 通 寶 ( 1802 年
清 )、 道 光 通 寶 ( 1821 年
貴 州 )、 明 命 通 寶 ( 1820 年
安 南 ) な ど 。 http://www.ac.wakwak.com/~sodo/data/annan.htm 、 http://www.bf.wakwak.com/~kosenkan/
参照
*15
元 豊 通 寶 ( 1251 年
安 南 )、 皇 宋 通 寶 ( 1039 北 宋 )、 政 和 通 寶 ( 1111 ∼ 1117 年
安南)と推定されるが、真贋は定かでない。
http://park12.wakwak.com/~kosenkan/
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北 宋 )、
参照。
開 泰 元 寶 ( 1324 年
民族藝 術学会編 『民族 藝術 Vol.20』2004nen
pp.97-106 元原稿
20150114 配布 資料
ところで、ザオ・ティエンの人々が語るのと同様の「渡海神話」が中国南部から東南アジアの北
部へ移動したのヤオ族にひろく伝承されていることが、竹村卓二によって指摘されている
*16
。竹村
は 、「 渡 海 神 話 」 は ヤ オ 族 が 過 去 に 体 験 し た 漢 民 族 に よ る 迫 害 と い う 「 < 民 族 的 受 難 > の 強 烈 な 記
憶による終末論的な世界観の表象」であり、ヤオ族が実際に海を渡ったかどうかはにかかわらず、
「 ヤ オ 族 の < 彼 岸 > へ の 渇 望 が 、 た ま た ま <渡 海 >と い う 神 話 の 演 出 効 果 を 高 め る 場 面 設 定 を 創 出 し
た も の に 他 な ら な い 」 と 結 論 づ け て い る 。 さ ら に 、「 固 有 の テ リ ト リ ー を 領 有 す る こ と な く 、 ま た
村落を越えた政治的単位を組織せず、東南アジア北部の山岳地帯に涯しない移住の途に就いた」ヤ
オ 族 の 民 族 的 ア イ デ ン テ ィ テ ィ が 「 渡 海 神 話 」 に よ っ て 鼓 吹 さ れ て き た と 、 述 べ て い る *17 。
ザオ・ティエンの女性の巻きスカートの模様や「海を渡るための上着」についても、現在の人
々が中国からベトナムへの「最後の旅」と関連させて語るとしても、実際には、宋代に始まり、そ
の後何度も繰り返された移住の歴史を伝えるものだと考えられる。かれらの「移住の旅」について
言葉で語り継ぐだけでなく、衣装の模様として視覚化し伝承していくことは、多様な民族集団が交
錯して居住する地域環境のなかを移動しながらも、自民族を存続させるために意味のある行為であ
る。
また、ザオ・ティエンの衣装においては、女性のスカートの蝋けつ染めにみられるような、画一
性 や 不 変 性 こ そ が 衣 装 の 第 一 義 的 な 機 能 を 担 っ て き た と い え る 。こ れ は ザ オ ・ テ ィ エ ン の み な ら ず 、
ザオの他の集団をはじめベトナム北部の少数民族集団の多くについても言えることである。これら
の人々の衣装は数世紀ものあいだ変化しなかったというわけではない。しかし、民族集団の表象と
なる要素を継承し、自分たちはヤオ民族であり、その特定のサブ・グループに属するというメッセ
ー ジ を 衣 装 に よ っ て 、他 の 民 族 に 対 し て だ け で な く 、自 分 た ち 自 身 に 対 し て も 常 時 明 示 す る こ と で 、
民族集団の結束と誇りを保ってきたのである。
参照文献
張 暁凌 編
1993 『 中 国 民 族 美 術 全 集 5 穿 戴 篇 服 飾 巻 上 』 台 北 : 華 一 書 局 。
Diep Trung Binh
1997 Patterns on Textiles of the Ethnic Groups in Northeast of Vietnam. Hanoi: Cultures of Nationalities
Publishing House.
Pourret, Jess G.
2002 The Yao : the Mien and Mun Yao in China, Vietnam, Laos and Thailand. Chicago: Art Media Resources.
田畑久夫、金丸良子
1995 『 雲 貴 高 原 の ヤ オ 族 』 東 京 : ゆ ま に 書 房 。
竹村卓二
1981 『 ヤ オ 族 の 歴 史 と 文 化 』 東 京 : 弘 文 堂 。
*16 竹 村
1981 : 267-288 。
*17 竹 村
1981:290 、 299 。
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