Title Author(s) Citation Issue Date コンテンポラリーダンスにおけるポストモダンダンスの 重要性について( fulltext ) 秋葉, 尋子 東京学芸大学紀要. 芸術・スポーツ科学系, 58: 105-112 2006-10-00 URL http://hdl.handle.net/2309/63373 Publisher 東京学芸大学紀要出版委員会 Rights 東京学芸大学紀要芸術・スポーツ科学系 58 pp.105∼112,2006 コンテンポラリーダンスにおけるポストモダンダンスの重要性について 秋葉 尋子* 舞踊 (2006年6月30日受理) 1、はじめに モダンダンスとコンテンポラリーダンスは、どのように解説したらわかりやすいかについていろいろと議論されている が、一説にはこのようなものもある。モダンダンスが大部分でバレーがその作品の一部である場合コンテンポラリーダン (1) スと捉えていいのではないかとする考えである 。逆に、バレーが大部分でモダンダンスが作品の一部であった場合はモ ダンバレーと考えるということになる。クラッシックバレーはクラッシックバレーである。バレークラッシックとバレー モダンという言い方を批評界ではしているが、一般的にはクラッシックバレーとモダンバレーという言い方で通じる。 これらのことは、伝統と近代あるいは現代との共存による洋舞界の現状であるともいえよう。欧米はむろんのこ と、わが国におけるバレーのお稽古場は多く、ダンスのジャンルを問わなければ舞踊関係のお稽古場は無数にある といっても過言ではない。わが国は少子化といわれて久しいが、お稽古場に所属する子供たちの数が減少したとは いえ、お稽古場自体はなくならず、中高年対象に変身して生きのびているところもある。そもそもバレーの始まり とも言われているフランスにおいてもパリのオペラ座をはじめとして地方の各地にオペラ座があるが、だいたい専 属のバレー団があり、オペラやクラシックバレーを中心として公演が展開されている。 しかし、リヨンのオペラ座のようにクラシックだけでは、客足が伸びずコンテンポラリーダンスの導入によって、 再び劇場が活性化したという例もあり、バレー団のメンバーによってコンテンポラリーダンスの作品を踊って注目 されている。人気のある振付師によって、団員も新しい挑戦をし、バレー団の発展に貢献することによって、マン ネリになっていた状態から脱出し、客足が戻り満員盛況という結果をもたらしている。振付師はヨーロッパで人気 があり、実力もある人が就任している。ダンサーの年令は、中高年を含め幅広くなっている。 リヨンのオペラ座を例にして考えてみると、そのきっかけとなった舞踊家はマギーマランであった。フランスの舞 踊家であり、ユーモラスで彼女独特のフィーリングを持っている作品を持つ個性豊かな振付師である。マギーマラン の作品は、若くなくてはできないとか、バレリーナのようなやせ細っていまにも折れそうなイメージの身体像ではな く、安産型のようながっしりした腰をもつお母さんや、お相撲さんのようなどっしりと体格のよいスタイルのダンサ ーによる群舞が舞台で展開され、器用に踊っている情景は、他の誰もまねのできるものではない。 最近のコマーシャルにマギーマランの作品にみられた肌色のボディースーツの中に詰め物をした、ユーモラスな スタイルを作り、リズミカルな音楽でラジオ体操を真似たダンスを数人で踊っていたものがある。見始めは、マギ ーマランの真似であると思ったが、全く異なっていた。ぬいぐるみのような衣裳で30分動くと汗だくになるので、 1時間近く踊り続けるマギーマランの作品においては、どれほどダンサー達が大変であったであろうか。ボディー の動きはもちろんのこと、顔の表情も決して苦しそうではなく、むしろ楽しんでいる余裕すら感じられた。これが、 * 東京学芸大学(184-8501 小金井市貫井北町4-1-1) ― 105 ― 東 京 学 芸 大 学 紀 要 芸術・スポーツ科学系 第58集(2006) プロのダンサー魂というものであろう。30代ダンサー達を中心とする作品の自信すら感じられた。 2、パリオペラ座とピナバウシュの「春の祭典」 パリのオペラ座においてピナバウシュの春の祭典がとりあげられ、バレーダンサーがこれでもかと挑戦した公演 が、良きにつけ悪しきにつけ話題になった。舞台全体に土が敷かれ、その上で激しいダンスが繰り広げられるので ある。慎ましやかなバレリーナ達が、一転して全身を波打たせてダイナミックに動き回るのである。パリのオペラ 座の白鳥の湖は、エトワールはむろんのこと、群舞の完成度が高いことで有名であるが、あの白鳥たちが、生の男 と女になって動きまわる姿は、誰も想像できなかったことである。ピナバウシュのみがその成功をみとうす力があ ったに違いない。相手がバレーダンサーであることに少しの遠慮もなく、自身の作品をぶつけたことは、舞踊界の 革命といっても過言ではない。このことで、オペラ座が話題騒然としたことは、言うまでもない。作品は最初に悪 評であったが、ピナは、若いダンサーの圧倒的な支持を得ていたのでのりきることができた。 (2) 楠田江里子は、その著書「ピナバウシュ中毒」 の中で、1975年の初演は、大スキャンダルとなりその開放され た性の表現に震撼とした観衆により、ほとんど暴動にまで発展する事態に陥ったことがあったと述べている。楠田 が何度か観ている中で、そのパリオペラ座での公演は、いつもと少し印象が違い、興味深いものであったそうであ る。パリオペラ座のメンバーによる動きはきれいに整いすばらしい舞台であったのだが、タンツテアター・ヴッパ タールによる「春の祭典」のほうが、それぞれの人間の泥臭いほどの肉体の表現が、より強く生々しく出ているよ うな気がしたのだそうである。ピナバウシュは、人を動かす大もとに存在する理由や意味、衝動に着目することが 重要だという考え方を持っているとのことである。ブッパタールでは、細かく設定を変えて、無数のやり方を試み ているそうである。 このことは、日本でのピナバウシュ20周年の国立劇場公演プログラムの挨拶を書いた吉川周平 (3) が、ブッパター ルのメンバーである日本人の市田京美も同様のことを述べているということをインターミッションで、筆者に語っ ていた。それは、 「カーネーション」も同様でいくつものタイプのものがあり、ブッパタール以外で公開されるのは、 それらのほんのひとつの作品であるとのことである。どの作品にも無数のやり方を試みていることが十分考えられ る。“人がどう動くのではなくて、何が人を動かすかだ”というのが、ピナの有名な言葉である。パリオペラ座のメ ンバーは、バレーの動きをいかに完璧に完成度高くやるかについて追求しているといっても過言ではない。そのよ うな状況から、美しいというより、醜い動きを展開することになったら、パニックになるのが通常であろう。やり きれたことが革命的なことであり、オペラ座のダンサーは、内から噴出す何かがなければ動けるものではない。動 きの頂点を極めたもののみができることである。 イリキリアンのようないかにもスマートなコンテンポラリーダンス作品 (4) ではないピナの作品でオペラ座が騒ぎ になったということは、望んでいたとはいえひとえにバレーのメッカであったペラ座のメンバーに激震が走ったと いうことに違いない。そもそもパリオペラ座のバレーダンサーたちは、ピナバウシュに関心が大変あり、彼女の作 品を踊ることにあこがれていたというのも驚きに値することである。パリオペラ座のダンサー達は、バレーはもち ろんのことコンテンポラリーもこなすことが出来る実力があることは、現在では疑いのない事実であるが、その時 には思いもよらないことであったにちがいない。 トウシューズを脱ぎ捨てることに、バレーダンサーがどれほど精神的肉体的厳しさを感ずることであろうか。パ リオペラ座のダンサーが卓抜したメンバー達であることが証明されたとも言える現象であった。 3、パリオペラ座とポストモダンダンス パリオペラ座とポストモダンダンスの関連については、カロリンカールソンの活躍があげられる。現在では、カ ールソンの弟子達の活躍が目覚しく、ポストモダンダンスというよりもコンテンポラリーダンスをやっているとい う認識のほうが一般的になっている。しかし、ポンピドーセンターのビデオダンス部門の責任者であるミシェル・ バルグは、カロリンカールソンはポストモダンダンスであると述べている。最近のカロリンカールソンの活躍は、 (5) 映画の「オーロラ」 であるが、パリオペラ座で上演されたバレー作品の「眠れる森の美女」を、コンテンポラリ ーダンスの振り付けで展開するというものであった。現在のオペラ座の舞台では、バレー以外はポストモダンダン ― 106 ― 秋葉:コンテンポラリーダンスにおけるポストモダンダンスの重要性について スというよりコンテンポラリーダンスをやっているという印象である。レギュラーのカロリンカールソンはもちろ んのことであるが、ゲスト振付師の人気も上昇し、特にピナバウシュがパリオペラ座のダンサー達に関心が持たれ ているということは、ポストモダンダンスとの共存あるいは、フランス独特のダンスコンテンポランヌを展開して いるといえるのではないか。ヌーベルダンス、ダンスコンテンポランヌというフランス語の表現は、コンテンポラ リーダンスのことであると思われる。フランス語で表現されるようになるまでは、ニューヨークのモダンダンス、 ポストモダンダンスの影響が大きく、バレー以外のフランス独自のダンス展開が議論されるまでには、月日を要し たのはいうまでもない。コンテンポラリーダンス、ヌーベルダンス、ダンスコンテポランヌは、ポストポストモダ ンダンスとも言えるのではないだろうか。 パリオペラ座について議論する以上、かつてパリオペラ座の監督をしていたルドルフ・ヌレエフの活躍について も述べておかなくてはならない。ニューヨークのマーサグラハム舞踊団での活躍により、ヌレエフのモダンダンサ ーとしての実力が展開されていたが、パリのオペラ座のヌレエフは、バレーの振り付けや監督が活躍の主なもので あった。パリオペラ座葬で送られるほどオペラ座にとって重要な人物であるヌレエフの遺産は、現在もバレーの作 (6) 品の中で健在である。2005年暮れのパリオペラ座公演で話題を呼んだヌレエフ版「白鳥の湖」 は、3ヶ月後に東 京文化会館で展開されたのであるが、その完成度の高さは、さすが世界一のものであると絶賛された。ヌレエフ存 命の時からみれば、メンバーの大半がすでに退団しているという状況の中で、完成度の高さを維持するのは、たと えプロといえど並大抵のことではない。ソリストは無論のこと、白鳥の群舞にいたっては、比類がないほど完璧で ある。日本語で表現すると“すごい”という言葉が、東京文化会館に飛び交っていた。その知名度や完成度の高さ は、専門家のみならず日本の主婦層の観客をも納得させてしまう素晴らしさが存在していた。 日本のバレーは、ソリストについては、世界的なダンサーは存在するが、群舞においては、とてもパリオペラ座 にはかなわないというのが実情である。全体的にレベルはあがっているが、まだまだ課題が多い。ましてや、バレ ー団のモダンダンス、ポストモダンダンス、コンテンポラリーダンスという作品の上演となると希少である。バレ ーダンサーがコンテンポラリーダンスをこなすというレベルに到達するのには、根本的な理解を深めていかなけれ ば、日本で実現するのは困難な状況である。ローザンヌのコンクールを除いてバレーとモダンは別物であるという 認識が一般的なのが日本であるとも言える。わが国はアマチュアのダンサーがほとんどであり、やっとプロのバレ ーダンサーが成り立ち始めたところである。新国立劇場やKバレーカンパニーのバレー団の上演が、いつかはパリ オペラ座のようになっていくことを期待したい。コンテンポラリーダンスによる展開が、バレー団を救うというこ とが近い未来に日本にも起こるに違いない。 4、ポストモダンダンスにおける行為のルールと若年性認知症の動きの共通点 本年、日本で「明日の記憶」という作品が著書や映画で話題を呼んでいる。64歳以下の認知症を若年性というの であるが、20代でも発症するという現代病といってもよいものである。男性が女性の2倍発症するというデーター が最近の報告でなされている。企業戦士であった男性が、ある日突然記憶を失うというものである。はじめは本人 にも自覚症状があり、周囲が変化に気ずき、会社をやめざるをえなくなるという現代の問題でもある。その症状の 中で、家の同じ場所を何度も掃除をするというような繰り返し同じ行動をするまでに進行し、ついに近親者の名前 も忘れ病気が確実になる。 このことを知って直感的にポストモダンダンスのルールに同じ運動を繰り返して行うということに共通項がある ことに気付いた。無意識的と意識的の違いがあるが、客観的にみると似ているところがある。病気では困った行動 であるが、ポストモダンダンスでは、あえて日常的な動きを繰り返す行為をする。繰り返すことによって、動きが 強調され、ケースマイケルのようにいつまでも円のまわりを歩き続けるという行為によって作品を成立させている 場合もある。病気の場合は、主として日常生活の行為であり、ポストモダンダンスの場合も日常の行為を大切にし ている。日常の行為というと、日常生活の場面で見られる行為も当然含まれる。ケースマイケルの砂上を歩くこと によって円を描くという作品も同じ動きの繰り返しによるものである。また、ピナバウシュのカーネーションとい う作品にみられる、手話の動きを繰り返しながらダンサーが列をつくって歩くという行為がそれにあたるといえよ う。ふたりの舞踊家をポストモダンダンスの中にいれるかどうかについては、議論の余地があるが、意識的あるい は無意識的にかかわらずポストモダンダンスのルールを踏まえてコンテンポラリー作品の動きが成立していると考 ― 107 ― 東 京 学 芸 大 学 紀 要 芸術・スポーツ科学系 第58集(2006) えられる。ピナやケースマイケルは、ポストポストモダンダンスの舞踊家であるともいえよう。あるがままの時間 を受け止めることもポストモダンダンスの特徴であり、認知症の記憶を失っていくプロセスにおける時間経過の受 け止め方も、あるがままの時間を受け止めていると表現できる。 ケースマイケルやピナバウシュの作品には、エンドレスに感じられる作品がある。インドの寺院でのパフォーマ ンスや日本のお神楽のように、夕方から夜にはじまって一晩中踊りというより行為に近いものが行われ明け方にな ってようやく終わるというものである。中には明け方でもまだ終わらず何日にもわたって継続されるというものも ある。ポストモダンダンスというものを知っていれば認知症にかかっても落ち込みかたが違ってくるのではないだ ろうかと思うほど類似点がある。現代においてダンスがあらゆる意味で流行していることを考えれば、踊ることに よって認知症の症状が軽くなったり進行を遅くすることは、十分考えられることである。 いろいろな施設でダンスが治療に活用されていることは納得のいくことである。音楽を伴った動きで展開されて いる場合が多いが、楽しみながらさまざまな症状の回復にダンスの活用がなされ、繰り返す行為が悪いことではな いことを知る。同じ動きを繰り返すことによって、心がやすらぐということがあり、それを見ていることによって 眠りを誘うような安心感を覚えるということもある。認知症の治療だけでなく、周囲の対応にもあるがままに受け 止める姿勢が必要であり、同じ動きを繰り返してはならないと怒鳴ったりしてはいけないということである。共に 記憶を失っていくという、あるがままの時間 (7) を受け止めて生きていく以外にないのである。ポストモダンダンス の作品も行為者と観客が場を享受して、あるがままの時間を過ごしていくところに意味があるのではなかろうか。 その時間は苦痛を伴ったり、安らかな癒しを感じ、共に生きているという実感がする瞬間でもある。 5、ビデオダンスの日仏比較 フランスのパリにおいて毎年1、2月に24年継続しているポンピドーセンターのビデオダンスを、日本でも開催 しようという日仏合同のビデオダンスが2006年5月、埼玉彩の国芸術劇場で展開された。ビデオダンスの画期的な 企画である。財団法人埼玉県芸術文化振興財団の佐藤まいみ (8) というエネルギッシュなプロデューサーの情熱によ って、立ち上げられた。フランスと異なって国の補助のほとんどないところからボランティアの大学院生達の協力 によって通訳がなされ、フランスのビデオを観客が理解しやすく訳している点では脱帽に値し、その努力と実行の 姿勢に感心させられた。映像とはいえ通訳の存在が大きく、舞踊の国際会議をやっているようであった。フランス 国立ポンピドーセンターのビデオダンス責任者のミシェル・バルグが、日本には流暢なフランス語で話のできる人 が多くいることに驚いていたほどである。 会場の規模等については、フランス国立ポンピドーセンターは、開放的であるのに比べて、日本の埼玉県芸術劇 場の映像室は閉ざされた会場という違いがあった。これは、有料であるか無料であるかによることも大きいと思わ れる。パリは無料で埼玉は有料で開催された。ポンピドーセンターの地下で展開されているビデオダンスは、中央 に大画面が2つ連続して大迫力を出し、舞台と客席は横広がりに作られている。 ポンピドーは、出入り自由で、隣室にも大き目のビデオが備え付けられ、好きなスタイルで鑑賞できるようになっている。 また、それだけでなく10台から20台のビデオが周囲のフロアーに設置され、あらゆる角度から見ることができるようにな っていることが、開放感を感じさせるところでもある。観客は寝そべってみていたり、家族づれであったり、旅行客だった りする。多様な観客層によって見られ、一般に開放されていることが実感される。一方、彩の国芸術劇場は、同じ地下では あるが、映像室という閉鎖的な空間に詰め込まれているような感覚である。混んでいるときは、咳もできないぐらいに緊張 した空間であった。はじめてということもあるが、舞踊関係者も多く、一般に開放されたという感じはない。 日本のビデオダンスの閉塞感は、写される舞踊作品が絞られているため、1作品1作品が長くハードであるためと も言える。フランスのほうは、比較的1作品が短いものが多く、たまに長い作品があるという印象で、観客の入れ 替わりが自由気ままにできる点が、開放感を生んでいるとも言える。日本では、一度会場にはいると、よほど長い インターミッションのときでないと、会場から出にくいという雰囲気がある。 まじめな観客が不動なスタイルで見ているという印象である。初めての驚きもあるであろうが、芸術に対する構 えが異なっているのかもしれない。パリは国際的観光都市であるから芸術に関しては、空気のようなものといって も過言ではなく、一般の人が気楽に参加できる雰囲気を持っている。一方、日本の埼玉では、国際的観光都市の芸 術規模としては、パリには及ばないところがあり、どうしても開催するだけで精一杯であり、空気のように当たり ― 108 ― 秋葉:コンテンポラリーダンスにおけるポストモダンダンスの重要性について 前に存在するという状況にはないのが実情である。 さらに、内容になると日本の暗黒舞踏は、取り上げられたビデオダンス作品の半分近くを占めているにもかかわ らず、盛り上がらない。フランスでは、大野一雄の作品映像は、他と比して一段と盛り上がるのに、日本で取り上 げられている暗黒舞踏は気の毒なくらいに暗く重い雰囲気である。極端に言えば、フランスの作品は見るが、暗黒 舞踏の放映される日になると来ないというのが、日本の舞踊の一般的観客の動きであるといえる。フランスでは、 暗黒舞踏だからと分け隔てなく、むしろ抜群の存在感で観客に感動を与えている。 6、ビデオダンスにおけるメリー・ビッグマンとルドルフ・ラバン す で に こ の 世 の 舞 踊 家 で は な い メ リ ー ・ ビ グ マ ン や ル ド ル フ ・ ラ バ ン が 舞 踊 の 現 役 と し て、 現 代 の 観 客 にアピールできるというメリットがビデオダンスにはある。フランスでは、メリー・ビグマンを取り扱っ ているが、日本ではまだそこまで及んでいない。日本ではメリー・ビグマンは、舞踊史上の人物である。 ポンピドーのプログラムの中ではメリー・ビグマン (9) は、目立つ存在である。現役の舞踊家にまだ影響力 がある。日本では、大学等で学ばない限り、メリー・ビグマンが、どういう人物かについて知る人は少な い。邦正美の著書等で写真をみることはあっても、実際に踊っている姿をフィルムで見ることはない。現 役の舞踊家や一般の観客にとって、メリー・ビグマンは、遠い存在である。日本にとって、2006年はドイ ツ年であり、ドイツから表現主義の舞踊家が来日して公演を行っているが、そのルーツについて深く考え る人は少ない。 日本では2006年に放映された「バルトの楽園」などの映画で日独の交流がわかる。ドイツ体操の選手が ドイツ人の捕虜の中にいたことで阿波の中学生に大回転を見せ教えたりできたが、メリー・ビグマンのダ ンスを教えたり広めたりできる人はいなかった。唯一ドイツ製品の博覧会で、阿波踊りを円陣を組んで踊 るシーンがあることによって、踊りによる交流もなされていたということを知るというだけである。音楽 的には、ベートーベンの第9を初めて演奏したということが重要なこととして記録され、舞踊的には、ド イツ側から日本側に伝えられるものは特になかったようである。もちろん、捕虜に女性がいなかったとい うことも影響している。第9が混声合唱であるのにもかかわらず、男性しかいなかったので、男性合唱に 編成しなおして、歌われたということから、どちらかというと女性によって展開されていたダンスを伝え ることは、男社会ではやりにくかったことと、ダンスをやっている男性が、少なくとも坂東捕虜収容所の 中にいなかったということである。ドイツに舞踊で留学していた日本人が帰国することによって、モデル ネタンツは日本に伝えられたと考えるのが一般的な考え方である。 日本のビデオダンスにとってラバンの映像は重要な位置にある。どんなに現役として活躍している舞踊家の作品 が映写されても、ラバンの作品の映像は、1つのセクションを形成できるほどの価値があり、舞踊の基礎として、 いまだに多くの影響力を持っている。日本のビデオダンス2006では、最終日にラバンについて放映されている。 マリオン・ノース監督による、ラバン ダンスワークス1923−1928(カンマータンツビューネのための作品 (10) 集から再現) である。プログラムではこの映像ドキュメンタリーは1923−28年の期間にラバンが振り付け たダンス作品に光を当てようと試み、ラバン研究の専門家ヴァレリー・プレトン・ダンロップが指導し、ラ バン・センターのスタッフが協力した。歴史資料はほとんど残っていないが、ラバン・メソッドを徹底して 研究することで、カンマータンツビューネ(ラバンが12人のダンサーと結成したダンス・グループ)のため に振り付けた数作が再現された。この貴重な映像資料で、ラバンが理論化したダンスの記号体系と多彩なラ バンのスタイルに触れることができる。 実際に映像を観てみると、ドイツで舞踊の留学生として勉学し帰国した主として男性の舞踊家の作品に 類似していると感じられた。男子のためのダンスを考えたというラバンに学んだ男性の舞踊家にとって、 願ってもない舞踊の師であったに違いない。再現されたラバンの作品のイメージは、男性らしい単純な力 強い動きの連続によって構成され、ドイツから帰国し中心的な活動をした舞踊家は男性が多かった。 ― 109 ― 東 京 学 芸 大 学 紀 要 芸術・スポーツ科学系 第58集(2006) 7、フランスのビデオダンスにおけるポストモダンダンスについて ポンピドーセンターのビデオダンス2006のプログラムによると、ポストモダンダンスのコレオグラフによる作品 が取り上げられている。最もフランスのコンテンポランヌに影響を与えているトリシャ・ブラウンについては、2 (11) 作品取り上げられている。ひとつは、1986年にオペラ座で上演されたビゼーの音楽によるカルメン である。トリ シャなりのカルメン像を描き、女性としてのカルメンに焦点をあてている。もうひとつはトリシャの業績、作品 「ウオーターモーター」について語る、というものであった。 トリシャ以外のポストモダンダンスの舞踊家については、アン・ハルプリン、メレデス・モンクが取りあげられ ていた。アン・ハルプリンに関しては、1996年のアレイン・ブファードとの「アンとのランチ」というタイトルで のコラボレイトであった。アメリカのポストモダンダンスの実像ともいえるプレミアが紹介されている。サンフラ ンシスコの50ものワークショップで、ゲストとしてのアレインとアンによる創作過程に関する映像である。ハルプ リンは、即興によって独自に活動を行っていた。ダンスのテクニックを超えたあらゆる領域の動きを使ったもので、 しばしば劇場外でパフォーマンスを行っていた。彼女の作品は、治療的な意味をもってきており、そこでは、グル ープでの自発的な創作的芸術経験が強調されている。価値は、見る人にあるのではなく、行為者にあるとしている。 ダンスセラピー的な活動であったともいえる。高度に形式化した動きで、この人はダンサーだ、といわなければな らないようなものには興味をもたず、どんな人でもその人の動きを通じてコミュニケーションに熱中した時には、 ハルプリンにとっては一人のダンサーである。 基本は、呼吸に重点を置き、ダンスと人生経験を切り離さないようにし、ダンサーであること以上に一人の人間 であること、まさに実体のある人間であるということを観客に確認し、実感してもらいたいと考えている。人間の メカニズムの過程に、またすべての人間の本質的な能力としての創造性に信頼を持っている。この感覚器官が生き 生きと動くときにのみ刺激され、過程が目的であって、言い換えればそのまま成長するのにまかせておけば、何か が起こり、理知的でなく、自然に適応したことであると考えている。アン・ハルプリンは、自身がガンにかかり、 治療しながらダンスを続けていた。それは、ハルプリンのあるがままの身体そのものの過程が目的であるというこ とになる。 メレデス・モンクについては、ダンス+カメラ、エリス島の2作である。ダンス+カメラについては、マースカ ニングハム等との共作についてドキュメンタリータッチで展開されたものである。マースカニングハムは、ヨーロ ッパのコンテンポラリーダンスに多大な影響を与えた舞踊家である。ポストモダンダンスは、カニングハムの弟子 たちの中から活躍するパフォーマーたちが現出し、カンニングハムはポストモダンダンスの生みの親といっても過 (12) 言ではない。その著書がパリオペラ座で書籍販売されている。モンクの「エリス島」 は、モンク単独の作品であ る。エリス島に旅行に行ったときのことを作品にし、エリス島に住んでいた原住民のことにも触れた、1981年、28 分の作品である。ニューヨークの移民にとって重要な島であったエリス島の原住民に、モンクは興味をもったので あろう。パリのコンテンポランヌにアメリカのポストモダンダンスは、重要な影響を与えていた。 おわりに ポストモダンダンスの系譜としては、アン・ハルプリンの弟子がトリシャ・ブラウンである。ポストモダンダンス の系譜としては、トリシャ・ブラウンはハルプリンの元からニューヨークに来て、ジャドソン・ダンス・カンパニー の創立メンバーとなった。数年後、彼女自身のカンパニーを設立し、1970年、法人組織にしている。同年、ブラウン は、即興的なダンスシアター・カンパニーであるグランド・ユニオンの創立メンバーにもなった。このような経歴を 見ると、トリシャは組織的な能力があり、コンテンポラリーダンスに最も影響を与えたポストモダンダンスの舞踊家 であった。また、ダンスの考えや能力はもちろんのことであるが、チーム形成能力もあり、リーダーシップ能力もあ ったといえる。トリシャのダンスでは、非日常的な環境のなかで、日常的動きが使われている。たとえばニューヨー ク・シティの屋根の上で行われたり、湖の浮き桟橋で、また壁の上で行われたりした。ブラウンが求めていたものは、 自然に、よく調整された、動くという本能的な能力を持った人であり、そのときにすべてのダンスボキャブラリーが 開かれたのである。あらゆる動きが、コレオグラフィーに利用できた。 ― 110 ― 秋葉:コンテンポラリーダンスにおけるポストモダンダンスの重要性について たとえば、先に述べた壁の上でのウオーキング・オン・ザ・ウォールでは、足元で歩いたり、立ったりしている パフォーマーの頭のてっぺんを観客が見下ろすという錯覚を与え、重力の法則に逆らって単純な動作を行うことが どういうことなのかを提示し、明らかな見解に基ずいて技巧的作業を行った。このような活動が、コンテンポラリ ーダンスに受け継がれ発展していったのである。フランスのセントレ・ナショナル・ド・ラ・ダンスには、1980年 代に来仏し活動したトリシャのポスターが2006年3月に掲げられている。1987年6月10日に、トリシャの作品「ニュ (13) ーアーク」 が、フランスの国立ダンスセンターに依頼され、アンジェ劇場で公演がなされた。トリシャ・ブラウ ンとセットのドナルド・ジャッドによる、4週間の滞在、ステージやスタジオでの活動が、フランスのコンテンポ ランヌに多大な影響を与えたといっても過言ではない。2006年3月の日本においては、彼女の影響の大きさを示す ように、来日して公演を果たした。トリシャは、現在の各国のコンテンポラリーダンスに影響を与えたと言える。 2005年夏に出版されたDance Research Journal誌の11ページから36ページまで、ブラウンのことがトップにとり あげられているのも、すべては彼女から始まっていることを示していると考えられる。ラムセー・バートは、「予想 に反して:トリシャ・ブラウンとアヴァンギャルド」という論文を発表している。彼女の活動のコンスタントぶり が驚異的であることがその文面から感じられる。多くの作品の中でも「ニューアーク」は画期的であり、論文のな かで特筆されている.「ニューアーク」は、2005年夏号のDance Research Journal誌の表紙を飾っている。バートの 論文の中の写真にも「ニューアーク」の掲載が多くなされている。 フランス国立ダンスセンターによって、企画されたブラウンの「ニューアーク」は、1980年代だけでなく2006年 の現在にも多大な影響を与えているのである。1960年代のポストモダンダンスのパイオニア的な活動については、 ダンス書をひもとくことによって、21世紀の現代の舞踊家にも伝えられているが、1980年代の活動や影響について は、書き尽くされてはいない。「ニューアーク」は、ユニセックスな作品であり、男性も女性も同じ総タイツの衣裳 を着て動いている。はじめは男性2名で動き、後で女性2名が加わる。ブラウンは、ジャッドの3つのカラーによる カーテン等のセットと共に1980年代のフランスひいてはヨーロッパのダンス界に衝撃を与えたことは確かである。 参考・引用文献 (1)折原美樹:ONKOCHISIN,アルティ・ブヨウ・フェスティバル2006特別公演、京都府立府民ホール、2006年。 (2)楠田枝里子:ピナ・バウシュ中毒、初版、(pp,94−95) 、東京(河出書房新社)、2003年。 (3)吉川周平:舞踊の正倉院にピナ・バウシュが加わるー日本の伝統舞踊から見るタンツテアター、ピナ・バウシュ ブッパタ ール舞踊団 2006年春 日本公演プログラム、pp,50−53、2006年。 (4)イリキリアン: Bella Figura, パリオペラ座公演、2006年。 (5)カロリン・カールソン振付:映画「オーロラ」、パリ(国立ダンスセンター他)、2006年。 (6)パリオペラ座:白鳥の湖、国立パリオペラ座バレー団2006年日本公演プログラム、pp,24−25、東京(財団法人 日本舞台芸 術振興会)、2006年。 (7)秋葉尋子:現代舞踊教育学、初版、(pp,128−130)、東京(大空社)、1998年。 (8)佐藤まいみ:イントロダクション、ビデオダンス2006プログラム、pp,3、埼玉(財団法人埼玉県芸術文化振興財団) 、2006年. (9)メリー・ビックマン:QUAND LE FEU DANSE ENTRE LES DEUX POLES,ビデオダンス2006プログラム、pp,22、パリ (ポンピドーセンター)、2006年。 (10)マリオン・ノース:ラバンダンスワークス1923−1928、ビデオダンスプログラム、pp,37、埼玉(財団法人埼玉県芸術文化振 興財団)、2006年。 (11)トリシャ・ブラウン:TRISHA ET CARMEN,ビデオダンス2006プログラム、pp,29、パリ(ポンピドーセンター) 、2006年。 (12)メレデス・モンク:ELLIS ISLAND,ビデオダンス2006プログラム、pp,16、パリ(ポンピドーセンター) (13)Ramsay Burt: Against Expectations; Trisha Brown and the Avant-garde, Dance ResearchJournal Congress on Research in Dance, Summer 2005, pp.26-32, 2005. ― 111 ― 東 京 学 芸 大 学 紀 要 芸術・スポーツ科学系 第58集(2006) コンテンポラリーダンスにおけるポストモダンダンスの重要性について 秋葉 尋子 舞踊 抄録 ポストモダンダンスは死語ではない。コンテンポラリーダンス全盛の現在においても、依然として力 を発揮している。舞踊のみでなく、オペラ、バレー、映画、演劇界とその活躍の場を広げている。ポ ストモダンダンスの舞踊家達の中でも、トリシャ・ブラウンの活動は、群を抜いている。世界のコン テンポラリーダンスの舞踊家に多大な影響を与え、重力を重視する動きの実質上の原点ともいえる。 現代の舞踊現象のみで判断すると、カロリン・カールソンもフランスのコンテンポランヌにとって重 要な舞踊家である。しかし、ヨーロッパのコンテンポラリーダンスを語るとき、アメリカのポストモ ダンダンスの影響を無視することはできない。マギー・マランやケースマイケルを経て、再びポスト モダンダンスの原点が見直されている。ヨーロッパに多く存在するオペラ座は、もうすでにオペラや バレーだけでは観客を満足させることができなくなっている。コンテンポラリーダンスが各オペラ座 の危機を救っているといっても過言ではない。 ポストモダンダンスの舞踊家達の活動の場は、アメリカだけでなくヨーロッパ中に拡大している。 その活動の映像がパリのポンピドーセンターのビデオダンスで展開され、舞踊家のみならず一般にも 公開されている。メリー・ビッグマンやラバンをはじめとして、すでにこの世にない舞踊家の映像も コンテンポラリーダンスの舞踊家と共に映写され、ビデオダンスの世界の現役として生きている。こ の現象はヨーロッパのみでなく日本にも起きている。ポンピドーセンターとの提携によるビデオダン ス2006によって、わが国の財産である暗黒舞踏を充実させてスタートした。現在活躍中の舞踊家や舞 踊研究者のみならず、一般の観客にとっても貴重な映像が公開された。コンテンポラリーダンスは、 モダンダンスとバレーの比重の多少のみで判断できるものではない。ポストモダンダンスの原点を確 認することが最も重要である。すでにポストモダンダンスはモダンダンスのアバンギャルドではない からである。ポストモダンダンスの舞踊家達は、一時的ではなく、現在もなお活躍を継続している。 その幅の広さと深さは、現代人の悩みや病気を解決するダンスセラピストとしても不可欠である。 ポストポストモダンダンス試論ともいえる本論文を今後も更に深めていくことによって、ポストモ ダンダンスの重要性がますます認識されると考える。 ― 112 ―
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