津谷喜一郎. 市場撤退した医薬品 副作用の諸相. ファルマシア 2007

市場撤退した医薬品
副作用の諸相
津谷喜一郎
Kiichiro TSUTANI
東京大学大学院薬学系研究科医薬政策学客員教授
1
はじめに
医薬品の副作用は,それが起きた患者のみならず他の領域にも負担をもたらす.入院などヘ
ルスケアに要する負担,また経済的負担は医療にかかる直接コストのみならず労働損失などの
間接コストもある.市場撤退になると企業にとっての負担も大きい.2
0
0
0年代以降,ファー
マコジェネティクス(pharmacogenetics)が副作用防止の可能性の面から注目され,CIOMS
(Council of International Organizations of Medical Sciences,国 際 医 科 学 協 議 会)
によるレ
1)
本稿では CIOM レポートのレビューを主に,薬剤疫学研究を紹介し,副
ビューがなされた.
作用による負担を述べ,市場撤退の負担とその解決策の展望と限界について述べる.
2
医薬品副作用による臨床的負担
副作用の重症度(severity)や重篤度(seriousness)は様々である.また患者の心理的・社会
的・経済的負担も多様であるが,いったい副作用はどの程度発生しているのであろうか? こ
の領域の研究は1
9
7
0年代に始まる.Mulroy
(19
7
3)
は,英国で一般内科で診察を受ける患者の
4
8人に1人は医薬品副作用が原因であるとしている.Venulet
(1
99
7)
は1
9
7
7年までで入院患
2)
Einarson
(19
9
3)
による副作用が原因となった
者における副作用の発生率は2∼1
8% とした.
3)
入院に関する英語論文3
6件のレビューによると,平均5.
5% は副作用によるとされている.
バラつきは0.
2∼2
1.
7% と大きい.
死亡例を対象とした研究をみてみよう.
Shapiro ら
(1
9
7
1)
は,
米国ですべての死亡のうち0.
3∼
0.
5% は副作用によるとしている.
Ferner ら
(1
9
9
4)
は,
英国では2,
0
0
0人に1人が薬が原因とし
た.
Ebbesen ら
(1
9
9
5)
によれば,
ノルウェーの6か月の前向き研究
(prospective study)
では3,
0
8
2
人の入院患者の1% が副作用で死亡していた.このうち,
主治医が副作用が原因だと認識してい
4)
Chyka ら
(1
9
9
5)
の研究は,
死亡診断書において副作用が死亡原因
たものは2件のみであった.
とされた死亡件数と,
FDA の自発的市販後監視システム
(MedWatch)
のデータと比較している.
前者が2
0
6件に対し後者は6,
8
9
4件あり,
薬が原因の死亡に対する認識の低さが指摘されている.
Lazarou ら
(1
9
9
7)
による3
9件の前向き研究のメタアナリシスで,
米国では深刻な副作用の発生率
は6.
7%,そのうち2.
1% は入院中に発生し,
4.
7% は副作用が原因で入院したものであった.
ま
5)
た副作用が死亡原因の4∼6位を占めるとされ,
入院患者における副作用死は0.
3
2% であった.
3
医薬品副作用によるヘルスケアの負担
フランスでは,副作用を発症した1
0人の患者の平均入院日数は1
5.
1日に対し,
発症しなかっ
た患者では1
0.
7日であった.米国では,前者が1
0.
6日だったのに対し,後者は6.
8日だった.
これらの入院のコストの研究が各国で行われている.フランスでは,1床あたり年間1
5
5万円,
スイスでは6か月で3
1万とされる.米国では2
6
0万円でそのコントロールである副作用を発
症していない患者では2
0
0万円である.
Vol.
43 No.
11 2007 ファルマシア
1097
国全体でのコストは,オーストラリアで3億円,ドイツで5
0
0億円,英国では9
3
0億円とい
う研究と3,
0
0
0∼5,
0
0
0億円という研究がある.米国では先の Lazarou らが,直接的な病院コ
ストは1,
8
0
0∼4,
5
0
0億円と推計している.同じく Ernst と Grizzle(2
0
0
1)
は,医薬品が関係し
た疾患や死亡に絡むコストは2
0兆円を超えると推計している.そのうち入院コストが1
4兆円,
ついで長期入院のコストが4兆円である.さらに間接コストを考えるべきである.間接コスト
とは労働損失を含み,GNP への貢献が減少するとも捉えられる.それは入院の長期化,副作
用から完全に回復し職場に復帰するのに要する時間,患者の家族などが患者のケアに要する時
間,休職中に支払われた社会保障などである.
4
医薬品の副作用による市場撤退 (1)
英国と世界
本稿のタイトルにも掲げた市場撤退を,
ここでは英国と世界,
米国,
日本の章に分けて論じよう.
英国医薬品庁(MCA)の Jefferies ら
(19
9
8)
によれば,英国では19
7
2∼1
9
9
4年に5
8
3種の新
有効成分が承認され,そのうち5
9種が撤退している.つまり平均年間2.
5種類の有効成分が
6)
Fung ら(20
0
1)
によれば,19
6
0∼1
9
9
9年に全
撤退し,その「1
0年生存率」は88% になる.
世界で1
2
1種の薬が撤退した.そのうち8
7種については販売期間が分かっており,その3
1%
7)
は市販後2年以内,5
0% は5年以内の撤退であった.
1)
CIOMS の pharmacogenetics レポート
(2
0
0
5)
では,
1
9
90∼2
00
4年に市場撤退した34種の
薬をその理由とともに紹介している.CIOMS という国際的な機関のワーキンググループでリ
ストされたものである
(表1).3
4種のうち日本で発売されなかったものが2
3種ある.これを
もって「日本での医薬品開発と承認が遅いことで日本人が副作用を免れている」と論ずる向き
もあるが,情緒的な意見であり,リスクとベネフィット双方の定量的な議論がなされるべきで
ある.また後述する Okie の「米国人は実験台」という説は,日本からいえば米国の臨床試験
と市販後調査に「ただ乗り」をしていることにもなり,臨床研究の負担と利益の分配における
公平
(fairness)というバイオエシックスの原理に反する.なお EU では,多くの市場撤退を受
け2
0
0
5年に医薬品のリスクマネジメントのガイドラインが公表された.
5
医薬品の副作用による市場撤退 (2)
米国
米国では,1
9
9
7年9月に抗肥満薬の fenfluramine と dexfenfluramine が,19
98年1月に抗
ア レ ル ギ ー 薬 の terfenadine が,同 年8月 に カ ル シ ウ ム 拮 抗 薬 の mebefradil と NSAID の
bromfenac sodium と1年以内に5つの大型商品が撤退した.その5年前,1
9
9
2年に処方箋薬
ユーザーフィー法
(Prescription Drug Users Fee Act;PDUFA)が議会を通っていた.企業が
資金を US-FDA に提供し,スタッフを増員するなどして新薬の審査プロセスを効率化し早め
ようとしたものである.米国では1
9
80年以後,1
3の薬剤が市場撤退していたが,上記の急速
な数の増加から,この PDUFA による審査の適切であるかの疑念が生じた.この1
9
9
8年前後
の US-FDA の Friedman ら
(1
9
9
9)
の研究によれば,承認時期で市場撤退の割合に違いはなく,
8)
なお,この論文には治験参加者数,承
審査と市販後調査のシステムは適正であるとされた.
認に要した月数,撤退までにその薬剤を服用した患者の数などが示されている(表2).
Lasser ら(2
0
0
2)
は,19
7
5∼1
99
9年 に FDA で 承 認 さ れ た54
8種 の 新 規 化 合 成 分(new
chemical
entity)
から,5
5種
(8.
2%)
が警告
(black box warning),1
6種
(2.
9%)
が市場撤退し
たとしている.Kaplan-Meier 法を用いた生存時間解析により,2
5年間で2
0% が市場から撤
去ないしは新たな警告を受け,4% が市場撤退し,その半分は市販後2年以内に起きるとして
9)
なお PDUFA に対する懸念は根強く,Okie
(2
0
0
5)
は,1
5年前は新薬はまず米国外で承
いる.
1098
ファルマシア Vol.43 No.11 2007
表1 安全上の理由でグローバル市場から撤退した34種の医薬品
(1
9
9
0∼2
0
0
4)
撤 退 年(日 本
での撤退年)
医薬品名
ジレバロル(dilevalol)†
1
9
9
0
1
9
9
1
トリアゾラム
#
(triazolam)
1
9
9
1
テロジリン
(terodiline)†
エンカイニド
1
9
9
1
†
(encainide)
フィペキシド(fipexide)
1
9
9
1
1
9
9
2
テマフロキサシン
(temafloxacin)†
ベンザロン(benzarone)†
1
9
9
2
1
9
9
3
レモキシプリド
†
(remoxipride)
アルピデム(alpidem)†
1
9
9
3
1
9
9
3
フロセキナン
†
(flosequinan)
ベンダザック(bendazac)†
1
9
9
3
ソリブジン(solvidine) 19
9
3
(1
9
9
3)
1
9
9
6
クロルメザノン
(chlormezanone)†
トルレスタット
1
9
9
6
†
(tolrestat)
ミナプリン(minaprine)†
1
9
9
6
#
1
9
9
7
ペモリン(pemoline)
1
9
9
8
デクスフェンフルラミ
†
ン(dexfenfluramine)
フェンフルラミン
1
9
9
8
(fenfluramine)†
テルフェナジン
1
9
9
8
(2
0
0
0)
(terfenadine)
撤退理由
医薬品名
撤 退 年(日 本
での撤退年)
肝毒性
神経精神反応
(neuropsychiatric reactions)
QT 間隔の延長と TdP
19
9
8
ブロムフェナク
#
(bromfenac)
エブロチジン(ebrotidine)†
19
9
8
19
9
8
セルチンドール
†
(sertindole)
不整脈
(proarrhythmias) ミベフラジル
19
9
8
(mibefradil)†
肝毒性
低血糖症,溶血性貧血,腎
不全
トルカポン(tolcapone)†
19
9
8
肝毒性
アステミゾール
1
99
9
(1
99
9)
再生不良性貧血
(astemizole)
19
9
9
トロバフロキサシン
肝毒性
†
不整脈が原因と考えられる (trovafloxacin)
グレパフロキサシン
19
9
9
超過死亡
†
(grepafloxacin)
肝毒性
トログリタゾン
20
00
(20
00)
薬物相互作用後の骨髄毒
肝毒性及び深刻な皮膚反応 (troglitazone)
アロセトロン(alosetron)†
20
0
0
シサプリド
(cisapride) 2
00
0
(2
00
0)
肝毒性
ドロペリドール
#
(droperidol)
レバセチルメタドール
†
(levacetylmethadol)
セリバスタチン
心臓弁膜症と肺高血圧症
(cerivastatin)
薬物相互作用,QT 間隔の ロフェコキシブ
†
(rofecoxib)
延長,TdP
20
0
1
痙攣
肝毒性
心臓弁膜症と肺高血圧症
20
0
1
2
00
1
(2
00
0)
20
0
1
撤退理由
継続的投与後の肝毒性
肝毒性
QT 間 隔 の 延 長 と TdP の
可能性
薬物相互作用後のスタチン
誘起型横紋筋変性,さら
に TdP のリスクを含む,
その他の薬物相互作用の
危険性に関する懸念
肝毒性
薬物相互作用,QT 間隔の
延長,TdP
肝毒性
QT 間隔の延長と TdP
肝毒性
虚血性結腸炎
薬物相互作用,QT 間隔の
延長,TdP
QT 間隔の延長,TdP
薬物相互作用,QT 間隔の
延長,TdP
薬物相互作用後の横紋筋変性
心筋梗塞及び脳卒中
†:日本で発売されなかったもの. #:日本で販売継続のもの
(ブロムフェナクは点眼剤のみ継続)
.
表2 1
9
9
8年前後に米国で撤退した医薬品の治験から撤退までの審査プロセスと患者数
薬剤名
治験
参加者数
NDA
審査に要し
た月数
承認年
撤退年
販売月数
市販後服用した
患者数
Terfenadine
Fenfuramine
Doxfluramine
Mibefradil
Bromfenac
5,
0
0
0
34
0
1,
2
0
0
3,
4
0
0
2,
4
0
0
1
98
3
1
9
67
1
9
93
1
996
1
9
94
2
6
7
5
3
5
1
5
2
8
19
85
19
73
19
96
19
97
19
9
7
19
9
8
19
9
7
19
9
7
19
9
8
19
9
8
15
2
29
0
1
6
1
1
1
1
7,
5
0
0,
000
6,
9
0
0,
000
2,
3
0
0,
000
6
0
0,
000
2,
5
0
0,
000
PDUFA 導入は19
9
2年.
認されていたが,現在では FDA のスピーディな審査により6
0% 以上がまず米国で承認され,
1
0)
米国人は実験台
(test population)になっているとしている.
他にも新薬審査と安全性に関して問題点を提起した論文は多い.また保健福祉省監督局や会
計監査院の調査報告,さらに Kennedy,Markey,Hinchey,Waxman らの議員がそれぞれ FDA
審査体制などの改革法案を提出している.そのなかには臨床試験の登録の義務化なども含まれる.
PDUFA は期限付きの法律で,PDUFAⅠ,Ⅱは手数料を市販後の安全性調査に回すことはでき
なかったが,PDUFA III はできるようになっている.また欧州と同じく,医薬品のリスクマネ
ジメントのガイダンス作成が含まれた.本年2
0
07年1
0月からは PDUFA Ⅳもスタートした.
6
医薬品の副作用による市場撤退 (3)
日本の研究
日本におけるこの領域の研究は,
「薬害」
の糾弾という形をとることが多かった.片平は,著
Vol.
43 No.
11 2007 ファルマシア
1099
書「構造薬害」
(1
9
9
4)
で1万人を超え当時世界最大の被害者を生んだスモンと,薬害エイズを
取り上げている.「安全性軽視の資本の論理」の力が「安全性重視の保健医療の論理」を上回
1
1)
前者の原因であったキノホルムは撤退したが,後者は血
ることによって生ずるとしている.
液製剤に混入していた HIV によるものである.
浜
(1
9
9
6)
は,1
9
6
7年以降承認された薬剤のうち問題になったものを4
4種リストし,対策を
1
2)
中止,使用中止,実質的使用中止,販売一時中止,中止すべき,厳重注意などに分類している.
1
9
7
9年の薬事法の改正のあと,有効性も安全性についても優れた薬剤が承認されるはずであっ
たが,1
9
8
0年以降「問題薬」が多く承認されるようになったとしている.
一方,海外で中止された医薬品の国内状況の調査として浦野ら
(2
00
4)
は,WHO,US-FDA,
欧州医薬品審査庁
(EMEA)
,英国医薬品庁
(MCA)の website を2
0
0
2年までについて調査し,
販売中止措置情報を3
0
9種同定した.そのうち「副作用等安全性の理由による販売中止医薬品」
は9
1種であった.これらのなかで日本国内で同一成分が販売されているものは2
0種類であり,
そのうち1
8種については海外で問題となった点について添付文書で注意喚起や情報提供など
の安全対策が実施され,残りの2種については海外で問題となった剤形や適応がないとしてい
1
3)
1
4)
本年2
0
0
7年に,その update も発表されている.
従来,市販後安全性の研究は消費者
る.
サイドの研究者によるものが主であったが,国の研究機関で医薬品の市販後安全性に関する研
究がなされ公表されるようになったのは,納税者としては喜ばしい.
医薬品の副作用は長い時間がたってから生ずるものもある.その後も,注射器の使い回しに
よる B 型肝炎や,汚染された血液製剤による C 型肝炎など,薬剤本来の作用よりも医療技術
の未熟さや不適正使用による副作用が多数報告され,訴訟が続いている.これらは,先の欧米
での市場撤退に追い込まれた薬剤とは異なる局面で生じたものである.
7
撤退に伴う患者と企業にとっての負担
薬の撤退は,副作用が発生しなかった患者までもがその薬の利益を得られなくなることを意
味する.例えばテロリジンが英国で撤退した際は,数多くの患者と医師らが英国の規制当局に
対し,特定の患者には当該薬を提供するよう求める陳情書を提出した.ペルヘキシンが撤退し
た際も同様の動きが見られた.抗狭心症薬であるペルヘキシンは,他の薬には反応しない患者
や冠動脈バイパスを受けられない患者において非常に大きな効果を発揮した薬であった.過敏
性腸症候群の治療薬であるアロセトロンが米国で撤退した際には,患者団体などの強い要望も
1
5)
あり,厳密な投与プログラムを設定することを条件に再度販売されることとなった.
薬の撤退は製薬会社にとって大きな痛手である.新薬開発にかかるコストを正確に推計する
1
6)
これは開発に要したコストの総
ことは難しいが,20
0
1年では約9
0
0億円と推計されている.
額であり,開発初期の失敗にかかったコストも含まれているが,市場撤退によりいかに膨大な
投資損失が発生しうるかを示している.
8
医薬品副作用と訴訟
副作用は訴訟という形で医療資源に更なる負担をかける.英国では,1
9
9
8/9
9年の訴訟費用
は8
0
0億円で賠償責任金額
(expected potential liability)
は4,
8
0
0億円となると予想されている.
製薬会社に対する訴訟件数は増加傾向にある.米国では,先にも触れた抗肥満薬の「フェンフェン」
(fen-phen)による心臓弁膜症のケースがよく知られている.Fenfluramine
(Pondium)
と phentermine の併用,また dexfenfluramine
(Redux)と phentermine の組み合わせもあるが,
双方とも適応外
(off-label)の使い方である.Fenfluramine は,アメリカンホームプロダクト社
1100
ファルマシア Vol.43 No.11 2007
表3 トログリタゾンの撤退の「負担」
企業
撤退年
年間売上げ
服用した患者数
英国
日本
米国
GSK
1
9
9
7
三共
Mar.
20
03
1
30億円
9
0,
0
00人
Parke Davis/Warner-Lambert
Mar.
2
00
3
9
00億円
(US$8
00mil)
7
50,
00
0人
http://www.somos.co.jp/news/news2
0
00
03.htm
が dexfenfluramine はその子会社のワイス社が販売しており,2
0
0
6年9月の時点でアメリカン
ホームプロダクト社は5万件以上の訴訟で2兆3,
1
0
0億円の賠償金を迫られたとされる.なお
fenfluramineとその誘導体が中国産の「御芝堂減肥膠嚢」などの名称の漢方薬もどきの「やせ薬」
に混入され,インターネットで購入して日本でも使われ4人が死亡したことでも有名である.
1
7)
では,申立人が4,
0
0
0人以
バイエル社のセリバスタチン
(cerivastatin,Baycol,Lipobay)
上,賠償金額は5,
7
0
0億円に達すると推定されていた.その後,約3,
0
0
0件で和解が成立した
が賠償金額は1,
2
0
0億円を超すとされている.まだ和解に達していないケースが,確認されて
いる限り2
0件弱残っている.
2
0
0
4年9月にメルク社が,COX-2選択的阻害薬 rofecoxib
(Vioxx)
を撤退した.米国では1
9
9
9年の承認後,撤退するまでに2,
00
0万人が服用していた.2
0
0
7年
4月現在,約1万4,
0
0
0件の訴訟が起き,賠償金総額は1∼5兆円と予想されている.こうし
た巨額の賠償金は企業の経営基盤を揺るがしかねない.ブロックバスター薬の場合,この賠償
金の総額は,先に表2にも示したが服用患者数の多さにもよっている.表3には,日本の企業
1
8)
が開発し撤退した例として,トログリタゾン(troglitazon,Noscal,Rezulin)のケースを示す.
日米あわせて1,
0
0
0億円の売り上げの数値も大きいが,服用患者数も1
0
0万人と大きい.
これらのケースは,
「資本の論理」により拡大した日本の「薬害」とはやや異なる構造を持っ
たものである.Wood は,より安全で価値のある薬を企業に提供させるには,長期的な安全性
を示した薬剤,実薬対照
(head-to-head comparison)
のフェーズⅣ臨床試験を行った薬剤,ニー
ズは高いが開発のリスクも高い薬剤にはより長い市場独占権
(exclusivity)を与える.一方,代
替エンドポイントを用いた臨床試験のみの薬剤には短い市場独占権を与える,という方法を提
1
9)
いかにも米国らしい,この経済的インセンティブを用いた「経済的ダーウィズ
案している.
ム」
(economic Darwisms)に基づく方法は,市販後の安全性の問題を背景に生まれたものであ
る.むしろ,そこでは「資本の論理」をつかって医薬品の価値を高めようとしている.
9
市場撤退と再登場
「価値に見合ったお金」
(money for value)
は「革新的」
(innovative)
医薬品に高薬価を期待する
企業によって謳われるが,
「お金に見合った価値」
(value for money)が社会の立場からは求め
られる.価値には,ポジティブな有効性もあればネガティブな副作用もあり,その総体である.
コストは直接コストと間接コストの総体であり,このコストとのバランスで薬の価値は決まる.
これまで述べてきたように,副作用は患者のみならず,更に広く社会の様々なセクターに負
担をもたらす.ファーマコジェネティクスはこの負担を軽減するものとして,またいったん撤
退した薬を再登場させるものとしても期待されている.しかしそれが十分に効果を発揮するに
は,今しばらく時間がかかりそうである.市販後に副作用を発生した症例
(case)
と発生しない
症例
(control)
を用いた case―control study により,副作用と関連ある遺伝子を検索するために,
治験段階でのサンプル・リポジタリーないしサンプル・バンキングが,2
00
0年前後から行わ
れるようになった.だがこのシステムが有効に働いた例は今のところ見当たらない.
Vol.
43 No.
11 2007 ファルマシア
1101
また,サリドマイドの例に見られるように市場撤退した後,全例登録などの安全対策の制度
とともに再登場する場合もありうる.ユーザーにとってのアクセスの観点からは,
「市場撤退」
(marketing withdrawal)と1つのカテゴリーで捉らえないほうがよいかもしれない.通常「市
場撤退」は,製薬企業による「自発的市場撤退」
(voluntary withdrawal)を指す.薬事行政当
局との「協議」や「要請」に基づくことが多い.この場合,事後的に「承認取下げ」がなされ
ることが多いようである.一方,薬事法に基づく医薬品行政の立場からは「承認取り消し」
(第
7
4条の2,cancellation of approval.実質的には撤回 revocation.なお,米国 FDA では withdrawal of approval)
や,危害拡大の防止のための緊急命令としての「販売の一時停止」
(第69
条の3,suspension of marketing)
の制度がある.双方とも「薬害スモン」を契機に1
9
7
9年に
改正された薬事法で取り入れられたものである.
インフルエンザ罹患後の異常行動におけるオセルタミビル
(oseltamivir,Tamiful)のように
その「価値」が定まらない薬はこれからも登場しよう.有害事象の発生要因についての十分な
データがあれば,適切な注意喚起を行ったり使用制限を行うことで薬の価値を保つことが可能
であるが,すぐにはそのようなデータを集めることが困難な場合もある.そのような場合,自
主的な「販売の一時停止」はもっと使われてよい方法かもしれない.行政による「緊急命令」
ではなく,
「協議」や「要請」を含めた企業による自らの判断により,エビデンスが「つくら
れ」
,より合理的な判断ができるまで販売を一時停止するのである.そこでは,リスク・ベネ
フィット・バランスの判断が基本となるが,エビデンスを「つくる」ための監視
(vigil)する制
度,また得られたエビデンスの透明性
(transparency)を維持した上で議論し,社会的受容がな
されるための「場」の設置が望まれる.
10 おわりに
医薬品に副作用が生じた場合の種々の負担について述べてきた.このうち「市場撤退」する
薬はそれなりに多く,企業にとって開発に要した投資,売り上げの消滅,さらには訴訟と負担
が大きいものである.ファーマコジェネティクスは現時点では,まだこれらを解決する手段と
はなっていない.副作用が社会的な問題になったときには「続行か撤退か」だけの判断ではな
く「販売の一時停止」もありうる.そのための制度設計の議論が望まれる.
本稿作成にあたり協力を得た,片平洌彦,齋藤充生,寺岡章雄,井上雅夫,池田秀子の各氏にお礼申し上げる.
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ファルマシア Vol.43 No.11 2007