ルネサンスの王権と祝祭本(上尾) ルネサンスの王 権 と祝 祭 本 ―ハプスブルク家 とメディチ家 をめぐって 上尾 信也 156 桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.2 ルネサンスの王権と祝祭本(上尾) 1 ルネサンスの戦 争 と平 和 中 世 から近 代 に向 かうヨーロッパは群 雄 割 拠 の戦 国 時 代 にあった。16 世 紀 は、プロテスタントのカトリックの宗 教 的 な対 立 項 を軸 に分 かれた新 興 勢 力 と旧 勢 力 の両 陣 営 が、軍 事 的 な緊 張 とその破 綻 を繰 り返 しつつ、絶 対 王 政 の中 央 集 権 国 家 への道 を歩 み始 めた時 代 であった。新 興 勢 力 は、そ れまでの中 世 ヨーロッパ世 界 の周 縁 部 にあった、ザクセン、ブ ランデンブルク(後 のプロイセン)を始 めとするドイツ諸 侯 、デン マーク、スウェーデン、そして薔 薇 戦 争 により完 全 にフランス王 権 から独 立 したイングランドであった。一 方 、旧 勢 力 は、中 世 ヨーロッパ世 界 の中 心 いやそのものと呼 べるべき陣 営 であり、 教 皇 とイタリア諸 都 市 、スペインとオーストリアの両 ハプスブル ク家 、フランス王 家 で、16 世 紀 にはその多 くはカトリックを護 持 し続 けた。フランス、そしてインググランド(イギリス)は新 旧 両 陣 営 の間 でゆれつつも着 実 に絶 対 王 政 への要 件 をみたして いく。そしてそれは。中 央 集 権 的 な官 僚 制 度 と強 力 な常 備 軍 の設 置 に近 代 国 民 国 家 の成 立 の一 因 を求 めた「長 き軍 事 革 命 」の成 果 でもあった。これに対 し、旧 陣 営 の雄 ハプス ブルクの帝 国 は腐 食 し浸 食 され解 体 していく。 軍 事 革 命 は、15 世 紀 から始 まった。百 年 戦 争 のアジャン クールの戦 いでのフランスの重 装 騎 士 に勝 ったイングランドの 弓 兵 、シャルル突 進 公 対 スイス傭 兵 、マクシミリアン皇 帝 のラ ンツクネヒト(ドイツ傭 兵 )といった騎 士 を中 心 とした戦 士 では なく、軍 事 専 門 家 の兵 士 の出 現 、それにともなう騎 士 軍 から 騎 兵 ・歩 兵 ・弓 兵 そして砲 兵 の諸 兵 科 統 合 の軍 隊 の誕 生 であった。これには東 ローマ帝 国 を滅 ぼしバルカン半 島 に侵 入 、ウィーンに迫 ったオスマン・トルコの軍 隊 の強 力 さと恐 怖 が大 きく関 わっている。オスマンの常 備 軍 団 (カプクル・オジャ ワ)の、専 門 の砲 兵 (トプジュ)の放 つ大 砲 の轟 音 、常 備 歩 兵 (イェニチェリ)の火 縄 銃 の集 中 的 な銃 撃 、その後 の常 備 騎 兵 の六 連 隊 衆 (アルトゥ・ボリュク・ハルク)と刀 槍 弓 矢 で武 装 した在 地 騎 兵 軍 (ティマールル・シバーヒ)の大 軍 団 の突 撃 の前 に、十 分 な火 砲 もないヨーロッパの諸 侯 の騎 兵 歩 兵 弓 兵 混 成 軍 は壊 滅 的 な打 撃 を喫 したのである。そのオスマン の大 軍 団 の統 率 と鼓 舞 を担 っていたのが、ショームに似 た二 157 桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.2 ルネサンスの王権と祝祭本(上尾) 枚 リードのズルナ、金 管 のボル、鍋 型 太 鼓 ナッカレ、両 面 太 鼓 のダウル、ティンパニ型 の太 鼓 ケスからなる軍 楽 隊 であった。 統 率 と示 威 の二 面 に音 楽 は仕 えることで軍 事 革 命 の一 翼 を担 い、ヨーロッパの王 侯 はオスマン風 の軍 楽 を取 り入 れて 自 らも軍 楽 隊 を創 設 した。軍 楽 に限 らず軍 事 と音 楽 は、古 来 より不 可 分 のものであり、音 楽 は、軍 事 的 な効 果 だけでな く政 治 的 威 信 を表 現 する格 好 の武 器 であった。この殺 戮 に いざなう戦 場 の音 は、一 方 で戦 場 を離 れた軍 事 の示 威 の演 出 ための音 楽 という新 たな道 を生 み出 す。そのルネサンス的 表 現 のひとつが「入 城 式 」であった。軍 隊 を伴 った王 侯 が自 らの支 配 する都 市 を訪 問 する入 城 式 は、美 術 による装 飾 、 音 楽 や演 劇 の上 演 といったさまざまな道 具 立 てにより王 権 の 威 容 を演 出 する。戦 場 へではなく、都 市 へと向 かうこの行 列 こそが、平 和 につながる音 楽 のもうひとつの道 だったであろう か。 2 王 権 と祝 祭 ルネサンスには、軍 事 的 象 徴 の場 としての祝 祭 の機 会 は 数 多 く現 われた。戴 冠 式 、王 家 の婚 礼 、王 嗣 子 の洗 礼 、臣 従 の誓 い、都 市 への入 城 式 、和 平 条 約 の締 結 や国 葬 など の際 に、「王 」という曖 昧 な国 家 の中 心 点 を、具 体 的 な姿 と してあたかも公 開 の劇 場 で披 露 するかのように祝 祭 は催 され た。祝 祭 の表 象 や隠 喩 に満 ちたプログラムとパフォーマンスは、 王 を「ローマ皇 帝 」のイメージに帰 すべくギリシア・ローマの神 話 や芸 術 を利 用 してルネサンスの文 人 たちによって練 り上 げ られたものであった。凱 旋 門 を造 り山 車 を伴 うページェント(凱 旋 行 列 )、トーナメント(武 芸 試 合 )などの多 彩 な競 技 会 、寓 意 と象 徴 に満 ち室 内 外 の舞 台 で演 じられる劇 、それらに関 わるシナリオ、コスチューム、宴 会 、音 楽 といった、2,3 時 には 1 日 から ヶ月 に及 ぶ祝 祭 の統 括 にあたる監 督 者 の指 揮 の 下 、ありとあらゆる芸 術 分 野 の共 同 作 業 の集 成 が、このトータ ルなスペクタクルに集 約 された。いわば、ルネサンスの芸 術 家 た ちの真 の仕 事 はここにあった。王 権 のイメージを創 出 し、権 力 の保 持 に寄 与 することが、知 識 人 、年 代 記 作 者 、画 家 、音 楽 家 、演 出 家 、建 築 家 やあらゆる種 類 の職 人 といった宮 廷 158 桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.2 ルネサンスの王権と祝祭本(上尾) に仕 える者 に与 えられた使 命 であった。 なかでも入 城 式 (エントリー、アントレ、入 市 式 、総 行 列 )は、 戦 勝 の祝 いあるいは祈 願 の意 味 を持 つ凱 旋 行 列 が軍 事 的 行 為 の意 味 を代 表 するものとして、軍 事 教 練 の意 味 合 いを もつ武 芸 試 合 (トーナメント)と並 んで、王 権 の最 も具 体 的 な 表 現 となった。傭 兵 から国 家 軍 隊 へと向 かう王 の軍 を用 い、 知 識 人 から官 僚 となりつつある宮 廷 人 が、暴 力 と野 蛮 を統 治 と理 性 に昇 華 すべく、武 力 による支 配 から「権 力 の表 現 」 による威 力 支 配 を表 現 しようとする装 置 であった。城 壁 の外 から内 へ向 かい都 市 の中 心 部 の宮 殿 や聖 堂 での儀 礼 にい たる入 城 式 のベクトルは、プロセッション、ミサという宗 教 的 機 能 を包 含 していた。王 を称 え、武 力 で威 圧 することで、「血 の 流 れぬ」という意 味 での平 和 的 支 配 の象 徴 として機 能 してい た。 これらの祝 祭 は王 の永 遠 の栄 光 の記 録 として、王 の支 配 の証 として、記 録 されねばならなかった。そのために支 配 者 は、 祝 祭 の実 施 とは別 に、これらの重 要 な祝 典 の華 麗 さとスペク タクルを記 録 する為 の豪 華 な書 籍 制 作 を注 文 した。企 画 全 体 の責 任 者 である宮 廷 詩 人 や画 家 は、再 度 これらの祝 典 後 の出 版 のために呼 び集 められた。莫 大 な費 用 をかけられ限 定 出 版 されたこれら「祝 祭 本 」は、王 侯 の力 と富 と権 威 の証 明 であると同 時 に宮 廷 のプロパガンダでもあった。 祝 祭 本 のいくつかには、「そして音 楽 が演 奏 された」あるい は「声 楽 と器 楽 による美 しい演 奏 があった」などの短 い記 述 が、 音 楽 の図 像 もなく引 用 されている。しかし一 方 で時 には楽 器 自 体 の精 緻 な描 写 も、参 加 した音 楽 家 についての極 めて詳 細 なテキストや図 像 も誂 えられている。もちろん祝 祭 本 は我 々 に同 時 代 の演 奏 実 践 や宮 廷 においての音 楽 の役 割 につい ての重 要 な情 報 を与 えてくれる。がそれ以 上 に、祝 祭 図 像 の 中 に描 かれた音 楽 には、現 実 の祝 祭 の演 出 であった奏 楽 を 単 に描 き込 んだ以 上 の意 味 があるように思 われる。それは、 中 世 以 来 の写 本 挿 図 (ミニアチュール)に丹 念 に想 像 上 の あるいは理 念 上 の楽 器 や奏 楽 の様 子 を描 くことで示 してきた 「音 楽 」の価 値 に通 じるものである。つまり、「音 楽 は財 宝 にし て権 威 」の象 徴 である。聖 書 の奏 楽 は「神 威 」を管 楽 器 は 159 桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.2 ルネサンスの王権と祝祭本(上尾) 軍 楽 そして武 力 に通 じる「王 威 」を描 かせる者 の頭 上 に戴 か せることになる。聖 書 の関 連 図 像 からやがて世 俗 の祝 祭 図 像 に変 化 していく時 代 、まさにそれはキリスト教 の一 元 的 価 値 観 の中 にあった世 俗 の王 権 が、王 の理 想 像 をダビデから カエサルへと姿 を変 えて描 かせたように、新 たな権 威 そのもの として屹 立 しようとした証 なのである。 そして描 かれる素 材 も変 質 する。トーナメントは神 に仕 える 騎 士 の武 勲 物 語 の現 実 の絵 巻 ではなく、王 権 の祝 祭 の一 部 として催 され、戴 冠 式 や入 城 式 、巡 幸 は、中 世 の実 質 的 な支 配 の手 段 としての政 治 儀 礼 から、象 徴 的 儀 礼 として王 権 の祝 祭 の一 部 となり、記 録 されていく。ルネサンス(文 芸 復 興 )は、キリスト教 的 道 具 立 てから神 話 的 道 具 立 てへの原 動 力 となる。演 劇 、舞 台 、音 楽 、プロセッションといった催 しの 内 容 は、パフォーマンス以 上 に、詩 、詩 人 による台 本 制 作 、 画 家 や建 築 家 による視 覚 的 表 現 といった文 芸 的 要 素 が重 視 され、書 き残 されるものとしての祝 祭 本 の意 義 が増 していく のである。「何 を催 す」のではなく、「どのように催 したことにする か」、そして「どのように広 めるか」なのであった。 3 ルネサンスの光 と影 (a) ハプスブルク皇 帝 家 の祝 祭 本 ―戴 冠 式 と巡 幸 祝 祭 本 の表 題 はまさに一 枚 刷 りのビラのごとく、祝 祭 の内 容 のみならず主 催 者 の威 名 を知 らしめる。この時 代 現 れた印 刷 楽 譜 が、表 題 に献 呈 する王 侯 貴 族 への美 辞 麗 句 をちり ばめ権 威 による認 証 を行 ったのも、祝 祭 本 のみならずこの時 代 に盛 んになる印 刷 本 というメディアの重 要 な要 素 であった。 権 威 により認 可 されることでメディア(伝 達 媒 体 )は可 能 にな る。逆 に言 えば、絶 対 王 政 において、メディアはあらゆる場 合 に王 権 のプロパガンダとなりえた。作 品 や作 者 が仕 えるのが神 から王 に代 わっただけにすぎないかもしれないが、地 理 的 な世 界 と同 様 、森 羅 万 象 の知 と情 報 は王 のものという宣 言 でもあ った。 空 間 の支 配 者 は、いかに時 間 をこえて威 光 を伝 えていこう としたのであろうか。いくつかの祝 祭 本 の刊 行 をみていくことで、 祝 祭 をつうじた威 光 によって祈 念 されるルネサンスの理 想 と、 160 桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.2 ルネサンスの王権と祝祭本(上尾) 【図 1】1515 年 4 月 18 日 カールのフランドル伯 としてのブリュージュ市 への入 城 式 (Bild-Archiv und Porträt-Sammlung, Österreichische Nationalbibliothek, Wien) 16 世 紀 の戦 国 の現 実 を考 えていきたい。 1500 年 にフランドルに生 まれた皇 帝 カール 5 世 のデビュー というべき入 城 式 の祝 祭 本 が残 されている。 1515 年 4 月 18 日 のフランドル伯 としてのブリュージュ市 への入 城 式 である。 祝 祭 本 の表 題 には「スペイン王 子 、オーストリア大 公 、ブルゴ 161 桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.2 ルネサンスの王権と祝祭本(上尾) ーニュ公 、フランドル伯 」とあり、入 城 式 ではそれぞれの肩 書 き を示 す紋 章 や諸 国 を示 す意 匠 が用 いられた。(【Appendix Ⅰ-1】【図 1】) カール 5 世 はフェリペ 1 世 (1478 年 -1506 年 ・フィリップ美 公 )とカスティーリャのフアナ女 王 (1479 年 -1555 年 )の間 に 生 まれた。母 方 の祖 父 母 は結 婚 によって統 一 スペイン王 国 を誕 生 させたアラゴン国 王 フェルディナンド 2 世 とカスティーリ ャ女 王 イサベルであった。さらに父 方 の祖 父 母 は皇 帝 マクシミ リアン 1 世 とブルゴーニュ公 女 マリアという血 筋 であった。1506 年 に父 からオーストリア大 公 、ルクセンブルク公 、ブルゴーニュ 公 、母 からは後 にカスティーリャおよびレオン王 位 を受 け継 ぎ、 1516 年 の祖 父 フェルディナンド 2 世 の死 後 、アラゴン王 、バ ルセロナ伯 、バレンシア王 、ナポリ王 、シチリア王 、すなわちス ペイン王 カルロス 1 世 として即 位 する。正 式 な継 承 権 は母 フ ァナにあったが精 神 病 として幽 閉 されていた。 ブルゴーニュ- フランドルの統 治 を叔 母 マルガリーテに任 せ、1517 年 にスペイ ンに入 る。カールの統 治 領 内 の巡 幸 に費 やした生 涯 はここか ら始 まる。スペイン貴 族 らの反 乱 に対 応 する間 も無 く、 1519 年 に祖 父 の皇 帝 マクシミリアン 1 世 が死 去 し、15 世 紀 末 より イタリア戦 争 で対 立 していたフランス王 家 のフランソワ 1 世 と 皇 帝 選 挙 で争 った末 に、フッガー家 の資 金 援 助 などによって 神 聖 ローマ皇 帝 カール 5 世 として即 位 する。即 位 式 はアーヘ ンで執 り行 われるが当 時 メディチ家 出 身 の教 皇 レオ (在 位 10 世 1513-1521)と対 立 しており、教 皇 による戴 冠 式 は果 たせなかった。 レオ 10 世 は 1521 年 死 去 するが、2 年 後 、 従 兄 弟 の枢 機 卿 ジュリオ・ディ・メディチが教 皇 クレメンス 7 世 (在 位 1523-1534)として即 位 する。1521 年 はウォルムスの帝 国 議 会 にルターを喚 問 し、ルター派 の禁 止 を決 定 した年 でカ ールにとっては内 憂 外 患 の戦 乱 の始 まりであった。 イタリアをめぐる外 患 にこそ祝 祭 は利 用 される。始 まりは、 王 家 の継 承 であった。1435 年 以 降 、ナポリ王 国 を支 配 して いたフランス系 のアンジュー家 とアラゴン家 が争 い、1443 年 、 ナポリはアラゴン家 の支 配 下 に入 った。1494 年 、フランスはナ ポリとミラノの継 承 を主 張 し、シャルル 8 世 はイタリアに侵 攻 し た。(【図 2】)シャルルはフィレンツェからメディチ家 を追 放 し、 162 桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.2 ルネサンスの王権と祝祭本(上尾) 【図 2】フランチェスコ・グラナッチ〈フランス王 シャルル 8 世 のフィレンツェ への入 城 〉(1518 年 )GRANACCI, Francesco(1477, Firenze-1543, Firenze),Galleria degli Uffizi, Florence 翌 年 ナポリを占 領 するが、教 皇 アレクサンドル 6 世 、皇 帝 マク シミリアン 1 世 、スペイン、ヴェネツィア、ミラノが神 聖 同 盟 を結 び対 抗 したため、撤 退 する。 1499 年 にはルイ 12 世 がミラノ の継 承 を主 張 し、スフォルツァ家 のミラノ公 ルドヴィコ・イル・モ ーロを幽 閉 、ミラノ公 国 を征 服 する。しかし 1503 年 には スペ インがナポリを征 服 し、翌 年 ブロア条 約 によりフランスがナポリ を放 棄 。 さらには 1511 年 に教 皇 ユリウス 2 世 が、スペイン、 ヴェネツィア、イギリス、スイスと神 聖 同 盟 を結 び、フランスに対 抗 すると、 1513 年 にはミラノからフランス軍 が追 放 され、スフ ォルツァ家 が一 時 復 帰 するが、1515 年 にはフランス王 フランソ ワ 1 世 がミラノに侵 攻 、9 月 13,14 日 のマリニャーノの戦 いでミ ラノとスイス傭 兵 軍 を破 り、スフォルツァ家 を追 放 し、ミラノを支 配 する。 クレマン・ジャヌカンは戦 勝 を記 念 してシャンソン《戦 争 》を作 曲 し、この後 さまざまな宮 廷 で愛 好 された戦 争 描 写 の音 楽 「バッターリア」のモデルとなった。これに対 し 1521 年 に 163 桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.2 ルネサンスの王権と祝祭本(上尾) はフランソワのライバルで皇 帝 選 挙 に勝 利 したカール 5 世 は 教 皇 レオ 10 世 と和 解 しミラノを攻 め、ビコッカの戦 いで勝 利 し、 フランスを放 逐 した。 しかし次 代 の教 皇 クレメンス 7 世 は当 時 の複 雑 な政 治 状 況 の中 、フランスと同 盟 を結 ぶ。フランソ ワは 1524 年 イタリアに侵 入 するも 2 月 24 日 のパヴィアの戦 い で皇 帝 軍 に敗 れ、捕 虜 となり、マドリッドに幽 閉 の憂 き目 をみ る。1526 年 フランソワ 1 世 にナポリとミラノを放 棄 させたマドリッ ドの和 約 を結 び完 全 に勝 利 したカールは、この年 ポルトガル 王 女 イザベラと結 婚 し、これを記 念 してセヴィリヤで入 城 式 を 行 っている。だが、釈 放 されたフランソワはただちに条 約 を破 棄 、教 皇 、ミラノ、ヴェネツィア、イギリスと反 ハプスブルクのコニ ャック同 盟 を結 んだ。この報 復 が 1527 年 のローマ略 奪 であ る。皇 帝 の意 に反 してスペイン兵 、イタリア兵 などからなる皇 帝 軍 とドイツ傭 兵 は長 期 の行 軍 に給 料 未 払 い、飢 餓 もあり、 悪 名 高 き略 奪 が発 生 する。 1529 年 、教 皇 と皇 帝 はバルセロナ条 約 を結 んで和 解 し、 8 月 には「カンブレーの和 」でフランスは賠 償 金 を支 払 い、イタ リアを放 棄 し、11 月 には皇 帝 は戴 冠 式 のために教 皇 を伴 い ボローニャに入 城 する。 この折 にイタリア諸 国 が集 まり、皇 帝 カールに服 することを決 め、イタリアにおけるハプスブルク家 の 優 位 が確 定 する。フランス王 フランソワは皇 帝 カールに対 抗 するため、カトリック教 徒 であるにもかかわらず、ドイツのルター 派 プロテスタント諸 侯 を支 援 し、第 一 次 ウィーン包 囲 (9-10 月 )下 にあった異 教 徒 のオスマン帝 国 皇 帝 スレイマン 1 世 (在 位 1520-1566)ともひそかに同 盟 を結 ぶ。 このような中 で 1530 年 2 月 、ボローニャにおいて教 皇 クレメ ンス 7 世 によってカール 5 世 に対 して神 聖 ローマ帝 国 皇 帝 の 戴 冠 式 が行 われたのである。ローマは略 奪 から未 だ復 興 でき ずそのためボローニャで催 されたカールの神 聖 ローマ皇 帝 への 戴 冠 式 は、1529 年 10 月 24 日 から 1530 年 3 月 22 日 に かけての一 連 の祝 祭 儀 礼 であった。「現 世 の神 」としての役 割 を演 じたカールの入 城 式 は、古 代 ローマのカエサルの後 継 者 としての皇 帝 を示 威 するものであり、皇 帝 の権 威 は当 時 で は教 会 とその典 礼 による忠 誠 の擁 護 と異 端 の排 除 という権 能 に救 けられて確 立 していたことをも示 すものであった。 164 桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.2 ルネサンスの王権と祝祭本(上尾) 1529 年 10 月 24 日 の教 皇 クレメンス 7 世 のボローニャへ の入 城 式 では、教 皇 はマジョーレ門 を通 って讃 歌 〈テ・デウ ム〉を捧 げるサン・ペトローニオ大 聖 堂 まで行 列 (プロセッショ ン)を行 なった。その 12 日 後 11 月 5 日 に、カールは完 全 武 装 の軍 を従 えサン・フェリーチェ門 を通 りボローニャに入 城 した。 皇 帝 は 400 の教 皇 護 衛 兵 を従 えた 20 人 の枢 機 卿 と合 流 し た。300 の騎 兵 がプロセッションを先 導 し、それにスペインの貴 紳 の一 団 と武 装 した 300 の帝 国 直 属 騎 士 が続 いた。戦 車 に積 まれた 10 門 の大 砲 が通 りいっぱいに押 し出 し、ドイツの 傭 兵 隊 (ラントクネヒト)が鼓 笛 隊 を伴 いその背 後 に続 いた。 山 車 に乗 った 2 人 の貴 族 が帝 国 とブルゴーニュ公 国 の旗 印 を掲 げた。その後 にはいくつかの軍 団 が続 く。そしてスペインの 高 官 の一 団 は矛 槍 を持 った 100 人 の皇 帝 の親 衛 隊 に守 ら れて続 いた。そして、帝 国 式 部 官 が、金 の鷲 の飾 りの兜 など で完 全 武 装 した皇 帝 を先 導 した。徒 歩 の 4 人 の帝 国 直 属 騎 士 がカールの頭 上 の天 幕 を支 えていた。市 門 で、皇 帝 は 彼 に献 呈 された十 字 架 に接 吻 し、帝 国 紋 章 官 が群 衆 に 8000 枚 のデュカート金 貨 や銀 貨 を投 げ与 えた。そして、いく つかの凱 旋 門 を通 って教 会 に進 んでいった。これらすべては 聖 俗 両 界 に威 厳 を示 す皇 帝 としての予 定 通 りの行 動 であっ た。明 らかに、これらは教 皇 庁 によって予 め仕 組 まれており、 教 皇 クレメンス 7 世 はサン・ペトローニオ大 聖 堂 にて皇 帝 を待 ち受 けていた。翌 1530 年 2 月 24 日 には、帝 冠 を伴 った荘 厳 かつ祝 祭 的 な行 列 がサン・ペトローニオ聖 堂 での戴 冠 式 に向 けて行 なわれた。この大 聖 堂 はローマのサン・ピエトロ大 寺 院 と寸 分 違 わぬ程 飾 り立 てられていた。そして、教 皇 と皇 帝 はともに同 じ天 幕 の下 の馬 に乗 り、まずカルロスのローマ王 としての戴 冠 式 のためにサン・ドメニコ教 会 へ向 かった。この教 会 の建 物 はローマのサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ教 会 に似 せて装 飾 を施 されたものであった。 実 はこの後 教 皇 による皇 帝 の戴 冠 式 は行 われることはなか った。しかし、この世 の支 配 者 である皇 帝 を永 遠 のものとする ために、いや現 実 的 には今 後 のハプスブルク帝 国 の政 略 のた め に 、 数 多 く の 祝 祭 本 が プ ロパ ガ ン ダと し て 制 作 さ れ た。 (【AppendixⅠ-2】図 3,図 4) 165 桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.2 ルネサンスの王権と祝祭本(上尾) 【図 3】皇 帝 カール 5 世 のボローニャ市 における教 皇 クレメンス7世 を伴 っ た 入 城 式 : 執 政 官 と 高 位 聖 職 者 た ち 、 テ ィ ン パ ニ 奏 者 た ち、ラッパ奏 者 たち(Romischer Einreytten gen Hayligkait gegen gehalten habe. Kayserlicher Bononia/auchwie seiner sich Mayestet Bäpstliche KayserlichenMayestaten [Augsburg: Heinrich Steiner]; 1529) 皇 帝 戴 冠 式 以 降 も、カルロスの入 城 式 は続 く。その後 に は数 多 の都 市 を巡 る数 か月 に及 ぶ大 巡 幸 には、イタリアでは 10、スペインでは 6、フランスでは 4、イングランドでは 2、そして アフリカでの 2 つの入 城 式 が含 まれていた。それは実 質 的 な 統 治 手 段 としての都 市 への訪 問 の結 果 であると同 時 に、皇 帝 の威 光 を、入 城 式 の催 行 を課 せられた諸 都 市 の財 力 に よって示 そうとした王 権 の仕 掛 けでもあった。南 ドイツ諸 都 市 への巡 幸 の成 果 は、1532 年 、ルター派 プロテスタントのシュマ ルカルデン同 盟 諸 侯 とのニュルンベルクの和 約 に結 実 した。 1535 年 には皇 帝 軍 がオスマン艦 隊 を撃 破 しチュニスを奪 還 すると、10 月 以 降 メッシーナ、ナポリ、ローマ、シエナ、フィレンツ ェ 、 ル ッ カ な ど の イ タ リ ア 諸 都 市 を 巡 幸 し た (【AppendixⅠ-2】)。この巡 幸 は、皇 帝 直 属 軍 と傭 兵 軍 か らなるいわば軍 列 を率 いてのものであった。最 新 式 の装 備 と 166 桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.2 ルネサンスの王権と祝祭本(上尾) 【 図 4 】 ハ ン ス ・ シ ョ イ フ ェ ラ イ ン 作 、 神 聖 ロ ー マ帝 国 皇 帝 カ ー ル5 世 の 入 城 式 : 皇 帝 付 き ト ラ ン ペ ッ ト 奏 者 と ケ ト ル ド ラ ム 奏 者 ( ヴ ォ ル フェンビュッテル、1525 年 頃 )。(The D.Wallach Division of Photographs, The or,Lenox Tilden and Art, New Miriam Prints Yo r k and Ira and Public L i b r a r y, Ast Foundations) 眼 にも壮 麗 な軍 装 は表 裏 一 体 のもので、入 城 式 を平 和 裏 に催 行 せねば攻 城 戦 が待 っているといった硬 軟 併 せた示 威 行 為 であった。皇 帝 たる威 厳 の表 現 が盛 大 であればあるほど、 こけおどしの効 果 は上 がる。軍 列 維 持 の戦 費 はかさむが戦 争 による略 奪 よりも祝 祭 のほうが遥 かにましといった政 治 的 思 惑 によってカールの巡 幸 は進 むのである。だがいったん均 衡 が 崩 れると「ローマ略 奪 」の二 の舞 になりかねない危 険 性 をはら みつつ、イタリア諸 都 市 は祝 祭 をおこなうことで救 われていく。 167 桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.2 ルネサンスの王権と祝祭本(上尾) (b)イタリア・メディチ家 の祝 祭 本 ―政 略 としての婚 礼 祝 祭 1530 年 にフィレンツェに復 帰 したメディチ家 は、教 皇 クレメ ンス 7 世 の庶 子 アレッサンドロが「フィレンツェ公 」となり、皇 帝 の臣 下 となったが、小 国 フィレンツェにとってイタリアを巡 る政 治 状 況 は困 難 に満 ちていた。1536 年 にミラノのスフォルツァ 家 の跡 継 ぎをめぐってフランス王 フランソワ 1 世 はみたび皇 帝 カールと争 った。その翌 年 フィレンツェ公 アレッサンドロが暗 殺 されてメディチの直 系 が断 絶 した後 、メディチ傍 系 であり、勇 敢 な 傭 兵 隊 長 と し て 知 ら れ た 「 黒 隊 長 」 ジ ョ ヴ ァ ン ニ (1498-1526)の子 コシモ 1 世 (1519-1574) がハプスブルク 家 の支 援 のもと継 承 した。コシモは、皇 帝 の威 を借 りつつ巧 みな政 略 によって、シエナを併 合 しつつフィレンツェの中 央 集 権 体 制 を確 立 し、1569 年 には「トスカーナ大 公 」となった。コ シモの政 略 は権 威 の誇 示 と威 嚇 にあった。そのために専 制 君 主 にふさわしく、フィレンツェを豪 華 な宮 殿 やモニュメントで 飾 り立 て祝 祭 を催 し、外 交 に励 んだ。ジョルジョ・ヴァザーリ、 アニョロ・ブロンズィーノらを宮 廷 画 家 など芸 術 家 の庇 護 や、 ウフィツィ美 術 館 やヴァザーリの回 廊 などを建 設 など芸 術 の 奨 励 は政 治 的 背 景 に結 びついているのである。 コシモと皇 帝 カールの政 治 的 意 図 が合 致 した結 果 が、 1538 年 の教 皇 パウルス 3 世 (在 位 1534 年 -1549 年 )の仲 介 による 10 年 間 の休 戦 を受 けての、皇 帝 の臨 席 の下 での 1539 年 7 月 5-9 日 フィレンツェにおけるトスカーナ公 コシモ・ ディ・メディチとナポリ副 王 ドン・ペドロ・デ・トレドの娘 エレオノー ラ・ド・トレドとの婚 礼 のための祝 祭 であった。祝 祭 本 の膨 大 な リストからも分 かるように、ほぼ 1 週 間 にわたる婚 礼 祝 祭 は、花 嫁 の入 城 式 にはじまり婚 礼 のミサ、祝 宴 と催 し物 へと続 く 【AppendixⅠ-3】【図 5】 ジャンブラーリの言 及 によると、祝 祭 のメインイベントは花 嫁 のフィレンツェへの凱 旋 入 城 式 、ア レゴリカルな「凱 旋 門 」を配 した盛 大 な祝 宴 、メディチ宮 の中 庭 で上 演 されたアレッサンドロ・ランディの 5 つのインテルメッツ ォ付 きのコメディア《イル・コモード》の上 演 であった。いくつかの 凱 旋 門 のうちのひとつは花 嫁 を讃 えてプラート門 に建 てられ、 頂 部 には「豊 饒 」の擬 人 像 が「安 寧 」と「永 遠 」の間 に生 まれ た 5 人 の子 供 とともに置 かれた。サン・ロレンツォ教 会 の参 事 168 桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.2 ルネサンスの王権と祝祭本(上尾) 【図 5】コシモ・ディ・メディチとエレオノーラ・デ・トレドのフィレンツェ 入 城 式 。 山 車 の 頂 上 の 「 ク ピ ド 」 も し く は 「 愛 Amor 」 が 騎 乗 の ト ラ ン ペ ッ ト 奏 者 に 導 か れ て い る 。 カ ッ ソ ー ネ ( 長 樞 ・ 婚 礼 箪 笥 ) の 蓋 絵 、 1475 Jacquemart-André, 年 頃 。 ( Institut de Vrance,Musée Paris) 会 員 にしてマエストロ・ディ・カッペッラ(聖 歌 隊 長 )である作 曲 家 のフランチェスコ・コルテッチャの指 揮 で八 声 のマドリガーレ 〈イングレデーヴェ Ingredeve〉が「プラート門 正 面 の凱 旋 門 上 の 24 人 の歌 手 に歌 われ、4 つのトロンボーンと 4 つのコルネ ットの合 奏 によって」演 奏 され始 まった。7 月 6 日 、日 曜 の午 後 、結 婚 式 典 に続 き、祝 宴 が宮 殿 中 庭 で催 された。フラン チェスコ・コルテッチャをはじめコスタンツォ・フェスタ、ジョヴァン ニ・マスコーニ、ボッチォ・モスキーニ、マッテオ・ラムポリーニによ ってこのために 8 つのマドリガーレが作 曲 された。アレゴリカルな 凱 旋 門 あるいは劇 的 な活 人 画 であり、アポロンが 9 人 のミュー ズをコシモの婚 礼 に招 き、そこにはトスカーナの川 や都 市 の擬 人 像 も加 わった。彼 らはみなレオノーラを讃 え、贈 物 を与 え、 コルテッチャの指 揮 で 4 人 の作 曲 家 による 7 曲 の 4 から 5 声 のマドリガーレがフィレンツェ、アレッツォ、ヴォルテッラ、コルトー ナ、テヴェーレ、ピーサ、ピストイアのトスカーナの都 市 に扮 した 歌 手 によって演 奏 された。([Bowles 1989], pp.23-26) 「続 く水 曜 日 [7 月 ]9 日 、第 一 の中 庭 のロッジアの下 で豪 華 な宴 会 があった。高 位 高 官 が各 [都 市 ]国 家 から参 集 した。 …[後 に]幸 福 な花 嫁 と花 婿 が第 二 の中 庭 に入 ってきた。… 手 に手 に松 明 をかかげ弓 と矢 を持 った数 多 くのクピドが天 井 169 桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.2 ルネサンスの王権と祝祭本(上尾) から吊 るされていた。…着 座 した客 人 たちがみな舞 台 を注 視 すると、徐 々に東 側 から舞 台 の天 空 に「夜 明 け」[の擬 人 像 ] が現 われた。彼 女 は赤 い花 柄 のガウンのうえに金 色 と銀 色 の 織 り込 まれたケープを羽 織 り、その翼 は白 と朱 色 で、…[マドリ ガ ー レ 〈 Va t t e n e a l m o r i p o s o , e c c o c h ’ i o t o r n o 〉 を ] 歌 っ た。彼 女 の甘 美 な歌 は 2 つのレジスターを持 つクラヴィチェン バロ、オルガン、フルート、ハープ、ヴァイオリンと鳥 の声 [の模 倣 ]で伴 奏 された。[彼 女 の背 後 に]「太 陽 」が舞 台 上 の天 空 を徐 々に緩 やかに昇 っていく、これは劇 の幕 ごとの一 日 の時 間 を知 らせてくれ、第 5 幕 の終 わり近 くに「太 陽 」が沈 み,ほど なく「夜 」が現 われた」(Giambullari、[Bowles1989]p.26 に よる)。 かつての入 城 式 では大 聖 堂 での祝 典 モテトゥスの演 奏 が 演 出 の華 であり、祝 祭 の記 憶 を後 世 に伝 える役 割 も負 って いたが、この時 代 には、より演 劇 的 で大 規 模 な音 楽 の演 出 が祝 祭 の花 形 となっていった。インテルメーディオ(インテルメッ ツォ)である。15 世 紀 末 フェッラーラの宮 廷 で、古 代 ローマの プラウトゥスやテレンティウス作 のコメディア(劇 )上 演 が始 まっ た。これらを範 とし、コメディアが創 作 されるようになると、その幕 と幕 の間 に音 楽 を伴 う劇 が挿 入 されるようになった。歌 と踊 り と奏 楽 を伴 い、大 掛 かりな舞 台 装 置 をもって上 演 されたこの インテルメーディオ(幕 間 劇 )は、ルネサンスの祝 祭 が生 み出 し た文 学 と音 楽 と演 劇 と美 術 が織 り成 す総 合 芸 術 の精 緻 で あり、オペラのさきがけとなった。 これらの祝 祭 劇 はメディチの大 公 たちの婚 礼 に受 け継 がれ ていく。コシモの子 フランチェスコとオーストリア王 女 ヨハンナと の婚 礼 祝 祭 は 1565 年 12 月 16 日 から 1566 年 2 月 26 日 と 2 ヵ月 半 にも及 んだ。上 演 されたフランチェスコ・ダンブラ 作 のコメディア《ラ・コンファナリア》はジョヴァンニ・バッティスタ・ チーニのインテルメーディオが付 き、音 楽 はアレッサンドロ・スト リッジョ、フランチェスコ・コルテッチアの手 になった【Appendix Ⅰ-4】。三 代 目 のトスカーナ大 公 フェルデイナンド 1 世 は、 1588 年 4 月 30 日 から 5 月 15 日 にクリスチーヌ・ド・ロレーヌ との婚 礼 祝 祭 を催 した。この祝 宴 ではジロラモ・バルガーリ作 のインテルメーディオ《ラ・ペレグリーナ(巡 礼 女 )》が上 演 され 170 桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.2 ルネサンスの王権と祝祭本(上尾) ている【AppendixⅠ-5】。 (c)祝 祭 ヨーロッパ メディチ家 の祝 祭 は 1600 年 のフランス王 アンリ 4 世 とマリ ア・デ・メディチ(マリー・ド・メディシス)の結 婚 によってフランス に受 け継 がれていくといわれる。だがそれに先 立 つこと 70 年 前 、 ハプスブルク皇 帝 家 とイタリアをめぐる戦 争 を繰 り広 げていたフ ランス王 家 に、メディチ家 の戦 争 と平 和 の祝 祭 の方 策 は伝 わ っていた。 後 のフランス王 アンリ 2 世 に嫁 いだカテリーナ・ディ・メディチ (カトリーヌ・ド・メディシス)(1519-1589)は、コシモ 1 世 とは遠 縁 であり、幼 くして父 ウルビーノ公 爵 ロレンツォ・デ・メディチ (1492-1519)を亡 くし、1533 年 に教 皇 クレメンス 7 世 とフラン ス王 フランソワ 1 世 の間 で次 男 アンリとの縁 談 がまとまった。 1547 年 にフランソワ 1 世 が没 し夫 アンリが即 位 したが 1559 年 アンリ 2 世 はトーナメントで事 故 死 してしまう。その後 フランソ ワ 2 世 ・シャルル 9 世 ・アンリ 3 世 の摂 政 母 后 として、1559 年 カトー・カンブレジ条 約 によるイタリアへの権 利 を放 棄 、カ トリックとプロテスタントのユグノー戦 争 といった困 難 に直 面 し、 1572 年 のバーソロミューの虐 殺 、アンリ 4 世 の即 位 に至 るま での政 治 の黒 幕 となる。アンリ 2 世 の死 後 、カトリーヌはイタリ ア風 祝 祭 の導 入 を行 い、イタリア人 の画 家 、建 築 家 、音 楽 家 をの登 用 し、初 期 には祝 祭 本 もイタリア語 で刊 行 されてい る。この間 のフランス王 家 の祝 祭 は、ルイ 14 世 のヴェルサイユ につながるものでもあり、祝 祭 による劇 的 政 治 の違 う展 開 を 見 せるのであるが稿 を改 めたい。 1556 年 皇 帝 カール 5 世 が退 位 する。そのほぼ 100 年 前 1453 年 のオスマン・トルコによるコンスタンチノープルの陥 落 は、 多 くの光 と闇 を東 方 からもたらせた。軍 事 革 命 の要 となった 統 率 に働 くオスマン軍 楽 隊 の威 容 は、 実 際 には催 されなか った祝 祭 行 列 を描 かせた皇 帝 マクシミリアン 1 世 にとっては理 想 の軍 楽 隊 として(【図 6】)、王 侯 には武 威 の姿 として胸 に 刻 まれ、それを現 実 化 したのが皇 帝 カール 5 世 の入 城 式 と 巡 幸 であった。また、示 威 機 能 を祝 祭 に展 開 させたメディチ 家 の婚 礼 祝 祭 は、劇 場 的 政 治 システムと呼 ばれるものを確 171 桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.2 ルネサンスの王権と祝祭本(上尾) 【図 6 】 神 聖 ロ ー マ 帝 国 皇 帝 マク シ ミ リア ン 1世 の 自 伝 的 凱 旋 行 進 「Triumphzug」よりブルゴーニュの軍 楽 隊 、1508-1519 制 作 ( The Miriam Art,Prints and and Ira Photographs, D. Wa l l a c h The New 年 頃 Division Yo r k of Public Library, Astor,Lenox and Tilden Foundations) 立 した。王 は王 を演 じ、権 力 は眼 前 に祝 祭 という形 で具 現 化 するのである。これは古 代 ギリシアやローマの劇 的 祭 祀 政 治 の復 興 であったが、ルネサンス末 期 からバロックの表 現 芸 術 の発 展 を促 すことにもなった。王 権 が音 楽 をはじめ芸 術 を 総 動 員 して祝 祭 に求 めたものは、王 はローマそして神 につな がる皇 帝 に比 され教 皇 権 をはじめとするキリスト教 権 威 もまた 芸 術 も王 に仕 えることの「今 」とそして「永 遠 の」認 知 なのであ る。 祝 祭 は戦 争 を回 避 する知 恵 であったのか、新 たにより大 規 模 な戦 争 を引 き起 こす為 の打 上 げ花 火 であったのか。いずれ にしても、ファンファーレは響 き軍 楽 はこだまし、祝 典 ミサや宮 廷 での舞 踏 に音 楽 は欠 かせない演 出 となり、音 楽 劇 は誕 生 する。フランス革 命 による身 分 制 社 会 崩 壊 以 後 もこの風 景 は何 も変 らない。戦 争 がある限 り。 172 桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.2 ルネサンスの王権と祝祭本(上尾) Bibliography: Muratori, Ludovico Medii Aevi. Antonio, De Spectaculis et Ludi Publicis. Dissertatio XXIX, in Antiquitates Italicae Medii Aevii, Milano: Mediolani 1738-1742, 6 vols.; rist.an.a cura e con introduzione di Antonio Viscardi,Modena:Aedes Muratoriana v.II, Milano: 1962; Bologna 1975: Societatis Palatinae, 1739, coll.831-864. Jacquot, Jean, Les Fêtes de la Renaissance. 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Wa t a n a b e - O ' K e l l y, H e l e n & S i m o n , A n n e , F e s t i v a l s a n d C e r e m o n i e s : A B i b l i o g r a p hy o f Wo r k s r e l a t i n g t o C o u r t , Civic and Religious Festivals in Europe, 1500-1800, L o n d o n / N e w Yo r k : M a n s e l l , 2 0 0 0 . [ Wa t a n a b e - O ' K e l l y & Simon] Tydeman, William (ed.), The Medieval European Stage, 500-1550. 〈Theatre in Europe: a documentary history〉, Cambridge: Cambridge University Press, 2001 J. R. Mulryne, & Elizabeth Goldring (eds.), Court Festivals of the European Renaissance: Art, Politics and Performance (Early Modern History S.), Aldershot: Ashgate, 2002 J. R . 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Cambridge et al.: Cambridge University Press, 2 174 n d ed. 2005 桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.2 ルネサンスの王権と祝祭本(上尾) Appendix I 【祝 祭 本 リスト】 [ Wa t a n a b e - O ' K e l l y Simon, Wo r k s Anne, Si mo n ] = Wa t a n a b e - O ' K e l l y, & Festivals relating to and Court, Ceremonies: Civic and A Helen & Bibliography of Religious Festivals in E u r o p e , 1 5 0 0 - 1 8 0 0 , L o n d o n / N e w Yo r k : M a n s e l l , 2 0 0 0 . 1:王 太 子 カールの入 城 式 Dupuys, le Remy, nouuel et La et triumphante ioyeux tresexcellent Hespaigne et aduenement prince Archiduc selemnelle de treshault, Monsieur daustrice duc entrée Charles de faicte sur trespuissant prince bourgongne Comte des de Flandres. &c.en sa ville de Bruges lan mil.v.cens. &.xv. le xviiie iour Gourmont; dapuril 1515; 2º. après Pasques…, Paris: Gilles de レミ・デュピュイ『スペイン王 子 、オーストリア大 公 、 ブ ルゴーニ ュ公 、フ ラ ンドル伯 にし ていとも 気 高 く 偉 大 なる シャルル 王 太 子 殿 下 の 新 た な る 喜 ば し き 到 着 の た めに 執 り 行 わ れ た る 凱 旋 と 荘 厳 なる入 市 式 。1515 年 復 活 祭 前 の 4 月 18 日 ブリュージュ市 に て』パリ:ジル・ド・ゴーモン刊 、1515 年 、二 折 版 、33 の木 版 画 。 C f . [ Wa t a n a b e - O ' K e l l y & S i m o n ] 2 7 0 0 1 5 1 9 年 ア ー ヘ ンで の戴 冠 式 : [ Wa t a n a b e - O ' K e l ly & Si mo n ]1 , 2 , 3, 4, 5 1526 年 マドリッドの和 約 とポルトガル王 女 イザベラと結 婚 を祝 う セ ヴ ィ リ ヤ 入 城 式 [ Wa t a n a b e - O ' K e l ly & Simon]1571 ; 2321 ; 2322) 2:皇 帝 カールの戴 冠 式 Romischer auch Kayserlicher wie Kayserlichen sich Mayestet Bäpstliche Mayestaten Einreytten Hayligkait gehalten Heinrich Steiner]; 1529; 4º; 7 pp. gen Bononia/ gegen habe. seiner [Augsburg: 『教 皇 猊 下 がその皇 帝 の威 厳 を 掲 げ て の、 ロ ー マ 皇 帝 陛 下 の ボロ ーニ ャ 市 へ の 騎 馬 行 列 ( 入 市 式 )』[アウグスブルク:ハインリヒ・シュタイナー刊 ]、1529 年 、四 折 版 、7 ページ、1 木 版 画 。 175 桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.2 ルネサンスの王権と祝祭本(上尾) Der Durchleuchtigsten Kayserlichen geschehen Mayestat ist Nouembris Grosmechitigisten zuo Auch Bebstlicher vast Bononia wie heyligkeit/ worden/ auch selb vber Regensburg: Paulus Kohl; komen 1529; des Kay. Cardinelen was reyten tag gemelte mit meer ein vierten seinen empfangen K.M. am herzlich daselbst die köstlichs Römischen volck ist. So monats May. Vo n vnd officiern vnnd getzirden Im M.D.xxjx Jar. 『至 尊 にして偉 大 なる皇 帝 4º 陛 下 のいとも豪 華 に騎 馬 行 列 されし。ボローニャ市 にて11月 4日 に催 されし。着 飾 った者 たちとともに皇 帝 陛 下 自 らは海 を越 えて到 着 され、 教 皇 猊 下 、枢 機 卿 がた、その諸 官 らによって到 着 した皇 帝 陛 下 は盛 大 なる歓 待 を受 けし。1529 1529 年 、 4 年 』レーゲンスブルク:パウルス・コール刊 、 折 版 : 木 版 画 は カ ー ル 世 と 弟 フ ェ ル デ ィ ナ ン ト 5 (1503-1564)の戴 冠 式 図 。 Hogenberg, Nicolaus, Caesareas artificem mensura cernas Sanctique ter Pictor tibi, et patris vernerare virum Hoc Henricus Gratae longo manum, n.d.; aequae ordine vivide, Posteritati. turmas Tradere Hogenbergus posteritas Hondius; laboribus quae quod fecit Aspice, potuit per opus. tua et rigido saecula The Hague: ニコラウス・ホーゲンベルク『恩 恵 とまた 2º 苦 難 の後 の世 の人 々。皇 帝 と教 皇 の長 く整 然 たる隊 列 の景 観 、 芸 術 家 の 手 は三 度 の 春 を 経 て 、 偉 大 で 高 潔 なる 人 物 画 家 ホ ーゲ ンベ ルクの名 を硬 き金 属 の版 に刻 み伝 えることができた。これこそ数 百 年 も、 後 の世 も生 き続 けるべく作 られし作 品 なり』デン・ハーグ:ヘンリクス・ホン デ ィ ウ ス 刊 、 刊 年 不 詳 、 二 つ 折 版 。 : ニ コ ラ ウ ス ・ ホ ー ゲ ン ベ ル ク に よ る 長 さ 34 フィート幅 18インチ 1/4 の巻 紙 に 40 の版 画 。ヨアネス・セクン ドゥスのひとつは〈Divo et invicto Imperatori Carlo V… 神 々しく も不 屈 なる皇 帝 カルロス 5 世 に〉で始 まる 2 つの詩 の付 された図 版 から なる。 Eynreitung Bononia. Keiserlicher N.p.; 1529; Maiestat 4º auff die Krönung gen 『ボローニャでの戴 冠 式 のための皇 帝 陛 下 の騎 馬 行 列 』制 作 地 不 詳 、1529 年 、四 折 版 。 Prima e seconda Imperatore Re Giovanbattista Coronatione de di Romani, Phaelli; di Carlo Fatta 1530; 176 4º in Quinto sacratissimo Bologna. Bologna: 『神 聖 なる皇 帝 にしてロー 桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.2 ルネサンスの王権と祝祭本(上尾) マ王 カルロ 世 の第 一 と第 二 の戴 冠 式 、ボローニャにて挙 行 』ボロー 5 ニャ:ジョヴァンバッティスタ・デ・ファエッリ刊 、1530 年 、四 折 版 。 Keyserlichr Mit Maiestat eyner einer beyde Eyszenen/ gulden kron zu Krönung/ Die deren ander Bononia. am Jm die Erste xxiiij. am xxij. Februarij M.D.XXX Jar mit geschehen 『皇 帝 陛 下 の二 つの戴 冠 式 、最 初 は22日 の sein. N.p.; n.d.; 4º 鉄 の王 冠 、もうひとつは2月 29日 の黄 金 の帝 冠 、ボローニャにて、153 0年 に挙 行 』制 作 地 制 作 年 不 詳 。 Giordani, Gaetani sommo V. (ed.), pontefice Imperatore documenti Della Clemente celebrata ed venuta VII per l’anno incisioni…. e dimora la Bolonga coronazione MDXXX, Bologna: in cronaca Governativi di Carlo con alla del note Vo l p e ; 1842; 8º; xxx+184pp+176pp+199pp ジョルダーニ編 『1530 年 に祝 われた皇 帝 カル 55世 の戴 冠 式 のための教 皇 クレメンテ7世 の到 着 と 滞 在 について。版 画 と資 料 つき年 代 記 』ボローニャ、1842 年 :12 の 挿 図 。 Hienach volgt Kaiserlich Bononia. Auff An Mathis Sanct den Maiestet vier tag. vnd N.p.; Krönung. zwaintzigistenn 1530; 4º; く皇 帝 陛 下 の戴 冠 式 。聖 マティアスの祝 日 Magnifique et solennelle entrée et Charles V et du pape Clément VII、 tag inn Februarij. Ajv-[Aiiijr]、『ここに続 2 月 にて挙 行 』制 作 地 不 詳 、1530 年 、4 つ折 版 La Geschehen 24 日 に、ボローニャ 1 木 版 画 。 entrevue de l'empereur Antwerp,1530 『皇 帝 シャ ルル5世 と教 皇 クレマン7世 の偉 大 にして荘 厳 なる入 市 式 と会 見 』。 Romischer auch Kayserlicher wie sich Kayserlichen Mayestet Bäpstliche Mayestaten Einreytten Hayligkait gehalten Heinrich Steiner]; 1529; 4º; 7 pp. gen Bononia/ gegen habe. seiner [Augsburg: 『教 皇 猊 下 がその皇 帝 の威 厳 を 掲 げ て の、 ロ ー マ 皇 帝 陛 下 の ボロ ーニ ャ 市 へ の 騎 馬 行 列 ( 入 市 式 )』[アウグスブルク:ハインリヒ・シュタイナー刊 ]、1529 年 、四 折 版 、7 ページ、1 木 版 画 。 Goetghebuer, Bologne, par le 8°; 11pp P. J . , en Sur l’entrée de 1529. Réponse a messager des sciences. l’empereur la Ghent: フーツゲーバー『皇 帝 シャルル 177 64me 5 L. Charles-Quint question à proposée Hbbelynck; 世 のボローニャへの 1855; 1529 桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.2 ルネサンスの王権と祝祭本(上尾) 年 の入 市 式 について』1855 年 。 Agrippa, Henricus Cornelius, De duplici coronatione Caroli V … 2º; anno 2 1530. vols.) In.S.Schardius, Historicum opus (1574; ヘンリクス・コルネリウス・アグリッパ『1530 年 のカルロス 5 世 の 二 重 戴 冠 式 に つ い て 』 、 S . シ ャ ル デ ィ ウ ス 『 歴 史 』 ( 1574 収 ) 、 ア グ リ ッ パ の 『 カ ル ロ ス Coronationis Historia 5 世 … 戴 冠 の 歴 史 』 Caroli 年 所 Qvinti… 1530)の後 期 の版 。カールは異 (Antwerp なる二 日 にわたって、ロンバルディア王 の鉄 の王 冠 と神 聖 ローマ皇 帝 の 黄 金 の帝 冠 を戴 冠 した。 Prima e seconda Imperatore Coronatione Re Giovanbattista de di Romani, di Phaelli; Carlo Fatta 1530; Quinto in sacratissimo Bologna. Bologna: 『神 聖 なる皇 帝 にしてロー 4º マ王 カルロ5世 の第 一 と第 二 の戴 冠 式 、ボローニャにて挙 行 』ボローニ ャ:ジョヴァンバッティスタ・デ・ファエッリ刊 、1530 年 、四 折 版 。 Keyserlichr Mit Maiestat eyner einer beyde Eyszenen/ gulden kron zu Krönung/ Die ander Bononia. deren am Jm die Erste xxiiij. am Februarij M.D.XXX Jar xxij. mit geschehen 『皇 帝 陛 下 の二 つの戴 冠 式 、最 初 は22日 の sein. N.p.; n.d.; 4º 鉄 の王 冠 、もうひとつは2月 29日 の黄 金 の帝 冠 、ボローニャにて、153 0年 に挙 行 』制 作 地 制 作 年 不 詳 。 R u s c o n i , C a r l o , L’ I n c o r o n a z i o n e d i C a r l o V a B o l o g n a … Te r z a edizione riveduta, corretta ed ampliata dall’Autore. F l o r e n c e : G. F a z i o l a e c o m p . ; 1 8 6 6 ; 1 6 º ; 5 0 4 p p . ルスコーニ『ボ ローニャでのカルロ 5 世 の戴 冠 式 』著 者 による増 補 改 訂 第 3 版 、フィ レンツェ、1866 年 。 Boncompagni, del Bolognese immortale quale Ugo; si seguita Giordani, Ugo Gregorio descrive il Governativi 24 alla la Gaetano (ed.), Buoncompagni XIII Sommo Vo l p e ; 1530 1841; 8º; poscia Pontefice incornazione Febbraio Lettera di Carlo in con Romano V. Bologna. 24pp. inedita nome nela Imperatore Bologna: ウーゴ・ブォンコンパー ニ、ジョルダーニ編 『ボローニャ人 ウーゴ・ブォンコンパーニ、後 の不 朽 の ローマ教 皇 グレゴリオ 13 世 の、1530 年 2 月 24 から続 く皇 帝 カルロ 5 世 の戴 冠 式 の叙 述 を含 む未 刊 書 簡 』ボローニャ、1841 年 。 178 桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.2 ルネサンスの王権と祝祭本(上尾) Ricci, in Agostino, Comedia… Bologna a N.Signore, Commemoratione 4º intittolata de la et a Corona I Tre Cesare, di su Tiranni, Il Maestà. Recitata Giorno de la Ve n i c e ; 1533; アゴスティーノ・リッチ『三 人 の暴 君 と題 するコメディア(喜 劇 )、ボロ ーニャにてシニョーレおよび皇 帝 の臨 席 のもと、皇 帝 陛 下 の戴 冠 の記 念 日 に上 演 』ヴェネツィア、1533 年 刊 、4 つ折 版 、序 文 、登 場 人 物 一 覧 、要 旨 含 む。 C f : [ Wa t a n a b e - O ' K e l l y Simon]693-697(入 城 式 );698-700, & 702-704 (戴 冠 式 );705(祝 祭 劇 ) 戴 冠 式 後 の巡 幸 : 南 ド イ ツ [ Wa t a n a b e - O ' K e l ly 式 ); & Simon]6 7 (1530 年 アウクスブルク入 城 式 ); 入 城 式 )イタリア[Watanabe-O'Kelly 10 月 & 日 メ ッ シ ー ナ 入 城 式 、 11 21 (1536:年 1356-1357 城 式 );1558 年 インスブルック入 城 (1530 8 (1531 年 ニュルンベルク Simon]555-556 月 日 ナ ポ リ 入 城 式 ) 25 ; シエナ入 城 式 、ローマ入 城 式 、フィレンツェ入 (1536 年 シエナ入 城 式 :ここではストルディト(偽 アレッサ ン ド ロ ・ ピ ッ コ ロ ミ ー ニ )S.Stordito(Alessandro 《コスタンツェの恋 れた; (1535 年 L’ a m o u r Piccolomini) の 劇 Costante》が上 演 されトーナメントが催 さ 442(1536 年 ルッカ入 城 式 :ルッカ共 和 国 の行 政 官 の選 出 の 儀 礼 「 タ ー シ ュ ( 袋 ) 」 ( 投 票 用 紙 を 集 め る 袋 や 鞄 に 由 来 ) 開 催 ) ; 781, 783(標 題 に木 版 画 ), 782, 784, (1536 年 ローマ入 城 785 式 )。 3:コシモ・ディ・メディチの婚 礼 祝 祭 入 城 式 : Ma, Ge, La solenne S.Duchessa Liuorno, di Pisa, apparati & & che motti splendide in et Firenze, Empoli, Archi in Noze triomphante dapoi & erano, Conuiti Firenze la Poggio Trionphali essi entrata in & Della partite & Firenze, con tutte con lordine alter la sua le di con di Napoli, li Historie, delle Allegrezze entrata Illustrissima sua superbi pitture suntuose & in feste & fatte la citta di Eccellentia. N.p.; 1539; 4°『令 名 高 きフィレンツェ公 爵 夫 人 の荘 厳 なる凱 旋 入 市 式 、ナポリの出 立 からリヴォルノ、ピサ、エンポリ、ポッジオ、フィレンツェ に至 る。妃 殿 下 の入 市 式 にてフィレンツェで挙 行 された華 麗 なる華 燭 179 桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.2 ルネサンスの王権と祝祭本(上尾) の宴 (アッパラート)と凱 旋 門 、そこに描 かれし歴 史 、絵 画 、金 言 格 言 の す べ て 、 豪 奢 に し て 光 輝 あ ふ れ る 結 婚 式 、 饗 宴 、 歓 喜 と 祝 祭 』 制 作 地 不 詳 、1539 年 。 結 婚 祝 祭 : Giambullari, Pier Francesco, Apparato et feste nelle noze dello Illvstrissimo Signor Duca di Firenze, & della Duchessa sua Consorte, con le sue Stanze, Madriali, Comedia, & Intermedij, in quelle recitati. Florence:Benedetto Giunta; 1539; 4°; 171pp. ピエールフラン チェスコ・ジャンブッラーリ『令 名 高 きフィレンツェ公 爵 閣 下 並 びに公 妃 殿 下 の結 婚 式 における装 飾 と祝 祭 、そこでの奏 楽 、詩 作 、マドリガー レ、コメディア、インテルメッツォの上 演 』フィレンツェ:ジュンタ刊 、1539 年 。音 楽 をともなうインテルメッツォとコメディ。プロローグは花 嫁 のフィレ ンツェへの入 市 式 を描 写 。ジョヴァンニ・バティスタ・ジェッリ Giovanni Batista Gelli 作 の歌 曲 、コメディ《イル・コモード(快 楽 ) Il Commodo》はアントニオ・ランディ Antonio Landi 作 。 Giambullari, Pier Francesco, Personificazione delle città Paesi e Fiumi di Toscana festeggianiti le nozze di Cosimo I° ed Eleonora di Toledo, tratta da uno raro libretto di Pier Francesco Giambullari e ristampata per cura di U b a l d o A n g e l i . P r a t o : t i p . G. S a l v i , 1 8 9 8 ; 8 ° ; 3 0 p p . ピエー ルフランチェスコ・ジャンブッラーリ『コシモ 1 世 とエレオノーラ・ディ・トレド の結 婚 を祝 うトスカーナの都 市 、国 、川 の擬 人 化 』1898 年 。1898 年 エンリコ・ロスターニョとマリア・カヴァッツァとのローマでの結 婚 のために再 版 。 コメディア: Landi, Antonio, Il Commodo. Comedia. Florence:Beneettp Giunta; 1539; 4°; 104pp. アントニオ・ランディ『コメディア《イル・コー モド》』フィレンツェ:ベネディット・ジュンティ刊 、1539 年 。ピエールフラン チェスコ・ジャンブッラーリ『装 飾 と祝 祭 』の一 部 (pp.67-171)として刊 行 。 Landi, Antonio, Il Commodo. Comedia … Con I suoi Intermedii, Recitata nelle nozze de l’Illustriß. & Eccellentiß. S. il S.Duca di Firenze l’Anno 1539. Nvovamente Ristampata. Florence: I Giunti, 1566; 8°; 95pp. アントニオ・ランディ『イル・コ モード。1539 年 、令 名 高 きフィレンツェ公 爵 閣 下 の結 婚 式 におけるイ ンテルメッツォ、歌 唱 付 きのコメディア(喜 劇 )』改 訂 新 版 、フィレンツ ェ:ジュンティ刊 、1566 年 。 180 桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.2 ルネサンスの王権と祝祭本(上尾) 音 楽 : Musiche fatte nelle nozze dello illustrissimo Duca du Firenze il Signor Cosimo de’Medici et della illustrissima consorte s u a M a d . L e o n o r a d a To l e t t o , Ve n e z i a , 1 5 3 9 山 口 博 子 「ルネサンスの祝 祭 音 楽 -1539年 のコジモ・ディ・メディチ とエレオノーラ・ダ・トレドの婚 礼 における音 楽 について」、『熊 本 大 学 教 養 部 紀 要 人 文 ・社 会 科 学 編 』28(1993)、pp.49-61 再 現 CD:Centre de Musique Ancienne di Ginevra/ Studio di Musica Rinascimentale di Bologna", Gabriel Pa;ermo/ Schola "Jacopo da Garrido(dir.),《Firenze 1539: Musiche fatte nelle nozze dello illustrissimo duca di Firenze il signor Cosimo de Medici et della illustrissima consorte sua mad. Leonora da Tolletto.》(Tactus[TC530001], 1993) C f : [ Wa t a n a b e - O ' K e l ly & Si mo n ] 11 6 4 ( 入 城 式 ) ; 11 6 5 - 11 6 6 (婚 礼 祝 祭 );1167-1168 (祝 祭 劇 )。 コシモの在 位 中 の祝 祭 本 については、以 下 も参 照 : [ Wa t a n a b e - O ' K e l l y & Si mo n ] 11 7 0 ( 15 5 6 年 コ シモ によ る フ ィ レ ンツ ェ の カーニヴァル) ;1360-1361 (1560 年 併 合 したシエナへの入 城 式 ); 790 (1560 年 ローマへの訪 問 入 城 式 );1193, (1569 年 ローマでの 教 皇 ピウス5世 からのトスカナ大 公 位 授 与 祝 祭 への出 発 );794-796 (1570 年 ローマでの教 皇 ピウス5世 からのトスカナ大 公 位 授 与 祝 祭 ), [ Wa t a n a b e - O' Ke l l y & Si mo n ] 11 9 4 (1570: ローマでの教 皇 ピウス 5 世 からのトスカナ大 公 位 授 与 祝 祭 からのフィレンツェへの凱 旋 ); 1195-1196 (1574 年 コシモの葬 儀 ) 4:トスカナ大 公 フランチェスコ 1 世 (1541-1587)の祝 祭 本 1565 年 12 月 16 日 -1566 年 2 月 26 日 トスカナ公 子 フランチェスコ・ ディ・メディチとオーストリア王 女 ヨハンナとのフィレンツェにおける婚 礼 祝 祭 入 城 式 と婚 礼 : Ricordi storici di feste fatte in Firenze per nozze principeseche o per la venuta di principi [1565-1791]. Florence: tip.editrice dell’associazione; 1868; 4°; 33pp. 『王 侯 の結 婚 式 あるいは王 侯 の到 着 (入 市 式 )のためにフィレンツェで 催 された祝 祭 の歴 史 的 記 録 』フィレンツェ、1868 年 、フィレンツェでの サヴォワ王 子 ウンベルトとマルゲリータの結 婚 式 を祝 って編 纂 。 Mellini, Domenico, Descrizione dell’Entrata Della sereniß. Reina Giouanna d’Austria Et dell’Apparato, fatto in 181 桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.2 ルネサンスの王権と祝祭本(上尾) Firenze nella venuta, & per le felicissime nozze di S.Altezza et dell’Illustrissimo, & Eccellntiss. S.Don Francesco de Meici, Prencipe di Fiorenza, & di Siena. Ristampata e riveduta. Florence: I Giunti; 1566; 4°; xiii + 128pp + ix. ドメニコ・メッリーニ『フィレンツェとシエナの君 主 令 名 高 く も高 貴 なるフランチェスコ・デ・メディチ閣 下 との至 福 の結 婚 式 のために フィレンツェに到 着 したオーストリアのジョヴァンナ王 女 陛 下 の入 市 式 と 華 燭 の宴 』改 訂 版 、フィレンツェ:イ・ジュンティ刊 、1566 年 。 Mellini, Domenico, Descrizione dell’entrata della … Reina d’Austria Et dell’apparato, fatto in Firenze … per le felicissime nozze di S.Altezza et dell’illustrissimo … Francesco de Meici, Prencipe di Fiorenza. Coretta & … stampata la terza volta. Florence; 1566; 8°; ドメニコ・メッリー ニ『フィレンツェの君 主 令 名 高 くも高 貴 なるフランチェスコ・デ・メディチ 閣 下 とのフィレンツェでの結 婚 式 のためのオーストリアのジョヴァンナ女 王 陛 下 の入 市 式 と華 燭 の宴 』改 訂 第 3 版 、1566 年 。 Descrizione dell’Apparato della Commedia et Intermedii d’Essa Recitata in Firenze il giorno di S.Stefano l’anno 1565 … nelle Reali Nozze. Dell’Illustriss. & Eccell. S.il S.Don Francesco Medici Pricipe di Fiorenza, & di Siena, E della Regina Giouanna d’Austria sua consorte. Ristampata, con nuova aggiunta. Florence: I Giunti; 1566; 8°; 26pp. 『1565 年 聖 ステファーノの日 にフィレンツェで上 演 されたコメディア、イン テルメッツォの華 燭 の宴 の記 。フィレンツェとシエナの君 主 令 名 高 くも 高 貴 なるフランチェスコ・メディチ殿 下 とその細 君 オーストリア王 女 ジョヴ ァンナとの王 家 の結 婚 式 において』増 訂 版 、フィレンツェ:イ・ジュンティ 刊 、1566 年 。2 つの木 版 画 、インテルメッツォ、演 劇 。 Apparato per le nozze di Francesco I. de’ Medici con Giovanna d’Austria [li 28 novembre 1565 – pubblicato p e r c u r a d i L u i g i Ve r a n i ] . L i v o r n o : G i u s . M e u c c i ; 1 8 7 0 ; 8°; 15pp. 『フランチェスコ1世 ・デ・メディチとオーストリアのジョヴァンナ との結 婚 式 の華 燭 の宴 』リヴォルノ、1870 年 、1870 年 10 月 のエット ーレ・ウリエットとルイーザ・マイオンキの結 婚 のための再 版 。 182 桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.2 ルネサンスの王権と祝祭本(上尾) 祝 祭 劇 : Ambra, Francesco d’, La Confanaria, comedia Di Francesco d’Ambra Con Gl’Intermedij di Giouam Batista Cini; Recitata nelle Noze dell‘Illstrißimo S.Principe Don Francesco de Medici, & della Serenißima Regina Giuanna d’Austria. Florence: I figliuoli di Lorenzo Torrentino e Carlo Pettinari compagni; 1566; 8° ;126pp. フランチェスコ・ダ ンブラ『ラ・コンファナリア、フランチェスコ・ダンブラによるコメディア(喜 劇 )、 ジョヴァン・バティスタ・チーニのインテルメッツォ付 き。令 名 高 き君 主 フラ ンチェスコ・デ・メディチ殿 下 とオーストリア王 女 ジョヴァンナ妃 殿 下 の結 婚 式 にて上 演 』フィレンツェ、1566 年 。フランチェスコ・ダンブラ (Francesco d’ Ambra)による喜 劇 、インテルメッツォのテキストはジョヴ ァンニ・バッティスタ・チーニ(Giovanni Battista Cini) Descrizione degl’intermedii rappresentati colla commedia nella nozze dell’Illustrissimo, ed Eccellentissimo Signor Principe di Firenze, e di Siena. Florence; 1566; 8°;20pp. 『令 名 高 きフィレンツェ並 びにシエナの君 主 閣 下 の結 婚 式 にコメディア とともに上 演 されたインテルメッツォの記 』フィレンツェ、1566 年 。フランチ ェスコ・ダンブラ『ラ・コンファナリア』のある版 と同 じ表 題 ページの木 版 画 。 献 辞 に「Il Lasca(ウグイ)」(Anton Francesco Grazzini)のサイン。 インテルメッツォのテキストはジョヴァンニ・チーニ(Giovanni Cini)、音 楽 はアレッサンドロ・ストリッジョ(Alessandro Striggio)、フランチェス コ・コルテッチア(Francesco Corteccia)による。 Descrizione degl’intermedii rappresentati colla commedia nella nozze dell’Illustrissimo, ed Eccellentissimo Signor Principe di Firenze, e di Siena. Florence: Filippo Giunti; 1593; 8°;22pp+i. 『令 名 高 きフィレンツェ並 びにシエナの君 主 閣 下 の結 婚 式 にコメディアとともに上 演 されたインテルメッツォの記 』フィレンツ ェ:フリッポ・ジュンティ刊 、1593 年 、2つの木 版 画 。 Mellini, Domenico, Le Dieci Mascherate delle Bvfole Mandate I n F i r e n z e i l g i o r n o d i C a r n o u a l e L’ a n n o 1 5 6 5 . C o n l a descrizzione di tutta la pompa delle Maschere, e loro inuenzioni. Florence: I Giunti; 1566; 8°;65pp. ドメニコ・メッリ ーニ『1565 年 フィレンツェの謝 肉 祭 に献 じた、道 化 の 10 のマスケラ(仮 面 劇 )。仮 面 行 列 すべてとそこでの創 作 の記 とともに』フィレンツェ:イ・ 183 桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.2 ルネサンスの王権と祝祭本(上尾) ジュンティ刊 、1566 年 。標 題 の年 号 はフィレンツェ風 表 記 。 Descrizione del canto de Sogni. Mandato dall’Illustrissimo, & Eccellentissimo S.Principe di Firenza, & di Siena. Il secondo giorno di Febbraio. 1565. in Fiorenza. Florence: I Giunti; 1566; 8°;26pp 『夢 の歌 の記 。1565 年 2 月 2 日 、フィレン ツェにて、令 名 高 きフィレンツェ並 びにシエナの君 主 閣 下 に献 呈 』フィ レンツェ:イ・ジュンティ刊 、1566 年 。標 題 の年 号 はフィレンツェ風 表 記 。 Baldini, Baccio, Discorso sopra la Mascherata della Geneologia degl’Iddei de Gentili. Mandata fuori dall’Illustrissio, & Eccellentiss. S.Duca di Firenze, & S i e n a I l g i o r n o 2 1 . d i F e b b r a i o M D L X V. F l o r e n c e : I Giunti; 1565; 4°;ii+130pp+ii. バッチオ・バルディーニ『高 貴 な 方 々の神 々の系 譜 のマスケラ(仮 面 劇 )についての話 。令 名 高 きフィレ ンツェとシエナの公 爵 閣 下 に献 呈 、1565 年 2 月 21 日 』フィレンツェ: イ・ジュンティ刊 、1565 年 。標 題 の年 号 はフィレンツェ風 表 記 C f : [ Wa t a n a b e - O ' K e l l y & Simon]1158, 1174-77( 入 城 式 と 婚 礼 祝 祭 );1179-1180 (祝 祭 劇 );1181-1183 (祝 賀 カーニヴァル) 1567 年 2 月 4-20 日 フィレンツェでのトスカナ大 公 フランチェスコ・デ・ メディチと公 妃 ヨハンナ・デ・オーストリアの王 女 エレオノーラ誕 生 を祝 う 祝 祭 C f : [ Wa t a n a b e - O ' K e l ly & Simon]1185-1186 ( 祝 賀 カ ー ニ ヴ ァ ル);1187 (1568 年 祝 祭 劇 ‘I Fabii’の上 演 ) 1579 年 10 月 4-14 日 フィレンツェでのトスカナ大 公 フランチェスコ・ ディ・メディチとビアンカ・カペッロ・ディ・ヴェネツィアとの婚 礼 祝 祭 Ricordi storici di feste fatte in Firenze per nozze principeseche o per la venuta di principi [1565-1791]. Florence: tip.editrice dell’associazione; 1868; 4°; 33pp. 『王 侯 の結 婚 式 あるいは王 侯 の到 着 (入 市 式 )のためにフィレンツェで 催 された祝 祭 の歴 史 的 記 録 』フィレンツェ、1868 年 、フィレンツェでの サヴォワ王 子 ウンベルトとマルゲリータの結 婚 式 を祝 って編 纂 。 Gaci, Cosimo, Poetica Descritione d’intorno all’inuentioni della Sbarra Combattuta in Fiorenza nel cortile del Palagio de’ Pitti in honore della Sereniss. Signora Bianca Cappello Gran Dvchessa di Toscana. Florence: de’ Giunti; 184 桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.2 ルネサンスの王権と祝祭本(上尾) 1579; 8°; 35pp. コシモ・ガーチ『トスカナ大 公 妃 ビアンカ・カッペッロ 妃 殿 下 を讃 えてフィレンツェのピッティ宮 の中 庭 での〈戦 いの小 門 〉の 創 作 品 についての詩 的 記 述 』フィレンツェ:ジュンティ刊 、1579 年 。狩 猟 、トーナメント、祝 宴 、入 市 式 。 Gualterotti, Raffaello, Feste nelle nozze Del Serenissimo Don Francesco Medici Gran Dvca di Toscana; Et della Sereniss. Sua Consorte la Sig.Bianca Cappello … Nouamente Ristampate. Florence: I Giunti; 1579; 4°; 58pp+ii. ラファエ ッロ・グァルテロッティ『トスカナ大 公 フランチェスコ・メディチ殿 下 とその配 偶 者 ビアンカ・カッペッロ嬢 の結 婚 式 の祝 祭 』改 訂 新 版 、フィレンツ ェ:ジュンティ刊 、1579 年 、13 の挿 図 。 Aurifex, Gregorius, De nvptiis magni dvcis Hetrvriae, et Bianchae Cappellae: Carmen. Bologna: Ioannes Rossius; グレゴリウス・アウリフェックスのラテン語 韻 文 『エトルリアの大 1580; 4°. 公 とビアンカ・カッペッラの結 婚 について:カルメン(頌 歌 )』ボローニャ:ヨ アネス・ロシウス(ジョヴァンニ・ロッシ)刊 、1580 年 。狩 猟 、トーナメント、 祝 宴 。 G u a l t e r o t t i , R a f f a e l l o , Va g h e z z e s o p r a P r a t o l i n o … Florence: I Giunti; 1579; 4°; 15pp. ラファエッロ・グァルテロッ ティ『プラトリーノ以 上 の優 美 』フィレンツェ:イ・ジュンティ刊 、1579 以 下 が 続 Signora く : Epitalamio Perregrina Nelle Cappello, nozze Et dello della 年 。 Illustrissima Illustrissimo Sig. Conte Vlisse Bentiuogli Composto per il Sig.Raffaello Gualterotti, Alla Serenissima Signora Bianca Cappello, pp.16-24 『令 名 高 きペレグリーナ・カッペッロ嬢 と令 名 高 きウリッセ・ベ ンティオーリ伯 殿 下 の結 婚 の祝 婚 歌 。ビアンカ・カッペッロ妃 殿 下 のた めにラファエッロ・グァルテロッティによって作 曲 』 C f : [ Wa t a n a b e - O ' K e l l y & S i m o n ] 11 5 8 , 1 2 0 0 - 1 2 0 3 185 桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.2
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